2030年8月25日 午後3時31分
東シナ海
海上自衛隊護衛艦「まや」
中国海警船と海成丸の距離が200メートルを切ろうとしていた。
まやの戦闘指揮所では、中国駆逐艦からの射撃管制追尾を示す警報が続いている。電子戦員が表示を確認しながら、同じ中国艦がこちらを安定して追尾していることを繰り返し報告していた。
「照射継続。052D型、追尾精度に変化ありません」
村瀬は戦術画面を見た。
海成丸の左前方に中国海警船。右側からも別の海警船が寄っている。そのさらに外側にマスティンが位置し、中国海軍の052D型と054A型が後方から距離を詰めていた。
「こちらも中国駆逐艦を射撃管制追尾する」
副長が村瀬を見る。
「射撃管制まで入れますか」
「向こうがこちらを撃てる状態まで持っていってる。発射を確認してから諸元を作り始めたんじゃ遅い。追尾だけだ。射撃許可は出さない」
「了解」
数秒後、まや側の射撃管制系が中国駆逐艦を精密追尾へ移行した。
電子戦員が別の情報を拾う。
「マスティンも中国駆逐艦を射撃管制追尾しています」
村瀬は少しだけ顔をしかめた。
「これで向こうから見れば、こっちも撃つ直前だな」
副長が答える。
「こちらには撃つ意図はありません」
「向こうも同じこと言ってるかもしれん」
その時、前方監視員から報告が入った。
「中国駆逐艦、主砲塔旋回!」
村瀬が艦橋前方を見る。
距離はある。しかし双眼鏡を使えば、中国052D型駆逐艦の艦首にある130ミリ主砲がゆっくり動いているのが分かった。
完全にこちらへ砲口を合わせているのか、それとも射界へ入れているだけなのか。この距離と角度では断定できない。
だが、射撃管制レーダーで追尾された状態で主砲が動けば、受ける側にとって意味は一つしかなかった。
村瀬が命じた。
「主砲、目標方位へ。ただし射撃禁止。安全装置を勝手に外すな」
「了解」
まやの艦首にある主砲塔が旋回を始めた。
ゆっくりと。
海面の向こうにいる中国艦の方角へ。
ほぼ同時に、マスティンの5インチ砲も動いた。
日本の護衛艦。
米国の駆逐艦。
中国の駆逐艦。
3隻の主砲が互いのいる方向へ向き始める。
それぞれの射撃管制装置は、すでに相手を追っていた。
だが、まだ誰も引き金を引いていない。
村瀬が艦橋へ言った。
「海成丸から離れるな。向こうが撃つまで、こちらからは撃たない。ただし、撃ってきた瞬間に迷うな」
副長が頷いた。
「了解」
村瀬は戦術画面から目を離さなかった。
「本当に嫌な距離になったな」
午後3時33分
中国海警船
海成丸は止まらなかった。
放水を受けても。
進路を塞がれても。
何度停船を命じられても。
速度を落としながら、それでも南へ進んでいる。
中国海警船の艦橋からは、大型RO-RO船の白い船体がはっきり見えていた。
その左には、まや。
右後方には、マスティン。
さらに外側には中国海軍の052D型駆逐艦と054A型フリゲート。
海警指揮官は双眼鏡を下ろした。
「距離」
「約400メートル。海成丸、依然として航行継続」
「停船命令は」
「繰り返しています。応答はありますが、停船を拒否しています」
「日本艦は」
「海成丸との間へ入ろうとしています」
「海軍は」
「日本艦と米艦を追尾中。発砲禁止命令は継続しています」
指揮官の表情が少しずつ硬くなっていた。
中央から来ている命令は明確だった。
海成丸を台湾へ到達させるな。
だが。
沈めろとは書いていない。
撃てとも書いていない。
海軍には、日本と米国の艦艇へ先に発砲するなという命令まで出ている。
副官が言った。
「再度、前方へ回り込みますか」
「さっきやった」
「放水を継続します」
「それもやった」
「臨検要求を」
「何回目だ」
副官は黙った。
海成丸がゆっくりと右へ舵を切る。
衝突を避けながら、海警船の横を抜けようとしていた。
そのさらに外側を、まやが追う。
中国海警船の艦橋にいる誰の目にも、このままなら日本船が自分たちを抜けることが分かった。
海警指揮官が低く言った。
「前方海面へ警告射撃」
副官が振り返った。
「発砲しますか」
「1発だ。十分前へ落とせ」
「中央への確認を」
「している時間があるか?」
副官が言葉を止めた。
指揮官が続ける。
「船体は狙わない。止まれと分からせるだけだ」
数秒後。
射撃部署へ命令が送られた。
「警告射撃。海成丸前方海面。1発」
艦首の76ミリ砲がゆっくりと方位を修正した。
午後3時34分
海成丸
乾いた発砲音が海面を走った。
高瀬が顔を上げる。
次の瞬間。
海成丸の前方に大きな水柱が立った。
一等航海士が叫ぶ。
「発砲!」
艦橋の空気が一瞬で変わった。
高瀬が双眼鏡を上げる。
「どこからだ」
「中国海警!」
「着弾位置」
「前方約300!」
機関長が高瀬を見る。
「止めますか」
高瀬は答えなかった。
海面に立った水柱が崩れていく。
警告だ。
少なくとも、今の1発は。
通信担当が中国海警へ呼びかける。
「中国海警へ。ただちに発砲を中止してください。本船は民間船です。危険な行為を中止してください」
返答。
「直ちに停船せよ。停船しない場合、必要な措置を講ずる」
高瀬が聞く。
「必要な措置、か」
一等航海士が言う。
「次も撃つ気です」
「だろうな」
高瀬は速度表示を見る。
「少し落とせ。ただし停船しない」
「了解」
中国海警船。
「日本船、停船せず」
海警指揮官は前を見る。
「もう1発」
副官が聞く。
「同じ位置ですか」
「近づけろ。ただし船体からは十分離せ」
「了解」
艦首の76ミリ砲が再び火を噴いた。
第2射。
海成丸右前方。
1発目より近い。
水柱が立った瞬間、海水が雨のように船体へ降りかかった。
「2発目!」
「距離、約150!」
機関長が言う。
「近づいてます」
「分かってる」
高瀬は中国船から目を離さなかった。
「進路維持」
「船長」
「ここで止まったら、向こうは撃てば止まると覚える」
「次は当たるかもしれませんよ」
高瀬は少しだけ機関長を見る。
「だから、まやがいる」
その名前を口にした直後。
左側を航行していたまやが、さらに海成丸へ寄った。
中国海警船。
「日本艦接近」
「海成丸は」
「なお航行中」
指揮官の顎がわずかに動いた。
「3発目」
副官が今度はすぐには復唱しなかった。
「指揮官」
「何だ」
「十分伝わっています」
「ではなぜ止まらない」
返事はなかった。
「前方へ。もっと近く」
76ミリ砲が3度目の発砲。
海成丸のすぐ前方で海面が爆ぜた。
水柱が船橋からもはっきり見えるほど近かった。
艦橋の窓へ海水が叩きつけられる。
一等航海士が反射的に身を引く。
「近い!」
機関長が叫ぶ。
「これ以上は警告じゃない!」
高瀬は答えなかった。
前方では中国海警船がなお進路を塞ごうとしている。
このまま直進すれば衝突する。
「右、5度」
操舵員が復唱する。
「右5度」
海成丸の大きな船体が、ゆっくり右へ動き始めた。
中国海警船もそれに合わせて位置を変える。
両船の間隔が変わる。
海警指揮官は、その光景を見ていた。
3発撃った。
それでも日本船は止まらない。
さらに、日本の護衛艦が横から割り込もうとしている。
副官が言った。
「もう海軍に任せるべきです」
指揮官が振り向いた。
「海軍には撃つなと命令が出ている」
「では上級司令部へ」
「その間に通る」
「ですが」
指揮官は窓の外を見た。
台湾へ向かう日本船。
それを守る日本艦。
後方には米艦。
自分たちは、放水し、進路を塞ぎ、停船を命じ、3発まで撃った。
それでも船は進んでいる。
このまま通せば。
何のためにここにいる。
指揮官が言った。
「船体へ1発」
副官の顔が変わった。
「……船体ですか」
「そうだ」
「警告射撃ではありません」
「分かっている」
「許可がありません」
「停船させろという命令はある」
「武器使用の許可ではありません」
指揮官が副官を見る。
声は荒げなかった。
「では、お前ならどう止める」
副官は答えられなかった。
指揮官は前を見る。
「機関部は狙うな」
「……」
「喫水線も避けろ。上部だ」
副官が息を呑む。
「航行不能にはできません」
「それでいい」
指揮官は低く言った。
「止まれと分からせる」
「ですが、日本艦が」
「だから今しかない」
数秒。
副官はそれ以上止められなかった。
命令が射撃部署へ伝わる。
「第4射。海成丸船体上部」
射撃員が聞き返した。
「船体ですか」
「船体上部。機関区画、喫水線を避けろ」
射撃員が一瞬だけ手を止める。
これまでとは違う。
海へ落とす弾ではない。
目標は船だ。
海成丸そのもの。
射撃管制装置は、すでにその位置を追い続けていた。
距離。
方位。
速度。
針路。
海成丸が右へ変針した情報も更新される。
76ミリ砲の砲身がわずかに動いた。
「射撃諸元良好」
海警指揮官が言った。
「撃て」
4発目。
海成丸
高瀬には、水柱が上がらないことが先に分かった。
76ミリ砲の発砲音。
数秒。
その次に来たのは、海ではなく金属を殴りつける音だった。
轟音。
右舷上部が弾けた。
鋼板が裂ける。
破片が周囲へ飛散する。
船体が震えた。
艦橋の窓が激しく鳴り、棚に置かれていたものが床へ落ちる。
一等航海士が手すりを掴んだ。
「被弾!」
高瀬が叫ぶ。
「場所!」
船内電話。
複数の声が重なる。
「右舷上部!」
「外板損傷!」
「負傷者!」
「火災!」
高瀬がマイクを掴む。
「火災区画を隔離! 負傷者救護! 甲板へ不用意に出るな!」
機関長が計器を見る。
「機関は正常!」
「操舵は」
「問題なし!」
また船内電話。
「右舷上部、小規模火災! 消火開始!」
一等航海士が窓の外を見る。
裂けた外板付近から黒い煙が船体に沿って流れている。
「船長」
高瀬は中国海警船を見ていた。
「これは外れたんじゃない」
誰も答えなかった。
「狙った」
数秒後。
機関長が聞く。
「航行は」
高瀬は前を見た。
台湾方向。
煙。
その向こうに中国海警。
「まだ動けるか」
「動けます」
高瀬は短く言った。
「なら動く」
その言葉の直後。
左側を航行していたまやが動いた。
午後3時35分
海上自衛隊護衛艦「まや」
「海成丸被弾!」
報告が戦闘指揮所へ飛び込んだ。
村瀬が振り返る。
「発射元!」
「中国海警船!」
「使用火器」
「76ミリ砲!」
「命中箇所」
「右舷上部!」
「発砲継続は!」
「現在なし!」
村瀬は即座に命じた。
「海成丸と海警船の間へ入る!」
「了解!」
「主砲、中国海警を追尾!」
副長が村瀬を見る。
「射撃管制まで入れますか」
「入れろ」
「了解」
「ただし撃つな」
一瞬。
村瀬が付け加えた。
「次に撃ったら反撃する」
その意味を理解した者から順に、短く返事をした。
「了解」
まやが大きく舵を切る。
艦首が中国海警船の方角へ振れる。
主砲塔も動く。
中国海警船。
「日本艦、急速接近!」
海警指揮官が前を見る。
まやが海成丸との間へ入り込んでくる。
先ほどまで遠くにあった灰色の船体が、急速に存在感を増していく。
「日本艦から射撃管制レーダー!」
副官が指揮官を見る。
「撃たれます」
指揮官は答えなかった。
「主砲はこちらを向いています!」
「砲撃を中止」
副官が一瞬固まる。
「すでに中止しています」
「再射撃するな」
「了解」
指揮官は海成丸を見る。
止まっていない。
煙を上げながら。
まだ進んでいる。
4発。
最後の1発は船体へ当てた。
それでも止まらなかった。
「……なぜ止まらない」
副官は答えなかった。
まや。
「中国海警、射撃停止!」
「主砲は」
「再射撃動作なし!」
村瀬が言う。
「そのまま追尾。撃たない限りこちらも撃つな」
「了解」
「中国海警へ通告。本艦は日本国籍船を保護する。海成丸に対するさらなる武器使用を確認した場合、必要な措置を取る」
通信が送られる。
海警は撃たない。
まやも撃たない。
ほんの数十秒。
撃った側と撃たれた側が、互いに主砲を向けたまま止まった。
だが。
その光景を見ていたのは、海警と海自だけではなかった。
さらに後方。
中国海軍052D型駆逐艦。
「日本艦、海警船へ射撃管制追尾!」
報告が飛ぶ。
「主砲、海警船方向!」
艦長が戦術画面を見る。
「海警の発砲は」
「停止しています」
「日本艦は」
「接近継続」
「米艦」
「マスティンも前進。射撃管制波を確認!」
艦長の表情が変わった。
海警が日本船を撃った。
日本の護衛艦が海警の前へ出た。
主砲を向けた。
射撃管制を開始した。
その後ろから米艦まで来ている。
副長が言う。
「日本艦は海警への反撃準備に入った可能性があります」
「日本側から通信!」
通信士が読み上げる。
「海成丸は中国海警から砲撃を受けた。本艦は日本国籍船保護のため行動している。さらなる攻撃を中止せよ。本艦に発砲の意思はない」
副長が言う。
「発砲意思はないと言っています」
艦長は画面を見る。
「なら、なぜ射撃管制している」
誰も答えない。
「海警を撃たれたら」
副長が言う。
「我々は対応を求められます」
艦長が聞く。
「東部戦区命令は」
「日本および米軍艦艇への先制攻撃禁止」
「海警が攻撃された場合は」
「明示されていません」
その一言が重かった。
撃つな。
だが。
味方が撃たれるのを見ていろとも言われていない。
午後3時36分
中国海軍052D型駆逐艦
「日本艦、さらに変針!」
まやは海成丸を自らの後方へ置くため、再び舵を切っていた。
だが、中国海軍側の画面では別の意味に見える。
「我が艦方向へ艦首変化!」
「日本艦主砲、方位変化!」
「射撃管制追尾継続!」
艦長が聞く。
「我が艦も追われているのか」
「はい! 海警船から我が艦へ追尾対象変更!」
副長が艦長を見る。
「日本艦、我が艦への射撃準備に入った可能性」
艦長は一瞬黙った。
「米艦は」
「我が艦を射撃管制追尾!」
2隻。
日本。
米国。
こちらを見ている。
その直前には、自国の海警船が日本の民間船を76ミリ砲で撃った。
ここで日本側が反撃しても、おかしくない。
艦長は分かっていた。
同時に。
日本側も、自分たちが海警を守るために撃つと思っているはずだった。
副長が低く言う。
「東部戦区からは撃つなと」
「分かっている」
「日本艦はまだ撃っていません」
「それも分かっている」
通信士が再び言う。
「日本艦から通信。発砲意思なし。中国海警による攻撃中止を要求」
艦長は戦術画面を見続けた。
射撃管制波。
日本艦の主砲。
米艦の主砲。
相対距離。
針路。
速度。
すべてが戦闘直前の状態だった。
「日本艦主砲、我が艦にほぼ正対!」
艦長の目が止まる。
「発砲は」
「まだ!」
まだ。
その言葉が、艦長の中に残った。
まだ撃っていない。
なら。
次は。
「警告射撃」
副長が振り向いた。
「艦長」
「日本艦前方へ1発」
「東部戦区命令は」
「日本艦そのものは撃たない」
「ですが」
「前方海面だ」
艦長は言った。
「こちらに撃つ意思がないことも、これ以上接近するなという意思も伝える」
副長は数秒迷った。
「船体には」
「絶対に当てるな」
砲術士官が命令を復唱する。
「130ミリ主砲。日本艦前方海面。警告射撃1発」
午後3時36分49秒
東シナ海
中国駆逐艦の130ミリ主砲が火を噴いた。
まや。
「中国艦発砲!」
村瀬が声を上げる。
数秒後。
前方海面に巨大な水柱。
「着弾!」
「位置!」
「前方約300メートル!」
「本艦への命中なし!」
「中国艦、射撃管制継続!」
村瀬が戦術画面を見る。
「警告射撃か」
「可能性!」
「こちらからは撃つな」
副長が見る。
「艦長」
「まだ当ててない」
村瀬は中国艦を見る。
「向こうにも引き返す場所を残せ」
中国駆逐艦。
「第1射、前方約300。日本艦、航行継続」
艦長が聞く。
「変針は」
「ありません」
「射撃管制」
「継続」
副長が言う。
「警告は伝わっています」
艦長が答える。
「伝わっているのに止まらない」
「日本艦は海成丸を防護しています」
「その先には我々がいる」
数秒。
艦長が言った。
「もう1発」
副長が顔を上げる。
「近づけるんですか」
「前方。1発目より近く」
「船体は」
「狙うな」
砲術士官が新しい着弾点を設定する。
まやそのものは火器管制レーダーが正確に追尾している。
そこから予測される未来位置。
そのさらに前。
意図的に外した海面。
「諸元入力完了」
「撃て」
第2射。
130ミリ砲が轟いた。
今度の水柱は近かった。
まや右舷前方。
海水と細かな破片が前甲板へ降りかかる。
「2発目!」
「右前方!」
「距離!」
「約100メートル!」
村瀬が叫ぶ。
「中国艦へ最終警告! 直ちに射撃を中止せよ!」
通信士が送る。
「こちらに発砲意思はない。中国艦は直ちに射撃を中止せよ」
副長が言う。
「艦長、次は」
村瀬は遮った。
「分かってる」
まやは海成丸との位置を維持するため、わずかに針路を変えた。
ほんの数度。
人間が甲板に立っていても、ほとんど分からないほどの変化。
だが。
数秒先の海面へ砲弾を落とそうとしている側には違った。
中国駆逐艦。
「日本艦、変針」
「こちらから離れるか」
「いいえ。相対距離、なお減少」
「主砲は」
「我が艦方向」
「射撃管制」
「継続」
艦長の顎に力が入る。
1発目。
止まらない。
2発目。
それでも止まらない。
副長が言った。
「これ以上撃てば、誤解されます」
艦長が見る。
「もう十分誤解されている」
「なら中止を」
その瞬間。
「日本艦、再び方位変化!」
「我が艦方向へ!」
「米艦も前進!」
報告が重なる。
艦長は決めた。
「もう1発」
副長が振り返る。
「3発目です」
「分かっている」
「どこへ」
「前方ぎりぎり」
副長が黙る。
艦長が付け加えた。
「船体には絶対に当てるな」
砲術士官が復唱する。
「第3射。130ミリ主砲。日本艦前方至近海面。船体への命中を避ける」
射撃諸元が修正される。
射撃管制装置は正常だった。
レーダーも。
測距も。
130ミリ主砲も。
まやの現在位置は正確に追えている。
だが。
砲弾を当てたい場所は、まやではなかった。
その数秒先。
まやの前にあるはずの海。
そこを人間が指定していた。
「方位修正」
「入力」
「距離補正」
画面上の数字が変わる。
その時。
「日本艦、変針継続!」
砲術士官が視線を動かす。
まやの新しい航跡。
予測位置がずれる。
「着弾点を更新します」
さらに別の声。
「米艦から射撃管制継続!」
「日本艦との距離減少!」
「主砲、こちらを指向!」
戦闘指揮所に声が重なる。
砲術士官が警告射撃用の着弾点を修正する。
新しい数値。
古い数値。
一瞬だけ、2つの情報が画面の中に並ぶ。
「待ってください」
副長が聞く。
「何だ」
「日本艦が動いています。着弾点を再計算」
その時、別の砲術要員が報告した。
「主砲、発射準備完了」
艦長が即座に命じる。
「撃て」
砲術士官が顔を上げた。
「待て、まだ」
その声は砲声に消えた。
第3射。
130ミリ砲弾が砲口を離れた。
もう戻せない。
砲術士官は画面を見た。
まやの最新予測位置。
警告射撃の着弾点。
距離が近い。
近すぎる。
「……まずい」
副長が振り返る。
「何が」
砲術士官は答えなかった。
まや
「3発目!」
村瀬が前を見る。
水柱を待った。
1発目も。
2発目も。
海だった。
なら。
3発目も海へ落ちる。
そのはずだった。
数秒前なら。
そこには海しかなかった。
衝撃。
爆発音。
金属が引き裂かれる。
艦首側から強烈な振動が走った。
床が跳ねる。
艦橋の窓が震え、戦闘指揮所の照明が瞬間的に揺れた。
警報が一斉に鳴る。
「被弾!」
村瀬が手すりを掴んだ。
「場所!」
被害管制回線が叫ぶ。
「艦首右舷側、前甲板付近! 火災発生!」
「VLS区画は?」
返答がない。
「VLSは!」
「確認中!」
別の声。
「前甲板右舷側に破孔! 周辺構造損傷!」
「負傷者複数!」
「救護班向かっています!」
煙が艦橋前方を流れた。
焦げた金属の臭いが換気を通じて微かに入り込んでくる。
「VLS区画、直接被害なし!」
「延焼は!」
「現在なし!」
戦闘指揮所の誰かが、ごく短く息を吐いた。
だが、安堵する時間はなかった。
「中国艦、射撃管制継続!」
「130ミリ主砲、再装填動作!」
「ミサイル発射兆候なし!」
村瀬は戦術画面を見た。
海成丸。
中国海警。
中国駆逐艦。
マスティン。
ほんの数分前まで。
誰も戦争を始めようとはしていなかった。
海警は船を止めようとした。
まやは船を守ろうとした。
中国海軍は海警を守ろうとした。
そして今。
自分の艦に穴が開いている。
副長が村瀬を見る。
「艦長」
村瀬は一度だけ息を吸った。
迷いはなかった。
「反撃する」
戦闘指揮所の空気が変わった。
「主砲、中国駆逐艦」
「了解!」
すでに射撃諸元はできていた。
それまで。
撃たないために準備していた数字だった。
「主砲、目標よし!」
「射撃用意よし!」
村瀬が中国駆逐艦の表示を見る。
ほんの数分前まで。
撃たないために、互いを見ていた。
今は違う。
「打ち方始め」
号令が復唱される。
「打ち方始め!」
まやの5インチ砲が火を噴いた。
午後3時37分
米海軍駆逐艦マスティン
「中国駆逐艦、まやへ命中!」
戦闘指揮所で声が飛んだ。
「まや反撃!」
艦長が聞く。
「中国海警は」
「射撃停止継続!」
「中国海軍からこちらへの射撃管制」
「継続!」
「主砲」
「方位変化!」
艦長は戦術画面を見る。
ここまでは待った。
海成丸が撃たれた時も。
まやが海警を射撃管制した時も。
日本側が撃たない限り、自分たちが先に戦争を始めることだけは避けた。
だが。
今。
中国海軍はまやへ130ミリ砲弾を命中させた。
そして、まやは反撃した。
線はもう消えている。
「中国駆逐艦への交戦を許可」
副長が聞く。
「ミサイルも?」
「まだだ。艦砲から」
「了解」
「対艦ミサイル発射兆候が出たら、その時は待つな」
「了解!」
マスティンの5インチ砲が旋回を終える。
「射撃準備完了」
艦長が言う。
「撃て」
発砲。
数秒後。
中国駆逐艦近傍に水柱が立つ。
次弾。
命中。
中国側も反撃した。
東シナ海から、それまであった最後の静けさが消えた。
主砲。
着弾。
警報。
無線。
複数の軍艦が互いに撃ち始める。
海成丸
高瀬は艦橋から、その光景を見ていた。
右舷上部ではまだ煙が出ている。
少し離れた海上で、まやの主砲が火を噴く。
さらに向こうでマスティンも発砲する。
中国艦からも火光。
機関長が言った。
「始まりましたね」
高瀬はしばらく答えなかった。
「いや」
機関長が見る。
高瀬は前方を見たまま言った。
「台湾では昨日から始まってる」
短い間。
「こっちにも来たんだ」
午後3時39分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「交戦発生!」
情報参謀の声が響いた。
周が振り返る。
「誰が最初に撃った」
「海警です」
「警告射撃か」
情報参謀が一瞬黙った。
周がその沈黙に気づく。
「答えろ」
「最初の3発は76ミリ砲による前方海面への警告射撃です」
「最初の?」
また沈黙。
周の声が低くなる。
「4発目は」
「……海成丸船体へ射撃しました」
会議室から音が消えた。
周が情報参謀を見る。
「事故か」
「いいえ」
「もう一度言え」
「現場指揮官判断で、航行停止を強制するため76ミリ砲による船体上部への限定射撃を実施しました。機関区画と喫水線を避けるよう指示しています」
周は数秒動かなかった。
「誰が許可した」
「上級司令部からの明示的な武器使用許可は確認できていません」
「海成丸は止まったか」
情報参謀は答えにくそうにした。
「……いいえ」
周が目を閉じる。
「続けろ」
「海成丸被弾後、まやが海警船との間へ入り、海警船を射撃管制追尾。主砲を指向しました」
「日本は撃ったか」
「その時点では撃っていません」
「海警は」
「4発目以降、射撃を停止」
「ではなぜ海軍が撃った」
作戦参謀が答える。
「052D型艦長が、まやによる海警への攻撃準備と判断しました。加えてマスティンからも射撃管制追尾を受けたため、日本艦前方への警告射撃を実施」
周が聞く。
「何発」
「3発」
「3発目は」
情報参謀が答える。
「130ミリ砲弾がまやへ命中」
周が目を開けた。
「狙ったのか」
「いいえ。前方海面への警告射撃です。まやの変針に対する射撃諸元の更新が間に合わず、警告射撃用着弾点と日本艦の未来位置が重なった可能性が高いとの報告です」
「日本はその前に撃ったのか」
「いいえ」
「まやへの命中後は」
「日本艦が反撃。直後、米艦マスティンも中国駆逐艦への砲撃を開始しました」
作戦参謀が言った。
「日本艦は射撃管制を行い、主砲を指向していました。中国艦側としては自衛措置だったと説明できます」
周がゆっくり彼を見る。
「日本も同じ説明をする」
「しかし、日本艦が先に射撃管制を」
「海警が日本船を撃った後だ」
作戦参謀が黙った。
「しかも76ミリ砲で船体を狙った」
「……はい」
周が聞く。
「海軍への射撃管制は」
「海警への射撃管制後です」
「こちらはその前から日本艦を追尾していたな」
誰も答えない。
周がもう一度聞く。
「そうだな」
「……はい」
「日本が撃つと思ったから、海軍は先に警告射撃をした」
「はい」
「日本側も、こちらが撃つと思ったから射撃準備をした」
情報参謀が小さく頷く。
周は大型画面を見る。
海成丸。
まや。
マスティン。
中国海警。
中国海軍。
数分前まで、すべての艦が同じ海を走っていた。
今は、発砲を示す表示で埋まっている。
周が静かに言った。
「海警は船を止めたかった」
誰も答えない。
「海軍は海警を守ろうとした」
沈黙。
「日本艦は自国船を守ろうとした」
さらに沈黙。
「米艦は日本艦を守った」
周は椅子へ座った。
「それで全員が撃っている」
作戦参謀が何か言おうとした。
周は遮った。
「だから撃つなと言ったんだ」
午後3時43分
東京都千代田区・首相官邸
会議室へ入ってきた防衛関係者は、紙を持っていなかった。
「海成丸が中国海警から砲撃を受け、76ミリ砲弾1発が船体に命中しました。複数の負傷者が出ています」
首相が立ち上がる。
「死亡者は」
「現時点で確認中です」
「まやは」
「中国海軍052D型駆逐艦から130ミリ砲による砲撃を受けました。少なくとも1発が艦首右舷側の前甲板付近に命中。火災と人的被害が発生しています」
首相の表情が変わった。
「海軍か?」
「はい。中国人民解放軍海軍です」
「間違いない?」
「ありません」
「VLSは」
「現時点で直接被害は確認されていません。航行能力も維持しています」
「こちらから撃った?」
「まやは中国側からの砲撃を受ける前から射撃管制追尾を行い、主砲を中国艦方向へ指向していました。ただし、最初の発砲は中国側です。まやは被弾後に反撃しました」
黒田が首相を見る。
「マスティンも交戦に入りました」
首相は数秒何も言わなかった。
「つまり」
防衛関係者が答える。
「中国海警が日本国籍の民間船へ実弾を命中させ、その直後、中国海軍が海上自衛隊護衛艦へ砲撃を行いました」
「日本人に死傷者が出ていて、自衛隊も攻撃された」
「はい」
首相は椅子へ戻らなかった。
「法制局、防衛省、外務省。武力攻撃事態の認定に必要な整理を今すぐ始めろ。米国にも連絡。日米安全保障協議を緊急で開く」
黒田が聞く。
「国民への発表は」
首相は少し考えた。
「確認できた事実だけを出す。中国が台湾を攻撃していることと、日本の船と自衛艦が攻撃されたことを混ぜるな。今日何が起きたか、誰が見ても分かるように説明する」
「はい」
首相が大型画面を見る。
海成丸から煙。
まやの艦首からも煙。
「昨日までとは違う」
黒田は答えなかった。
午後3時48分
沖縄県・嘉手納飛行場
警報が鳴った。
それまで数日間続いていた分散や警戒のための発進とは、全く違う意味だった。
格納庫周辺では地上要員が一斉に動き、待機していた戦闘機のエンジンが次々と始動する。武装確認が行われ、航空機は短い間隔で誘導路へ出ていった。
早期警戒機。
空中給油機。
戦闘機。
電子戦支援に用いられる航空戦力。
それぞれが、あらかじめ決められていた任務へ移行する。
管制官の声。
「第1編隊、発進許可」
戦闘機が滑走路を加速し、空へ上がる。
続いて2機。
さらに次の編隊。
これまでの発進は、地上に並べておかないためのものだった。
今回は違った。
南西諸島周辺へ戦闘空中哨戒線を作り、中国軍機や巡航ミサイルが日本側空域へ接近した場合に迎撃するための発進だった。
基地内では、弾道ミサイル警報に備える部署も即応へ移る。
誰も「台湾の戦争」という言葉を使っていなかった。
午後3時53分
航空自衛隊那覇基地
「南西方面、戦闘空中哨戒開始」
指揮所で命令が出た。
すでに待機していた戦闘機が滑走路へ向かう。
別の基地から南下してきた増援機。
早期警戒機。
空中給油機。
地上防空部隊。
それぞれが事前計画に従って動き始めた。
副長が報告する。
「嘉手納の米軍機も大規模発進。日米で空域調整開始しています」
指揮官が聞く。
「中国軍機の動きは」
「台湾周辺では大規模活動継続。一部が北東方向へ活動範囲を広げています」
「日本領空への侵入は」
「現時点ではなし」
「でも来る可能性がある」
「はい」
指揮官は戦況図を見る。
「CAPを維持。弾薬使用基準は更新された命令に従え。まだ中国と全面交戦ではないが、こちらが撃たれていることは忘れるな」
「了解」
午後4時02分
沖縄県那覇市
一般車両が走っていた道路脇で警察車両が交通を止めた。
自衛隊車両の隊列が通過する。
発射機。
レーダー装置。
射撃管制装置。
通信車。
電源車。
PAC-3部隊だった。
数日前から沖縄県内の複数地点へ移動準備を進めていた部隊が、事前に選定されていた展開地点へ入り始めている。
発射機が所定位置へ入ると、固定作業が行われ、ミサイルキャニスターがゆっくりと空へ向いた。
近くの歩道から何人かがスマートフォンを向けていた。
しかし、最初の数分で撮影する人は減った。
テレビでは海成丸の被弾映像が流れている。
まやが砲撃を受けたという速報も出ている。
街の近くに防空ミサイルが展開する光景は、もう珍しい軍事ニュースではなかった。
自分たちの上に飛んでくるかもしれないものを迎撃するための装備だった。
午後4時08分
東京都内
テレビ各局の画面から通常番組は消えていた。
「速報 中国海警の砲撃、日本船に命中」
数分後。
「海上自衛隊護衛艦まや、中国海軍艦艇から砲撃」
さらに。
「政府、中国軍による攻撃と確認」
SNSには海成丸から撮影された映像が出始めている。
水柱。
発砲音。
突然揺れる画面。
誰かが「被弾した」と叫ぶ声。
別の映像では、まや近くの海面へ水柱が上がり、その直後に艦首付近から煙が出ていた。
数日前まで「台湾を支援すべきだ」「巻き込まれるべきではない」「米国に任せればいい」「自衛隊は出すべきではない」と割れていた議論が、一気に別の方向へ動き始めていた。
DAY -2にもテレビを見ていた会社員2人は、同じ店で画面を見ていた。
片方が言った。
「さっきまで、帰した方がいいって思ってた」
もう片方は答えなかった。
「でも、もう帰すとかそういう話じゃないよな」
「撃たれたからな」
「台湾じゃなくて」
「日本の船と自衛隊が」
2人とも画面から目を離せなかった。
午後4時17分
東京都千代田区・首相官邸
黒田が新しい資料を持って入った。
首相はすぐに聞いた。
「世論は」
「変わっています」
「どの程度」
黒田は少し迷った。
「一気です」
首相が見る。
「そんなに?」
「映像があります」
会議室の大型画面には、海成丸被弾の映像が繰り返されていた。
黒田が続ける。
「ネット上の反応も、テレビ各局の緊急調査もまだ暫定ですが、中国への強い反発が急増しています。自衛隊による防護や反撃を支持する意見も急激に増えています」
首相は画面を見る。
「昨日まで、日本が直接攻撃されていない段階で自衛隊を戦闘に入れる説明には何週間かかるか分からないと言ってたな」
「はい」
「今日は?」
黒田は答えなかった。
首相が聞く。
「何分だった」
数秒の沈黙。
黒田が低く言った。
「最悪の形で、必要だった説明が終わりました」
首相は少し顔をしかめた。
「その言い方は嫌いだ」
「申し訳ありません」
「でも事実なんだろう」
「はい」
首相は椅子へ深く座った。
「死傷者が出たことを政治的に意味があるみたいに扱うな。絶対にだ」
「承知しています」
「ただし、国民には何が起きたかを隠さない」
「はい」
午後4時26分
ワシントンD.C.
ホワイトハウス
国防長官が入室した。
「マスティンが中国海軍艦艇と交戦しました。中国側の砲撃を受けたまやへの支援として反撃。現時点ではミサイル戦には移行していません」
大統領が聞く。
「マスティンの損害」
「軽微。近弾による破片被害。負傷者数名」
「中国艦」
「複数の命中を確認。航行継続中」
「日本は」
「武力攻撃事態の認定手続きに入りました」
大統領は少し黙った。
「第5条」
国務長官が答える。
「日本の施政下にある領域への攻撃との関係は法的整理が必要ですが、中国海軍が自衛隊艦艇を攻撃し、事態が日本防衛へ直接波及している以上、共同対処について日本側と直ちに協議します。さらに日本領域や在日米軍基地への攻撃が確認されれば、条約上の位置づけは一層明確になります」
大統領が統合参謀本部議長を見る。
「中国が次にどこを叩くと思う」
「日本と米国が本格介入すると判断すれば、南西諸島の航空基地、港湾、レーダー、在日米軍施設を攻撃対象に加える可能性があります」
「嘉手納は」
「すでに航空機を上げています」
「防空は」
「PAC-3、イージス、その他の防空資産を即応。日本側も同様です」
大統領が椅子から立った。
「例の海軍案」
議長が頷く。
「5個艦隊からの戦力再配置です」
「もう準備してるな」
「数日前から」
「実行へ移せ」
「第3、第5、第6、第2も?」
大統領は世界地図を見る。
「全部だ。第7艦隊だけでこの戦争を背負わせるな」
「了解しました」
午後4時31分
太平洋・インド洋・地中海・大西洋
命令は一つの海だけに届いたわけではなかった。
第7艦隊は西太平洋ですでに臨戦態勢へ移っている。
第3艦隊では、数日前から西進準備を進めていた水上戦闘艦と支援艦が出港命令を受けた。空母打撃群にも計画変更が通知され、補給艦と攻撃型原子力潜水艦の割り当てが更新される。
インド洋方面では第5艦隊から抽出可能とされていた艦艇が東へ向かう準備を始めた。
地中海では第6艦隊隷下の一部艦艇へ、新しい航路が送られる。
大西洋側でも第2艦隊の増援候補が待機から実行準備へ移った。
5個艦隊が丸ごと一つの海へ向かうわけではない。
それぞれの海域から。
空母。
駆逐艦。
攻撃型原子力潜水艦。
補給艦。
哨戒航空戦力。
必要と判断されたものが切り出され、西太平洋へ向かい始める。
到着には時間がかかる。
数時間では来ない艦もある。
数日かかる部隊もある。
それでも。
必要になってから準備を始めるより、はるかに早かった。
午後4時44分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
情報参謀が世界規模の米軍動向を報告していた。
「第3艦隊戦力、西進開始」
周が画面を見る。
「続けろ」
「第5艦隊、インド洋側部隊再配置」
作戦参謀の表情が変わる。
「第6艦隊、一部艦艇がスエズ方面へ移動を開始。第2艦隊も出港準備から実行へ移行しています」
会議室の大型画面が世界地図へ切り替わる。
西太平洋。
東太平洋。
インド洋。
地中海。
大西洋。
複数の矢印が、ゆっくり一つの方向へ向き始めている。
作戦参謀が言った。
「早すぎます」
周は画面から目を離さなかった。
「今日決めたんじゃない」
「では?」
「我々が演習を延長した頃には、準備していたんだろう」
情報参謀が続ける。
「第7艦隊と合わせれば、5個艦隊から戦力を抽出することになります」
作戦参謀が小さく息を吐いた。
「5個艦隊……」
周は首を横に振った。
「違う」
「何がです」
「5個艦隊が来るんじゃない」
周は世界地図を見る。
「米海軍が来るんだ」
作戦参謀はしばらく黙っていた。
「到着まで時間はあります」
周が彼を見る。
「ない」
「ですが、第2や第6の部隊が西太平洋へ来るには数日以上」
「今日ここへ着く必要はない」
周は再び地図を見る。
「今日動き始めたことが問題なんだ」
「長期戦を想定した?」
「そうだ」
「そこまで?」
周は台湾と日本を表示した。
「米国は今朝まで、台湾戦争が自分たちの戦争になる可能性に備えていた」
「今は」
周は海成丸の被弾表示を見る。
「自分たちの戦争になった場合、勝つための配置へ変えている」
午後5時02分
東シナ海
海成丸
右舷上部の火災は抑え込まれていた。
高瀬は船内電話を持っていた。
「負傷者は」
「4名。うち1名重傷。意識はあります」
「搬送できるか」
「この海況なら可能ですが、周囲が交戦中です」
高瀬は窓の外を見る。
まやは艦首付近から煙を上げている。
マスティンも近くにいる。
中国側艦艇は距離を取りながら、なお戦闘態勢にある。
「医務室で持たせろ。まやにも状況を送る」
「了解」
機関長が入ってくる。
「機関は問題ありません。右舷上部の損傷も航行には直接影響しません」
高瀬が聞く。
「積荷は」
「固定状態を確認中。一部区画に破片が入りましたが、防空弾薬区画への被害は今のところなし」
高瀬は少しだけ安堵した。
「船長」
「何だ」
「まだ台湾へ行きますか」
高瀬はすぐには答えなかった。
「まやは?」
「航行可能です」
「マスティンも?」
「はい」
高瀬は前を見た。
台湾はまだ南にある。
「政府に聞く」
機関長が意外そうに見る。
「船長判断じゃないんですか」
「航海を続けられるかは俺が決める。でも、今の状況で台湾へ入れるかは、もう船1隻の問題じゃない」
少し間を置いてから続けた。
「ここまで来ると、勝手に英雄になるのが一番迷惑だ」
機関長が小さく頷いた。
「それはそうですね」
高瀬が少し笑う。
「生きて帰ったら、昨日から何回『それはそう』って言われたか数えるか」
機関長も少しだけ笑った。
その笑いは、長く続かなかった。
午後5時21分
海上自衛隊護衛艦「まや」
応急処置が続いていた。
中国艦の130ミリ砲弾は艦首右舷側の前甲板付近に命中し、甲板と周辺構造物を損傷させていた。破片は広い範囲へ飛散し、複数の乗員に死傷者を出している。
被弾直後に発生した火災は、すでにほぼ制圧されていた。
VLS区画への直接被害はない。
主砲も使用可能。
レーダー、射撃管制、通信、機関、操舵にも戦闘継続を妨げる重大な障害は確認されていなかった。
傷を負った。
だが、まやはまだ戦える。
村瀬は被害報告を聞いた。
「死者は」
「現時点で1名。重傷2名、軽傷複数」
村瀬は数秒黙った。
「家族への連絡は上に任せる。今は生きてる連中を守る」
「了解」
副長が戦術画面を見る。
「中国艦隊、距離を広げています。ただし撤退ではありません」
「こっちも撃ち続けるな。離れた相手を追いかけて戦争を広げるな」
「了解」
「海成丸は」
「航行可能。負傷者4名、うち1名重傷。火災鎮火」
村瀬は少し息を吐いた。
「高瀬船長らしいな」
「まだ南下する意思があるようです」
村瀬は一度目を閉じた。
「あの人も大概だな」
副長が少しだけ笑う。
「元海自ですから」
「それを理由にするな。あの人は今、民間人だ」
村瀬は海成丸の表示を見る。
「だから余計に守る」
午後5時38分
東京都千代田区・首相官邸
防衛大臣、外務大臣、官房長官、法制関係者、自衛隊幹部が集まっていた。
防衛関係者が説明する。
「中国海軍によるまやへの砲撃について、映像、レーダー記録、電子戦記録、マスティン側記録を照合しました。中国側が先に実弾を発射し、まやへ命中させたことに疑いはありません」
首相が聞く。
「海成丸は」
「中国海警による76ミリ砲射撃。少なくとも1発が命中。日本人乗員に負傷者」
「意図的か」
防衛関係者が答える。
「中国側の内部判断までは確認できません。ただし、着弾状況から警告射撃の単純な逸脱とは考えにくく、船体上部を狙った可能性も含め分析中です」
首相は短く頷いた。
「まやの死者」
「1名確認」
「艦の状態は」
「艦首右舷側の前甲板付近を損傷していますが、VLSを含む主要戦闘システムに重大な被害はありません。航行、戦闘とも継続可能です」
室内が静かになった。
首相はしばらく資料を見ていた。
「中国側から説明は」
外務大臣が答える。
「海成丸については『危険な航行を停止させるための警告措置であり、撃沈を目的としたものではない』。まやへの砲撃については『日本艦が射撃管制を行い、主砲を指向したことに対する自衛措置』と説明しています」
「つまり、向こうも自衛だと言ってる」
「はい」
「こちらも?」
防衛大臣が答える。
「まやの反撃は、自艦が砲撃を受けた後です。自衛措置です」
首相は少し苦い表情をした。
「双方が自衛と言って、双方が撃ってる」
黒田が言った。
「その状態です」
法制担当者が資料を開く。
「政府としては、中国人民解放軍による自衛隊艦艇への攻撃が発生し、さらに日本国籍民間船にも中国側の実弾が命中していることを踏まえ、我が国に対する組織的な武力攻撃が開始されたと評価する方向で整理可能です。ただし、認定は個別具体的な事実関係に基づきます」
首相が言う。
「個別具体的な事実関係なら、もう十分見た」
誰も返さない。
「米国は」
「共同対処に入る準備を表明しています。大統領との緊急電話会談を午後6時に設定」
「準備?」
黒田が首相を見る。
「米軍は、準備だけなら数日前から終わらせています」
首相はその言葉を聞いて少しだけ頷いた。
午後5時51分
沖縄県・南西諸島周辺
空の密度が変わっていた。
自衛隊戦闘機。
米軍戦闘機。
早期警戒機。
空中給油機。
それぞれが異なる高度と空域を使って戦闘空中哨戒を続けている。
地上ではPAC-3部隊が展開を完了し、レーダーが空を監視していた。
海上ではイージス艦が弾道ミサイル防衛と艦隊防空のための位置へ移動し、さらに後方から海上自衛隊の護衛艦が南西方面へ急行している。
佐世保。
横須賀。
呉。
舞鶴。
各基地で出港可能な艦艇の準備が続き、すでに海へ出た艦もあった。
潜水艦の位置は公表されない。
だが、動いていた。
台湾周辺だけだった戦争の地図に、日本列島南西部が完全に組み込まれ始めていた。
午後6時00分
東京都千代田区・首相官邸
ワシントンD.C.・ホワイトハウス
暗号化された回線が接続された。
日本の首相と米大統領。
双方の側には、外交、安全保障、軍事担当者が座っている。
大統領が先に言った。
「まず、亡くなった自衛官と負傷された方々に哀悼を伝えます」
首相は短く礼を言った。
「こちらも、マスティンの負傷者について承知しています」
少し沈黙。
大統領が続ける。
「中国軍によるまやへの攻撃は、我々の記録でも確認しました」
「こちらでも確認しています」
「日本政府の判断は」
首相は手元の資料を見なかった。
「我が国に対する武力攻撃が開始されたと認定する方向で最終手続きに入ります」
米側の席にいた国務長官と国防長官が小さく視線を交わした。
大統領が言う。
「米国は、日本防衛に関する条約上の義務を履行します。第5条に基づく共同対処について、直ちに日本側との調整へ入ります」
首相が少し間を置く。
「調整へ入る、ですか」
大統領は首相を見た。
「言い方が悪かった」
数秒。
「共同対処に入ります」
首相は頷いた。
「自衛隊も、中国軍による攻撃に対して必要な武力行使を行います」
「了解しました」
「ただし、台湾で起きている戦争と、日本防衛のための行動は可能な限り区別したい。こちらから無制限に中国本土への攻撃を広げるつもりはありません」
大統領が答える。
「我々も同じです。ただし、中国が日本や在日米軍基地への攻撃を拡大した場合、必要な軍事目標への攻撃を行います」
首相が聞く。
「B-2はもう出てますね」
大統領は少しだけ表情を変えた。
「知っていましたか」
「こちらにも情報は入ります」
「通常任務です。今のところ攻撃命令は出していません」
「分かっています」
首相は少し息を吐いた。
「海軍も動かした?」
「数日前から準備していました」
「どこまで」
「第7艦隊だけではありません。第3、第5、第6、第2艦隊からも戦力を抽出しています」
首相がわずかに驚いた。
「世界中から?」
「必要なものを」
「到着には時間がかかる」
「それでも今出す?」
大統領は答えた。
「1週間後に必要になってから動かしたのでは遅い」
首相は少しだけ笑った。
「同じことを、この数日ずっと聞いてる気がします」
大統領も笑わなかった。
「海成丸も同じ理由で出したんでしょう」
「そうです」
一瞬、双方とも言葉が止まった。
その船で今、日本人が負傷している。
そして、その船を守った自衛官が死亡した。
大統領が言った。
「では確認します。日本政府は中国軍による攻撃に対し、自衛隊による武力行使を開始する」
「はい」
「米軍は日本防衛と自軍防護のため、中国軍に対する必要な軍事行動を開始する」
「はい」
「日米共同で作戦調整を行う」
「はい」
大統領は少し黙った。
「これで戻れなくなる」
首相はすぐには答えなかった。
「戻れなくしたのは、我々ではないと思いたいですね」
「私もです」
また短い沈黙。
首相が言った。
「始めましょう」
大統領が頷いた。
「始めます」
通信が切れた。
午後6時09分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
情報参謀が入ってきた。
「日本政府、我が国による攻撃を武力攻撃と認定する方針を固めました」
周は何も言わない。
「米国は、日本との共同対処に入ると表明。第7艦隊は南西方面で戦闘配置を強化。第3艦隊戦力は西進、第5艦隊はインド洋側戦力を再配置、第6艦隊、第2艦隊も一部戦力を移動させています」
作戦参謀が聞く。
「日本の航空戦力は」
「南西方面で戦闘空中哨戒を開始。嘉手納からも米軍機が大規模に発進。PAC-3部隊は沖縄各地で展開。海上自衛隊護衛隊群も南西へ移動しています」
「まやは」
「航行可能。主要戦闘システムも維持しています。海成丸も航行を継続」
作戦参謀が小さく言った。
「結局、船も止められていない」
周は海成丸の表示を見る。
止めるために撃った。
だが。
船はまだ動いている。
その代わりに。
日本が動いた。
米国が動いた。
世界中の米海軍戦力まで動き始めた。
周は目を閉じた。
数日前から何度も言っていた。「日本に理由を与えるな」、「米国に理由を与えるな」
その理由は海成丸右舷上部の穴と、まやの艦首に残った130ミリ砲弾の傷と日本人の死傷者という形で、今世界中のテレビ画面に映っている。
作戦参謀が言った。
「中将」
周は目を開けた。
「何だ」
「中央から、新しい作戦指示が来ます」
「対日米?」
「その可能性が高いです」
周は大型画面を見る。
台湾。
南西諸島。
日本本土。
グアム。
太平洋。
戦域が広がっていた。
「……理由を与えてしまった」
誰も返事をしなかった。
午後6時21分
東京都千代田区・首相官邸
首相は緊急記者会見へ向かう直前、黒田に聞いた。
「自衛隊は」
「命令を受けています」
「米軍は」
「共同作戦調整を開始しました」
「中国側」
「台湾への攻撃継続。日本周辺でも航空・海上戦力の動きが増えています」
首相は扉の前で一度止まった。
「昨日まで、台湾有事だったな」
黒田は少し黙った。
「はい」
首相は記者会見場の向こうを見る。
照明。
カメラ。
待っている記者。
そして、その映像を見る日本中の人々。
首相は扉を開けた。
この時点で、日米による大規模な反撃はまだ始まっていなかった。
B-2にはまだ攻撃目標が割り当てられていない。
第3、第5、第6、第2艦隊から抽出された戦力の多くも、まだ西太平洋へ向かう途中だった。
海上自衛隊の護衛隊群も南西へ急いでいる。
嘉手納では次の戦闘機が離陸し、南西諸島ではPAC-3が空を向き、イージス艦が警戒を続けていた。
しかし、日米両政府はもう決めていた。
台湾有事は、この日、日本有事になった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ぶっちゃけると、ただただこのDay 0が書きたかった。
そのためにDay -17からここまで積み上げました。