2030年8月25日 午前4時12分
東シナ海
夜明けにはまだ少し早かった。
海成丸は一定の速力を保ったまま南下を続け、その前方を海上自衛隊護衛艦まやが走り、右舷後方には米海軍駆逐艦マスティンが位置していた。
昨夜まで遠くにあった中国側の艦影は、もう肉眼でも確認できる距離まで近づきつつあった。
まやの艦橋では、村瀬健一一等海佐がレーダー表示を見ていた。
「中国海警、正面やや左から2隻。距離18海里、こちらへ接近中です。さらに後方に3隻、うち1隻は052D型駆逐艦とみられます」
副長の報告を聞きながら、村瀬は表示された航跡を確認した。
海警船は迷いなく船団の前方へ向かっており、その後ろを中国海軍艦艇が一定の距離を保って追っている。
「昨日から言っていたとおりだな。海警を前に出して、海軍は後ろに置く。向こうも最初から撃ち合いにするつもりはないらしい」
「そう見えます。ただ、こちらを通すつもりもなさそうです」
村瀬は小さく頷いた。
「そこが問題だ。向こうは撃たずに止めたい。こっちは撃たずに通りたい。どちらかが引けば簡単だが、どちらにもその権限がない」
副長はレーダー画面を見た。
「海成丸は予定航路を維持しています」
「高瀬船長に現状を伝えておけ。ただし、こちらから針路変更を求めるな。あの船の航海を決めるのは高瀬船長だ」
「了解しました」
艦橋の窓の外にはまだ薄暗い海しか見えない。
その海の向こうでは、台湾への攻撃が2日目に入ろうとしていた。
台湾西部では夜間も断続的なミサイル攻撃が続き、中国空軍は航空優勢を得るための攻撃を継続している。台湾軍も防空ミサイルと戦闘機で抵抗を続け、中国側にも損害は出ていた。
そして、その消耗を少しでも遅らせるための弾薬と部品を積んだ船が、今この海を進んでいた。
村瀬は双眼鏡を手に取った。
水平線の向こうに、かすかな灯りが見えた。
「来たな」
誰も返事をしなかった。
午前4時46分
兵庫県神戸市から南方海域へ航行中
海成丸
無線担当の航海士がヘッドセットを押さえた。
「船長、中国海警から呼び出しです」
高瀬修司は艦橋中央へ歩きながら聞いた。
「何と言ってる」
「本船の船名を指定しています。英語と中国語、それから日本語です」
高瀬は少し眉を上げた。
「日本語まで用意してきたか。聞こう」
スピーカーから声が流れる。
「日本国籍船、海成丸。こちらは中国海警です。貴船は現在、中国が設定した軍事作戦海域へ接近しています。当該海域では大規模な軍事作戦が実施されており、航行の安全を保証できません。ただちに針路を北へ変更し、当該海域から離脱してください」
艦橋の全員が無言で聞いていた。
一等航海士が高瀬を見る。
「どうします」
高瀬はマイクを取った。
「こちら日本国籍船、海成丸。本船は国際法に従い航行中です。現在の針路および航海計画に変更はありません」
返答はすぐに来た。
「海成丸へ。貴船が台湾地域へ軍事物資を輸送していることを確認しています。これ以上の接近は中国の軍事作戦を妨害する行為とみなされる可能性があります。ただちに停船し、指示を待ってください」
一等航海士が小声で言った。
「積荷まで言ってきましたね」
「見えてると思ってた方がいい」
高瀬は再び無線を取る。
「本船の貨物に関する照会には回答しません。本船は日本国籍の民間船であり、航海を継続します」
「海成丸へ。これは正式な停船要求です」
高瀬は数秒黙った。
「受け入れません」
無線は一度途切れた。
機関長が後ろから言う。
「随分はっきり言いましたね」
高瀬は窓の外を見ながら答えた。
「曖昧に言って止まってくれるなら楽なんだけどな」
「向こうも同じこと思ってるでしょうね」
「たぶんな」
高瀬はレーダー画面を見る。
中国海警船の航跡が、少しずつ海成丸の前方へ寄っていた。
「速力は維持。ただし、いつでも減速できるよう機関室へ伝えてくれ。あっちはこっちほど大きな船じゃない。動きは向こうの方が速い」
「了解」
高瀬はもう一度前を見る。
「それと、全員に言っておけ。見物するために甲板へ出るな。今日は観光じゃない」
艦橋の中にわずかな笑いが起きたが、すぐに消えた。
午前5時21分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
大型画面には、台湾戦線と海成丸周辺海域が同時に表示されていた。
台湾西部では夜間攻撃の戦果評価が続き、空軍基地、レーダーサイト、港湾、通信施設の損害が更新されている。
一方、海成丸の表示の周囲には、日本と米国の艦艇、中国海警、中国海軍の位置が刻々と増えていた。
情報参謀が報告する。
「海警が停船要求を実施しました。日本船は拒否し、南下を継続しています」
周啓明中将は海図を見たまま尋ねた。
「まやは」
「海成丸の前方。マスティンは右舷後方から接近。両艦とも戦闘配置を強化している可能性がありますが、火器管制レーダーの使用は確認していません」
「海軍は予定どおり後ろに置け。前へ出しすぎるな」
作戦参謀が周を見る。
「海警だけで止められると思いますか」
「分からん」
「昨日から同じです。停船要求を拒否され、針路変更も拒否されました。このままなら台湾へ近づきます」
周はようやく彼を見た。
「だから何だ」
「海警にさらに強い措置を認めるべきです。進路妨害、臨検、必要なら強制停船まで」
「進路妨害までは認める。臨検要求も出せ。ただし、乗り移りは中央の許可を待て」
「それで止まらなければ」
周は少し黙った。
「その時に次を考える」
作戦参謀が苛立ちを隠さなかった。
「台湾側の防空網は昨日の予想より残っています。F-16Vもまだ飛んでいる。パトリオットと天弓も、こちらが潰したと思った陣地の一部が移動して再び交戦しています。海成丸に積まれた弾薬や航空機部品が届けば、その状態を延ばすことになります」
「知っている」
「では、なぜ止めない」
周はしばらく作戦参謀を見ていた。
「止めろと言っている」
「撃たずに、ですか」
「そうだ」
「軍艦2隻に護衛された武器輸送船を、海警だけで?」
周は大型画面の海成丸を指した。
「問題は、あの1隻に積まれている物資だけじゃない」
作戦参謀が眉を寄せる。
「では?」
「あれが通ったという事実だ」
周は海成丸の航跡を拡大させた。
「日本の民間船が、自衛隊と米海軍の護衛を受けて台湾まで到達した。その前例を一度作れば、次が来る」
「2隻目を?」
「2隻で済めばいい」
周は淡々と続けた。
「次は別の日本船かもしれない。米国が借り上げた船かもしれない。さらに別の国が続くかもしれない。護衛を付ければ補給船を台湾へ通せる。それが既成事実になれば、我々はそのたびに同じ問題を抱える」
作戦参謀が言う。
「なら、なおさらここで止める必要があります。そのためには海軍を使うべきです」
周は日本列島を画面に出した。
「昨日、台湾に最初のミサイルを撃った時、日本は戦争に入らなかった。米国も入らなかった。その差が今日も残っている」
「しかし、あの船はその差を狭めています」
「だからこそ、こちらから消すな」
作戦参謀は黙った。
周が続けた。
「通せば、悪い前例になる」
一呼吸。
「沈めれば、もっと悪い前例になる」
誰も口を挟まなかった。
「中国が、日本国籍の民間船を武器で沈めた。その事実は次の補給船より長く残る」
周は海成丸の表示を見る。
「日本政府が何週間かけても国民に説明できなかったことを、こちらが1発で説明してやる必要はない。あの船を沈めれば、積荷は台湾に届かない。しかし同時に、日本に介入の口実を与える」
「それでも通せない」
「分かっている」
周は少しだけ眼鏡を押し上げた。
「あの船を止めたいんじゃない。2隻目を来させたくない、だから厄介なんだ」
会議室に沈黙が落ちた。
午前6時03分
東シナ海
海成丸船団
空が青みを帯び始める頃、中国海警船の船体がはっきり見えるようになった。
白い船体。
大きく描かれた中国海警の識別文字。
その後方には、灰色の中国海軍艦艇が見える。
海成丸の艦橋では、一等航海士が双眼鏡を下ろした。
「1隻、前に出てきます」
高瀬も確認する。
「針路は」
「こちらの前を横切るつもりです」
「距離」
「約1.4海里。まだ縮まっています」
高瀬は機関長へ振り返った。
「機関、減速準備」
「了解」
中国海警から再び無線が入った。
「海成丸へ。ただちに停船してください。貴船に対し臨検を実施します。指示に従わない場合、安全確保のため必要な措置を取ります」
高瀬は無線を聞き終えてから、一等航海士を見る。
「必要な措置、ね」
「何でしょう」
「聞いて答えてくれるなら楽なんだけどな」
機関長が後ろから言う。
「聞いてみます?」
高瀬は少しだけ笑った。
「やめとけ。答えが返ってきたら余計に困る」
それからマイクを取った。
「中国海警へ。本船は臨検要求を受け入れません。本船への危険な接近および航行妨害を中止してください」
返事はなかった。
代わりに、中国海警船がさらに前へ出た。
一等航海士の声が少し強くなる。
「距離900メートル。横切ります」
高瀬が速度計を見る。
海成丸は数万トン級のRO-RO船である。
大型の船体は安定しているが、軍艦のように短時間で針路を変えられるわけではない。
「減速。右へ5度」
「右5度」
「まやとの距離を見ろ」
「問題ありません」
中国海警船が海成丸の前方を横切った。
白い船体が想像以上に近い。
高瀬は双眼鏡越しに、その艦橋まで見えた。
「分かってやってる」
一等航海士が答える。
「こっちが避けるのを前提にしてますね」
「そうだ。ぶつける気はない。ただ、こっちに避けさせたい」
「避け続けたら」
「台湾には着かない」
高瀬は双眼鏡を下ろした。
「元の針路へ戻す。ゆっくりでいい」
「了解」
海成丸が針路を戻し始めると、中国海警船も再び位置を変えた。
最初の駆け引きが始まっていた。
午前6時27分
海上自衛隊護衛艦「まや」
「海成丸、1度目の進路妨害を回避。航海継続」
報告を聞いた村瀬は、レーダー画面と前方海面を交互に見た。
「海警、次は」
副長が答える。
「2隻目も前へ出ています。1隻目は海成丸左舷側へ並走」
「挟むつもりか」
「可能性があります」
村瀬は少し考えた。
「海成丸との距離を詰める。こちらが間に入る」
副長が確認する。
「中国海警と海成丸の間へ?」
「そうだ。ただし押し出すな。こちらから危険な接近をした形にはするな」
「了解」
まやがゆっくりと針路を変える。
高瀬の船よりははるかに敏捷であり、ガスタービンの出力を調整しながら海成丸の左舷前方へ入っていく。
中国海警船から無線が飛んだ。
「日本海上自衛隊艦へ。中国海警の法執行活動を妨害しないでください」
村瀬は少し眉を上げる。
「法執行だそうだ」
副長が答えた。
「向こうの言い分では」
「分かってる」
村瀬は通信担当へ指示する。
「返せ。日本国籍民間船に対する危険な航行妨害を中止せよ。本艦は海成丸の安全確保のため航行している、と」
「了解」
副長が村瀬を見る。
「これで向こうから見れば、完全に護衛ですね」
「昨日から護衛だ」
「政治的には、です」
村瀬は少し黙った。
「なら政治家に説明してもらおう。こっちの仕事は、目の前の民間船をぶつけさせないことだ」
前方では中国海警船が速度を落とし、まやとの距離を保った。
そのさらに後方。
052D型駆逐艦のシルエットが、朝の光の中に浮かび始めていた。
午前7時15分
ワシントンD.C.
ホワイトハウス
大型画面には台湾戦線と海成丸周辺の状況が並べて映し出されていた。
国防長官が説明する。
「中国海警が海成丸への進路妨害を開始。まやが船体を間に入れています。マスティンも距離を詰めていますが、現時点で発砲、レーダー照射とも確認されていません」
大統領は画面を見たまま尋ねた。
「中国海軍は」
「後方です。052D型駆逐艦を含む複数艦。ただし海警を追い越して前へ出る動きはありません」
「北京も、まだ線を越えたくない」
「そう見えます」
大統領は別の画面へ視線を移した。
台湾では戦闘が続いている。
「台湾側は」
統合参謀本部議長が答える。
「昨夜から防空戦力の消耗が続いていますが、まだ組織的に抵抗しています。中国側は航空優勢を確立できていません。上陸先行部隊の一部は海峡へ出ていますが、本格投入には至っていません」
「海成丸が届けば」
「戦況そのものを逆転させる量ではありません。ただ、防空弾薬と航空機部品が届けば、台湾軍の戦力維持には確実に寄与します」
「だから中国は止める」
「はい」
大統領は少し黙った。
「米軍の警戒態勢は」
国防長官が答えた。
「さらに引き上げる必要があります。台湾戦争が日米へ波及する可能性が、昨日より明らかに高くなっています」
「提案は」
「DEFCON 3です」
部屋が静かになった。
大統領は国防長官を見る。
「戦略部隊も含める?」
「はい。ただし、これは核使用準備への移行ではありません。通常戦力を含む軍全体の即応性を引き上げ、中国との直接交戦に発展した場合の初動を短縮します」
「中国にはどう見える」
国家安全保障担当補佐官が答える。
「米国が、中国との戦争を現実のシナリオとして扱い始めたと理解するでしょう」
大統領は少し考え、それから言った。
「実際そうなんだろ」
誰も否定しなかった。
「DEFCON 3へ上げろ。ただし中国には、核使用の意図を示すものではないと伝達する経路を維持しろ。向こうが間違って核の話に飛ぶのが一番困る」
「了解しました」
大統領が統合参謀本部議長を見る。
「B-2の準備はどうなってる」
「ホワイトマンから複数機を出撃させます。通常兵器任務を想定し、給油機もすでに準備に入っています。まだ攻撃命令は出しません。命令が出た場合、中国本土深部の航空基地、指揮施設、ミサイル関連施設などへの通常攻撃を短時間で実施できる態勢を取ります」
大統領は椅子にもたれた。
「まだ中国とは戦争していないでも、戦争になった後で爆撃機に燃料を入れ始めるわけにはいかない」
「そのとおりです」
「出せ」
議長が頷いた。
大統領は再び海成丸の表示を見る。
「船1隻の周りに、ずいぶん大きなものが集まり始めたな」
国防長官は答えなかった。
2030年8月24日 午後5時58分(現地時間)
アメリカ・ミズーリ州
ホワイトマン空軍基地
B-2スピリットが格納庫から姿を現した。
黒い全翼機は、夕方の傾き始めた光の中で輪郭だけが浮かび上がるように見えた。
地上員が機体の周囲を離れ、誘導灯が滑走路方向を示す。
外からは兵器が見えない。
機体内部の爆弾倉には、通常攻撃任務用の精密誘導兵器が搭載されていた。
命令が出れば、中国本土の奥深くへ侵入し、航空基地、指揮統制施設、ミサイル関連施設といった重要目標を攻撃する能力を持つ。
ただし、今はまだ目標は割り当てられていない。
攻撃命令もない。
先に空へ上がった空中給油機が、太平洋上の給油地点へ向かっている。
B-2の1機目が滑走路へ入った。
エンジン音が大きくなり、黒い機体が加速する。
やがて地面を離れた。
続いて2機目。
その後方でも、地上員が次の機体を動かしている。
B-2は中国を攻撃するために離陸したわけではなかった。
少なくとも、まだ。
中国を攻撃しなければならなくなった時に、間に合うように飛び立った。
2030年8月25日 午前8時34分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
情報参謀が周のところへ近づいた。
「米軍の警戒態勢に大きな変化があります」
周が顔を上げる。
「何だ」
「米側は軍全体の警戒態勢を引き上げたとみられます。詳細な運用状況は不明ですが、DEFCON 3に移行した可能性が高い」
作戦参謀がすぐに反応する。
「核戦力は」
「戦略部隊の活動も増えています。ただし、現時点で核使用準備を示す直接的兆候はありません」
別の情報が入る。
「さらに、ホワイトマン空軍基地からB-2が複数離陸しました。空中給油機の活動も増加しています」
周の表情が変わった。
「行き先は」
「確認できません」
作戦参謀が言う。
「核任務の可能性は」
周はすぐに首を横に振った。
「そこから考えるな。今この状況で米国が欲しいのは、我々との核戦争じゃない」
「しかしB-2です」
「B-2だからこそだ。通常兵器でこちらの防空圏の奥へ入れる。航空基地、指揮施設、ミサイル部隊、重要目標を開戦直後から叩ける」
情報参謀が頷く。
「米軍は、中国との直接交戦を想定した配置へ移っていると考えるべきです」
周は世界地図を表示させた。
「昨日まで、彼らは戦争が起きた時に備えていた」
作戦参謀が聞く。
「今日は?」
周はB-2の出撃情報を見る。
「戦争が自分たちまで来た時に、すぐ殴り返せるようにしている」
作戦参謀が海成丸の表示を見る。
「なら、なおさら船を止めるべきです」
周は静かに答えた。
「逆だ。米軍がそこまで上げた今、1発の意味は昨日より重い」
「では、どうするんです」
「海警で止めろ」
「それでは止まらない」
周は彼を見る。
「それでも撃つな」
作戦参謀は何も言わなかった。
午前9時02分
東シナ海
海成丸
中国海警船が海成丸の左舷側へ並走していた。
距離は500メートルを切っている。
さらにもう1隻が前方へ回り込もうとしていた。
高瀬は双眼鏡越しに相手船を見る。
「近いな」
一等航海士が答える。
「さっきより詰めてます」
無線が入った。
「海成丸へ。これは最終警告です。ただちに停船し、臨検を受けてください」
高瀬はマイクを取る。
「中国海警へ。本船は停船しません。危険な接近を中止してください」
「停船しない場合、強制措置を実施します」
高瀬は一度マイクから口を離した。
「強制措置が来るらしい」
機関長が少し嫌そうな顔をする。
「今度こそ聞きます?」
「聞く前に見せてくれると思う」
その直後。
左舷側の海警船の甲板上で動きがあった。
一等航海士が双眼鏡を上げる。
「放水砲です」
高瀬が言う。
「全員、窓際から離れろ。甲板作業員は船内退避を確認」
数秒後。
大量の水が海成丸へ向かって飛んできた。
最初の水流が船体側面へ叩きつけられ、続いて艦橋前面へ届く。
大きな音。
艦橋窓が一瞬、白い水で覆われた。
一等航海士が反射的に身を引く。
高瀬は手すりを掴んだ。
「ワイパー最大」
「はい!」
視界が戻る。
再び水。
海成丸の船体が大きく揺れるほどではないが、艦橋の窓には繰り返し大量の海水が叩きつけられる。
機関長が言う。
「随分派手に来ましたね」
「撃たない範囲でできることを全部試すつもりだろ」
「次は?」
高瀬は前方の海警船を見る。
「たぶん、もっと近く来る」
午前9時11分
海上自衛隊護衛艦「まや」
「中国海警、海成丸へ放水開始!」
村瀬はすぐに答えた。
「映像記録、全部残せ。中国海警へ警告。日本国籍民間船への危険行為をただちに中止するよう要求」
「了解」
「海成丸の状況は」
「航行継続。損傷報告なし」
「乗員」
「現時点で負傷者なし」
村瀬は一度息を吐いた。
「こちらが間に入る。海成丸の左舷側へ」
副長が確認する。
「放水線上へ入る可能性があります」
「構わん。海成丸に当て続けさせるよりいい」
まやが針路を変えた。
灰色の船体が海成丸と中国海警の間へ入り始める。
中国海警から警告が来る。
「日本海上自衛隊艦へ。中国海警の法執行活動を妨害しないでください。ただちに離脱してください」
村瀬は通信担当を見た。
「返せ。本艦は日本国籍民間船の安全確保のため航行している。危険な放水および進路妨害を中止せよ」
副長がレーダーを見る。
「マスティンも距離を詰めています」
「どこまで」
「海成丸右舷後方、まもなく直接支援位置」
村瀬は中国海軍艦艇の表示を見る。
「052Dは」
「こちらも前へ出ました。海警との距離を縮めています」
村瀬の表情が硬くなる。
「そうなるよな」
副長が言う。
「向こうも海警だけじゃ足りないと判断した?」
「まだ分からん。ただ、こっちに米艦が寄れば向こうも軍艦を寄せる。片方だけ増やして、もう片方だけじっとしてるなんてことはない」
彼は艦橋窓から海成丸を見る。
「全員、戦闘配置を維持。ただし武器使用は今までどおり厳格に。向こうが嫌なことをしてきても、こっちから戦争を始めるな」
「了解」
午前10時06分
東京都千代田区・首相官邸
黒田が海上保安庁と防衛省から上がってきた映像を大型モニターへ映した。
中国海警船から伸びる大量の放水。
その先に海成丸。
そして間へ入るまや。
首相は映像を黙って見ていた。
「乗員は」
「負傷者は確認されていません。船体にも重大な損傷なし」
「中国側は停船要求を続けてる?」
「はい。臨検要求も出しています」
「海成丸は拒否」
首相は少し考えた。
「これを攻撃と言えるのか」
法制担当者が答える。
「危険な行為ではありますが、現時点で中国軍による武力攻撃と認定するには慎重な判断が必要です。相手も海軍ではなく海警を前面に出しています」
「そこまで計算してる」
黒田が頷いた。
「おそらく」
「こっちも同じだな」
首相が画面を見る。
「危険だから引き返せと言うこともできる。だが、この船が必要だから出した。それで危なくなった瞬間に帰れと言うなら、最初から出すべきじゃなかった」
黒田が静かに答える。
「高瀬船長には引き返す権限があります」
「本人は」
「今のところ航行継続」
「まやは」
「護衛継続。マスティンも合流しています」
首相は中国海軍艦の表示を見る。
「中国海軍まで前へ出てきた」
防衛関係者が答える。
「052D型を含む複数艦が距離を詰めています。ただし火器使用の兆候はまだありません」
首相が彼を見る。
「まだ、か」
少し沈黙。
首相が言った。
「その『まだ』が一番嫌だな」
誰も答えなかった。
午前10時44分
東シナ海
中国海警の2隻目が海成丸の前方へ回り込んだ。
今度は先ほどより近い。
高瀬はレーダー画面を見ていた。
「距離700メートル」
一等航海士が答える。
「減っています。600」
「針路変化は」
「ほとんどありません。このまま横切ります」
「減速」
「減速します」
機関出力が落ちる。
海成丸の速度がゆっくり下がり始める。
「500」
中国海警船はなおも前へ出る。
「400」
高瀬が眉を寄せる。
「随分近いな」
「300」
艦橋の空気が変わった。
高瀬はマイクを取る。
「中国海警船へ。貴船は本船の進路を危険な距離で横切ろうとしています。ただちに針路を変更してください」
返事はない。
「250」
機関長が言う。
「これ以上は止まれませんよ」
「分かってる」
高瀬が操船指示を出す。
「右10度」
「右10度!」
海成丸がゆっくり右へ向く。
その時、中国海警船もわずかに針路を変えた。
一等航海士が言う。
「追ってきます」
高瀬の表情が硬くなる。
「止めたいんじゃない。こっちを北へ押し戻したいんだ」
海成丸がさらに減速する。
突然、船体が揺れた。
艦橋後方で何かが倒れる音。
「何だ?」
船内電話が鳴る。
数秒後。
「甲板員1名、転倒。肩を打ったようです。意識あり」
高瀬が一瞬目を閉じる。
「医務担当を行かせろ。骨折の可能性も確認」
「了解」
機関長が前を見る。
「最初の怪我人ですね」
高瀬は中国海警船を見ながら答えた。
「まだ軽傷で済んでる」
「まだ、ですか」
「今日はその言葉ばっかりだな」
午前11時03分
東京都内
ニュース速報が流れた。
「台湾向け日本船、中国海警から航行妨害。乗組員1名負傷か」
朝の情報番組はすでに通常編成ではなくなっていた。
中国海警の放水。
まや。
マスティン。
海成丸。
海上から送られた映像が繰り返し使われる。
飲食店で、DAY -2にもテレビを見ていた会社員2人が画面を見ていた。
「怪我人出たって」
「中国海警だろ」
「軍じゃないらしいけど」
「でも、あれ普通に危ないだろ」
テレビでは専門家が、「現時点で日本が戦争状態に入ったわけではない」と繰り返している。
片方が言った。
「帰した方がいいんじゃないの」
もう片方は少し黙る。
昨日までなら同意したかもしれない。
「でも、台湾に必要なんだろ」
「だからって日本人が死んだら」
「そうなんだけど」
2人とも続けられなかった。
日本社会はまだ割れていた。
中国が台湾を攻撃したことへの危機感は高い。
海成丸への妨害には怒りも出始めている。
だが、日本が中国と戦争を始めるべきだというところまでは、まだ届いていなかった。
午前11時36分
東シナ海
米海軍駆逐艦マスティン
戦闘指揮所では、中国側艦艇の情報が次々と更新されていた。
中国海警。
052D型駆逐艦。
054A型フリゲート。
さらに後方の艦艇。
まやとのデータリンクを通じ、船団周辺の状況はほぼ共有されている。
艦長が表示を見ながら言った。
「中国駆逐艦、距離を詰めているな」
戦闘指揮官が答える。
「はい。海警を直接支援できる距離まで前進しています」
「火器管制は」
「通常捜索のみ。まだ射撃管制モードには入っていません」
「こちらのVLSは」
「即応。SM-2、SM-6、ESSMを含む防空兵装は交戦可能。対水上戦闘用兵装も準備済みです」
艦長は少し黙った。
マスティンのMk.41垂直発射システムには、対空ミサイルをはじめ複数種類の実弾が収められている。
数十キロ先では、中国052D型駆逐艦の大型フェーズドアレイレーダーが海空域を監視し、そのVLSにはHHQ-9系列の長距離艦対空ミサイルや対艦・対地攻撃能力を持つ兵器が搭載されている。
互いに数分あれば戦争を始められる。
艦長が言った。
「一番重要なのは、撃てることじゃない」
戦闘指揮官が見る。
「撃つ必要がない状態を維持すること、ですか」
「そうだ。ただし向こうが撃った瞬間、それは終わる」
「了解」
マスティンは海成丸との距離を詰めた。
午後0時18分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「米艦が前へ出ました」
情報参謀の報告に、作戦参謀が周を見る。
「海警だけでは無理です」
大型画面では、海成丸を中心に日本と米国、中国の艦艇が近づき続けている。
「海成丸は一時減速しましたが、再び南下を開始。海警の進路妨害を回避しています。まやは船体を間に入れ、マスティンも直接護衛位置へ移行しました」
周が尋ねる。
「海警側の損傷は」
「なし」
「日本側」
「海成丸乗員1名が転倒して負傷した可能性があります」
周の目が一瞬止まる。
「映像は」
「日本国内で放送されています」
作戦参謀が言う。
「もう十分でしょう。海軍を前へ出して、武器使用の可能性を明示すべきです」
周はしばらく黙った。
「何を明示する」
「これ以上進めば、軍事的に阻止すると」
「それをどう見せる」
「火器管制レーダーによる追尾。艦砲の指向。航空機を出してもいい」
周は彼を見る。
「火器管制レーダーを向けられた相手は、こちらが威嚇だけなのか、本当に撃つのか区別できるか」
「こちらも相手の意図は分かりません」
「だからやるのか」
「だからこそです」
周はゆっくり椅子にもたれた。
台湾戦線の画面では、中国軍の第4波攻撃が始まっている。
台湾側の防空網は削られている。
しかしまだ残っている。
海成丸が積む弾薬と部品は、確実に意味を持つ。
そして、その船をここで通せば。
次が来る。
そのことも、周には分かっていた。
周は少し考えた。
「海軍を一段前へ出す。ただし海警より前には出すな」
「火器管制レーダーは」
「許可しない」
作戦参謀が不満そうに言う。
「それでは威圧になりません」
「威圧した結果、相手が先に撃ったらどうする」
「それはこちらの攻撃ではありません」
周は静かに答えた。
「相手も同じことを考えている」
作戦参謀は黙る。
周は続けた。
「この海域には今、撃つ理由を探している人間はいない。全員が撃たずに目的を達成したいと思っている」
「それなら安全では」
周は首を横に振る。
「逆だ」
「なぜです」
「目的が両立しないからだ」
会議室に沈黙が落ちた。
午後1時02分
ワシントンD.C.
ホワイトハウス
DEFCON 3への移行後、米軍の動きは急速に変わっていた。
国防長官が報告する。
「B-2複数機が太平洋方面へ移動中。給油支援態勢確立。グアム、嘉手納、その他西太平洋の主要基地では航空機を分散しつつ即応状態を維持しています」
大統領が聞く。
「中国側は気づいてるか?」
「確実に」
「反応は」
「戦略部隊の警戒は上がっていますが、核態勢に大きな変化は確認されていません」
「よし」
統合参謀本部議長が別の資料を出す。
「海軍増援案についても具体的に考えないといけない時期に来ています」
「例の5個艦隊?」
「はい。第7艦隊はすでに前線。第3艦隊は西進可能な戦力の出港準備、第5艦隊はインド洋側から抽出可能な部隊を選定済み、第6艦隊は地中海から移動可能な水上戦闘艦を準備、第2艦隊も長期戦になった場合の増援候補を待機させています。一部はすでに準備のため動いていますが、大規模な再配置命令は出していません」
「理由は」
「中国と直接交戦していないからです」
大統領は海成丸の表示を見る。
「あとどのくらい、その理由が残るかな」
誰も答えなかった。
午後1時47分
東シナ海
昼を過ぎ、視界は良好だった。
海成丸の周囲には、もはや船影を探す必要がないほど多くの艦艇が集まっていた。
海成丸。
まや。
マスティン。
中国海警3隻。
その後方に052D型駆逐艦。
054A型フリゲート。
さらに遠方の中国海軍艦艇。
高瀬は双眼鏡を下ろした。
「ずいぶん増えたな」
一等航海士が答える。
「この船1隻に、ですかね」
「積荷が積荷だからな」
「それでも」
高瀬は少し笑った。
「俺も同じこと思ってる」
中国海警からまた無線。
「海成丸へ。貴船は最後の機会を与えられています。ただちに停船してください」
高瀬が聞く。
「もう何回目だ」
一等航海士が答える。
「正式な最終警告だけなら3回目ですね」
「最終が3回あるなら、まだ余裕あるな」
「船長」
「冗談だ」
高瀬はマイクを取った。
「中国海警へ。本船は航海を継続します。危険な接近を中止してください」
今度は返事が来なかった。
代わりに中国海警の1隻が速度を上げる。
「船長、前へ出ます」
「見えてる」
海警船が海成丸の針路上へ入る。
距離が縮まる。
「700」
「減速」
「600」
高瀬は一度まやを見る。
まやも動いていた。
「500」
「右へ5度」
海成丸がゆっくり向きを変える。
中国海警も変える。
「追ってきます」
高瀬の表情が消えた。
「400」
「船長、このままだと」
「分かってる」
「300」
高瀬は無線を取った。
「中国海警へ。貴船は本船と衝突する危険があります。ただちに針路を変更してください」
返答なし。
「250」
一等航海士の声が硬くなる。
「200」
高瀬が機関長へ言う。
「全速後進準備」
「了解!」
その時。
まやが海成丸の前方左側へ入り、中国海警との間へ船体を差し込んだ。
海警船がわずかに針路を変える。
「離れます!」
艦橋の空気が少しだけ緩んだ。
高瀬は息を吐いた。
「今のは近かったな」
機関長が言う。
「本当にぶつけるつもりだったんでしょうか」
高瀬は首を横に振る。
「たぶん違う」
「たぶん?」
「向こうも最後には避けると思ってた。こっちも向こうが避けると思ってた」
高瀬は海警船を見る。
「一番危ないやつだよ、それが」
午後2時06分
海上自衛隊護衛艦「まや」
電子戦員の声が戦闘指揮所に響いた。
「中国海軍駆逐艦、レーダーモード変化!」
村瀬が振り向く。
「何だ」
「052D型。追尾精度上昇。こちらへの照射を確認」
「火器管制か」
数秒。
電子戦員が画面を確認する。
「火器管制レーダー照射と判断!」
艦橋と戦闘指揮所の空気が一変した。
村瀬はすぐに聞く。
「継続?」
「継続中!」
「対象は本艦だけか」
「現時点では本艦。マスティンについては確認中」
「武器システム即応。だが撃つな。対空・対水上監視を最大化」
「了解!」
Mk.41 VLSに収められたミサイル。
艦対空ミサイル。
近接防御火器。
艦砲。
すべてが、数秒から数分で使用できる状態へ近づいていく。
村瀬が副長を見る。
「中国艦へ警告。火器管制レーダー照射をただちに中止するよう要求」
「了解」
マスティンから通信が入る。
「米艦も中国側レーダー活動の変化を確認。戦闘配置を強化するとのことです」
村瀬は前方を見る。
海成丸。
中国海警。
中国駆逐艦。
マスティン。
誰も撃っていない。
しかし。
少し前まで「撃てる兵器」だったものが。
今は「撃つ直前の兵器」に変わっていた。
午後2時11分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
情報参謀の声が上がった。
「052D型駆逐艦が、まやに対する射撃管制追尾を開始した模様です」
周が勢いよく振り返った。
「誰が許可した」
「現場指揮官判断です。日本艦が海警船と海成丸の間へ入り、接近を継続したため、威嚇措置として」
「威嚇?」
周の声が低くなる。
作戦参謀が言う。
「発砲していません」
周は彼を見る。
「火器管制レーダーを向けられた側に、それが威嚇だけだとどうやって分かる」
「こちらも撃つ意図はありません」
「それを相手は知らない!」
会議室が静まり返った。
周が命じる。
「照射をやめさせろ。今すぐだ」
「しかし、海成丸が進みます」
「分かっている!」
周は大型画面を見る。
そこには、船団と中国艦艇が狭い海域で複雑な航跡を描いていた。
「海警は進路妨害を継続。海軍は距離を維持。火器管制レーダーの使用は禁止。発砲は引き続き禁止だ」
作戦参謀が聞く。
「中央からは、海成丸の通過を許すなと言われています」
周が彼を見る。
「同時に、日米艦への先制攻撃も禁止されている。その2つを両方守れ」
作戦参謀は少し黙った。
「どうやってです」
周は答えなかった。
午後2時23分
東京都千代田区・首相官邸
防衛関係者が早足で入ってきた。
「中国海軍艦艇から、まやへの火器管制レーダー照射を確認しました」
首相が顔を上げる。
「攻撃されたのか」
「まだ発砲はありません」
「火器管制レーダーっていうのは、撃つために使うものじゃないのか」
「射撃に必要な精密追尾に使用されます。威嚇として行われることもありますが、受ける側からは発射意図を完全には判別できません」
首相は黒田を見る。
「つまり、まやの艦長は、中国が本当に撃つのか、脅しているだけなのか分からない。中国側も、まやがどう反応するか分からない」
「そのとおりです」
首相はしばらく何も言わなかった。
「武器使用権限は」
「自衛のために必要な場合は現場指揮官が対応できます。ただし、こちらから先にエスカレーションさせないよう厳格に運用しています」
「『必要な場合』って、いつだ」
防衛関係者は少し言葉を選んだ。
「ミサイル発射を確認してからでは間に合わない場合もあります」
首相の表情が変わる。
「じゃあ、撃たれる前に撃つ可能性もあるのか?」
「切迫した攻撃が明確になれば、自衛措置として必要な行動を取る可能性はあります」
黒田が静かに言った。
「つまり、今は両方の艦長が、相手の相手の意図を考え、数秒先を読もうとしている状態です」
首相は海上の映像を見る。
「政治家が何日もかけて避けてきたことを、数秒の判断で決めることになるのか」
誰も答えなかった。
午後2時38分
ワシントンD.C.
ホワイトハウス
「中国駆逐艦がまやを火器管制レーダーで追尾。現在は断続的ですが、マスティンも同じ艦の兵器射程内です」
国防長官の報告に、大統領は地図を見た。
「マスティンの艦長には」
「自衛権があります。中国側が攻撃準備に入ったと合理的に判断すれば、必要な措置を取れます」
「合理的に判断」
大統領が少し苦い顔をする。
「今一番聞きたくない言葉だな」
統合参謀本部議長が答える。
「こちらから先に撃たないよう、艦長には最大限の抑制を求めています。ただし、ミサイルが発射されるまで待てとは言えません」
「中国側はどうしてる」
「火器管制照射を止めるよう指示が出た可能性があります。照射は一度弱まりました」
「ならまだ止められる」
「はい」
大統領は別の画面を見る。
B-2は太平洋上を西へ向かっている。
空中給油機。
第7艦隊。
第3艦隊の待機部隊。
第5、第6、第2艦隊の増援候補。
軍全体が。
戦争になった場合の形へ近づいていた。
「海で誰かが1発撃ったら」
国防長官が答える。
「状況は急速に変わります」
「どの程度」
「予測できません。最悪の事態を考え行動すべきです」
午後3時04分
東シナ海
海成丸は再び速力を戻していた。
中国海警船も離れない。
まや。
マスティン。
中国海軍。
誰も退かなかった。
海成丸の艦橋で、高瀬は前方を見ていた。
一等航海士が言う。
「また来ます」
中国海警船が前方へ出る。
今度は1隻ではない。
2隻。
海成丸を左右から圧迫しながら、徐々に進路を狭めていく。
「距離」
「左舷側500、右舷側650」
「まやは」
「前方左」
「マスティンは右後方」
高瀬は少し考えた。
「向こうも本気で止めに来てる」
機関長が答える。
「撃たずに?」
「それが命令なんだろう」
「こっちも撃たずに通れって?」
高瀬は彼を見る。
「たぶんな」
機関長は前方の海警船を見る。
「無茶言いますね」
「戦争の命令ってのは、大体現場に無茶を言うもんだ」
一等航海士が声を上げる。
「左舷側、接近。400!」
高瀬がすぐに答える。
「速度落とすな。進路維持」
一等航海士が一瞬見る。
「維持ですか」
「ここで毎回避けたら、永遠に押し戻される」
「300」
中国海警船の白い船体が近づく。
高瀬は無線を取った。
「中国海警へ。貴船は危険な距離まで接近しています。ただちに離れてください」
返答。
「海成丸へ。ただちに停船してください。停船しなければ、さらに強制的な措置を取ります」
高瀬はマイクを置いた。
「どうぞ、と言うわけにもいかないな」
誰も笑わなかった。
「250」
まやが動く。
同時に中国海軍駆逐艦も少し前へ出る。
マスティンも針路を変える。
それぞれの艦が。
それぞれの船を守るために。
それぞれの目的を達成するために。
数百メートル。
数キロ。
数十キロの範囲へ集まり始めた。
午後3時16分
海上自衛隊護衛艦「まや」
「中国海軍駆逐艦、再び射撃管制追尾!」
電子戦員の声。
村瀬が聞く。
「継続時間」
「10秒、15秒……継続!」
「中国艦へ警告」
「実施中!」
「マスティン」
「戦闘配置。こちらとの情報共有継続」
「海成丸」
「中国海警2隻に挟まれつつあります」
村瀬は前方を見る。
「こちらを海成丸左へ寄せる」
副長が言う。
「中国海警との距離がかなり近くなります」
「分かってる」
「中国駆逐艦も前進しています」
「それも見えてる」
村瀬は一度息を吐いた。
「武器使用はまだ許可しない。CIWS、艦砲、VLS、全部即応状態を維持。ただし誰も勝手に撃つな」
「了解」
「向こうが本当に撃つ兆候が出たら」
副長が待つ。
村瀬は少し黙った。
「その時は俺が決める」
「了解」
まやは海成丸との距離を詰めていく。
中国側のレーダー警報は消えない。
午後3時21分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「中央から追加命令です」
通信士が言った。
周が文面を見る。
短い。
海成丸の台湾到達を阻止せよ。
その下。
日本および米軍艦艇に対する先制攻撃は禁止。
周はしばらく文面を見続けた。
作戦参謀も読んでいる。
「両方ですか」
「そう書いてある」
「海警では止まりません」
「止めろ」
「日米艦を撃たずに」
「そうだ」
作戦参謀が画面を見る。
海成丸。
まや。
マスティン。
中国海警。
中国海軍。
「どうやって止めろというんです」
周は数秒答えなかった。
台湾戦線の報告、B-2、DEFCON 3、日米艦隊。
全部が同じ画面の中にある。
そして周には、もう一つ見えていた。
もし海成丸がこのまま抜ければ。
この航路は、次の船にも使われる。
今日の1隻が、明日の2隻目を呼ぶ。
だから通せない。だが、撃てば。
今度は別の前例が生まれる。
日本船を中国が攻撃したという前例が。
周は目を閉じかけ、やめた。
「現場に伝えろ」
「何と」
周は文面を見ながら答えた。
「命令どおりだ」
作戦参謀が周を見る。
「それだけですか」
「それ以上、言えることがない」
通信士が命令を送る。
周は海成丸周辺を拡大した。
日本の護衛艦、米国の駆逐艦、中国海警、中国海軍。
互いのVLSには実弾が入っている。
艦砲にも。
近接防御火器にも。
航空機の翼下にも。
太平洋の向こうではB-2が西へ向かい、米軍はDEFCON 3へ移行していた。
それでも。
この海域ではまだ。
誰も撃っていなかった。
午後3時29分
東シナ海
中国海警船が再び海成丸の前へ出た。
距離500メートル。
400。
300。
高瀬が前方を見る。
「このままだとぶつかる」
一等航海士が速度計を見る。
「向こう、減速しません」
「こっちも今から止まりきれない」
まやがさらに間へ入る。
マスティンも右側から接近する。
その向こう。
中国052D型駆逐艦。
電子戦装置の警報が、まやの艦内で鳴り続けている。
中国海軍側でも。
日本艦と米艦のレーダー活動が監視されていた。
海成丸。
距離250メートル。
中国海警。
200。
高瀬が手すりを握る。
「右5度」
「右5度!」
中国海警船も針路を変える。
「追ってきます!」
「分かってる!」
まやがさらに前へ出る。
中国駆逐艦の火器管制レーダーが、再びまやを捉えた。
マスティンではVLSと艦砲が即応状態。
まやでも同じ。
中国側でも同じだった。
誰も撃つなと言われていた。
同時に。
誰も通すなとも言われていた。
誰も退けとも言われていなかった。
その3つの命令はもう、同時には守れなくなりつつあった。