台湾有事 その日、日本有事になった   作:合点承知

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DAY -2

2030年8月23日 午前5時18分

東京都新宿区・防衛省

 

夜明け前から、分析室の空気は重かった。

 

中国軍が演習の無期限延長を発表してから、まだ20時間も経っていない。

 

昨日の午前までは、演習終了後にどの部隊が帰るのかを見ることが一つの焦点だった。だが、終了予定時刻の2時間前に中国側が延長を発表し、しかも部隊の後退どころか追加の集積を始めたことで、その問い自体が意味を失っていた。

 

今見るべきなのは、帰る部隊ではない。

 

何が残り、何が増え、それが何のために配置されているのかだった。

 

若い分析官が新しい集計表を大型画面へ表示した。

 

「沿岸部の地上戦力、更新しました」

 

佐伯直哉二等海佐は机に置いていた紙コップから手を離し、画面へ視線を移した。

 

「どこまで含めた」

 

「福建省全域、浙江南部、それから広東東部です。台湾正面への投入が可能と評価される部隊を中心に、後方支援部隊も一部含めています」

 

情報部門の一佐も椅子を引き寄せた。

 

「それで、数字は?」

 

若い分析官は一度資料を確認してから答えた。

 

「推定13万8千から15万2千です」

 

一佐の表情が変わった。

 

「そんなにいるのか」

 

「沿岸部だけで、です」

 

若い分析官が答えると、一佐は画面に並ぶ数字をしばらく見た。

 

「14万……これが全部台湾へ行く?」

 

佐伯は首を横に振った。

 

「全部が海峡を渡るわけではありません。一度に渡れる人数はもっと少ないです」

 

「どのくらいだ」

 

「そこは船腹と海空優勢の状態で変わります。軍用揚陸艦だけを使うのか、民間RO-ROをどこまで投入するのか、港湾を使えるのかでも全然違う。ただ、初動で実際に海峡を越えて上陸作戦へ投入できる兵力は、今見えている十数万人の一部です」

 

一佐は少し考えた。

 

「じゃあ、この14万という数字は大きく見えるだけで、最初の戦闘には直接関係しない?」

 

佐伯は今度ははっきり首を横に振った。

 

「逆です」

 

「逆?」

 

佐伯は台湾海峡の地図を拡大した。

 

台湾西岸。

 

主要港湾。

 

飛行場。

 

上陸に適すると評価される複数の海岸。

 

その対岸には中国側の集結地域が並んでいる。

 

「最初に渡れる人数が少ないからこそ、最初が重要なんです。第1波が海上で叩かれて上陸できなければ、後ろに14万人いても台湾には届きません」

 

「それなら台湾は第1波を潰せばいい」

 

「第1波を潰し続けられれば、です」

 

一佐が佐伯を見る。

 

「どういう意味だ」

 

「最初の部隊が上陸に成功して橋頭堡を作った場合、その後ろにいる部隊を順番に投入できます。海岸だけなら輸送能力には限界があります。でも港を取られれば話が変わる」

 

若い分析官が補足した。

 

「港湾施設が使える状態で確保されれば、軍用揚陸艦だけでなく、民間RO-ROや輸送船もより効率的に使えます」

 

一佐が聞いた。

 

「飛行場は?」

 

佐伯が答える。

 

「使える状態で確保されれば、状況はさらに悪化します。大型輸送機まで使えるかは滑走路や制空権次第ですが、少なくとも補給の選択肢が増える」

 

「じゃあ、今見えてる14万は」

 

一佐は言葉を切った。

 

佐伯もすぐには答えなかった。

 

画面の中国沿岸には、沿岸部だけでなく内陸へ伸びる鉄道網、高速道路、部隊集結地域が表示されている。

 

「上限じゃありません」

 

一佐が顔を上げる。

 

「何だ」

 

佐伯は画面を指した。

 

「入口です」

 

室内が静かになった。

 

若い分析官が別の衛星画像を出す。

 

「後続部隊はさらに内陸にも確認しています。全部が今回の作戦用とは断定できませんが、鉄道と高速道路で福建沿岸へ接続されています。沿岸部の十数万人が消耗しても、作戦継続を決めれば追加戦力を持ってくることはできます」

 

一佐は椅子にもたれた。

 

「つまり、第1波を止められなかったら」

 

「時間が経つほど台湾側が不利になります」

 

「何日で?」

 

佐伯は少し笑った。

 

「分かりません」

 

一佐が苦い顔をした。

 

「最近そればっかりだな」

 

「戦争前なので」

 

「始まったら分かるのか?」

 

佐伯は少し考えた。

 

「もっと分からなくなると思います」

 

一瞬だけ、室内の空気が緩んだ。

 

若い分析官もわずかに笑ったが、すぐに次の資料へ切り替えた。

 

「航空戦力です。沿岸前方基地、準前方基地、増援可能な基地を含め、確認および推定で700機前後」

 

「700?」

 

「全てが同時出撃するわけではありません。ただ、J-20、J-16、J-10系、H-6、早期警戒機、電子戦機、無人機を含めた台湾正面で運用可能な航空戦力です」

 

一佐が眉を寄せる。

 

「海上は」

 

「海軍、海警、補助艦艇を合わせて110隻以上。全てが台湾海峡へ入るわけではありません。台湾東方や北方、南西方向に展開可能な艦艇も含みます」

 

「揚陸能力」

 

「071型、075型、それ以外の揚陸艦艇に加え、軍事転用可能とみられる民間RO-ROなどを合わせて、少なくとも60隻程度を確認・推定しています」

 

一佐は画面を見た。

 

「民間船がかなり多いな」

 

佐伯が頷く。

 

「正規の揚陸艦だけでは十数万人を短時間で運べません。港湾を使えるようになった後の輸送を考えると、民間船の方がむしろ重要になる可能性があります」

 

「ミサイルは?」

 

若い分析官が少し困った顔をした。

 

「正確な数は出ません。ロケット軍の全弾数をこちらから確定するのは無理です。ただ、初動だけで数百発規模を使用できる可能性があります」

 

「航空基地、レーダー、指揮所、港を同時に?」

 

「そう考えるのが自然です」

 

一佐はしばらく何も言わなかった。

 

昨日まで画面に並んでいた一つ一つの異常が、もう別々の異常には見えなかった。

 

地上兵力。

 

航空機。

 

艦艇。

 

民間船。

 

ミサイル。

 

燃料。

 

医療。

 

すべてが一つの作戦へ向かっている。

 

「……演習にしては、随分大きくなったな」

 

佐伯が静かに答えた。

 

「演習じゃないと思います」

 

一佐は佐伯を見る。

 

昨日まで、その言葉は分析官個人の強い見解だった。

 

今日は違った。

 

誰も反論しなかった。

 

午前6時02分

台湾・台北市

総統府

 

国防部長は台湾海峡を中心とした地図の前に立っていた。

 

福建沿岸。

 

浙江南部。

 

広東東部。

 

中国側に置かれた部隊記号は、数日前と比べて明らかに増えている。

 

総統は机に座らず、地図の前まで歩いた。

 

「中国側の地上兵力は」

 

「台湾正面へ投入可能とみられる部隊で、十数万人規模です」

 

「全部渡ってくる?」

 

「一度には無理です」

 

総統の表情がほんの少し緩んだ。

 

国防部長はそれを見て、すぐに続けた。

 

「ただ、それで安心できるわけではありません」

 

総統の表情が戻る。

 

「どういうこと?」

 

「中国軍が今沿岸に集めている十数万人は、一度に海峡を渡るための兵力ではありません。最初に渡れるのはもっと少ない」

 

「だったら、その最初を止めればいいんじゃないの?」

 

国防部長は首を横に振った。

 

「第1波を止めれば、それで終わるわけではありません」

 

「なぜ?」

 

「最初の部隊が橋頭堡を確保した場合、その後ろから次の部隊が来ます。さらに港湾を取られれば輸送効率が上がる。民間輸送船まで使えるようになります」

 

総統が地図へ近づいた。

 

「港を取られたら、何人来る?」

 

「分かりません」

 

「十数万人全部?」

 

「最終的には、その可能性もあります」

 

「その後は?」

 

国防部長は少し黙った。

 

「中国側が作戦継続を決め、海上交通路を維持できれば、さらに後続を持ってくることもできます」

 

総統が彼を見る。

 

「じゃあ、この十数万人が最大じゃない」

 

「はい」

 

「最初の数字にすぎない?」

 

「そうです」

 

総統は台湾海峡を見た。

 

細い海峡だった。

 

地図上では、ほんのわずかな距離にしか見えない。

 

だが、その水面の上で最初の中国軍を止められるかどうかが、その後に何万人が来るかを決める。

 

「じゃあ、第1波を止めれば終わりじゃない」

 

「終わりません」

 

「第2波も?」

 

「止めます」

 

「第3波も?」

 

「必要なら」

 

総統は国防部長を見る。

 

「何をすればいいの」

 

彼は少し間を置いて答えた。

 

「止め続けるしかありません」

 

「いつまで?」

 

そこで室内が静かになった。

 

軍人たちは互いに視線を合わせなかった。

 

国防部長はゆっくり答えた。

 

「日米が介入できるまでです」

 

総統は視線を上げた。

 

「間に合う?」

 

国防部長はすぐには答えなかった。

 

総統が少し眉を寄せる。

 

「分からない?」

 

「はい」

 

「それでも、その前提で戦う?」

 

「間に合わせるために、今こちらが時間を作っています」

 

総統は地図を見る。

 

台湾海峡の向こうには中国大陸。

 

その背後には、さらに多くの部隊を送り込める鉄道と道路がある。

 

こちら側には台湾しかない。

 

「その時間を買うために、何人死ぬかは分からない」

 

国防部長は答えなかった。

 

総統は数秒目を閉じた。

 

やがて開く。

 

「分かった」

 

「総統」

 

「今夜攻撃されても対応できる態勢にして」

 

「了解しました」

 

「航空機は分散して。防空部隊も固定位置に残さない。艦艇も港から出せるものは出す」

 

「すでに進めています」

 

「予備役は?」

 

「動員を継続しています」

 

総統は頷いた。

 

「数字はもういい」

 

国防部長が少し驚いた。

 

「数字?」

 

「侵攻確率。80でも90でも95でも、やることは同じでしょう」

 

国防部長は数秒黙った。

 

「はい」

 

「だったら、今夜来ると思って準備して」

 

「了解しました」

 

総統はもう一度中国側の赤い記号を見る。

 

「来なかったら?」

 

国防部長は一瞬答えに詰まった。

 

総統が少し笑った。

 

「その時は、みんな寝不足になっただけで済む」

 

「そうですね」

 

「それが一番いい」

 

今度は国防部長も小さく頷いた。

 

午前7時11分

中国・福建省沿岸

某集結地域

 

朝靄の中を、軍用車両の列がゆっくり動いていた。

 

装甲車。

 

兵員輸送車。

 

燃料車。

 

工兵車両。

 

救急車。

 

弾薬輸送車。

 

道路の向こう側まで続く車列の終わりは、荷台からでは見えない。

 

若い兵士はトラックの幌の隙間から外を眺めていた。

 

道路脇には田畑があり、その先には倉庫や民家がある。数週間前までならごく普通の地方の風景だったはずだ。

 

今は、その中に軍用車両だけが異常なほど増えていた。

 

隣に座っていた兵士が聞いた。

 

「いつまでここにいるんだろうな」

 

若い兵士は肩をすくめた。

 

「知らない」

 

「演習、延長したんだろ?」

 

「そうらしい」

 

「じゃあ、まだ演習?」

 

向かいに座っていた別の兵士が笑った。

 

「俺に聞くなよ。お前と同じ階級だぞ」

 

「でもさ、演習で救急車こんなに持ってくるか?」

 

誰も答えなかった。

 

トラックが交差点で一度止まる。

 

別の道路から、燃料車を含むさらに長い車列が合流してきた。

 

若い兵士がその車列を見た。

 

「昨日までより増えてない?」

 

「増えてる」

 

「どこ行くんだろ」

 

「港じゃないか」

 

「港?」

 

「見ろよ」

 

道路標識の先。

 

海岸方向。

 

何台もの車両がそちらへ曲がっていく。

 

若い兵士は黙った。

 

しばらくして隣の兵士が言う。

 

「スマホ、まだ預けたまま?」

 

「当然だろ」

 

「家に連絡したいな」

 

「何て?」

 

相手は少し考えた。

 

「分からない」

 

「じゃあ、返ってきても困るだろ」

 

ほんの少し笑いが起きた。

 

だが、前方で車列が再び動き始めると、誰も話さなくなった。

 

午前8時04分

ハワイ・キャンプ・H・M・スミス

米インド太平洋軍司令部

 

「評価を95パーセントへ引き上げることを提案します」

 

情報参謀の言葉に、司令官は大型画面から目を離さなかった。

 

「昨日90だった」

 

「はい」

 

「5パーセント分、何が増えた」

 

情報参謀は隣の若い情報将校を見る。

 

若い将校が画面を切り替えた。

 

「兵力そのものが急に増えたわけではありません」

 

「じゃあ何だ」

 

「昨日まで我々が見ていたのは、物資の集積でした」

 

司令官が顔を上げる。

 

「今日は?」

 

「配分です」

 

司令官の表情が変わった。

 

「説明しろ」

 

若い情報将校は中国沿岸の複数地点を拡大した。

 

「燃料、弾薬、車両、医療資材。これまでは福建や浙江沿岸の大きな集積地点へ運び込まれていました。倉庫、港湾近くの仮置き場、鉄道貨物駅です」

 

「それが?」

 

「今朝から、一部が個別部隊へ移り始めています。燃料車が航空部隊へ、弾薬輸送車が発射部隊へ、医療物資が前方医療施設へ。単に沿岸へ置く段階から、それぞれの使用部隊へ渡す段階に変わっています」

 

司令官は少し黙った。

 

「違いは何だ」

 

若い情報将校も一瞬考えた。

 

「集めるのは準備です」

 

「配るのは?」

 

「使う場所が決まった可能性があります」

 

司令官は椅子へ深く座り直した。

 

「航空戦力はどうなっている」

 

情報参謀が答える。

 

「前方基地の多くで武装待機機が増えています。逆に訓練飛行は減少。航空機を消耗させず地上で待機させる割合が上がっています」

 

「ロケット軍は」

 

「展開地点で活動継続。一部では、発射前手順と一致してもおかしくない動きがあります。ただし発射命令そのものは確認できません」

 

「海軍」

 

「台湾東方、北方、南西方向で配置調整。封鎖を想定した位置に近づいています」

 

「揚陸部隊」

 

「集結継続。民間RO-ROも含め、積載準備が進んでいます」

 

司令官は腕を組んだ。

 

「95か」

 

「はい」

 

「残り5は?」

 

情報参謀が答えた。

 

「政治判断が変わる可能性です」

 

「軍事的には?」

 

「ほぼ侵攻で間違いないかと」

 

室内が静かになった。

 

司令官は台湾海峡の地図を出した。

 

「対岸兵力はどのくらいだ」

 

「沿岸部で十数万人。ただ、一度に渡れる数はもっと少ないです」

 

「それは知ってる」

 

「問題は、その後です」

 

司令官が言った。

 

「橋頭堡」

 

「はい。第1波が海岸を確保し、港湾か大規模な上陸地点を維持できれば、後続の投入量が増えます」

 

「第1波を潰しても次が来る」

 

「中国側に船と兵士が残っていれば」

 

「第1波が成功したら?」

 

「もっと悪いです」

 

司令官は台湾を見た。

 

「つまり台湾は、最初の日だけ耐えればいいわけじゃない」

 

「はい」

 

「我々が介入できるまで耐える必要がある」

 

「そうなります」

 

司令官はしばらく何も言わなかった。

 

中国軍の戦力は増えている。

 

米軍も動いている。

 

日本も動いている。

 

だが、各国が同じ速度で動いているわけではない。

 

軍事的な準備には時間が必要だった。

 

政治的な決断には、それとは別の時間が必要だった。

 

司令官が聞く。

 

「海成丸は?」

 

「積載中です、今日中にほぼ完了する予定です」

 

「出港準備は」

 

「日本側が継続中」

 

「護衛は誰がやる」

 

「海上自衛隊のまやと、米海軍駆逐艦マスティンを軸に調整しています」

 

司令官が少し目を細めた。

 

「決まったのか」

 

「最終承認待ちです」

 

「急げ」

 

「はい」

 

「船を出せる状態にしてから、護衛が決まってませんじゃ話にならん」

 

「ただ、船自体を出すかどうかも日本側はまだ決めていません」

 

司令官は頷いた。

 

「それでいい」

 

若い情報将校が少し意外そうな顔をした。

 

「いいんですか?」

 

「船を出す決断と、出せるよう準備することは別だ」

 

司令官は画面を見る。

 

「必要になった時に船を探し始めたんじゃ遅い。護衛も同じだ、戦争が始まる前にできることは、選択肢を残すことだ」

 

誰も反論しなかった。

 

午前9時16分

兵庫県神戸市

海成丸

 

高瀬修司は船長室で乗員名簿を見ていた。

 

向かいの椅子には機関長が座っている。

 

窓の外ではフォークリフトとトラックが動き続け、昨日から続く積み込み作業が今日も止まっていない。

 

機関長が口を開いた。

 

「3人です」

 

高瀬は顔を上げた。

 

「降りるのは?」

 

「はい」

 

「理由は?」

 

機関長は名簿を見る。

 

「1人は子供がまだ小さい。1人は親の介護。もう1人は家族に強く止められたそうです」

 

高瀬は3人の名前を順番に見た。

 

しばらくして名簿を机へ置く。

 

「そうか」

 

「本人たち、申し訳ないって言ってました」

 

「何が申し訳ないんだ」

 

「他の乗員に」

 

高瀬は少し眉を寄せた。

 

「責める奴がいたら俺が怒る」

 

機関長が少し笑った。

 

「船長らしいですね」

 

高瀬は名簿の3人に印を付けた。

 

「会社には?」

 

「連絡済みです。代わりの志願者を募っています」

 

「志願だけだな?」

 

「はい。会社命令で無理に乗せることはしないと確認しています」

 

「それならいい。見つかった?」

 

「2人はすでに」

 

「早いな」

 

「話を聞いた上で来るそうです」

 

高瀬は少し黙った。

 

「残り1人は」

 

「既存の乗員配置を組み替えれば回せる見込みです。ただ、最終確認は必要です」

 

「無理するなよ。人手が足りない状態で危険な海へ出る方が馬鹿だ」

 

「分かっています」

 

機関長はしばらく名簿を見ていたが、やがて高瀬へ視線を戻した。

 

「船長まだ決めてないんですか」

 

「何を」

 

機関長が少し呆れたような顔をした。

 

「行くかどうかですよ」

 

高瀬は椅子にもたれ、窓の外を見る。

 

昨日より人が増えている。

 

警備員も。

 

政府関係者も。

 

トラックも。

 

「船は出せる」

 

「それは昨日も聞きました」

 

「積荷も今日ほぼ終わる」

 

「はい」

 

「乗員も揃う」

 

「たぶん」

 

高瀬は少し黙った。

 

「後は、行く意味があるかだ」

 

機関長が眉を寄せる。

 

「台湾が危ないなら、それが意味なんじゃないですか」

 

「危ないだけで民間人を連れて戦争になるかもしれない海へ行くのか?」

 

「……そう言われると」

 

「護衛艦なら危険な海へ行くのが仕事だ。俺も昔はそっち側だった。でも今は違う」

 

高瀬は名簿を指で軽く叩いた。

 

「ここにいるのは全員民間人だ。俺が『必要そうだから行こう』で決められる話じゃない」

 

「じゃあ、何があれば決めるんです」

 

高瀬が答えようとしたところで、ドアがノックされた。

 

「どうぞ」

 

入ってきたのは、昨日も説明に来た防衛省関係者だった。

 

午前9時32分

海成丸・船長室

 

防衛省関係者は高瀬の前に資料を置いた。

 

「積載作業は今夜までに完了する予定です」

 

高瀬は資料をめくった。

 

「ずいぶん積みましたね」

 

食料、医薬品、発電設備、通信装備、航空機用部品、防空関連装備、弾薬。

 

項目の一部は数量が伏せられていたが、それでもこれが通常の支援物資輸送ではないことは分かる。

 

高瀬が聞いた。

 

「これが届けば、台湾は勝てるんですか」

 

防衛省関係者は少し黙った。

 

「そこまでは言えません」

 

「ですよね」

 

高瀬は資料を閉じずに続けた。

 

「じゃあ、何が変わる」

 

相手も少し間を置いた。

 

「日米が準備を整える時間です」

 

高瀬の目が止まった。

 

「日米の?台湾が勝つための物資じゃない?」

 

「もちろん台湾軍が戦力を維持するための物資です。ただ、それが意味を持つのは、台湾側が戦える時間を伸ばすからです」

 

高瀬は相手を見る。

 

「その間、台湾に持ちこたえてもらう」

 

「そうです」

 

「日米が何をするか決めるまで?」

 

「それだけではありません」

 

「というと」

 

防衛省関係者は資料を一枚めくった。

 

「航空機の分散。弾薬と燃料の配置。艦艇の展開。基地防空。指揮系統の冗長化。補給体制。米軍増援の配置。そして政治判断です」

 

高瀬は聞く。

 

「何日?」

 

「分かりません」

 

高瀬が苦笑した。

 

「またそれですか」

 

防衛省関係者も少しだけ笑った。

 

「申し訳ありません」

 

「いや、昨日からみんな同じこと言うから」

 

「数時間かもしれません。数日かもしれません」

 

「数日でそんなに変わるものか?」

 

「変わります。全部完成するわけではありません。でも今日と3日後では違う。3日後と1週間後でも違います」

 

高瀬はしばらく資料を見ていた。

 

「参戦まで?」

 

防衛省関係者は少し慎重になった。

 

「日米が介入できる態勢を整えるまでです」

 

「態勢を整えたから介入するとは限らない。政治が決めなかったら?」

 

「その可能性もあります」

 

高瀬は笑わなかった。

 

「随分頼りない話ですね」

 

「そう思います」

 

「否定しないんだ」

 

「嘘を言って船を出してもらうわけにはいきません」

 

高瀬はその答えを聞いて、しばらく黙った。

 

やがて窓の外を見る。

 

港ではまだ物資が積み込まれている。

 

「この船が、その貴重な時間を運ぶということか?」

 

「そういうことになります」

 

高瀬は小さく息を吐いた。

 

「随分重い荷物ですね」

 

「はい」

 

「だから必要?」

 

「はい」

 

再び沈黙。

 

高瀬は資料を閉じた。

 

「分かりました」

 

防衛省関係者がわずかに身を乗り出す。

 

「では、出ていただけますか」

 

高瀬は首を横に振った。

 

「まだです」

 

「まだ?」

 

「台湾は攻撃されていない。この段階で武器を積んだ民間船を軍艦で護衛して台湾へ入れたら、こちらが先に線を越えたと中国に言われる」

 

防衛省関係者は静かに頷いた。

 

「その通りです」

 

「政府もそう考えてる?」

 

「はい。現時点では出港を要請していません」

 

「なら準備だけしておきます」

 

「ありがとうございます」

 

「礼はまだ早いですよ」

 

高瀬は窓の外を見る。

 

「出る時が来たら、もう一度話してください。その時は昨日と今日じゃなく、その時点の状況で決めます」

 

「分かりました」

 

防衛省関係者が立ち上がる。

 

高瀬は呼び止めた。

 

「一つだけ」

 

「はい」

 

「この船が本当に必要になった時って、どういう時です」

 

相手はしばらく考えた。

 

「台湾が攻撃された時です」

 

「やっぱりそうですか」

 

高瀬は小さく頷いた。

 

「じゃあ、そうならないことを祈りましょう」

 

「はい」

 

2人とも、それが難しいことは分かっていた。

 

午前10時43分

東京都千代田区・首相官邸

 

首相は日米共同の護衛案を読んでいた。

 

「まやとマスティン」

 

黒田が答える。

 

「はい」

 

「民間船1隻にイージス艦と米軍駆逐艦か」

 

「積荷と想定される阻止行動を考えれば必要です」

 

「中国はどう見る」

 

「軍事輸送として見るでしょう」

 

首相は資料を一枚めくった。

 

「実際、軍事輸送だろ」

 

黒田は少し間を置いた。

 

「人道支援物資もありますが、兵器と弾薬を積んでいます。中国側から見ればそう評価される可能性が高いです」

 

首相は防衛関係者を見る。

 

「撃たれたら?」

 

「必要な自衛措置を取ります」

 

「撃たれる前は?」

 

一瞬、回答が遅れた。

 

「警告、回避、航行支援を中心に対応します」

 

首相が顔を上げた。

 

「随分曖昧だな」

 

「まだ交戦状態ではありません」

 

「中国海警が前を塞いだら?」

 

「状況に応じて」

 

「放水したら?」

 

「状況に応じて対応します」

 

「体当たりしてきたら?」

 

「同様です」

 

首相は少し苛立った。

 

「全部、状況に応じてだな」

 

黒田が答える。

 

「今はそれしか言えません」

 

「現場の艦長は困るだろうな」

 

「かなり」

 

「戦争じゃない。でも戦争になった時の準備は全部してる」

 

誰も否定しなかった。

 

首相はしばらく資料を見ていた。

 

「海成丸が攻撃された場合は?」

 

法制担当者が答える。

 

「極めて重大な事態です。ただし、日本国籍の民間船が国外で攻撃されたことだけをもって、日米安全保障条約第5条に基づく共同対処が自動的に決まるわけではありません。場所、攻撃主体、事態全体との関係を評価する必要があります」

 

首相は眉を寄せた。

 

「日本船なのに?」

 

「はい」

 

「まやが攻撃されたら?」

 

「さらに重大です。自衛隊に対する組織的な武力攻撃であれば、我が国に対する武力攻撃に当たるかを具体的に判断することになります」

 

「日本領域への攻撃なら」

 

「より明確です」

 

首相は小さく息を吐いた。

 

「結局、最後まで何が起きるか次第か」

 

「はい」

 

「台湾が攻撃されたら、日本は?」

 

黒田が答える。

 

「台湾への攻撃だけで、日本が直ちに交戦国になるわけではありません」

 

「存立危機事態は」

 

「台湾有事が我が国の存立を脅かし、国民の権利が根底から覆される明白な危険があると認定できるかなど、事態を見て判断します」

 

首相は窓の外を見る。

 

東京は普通に動いている。

 

道路には車が走り、人が仕事をしている。

 

台湾海峡を挟んだ向こうでは、十数万人の兵士が待っている。

 

「軍は今夜来ると思ってる。自衛隊も準備してる」

 

「はい」

 

「米軍も」

 

「はい」

 

首相は少し黙った。

 

「でも政治は、撃たれるまで決められないことが残る」

 

黒田が答える。

 

「はい」

 

「嫌な仕組みだな」

 

黒田は少し考えてから言った。

 

「でも、その慎重さが必要な時もあります」

 

首相は彼を見る。

 

「今日がそうだと思う?」

 

黒田は即答しなかった。

 

「分かりません」

 

首相は苦笑した。

 

「お前までそれか」

 

「今日は、その答えが一番正確です」

 

首相は何も言わなかった。

 

午後0時14分

中国・北京市

中央軍事委員会関連施設

 

周啓明中将は大型画面越しに北京側へ報告していた。

 

「第1段階投入部隊について、主要項目はほぼ準備完了しています」

 

中央側の幹部が資料を見る。

 

「地上兵力はどうなっている」

 

「沿岸部に十数万人規模。初動で海峡を越える部隊はその一部です」

 

「後続」

 

「待機中です。必要に応じてさらに内陸部から移動可能」

 

「航空」

 

「指定部隊の大半が即応可能状態。前方、準前方基地への展開を完了しています」

 

「海上輸送」

 

「軍用揚陸艦艇と民間船を含む主要船腹は配置済み」

 

「医療」

 

「前方受け入れ態勢完了」

 

「燃料」

 

「必要量を確保しています」

 

中央側の幹部は少し黙った。

 

「最初に渡れる兵は多くない。だから失敗できない」

 

別の幹部が聞いた。

 

「成功すれば?」

 

作戦参謀が答える。

 

「後続を投入できます」

 

「どこまで?」

 

「港湾と航路を維持できる限り。橋頭堡だけの場合は輸送能力に制約がありますが、港湾を確保できれば民間RO-ROの投入量を増やせます」

 

中央側の幹部が台湾西岸を見た。

 

周が静かに言った。

 

「最初の部隊が扉を開けます」

 

「その後ろにいる兵力が、そこから入る」

 

「はい」

 

「扉を開けられなかったら?」

 

「後続は海峡のこちら側に残ります」

 

部屋が少し静かになった。

 

中央側の幹部が次の資料を開く。

 

「例の日本船はどうだ」

 

周の表情がわずかに変わった。

 

「海成丸。積載はほぼ完了。米側供与の装備と弾薬を含みます」

 

「出るか?」

 

「まだです」

 

「日本政府は?」

 

「台湾が攻撃された場合の緊急輸送手段として準備していると判断しています」

 

「護衛は」

 

「海上自衛隊のイージス艦まやと、米海軍駆逐艦マスティンを使う可能性があります」

 

中央側の幹部の表情が硬くなった。

 

「武器を運ぶ日本船を、日米の軍艦が護衛する?」

 

「その可能性があります」

 

「それでも発砲は禁止か」

 

周は答えた。

 

「少なくとも最初の対応では」

 

「なぜ」

 

「沈めれば積荷は台湾に届きません」

 

「当然だ」

 

周は続けた。

 

「同時に、日米が参戦する可能性があります」

 

会議室が静かになった。

 

中央側の幹部が周を見る。

 

「日本はすでに台湾を支援して兵器まで運ぶ。それでも日本国民は戦争を望まない?」

 

周は少し考えた。

 

「少なくとも、まだ一枚岩ではありません。台湾を支援することと、中国との戦争に自衛隊を入れることは別です」

 

「では?」

 

「海警で止めるべきです」

 

中央側の幹部が頷いた。

 

「海警で止めろ。軍は後ろに置け」

 

「はい」

 

「停船要求。進路妨害。臨検要求までは認める」

 

周が頷く。

 

「了解しました」

 

中央側の幹部は最後に言った。

 

「日本に最初の一発を撃つ理由を与えるな」

 

周は静かに答えた。

 

「了解しました」

 

午後2時21分

台湾・新北市

 

怡君は自宅の机で仕事用のノートパソコンを開いていた。

 

会社はまだ営業を続けている。

 

ただ、画面の中身は普段とはまるで違っていた。

 

仕事用チャットの上部には会社からの通知が固定されている。

 

**「大規模停電発生時の対応」**

 

**「明日以降、出社不要となる可能性」**

 

**「通信障害時の安否確認方法」**

 

**「最寄り避難施設の確認」**

 

ニュース配信の小窓には、中国軍、予備役、防空訓練、物流混乱という言葉が絶えず流れていた。

 

同僚から個別メッセージが届く。

 

「これ、本当に来るのかな」

 

怡君はしばらく入力欄を見た。

 

数日前なら、「また演習でしょう」と返していた。

今はその言葉が打てなかった。

 

「分からない」

 

送信。

 

すぐに返事が来た。

 

「前は大丈夫って言ってたじゃん」

 

怡君は画面を見る。

 

数秒。

 

「今は言えない」

 

送信した。

 

返信はしばらく来なかった。

 

隣の部屋からテレビの音が聞こえる。

 

怡君は立ち上がって部屋を覗いた。

 

俊偉がソファに座ってスマートフォンを見ている。

 

「何見てるの」

 

「中国軍の動画」

 

「本物?」

 

「知らない」

 

「じゃあ見るのやめなよ」

 

「でも気になるじゃん」

 

「偽物見て怖がっても意味ないでしょ」

 

俊偉はスマートフォンを伏せた。

 

「姉ちゃんは怖くないの?」

 

怡君は少し考えた。

 

「怖いよ」

 

「前は全然そんな感じじゃなかった」

 

「前は大丈夫だと思ってたから」

 

「今は?」

 

怡君は仕事部屋のノートパソコンを見る。

 

会社のチャットにはまた新しい通知が来ている。

 

「今は、分からない」

 

俊偉の表情が少し硬くなった。

 

怡君はそれ以上何も言わず、仕事部屋へ戻った。

 

午後3時37分

海上自衛隊護衛艦「まや」

 

村瀬健一一等海佐は渡された任務案を読みながら、途中で一度手を止めた。

 

「民間船か?」

 

副長が答える。

 

「はい。船名は海成丸」

 

「何を積んでる」

 

幕僚は少し間を置いた。

 

「台湾向けの人道支援物資、それから米側供与装備です」

 

村瀬が顔を上げる。

 

「装備?」

 

「航空機部品、防空関連装備、通信機材など」

 

「それだけ?」

 

副長は少し困った顔をした。

 

「弾薬を含みます」

 

村瀬の表情が変わった。

 

「それを民間船に積んだのか」

 

「はい」

 

「船長は知ってるのか?」

 

「説明済みです。乗員にも兵器と弾薬を積むことを伝えています」

 

「全員民間人か?」

 

「はい」

 

村瀬は資料をもう一度見る。

 

「護衛はうちと米艦?」

 

「米海軍駆逐艦マスティンが候補です」

 

「候補?」

 

「米側と最終調整中です」

 

「出港は予定は?」

 

「未定。台湾への武力攻撃が始まった場合に出港要請を検討する方針です」

 

村瀬は椅子にもたれた。

 

「中国側は?」

 

「海警による阻止行動の可能性があります」

 

「海軍は」

 

「介入する可能性があります」

 

村瀬は資料を机へ置いた。

 

「一番面倒なやつだな」

 

副長が少し苦笑した。

 

「そうですね」

 

「戦争ならまだ話は分かりやすい、敵が撃ったら撃ち返す。でも今回は中国海警が民間船の前に出て、『止まれ』って言ってくるかもしれない」

 

「その可能性があります」

 

「撃たれたら?」

 

「自衛措置を取れます」

 

「撃たれる前は?」

 

「エスカレーション回避を最優先とのことです」

 

村瀬は副長を見る。

 

「分かりやすく言ってくれ」

 

副長は少し考えた。

 

「殴られるまでは、殴られないように頑張ってください」

 

村瀬が一瞬だけ笑った。

 

「分かりやすい」

 

「かなり雑ですが」

 

「いや、そっちの方が頭に入る」

 

笑いはすぐ消えた。

 

村瀬は資料をめくった。

 

「海成丸の船長は?」

 

「高瀬修司。元海自です」

 

村瀬が顔を上げた。

 

「階級は」

 

「二佐で退職。護衛艦勤務経験があり、航海・運用畑です」

 

「本当か」

 

村瀬は少しだけ安心したような顔をした。

 

「なら話は少し早いな」

 

副長が言う。

 

「たぶん」

 

村瀬はすぐに表情を戻した。

 

「でも民間船だ」

 

「はい」

 

「元二佐だからって、護衛艦みたいに扱うなよ」

 

「了解しました」

 

「乗員もそうだ。武器を積んでるからって軍人になるわけじゃない」

 

「はい」

 

村瀬は再び任務案を見る。

 

「高瀬船長と直接話せるようにしといて」

 

「出港が決まったら?」

 

「その前だ。こっちが何をできて何をできないか、本人が知らないまま出港させたくない」

 

副長は頷いた。

 

「調整します」

 

村瀬は資料を閉じた。

 

「面倒な任務だな」

 

「断ります?」

 

村瀬が幕僚を見る。

 

「断れるなら、お前が断ってくれ」

 

副長は少しだけ笑った。

 

「無理ですね」

 

「だろ」

 

今度は村瀬もほんの少しだけ笑った。

 

午後5時08分

ワシントンD.C.

ホワイトハウス

 

大統領は中国沿岸部の兵力推定を見ていた。

 

「十数万人」

 

国防長官が答える。

 

「沿岸部だけです」

 

「でも全部一度には渡れない」

 

「はい」

 

大統領は台湾海峡を指した。

 

「なら、台湾は最初の波を叩けばいい」

 

統合参謀本部議長が首を横に振った。

 

「それでは足りません」

 

大統領が彼を見る。

 

「なぜ」

 

「中国側には後続があります。第1波が失敗しても次を準備できます」

 

「じゃあ第1波が成功したら?」

 

議長は一瞬黙った。

 

「もっと悪い」

 

「港か」

 

「はい。港湾、上陸地点、航路を確保すれば、輸送量を増やせます。特に民間RO-ROを本格利用できるようになれば、軍用揚陸艦だけの場合とは規模が変わります」

 

「つまり、時間が経つほど中国兵が増える」

 

「可能性があります」

 

大統領は地図を見る。

 

「台湾は止め続ける必要がある」

 

「はい」

 

「いつまで?」

 

国防長官が答えた。

 

「我々が介入できるまでです」

 

大統領はしばらく何も言わなかった。

 

「その言い方だと、台湾に時間を稼いでもらうみたいに聞こえるな」

 

国防長官は慎重に答えた。

 

「実際、そのようなものです」

 

「楽な立場だな、こっちは」

 

誰も答えなかった。

 

大統領は少しして聞いた。

 

「海成丸は?」

 

「今夜、積載完了予定」

 

「それが届けば?」

 

「台湾側の防空・航空戦力の維持時間を延ばせます。それだけ日米が準備を整える時間が増える」

 

「どれくらい時間を稼げる?」

 

「分かりません」

 

大統領が苦笑した。

 

「世界中で同じ答えを聞いてる気がする」

 

国防長官もわずかに笑った。

 

「今は正確な数字を出す方が危険です」

 

「でも必要なんだな」

 

「はい」

 

「護衛は」

 

「まやとマスティンで最終調整中です」

 

「日本は本当に出すか?」

 

「台湾への攻撃が始まった場合、正式に要請する予定です」

 

「攻撃前には?」

 

「出しません」

 

「なぜ」

 

国家安全保障担当補佐官が答えた。

 

「先に軍事的な一線を越えたと中国側に主張される余地を増やすためです。日本側もそこを強く気にしています」

 

大統領は頷いた。

 

「それでいい」

 

議長が少し驚いたように見る。

 

「待ちますか」

 

「ここまで来たら、数時間早く船を出すメリットより、こちらが先に始めたと言われるデメリットの方が大きい」

 

大統領は海成丸の表示を見る。

 

「ただし、必要になった時はすぐ出せるようにしておけ」

 

「はい」

 

「そのために準備した」

 

大統領は椅子にもたれた。

 

「使わずに済むのが一番いいがな」

 

誰も「そうですね」とは答えなかった。

 

午後7時46分

中国・福建省福州市

東部戦区指揮施設

 

情報参謀が新しい報告書を周の前へ置いた。

 

「準備率、最終更新です」

 

周啓明中将は書類に目を通した。

 

「主要作戦部隊、作戦準備完了状態」

 

「はい」

 

「中央には?」

 

「送信済みです」

 

作戦参謀が聞いた。

 

「これで全部ですか」

 

周は資料から顔を上げた。

 

「全部ではない」

 

「何が残ってます?」

 

周は彼を見る。

 

「命令だ」

 

作戦参謀が黙る。

 

燃料はある。

 

弾薬はある。

 

兵士もいる。

 

艦艇は配置につきつつある。

 

航空機は武装されている。

 

病院は受け入れ態勢を整えている。

 

港には揚陸艦と民間輸送船が待っている。

 

軍事的な準備は、ほとんど終わっていた。

 

残っているのは、それを実際に使うかどうかだった。

 

情報参謀の端末が鳴った。

 

「北京からです」

 

周が手を伸ばす。

 

命令文は短かった。

 

**「作戦準備完了状態を維持せよ。開始時刻は別命とする。」**

 

作戦参謀が読み終える。

 

「開始時刻、まだですか」

 

「まだだ」

 

「明日ですか」

 

「知らん」

 

作戦参謀は少し苛立ったような顔をした。

 

「でも準備完了状態を維持する」

 

「そうだ」

 

「どれくらい?」

 

「命令が来るまで」

 

周は壁の時計を見る。

 

「ここから先は、あと何日で準備できるかの話じゃない」

 

作戦参謀が見る。

 

「では?」

 

「命令が来た時に、何分で動けるかの話だ」

 

その言葉で室内が静かになった。

 

周は台湾の地図を見る。

 

「各部隊へ余計な移動をさせるな。ここまで来て事故や故障で戦力を落とすな。航空部隊は乗員の休養を交代で取らせろ。ロケット軍も同じだ」

 

作戦参謀が少し意外そうに聞いた。

 

「休ませるんですか」

 

「明日戦争になるかもしれないのに、今日全員を徹夜させてどうする」

 

「確かに」

 

「戦争は始める瞬間だけ元気ならいいわけじゃない」

 

周は書類を閉じた。

 

「明日なのか、今夜なのか、それとも命令が来ないのかは我々には決められない。今できるのは、来た時に動ける状態を壊さないことだ」

 

「了解しました」

 

誰も「命令が来ない」可能性について何か言おうとはしなかった。

 

午後9時12分

東京都内

 

ニュース番組の画面には、

 

**「中国軍、台湾対岸に大規模兵力集結か」**

 

という字幕が表示されていた。

 

衛星写真。

 

福建沿岸の艦艇。

 

航空基地。

 

道路を埋める車列。

 

専門家が「直ちに侵攻が始まると断定はできません」と説明する一方で、「過去の演習とは規模と質が異なる」と繰り返していた。

 

都内の飲食店で、仕事帰りの会社員2人がテレビを見ていた。

 

片方が炭酸水のグラスを持ったまま言った。

 

「本当にやばいんだな」

 

「らしいな」

 

「台湾、戦争になるのかな」

 

「もう演習終わる予定だったんだろ?」

 

「昨日。それを延長したらしい」

 

「じゃあ何のための終了予定だったんだよ」

 

「知らん」

 

少しして、画面が自衛隊の動きに切り替わった。

 

戦闘機の分散。

 

艦艇の出港。

 

南西諸島での警戒強化。

 

片方が聞く。

 

「日本も戦争になるのかな」

 

もう片方は少し考えた。

 

「そこまではないんじゃない」

 

「でも自衛隊も動いてるって」

 

「台湾支援はするだろ」

 

「戦うのは?」

 

少し沈黙。

 

炭酸水を一口飲む。

 

「そこまではやめてほしいな」

 

「俺も」

 

テレビでは台湾支援についての世論調査が表示された。

 

人道支援。

 

経済制裁。

 

米国との協力。

 

それらへの賛成は増えている。

 

だが、自衛隊による直接の戦闘参加については数字が割れていた。

 

片方が画面を見る。

 

「台湾が攻撃されたら、さすがに日本も何かするんじゃない?」

 

「何かはするだろ」

 

「戦う?」

 

「それは別じゃない?」

 

2人はしばらくテレビを見ていた。

 

危機が近いことは、一般の人々にもようやく伝わり始めていた。

だが、その危機の中へ自分たちが入ることまでは、まだ決めていなかった。

 

午後10時36分

兵庫県神戸市

海成丸

 

最後の大型貨物車両が船内へ入った。

ランプウェイ周辺で作業員が手信号を送り、固定担当者が車両の位置を確認していく。

高瀬は艦橋からその様子を見下ろしていた。

 

機関長が横へ来る。

 

「終わりましたね」

 

「そうだな」

 

「乗員も揃いました」

 

高瀬が顔を向ける。

 

「全員?」

 

「3人降りました。代わりに志願者が2人。残り1人分は配置を組み替えて既存の乗員で回せます」

 

「勤務に無理は?」

 

「ありません。そこは確認しました」

 

「ならいい」

 

高瀬は船内配置図を見る。

海成丸の船倉には、台湾へ届ける物資がすでに収められている。

 

食料。

 

医薬品。

 

発電設備。

 

通信装備。

 

航空機部品。

 

防空関連装備。

 

弾薬。

 

昨日までは空いていた区画に、今は物資が固定されている。

 

機関長が聞く。

 

「本当に出るんですかね」

 

高瀬は少し考えた。

 

「台湾が攻撃されたら、たぶん出ろと言われる」

 

「船長は?」

 

高瀬は窓の外の暗い港を見る。

 

「その時に決める」

 

機関長が少し笑った。

 

「まだ言いますか」

 

高瀬も少し笑った。

 

「最後まで船長だからな」

 

「政府から頼まれても?」

 

「頼まれたからって、船を沈めていい理由にはならない」

 

「でも、必要だって話でしたよね」

 

「そうだ」

 

「日米が準備する時間を運ぶ」

 

高瀬が機関長を見る。

 

「聞いてたのか」

 

「船長が後で話したじゃないですか」

 

「ああ、そうだった」

 

機関長は船倉の方を見る。

 

「時間って、積んだ感じしませんね」

 

「重さもないしな」

 

「でも一番重い?」

 

高瀬は少し考えた。

 

「そうかもしれない」

 

機関長が聞く。

 

「怖いですね」

 

「だから、今日出ないんだ」

 

「台湾が攻撃されたら?」

 

高瀬は海を見る。

 

「その時は、今日とは意味が変わる」

 

機関長はそれ以上聞かなかった。

 

船内では最後の固定確認が続いている。

 

出港命令だけが、まだなかった。

 

午後11時18分

台湾・台北市

総統府

 

総統はその日最後になる予定の情勢報告を聞いていた。

 

もちろん、本当に最後になるかどうかは誰にも分からない。

 

国防部長が説明する。

 

「中国側の地上兵力は沿岸部で十数万人。ただし、初動で全てが海峡を渡ることはできません」

 

「それは朝聞いた」

 

「はい」

 

「最初に来る人数は少ない。でも成功すれば後続が増える」

 

「その通りです」

 

「空軍は」

 

「警戒態勢継続。分散をさらに進めています」

 

「防空部隊は」

 

「移動済みの部隊について配置変更を継続。固定位置への長時間滞在を避けています」

 

「海軍」

 

「主要艦艇の多くは港外です」

 

総統は頷いた。

 

「米軍は?」

 

「準備継続」

 

「日本は」

 

「同様です」

 

「介入まではどの程度だ?」

 

国防部長は少し間を置いた。

 

「時間が必要です」

 

総統は窓の外を見る。

 

台北の灯りはまだ点いていた。

 

車が走る。

 

店が開いている。

 

マンションの窓に明かりがある。

 

遠くから見れば、今夜がいつもの夜と何が違うのか分からないかもしれない。

 

「その時間を、私たちが作る」

 

「はい」

 

「何日必要?」

 

国防部長は苦笑した。

 

総統が振り返る。

 

「言わなくていい。分からないんでしょう」

 

総統も少し笑った。

 

「今日は本当にその答えばかりね」

 

「申し訳ありません」

 

「いいの。分からないことを分からないと言ってくれる方がいい」

 

彼女はもう一度窓を見る。

 

「明日の朝も、この景色だといいわね」

 

国防部長は答えなかった。

 

総統が彼を見る。

 

「何か言って」

 

「そう願っています」

 

「軍人らしくない答え」

 

「今はそれくらいしか」

 

総統は小さく頷いた。

 

「そうね」

 

外ではまだ車が走っていた。

 

午後11時51分

兵庫県神戸市

海成丸

 

最後のランプウェイがゆっくり閉じた。

 

巨大な金属板が船体へ収まり、ロックされる音が夜の港に響いた。

 

船倉には、台湾が必要としている物が積まれていた。

 

食料。

 

医薬品。

 

通信装備。

 

航空機部品。

 

防空関連装備。

 

弾薬。

 

しかし、その荷物の意味は台湾だけのものではなかった。

 

この船が台湾へ届けば、台湾軍はもう少し長く戦える。

 

防空ミサイルをもう少し撃てる。

 

航空機をもう少し飛ばせる。

 

壊れた機体をもう少し直せる。

 

通信をもう少し維持できる。

 

その何時間か。

 

その何日か。

 

それだけ日米にも時間が生まれる。

 

航空機を動かす。

 

艦艇を出す。

 

弾薬を運ぶ。

 

燃料を移す。

 

基地を守る。

 

指揮系統を整える。

 

そして政治を動かす。

 

介入するための態勢を、少しでも完成へ近づける。

 

海成丸が運ぶのは、兵器だけではなかった。

 

日米が準備を整える時間だった。

 

だが、艦橋にはまだ出港命令は届いていない。

 

福建沿岸では十数万人の中国兵が待っていた。

 

その全員が一度に台湾海峡を渡れるわけではない。

 

最初に渡る兵力はもっと少ない。

 

だが、その最初の部隊が海峡の向こう側で扉を開けば、その後ろからさらに多くの兵士が続く。

 

中国側にも、まだ開始命令は届いていなかった。

 

兵士はいる。航空機もある。ミサイルもある。艦艇もある。燃料もある。病院も準備された。

 

後は命令だけだった。

 

東京も。

 

ワシントンも。

 

台北も。

 

北京も。

 

それぞれ別の理由で、次の命令を待っていた。

 

海成丸の艦橋では、高瀬が港の灯りを見ていた。

 

機関長が横に来た。

 

「船長、今日はもう休みます?」

 

「お前は休め」

 

「船長は?」

 

「少ししたら」

 

「明日、何かありますかね」

 

高瀬はしばらく答えなかった。

 

「ない方がいい」

 

「ですよね」

 

「でも、準備はしておけ」

 

「はい」

 

機関長が艦橋を出ていく。

 

高瀬は一人で窓の外を見た。

 

岸壁。

 

照明。

 

倉庫。

 

静かな海。

 

船はいつでも出せる。

 

中国側も、いつでも始められる。

 

それでも、まだ何も始まっていない。

 

平時に出される最後の命令が。

 

この夜のどこかで、すでに書かれているのかもしれなかった。

 

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