台湾有事 その日、日本有事になった   作:合点承知

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DAY -12

2030年8月13日 午前5時56分

中国・福建省福州市

市内総合病院

 

「これ、今日からですか?」

 

救急部門の副主任が、端末に届いた通知を読み返した。

 

隣にいた事務責任者が頷く。

 

「今日から」

 

「急ですね」

 

「私もさっき来た」

 

通知には地方衛生当局の印が入っていた。

 

表題は、大規模突発事案発生時における医療受入態勢の再確認について。

 

文面そのものは珍しいものではなかった。台風、地震、大規模事故、感染症。中国の大都市病院なら、似たような通知は何度も受け取っている。

 

副主任が画面を指す。

 

「でも、これ」

 

「どれ」

 

「救急病床を72時間以内に15パーセント確保」

 

「書いてあるな」

 

「外科系病床もです」

 

「そうだな」

 

「予定手術の一部延期も検討」

 

事務責任者は返事をしなかった。

 

副主任が続ける。

 

「血液製剤、抗生剤、止血材、輸液の在庫点検。救急搬送車両の即応確認。職員の連絡網更新」

 

「読めば分かる」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

副主任が声を落とした。

 

「何かあるんですか?」

 

事務責任者は窓の外を見る。

 

まだ朝早く、病院前の道路も空いている。

 

「知らない」

 

「またそれですか」

 

「何だ、その言い方」

 

「最近みんな知らないって言うから」

 

事務責任者が苦笑した。

 

「知らないものは仕方ないだろ」

 

「台風?」

 

「来てない」

 

「災害訓練?」

 

「予定にはない」

 

「じゃあ軍の演習?」

 

事務責任者の表情が少しだけ変わった。

 

「それなら、それで説明がつく」

 

「病院まで?」

 

「大規模演習なら事故もある」

 

「15パーセントも病床空けます?」

 

「俺に聞くな」

 

副主任は通知をもう一度見た。

 

「この通知、公開しないんですよね」

 

「院内限りだ」

 

「患者には?」

 

「何も言うな」

 

「予定手術ずらすなら聞かれますよ」

 

事務責任者がため息をついた。

 

「医療資源の調整、とでも言え」

 

副主任が笑う。

 

「便利ですね」

 

「最近そればっかりだな」

 

2人とも少し笑った。

 

だが、副主任は通知画面を閉じなかった。

 

午前6時41分

東京都新宿区・防衛省

 

「今日は病院です」

 

若い分析官が言った。

 

佐伯直哉二等海佐が、コーヒーを持ったまま止まる。

 

「とうとう来たな」

 

「何がです?」

 

「スーパーの次は病院だと思ってた」

 

分析官が笑う。

 

「スーパー飛ばしましたね」

 

「残念だ」

 

「そのうち行きますよ」

 

「行かなくていい」

 

佐伯は椅子を寄せた。

 

画面には、中国の複数の地方政府機関から流出した行政文書の断片が表示されていた。

 

「これ、どこから?」

 

「公開情報と、複数の情報源からです。完全な文書ではありません」

 

「同じ内容?」

 

「ほぼ同じです」

 

「場所は」

 

分析官が地図を出す。

 

福州、厦門、泉州、温州。さらに内陸側に2都市。

 

佐伯の表情が変わる。

 

「福建だけじゃないな」

 

「はい。でも東部戦区管内に偏ってます」

 

「内容は?」

 

分析官が要点を開いた。

 

「大規模突発事案に備えた医療受入態勢の再確認。病床確保、血液製剤、外科資材、抗生剤、輸液の在庫点検、救急搬送体制の確認、職員連絡網の更新」

 

佐伯は画面を見たまま言う。

 

「これ、演習で何に使うんだ?」

 

分析官は少し黙った。

 

「説明はできます」

 

佐伯が横を見る。

 

「聞こうか」

 

「大規模統合演習に伴う事故対応。防災訓練との連携。あるいは単純な行政上の安全措置」

 

「全部もっともらしいな」

 

「はい」

 

「でも?」

 

分析官が佐伯を見る。

 

「少し苦しいです」

 

佐伯が小さく笑った。

 

「やっと同じ顔になってきたな」

 

「何ですか、それ」

 

「ここ数日、俺だけ気持ち悪がってる感じだったから」

 

「そんなことないですよ」

 

「昨日まで楽しそうだったぞ」

 

「データを見るのがですよ」

 

「同じだ」

 

分析官が少し笑った。

 

そこへ情報班長の一佐が入ってくる。

 

「今日は何だ。野菜か?」

 

佐伯が振り返る。

 

「病院です」

 

一佐が足を止める。

 

「……急に笑えなくなったな」

 

佐伯が画面を指した。

 

「地方政府から病院への非常態勢指示が複数出ています」

 

一佐は資料を読み始める。

 

数秒。

 

「公開?」

 

「非公開扱いです。ただ、完全には隠せてません」

 

「いつ出た」

 

「昨夜から今朝」

 

「同じ時期?」

 

「ほぼ」

 

一佐が眉を寄せる。

 

「同じ文面をばら撒いた?」

 

分析官が答える。

 

「完全一致ではありません。地方ごとに少し違います」

 

佐伯が補足する。

 

「そこが逆に嫌なんです」

 

一佐が見る。

 

「なぜ?」

 

「中央の1本の命令文書をそのまま配った感じじゃない。上から大枠だけ降りて、地方がそれぞれ準備してるように見える」

 

一佐の表情が少し変わった。

 

「つまり、行政が動き始めてる?」

 

「可能性はあります」

 

「また可能性か」

 

佐伯が苦笑する。

 

「嫌になりますね」

 

一佐は資料を読み進める。

 

「病床15パーセント確保、予定手術の延期検討、血液在庫確認」

 

顔を上げる。

 

「これ、演習の事故対応にしては重くないか」

 

佐伯は少し間を置いた。

 

「私もそう思います」

 

「初めて素直だな」

 

「でも、断定はできません」

 

「そこは変わらない」

 

「はい」

 

一佐が椅子を引いた。

 

「評価は?」

 

佐伯はしばらく画面を見た。

 

「上げるべきだと思います」

 

若い分析官が佐伯を見る。

 

一佐も少し驚いた顔をした。

 

「どこまで?」

 

「侵攻準備と断定するほどではありません。ただ、昨日までの『演習準備の範囲内』という評価からは、一段上げてもいいでしょう」

 

「表現は?」

 

佐伯は考える。

 

「『通常の演習準備では説明しにくい行政・医療態勢の変化を確認』」

 

一佐が頷く。

 

「それなら上げられるな」

 

分析官が少し小さな声で言った。

 

「初めてですね」

 

佐伯が見る。

 

「何が?」

 

「演習で説明できる、で終わらなかったの」

 

佐伯は画面を見る。

 

「説明はできる」

 

「はい」

 

「でも今日は、説明するために少し頑張らないといけない」

 

一佐が紙コップを机に置いた。

 

「それは結構大きな違いだな」

 

誰も笑わなかった。

 

午前8時22分

台湾・台北市

国防部関連施設

 

「中国沿岸部の病院?」

 

情報将校が資料を見ながら言った。

 

上官はすでに内容を読んでいた。

 

「複数都市で同じ傾向が出ている」

 

「災害対応ですか」

 

「文面上はな」

 

「演習事故への備えでも説明できます」

 

上官が顔を上げる。

 

「君、本当にそう思う?」

 

情報将校は少し黙った。

 

「……半分は」

 

「残り半分は?」

 

「多数の負傷者を想定しているように見えます」

 

上官は資料を机に置く。

 

「私も同じだ」

 

情報将校が少し驚く。

 

「警戒態勢、上げますか」

 

上官はすぐには答えなかった。

 

「上げたい」

 

「では」

 

「でも全部は動かさない」

 

「また段階的に?」

 

「そうするしかない」

 

上官は地図を見る。

 

「空軍の即応機をさらに増やす。防空部隊は一部だけ予備陣地への移動準備。実際の移動はまだ」

 

「移動準備だけ?」

 

「車両点検、連絡網、要員確認。外から見えにくいところから始める」

 

情報将校が頷く。

 

「中国に刺激を与えない範囲で」

 

「そうだ」

 

「でも中国が本当に準備しているなら、向こうも同じことをやってますよね」

 

上官が少し笑う。

 

「やっとそこに気づいたか」

 

「何がです?」

 

「お互いに、見えないところから準備する」

 

情報将校は地図を見る。

 

「それで相手は、その見えない準備を探す」

 

「そうだ」

 

「終わらないですね」

 

上官の笑みが消える。

 

「始まるまではな」

 

午前9時17分

中国・福建省厦門市

市内総合病院

 

「手術、延期ですか?」

 

外科医が眉をひそめた。

 

医務部の責任者が首を横に振る。

 

「延期決定じゃない。延期できる症例を選んでおけ、だ」

 

「同じようなものでしょう」

 

「違う」

 

「患者にとっては同じです」

 

責任者はため息をつく。

 

「俺に怒るな」

 

「誰に怒ればいいんです」

 

「知らない」

 

外科医が笑った。

 

「最近みんなそれですね」

 

「何が」

 

「知らない」

 

責任者も少し笑った。

 

外科医は通知を読む。

 

「病床15パーセント確保。ICUも?」

 

「一部」

 

「ICUまで空けるんですか」

 

「空けろとは書いてない。短時間で空けられるようにしろ、だ」

 

「余計に嫌ですね」

 

責任者が外科医を見る。

 

「そういう言い方するな」

 

「でもそうでしょう」

 

外科医は声を落とした。

 

「演習で、何人来る想定なんです?」

 

責任者は返事をしなかった。

 

「知らない?」

 

「……そうだ」

 

外科医は通知を机に置いた。

 

「じゃあ、私も聞かなかったことにします」

 

「助かる」

 

「でも手術はどうするんです」

 

「そこは考えろ」

 

「結局こっちに戻ってくるんじゃないですか」

 

「医者だろ」

 

「便利ですね、その言葉」

 

2人とも苦笑した。

 

午前10時36分

ハワイ・キャンプ・H・M・スミス

米インド太平洋軍司令部

 

「東京から評価変更です」

 

情報参謀が言った。

 

司令官が資料から顔を上げる。

 

「上げたのか?」

 

「はい。数値評価ではありませんが、通常演習準備の範囲から一段階上げています」

 

「理由は病院?」

 

「地方政府と医療機関への非常態勢指示です」

 

司令官は資料を読み始める。

 

「病床確保、血液、外科資材、救急搬送」

 

少し間を置く。

 

「これは嫌だな」

 

若い情報将校が言う。

 

「昨日より明確です」

 

司令官が見る。

 

「何が?」

 

「昨日までは、軍が動いた結果として民間が歪んでいる可能性でした」

 

「今日は?」

 

「行政が能動的に準備しています」

 

情報参謀が頷く。

 

「そこが違います」

 

司令官は椅子にもたれる。

 

「演習事故への備えという説明は?」

 

「可能です」

 

司令官が苦笑する。

 

「また可能か」

 

若い将校が少し笑う。

 

「でも今日は、その説明に無理があります」

 

「どの辺が?」

 

「複数都市で病床確保率や物資点検が近い時期に始まっている。しかも演習開始前です」

 

司令官が資料を閉じる。

 

「確率は上げる?」

 

情報参謀が答える。

 

「30パーセントを提案します」

 

司令官がすぐに顔を上げる。

 

「20から30?」

 

「はい」

 

「昨日は20を動かさなかった」

 

「今日は理由があります」

 

司令官は少し考える。

 

「30という意味は?」

 

情報参謀が答える前に、若い将校が言った。

 

「『あり得る』から、『本気で備えるべき』へ」

 

司令官が若い将校を見る。

 

「それは君の言葉か」

 

「はい」

 

「分かりやすいな」

 

情報参謀が少し笑う。

 

「私の説明より先に言われました」

 

司令官も少し笑った。

 

「じゃあ30だ」

 

「警戒態勢は?」

 

司令官は数秒黙る。

 

「変える」

 

室内の空気が少しだけ変わった。

 

「ただし見えるところは最小限にする」

 

「具体的には?」

 

「航空機の整備即応率を上げる。燃料、弾薬、代替指揮所の確認。家族退避まではまだやらない」

 

「艦隊は?」

 

「予定行動の範囲内で位置を調整」

 

若い将校が言う。

 

「中国側に気付かれませんか」

 

司令官が彼を見る。

 

「気付くだろうな」

 

「では」

 

「でも、何もしない方が危険になってきた」

 

室内が静かになる。

 

司令官は台湾周辺の地図を見る。

 

「昨日までは時間を買った」

 

少し間を置く。

 

「今日は準備を買う」

 

午前11時48分

東京都千代田区・首相官邸

 

「防衛省が表現を変えました」

 

黒田慎吾参事官が資料を開いた。

 

官房副長官がすぐに顔を上げる。

 

「ついに?」

 

「はい」

 

「侵攻だと?」

 

「そこまでは」

 

官房副長官が少し肩を落とす。

 

「そこまでは、か」

 

黒田が苦笑する。

 

「ただ、昨日までとは違います」

 

「どう違う」

 

「『演習で説明できる』から、『演習でも説明はできる』に変わりました」

 

官房副長官が数秒黙る。

 

「日本語って怖いな」

 

「かなり違います」

 

「分かる」

 

黒田は資料をめくる。

 

「中国東部の複数都市で、病院への非常態勢指示が確認されています」

 

「病床を空けろ?」

 

「短時間で確保できる状態にしろ、です」

 

「血液も?」

 

「はい。外科資材、抗生剤、輸液、救急搬送体制も」

 

官房副長官の表情が変わる。

 

「事故対策にしては大げさじゃないか?」

 

「そこを防衛省も問題視しています」

 

「米国は?」

 

「侵攻可能性を30パーセント程度へ引き上げる方向です」

 

「30」

 

「はい」

 

官房副長官が椅子にもたれた。

 

「昨日は20だったよな」

 

「そうです」

 

「今回は5回に1回じゃないな」

 

黒田が少し笑う。

 

「約3回に1回です」

 

官房副長官が嫌そうな顔をする。

 

「言うと思った」

 

「聞かれたので」

 

「今回は総理にも言う?」

 

黒田の笑みが消える。

 

「今回は言った方がいいと思います」

 

官房副長官も真顔になる。

 

「そこまでか」

 

「はい」

 

少し沈黙。

 

官房副長官が資料を見る。

 

「日本は何をする」

 

「まずは見えにくい準備からです。南西方面の警戒監視強化、基地機能の確認、航空機・艦艇の即応性向上」

 

「避難は?」

 

「まだ早いです」

 

「住民には?」

 

「現時点では何も」

 

官房副長官が小さく息を吐く。

 

「これ、一番嫌な段階だな」

 

黒田が見る。

 

「何がでしょう」

 

「危ないかもしれない。でも国民にはまだ何も言えない」

 

黒田は少し黙った。

 

「はい」

 

「間違ってたら煽ったと言われる」

 

「そうですね」

 

「正しかったら、もっと早く言えと言われる」

 

黒田は苦笑した。

 

「それもそうです」

 

官房副長官が資料を閉じる。

 

「総理を呼ぼう」

 

黒田が頷いた。

 

昨日までの定例報告ではなかった。

 

午後0時37分

台湾・新北市

 

「母さんからまた来た」

 

怡君がスマートフォンを見せた。

 

俊偉が覗き込む。

 

水だけじゃなくて、薬も確認しなさい。

 

俊偉が笑う。

 

「レベル上がってる」

 

「毎日勝手に上げてる」

 

「今日は何買うの」

 

「水」

 

「昨日2本買ったじゃん」

 

「もう少し」

 

俊偉が姉を見る。

 

「気にしてるじゃん」

 

「違う」

 

「何が違うの」

 

「安かったから」

 

「昨日まで値段見てなかっただろ」

 

怡君が睨む。

 

「うるさい」

 

俊偉が笑った。

 

テレビでは、中国沿岸部の一部病院で救急体制の確認が行われているとの未確認情報を紹介していた。

 

SNS由来で、政府確認はない。専門家は「大規模演習への通常対応の可能性もある」と話している。

 

俊偉がテレビを見る。

 

「病院まで?」

 

怡君も画面を見る。

 

「本当なの?」

 

「分からない」

 

「またそれ」

 

「でもSNSだし」

 

怡君はしばらくテレビを見ていた。

 

その後、スマートフォンで近所のスーパーを検索する。

 

俊偉が横から覗く。

 

「何してるの」

 

「水の在庫」

 

「安いから?」

 

怡君は無言で画面を閉じた。

 

俊偉が笑う。

 

「はいはい」

 

午後2時03分

神奈川県横須賀市

護衛艦「まや」

 

「昨日の冗談、当たりましたね」

 

副長が言った。

 

村瀬健一艦長が嫌そうな顔をする。

 

「何の話だ」

 

「ミサイルじゃありません」

 

「なら何だ」

 

「次に何が出るかって話です。今日は病院です」

 

村瀬は少し黙る。

 

「病院?」

 

「中国沿岸部で非常態勢指示が出ています」

 

副長が概要を説明する。

 

村瀬の表情から、少しずつ冗談が消えた。

 

「病床確保まで?」

 

「はい」

 

「血液も?」

 

「確認されています」

 

村瀬が海図を見る。

 

「これは嫌だな」

 

副長が少し驚いた顔をする。

 

「艦長もそう思います?」

 

「俺でも分かる」

 

「演習事故対応かもしれません」

 

「かもしれない」

 

村瀬はしばらく黙った。

 

「でもな」

 

「はい」

 

「海軍が大規模演習やるから病院に備えろ、くらいなら分かる」

 

「ええ」

 

「予定手術まで動かす準備が必要か?」

 

副長は答えなかった。

 

村瀬が続ける。

 

「防衛省は?」

 

「評価を一段上げています」

 

「ついにか」

 

「はい」

 

村瀬は少し笑う。

 

「佐伯も今日は『まだ分からない』だけじゃ済まなかったか」

 

副長が笑う。

 

「本人に言ったら怒られますよ」

 

「言わないでおこう」

 

副長が海図を見る。

 

「うちも何か変わりますかね」

 

村瀬の笑みが消える。

 

「変わるだろうな」

 

「いつ?」

 

「早ければ今日」

 

「乗員には?」

 

村瀬は少し考えた。

 

「まだ余計なことは言うな」

 

「了解」

 

「ただし」

 

副長が待つ。

 

「補給と弾薬、全部確認しておけ」

 

「弾薬も?」

 

村瀬は画面を見たまま答えた。

 

「確認するだけだ」

 

副長は数秒黙った。

 

「了解」

 

その言葉の意味は、昨日までより重かった。

 

午後3時18分

中国・福建省福州市

東部戦区指揮施設

 

「誰が病院へ通知を出した」

 

周啓明中将の声は大きくなかった。

 

だが、会議室の空気は明らかに変わっていた。

 

兵站参謀が資料を確認する。

 

「地方衛生当局です」

 

「それは分かっている」

 

周が彼を見る。

 

「誰の指示で、この時点で出した」

 

「中央の非常医療態勢準備指針に基づく地方判断です」

 

「予定は?」

 

「本来は演習開始後に段階的に」

 

周は目を閉じた。

 

数秒。

 

「なぜ3日前に出た」

 

兵站参謀が答える。

 

「一部病院から、病床確保と在庫積み増しに最低48時間必要との回答がありました」

 

作戦参謀が口を開く。

 

「現場としては合理的です」

 

周が見る。

 

「合理的だから問題なんだ」

 

作戦参謀が黙る。

 

周は立ち上がった。

 

「彼らは戦争を始めるつもりで動いているわけじゃない。病院として必要な準備をしただけだ」

 

「はい」

 

「地方政府も同じだ。自分の仕事をした」

 

情報参謀が言う。

 

「結果として、日米に捕捉されました」

 

「そうだ」

 

周は地図を見る。

 

「巨大な組織は、全員が正しく動くと目立つ」

 

誰も返事をしなかった。

 

兵站参謀が尋ねる。

 

「通知を撤回しますか」

 

周は首を横に振った。

 

「今さら撤回すれば、もっと目立つ」

 

「ではそのまま?」

 

「内容を広げるな。追加通知も止めろ」

 

「了解」

 

作戦参謀が聞く。

 

「日米側の評価は?」

 

情報参謀が答える。

 

「米国は30パーセント程度まで引き上げ。日本も通常演習準備の範囲から外しました」

 

会議室が静かになった。

 

周がゆっくり椅子へ戻る。

 

「30か」

 

「はい」

 

作戦参謀が言う。

 

「このままでは、演習開始前に相手が準備へ入ります」

 

周が彼を見る。

 

「もう入った」

 

誰も口を挟まない。

 

「ただし、まだ見えないところからだ」

 

情報参謀が頷く。

 

「米軍の整備即応率が上がっています。日本も南西方面の警戒監視を強化」

 

作戦参謀の表情が険しくなる。

 

「予定を早めますか」

 

周はしばらく黙った。

 

数日前なら、即答していた。

 

「いいや」

 

「なぜです」

 

「ここで早めれば、相手の判断が正しかったと証明する」

 

「しかし」

 

「まだだ」

 

周の声は静かだった。

 

「予定を守る」

 

作戦参謀が言う。

 

「『予定通り』は危険だと仰っていました」

 

周が彼を見る。

 

一瞬だけ、室内が凍る。

 

だが周は怒らなかった。

 

むしろ、小さく笑った。

 

「覚えていたか」

 

「はい」

 

「なら、なおさら確認しろ」

 

「何を?」

 

「予定通り進めることが、惰性なのか。それとも今も最善なのか」

 

作戦参謀は黙った。

 

周が続ける。

 

「私は後者だと思っている」

 

「理由は」

 

「相手は準備を始めた。しかし、まだ戦争を前提にはしていない」

 

周は台湾を指した。

 

「ここで我々が速度を上げれば、彼らをそこへ押す」

 

誰も話さない。

 

「まだ押すな」

 

情報参謀が小さく頷いた。

 

午後5時26分

東京都新宿区・防衛省

 

佐伯は新しい評価文を読み返していた。

 

中国東部地域において、通常の大規模演習準備では説明しにくい行政・医療態勢の変化を確認。台湾有事を念頭に置いた事前準備の可能性を排除できず。警戒監視を強化する。

 

若い分析官が横から覗く。

 

「強くなりましたね」

 

「ああ」

 

「昨日までの文章と全然違う」

 

「そうだな」

 

「これ、初めてですよね」

 

佐伯が少し笑う。

 

「朝も言ってたな」

 

「大事なので」

 

「何が?」

 

「演習って言葉が後ろに下がった」

 

佐伯は文面を見る。

 

確かにそうだった。

 

昨日までは文章の中心に演習があった。

 

演習準備。演習の範囲内。演習でも説明できる。

 

今日の文章では違う。

 

台湾有事。事前準備。警戒監視。

 

少しずつ言葉が変わっている。

 

分析官が聞く。

 

「佐伯二佐は、今何パーセントくらいだと思います?」

 

佐伯が横を見る。

 

「数字にしない方針だろ」

 

「個人的に」

 

「嫌だ」

 

「そこをなんとか」

 

「お前、一佐よりしつこくなってきたな」

 

分析官が笑う。

 

「30?」

 

「言わない」

 

「40?」

 

「上げるな」

 

「じゃあ35」

 

佐伯がため息をつく。

 

「お前、楽しんでるだろ」

 

「少しだけ」

 

「言うと思った」

 

2人とも笑った。

 

しばらくして、分析官が少し真面目な顔になる。

 

「でも、本当にどう思ってます?」

 

佐伯はすぐには答えなかった。

 

画面には中国沿岸部の病院、その背後には軍港、航空基地、鉄道、道路、港湾が並んでいる。

 

「昨日までは、戦争の準備かもしれないと思ってた」

 

「今日は?」

 

佐伯はしばらく考えた。

 

「戦争じゃない可能性を探し始めてる」

 

分析官の表情から笑みが消えた。

 

「それ、かなり違いますね」

 

「ああ」

 

佐伯は画面から目を離さなかった。

 

「かなり違うな」

 

午後8時11分

台湾・台北市

国防部関連施設

 

「予備陣地への移動準備、完了しました」

 

情報将校が報告した。

 

上官が頷く。

 

「外から見える動きは?」

 

「最小限です」

 

「空軍は?」

 

「即応機を増強。整備要員の一部待機を開始しました」

 

「予備役は?」

 

「まだ動かしていません」

 

上官は画面を見る。

 

中国側の航空機、艦艇、潜水艦、そして沿岸部の病院。

 

情報将校が言う。

 

「今日は一気に空気が変わりましたね」

 

上官が少し笑う。

 

「画面上は大して変わってない」

 

「でも、こっちの受け取り方が変わった」

 

「そうだ」

 

「怖いですね」

 

「何が」

 

「同じ情報なのに、意味が変わることが」

 

上官はしばらく黙った。

 

「意味が変わったんじゃない」

 

情報将校が見る。

 

「我々が、別の意味を認め始めただけだ」

 

室内が静かになる。

 

「それが一番怖い」

 

午後11時18分

中国・福建省福州市

東部戦区指揮施設

 

夜間報告が終わった後も、周啓明中将は席を立たなかった。

 

作戦参謀も残っている。

 

「今日は予定外でした」

 

作戦参謀が言う。

 

周は地図を見たまま答える。

 

「そうだな」

 

「ここまで早く医療態勢が見つかるとは」

 

「見つかったこと自体は問題じゃない」

 

「では?」

 

「相手が意味を変え始めたことだ」

 

作戦参謀が少し考える。

 

「同じものを見ても、演習ではなく戦争準備として見るようになった」

 

「そうだ」

 

「もう戻せませんか」

 

周は少し笑った。

 

「人間の認識は、そう簡単に戻らない」

 

「では、この先は」

 

周が画面の時刻を見る。

 

23時18分。

 

演習開始まで、2日と少し。

 

「演習開始まで持たせる」

 

「その後は?」

 

周は台湾海峡を見た。

 

「その後は、疑われることを恐れる必要はない」

 

作戦参謀が黙る。

 

周が続ける。

 

「ただし、疑われることと、相手に決断させることは違う」

 

「つまり」

 

「最後まで、向こうに先に決断させるな」

 

作戦参謀が小さく頷いた。

 

それは、この時点では合理的な命令だった。

 

この日、初めて日米台の評価が明確に変わった。

 

まだ侵攻と断定した者はいない。

 

まだ演習という説明も残っている。

 

だが、その説明は昨日までより苦しくなった。

 

きっかけになったのは、軍艦でも戦闘機でもミサイルでもなかった。

 

病院だった。

 

病床、血液、外科資材、救急車。

 

それらは戦争を始めるためのものではない。

 

戦争で傷ついた人間を受け入れるためのものだった。

 

そして、その準備が始まっていた。

 

演習開始まで、2日。

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