2030年8月9日 午前5時52分
中国・福建省福州市
人民解放軍東部戦区 某指揮施設
会議室の照明は半分しか点いていなかった。
壁面いっぱいの大型スクリーンには、福建、浙江、江西、広東の地図が表示され、沿岸部の港湾や航空基地、軍港、高速道路、鉄道、さらに民間港湾まで、赤、黄、青の記号が無数に並んでいた。
「第1段階の集結率は?」
中央の席に座る男が尋ねた。
人民解放軍東部戦区副司令員、周啓明中将。58歳。細身で、眼鏡の奥の目はほとんど表情を変えない。今回の統合演習では、海空軍、ロケット軍、陸軍の動きを調整する作戦指揮の中枢に置かれていた。
作戦参謀が立ち上がる。
「軍所属部隊のみで62パーセントです」
「昨日からは?」
「9ポイント上昇しました」
「早いな」
「天候が良かったため、夜間輸送が予定より進みました」
周は黙って画面を見る。
福建沿岸には、演習参加部隊として公表予定の部隊が赤で表示され、その後方、内陸側には青い記号が点在していた。
「民間輸送を含めると?」
作戦参謀が一瞬止まる。
「71パーセントです」
周の視線が上がった。
「含めるな。あれはまだ軍の戦力ではない」
「了解しました」
隣に座る兵站参謀が資料をめくった。
「民間RO-RO船については、予定船腹の38パーセントが指定海域周辺に到着済みです」
「1か所に集めるな」
「各港3隻以内を維持しています」
「AISは?」
「原則維持しています。通常航路を外れる船だけ、一時的に通信障害扱いとしています」
周は短く頷いた。
「やりすぎるな」
若い参謀が顔を上げる。
「監視を避けるのであれば、停止した方が安全では?」
兵站参謀が横を見る。
「逆だ」
「……」
「消えれば気づかれる。見えていた方がいい」
周がその続きを引き取った。
「重要なのは、隠すことではない。見せても、相手に演習だと思わせることだ」
会議室が静かになる。
若い参謀が慎重に尋ねた。
「見せる量を調整する、ということでしょうか」
「そうだ」
周は画面上の港湾記号を指した。
「去年までの演習で見せたものを、今年も見せる。少し増やす。それ以上は見せない」
「前年との差を小さくする?」
「相手は前年と比較する。昨年より1割、2割増えた程度なら、規模拡大で説明できる」
兵站参謀が続ける。
「逆に、一度に数十隻の民間船が消えれば、説明がつかなくなります」
周は頷いた。
「人は異常を見ると疑う。なら、異常に見せなければいい」
誰も言葉を返さなかった。
午前6時14分
別のスクリーンに通信量のグラフが表示された。
「東部戦区全体の通信量は?」
通信参謀が答える。
「平時比113パーセントです」
「昨日は?」
「112パーセントです」
「増やすな」
「後方部隊の活動が増えているため、これ以上抑えるのは難しくなります」
「演習開始までは抑えろ」
「はい」
周は次の項目を見る。
「医療部隊はどうなっている」
「野戦医療部隊の前進準備が48パーセントです。予定より2ポイント進んでいます」
「病院船は?」
「2隻とも通常任務を継続中です。命令があれば短時間で転用可能です」
「まだ動かすな」
兵站参謀が顔を上げた。
「演習開始前に前進させておいた方が安全ではありませんか」
「病院船は目立つ」
周は即答した。
「駆逐艦が1隻増えるのとは意味が違う。病院船が台湾海峡方面へ動けば、日本も米国も理由を考える」
「演習中の医療支援という説明はできます」
「説明できることと、疑われないことは別だ」
兵站参謀は黙った。
周は少し間を置いてから続けた。
「我々がいま必要としているのは、説明ではない。相手に質問させないことだ」
「了解しました」
「血液製剤は?」
兵站参謀が資料を確認する。
「血液製剤、外科資材、抗生剤の備蓄は、民間医療会社名義で搬入を続けています」
「目立っていないか」
「大型病院への通常補充に分散させています」
「軍施設へ直接入れるな」
「了解」
周は画面の台湾を見た。
まだ何も始まっていない。海峡の向こうでは、人々が朝食を取り、地下鉄に乗り、会社へ向かっている。その事実を、彼は知っていた。
そして、その日常があと何日続くのかも。
午前8時36分
福建省内陸部
人民解放軍陸軍輸送部隊
「これ、本当に演習ですかね」
中尉の趙偉が小声で言った。
隣にいた上級曹長が顔を向ける。
「何が」
趙はトラックの荷台を顎で示した。
そこには木箱、医療用ケース、交換用部品、飲料水、携行食、簡易寝具が積まれ、その奥には油圧ホースや履帯部品まで収められていた。
「多すぎません?」
上級曹長が鼻で笑う。
「何が多い」
「演習は7日間でしょう」
「予定はな」
「この量、7日じゃ使い切らないですよ」
「余ったら持って帰る」
「前の演習でこんなの積みました?」
上級曹長の笑みが消えた。
「趙中尉」
「はい」
「お前の仕事は何だ」
趙は少し黙る。
「運ぶことです」
「そうだ」
上級曹長は伝票を閉じた。
「余計なことを考えるな。運べと言われたものを運ぶ。止まれと言われたら止まる。戻れと言われたら戻る。それが軍人だ」
「……了解」
趙は荷台へ視線を戻した。
箱の一つには、外科用止血資材と書かれたラベルが貼られている。
彼は何も言わず、そこから目を逸らした。
午前10時11分
中国・浙江省
空軍基地
駐機場の端に、J-20が6機並んでいた。整備員たちが機体の周囲を動き回り、その少し離れた場所では大型輸送機から地上支援機材が降ろされている。
「3番機、燃料搭載率は?」
「92パーセント」
「兵装は」
「訓練仕様」
整備主任が書類を見る。
「実弾庫の点検は?」
若い整備士が答える。
「昨夜完了しました」
「全部?」
「はい」
主任が顔を上げる。
「予備ラックも?」
「全部です」
「……分かった」
普段の演習では、そこまでやらない。
だが、誰も口にはしなかった。
整備主任は格納庫の奥へ視線を向ける。空対空ミサイル、対艦ミサイル、精密誘導兵器はすべて所定位置に収められ、封印にも異常はない。
ただし、搬出用車両だけは、いつもより兵器庫に近い位置へ配置されていた。
午前11時24分
東部戦区指揮施設
「相手の反応は?」
周が尋ねた。
情報参謀が答える。
「日本、米国、台湾とも、現時点では通常演習評価です」
「確度は?」
「高いです」
別の参謀が画面を切り替える。
「日本側は侵攻に必要な兵站規模が不足していると判断しています。米国も同様です」
周が尋ねる。
「民間船の動きは捕捉されているか」
「一部は」
「問題は?」
「ありません」
「理由は」
「昨年も演習で一部徴用しました。今年は数を分散しており、前年の延長線上に見えます」
周は何も言わなかった。
作戦参謀が続ける。
「演習参加兵力として見える部分は、前年同期比1.17倍です」
「上限は?」
「1.2倍です」
「超えるな」
作戦参謀が少し迷った。
「後続部隊を予定通り移動させれば、演習2日前には上限を超える可能性があります」
「なら後続は内陸に留めろ」
「しかし、それでは演習開始時点で一部部隊が沿岸部に到着していません」
「構わない」
作戦参謀が顔を上げる。
周は台湾沿岸の地図を指した。
「その部隊は、演習に必要な部隊か?」
「……いいえ」
「なら問題ない」
「いつまで待機させますか」
「演習前日まで」
「前日に一斉移動すれば、それこそ目立ちます」
「一斉には動かさない」
周は画面上に伸びる道路網を見る。
「陸路、鉄道、民間輸送に分ける。沿岸部へ直接入れる必要もない」
「前日までに所定位置へ到達できない部隊が出ます」
「それでもいい」
「……了解」
周が作戦参謀を見る。
「我々が急いでいると相手に思わせるな。演習のために集まっている部隊が、演習に間に合わない。それくらいでちょうどいい」
会議室の空気がわずかに変わった。
その部隊は演習参加部隊ではない。
では、何のために集められているのか。
その質問を口にする者はいなかった。
午後1時03分
福建省・民間港湾
大型RO-RO船がゆっくりと岸壁へ接近していた。船体側面には民間海運会社のロゴが描かれ、港湾作業員たちが係留索を待っている。見た目だけなら、どこにでもいる普通の商船だった。
船橋では船長が無線を切る。
「3番バースへ」
一等航海士が言った。
「荷役予定、変更されています」
「何が」
「自動車部品から一般車両」
「台数」
「127」
「多いな」
「軍ですかね」
船長が横目で見る。
「書類には民間車両とある」
「でも積み込みは夜です」
「だから?」
一等航海士は黙った。
船長は前を見る。
岸壁の奥には大型トラックが何台も止まっていた。すべて民間塗装だが、車種が揃いすぎている。
船長は何も言わなかった。
午後3時42分
中国・北京
中央軍事委員会関連施設
会議室には6人が集まり、テレビ会議画面の向こうには東部戦区の幹部が並んでいた。周啓明もその一人として参加している。
「予定との差異は」
北京側の将官が尋ねる。
周が答えた。
「許容範囲内です」
「米軍はどこまで気付いている」
「部隊増加そのものは把握しています。しかし、現時点では侵攻準備とは評価していません」
「理由は?」
「彼らが侵攻の前提と考える兆候を、まだ我々が見せていないからです」
北京側の男が目を細める。
「具体的には」
「大量の民間船徴用、野戦病院の沿岸展開、陸軍部隊の大規模な前進集結、港湾の軍事利用。それらです」
「日本は?」
「米国とほぼ同じです。南西方面の監視は強化していますが、警戒態勢の大幅な変更は確認されていません」
「台湾」
「通常警戒です」
北京側の男は椅子にもたれた。
「つまり、警戒されていないわけではない」
「はい」
「見られている」
「その通りです」
「見た上で、演習だと判断している」
周は頷いた。
「はい」
短い沈黙の後、北京側の男が小さく息を吐いた。
「それが一番いい」
別の将官が口を開く。
「ただ、相手も馬鹿ではない。この状態をいつまで維持できる」
周が答える。
「演習開始までは可能です」
「その後は?」
「演習そのものが隠れ蓑になります。艦艇が増えても、航空機が増えても、ロケット軍が動いても、それ自体は演習として説明できます」
「兵站は?」
「そこだけは違います」
周は淡々と続けた。
「兵站の規模が一線を越えれば、彼らは評価を変えるでしょう」
「なら越えないようにしろ」
「演習開始までは」
北京側の男が周を見る。
「開始後は?」
周は一瞬だけ黙った。
「その時点では、多少疑われても問題ありません」
会議室が静かになった。
北京側の男は資料を閉じる。
「予定を崩すな。早める必要もない」
「了解」
「相手が自分で納得できる説明を持っている間は、それを崩す必要はない」
誰も異論を唱えなかった。
午後6時18分
福建省・補給集積所
趙偉は朝と同じトラックの横に立っていた。
今度の積荷は水、燃料容器、発電機、衛星通信端末だった。
「中尉」
上級曹長が呼ぶ。
「はい」
「この便が終わったら休め」
「次の予定は夜中じゃ?」
「担当が変わる」
「どこへ運ぶんです」
「聞くな」
趙が少しだけ笑う。
「またそれですか」
上級曹長も笑った。
「覚えが早くて助かる」
趙も笑ったが、その表情はすぐに消えた。
遠くで別の車列が動き始めている。10台、20台。それぞれ別方向へ向かい、一斉には動かず、まとまってもいない。
だが、止まってもいなかった。
午後9時27分
東部戦区指揮施設
作戦参謀が夜間報告を読み上げる。
「本日の集結進捗、予定比プラス3.1ポイント」
「目立っていないか」
「日本側の公開衛星評価では、演習規模拡大の範囲内です」
「米側は?」
「同様です。ただし後方部隊の通信増加については継続監視している模様です」
周が顔を上げた。
「どこまで見られている?」
「通信量の増加そのものは把握しています。ただ、演習準備との評価です」
「台湾は?」
「演習対応のみ。目立った追加措置はありません」
周が椅子にもたれる。
「順調すぎるな」
作戦参謀が顔を上げる。
「何か問題でしょうか」
「順調なのは問題じゃない」
周は地図を見る。
「人間は、見たいものを見る」
作戦参謀は何も言わなかった。
周は続ける。
「相手も。我々もだ」
部屋が静かになる。
作戦参謀が慎重に尋ねた。
「我々も、ですか」
周は画面から目を離さなかった。
「そうだ」
「……」
「計画通りだから正しいとは限らない。相手が動かないから、気付いていないとも限らない」
「では」
「だから判断するな。確認しろ」
周が参謀を見る。
「『きっとこうだ』と思い始めた時が、一番危ない」
作戦参謀は小さく頷いた。
「了解」
「予定通り進めろ。ただし、毎日疑え」
「はい」
午後11時58分
福建省沿岸
夜の港で、一隻のRO-RO船の船尾ランプがゆっくりと下りていった。
岸壁には同じ形の大型車両が並んでいる。
1台目が動き、続いて2台目が船内へ入る。車体には企業ロゴが描かれ、ナンバープレートも民間用だった。
ただ、運転席の男たちは全員、同じ髪型をしていた。
姿勢も似ている。
車両を進める速度までほとんど同じだった。
荷役責任者が腕時計を見る。
「あと何台」
「43」
「0時半までに終わらせろ」
「はい」
「終わったら船は通常航路へ戻せ」
「荷を降ろさず?」
「次の港で一部だけ降ろす」
「了解」
RO-RO船の巨大な船腹へ、車両が1台ずつ吸い込まれていく。
沿岸から見れば、民間輸送だった。
衛星から見ても、おそらく同じだった。
この日、中国軍は大きく動かなかった。
少なくとも、そう見えるように動いた。
前線へ集めた兵力は演習の範囲内に収まり、港へ入った民間船も前年より少し多いだけだった。通信量も燃料消費も車両移動も、それぞれ単独で見れば説明できる数字に抑えられていた。
だが、その裏側では別のものが少しずつ増え続けていた。
弾薬と燃料。医療資材と予備部品。通信設備。そして輸送力。
それらは、最初の一発を撃つためだけのものではない。
戦争が始まった後も、それを続けるために必要なものだった。
演習開始まで、6日。