台湾有事 その日、日本有事になった   作:合点承知

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DAY -4

2030年8月21日 午前5時46分

ハワイ・キャンプ・H・M・スミス

米インド太平洋軍司令部

 

「75です」

 

若い情報将校が言った。

 

司令官は、すぐには返事をしなかった。

 

昨日まで画面に並んでいた数字は50、65。

 

そして今朝は75。

 

わずか数日前まで、30パーセントを下げるかどうか話していたことが、ひどく昔のことのように感じられた。

 

「理由」

 

「一つではありません」

 

「それは分かってる。何が増えた」

 

若い将校が画面を切り替える。

 

「中国軍の活動量は高止まり。台湾東方の海上部隊は配置を維持。前方基地の航空戦力も戻っていません」

 

「昨日までと同じだ」

 

「はい」

 

「それで10上げるのか」

 

「今日見ているのは、帰投準備です」

 

司令官の目が止まった。

 

「ない?」

 

「現時点では、明日正午の演習終了へ向けた明確な縮小兆候がほとんどありません」

 

情報参謀が補足する。

 

「通常なら、演習終了前日には一部の後方部隊から撤収準備が始まっても不自然ではありません。もちろん、今年は最終日まで高い活動を維持する計画という可能性もあります」

 

司令官は苦笑した。

 

「まだ両方説明できる」

 

「はい」

 

「嫌になるな」

 

若い将校も少し笑った。

 

「最近そればかりです」

 

司令官は台湾周辺の地図を拡大した。

 

中国沿岸。

 

台湾海峡。

 

台湾東側。

 

その外側に米軍と日本。

 

「75ということは」

 

司令官が言った。

 

「もう『演習だったら驚く』側に近いな」

 

若い将校は少し考えた。

 

「そこまでではありません」

 

「じゃあ何だ」

 

「演習だけで終わったら安心する側です」

 

司令官は鼻で笑った。

 

「言葉遊びだな」

 

「数字も似たようなものです」

 

情報参謀が言う。

 

「それでも、意思決定には必要です」

 

司令官が頷いた。

 

「こちらの準備は」

 

「前倒ししています。ただし、理想的な態勢にはまだ遠い」

 

「昨日の2週間?」

 

「変わりません」

 

「明日、答えが出るかもしれないのに、こっちは2週間必要」

 

「はい」

 

司令官はしばらく黙った。

 

「台湾への補給案は」

 

「日本側と調整中です」

 

「船」

 

「候補が絞られています」

 

「どれだ」

 

情報参謀が資料を開く。

 

「日本船籍の民間RO-RO船、海成丸」

 

司令官が名前を見る。

 

「民間人だな」

 

「全員です」

 

「船長は」

 

「元海上自衛官。二等海佐。航海、作戦勤務経験あり」

 

「それで選んだ?」

 

「理由の一つです。それ以上に、積載能力、船型、現在位置、運航調整の容易さがあります」

 

司令官は資料を閉じなかった。

 

「まだ出せとは言うな」

 

「はい」

 

「積ませるのは」

 

情報参謀が一瞬だけ間を置いた。

 

「準備可能な範囲で、日本側と調整します」

 

「兵器も?」

 

「必要になった場合に選択できる状態にする案です」

 

司令官は椅子にもたれた。

 

「出さないかもしれない船に、出すかもしれない荷物を積む」

 

「そうなります」

 

「政治家が嫌いそうな話だ」

 

「軍人も好きではありません」

 

司令官が少し笑った。

 

「少なくとも意見は一致したな」

 

そして表情を戻す。

 

「日本に伝えろ。急いでほしい。ただし、急がせているようには見せるな」

 

情報参謀が苦笑する。

 

「難しい命令ですね」

 

「最近簡単な命令を出した覚えがない」

 

午前7時02分

東京都新宿区・防衛省

 

「米側75です」

 

若い分析官が言った。

 

佐伯直哉二等海佐は、驚かなかった。

 

一佐が横から聞く。

 

「昨日65だったな」

 

「はい」

 

「お前は昨日60」

 

佐伯が顔を上げる。

 

「覚えてるんですか」

 

「面白かったからな」

 

若い分析官が笑う。

 

「今日は?」

 

「もう数字遊びやめません?」

 

「逃げるな」

 

一佐が言う。

 

佐伯は少し考えた。

 

「70」

 

分析官が笑った。

 

「やっぱり米軍より5低い」

 

「偶然だよ」

 

「3日連続なら癖です」

 

「お前、本当に余計なこと覚えてるな」

 

一佐は2人を放っておき、画面を見る。

 

「何が一番嫌だ」

 

佐伯の笑みが消える。

 

「帰る準備が見えないことです」

 

「まだ前日だぞ」

 

「そうです」

 

「明日の朝から一気に戻すかもしれない」

 

「あります」

 

「正午で演習終了を発表して、そのまま帰る」

 

「十分あり得ます」

 

一佐が佐伯を見る。

 

「でも、そう思ってない顔だな」

 

佐伯は台湾周辺の地図を拡大した。

 

「演習が終わるなら、今日は『最後まで派手にやる日』でもいいんです」

 

「じゃあ今の状況と合う」

 

「はい」

 

「何が気になる」

 

佐伯は中国沿岸部を指す。

 

「後ろが動いてない」

 

「後ろ?」

 

「演習が終わるなら、明日から要らなくなるものがあります」

 

燃料。

 

補給車両。

 

民間輸送船。

 

前方基地の整備要員。

 

沿岸部へ移った支援部隊。

 

「でも戻っていない」

 

一佐が言う。

 

「戻るのは明日でも間に合うだろ」

 

「間に合います」

 

「また両方か」

 

「はい」

 

若い分析官が小さく言う。

 

「ここまで来ると、明日の正午待った方が早そうですね」

 

佐伯が彼を見る。

 

「そうなんだよ」

 

一佐が眉を上げる。

 

「意外だな。もっと今すぐ上げろって言うかと思った」

 

佐伯は椅子にもたれた。

 

「あと1日です」

 

「だから?」

 

「明日の正午になれば、中国自身が答えを出します」

 

「終わるか」

 

「終わらないか」

 

一佐は時計を見る。

 

「24時間ちょっと」

 

「はい」

 

「長いな」

 

分析官が笑う。

 

「この1週間、みんな同じこと言ってます」

 

佐伯も少し笑った。

 

「最初は7日もあると思った」

 

「今は?」

 

佐伯は画面を見る。

 

「1日もある」

 

午前8時18分

台湾・台北市

総統府関連施設

 

「75」

 

総統が数字を見た。

 

国防部長が頷く。

 

「米側です」

 

「台湾側は」

 

「70から75の範囲」

 

「もう誤差ね」

 

「そうかもしれません」

 

総統は資料を置いた。

 

「明日の正午」

 

「はい」

 

「本当に終われば?」

 

国防部長は少しだけ笑った。

 

「この数日で動かした航空機や弾薬を元に戻すことになります」

 

「無駄だった?」

 

「いいえ」

 

即答だった。

 

総統が顔を上げる。

 

「ずいぶんはっきり言うのね」

 

「何も起きなかったなら、それが一番良い結果です」

 

総統は静かに頷いた。

 

「予備役は」

 

「限定的な招集準備まで。大規模招集はまだ行いません」

 

「航空機分散」

 

「継続」

 

「防空部隊」

 

「代替陣地への移動を拡大します」

 

「中国には見える」

 

「はい」

 

総統は窓の外を見た。

 

「もう仕方ないわね」

 

「はい」

 

「向こうがこっちの準備を見て、さらに動くとしても」

 

国防部長は少し考えた。

 

「今は、最初の攻撃で全部失わないことを優先します」

 

総統が振り返る。

 

「そこまで来た?」

 

「私は、来ていると思います」

 

「あなた個人は」

 

少し沈黙。

 

国防部長が答える。

 

「侵攻準備だと思っています」

 

総統は静かに頷いた。

 

「私も」

 

誰もすぐには話さなかった。

 

まだ中国軍は撃っていない。

 

台湾も撃っていない。

 

正式には演習だった。

 

それでも、この部屋にいる人間の多くは、もう「いつもの演習」とは考えていなかった。

 

総統が口を開く。

 

「ただし国民には、明日の正午までは冷静に」

 

「はい」

 

「嘘は言わない」

 

「はい」

 

「でも、必要以上に怖がらせない」

 

国防部長が少し苦笑した。

 

「一番難しい注文です」

 

総統もわずかに笑った。

 

「知ってる」

 

そして演習日程を見る。

 

「明日になれば、少なくとも一つは答えが出る」

 

午前10時06分

東京都内

政府関係会議室

 

机の上には、昨日より薄くなった候補船一覧が置かれていた。

 

十数隻あった名前は、3隻まで絞られている。

 

その一番上。

 

海成丸

 

国土交通省の担当者が言った。

 

「現実的には、この船です」

 

防衛省担当者が資料を見る。

 

「理由」

 

「現在神戸。積載余力あり。運航計画の調整も可能。船会社との連絡も取れています」

 

「乗員」

 

「民間人です」

 

「そこは変わらない」

 

「変えられません」

 

防衛省担当者が船長の経歴を見る。

 

「高瀬修司。元二等海佐」

 

「はい」

 

「本人には?」

 

「まだ台湾行きとは伝えていません」

 

「当然だな」

 

国交省担当者が言う。

 

「ただ、船会社には政府から緊急輸送への協力要請があり得ると説明しています」

 

「断れる?」

 

「民間船です」

 

防衛省担当者が顔を上げる。

 

「つまり」

 

「最終的に乗員が確保できなければ出せません」

 

「政府命令で無理やりは」

 

「考えていません」

 

会議室に少し沈黙が落ちた。

 

別の担当者が積荷案を開く。

 

「人道物資だけなら比較的早く準備できます」

 

「それだけじゃないだろ」

 

「はい」

 

防衛装備品。

 

通信機材。

 

航空機部品。

 

医療物資。

 

そして米側から提供される装備。

 

「兵器も入る可能性がある」

 

「あります」

 

「弾薬は」

 

「明日の情勢次第です」

 

防衛省担当者が机を指で叩いた。

 

「情勢次第って便利だな」

 

国交省担当者が苦笑する。

 

「最近どこでも聞きますね」

 

「この船、準備だけ始められるか」

 

「できます」

 

「出港命令なしで?」

 

「積荷の一部を神戸へ集める。船側の受入準備を進める。それなら」

 

「やろう」

 

国交省担当者が少し驚く。

 

「今日から?」

 

「明日の正午に全部終われば、降ろせばいい」

 

「かなり無駄になります」

 

防衛省担当者は即答した。

 

「無駄でいい」

 

その言葉に、誰も反論しなかった。

 

午前11時34分

兵庫県神戸市

海成丸

 

船長の高瀬修司は、船会社から送られてきた連絡を2度読んだ。

 

機関長が向かいの椅子に座っている。

 

「何です?」

 

「政府関係の緊急輸送」

 

「どこへ」

 

「まだ書いてない」

 

「積荷は」

 

「それも全部は書いてない」

 

機関長が少し笑う。

 

「何も分からないじゃないですか」

 

「分かってることもある」

 

「何です?」

 

高瀬は紙を机に置く。

 

「普通じゃない」

 

機関長の笑みが少し薄くなった。

 

「台湾ですかね」

 

高瀬は答えなかった。

 

窓の向こうに神戸港が見える。

 

岸壁ではいつもの荷役作業が続いていた。

 

「船長なら断れるんですか」

 

機関長が聞く。

 

「会社としては協力要請を受ける方向らしい」

 

「船長は」

 

「俺はまだ何も言ってない」

 

「行けって言われたら?」

 

高瀬は少し考えた。

 

「場所と荷物と状況を聞く」

 

「それから?」

 

「乗員に説明する」

 

「それから?」

 

高瀬は機関長を見る。

 

「それから決める」

 

機関長が苦笑した。

 

「慎重ですね」

 

「民間船だからな」

 

「元海自でも?」

 

高瀬は少し笑った。

 

「今は商船の船長だ」

 

「でも政府は、その経歴も見て選んだんでしょう」

 

「たぶんな」

 

高瀬は通知を折りたたむ。

 

「だからって、こっちまで軍艦のつもりになる必要はない」

 

機関長が頷いた。

 

少ししてから聞く。

 

「船は出せます?」

 

高瀬は即答した。

 

「出せる」

 

「行きます?」

 

高瀬は一拍置いた。

 

「私は船を出せます」

 

「はい」

 

「まだ、行くとは言ってません」

 

機関長は数秒黙り、それから笑った。

 

「面倒な船長ですね」

 

高瀬も笑った。

 

「今さらだろ」

 

午後1時22分

東京都千代田区・首相官邸

 

「海成丸を第1候補とします」

 

黒田慎吾参事官が説明した。

 

首相は資料を見る。

 

「民間船だな」

 

「はい」

 

「乗員も」

 

「全員民間人です」

 

「護衛は」

 

「実施する場合は海上自衛隊と米海軍による護衛を検討しています」

 

首相が顔を上げた。

 

「米軍も?」

 

「積荷の一部が米側提供物資になる可能性があります」

 

官房副長官が言う。

 

「まだ出すと決めたわけじゃない」

 

「はい」

 

黒田が答える。

 

「今日は積載準備までです」

 

首相はしばらく資料を見る。

 

「台湾が攻撃されてないのに出したら?」

 

黒田が答える。

 

「中国側から、日本が危機をエスカレートさせたと主張される可能性があります」

 

「逆に攻撃されてからでは」

 

「遅れる可能性があります」

 

「またそれか」

 

首相は苦笑した。

 

「軍事的には急ぐ。政治的には急げない」

 

「はい」

 

「米軍は75」

 

「はい」

 

「台湾も同程度」

 

「はい」

 

「それでもまだ出せない?」

 

黒田は少し考えた。

 

「私は、まだ出すべきではないと思います」

 

首相が黒田を見る。

 

「理由」

 

「台湾が攻撃されていない段階で、日本の民間船に武器を積んで台湾へ向かわせれば、その行動自体が危機の意味を変えます」

 

「でも準備はする」

 

「はい」

 

「矛盾してるな」

 

「承知しています」

 

首相は資料を閉じた。

 

「じゃあ準備まで」

 

「はい」

 

「船を囮にはするな」

 

黒田の表情が少し変わる。

 

首相は続ける。

 

「中国に撃たせて、日本が入る理由を作る。そんなことは絶対にするな」

 

「もちろんです」

 

「この船は物資を届けるために使う」

 

「はい」

 

「日本を戦争に入れるためじゃない」

 

「はい」

 

首相は改めて資料を見る。

 

海成丸。

 

「乗員の意思は確認しろ」

 

「当然です」

 

「嫌だという人間を乗せるな」

 

「はい」

 

「足りなければ?」

 

黒田は答えた。

 

「出しません」

 

首相はすぐに頷いた。

 

「それでいい」

 

そして小さく息を吐く。

 

「明日の昼、全部無駄になれば一番いいな」

 

黒田も静かに頷いた。

 

「そう思います」

 

午後3時18分

中国・福建省福州市

東部戦区指揮施設

 

「日本側で、一隻に絞られた可能性があります」

 

情報参謀が報告した。

 

周啓明中将が顔を上げる。

 

「船名」

 

「海成丸」

 

大型画面に船舶情報が表示される。

 

日本船籍。

 

民間RO-RO船。

 

現在地、神戸。

 

運航会社。

 

積載能力。

 

そして船長。

 

周が資料を見る。

 

「元海軍?」

 

「日本の海上自衛隊です。元二等海佐」

 

作戦参謀が言う。

 

「偶然でしょうか」

 

周が横を見る。

 

「何が」

 

「その船を選んだことです」

 

「能力があるから選んだんだろう」

 

「経歴も含めて?」

 

「含めたかもしれない」

 

周は資料を閉じる。

 

「だが重要なのは船長の昔の制服じゃない」

 

「では」

 

「何を積むかだ」

 

情報参謀が答える。

 

「現時点では医療物資、通信機材、部品などが候補。米側の防衛装備が加わる可能性があります」

 

「兵器は」

 

「まだ確認できません」

 

周は地図を見る。

 

神戸から台湾。

 

海路。

 

「出港予定」

 

「なし」

 

「積載」

 

「準備の兆候あり」

 

作戦参謀が聞く。

 

「今のうちに外交ルートで警告しますか」

 

周は少し考えた。

 

「まだ早い」

 

「しかし、出てからでは」

 

「何を警告する」

 

作戦参謀が黙る。

 

周が続ける。

 

「日本の港に日本の民間船がいて、荷物を積む準備をしている。それを理由に何を言う」

 

「台湾への軍事支援の可能性」

 

「可能性で日本を追い込むな」

 

情報参謀が周を見る。

 

「昨日、中将は日本に理由を与えるなと」

 

「そうだ」

 

「この船が出れば、それ自体が日本側の意思表示になります」

 

「なる」

 

「なら止める必要があります」

 

周は少し間を置いた。

 

「止めることと、沈めることは違う」

 

作戦参謀が頷く。

 

「海警を使う?」

 

「必要になったらな」

 

「海軍は」

 

「後ろに置く」

 

「発砲は」

 

周は作戦参謀を見る。

 

「誰が撃てと言った」

 

「いえ」

 

「日本の民間船に最初から海軍をぶつけて、砲を向ける必要はない」

 

周は海成丸の情報を再び表示させた。

 

「一隻の船だ」

 

「はい」

 

「だが、船だけを見るな」

 

「政治的効果」

 

「そうだ」

 

周は静かに言った。

 

「日本政府が何週間かけても国民に説明できないことを、我々が数分で説明してやる必要はない」

 

会議室が静かになった。

 

「監視を続けろ」

 

「了解」

 

「出るまでは触るな」

 

「はい」

 

「出た場合も」

 

周は一瞬考えた。

 

「最初に海警だ」

 

作戦参謀が頷く。

 

「止める。しかし撃たない」

 

周はそれ以上言わなかった。

 

午後5時41分

兵庫県神戸市

海成丸

 

最初のトラックが岸壁に入ってきた。

 

高瀬は艦橋からそれを見下ろしていた。

 

機関長が隣に立つ。

 

「始まりましたね」

 

「ああ」

 

「何を積むんです?」

 

「今の便は医療物資と通信機材」

 

「今の便は?」

 

高瀬が横を見る。

 

機関長が苦笑する。

 

「言い方が気になりまして」

 

「俺もだよ」

 

岸壁ではコンテナが確認され、順番に船内へ運ばれていく。

 

まだ兵器はない。

 

少なくとも、高瀬が説明を受けた範囲では。

 

「会社から追加連絡です」

 

機関長が端末を見せる。

 

「明日朝まで積載作業を続ける可能性あり」

 

「出港は」

 

「未定」

 

「行先」

 

「未定」

 

高瀬が笑った。

 

「未定だらけだな」

 

「でも台湾でしょう」

 

高瀬は海を見る。

 

「そうだろうな」

 

「船長」

 

「何だ」

 

「乗員にはいつ話します?」

 

高瀬は少し考えた。

 

「荷物が確定してから」

 

「明日?」

 

「たぶん」

 

機関長が笑う。

 

「その言葉、嫌いじゃなかったです?」

 

「今日は便利なんだ」

 

「都合いいですね」

 

「船長だからな」

 

2人は少し笑った。

 

岸壁では、さらにトラックが入ってくる。

 

平時の港だった。

 

フォークリフトが走り、作業員が無線で話し、船員が書類を確認している。

 

ただ、運び込まれている荷物の行先だけが普通ではなかった。

 

午後7時36分

神奈川県横須賀市

護衛艦「まや」

 

「海成丸で固まりそうです」

 

副長が言った。

 

村瀬健一艦長が資料を見る。

 

「昨日名前出てた船か」

 

「はい」

 

「船長が元海自」

 

「二等海佐です」

 

「知ってる人?」

 

「艦長より少し上の世代ですね」

 

村瀬が経歴を見る。

 

「駆逐艦、航海、作戦」

 

「はい」

 

「商船に行ったんだな」

 

副長が海図を表示する。

 

「実施する場合、うちが護衛候補です」

 

村瀬が顔を上げた。

 

「うち?」

 

「正式命令はまだです」

 

「米軍は」

 

「米海軍駆逐艦マスティンが候補」

 

村瀬はしばらく何も言わなかった。

 

「民間船一隻に、まやとマスティンか」

 

「積荷次第でしょう」

 

「中国から見たら?」

 

副長は少し考える。

 

「かなり分かりやすいですね」

 

「だよな」

 

村瀬は台湾北東の海域を見る。

 

「護衛するなら中国も止めに来る」

 

「可能性は高いと思います」

 

「海軍?」

 

「まず海警を使うのでは、という分析です」

 

村瀬が頷く。

 

「そうするだろうな」

 

「理由は」

 

「いきなり海軍で民間船を止めたら絵面が悪すぎる」

 

副長が苦笑する。

 

「絵面ですか」

 

「政治ってそういうもんだろ」

 

「艦長が言うと雑ですね」

 

「俺は政治家じゃない」

 

村瀬は少し黙る。

 

「でも」

 

「はい」

 

「海警なら簡単かというと、そうでもない」

 

「はい」

 

「ぶつけてくる。前を横切る。放水する。停船を求める」

 

「こちらは?」

 

「守る」

 

「どこまで」

 

村瀬は海図を見る。

 

「そこが問題だな」

 

副長は何も言わなかった。

 

まだ命令は来ていない。

 

だが艦内では燃料も弾薬も整備も、すでに「いつ出てもいい」状態へ近づいていた。

 

午後9時22分

東京都千代田区・首相官邸

 

首相は最後の報告を聞いていた。

 

「中国側の大きな撤収兆候は」

 

黒田が首を横に振る。

 

「ありません」

 

「明日正午」

 

「はい」

 

「あと15時間くらいか」

 

「その程度です」

 

首相は時計を見る。

 

「海成丸」

 

「積載準備に入りました」

 

「武器は」

 

「現時点では積んでいません」

 

「明日は?」

 

黒田は少し間を置く。

 

「情勢次第です」

 

首相が苦笑する。

 

「また便利な言葉だな」

 

「申し訳ありません」

 

「謝るな。便利なのは事実だ」

 

首相は窓の外を見る。

 

東京の夜景。

 

いつもと変わらない。

 

「国民は?」

 

「中国軍演習への危機感は上がっています。ただ、台湾有事への日本の直接関与については意見が割れています」

 

「当然だ」

 

「はい」

 

「明日、中国が予定どおり終われば」

 

「かなり落ち着くと思います」

 

「終わらなければ」

 

黒田は答える。

 

「政府の説明も変える必要があります」

 

首相が振り返る。

 

「今まで『演習の可能性がある』と言えた」

 

「はい」

 

「明日帰らなければ?」

 

黒田は少し考えた。

 

「その説明は、かなり苦しくなります」

 

首相は椅子に戻った。

 

「海成丸は出すな」

 

「はい」

 

「まだだ」

 

「承知しています」

 

「中国が明日帰る可能性は残ってる」

 

「はい」

 

「その可能性があるうちは、日本から理由を作らない」

 

黒田が頷く。

 

「ただし準備は止めません」

 

「止めるな」

 

首相は即答した。

 

「明日になってからゼロから始める時間はない」

 

少し沈黙。

 

首相が笑う。

 

「ひどいな」

 

「何がですか」

 

「出すな。でも準備しろ」

 

黒田も少し笑った。

 

「最近、そういう指示ばかりです」

 

「嫌なら代わるか」

 

「遠慮します」

 

「賢明だ」

 

わずかな笑いが起きた。

 

そしてすぐに消えた。

 

午後11時34分

東京都新宿区・防衛省

 

若い分析官が時計を見た。

 

「もう前日ですね」

 

佐伯は画面から目を離さない。

 

「日付はまだ21日だ」

 

「そういう意味じゃないです」

 

「分かってる」

 

一佐が後ろの机から言う。

 

「帰る気ある?」

 

佐伯が振り返る。

 

「一佐こそ」

 

「俺はない」

 

「じゃあ私も」

 

若い分析官がため息をつく。

 

「じゃあ私も帰れないじゃないですか」

 

佐伯が笑う。

 

「帰っていいぞ」

 

「明日の正午ですよ」

 

「だから」

 

「ここまで見て、最後だけ家で見るんですか」

 

一佐が笑った。

 

「野球じゃないんだから」

 

分析官も少し笑う。

 

「でも、似た感じですよ」

 

「どこが」

 

「明日答えが出る」

 

佐伯の笑みが少し消えた。

 

画面には台湾周辺の中国軍。

 

昨日と大きくは変わっていない。

 

だからこそ、不気味だった。

 

「本当に終わると思います?」

 

分析官が聞く。

 

佐伯はすぐには答えなかった。

 

「可能性はある」

 

「何パーセント」

 

「もういいだろ、それ」

 

「最後に」

 

佐伯は少し考えた。

 

「30」

 

分析官が目を丸くする。

 

「演習で終わる可能性?」

 

「そう」

 

「じゃあ侵攻70」

 

「計算するな」

 

一佐が笑う。

 

「結局昨日と同じじゃないか」

 

佐伯も少し笑った。

 

「そうですね」

 

「米軍は75」

 

「はい」

 

一佐が中国軍の配置を見る。

 

「明日正午に終わったら?」

 

佐伯は答える。

 

「全部帰るまで見ます」

 

「帰ったら?」

 

「休みます」

 

分析官が言う。

 

「祝杯は?」

 

「コーヒー」

 

「やっぱり安い」

 

3人が少し笑った。

 

佐伯は時計を見る。

 

23時34分。

 

予定された演習終了まで、あと半日あまり。

 

「帰らなかったら?」

 

一佐が聞いた。

 

笑いが止まる。

 

佐伯は画面を見たまま答えた。

 

「その時は」

 

一度言葉を切る。

 

「今まで見てきたものの意味が、全部変わります」

 

演習7日目。

 

中国軍は、この日も台湾周辺で活動を続けた。

 

大規模な撤収は始まらなかった。

 

だが攻撃も始まらなかった。

 

ミサイルは台湾へ飛ばず、中国軍機も台湾領空へ突入せず、艦艇も台湾の港へ向けて砲撃しなかった。

 

正式には、まだ演習だった。

 

米国は侵攻可能性を75パーセントまで引き上げた。

 

台湾は航空機、弾薬、燃料、指揮機能の分散をさらに進めた。

 

日本は自衛隊の態勢を整えながら、一隻の民間船を具体的な選択肢として選んだ。

 

海成丸。

 

まだ出港命令はない。

 

まだ台湾へ行くとも決まっていない。

 

船長も、乗員も、最終的な任務を知らされていない。

 

それでも荷物が港へ集まり始めた。

 

中国側も、その船の名前を知った。

 

日本は船を出す準備をしながら、出さない理由を探していた。

 

中国は船を止める方法を考えながら、止めなくて済むことを望んでいた。

 

台湾は戦う準備をしながら、中国軍が帰る可能性を捨てていなかった。

 

米国は戦争に備えながら、まだ戦争ではないという事実を守っていた。

 

全員が準備していた。

 

全員が、相手の準備を見ていた。

 

そして誰も、最後の一線を越えてはいなかった。

 

残された最大の説明は、もう一つしかなかった。

 

明日正午になれば、中国軍は帰る。

 

それが正しければ、この数週間の緊張は終わる。

 

それが間違っていれば。

 

次に始まるものを、まだ誰も正確な言葉では呼んでいなかった。

 

演習終了予定、8月22日正午まで、あと1日。

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