2030年8月24日 午前3時14分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
通信士が立ち上がった時、会議室にいた全員が顔を上げた。
誰も眠っていなかった。
大型画面には台湾海峡、中国沿岸、台湾本島、その東側まで含めた作戦区域が表示されている。
周啓明中将は机に置かれた紙から視線を上げた。
「北京からです」
通信士が封印された電子命令を作戦参謀へ渡す。
作戦参謀は認証を確認し、画面を開いた。
数行しかなかった。
彼の表情が変わった。
周が聞く。
「読め」
作戦参謀は一度息を吸った。
「統合作戦開始時刻、北京時間午前5時00分」
誰も動かなかった。
昨日まで存在していた最後の空白が埋まった。
周が時計を見る。
北京時間午前2時15分。
「第1段階は予定どおりか」
「はい。ロケット軍による先制打撃、空軍および海軍航空部隊による航空優勢獲得、台湾周辺海空域の封鎖、電子戦および指揮通信妨害を同時開始します」
「上陸部隊は」
「初撃の戦果確認後に先行部隊を移動させます。本格的な海峡横断は航空・海上優勢の状況を見て開始します」
周は台湾の地図を拡大させた。
台湾西部に並ぶ空軍基地、レーダーサイト、指揮施設、港湾。
作戦参謀が続ける。
「第1波の重点目標は主要航空基地、長距離防空レーダー、指揮通信施設、対艦ミサイル運用拠点、主要港湾です。ロケット軍が弾道ミサイルを先行させ、その直後に巡航ミサイルを投入します」
周が聞く。
「空軍基地は駐機場だけを狙うな」
作戦参謀が頷いた。
「分散を確認しています。滑走路、誘導路、燃料設備、指揮所を組み合わせます」
「完全破壊を狙う必要はない。復旧を強制しろ。飛行機が残っていても、上げられなければ同じだ」
「了解しました」
航空担当参謀が画面を切り替える。
「J-20部隊は制空戦闘と高価値航空目標の排除、J-16部隊は対地・対レーダー攻撃を含む複合任務へ投入します。H-6部隊は台湾防空圏外から巡航ミサイルを発射。電子戦機と無人機は先行して電波環境を混乱させます」
「台湾側のF-16は」
「かなり分散しています。昨日までの段階で主力の相当数を前方基地から移しています」
周の表情が少し険しくなった。
「分かっている。だから最初の30分で全部を壊そうとするな。そんなことはできない」
作戦参謀が見る。
「では」
「相手に、自分たちの何が生きているのか分からなくさせろ。レーダーが落ち、通信が途切れ、滑走路が閉鎖され、指揮系統が乱れれば、それだけで判断は遅くなる。戦争の最初に奪うべきなのは装備だけじゃない」
「時間ですか」
周が小さく頷いた。
「そうだ」
少し沈黙。
作戦参謀が別の命令書を見る。
「米軍および日本の自衛隊については、現時点で攻撃対象から除外。別命がない限り交戦を避ける、とあります」
周はすぐに答えた。
「そこは徹底しろ」
「台湾支援行動を取った場合も?」
「今日の第1段階では、こちらから撃つな」
「海成丸が出た場合は」
周は彼を見る。
「海警で止める。昨日決めただろう」
「護衛にまやとマスティンが付く可能性があります」
「それでも最初に撃つな」
作戦参謀は黙った。
周は大型画面を見る。
「台湾との戦争を、同じ日のうちに日本と米国との戦争に変える必要はない」
誰も反論しなかった。
「全作戦部隊へ開始時刻を伝達。予定時刻以前の発砲は禁止。最後の2時間、余計なことをするな」
「了解」
作戦参謀が立ち上がる。
周は時計を見る。
北京時間午前2時22分。
あと2時間38分だった。
午前3時53分
中国・福建省内陸
ロケット軍展開地域
暗闇の中に、複数の大型車両が並んでいた。
発射機。
指揮車。
通信車。
電源車。
警戒車両。
作業灯は最小限に抑えられ、兵士たちは声を張らずに動いている。
発射機の上には、長いミサイルキャニスター。
最終点検を終えた整備兵が車体から降りる。
小隊長が確認する。
「電源」
「正常」
「測位」
「正常」
「通信」
「予備系統まで確認済み」
「弾頭」
「指定どおり」
小隊長は時計を見る。
「発射命令までは」
「待機」
「そうだ。早まるな」
若い兵士が小声で聞く。
「本当にやるんですか」
小隊長は一瞬だけ彼を見る。
「命令は来た」
それだけだった。
周囲には同じような車両がいた。
台湾海峡の向こう側へ向けられるミサイルは、ここだけのものではない。
福建、浙江、さらに後方。
第1波で発射される弾道ミサイルと巡航ミサイル。
その後に続く第2波、第3波。
昨夜まで演習に見えたものが。
もう演習ではなくなっていた。
午前4時17分
ハワイ・キャンプ・H・M・スミス
米インド太平洋軍司令部
「通信パターンが変わりました」
情報参謀が言った。
司令官が画面を見る。
「増えた?」
「逆です。一部の戦区通信が急に減っています」
「通信統制?」
「可能性があります。それと、ロケット軍展開地点周辺の支援車両が最終配置へ移動。複数航空基地では地上活動が減った一方、武装済み機体の待機数が増えています」
司令官が腕を組む。
「昨日まで準備してた奴らが、今朝になって静かになった。一番嫌な静かさだな」
若い情報将校が別の画面を出す。
「H-6部隊も複数基地で搭乗準備。J-20、J-16の一部が武装状態で待機しています。電子戦機、早期警戒機も地上要員の動きが変わっています」
「海軍は?」
「台湾周辺の配置を微調整。封鎖線を作る場合に適した位置へ移り始めています」
司令官が情報参謀を見る。
「評価」
「99パーセント」
「100じゃないのか」
情報参謀は少し黙った。
「撃つまでは100にはできません」
司令官が小さく息を吐いた。
「その1パーセントが残ってる間に、こっちは何をする」
「分散を最大化します。嘉手納、グアム、岩国その他の拠点から航空機をさらに散らす。空中給油機と早期警戒機も地上集中を避ける。艦艇は港外へ。弾薬と燃料の移動も継続します」
「戦闘機は」
「F-35、F-15系ともに即応を引き上げています」
「防空」
「基地防空部隊に警戒強化。弾道ミサイル警戒も最高水準へ」
司令官は台湾を見る。
「攻撃開始予測」
「夜明け前から午前中」
「広いな」
「これ以上は読めません」
司令官は少し黙った。
「日本へ共有」
「すでに」
「台湾は」
「同じ兆候を見ています」
「海成丸」
「出港準備完了。まだ命令なし」
司令官は地図を見たまま言う。
「今日、その船が必要になる」
誰も答えなかった。
午前4時41分
東京都新宿区・防衛省
若い分析官が佐伯の机へ来た。
「米側99です」
佐伯は画面から目を離さなかった。
「理由は」
「ロケット軍、航空基地、通信パターン。全部です」
一佐も近づく。
「開始時刻は」
「不明。米側は夜明け前から午前中」
「つまり今から数時間」
「はい」
一佐は佐伯を見る。
「日本側の評価文は」
佐伯は少し考えた。
「『中国軍による台湾への武力行使が切迫している』」
若い分析官が聞く。
「可能性が高い、じゃなくて?」
「もうやめる」
「侵攻確定とは」
「まだ書かない。撃ってないから」
一佐が窓の外を見る。
「99でも撃ってなければ戦争じゃない」
佐伯が静かに答える。
「だから厄介なんです」
「自衛隊の準備は」
「南西方面の航空機分散を追加。早期警戒機も移動。艦艇の一部は既に港外。基地防空も上げています」
「まや」
「海成丸護衛任務の待機」
「マスティン」
「米側も同様」
一佐が時計を見る。
午前4時44分。
「あと何時間だと思う」
佐伯は少し黙った。
「数時間じゃなく、数十分の可能性もあります」
若い分析官の表情が変わる。
「根拠は」
「今の中国軍は、準備してる動きじゃない」
「では?」
佐伯は画面を見る。
「待ってる動きだ」
午前5時18分
台湾・台北市
国防部指揮施設
短く、連続して警報音が鳴った。
担当士官が立ち上がる。
「福建沿岸、複数のロケット軍展開地点で活動変化」
別の士官が報告する。
「中国空軍、複数基地で同時にエンジン始動を確認。武装機多数」
「数は」
「確定できません。J-16、J-20を含む戦闘機群。H-6も動いています」
国防部長が大型画面を見る。
「総統へ」
「すでに」
数分後。
総統が指揮室へ入った。
「始まる?」
国防部長が答える。
「極めて高い確率で」
「確定してない?」
「発射そのものは確認していません」
総統は少し苛立ったように見る。
「昨日、数字はもういいって言ったでしょう」
国防部長が一瞬黙る。
総統は続ける。
「聞きたいのは、来ると思うかです」
「来ると思います」
「なら準備して」
「全軍戦闘態勢への移行を進めています。航空機は分散先から離陸準備。F-16Vの一部は既に空中待機へ移行。IDF、ミラージュ部隊も生存機を順次上げます。パトリオット、天弓部隊は交戦準備。海軍の対艦ミサイル部隊も配置済みです」
「警報は」
国防部長が少し迷う。
「まだ攻撃開始前です」
総統は彼を見る。
「鳴らして」
「全国?」
「少なくとも危険地域は。数分後にミサイルが飛んでくる可能性があるなら、国民に教えるべきです」
国防部長は頷いた。
「分かりました」
総統は地図を見る。
「航空機は全部上げられる?」
「無理です」
「残る機体は」
「地上で被害を受ける可能性があります」
総統が少し目を閉じる。
「分散した意味は」
「あります。主力の相当数は既に分散済みです。昨日まで動かしていなければ、今よりはるかに多くを地上で失っていました」
「じゃあ、無駄じゃなかった」
「はい」
総統が時計を見る。
台湾時間午前4時24分。
「来るなら来い、とは言わない」
国防部長は黙る。
「でも、来るならもう来る。そういう時間なのね」
「はい」
午前5時31分
台湾・新北市
スマートフォンの警報音で。
怡君は飛び起きた。
画面。
「緊急警報 中国軍による軍事的脅威が切迫しています。屋内へ退避し、政府発表を確認してください。」
隣の部屋のドアが開く。
「姉ちゃん」
「起きてる」
「これ」
「見た」
2人は顔を見合わせる。
テレビをつける。
どの局も同じ画面。
国防部。
中国軍。
防空警報。
俊偉がスマートフォンを見る。
「外、サイレン鳴ってる」
怡君も聞く。
遠く低い音が徐々に大きくなる。
俊偉が言う。
「本当に来るのかな」
怡君は数日前なら「大丈夫」と言った。
だが今日は言わなかった。
「廊下側に行こう」
「窓から離れる?」
「うん」
俊偉が水を持つ。
「昨日買っといてよかった」
怡君は返事をしなかった。
午前5時52分
中国・福建省内陸
ロケット軍展開地域
発射機の周囲から人が離れた。
指揮車内。
時計は北京時間04:52を指していた。
小隊長が最後の命令を確認する。
「発射時刻0500」
「了解」
「目標変更なし」
「変更なし」
「通信途絶時」
「事前命令に従う」
若い兵士がヘッドセットを押さえた。
「あと8分」
誰も答えなかった。
外ではキャニスターを載せた発射機が、暗闇の中で静止していた。
午前5時59分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
大型画面。
無数の部隊表示。
周啓明中将は時計を見ていた。
作戦参謀が言う。
「各部隊、最終確認」
「ロケット軍」
「準備完了」
「空軍」
「準備完了」
「海軍」
「準備完了」
「電子戦」
「準備完了」
「上陸部隊」
「待機」
周が頷く。
「米軍、日本」
「攻撃対象外。指示徹底済み」
「海成丸」
「神戸。未出港」
時計。
北京時間04:59:42。
周は何も言わなかった。
04:59:50。
作戦参謀が見る。
04:59:58、59。
北京時間午前5時00分。
周が静かに言った。
「実施」
作戦参謀が命令を送る。
その数秒後、福建沿岸と内陸の複数地点で火が上がった。
午前6時00分
中国沿岸各地
ミサイル発射機から弾道ミサイルが白い噴煙を上げながら上昇する。
地面を揺らす轟音。
別の地域。
別の発射機。
さらに発射。
空軍基地では、H-6爆撃機が滑走路へ向かう。
その翼下と兵器倉には巡航ミサイル。
J-16は対空ミサイルと対地兵装を混載し、一部は対レーダーミサイルを搭載。
J-20部隊も順次離陸する。
電子戦機、早期警戒機、無人機。
役割の違う航空機が次々と空の中に入っていく。
海上では、中国海軍艦艇が配置を変える。
台湾北方。
台湾南西。
台湾東方。
封鎖線を作るための動きが始まった。
午前6時01分
台湾・防空監視施設
最初の警報。
「弾道目標上昇!」
別の声。
「複数! 福建方面!」
「数!」
「増えています!」
画面に軌道が現れる。
10、20、30。
さらに増える。
「巡航ミサイルらしき低高度目標も確認!」
指揮官が叫ぶ。
「全防空部隊、交戦規定に従い迎撃開始! 指揮施設、主要レーダー、航空基地への脅威を優先!」
「パトリオット交戦開始!」
「天弓部隊も接続!」
台湾側からも防空ミサイルが発射される。
夜明け前の空へ、白い軌跡が上がった。
午前6時04分
台湾西部
空軍基地
F-16Vが離陸を始めていた。
1機。
2機。
その後方、次の機体。
管制塔から声。
「急げ、次!」
整備員が退避する。
遠く低い爆発音。
鳴り響く基地警報。
「弾道弾接近!」
次のF-16が滑走を開始する。
その直後、基地の一角が光った。
爆発。
地面が揺れる。
誘導路脇に土煙。
数秒後、滑走路中央部に別の着弾。
巨大な破片と舗装材が舞い上がる。
「滑走路被弾! 一時閉鎖!」
既に空へ上がった機体は、旋回しながら高度を上げる。
地上に残った機体は一部は避難壕、一部は分散配置。
一部は、逃げられなかった。
午前6時09分
台湾・台北市
国防部指揮施設
「中国軍による大規模ミサイル攻撃を確認!」
総統は立ったまま地図を見ている。
国防部長が報告する。
「主要航空基地、レーダー、指揮通信施設が攻撃されています。第1波だけで数十発を超え、現在も追加発射を確認」
「迎撃は」
「パトリオット、天弓ともに交戦中。ただし、すべてを迎撃することはしません」
総統が見る。
「なぜ」
「弾薬が有限です。軍事的に重要な目標への脅威を優先しなければ、今日中に防空弾薬を使い切ります」
「航空機は」
「分散済みの機体はかなり残っています。F-16V、IDF、ミラージュの一部が空中へ上がりました」
「基地の損害」
「複数基地で滑走路被害。駐機場、燃料施設にも着弾があります」
「主力機は」
国防部長が少し間を置く。
「昨夜までに散らしていたので、最悪ではありません」
総統が彼を見る。
「最悪ではない?」
「はい。被害は大きいです。ただ、もし3日前までの配置のままだったら、今よりはるかに多くを地上で失っています」
総統は数秒黙った。
「無駄じゃなかった」
「はい」
別の士官が声を上げる。
「中国軍機、海峡西側から大規模進出!」
「数は」
「100機規模まで増える可能性があります!」
国防部長が画面を見る。
「第2段階が来ます」
総統は静かに言った。
「世界に発表して」
「内容は」
「中国が台湾に対する武力攻撃を開始した。そう言って」
「了解しました」
午前6時23分
台湾海峡上空
台湾側F-16V。
レーダー画面。
複数の目標。
早期警戒機から情報が入る。
「北西方向、多数。高度混在」
編隊長が答える。
「了解」
「数が多い」
「見れば分かる」
「前方、J-16群」
「後ろにもいる。全部追うな」
遠距離空対空ミサイル。
電子妨害。
レーダー警報。
空戦は、目視する前から始まった。
台湾側戦闘機がミサイルを発射。
中国側も発射。
鳴り響く警報音。
回避。
チャフ。
電子妨害。
空はもう訓練空域ではなかった。
午前6時37分
東京都新宿区・防衛省
「中国軍、台湾に対する攻撃開始」
若い分析官が言った。
佐伯は画面を見ていた。
「確認は」
「台湾側、米側ともに。弾道ミサイル多数、巡航ミサイル、航空攻撃」
一佐が入ってくる。
「政府には」
「上げています」
「日本への攻撃」
「現時点で確認なし」
「在日米軍」
「同じです」
一佐が画面を見る。
「本当に始まったな」
佐伯は答えなかった。
若い分析官が聞く。
「99から100ですね」
佐伯が彼を見る。
少しだけ。
その言葉の意味を考える。
「そうだな。100になった」
それだけだった。
午前7時02分
ワシントンD.C.
ホワイトハウス
大統領は会議室に入った。
「始まった」
国防長官が答える。
「はい」
「台湾の損害」
「まだ集計できません。主要基地、レーダー、指揮施設が攻撃されています。ただし、事前分散が効いています」
「中国側」
「ロケット軍による第1波に続き、航空攻撃。海軍は封鎖配置へ移行。上陸部隊はまだ本格的には海峡を渡っていません」
「米軍は」
統合参謀本部議長が答える。
「戦闘可能です」
大統領が見る。
「聞いてるのはそこじゃない。望ましい態勢か」
「まだです」
「2週間」
「ありません」
「あと何日でどこまで行ける」
「数日あれば分散と補給はさらに進みます。空中給油、弾薬、基地防空、艦隊配置、全部です」
「台湾はその数日を持つか」
「分かりません」
大統領は少し黙った。
「日本は」
補佐官が答える。
「台湾への攻撃を確認。国家安全保障会議を招集。自衛隊は警戒態勢を最大限引き上げていますが、日本はまだ交戦国ではありません」
「こちらもだ」
「はい」
大統領は地図を見る。
中国。
台湾。
日本。
「海成丸」
国防長官が答える。
「出港可能です」
「日本に正式要請」
「今ですか」
大統領は頷いた。
「今だ。この船を準備した理由が、もう現実になった」
「護衛は」
「まや、マスティン」
「出せ」
「日本側の承認が必要です」
大統領は少しだけ表情を変える。
「分かってる。だから頼め」
午前7時41分
東京都千代田区・首相官邸
「米側から正式要請です」
「海成丸か?」
「はい」
「今出せと」
「台湾への緊急輸送を要請しています」
「護衛は」
「まやとマスティン」
「乗員は」
「出港可能」
「船長は」
「政府からもう一度説明してほしい、と」
首相が少し黙る。
「そう言ってたな」
「はい」
首相はテレビを見る。
台湾側の空軍基地から煙。
「この船が届けば」
防衛関係者が答える。
「台湾側の防空・航空戦力維持に必要な弾薬、部品、通信機材を補えます。戦況を逆転させる量ではありませんが、戦力維持の時間を延ばせます」
「その時間で日米が準備を整える」
「はい」
「中国は必ず止めに来るな」
「可能性は高いです」
「海軍?」
「最初は海警を使う可能性があります」
首相が黒田を見る。
「昨日の話どおりか」
「はい」
「撃ってくるか」
「分かりません」
首相は目を閉じた。
数秒。
「海成丸に正式要請」
「はい」
「乗員に強制はしない。最終確認をもう一度」
「承知しました」
「そして、出すなら守れ」
「はい」
午前8時24分
兵庫県神戸市
海成丸・船長室
テレビでは台湾への攻撃が流れていた。
高瀬修司は椅子に座ったまま、画面を見ていた。
ドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
昨日来た防衛省関係者、国交省関係者、船会社担当者。
全員昨日より顔が硬かった。
高瀬が先に言う。
「来ましたね」
防衛省関係者が頷く。
「台湾が攻撃された。それで?」
少し沈黙。
「政府として、海成丸に台湾への緊急輸送をお願いしたい」
高瀬はすぐには答えなかった。
「護衛は」
「海上自衛隊護衛艦まや、米海軍駆逐艦マスティン」
「交戦状態は」
「日本も米国も、中国とはまだ交戦状態ではありません」
「中国軍は台湾を攻撃してる。でも、こちらは撃たれていない」
「はい」
高瀬は窓の外を見る。
「一番嫌なところですね」
防衛省関係者が頷く。
「そうです」
「積荷に変更は」
「大きな変更はありません。ただし台湾側から優先順位の更新があり、防空関連弾薬と航空機用部品を上にしています」
「この船が届けば、台湾は勝てる?」
防衛省関係者は昨日と同じように答えた。
「そこまでは言えません」
高瀬が少しだけ笑う。
「分かってます」
その笑みはすぐ消えた。
「でも、この船が届けば、台湾はもう少し長く持ちこたえられる。その時間で日米は航空機を散らし、艦艇を動かし、弾薬と燃料を運び、基地防空と指揮系統を整え、介入するための態勢を少しでも完成に近づけられる。昨日そう聞きました」
「はい」
「今も同じ?」
「今は、昨日より切実です」
高瀬は少し黙った。
「何日」
防衛省関係者も少しだけ苦笑する。
「分かりません」
高瀬も息を吐く。
「本当にそればっかりだ」
「申し訳ありません」
「いや、あなたが悪いわけじゃない」
高瀬は窓の外を見る。
「途中で引き返す判断は」
「船長に委ねます」
「当然ですね」
「はい」
防衛省関係者は少し姿勢を正した。
「そのうえで、政府としてお願いがあります」
高瀬が見る。
少し沈黙。
「何としても、台湾に届けてください」
高瀬の表情が変わった。
「そこまで?」
「この船の積荷が届けば、台湾側はそれだけ長く戦力を維持できます。その何時間か、その何日かが、日米に必要なんです」
高瀬は窓の外を見る。
「つまり、この船は物資を運ぶだけじゃない。時間を運ぶ」
「そういうことです」
しばらく、誰も話さなかった。
高瀬がゆっくり立ち上がる。
「乗員にもう一度確認します」
防衛省関係者が頷く。
「もちろんです」
「全員が残ると言ったら」
高瀬が彼を見る。
「出ます」
「ありがとうございます」
「礼は帰ってからにしてください」
高瀬は少し笑った。
「帰れたら」
午前9時11分
台湾西部
臨時航空運用拠点
分散されていたF-16Vが、簡易施設から順次発進していた。
通常の空軍基地ではない。
整備設備も十分ではない。
弾薬搭載も、燃料補給も普段より時間がかかる。
整備員が機体の下から出る。
「AMRAAM確認!」
「確認!」
「短距離弾!」
「確認!」
「燃料!」
「規定値!」
パイロットが梯子を上る。
遠く、爆発音が聞こえる。
通信。
「主基地、滑走路閉鎖継続」
整備員が一瞬だけ止まる。
先輩整備員が叫ぶ。
「こっちは使える! 手を止めるな!」
エンジンが始動。
数日前「全部無駄になってほしいですね」と言った若い整備員が今、機体を送り出していた。
無駄にはならなかった。
午前10時03分
中国・福建省沿岸
揚陸部隊集結地域
071型揚陸艦。
075型強襲揚陸艦。
その他の揚陸艦艇。
港湾内では、水陸両用装甲車がウェルドックへ収容され、ヘリ部隊の地上員が回転翼機の最終点検を行い、輸送車両が船内へ入っていた。
その近くで民間RO-RO船の車両甲板には、迷彩色のトラック、燃料車、工兵車両、医療車両、弾薬輸送車、そして後続部隊の兵士が乗っていた。
最初に海峡を渡るのは、対岸に集められた十数万人の一部だけだった。
だが、最初の部隊が橋頭堡を作れば、その後ろにはまだ何万人も待っていた。
作戦参謀が現地司令官へ聞く。
「出港準備」
「先行部隊、完了」
「本隊」
「待機」
「航空優勢確認まで動かすな」
「了解」
「早く渡ればいいわけじゃない」
「分かっています」
「最初の部隊が失敗すれば、後ろに何万人いても意味がない」
現地司令官が港を見る。
「だから最初が重い」
午前11時17分
海上自衛隊護衛艦「まや」
村瀬健一一等海佐が艦橋へ入る。
「海成丸、出港決定」
幕僚が答える。
「マスティン」
「合流予定。現在こちらへ向かっています」
「交戦規定」
「変更なし。日本はまだ中国と交戦状態にありません」
村瀬が苦い顔をする。
「台湾で戦争やってる横を、戦争してない顔で走るのか」
「そういうことになります」
「中国海警」
「複数隻が台湾北東方面へ移動。海成丸の予想航路を意識している可能性があります」
「中国海軍」
「その後方」
村瀬は少し黙る。
「昨日より悪いな。撃たれたら反撃できる」
「はい」
「撃たれる前は」
「可能な限り回避」
村瀬がレーダー画面を見る。
「つまり、中国海警が目の前に出てきて、ぶつけてきて、放水して、停船要求して、それでも撃たなければ、こっちは最後まで撃たない努力をする」
「概ね」
村瀬が少し笑う。
「概ねって便利だな」
「今は便利な言葉が必要です」
村瀬は笑わなかった。
「海成丸は民間船だ」
「はい」
「米軍の兵器を積んでても」
「はい」
「そこは最後まで忘れるな」
「了解」
午後0時42分
台湾・台北市
総統府
第2波の攻撃が続いていた。
国防部長が報告する。
「中国軍機の進出は複数方向。台湾海峡側だけでなく、南西、北方からも圧力。東側へ回り込む航空機も確認しています」
「損害は?」
「空軍基地複数。レーダーサイトも一部沈黙。通信は予備回線へ切り替え。防空ミサイル部隊は移動しながら交戦継続」
「空軍」
「まだ戦えます」
総統が顔を上げる。
「まだ?」
「はい」
国防部長は少し強く言った。
「かなり残っています。分散が効いています。中国側も想定より航空機が残っていると見ているはずです」
「海軍」
「港湾への攻撃を受けましたが、主要艦艇の多くは事前に出港済みです」
総統が小さく息を吐く。
「全部、あの何日かで動かしたものね」
「はい」
「時間を買った」
「はい」
「でも今は、使ってる」
「そうです」
総統が地図を見る。
「海成丸は」
「日本が出港を決めたとの連絡があります」
総統の表情が変わる。
「本当に?」
「はい」
「何を積んでる」
「防空関連弾薬、航空機部品、通信機材、医療物資など」
総統は少し黙った。
「届く?」
国防部長は答えなかった。
総統が見る。
「答えて」
「危険です」
「それでも来る」
総統は窓の外を見る。
「なら、そこまで持たせる」
「はい」
午後1時36分
兵庫県神戸市
海成丸
最後の係留索が外された。
高瀬は艦橋に立っていた。
機関長が横にいる。
「全員、最終確認済みです」
「残るって?」
「はい」
「誰も変えなかった?」
「いません」
高瀬は頷く。
「分かった」
大げさな見送りはなかった。
船は静かに岸壁を離れる。
機関長が聞く。
「本当に行くことになりましたね」
高瀬が前を見る。
「そうだな」
「昨日まで、まだ決めてないって言ってたのに」
「昨日は台湾が攻撃されてなかった」
「今日は」
高瀬は海を見る。
「今日は違う」
海成丸が進む。
船倉には食料、医薬品、発電設備、通信装備、航空機部品、防空関連装備、弾薬。
そして、日米が準備を整えるための時間。
午後2時18分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
情報参謀が報告する。
「日本船、出港しました」
周が顔を上げる。
「海成丸か?」
「はい」
「護衛は?」
「まや。米海軍駆逐艦マスティンも合流予定」
作戦参謀が言う。
「止めるべきです」
周は画面を見る。
「海警がすでに複数隻を動かしています」
「海軍」
「後方に配置可能」
作戦参謀が続ける。
「台湾への攻撃は始まっています。あの船を通せば、防空弾薬と航空部品が台湾へ届く。それだけ台湾軍が長く持ちます」
「分かっている」
「なら」
周が彼を見る。
「だから難しいと言っている」
「武器輸送船です」
「民間船だ」
「日本政府が運んでいる」
「そうだ」
「軍艦まで付いた」
「それも分かっている」
作戦参謀が少し苛立つ。
「では、どこまで待つんです」
周は日本列島を表示する。
「台湾との戦争はもう始まった。しかし、日米との戦争はまだ始まっていない」
「時間の問題では」
「時間の問題と、こちらから今日始めることは違う」
作戦参謀が黙る。
周が続ける。
「海警で停船要求。進路妨害。必要なら臨検要求。軍は後ろに置く」
「発砲は」
「禁止」
「まやが押し返してきたら」
「その時点で中央へ上げろ」
「マスティンが介入したら」
周は少し黙る。
「同じだ」
「それで船が通ったら」
周は海成丸の位置を見る。
「その時に考える」
作戦参謀は納得していなかった。
周も納得しているわけではなかった。
午後4時09分
台湾西部
第3波。
巡航ミサイル。
航空攻撃。
無人機。
電子妨害。
台湾側の防空レーダーは何度も電源を切り、位置を変え、再び起動した。
パトリオット部隊、天弓部隊も発射、移動、再配置を繰り返した。
中国側の対レーダーミサイルには偽目標とデコイで対処している。
双方が相手の目を潰そうとした。
一部の台湾レーダーは沈黙。
一部は数十分後に別の場所から復帰。
空軍機も損耗していた。
中国側も撃墜機を出していた。
台湾の防空網は壊れている。
しかし、まだ消えてはいなかった。
午後5時27分
ワシントンD.C.
ホワイトハウス
国防長官が新しい戦況図を出す。
「中国側は第3波。台湾空軍は戦力を維持していますが、消耗が始まっています」
大統領が聞く。
「防空弾薬」
「減っています」
「海成丸が運んでる分は」
「届けば有効です」
「届けば、だな」
「はい」
「中国側は」
「海警を海成丸方面へ動かしています。海軍はその後方」
大統領が地図を見る。
「予想どおり」
「はい」
「マスティン」
「まやとの合流へ向かっています」
「交戦規定は」
「変更なし」
大統領は椅子にもたれる。
「台湾で戦争が始まって12時間近いのに、俺たちはまだ中国と戦争してない」
「はい」
「中国も、それを維持しようとしてる」
「少なくとも今のところ」
大統領は少し考える。
「でも、同じ海に軍艦が集まり始めてる」
「はい」
「嫌な形だな」
誰も答えなかった。
午後7時12分
東シナ海
夕暮れ。
海成丸は南へ向かっていた。
その前方、護衛艦まや。
さらに離れた海域から、米海軍駆逐艦マスティンが接近している。
まやの艦橋。
村瀬がレーダー画面を見る。
「マスティン」
「データリンク接続」
「海成丸」
「航行正常」
「中国側」
「海警2隻、こちらへ接近する針路」
「距離」
「まだあります」
村瀬は画面を見る。
「海軍は」
「後ろに複数」
「まだ遠い」
「はい」
村瀬が少し黙る。
「始まったな」
幕僚が見る。
「台湾では朝から始まってます」
「違う」
村瀬は海成丸の表示を見る。
「こっちの話だ」
幕僚の表情が変わる。
村瀬は続ける。
「まだ撃ってない。でも、向こうもこっちも、この船を中心に集まり始めてる」
「はい」
「撃たないために軍艦が集まってる」
幕僚は苦笑しなかった。
「変な話ですね」
「戦争の前は、大体変だ」
村瀬は前を見る。
「海成丸との距離を詰めすぎるな。民間船の操船余地は残せ」
「了解」
午後9時03分
台湾・新北市
停電していた。
怡君は、懐中電灯を机に置いていた。
俊偉がスマートフォンを見る。
「電波弱い」
「充電残ってる?」
「72」
「モバイルバッテリー使わないで」
「まだ使わない」
遠くの爆発音で、窓ガラスが少し震える。
俊偉が黙る。
しばらくして。
「姉ちゃん」
「何」
「日米、来ると思う?」
怡君はすぐには答えなかった。
テレビは映らない。
ネットも不安定。
ニュースは断片的。
「来るんじゃない」
「いつ」
怡君は暗い部屋を見る。
「分からない」
俊偉が少し笑う。
「みんなそれ言うね」
怡君も。
ほんの少し笑った。
「本当だね」
その直後、また遠くで音がした。
午後10時31分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「海成丸、南下継続」
情報参謀が言う。
「まや、マスティンが護衛」
「海警」
「接近中」
「明朝までには接触可能」
周が画面を見る。
作戦参謀が言った。
「まだ止めるつもりですか」
「そうだ」
「台湾側の防空網は予定より残っています。あの船が届けば、さらに長くなる」
「分かっている」
「なら」
周が彼を見る。
「今日、台湾にミサイルを撃った。だからといって、日本にも撃たなければならない理由はない」
「でも日本は武器を送っている」
「それでもだ」
「まやとマスティンまで」
「それでもだ」
作戦参謀は黙る。
周がゆっくり言う。
「我々は台湾との戦争を始めた。それだけでも十分大きい。日本と米国との戦争まで、同じ日に始める必要はない」
「向こうから始めたら」
周は答えた。
「その時は別だ」
「誰が最初に撃ったかで変わる?」
「政治は変わる」
「戦場では」
「戦場でも変わる」
周は海成丸の航跡を見る。
「だから止めろ。撃たずに」
2030年8月25日 午前0時06分
台湾・台北市
総統府
総統は朝からほとんど席を離れていなかった。
国防部長が新しい報告を置く。
「主要指揮機能は維持。航空戦力も損耗していますが、戦闘継続可能。海軍も分散した戦力が残っています」
「中国側」
「航空機、艦艇とも損害あり。ただし圧倒的な数的優位は維持しています」
「上陸」
「先行部隊が動き始めています。本格的な海峡横断はまだ限定的」
「明日?」
「可能性は高いです」
総統が窓を見る。
「明日の朝もこの景色だといい」と言った。
今、台北の灯りはところどころ消えている。
「朝と同じではないわね」
国防部長は答えなかった。
総統が続ける。
「でも、まだある。空軍も」
「あります」
「防空も」
「あります」
「政府も」
「あります」
総統は小さく頷いた。
「なら、続ける」
「はい」
「日米が介入できるまで止め続ける」
「はい」
午前0時48分
東シナ海
漆黒の海を海成丸、まや、マスティンの3隻が南下していた。
その反対側から、中国海警。
その後ろには中国海軍。
台湾では朝から戦争が続いていた。
ミサイル。
航空機。
防空ミサイル。
対艦ミサイル。
無人機。
艦艇。
それぞれが、もう実際に使われていた。
だが、日本と中国の間では、まだ最初の一発は撃たれていなかった。
米国と中国の間でも同じだった。
海成丸は、台湾へ兵器を運んでいた。
それ以上に、日米が準備を整える時間を運んでいた。
中国側は、その船を通したくなかった。
しかし、撃てば別の戦争が始まる。
だから、海警で止めて軍は後ろに置く。
「撃つな」
「日米に理由を与えるな」
それが、この夜までの命令だった。
海成丸は南へ進んだ。
まやが護衛につく。
マスティンが並ぶ。
中国海警も、同じ海へ向かう。
その後方で、中国海軍が追った。
誰も、最初の一発を撃つつもりはなかった。