台湾有事 その日、日本有事になった   作:合点承知

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DAY -10

2030年8月15日 午前6時02分

中国・福建省福州市

東部戦区指揮施設

 

大型画面いっぱいに、台湾周辺の海空域が表示されていた。

 

台湾海峡西側から島の北東、東、南へ伸びる複数の演習区域。その周囲に、空軍、海軍、ロケット軍、海警の部隊記号が並んでいる。

 

昨夜まで地図の内陸側にあった記号のいくつかは、すでに沿岸へ移っていた。

 

「空軍、開始配置完了」

 

通信担当者が読み上げる。

 

「海軍、全指定部隊、予定海域への進出を確認」

 

続いて別の担当者。

 

「ロケット軍、訓練配置への移動完了。海警部隊も指定海域への展開を開始しています」

 

報告は淡々としていた。

 

誰も声を張らない。

 

今日がニュースで伝えられるような「大規模軍事演習初日」であることを除けば、司令部の雰囲気はむしろ平静だった。

 

作戦参謀が時計を見る。

 

6時02分。

 

「全参加部隊、予定位置への展開を確認しました」

 

周啓明中将は大型画面から目を離さなかった。

 

「開始しろ」

 

「了解」

 

短い命令が通信網を通って流れていく。

 

数分後。

 

台湾海峡西側の航空基地から最初の編隊が離陸した。

 

J-16。

 

その後方から空中警戒機。

 

さらに別の基地から戦闘機が上がる。

 

沿岸部では複数の艦艇が針路を変え、公表済みの演習区域へ向かっていた。

 

作戦参謀が新しい数字を確認する。

 

「初日の航空活動は、前年同期比16パーセント増の計画です」

 

「昨日と変わっていないな」

 

「はい。最終調整でも増やしていません」

 

周が頷く。

 

「そのままでいい。増やすな」

 

「了解」

 

情報参謀が隣の画面を見る。

 

「台湾側、航空監視を開始しました。米軍、日本側も通常より高密度で監視しています」

 

「当然だ」

 

周の返事は短かった。

 

作戦参謀が大型画面の一角を見て、少し笑う。

 

「こちらだけ見れば、かなり派手ですね」

 

そこでは国営テレビの生中継が流れていた。

 

戦闘機が滑走路を離れる。

 

駆逐艦が隊列を組む。

 

兵士が防弾衣を着け、ヘルメットの顎紐を締める。

 

カメラは低い位置から戦闘機を追い、艦艇の主砲を大きく映していた。

 

画面下には赤い字幕。

 

「東部戦区、大規模統合演習を開始」

 

周は数秒だけ映像を見た。

 

「宣伝は?」

 

「予定通りです。国内向けには空海統合作戦、封鎖能力、精密打撃能力を強調します」

 

「それならいい」

 

作戦参謀が少し迷ってから聞く。

 

「実際の活動は?」

 

周は演習計画へ視線を戻した。

 

「普通にやれ」

 

「普通に、ですか」

 

「昨日説明しただろう」

 

「はい」

 

周は台湾東側の演習区域を指した。

 

「今日、相手が見ているのは規模だけじゃない。配置、兵装、出撃間隔、通信量、補給。去年と違うものを探している」

 

情報参謀が頷く。

 

「特に日本と米国は、昨日までの医療、物流の動きをかなり意識しています」

 

「だからだ」

 

周は静かに言った。

 

「今日こちらが必要以上に派手に動けば、昨日までの疑いに答えを与える」

 

「逆に普通なら?」

 

作戦参謀が聞く。

 

周は少し考えた。

 

「答えを与えない」

 

「安心させるのではなく?」

 

「そこまで期待するな」

 

周は椅子に深く座った。

 

「今日は普通に見えればいい。それが一番難しい」

 

午前7時11分

東京都新宿区・防衛省

 

「始まりました」

 

若い分析官が言った。

 

佐伯直哉二等海佐が画面を見る。

 

中国軍機の活動、艦艇の位置、レーダー情報、衛星画像。複数の画面に、ほぼ同時刻の前年データも表示されていた。

 

佐伯はしばらく何も言わなかった。

 

「何機?」

 

「現時点で確認34機です」

 

「去年は?」

 

「同時刻で29です」

 

「艦艇」

 

「海軍18、海警22。去年が海軍16、海警20」

 

佐伯が腕を組む。

 

「少し多いな」

 

「はい」

 

「配置は?」

 

分析官が地図を切り替える。

 

「公表された演習区域どおりです。東側が去年より少し広い。ただ、それ以外は大きく変わりません」

 

「ロケット軍」

 

「移動を確認しています。ただし、射撃はまだありません。展開位置も演習として説明できる範囲です」

 

佐伯は椅子にもたれた。

 

「……普通だな」

 

分析官が少し笑った。

 

「普通ですね」

 

「昨日まで何だったんだろうな」

 

「病院とか物流とか潜水艦とかですか」

 

「全部」

 

佐伯は去年と今年のデータを切り替えた。

 

画面の赤い点がわずかに増減する。

 

それだけだった。

 

「今日だけ見れば、去年より少し大きいだけだ」

 

「はい」

 

「航空機も」

 

「少し多いだけです」

 

「艦艇も」

 

「同じです」

 

「配置も」

 

「少し広いだけ」

 

佐伯が鼻で笑った。

 

「全部少しだな」

 

分析官が笑う。

 

「最近好きですね、その言葉」

 

「嫌いだよ。便利すぎる」

 

そこへ情報班長の一佐がやってきた。

 

「どうだ」

 

佐伯が振り返る。

 

「今のところ平年並みです」

 

一佐が画面を見る。

 

「本当に?」

 

「少し大きいですが、想定の範囲内です」

 

一佐は前年データと今年のデータを見比べた。

 

「昨日の評価は?」

 

「維持でいいと思います」

 

「上げない?」

 

「今日は上げる材料がありません」

 

「下げる材料は?」

 

佐伯は少し考える。

 

「それも、まだありません」

 

一佐が苦笑した。

 

「便利だな」

 

「最近そればっかりです」

 

一佐はしばらく画面を見た。

 

「考えすぎだったか?」

 

その言葉で、佐伯の表情が少し止まった。

 

若い分析官が一佐と佐伯を交互に見る。

 

佐伯は椅子を少し引いた。

 

「その可能性もあります」

 

一佐が眉を上げる。

 

「お前が言うと珍しいな」

 

「私だって外れることはあります」

 

「ずいぶん素直だな」

 

佐伯は苦笑した。

 

「昨日までの動きが全部演習準備だったなら、それが一番いいです」

 

「病院も?」

 

「大規模演習への事前対応」

 

「物流も?」

 

「演習部隊の輸送」

 

「潜水艦も?」

 

「封鎖訓練」

 

一佐が頷く。

 

「全部説明できる」

 

「はい」

 

佐伯は画面を見る。

 

「説明できることと、本当にそうだったかは別ですけどね」

 

「また始まったな」

 

一佐が笑う。

 

佐伯も笑った。

 

「でも今日は、それでいいです」

 

「そうだな」

 

分析官も頷く。

 

誰も、それ以上は言わなかった。

 

本当にこのまま終わってくれるなら。

 

それが一番いい。

 

午前8時26分

台湾・台北市

国防部関連施設

 

「第一波、確認しました」

 

情報将校が報告した。

 

大型画面に、中国軍機の航跡と艦艇の位置が重なる。海警船も演習区域外縁をゆっくり移動していた。

 

上官が腕を組む。

 

「数は?」

 

「前年初日比で約2割増です」

 

「多いな」

 

「ただし編成は去年とほぼ同じです。戦闘機、支援機、早期警戒機の比率にも大きな違いはありません」

 

「東側は?」

 

「公表済みの区域内です」

 

「領空侵犯は」

 

「ありません」

 

「領海侵入」

 

「ありません」

 

上官が小さく息を吐いた。

 

「じゃあ、演習だな」

 

情報将校が少し驚いた顔をする。

 

「そう言い切ります?」

 

上官が笑った。

 

「言い切ってない」

 

「聞こえましたけど」

 

「今のところ、だ」

 

情報将校も少し笑う。

 

「警戒態勢は?」

 

「維持」

 

「追加は?」

 

「なし」

 

「昨日より安心しました?」

 

上官は少し考えた。

 

「少し」

 

「私もです」

 

「口にすると怖いな」

 

「何でです?」

 

「安心した途端に何か起きそうだから」

 

情報将校が笑う。

 

「縁起悪いですよ」

 

上官も笑った。

 

「じゃあ言わない」

 

画面では、中国軍機が演習区域の外縁を回っている。

 

去年と似た軌跡。

 

去年と似た速度。

 

去年と似た距離。

 

完璧に同じではない。

 

だが、違いを「異常」と呼ぶほどでもなかった。

 

「昨日まで、中国が何を隠してるかばかり考えてた」

 

上官が言う。

 

「はい」

 

「今日は、去年の資料と同じところを探してる」

 

「安心材料を探してます?」

 

上官は少し笑った。

 

「人間だからな」

 

情報将校も画面を見る。

 

上官が続けた。

 

「このまま予定の最終日まで同じことやって、22日の正午に終わったと言って帰ってくれればいい」

 

「本当に」

 

その返事に迷いはなかった。

 

午前9時34分

台湾・新北市

 

テレビには中国軍の演習映像が流れていた。

 

戦闘機、艦艇、ミサイル部隊。

 

画面下には大きな字幕。

 

「中国軍、台湾周辺で大規模演習開始」

 

怡君がパンを食べながら画面を見る。

 

「去年と同じじゃない?」

 

俊偉もテレビを見る。

 

「去年よりちょっと多いらしい」

 

「ちょっとでしょ」

 

「うん」

 

怡君はスマートフォンを見る。

 

会社から新しい通知はない。

 

在宅勤務は任意。

 

業務は通常どおり。

 

会議も予定どおり。

 

「ほら」

 

俊偉が横を見る。

 

「何が」

 

「普通」

 

「会社?」

 

「うん」

 

俊偉が笑う。

 

「また会社基準」

 

「分かりやすいから」

 

「国防部より会社?」

 

「国防部が危ないって言っても会社が出社しろって言ったら仕事するでしょ」

 

俊偉が少し考える。

 

「台湾人、強いな」

 

「会社員が強いの」

 

テレビでは専門家が演習区域について説明している。

 

「東側が昨年より拡大していますが、現時点で過去の大規模演習の範囲を大きく逸脱するものではありません」

 

怡君が俊偉を見る。

 

「専門家も同じこと言ってる」

 

「会社じゃないじゃん」

 

「じゃあもっと安心」

 

俊偉は少し笑った。

 

「水買ったの無駄だった?」

 

「水は無駄にならない」

 

「昨日ちょっと焦ってたくせに」

 

「焦ってない」

 

「1ケース買った」

 

「安かったから」

 

俊偉が笑う。

 

「またそれ」

 

怡君も笑った。

 

テレビでは戦闘機が旋回していた。

 

画面だけ見れば物々しい。

 

だが窓の外にはいつもの街があり、道路をバイクが走り、近所の店も普通に開いている。

 

怡君が言った。

 

「このまま終わればいいね」

 

俊偉はテレビを見る。

 

「うん」

 

その返事は素直だった。

 

午前10時47分

ハワイ・キャンプ・H・M・スミス

米インド太平洋軍司令部

 

「初動は概ね想定内です」

 

情報参謀が報告した。

 

司令官は資料を見る。

 

「航空活動16パーセント増。水上艦艇も1割前後増」

 

「はい」

 

「去年より大きい」

 

「はい」

 

「でも異常ではない」

 

「現時点では」

 

司令官が若い情報将校を見る。

 

「30パーセント、どうする?」

 

若い将校は少し考えた。

 

「維持を提案します」

 

「下げない?」

 

「下げる理由もありません」

 

「上げる理由は?」

 

「ありません」

 

司令官が少し笑う。

 

「珍しく平和な答えだな」

 

若い将校も笑った。

 

「昨日よりは」

 

情報参謀が言う。

 

「警戒態勢も現状維持でよいと考えます」

 

司令官が椅子にもたれた。

 

「正直に言うと」

 

2人が見る。

 

「少し安心した」

 

若い将校が頷く。

 

「私もです」

 

「病院の件と物流は気になる」

 

「はい」

 

「でも今日の活動だけを見ると、演習として筋が通ってる」

 

情報参謀が答える。

 

「その通りです」

 

司令官は台湾周辺の地図を見る。

 

「我々が今、一番やってはいけないのは?」

 

若い将校が答える。

 

「昨日までの異常を忘れることです」

 

「もう1つ」

 

情報参謀が少し考える。

 

「今日が普通だからといって、昨日までの判断が間違いだったと決めること」

 

司令官が頷く。

 

「そうだ」

 

少し沈黙。

 

「でも、普通なのは嬉しい」

 

若い将校が笑った。

 

「そこは否定しません」

 

「予定どおり22日正午に終わって、全部帰る」

 

司令官は椅子の背にもたれた。

 

「それが最高の分析結果だな」

 

午後0時18分

中国・福建省福州市

東部戦区指揮施設

 

「日米台の反応です」

 

情報参謀が資料を開いた。

 

周が顔を上げる。

 

「どうだ」

 

「台湾、追加警戒なし。日本も昨日の態勢を維持。米国も大きな変更はありません」

 

「評価は?」

 

「米国は30パーセントを維持しています」

 

作戦参謀が少し不満そうな顔をする。

 

「下がらなかったか」

 

周が横を見る。

 

「下げる必要はない」

 

「しかし、こちらはかなり抑えています」

 

「だから下がると思ったのか?」

 

作戦参謀は少し黙った。

 

「多少は」

 

周は首を横に振る。

 

「相手は昨日までの情報を持っている。今日一日普通だったからといって全部捨てるほど無能じゃない」

 

情報参謀が頷く。

 

「日本側にも、演習初動は想定内との評価があります」

 

「それで十分だ」

 

「評価が上がらなければ?」

 

「今日の目的は達成だ」

 

作戦参謀が尋ねる。

 

「やはり演習だと思わせること?」

 

周は少し考えた。

 

「違う」

 

「では?」

 

「演習ではない、と決断させないことだ」

 

作戦参謀が頷いた。

 

周は大型画面を見る。

 

「なら予定通り続けろ」

 

作戦参謀が一瞬止まる。

 

周が気づく。

 

「何だ」

 

「いえ」

 

「言ってみろ」

 

作戦参謀が少し笑う。

 

「昨日、予定通りという言葉を避けていたので」

 

周も少し笑った。

 

「今日は使っていい」

 

「基準が分かりません」

 

「私にも分からん」

 

珍しく会議室に笑いが起きた。

 

周は笑みを残したまま画面を見る。

 

「だから毎日考えるんだ。昨日正しかったことが、今日も正しいとは限らない」

 

「今日は正しい?」

 

「今のところはな」

 

作戦参謀が苦笑する。

 

「便利な言葉ですね」

 

周は彼を見た。

 

「覚えておけ。長く司令部にいられる」

 

また小さな笑いが起きた。

 

午後2時09分

神奈川県横須賀市

護衛艦「まや」

 

副長が新しい報告を持ってきた。

 

「中国側、今のところ予定どおりです」

 

村瀬健一艦長が海図から顔を上げる。

 

「普通?」

 

「普通です」

 

「本当に?」

 

「去年より少し多いですが」

 

村瀬が笑った。

 

「じゃあ普通じゃないじゃないか」

 

「最近の中国軍基準なら普通です」

 

「便利な基準だな」

 

副長も笑う。

 

村瀬は報告書を見る。

 

航空機、艦艇、海警。

 

どれも少し多い。

 

しかし異常ではない。

 

「昨日、弾薬まで全部確認したよな」

 

「しました」

 

「無駄だったかな」

 

副長が言う。

 

「無駄な方がいいでしょう」

 

村瀬が顔を上げる。

 

「そうだな」

 

「使わずに済む弾薬が一番いい弾薬です」

 

「誰の言葉だ」

 

「今作りました」

 

村瀬が笑った。

 

「最近みんなそれやるな」

 

副長も笑う。

 

「艦長、昨日より顔が楽ですよ」

 

「分かる?」

 

「かなり」

 

村瀬は海図を見る。

 

「考えすぎだったかもしれないな」

 

副長は少し黙った。

 

「その方がいいですよ」

 

「ああ」

 

「悔しくないですか?」

 

村瀬が横を見る。

 

「何が」

 

「警戒しすぎだった、と」

 

村瀬は少し考えてから首を振った。

 

「こういうのは外した方がいいんだよ」

 

「ですよね」

 

「当てたら戦争だ」

 

副長の笑みが少しだけ消える。

 

村瀬は椅子にもたれた。

 

「予定どおり最後までやって、派手な映像流して、22日の昼に終わりですって言って帰ってくれ」

 

「それが一番ですね」

 

「俺たちも普通の仕事に戻る」

 

副長が笑う。

 

「艦長、普通の仕事好きでしたっけ」

 

村瀬も笑った。

 

「今は好きだよ」

 

午後4時21分

東京都千代田区・首相官邸

 

「初日の状況です」

 

黒田慎吾参事官が資料を置いた。

 

官房副長官がすぐに聞く。

 

「どう?」

 

「現時点では、通常の大規模演習の範囲内です」

 

官房副長官の肩が少し下がった。

 

「そうか」

 

黒田が気づく。

 

「安心されました?」

 

「するだろ、普通」

 

「私もです」

 

「お前もか」

 

官房副長官が資料を見る。

 

「昨日まで結構嫌なこと言ってたのにな」

 

「昨日までの情報は残っています」

 

「病院とか?」

 

「はい」

 

「物流も?」

 

「残っています」

 

「でも今日の動きは普通」

 

「そうです」

 

官房副長官が息を吐く。

 

「考えすぎだったなら、それでいいんだよ」

 

黒田は少し笑った。

 

「そうですね」

 

「こういうのは当たらない方がいい」

 

「完全に同意します」

 

「政府として何か追加する?」

 

「必要ないと思います」

 

「国民向けも?」

 

「通常の情報発信で十分です。中国軍が大規模演習を開始したこと、政府として警戒監視を継続していること。その程度で」

 

「危機感を煽る必要はない」

 

「現時点では」

 

官房副長官が黒田を見る。

 

「その言い方やめろ」

 

黒田が苦笑する。

 

「職業病です」

 

官房副長官は資料を閉じた。

 

「じゃあ、このまま終わってくれ」

 

黒田は頷く。

 

「それが一番です」

 

少し沈黙。

 

官房副長官がもう一度資料を開いた。

 

「終了予定、22日の正午だったな」

 

「はい」

 

「そこまで何もなければ」

 

黒田は一瞬だけ間を置いた。

 

「かなり安心できます」

 

「かなり、か」

 

「全部とは言いません」

 

「もういい。今日はそれで十分だ」

 

午後6時42分

東京都新宿区・防衛省

 

佐伯は朝からのデータを並べていた。

 

出撃数、航跡、艦艇配置、通信量、ロケット軍、補給。

 

去年との比較。

 

若い分析官が隣から画面を見る。

 

「結局どうでした?」

 

佐伯は椅子にもたれた。

 

「例年通りだな」

 

「朝と同じですね」

 

「ああ」

 

「途中で何か出ると思ってました」

 

「俺も」

 

分析官が少し笑う。

 

「考えすぎでした?」

 

佐伯は画面を見る。

 

去年と今年。

 

ほとんど同じ。

 

少しだけ今年の方が大きい。

 

「かもしれないな」

 

分析官が佐伯を見る。

 

「認めるんですか」

 

「何だよ」

 

「もっと抵抗するかと」

 

「俺だって間違ってた方が嬉しいことくらいある」

 

分析官は少し黙った。

 

「昨日の病院は?」

 

「気になる」

 

「物流も?」

 

「気になる」

 

「潜水艦も?」

 

「気になる」

 

「じゃあ安心してない?」

 

佐伯は少し考える。

 

「警戒はしてる」

 

「でも?」

 

「このまま終わってほしい」

 

分析官が小さく頷く。

 

「私もです」

 

佐伯は画面を閉じなかった。

 

「今日一日だけなら、演習だったって説明の方が強い」

 

「昨日までは?」

 

「戦争準備じゃない説明を探してた」

 

「今日は?」

 

佐伯は去年のデータをもう一度表示する。

 

「演習だって説明を疑う理由を探してる」

 

分析官が少し笑う。

 

「逆になりましたね」

 

「ああ」

 

佐伯も笑った。

 

「でも、そういうもんだろ」

 

「何がです?」

 

「情報分析。自分が昨日考えたことにしがみついたら終わりだ」

 

「格好いいですね」

 

「今日は本気だぞ」

 

「昨日も聞きました」

 

佐伯が横を見る。

 

「やっぱり記録してるだろ」

 

分析官が笑う。

 

「してません」

 

佐伯も笑った。

 

「22日の正午まで毎日同じなら、最後に俺が『考えすぎだったな』って笑えばいい」

 

「その時は言いますよ」

 

「何を」

 

「ずっと気持ち悪がってましたね、って」

 

「好きにしろ」

 

その笑いは、ここ数日で一番長く続いた。

 

午後9時53分

台湾・台北市

航空会社運航管理室

 

「今日、思ったより普通でしたね」

 

若い担当者が言った。

 

上司は翌日の運航計画を確認している。

 

「そうだな」

 

「遅延はありましたけど」

 

「去年もあった」

 

「欠航も」

 

「去年もあった」

 

「軍用機もいっぱい飛んでました」

 

「去年も飛んでた」

 

担当者が笑う。

 

「全部去年もあった」

 

上司も笑った。

 

「そういうことだ」

 

「明日は?」

 

「同じなら楽だな」

 

「まだしばらく続くんですよね」

 

「22日の昼までの予定だ」

 

担当者が嫌そうな顔をした。

 

「長いですね」

 

「数えるな。余計長く感じる」

 

「始まったばっかりです」

 

「だからだよ」

 

担当者が画面を見る。

 

航空機の迂回ルートは複数設定されたままだった。

 

それでも朝より混乱は減っていた。

 

「まあ、このままなら大丈夫ですね」

 

上司は少しだけ間を置いた。

 

「ああ」

 

そして付け加えた。

 

「このままならな」

 

午後11時26分

中国・福建省福州市

東部戦区指揮施設

 

初日の最終報告。

 

作戦参謀が資料を読み上げる。

 

「航空活動、計画比98パーセント。水上艦艇、全て予定区域内。ロケット軍は移動訓練のみ。重大事故なし」

 

「台湾側は」

 

「追加動員なし」

 

「米軍」

 

「態勢変更なし」

 

「日本」

 

「同様です」

 

周は頷いた。

 

「よし」

 

情報参謀が言う。

 

「各国報道も概ね『過去最大級の大規模演習』ですが、軍事的には前年の延長線との評価が多いです」

 

作戦参謀が少し笑う。

 

「狙い通りですね」

 

周は彼を見る。

 

「その言葉は嫌いだ」

 

「失礼しました」

 

「今日がうまくいっただけだ」

 

作戦参謀が頷く。

 

周は台湾周辺の画面を見る。

 

「明日も基本計画は変えない。急ぐな」

 

作戦参謀が確認する。

 

「活動量は今日と同程度?」

 

「そうだ」

 

「配置も?」

 

「基本はな」

 

「了解」

 

会議が終わり、参謀たちが席を立つ。

 

情報参謀だけが少し残った。

 

「中将」

 

周が見る。

 

「何だ」

 

「一つ聞いてもよろしいですか」

 

「聞け」

 

情報参謀は少し迷った。

 

「このまま予定終了時刻まで、本当に演習だけで終わればいいと思うことはありますか」

 

周は一瞬、答えなかった。

 

「ない」

 

情報参謀が頷く。

 

「失礼しました」

 

周は画面を見る。

 

台湾。

 

海峡。

 

演習区域。

 

その向こうの日本。

 

「だが」

 

情報参謀が立ち止まる。

 

「相手がそう思うのは理解できる」

 

「このまま終わってほしい、と?」

 

「そうだ」

 

周は椅子にもたれた。

 

「人間は、安心できる説明を見つけると手放したくなくなる」

 

「演習だった、という説明」

 

「そうだ」

 

周は画面の台湾を見た。

 

「昨日まで彼らは、我々の動きが戦争準備かもしれないと考えていた」

 

「はい」

 

「今日、実際に演習が始まった。そして、動きは演習として説明できた」

 

情報参謀が頷く。

 

「安心します」

 

「当然だ」

 

周は少し間を置いた。

 

「だから危険なんだ」

 

「彼らにとって?」

 

周は首を横に振った。

 

「我々にとってもだ」

 

情報参謀が周を見る。

 

「我々も、自分の計画がうまく進んでいるという説明を信じたくなる」

 

「だから毎日疑え」

 

「そうだ」

 

周は小さく笑った。

 

「覚えているならいい」

 

演習初日。

 

中国軍機は飛び、艦艇は動き、海警船は台湾周辺へ展開した。テレビでは勇ましい映像が繰り返され、各国のニュースは「過去最大級」という言葉を使った。

 

だが軍事的に見れば、昨年より少し大きいだけだった。

 

日米台は評価を引き上げなかった。

 

新たな大規模動員も行われなかった。

 

そして、多くの人間が同じことを考えた。

 

考えすぎだったのかもしれない。

 

このまま演習をして、このまま何事もなく、予定どおり8月22日正午に終わってくれ。

 

その願いが、この日だけは十分に現実的に見えた。

 

演習終了予定、8月22日正午。

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