2030年8月12日 午前5時48分
中国・福建省泉州市
貨物鉄道ターミナル
「また変わったんですか?」
駅務員が紙の運行表と端末を見比べた。
運行主任は返事をせず、赤ペンで2本の貨物列車に線を引く。
「9時台の2本、午後へ回す」
「昨日も1本ずらしましたよね」
「覚えてるよ」
「じゃあ今日で3本じゃないですか」
「数えるな」
駅務員が苦笑する。
「数えるのが仕事なんですけど」
主任も少し笑った。
「そうだったな」
駅務員は画面をスクロールする。
「理由、また線路容量調整です?」
「そう書いてある」
「便利ですね、その理由」
「俺に言うな」
「旅客はそのまま?」
「そのまま。貨物だけ動かす」
駅務員の手が止まった。
「じゃあ、何か別のもの通すんですよね」
主任は顔を上げる。
「お前、最近質問多いな」
「最近、変な変更多いですから」
ホームの向こうでは、普段ならコンテナを積んだ貨車が並ぶ側線に、空の平床貨車が20両以上連なっていた。さらに奥では、作業員たちが何かを待っている。
駅務員が小声になる。
「軍ですかね」
主任はその方向を見た。
「さあな」
「主任も知らない?」
「知らされてない」
「気になりません?」
「気になるよ」
意外な返事だった。
駅務員が主任を見る。
主任は運行表を折り畳んだ。
「でも、知ったところで俺が走らせる列車は変わらない」
「達観してますね」
「違う。諦めてるだけだ」
遠くで警笛が鳴り、2人が同時に線路の先を見る。
時刻表にはない貨物列車が、朝靄の中からゆっくり姿を現した。
駅務員が呟く。
「……あれ、予定にないですよね」
主任は腕時計を見る。
「見なかったことにしろ」
「また便利なやつですね」
「覚えとけ。長く働ける」
貨物列車が、低い金属音を響かせながら構内へ入ってきた。
午前6時32分
東京都新宿区・防衛省
「今日は何だ」
佐伯直哉二等海佐が、コーヒーを机に置きながら言った。
若い分析官が振り返る。
「鉄道です」
佐伯が一瞬止まる。
「昨日は潜水艦だったよな、その前はトラックと船」
「はい」
「そのうちスーパーの特売まで見ることになりそうだな」
分析官が笑う。
「意外とそこに答えがあるかもしれませんよ」
「勘弁してくれ」
佐伯は椅子を寄せた。
画面には中国東南部の鉄道路線図が表示され、福建省沿岸へ向かう幹線に赤い印が点在している。
「で、その鉄道がどうした」
「昨日から、福建省方面の民間貨物列車でダイヤ変更が増えています」
「何本?」
「公開情報だけで14本です。遅延、時間変更、一部運休」
佐伯が眉を上げる。
「中国全土で14本なら誤差だろ」
「私もそう思いました」
「またその言い方か」
「昨日、佐伯二佐に鍛えられたので」
「嫌な鍛え方だな」
分析官が地図を拡大する。
「でも、場所が偏っています」
赤い印が福建省に集中する。
福州、泉州、厦門。
佐伯の顔から少し笑みが消えた。
「沿岸ばっかりだな」
「はい」
「理由は?」
「設備点検、貨物需要調整、線路容量調整。発表はばらばらです」
佐伯が鼻で笑う。
「理由までばらけてるのか」
「そこが気になってます」
「普通なら?」
「設備障害なら場所がもっと散る。需要変動なら時間帯ももっとばらつくはずです」
佐伯は画面を見たまま言った。
「軍用列車を割り込ませてる可能性」
「あります」
「写真は?」
「まだです」
「衛星は?」
「時間帯が悪いです」
佐伯が椅子にもたれる。
「また分からない、か」
分析官が笑った。
「昨日、何回言いましたっけ」
「数えてない」
「私は数えました」
「嫌な部下だな」
そこへ情報班長の一佐がやってきた。
「朝から楽しそうだな」
佐伯が振り返る。
「鉄道を見てました」
一佐が真顔になる。
「お前たち、とうとう軍を見なくなったのか」
「逆です」
佐伯が地図を指す。
「軍が民間を押してるかもしれません」
「どういうことだ」
若い分析官が別のグラフを出した。
「福建沿岸向けの大型トラック運賃も上がっています。昨日から8パーセント前後」
一佐が画面を見る。
「鉄道が遅れて、トラックも足りない?」
「そう見えます」
「理由は?」
分析官が答える前に、佐伯が口を挟んだ。
「そこを今から考えるところです」
一佐が佐伯を見る。
「機嫌悪いな」
「朝から分からないことが増えてますから」
「昨日より情報は増えてるだろ」
「だから嫌なんですよ」
一佐が笑う。
「またそれか」
佐伯も少し笑った。
「でも今日は少し違います」
「何が?」
佐伯は福建省の地図を指した。
「昨日までは軍の中で変化が起きていました。今日は、その周りが歪み始めてます」
「民間物流が?」
「はい」
分析官が言う。
「軍は隠せても、軍が押しのけたものまでは隠せないかもしれません」
一佐がその言葉を聞いて、少し黙る。
「それ、いいな」
分析官が少し嬉しそうな顔をした。
佐伯がすぐに言う。
「調子に乗るなよ」
「まだ何も言ってません」
「顔が言ってる」
一佐が笑った。
「報告に入れよう」
佐伯が頷く。
「はい。ただし、まだ評価は変えません」
「理由は?」
「大規模演習でも、これくらいの民間影響は出ます」
一佐がため息をつく。
「また演習か」
「便利すぎる答えなんですよ」
「お前、昨日も同じこと言ってたぞ」
「私も覚えてます」
佐伯は画面を見る。
「だから今日は、軍じゃなくてその周りを見てます」
一佐がコーヒーを持ち上げる。
「そのうち市場の野菜価格まで持ってくるなよ」
若い分析官が言った。
「燃料価格はもう見始めてます」
一佐が佐伯を見る。
佐伯は肩をすくめた。
「私じゃないですよ」
「部下の育て方を間違えたな」
3人とも笑った。
午前8時19分
中国・福建省厦門市
物流会社
「今日も無理?」
電話の向こうで荷主が声を荒げた。
配車担当者は受話器を肩に挟み、空き車両一覧を見ていた。
「すみません。本当に車がないんです」
「昨日は今日なら出せるって言っただろ」
「昨日の時点ではそうだったんです」
「じゃあ今日は?」
「今日になったら、また消えました」
「車が勝手に消えるわけないだろ」
配車担当者は窓の外を見る。
いつもなら20台近く並んでいる大型トラックは、今日は6台しかいない。
「私もそう思います」
「料金上げる。2割増しでどうだ」
「それでも無理です」
電話の向こうが静かになる。
「他社は?」
「全部聞きました」
「全部?」
「少なくとも私が電話できるところは」
「軍か?」
配車担当者の手が止まった。
「……何ですか?」
「演習あるんだろ。そっちのトラック持ってかれてるんじゃないのか」
「分かりません」
「最近港も変だって聞いたぞ」
「私は何も聞いてません」
「本当に?」
配車担当者は少し笑った。
「聞いてたら私が教えてほしいくらいです」
電話の向こうで相手も苦笑する。
「そりゃそうか」
「すみません。空きが出たら最優先で回します」
「頼むよ。本当に」
電話を切る。
隣の同僚が声をかけた。
「また軍って聞かれた?」
「今日5回目」
「じゃあ軍なんじゃない?」
「その理屈やめて」
「でも車、どこ行ったんだろ」
配車担当者はモニターを見る。
「知らない」
「最近みんなそれ言うね」
「知らないものは知らない」
「演習終わったら戻るかな」
配車担当者は来週以降の空白だらけの予定表を見た。
「戻らなかったら、こっちが終わるよ」
午前9時37分
台湾・台北市
航空会社運航管理室
「香港便、また迂回です」
若い運航担当者が言った。
上司が画面を見る。
「昨日もあったな」
「昨日は2便。今日はもう5便です」
「まだ午前中だぞ」
「はい」
上司は航路図を拡大した。
台湾海峡西側、中国沿岸部には複数の臨時空域が設定されている。
「演習開始は15日だろ」
「そのはずです」
「今日は12日」
「カレンダーは合ってます」
上司が苦笑する。
「訓練空域の事前設定かな」
「たぶん」
「欠航は?」
「今のところありません。ただ、10分から20分延びます」
「客には何て言う」
「運航上の都合でいいですか」
「それ以上言えることもないだろ」
担当者が少し迷う。
「SNSではもう中国軍の影響だって言われてます」
上司が鼻で笑う。
「SNSは毎朝戦争が始まって、昼には終戦してる」
担当者が吹き出した。
「確かに」
「飛べるうちは飛ばす。それだけだ」
「代替経路は?」
「増やしておけ」
「念のためですか?」
上司が振り返る。
「航空会社は念のためで飯食ってるんだ」
担当者が笑う。
「それ、前から言ってました?」
「今作った」
その時、別の席から声が飛んだ。
「台北発福岡便、10分遅延!」
上司が顔を向ける。
「理由は?」
「軍用機優先との連絡です」
室内の空気が少し変わる。
若い担当者が小声で言う。
「……まだ演習始まってないですよね」
上司は画面を見たまま答えた。
「カレンダーはまだ合ってる」
午前10時51分
ハワイ・キャンプ・H・M・スミス
米インド太平洋軍司令部
「東京から面白いものが来ています」
情報参謀が資料を机に置いた。
司令官が眉を上げる。
「面白い?」
「軍事情報ではありません」
「それで面白いのか」
「鉄道とトラックです」
司令官が少し笑った。
「日本も随分遠くまで見始めたな」
「我々も確認しました。福建省沿岸向けの民間貨物に遅延。大型トラックの不足も出ています」
司令官は資料をめくる。
「つまり、軍が民間輸送を食い始めてる?」
「可能性はあります」
「可能性」
「はい」
司令官が若い情報将校を見る。
「昨日は配置が変わった。今日は何だ」
若い将校が少し考える。
「軍の外側に影響が出始めています」
「それは昨日より嫌な話か?」
「私はそう思います」
「理由は」
「軍の部隊は命令で動かせます。でも、そのために押しのけられた民間物流は、完全には隠せません」
情報参謀が頷く。
「ただし、大規模演習でも同じことは起きます」
司令官が苦笑した。
「その言葉、東京から輸入したのか?」
「おそらく向こうも同じことを言ってます」
「演習でも起きる。本番でも起きる」
「はい」
「便利だな」
若い将校が少し笑った。
「便利すぎます」
司令官はしばらく資料を見る。
「確率は?」
情報参謀が答える。
「20パーセントを維持します」
司令官が顔を上げる。
「上げないんだな」
「民間物流の変化だけではまだ弱いです」
「でも監視は広げる?」
「はい」
司令官は机に指を置いた。
「どこまで見る」
情報参謀が資料をめくろうとしたが、司令官が止めた。
「いや、君じゃなくて彼に聞こう」
若い将校が少し驚く。
「私ですか」
「昨日からよく気にしてるだろ」
若い将校は画面を見る。
「燃料価格。鉄道。トラック。港湾。病院。血液。通信」
司令官が笑う。
「スーパーの棚は?」
若い将校が少し迷う。
「……必要なら」
会議室に小さな笑いが起きる。
司令官は頷いた。
「それでいい」
情報参謀が言う。
「かなり範囲が広がります」
「戦争になったら軍だけ動くのか?」
「いいえ」
「なら軍の周りも見ろ」
司令官は資料を閉じた。
「ただし、見えるものが増えたからって、全部意味があると思うなよ」
若い将校が答える。
「はい」
司令官が少し笑う。
「そこは日本の分析官も苦しんでそうだな」
午後0時16分
台湾・新北市
「会社の部品、遅れるらしい」
怡君が昼食を食べながら言った。
俊偉がスマートフォンから顔を上げる。
「どこから?」
「中国」
「どこ?」
「福建」
俊偉の手が止まった。
「福建?」
「何その反応」
「台湾の真向かいだろ」
怡君も少し考える。
「……そうだっけ」
「そうだよ」
「でも物流混雑だって」
「また演習?」
「知らない」
俊偉が笑う。
「最近、何でも中国軍のせいにできるな」
「便利だね」
「姉ちゃん、昨日まで全然気にしてなかったじゃん」
「今もそんなに気にしてない」
「じゃあなんで話したの」
怡君が箸を止める。
「会社でみんな話してたから」
俊偉が少し笑った。
「それ、気にし始めてるってことじゃない?」
「違う」
「絶対そう」
テレビでは、中国軍演習を前に台湾周辺の緊張が高まっていると報じていた。
俊偉が画面を見る。
「戦闘機より、荷物遅れる方がちょっと怖いな」
怡君が顔を上げる。
「なんで?」
「戦闘機は毎年飛ぶ。でも会社の部品が来なくなるのは、生活に入ってきた感じする」
怡君は何も言わなかった。
少ししてスマートフォンを手に取る。
母とのメッセージ。
水、買った?
俊偉が画面を覗く。
「まだ返信してないの?」
「忘れてた」
「怒られるぞ」
怡君は少し考える。
「帰りに水買おうかな」
俊偉が目を丸くする。
「え?」
「何」
「姉ちゃんが?」
「2本だけ」
「これは事件だ」
「母さんには絶対言わないで」
「スクショ送ろうかな」
「やめろ」
2人は笑った。
午後1時52分
神奈川県横須賀市
護衛艦「まや」
「防衛省、今度は中国の物流会社まで見てるらしいですよ」
副長が言った。
村瀬健一艦長が書類から顔を上げる。
「何してるんだ、あいつら」
「鉄道のダイヤとトラック不足だそうです」
「昨日は潜水艦だったろ」
「今日は物流会社です」
村瀬が椅子にもたれた。
「そのうちスーパーのレジまで見るぞ」
「佐伯二佐なら見そうですね」
「絶対嫌そうな顔しながらな」
副長が笑った。
村瀬は少し考える。
「でも、理屈は分かる」
「戦争準備なら民間にも影響が出る?」
「そういうことだろ」
副長が海図を見る。
「昔なら、港に戦車が並んでるか見ればよかったんでしょうか」
「昔だってそんな簡単じゃないだろ」
「ですよね」
「ただ今は、見えるものが増えすぎた」
村瀬は机を指で軽く叩く。
「衛星、SNS、船の位置、航空便、物流、鉄道」
「情報が多い方がいいんじゃ?」
「普通はな」
「違うんですか」
「多すぎると、全部重要に見える」
副長が少し笑った。
「情報分析官みたいなこと言いますね」
村瀬が嫌そうな顔をする。
「やめろ。縁起でもない」
「縁起関係あります?」
「俺は海に出たいんだよ」
「では艦長向けの話を」
「何だ」
「明日の訓練、予定通りです」
村瀬の顔が曇る。
「最近、その言葉嫌いになってきた」
「予定通り?」
「ああ」
「中国側も同じこと思ってるかもしれませんね」
村瀬は副長を見る。
「それ、ちょっと嫌なこと言ったな」
副長も笑わなかった。
午後3時24分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「民間側から苦情が増えています」
兵站参謀が報告した。
周啓明中将が資料から目を上げる。
「苦情?」
「車両不足です。泉州と厦門で配送遅延が出ています」
周の眉がわずかに動いた。
「予定より早いな」
兵站参謀が頷く。
「転用率自体は計画内です。ただ、夏季物流と重なりました」
「鉄道は」
「貨物列車の一部を調整しています」
周が椅子にもたれた。
「どの程度、民間に出ている」
兵站参謀が一瞬迷う。
「現時点では限定的です」
周が顔を上げる。
「その言葉はやめろ」
兵站参謀が黙る。
「数字で言え」
「主要3都市向け貨物の平均遅延が平時比18パーセント増。大型トラックのスポット運賃は8から12パーセント上昇しています」
周は数秒黙った。
「もう見つかっているな」
情報参謀が答える。
「日本側は今朝から監視しています」
作戦参謀が顔をしかめる。
「早いな」
周が視線を向ける。
「早いんじゃない。我々が見せたんだ」
会議室が静かになる。
兵站参謀が言う。
「追加徴用を少し減らしますか」
「少しじゃ足りない」
周は地図を見る。
「新規分は止めろ」
「全部ですか?」
「既存契約は維持。新規だけ止める」
作戦参謀がすぐに口を挟む。
「それでは後方部隊の前進が遅れます」
「どのくらい」
「12時間から18時間」
「許容できるか?」
「……できます」
「なら止めろ」
作戦参謀が少し不満そうな顔をする。
周が気づく。
「言いたいことがあるなら言え」
「準備を薄くしすぎています」
「そう見えるか」
「はい。この3日間、見つかるたびに分散して、遅らせて、抑えている」
周は少し黙った。
「それでいい」
「本当に?」
「今、一番危険なのは準備が遅れることじゃない」
「では?」
周は情報参謀を見る。
「昨日まで相手は軍を見ていた。今日は民間物流を見始めた」
情報参謀が頷く。
「はい」
「明日は何を見ると思う」
兵站参謀が答える。
「燃料」
別の参謀が言う。
「医療」
「港湾利用も」
周が頷く。
「そうだ」
作戦参謀は黙っている。
周が続けた。
「軍を隠しても、その周りが悲鳴を上げれば意味がない」
「ですが、準備は止められません」
「止めるとは言っていない」
周は地図を見る。
「薄くする」
「さらに?」
「さらにだ」
兵站参謀が資料を見る。
「予定日に間に合いますか」
周はすぐに答えなかった。
数秒。
「間に合わせる」
作戦参謀が周を見る。
「かなり厳しくなります」
周は小さく頷いた。
「最初から簡単な仕事ではない」
午後5時08分
東京都千代田区・首相官邸
官房副長官が資料をめくりながら眉をひそめた。
「今日は鉄道?」
黒田慎吾参事官が少し笑う。
「はい」
「昨日は潜水艦だったよな」
「そうですね」
「明日は何だ。スーパーか?」
「燃料価格あたりかもしれません」
官房副長官が顔を上げる。
「冗談じゃないのか」
「半分くらいは」
「半分本気なのか」
黒田が資料を開く。
「福建省で民間貨物の遅延、大型トラック不足が出ています。台湾周辺では民間航空便の迂回も増えています」
「それぞれ単独なら?」
「大した話ではありません」
「またそれか」
「はい」
官房副長官は苦笑した。
「ここ数日、全部少しずつだな」
「今日は少し意味が違います」
「どう違う」
黒田は地図を示す。
「昨日までは中国軍の内部で起きていました。今日は民間側に影響が漏れています」
「軍が大きく動いてる証拠か?」
「そこまでは言えません」
「やっぱり」
「ただ、軍の活動量が民間を押し始めている可能性があります」
官房副長官が少し考える。
「評価は?」
「変えません」
「米国も20のまま?」
「はい」
「数字は変わらない。でも中身は悪化?」
黒田が少し笑う。
「最近、理解が早くなられましたね」
「毎日聞かされてるからな」
少し沈黙。
官房副長官が資料を閉じかけて、また開く。
「で、本音は」
黒田は答える前に少しだけ考えた。
「昨日より嫌です」
「昨日も嫌って言ってたぞ」
「今日は、かなり嫌です」
官房副長官が顔を上げる。
「そこまで?」
「まだ侵攻だとは思っていません」
「でも?」
「演習のためだけに、どこまで民間社会を動かすつもりなのか。その境目が分からなくなってきました」
官房副長官はしばらく黒田を見る。
「総理にはそれを言う?」
「少し整えて」
「そのままじゃ駄目か」
「『かなり嫌です』はさすがに」
官房副長官が笑った。
「確かにな」
「監視対象を軍事活動から民間物流まで拡大した、と報告します」
「分かった」
官房副長官が資料を閉じる。
「鉄道の説明は短くしてくれ」
黒田が笑う。
「難しいですか」
「全然分からん」
「正直ですね」
「分からないものを分かったふりする方が危ないだろ」
黒田の笑みが少し消えた。
「……その通りですね」
午後7時43分
東京都新宿区・防衛省
佐伯は朝から更新され続けている物流データを眺めていた。
若い分析官が紙コップを2つ持って戻ってくる。
「コーヒーです」
「ありがとう」
「今日は奢ります」
佐伯が受け取る手を止める。
「怖いな」
「何がですか」
「何か頼むつもりだろ」
分析官が笑った。
「失礼ですね」
「昨日まで1回も奢ってない」
「細かい」
佐伯はコーヒーを受け取った。
「で?」
分析官も席に座る。
「民間トラックのデータ、もう少し掘っていいですか」
佐伯がため息をつく。
「やっぱり」
「駄目です?」
「いいよ。ただし物流会社に転職するな」
「ちょっと面白くなってきました」
佐伯が横目で見る。
「それ、一佐の前で言うな」
「毎日『昨日より面白くなったな』って言ってる人ですよ」
「確かに」
2人とも笑った。
分析官が新しいグラフを表示する。
「これ、見てください」
「何?」
「沿岸向けのトラック運賃です。朝まで上がってたのに、午後から止まってます」
佐伯の表情が変わった。
「止まった?」
「はい。ほぼ横ばいです」
「車両不足が解消した?」
「そこまでは」
「新規の需要が止まった?」
「それも分かりません」
佐伯はコーヒーを机へ置いた。
「朝、日本側がこの動きを拾った」
「はい」
「午後、上昇が止まった」
分析官が佐伯を見る。
「偶然ですかね」
佐伯は少し考える。
「市場が勝手に調整した可能性もある」
「中国側が徴用を抑えた可能性も」
「ああ」
「こっちが見てることに気付いて?」
佐伯はすぐには答えなかった。
「そこまで言うと飛躍だ」
「ですよね」
「でも」
分析官が待つ。
佐伯は画面を見る。
「頭の隅には置いとけ」
分析官の表情が少し変わる。
「もし本当にそうなら」
「向こうもこっちを見てる」
「情報戦ですね」
佐伯が苦笑する。
「戦争はまだ始まってないのにな」
「情報戦はもう始まってる?」
「たぶんな」
分析官が少し黙った。
「嫌ですね」
佐伯が笑う。
「やっと分かったか」
「何がです?」
「俺が毎日気持ち悪いって言ってる理由」
「昨日までは半分大げさだと思ってました」
「ひどいな」
「今日は信じます」
「今日だけかよ」
また少し笑った。
画面では、数時間前まで上昇していた線が横に伸びている。
佐伯はその線を見ながら、別の不安を感じ始めていた。
異常が増えることだけが、異常ではない。
異常が急に消えることも、異常だった。
午後11時06分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「民間物流は?」
周啓明中将が尋ねた。
兵站参謀が資料を見る。
「追加徴用停止後、運賃上昇は鈍化しました。貨物遅延も拡大していません」
「日本はまだ見ているか?」
情報参謀が頷く。
「はい。監視継続中です」
「評価変更は」
「ありません」
作戦参謀が小さく息を吐いた。
「間に合いましたね」
周が顔を向ける。
「何が?」
「日本側が警戒評価を上げる前に」
周の表情が少し硬くなる。
「その考え方はやめろ」
作戦参謀が姿勢を正す。
「失礼しました」
「相手が評価を変えなかったから成功、ではない」
周は立ち上がり、地図へ歩いた。
「今日、彼らは軍の外を見始めた」
情報参謀が頷く。
「昨日より近づいている」
作戦参謀が言う。
「それでも決定的な証拠は見えていません」
周が振り返る。
「当然だ」
誰も口を挟まない。
「決定的な証拠を見せるのは最後だ」
兵站参謀が少し迷ってから尋ねる。
「どこまで、この状態を維持しますか」
周は台湾海峡を見る。
「演習が始まれば状況は変わる」
「異常が演習に埋もれる?」
「そうだ」
作戦参謀が時計を見る。
「あと3日」
「あと3日だ」
周はしばらく何も言わなかった。
情報参謀が尋ねる。
「長いですか」
周は少し笑った。
「昨日までは短いと思っていた」
作戦参謀が彼を見る。
「今日は?」
周の視線は台湾海峡から動かなかった。
「3日もある」
誰も返事をしなかった。
同じ時刻、東京でも似たようなことを考えている人間がいた。
この日、異変は初めて軍施設の外へ滲み出した。
貨物列車が遅れ、大型トラックが足りなくなり、民間航空機が遠回りを始める。普段なら誰も結びつけない小さな変化には、それぞれ合理的な理由があった。
そして日米台は、それらをまだ戦争の証拠とは見なさなかった。
ただ、見る場所だけが変わった。
艦艇だけではなく港へ。航空機だけではなく空港へ。軍用車両だけではなく物流会社へ。
軍を見ていた目が、その周囲へ広がり始めていた。
中国も、それに気付いた。
演習開始まで、3日。