重曹ちゃんに拾われた   作:クレンザーを舐める

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注意

本作では発達障害について軽く取り上げます。ご不快に思う方はブラウザバック推奨。


亀更新ですがお付き合い頂ければと思います。


1話

 

 会社を辞めた。

 

 幼い頃、俺は「頭の良い子」ともてはやされた。教育熱心な母親は、まだ五歳にも満たない俺のために高価な英語教材を買い、いくつもの習い事に通わせ、惜しみなく投資してくれた。

 

 小学校、中学校、高校、そして大学。成績は中学校辺りから浮き沈みが激しかったが、引かれたレールの上を進んでいき、就職活動でもそれほど苦労することなく、都内にあるごく普通の中小企業に滑り込んだ。

 

 今となっては、母が買ってくれた教材の中身も、習い事で教わったこともほとんど覚えていない。それでも、人並みの企業に就職したことで、少しは親の恩に報いることができたのではないか、そう思っていた。

 

 ただ、学生時代に周囲からよく言われたのは「変わっている子」という評価だった。

 

 国語の授業で的外れな読解を披露したり、会話の途中で急に話の腰を折って脱線させたり、頻繁に宿題を忘れたり。今思えば、確かに周囲の枠からはみ出していたのだろう。

 

 だが、それで大きな挫折を味わうことはなかった。それなりの苦労や摩擦はあっても、最後には必ず、自分なりに帳尻を合わせて成功のある人生を送ってきた。

 

 そう、「社会人」なんていう、得体の知れないものになるまでは。

 

 社会に出た瞬間、「変わっている子」という免罪符は消滅する。

 

 仕事と学校でのテストは根本的にルールが違う。テストなんて、一問や二問ミスったところで、八十点そこそこ維持していれば「優秀な奴」として扱ってもらえた。誰も文句は言ってこない。

 

 だけど仕事は違う。常に百点。減点=即脱落の毎日だ。俺は昔からケアレスミスの常習犯だった。テストでは必ずどこかでポカをやる。小学校低学年をのぞけば、九十点以上の答案なんて片手で数えるほどしか見たことがない。そんな俺と、完璧を強いる『仕事』という怪物は、最初から水と油だったのだ。

 

 社会人になってから、俺が「仕事のできない奴」という烙印を押されるまでに、さして時間はかからなかった。

 

 大事なメモをどこかへ紛失する。確認を怠り、自分の身勝手な思い込みだけで突っ走る。一つの作業に没頭するあまり、他のすべてを放り出してしまう。そして、取り返しのつかない致命的なケアレスミスを犯し、組織に損害を出す。

 

 周りの人間も、最初こそ「新人だから仕方ない」と苦笑交じりに許してくれていた。しかし、彼らの顔から徐々に笑顔が消え、二ヶ月が過ぎる頃には、その視線は明確な「白い目」へと変わっていた。こいつはもう使い物にならない。言葉にされずとも、刺さるような空気でそれが分かった。

 

 上司は立場上、俺を何度も叱責し、具体的な対策を考えてこいと促してくれた。けれど、どれだけ机にかじりついても有効な解決策など浮かんでこない。ただ自分の不甲斐なさと無能さに、吐き気がするだけだった。

 

 多少仕事でミスを重ねても、人付き合いの立ち回りが上手ければ、世渡りとしては生きていける。その生きた証拠が、すぐ隣にいる同期だった。しかし、俺にはその救いすらなかった。

 

 昔から他者との関わりが致命的に苦手で、友人と呼べる存在も片手で足りるほどしかいない。業務もこなせず、人間関係の構築もできない。そんな出来損ないが、まともな社会で生きていけるはずがなかった。会社という冷徹な檻の中で、俺は孤立していた。

 

 味方はただの一人もいなかった。俺の会社での立場は、これ以上ないほど最悪だった。

  

 常に周りから白い目で見られ、たま振られる仕事をこなしても完璧にできず、怒られ、呆れられる日々。誰も俺を必要としていない、だれも俺を誉めてくれない。

 

 どうにかしないと、でもどうすれば良いのかわからない。

 

 毎日そんな事を考えると、急に頭の中に恐怖が生まれ、一気に膨れ上がっていった。不安で、これからどうしていいかわからなくて。どうなるかもわからない。

 

 そして俺はある日、会社で倒れた。過呼吸で息もできず、蹲って、失敗するかもしれない。これ以上失敗したらどうなるかもわからない。行き場のない恐怖心に心臓を突き刺され、怯えてる事しかできなかった。

 

 自分の中にある信じたくない可能性を浮かべながら、心療内科へと足を運んだ。医者には仕事のこと、これまでの人生のこと、すべてを吐き出した。長い問診の末、その可能性は最悪の形で的中した。

 

 俺は発達障害──「ADHD」だった。 

 

 親に申し訳ないと思った。わざわざお腹を痛めて産んだ息子が、発達障害だったなんて。きっとショックを受けるだろう。親戚の集まりで格好の話題にされ、苦笑いするしかない両親の姿が浮かんだ。

 

  友達や会社の上司にも、申し訳なさで胸が潰れそうだった。きっと、これまで無自覚にたくさんの迷惑をかけてきたのだ。診断を受ける前、俺の不手際を「特性」ではなく「個性」として受け入れようとしてくれた人達には、どれほどの苦労をさせただろう。 

 

 押し寄せる罪悪感と悲しみが頭を支配し、まともに思考する力が湧かない。ただ申し訳なくて、悲しくて、何とも言えないネガティブな感情がいつも頭にいっぱいで、苦しかった。

 

 もう、そこに、かつて「頭の良い子」と呼ばれた俺の姿は、もう影も形もなかった。

 

 そして俺は数日前、会社を辞めた。

 

 

 冷たい風が吹き、俺の頬を叩く。勢いの強い雨が俺を体を濡れさせる。寒いし、冷たい。でもそんな事は今の俺にはどうでも良かった。

 

 歩道橋からはこれから家に帰るだろう人達の車が、ライトを照らして暗闇を走っている。この人達には迷惑をかけるだろうけど、もうそんな事どうでも良かった。

 

 歩道橋の欄干を掴み、手すりに足を乗せる。指先が、寒さのせいで白く強張っている。

 

脳裏を過るのは、俺をここまで追い詰めた出来事の断片だった。誰かの冷たい声、思い通りにいかなかった現実、周りの人への罪悪感。それらが雨の雫のように頭の中に溢れては消えていく。

 

 もう疲れた、これで頑張らなくていいんだ。

 

 そんな思いが、呪いのように、あるいは救いのように胸を満たした。

 

 欄干を乗り越え、つま先だけで歩道橋の狭い縁に立っち、目を開く。

 

 だけどその瞬間、それまで麻痺していた感覚が一気に目を覚ました。下を見下ろした視界が、ぐにゃりと歪む。想像以上の高さ、暗闇の中で無機質に光るアスファルト、そして激しく行き交う車の群れ。

 

――怖い。

 

 突然、心臓が爆発したかのように激しく脈打ち始めた。どうでもいいはずだったのに、喉の奥がカラカラに乾き、歯の根がガチガチと鳴り出す。濡れた欄干を掴む指先が、自分の意志に反して、千切れんばかりの力でしがみついていた。「死にたい」という思考を、身体が持てるすべての本能で拒絶していた。

 

 嫌だ、怖い、死にたくない!

 

「アンタ、何やってるの……ッ!!」

 

 突然、激しい雨音を割って、鋭い少女の声が響いた。

 驚愕に目を見開く暇すらなかった。背後から伸びてきた二つの細い腕が、俺の上着の襟元と、欄干を掴む腕をがむしゃらに掴む。

 

「ちょっと、重っ……! 舐めんじゃないわよ、男のくせに……死ぬ気があるなら、戻る力くらい残ってんでしょ!!」

 

 必死の形相で、少女が俺の体を歩道橋の内側へと引き戻そうと力を込める。小柄な彼女の体躯では、大人の男である俺を引っ張るのは肉体的に限界のはずだった。それでも、彼女の指先は俺の服に深く食い込み、爪が剥がれんばかりの尋常ではない力で俺を引っ張る。

 その必死さに抗えきれず、そして俺自身の「生きたい」という本能が合致した瞬間、俺の体は欄干を乗り越え、歩道橋の冷たいコンクリートの床へと転がり落ちた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 

 激しく雨に打たれながら、俺たちは二人して床にへたり込み、荒い息を吐き出す。

 恐怖でガチガチと震える体を抱え、俺を救い出した「誰か」を仰ぎ見る。

 

 水浸しの床に膝をつき、肩を激しく上下させている少女がいた。

 ずぶ濡れになって張り付いた、特徴的なボブカットの赤髪。雨のせいでメイクは完全に落ちているはずなのに、その奥にある端正な顔立ちと、意思の強い大きな瞳が、暗闇の中で妙に鮮烈に映った。

 

 少女は 睨みつけるように見下ろした。その瞳には、見ず知らずの他人に向けられた怒りと、それ以上の切実な怯えが混ざり合っている。

 

「アンタ、人がせっかく、一人で静かに頭冷やそうと思ってこんなとこ来たら……何突発的に飛び降りようとしてんのよ、馬鹿じゃないの!?」

 

 怒鳴り散らす彼女の声は震えていた。

 どこかで見たことがある。俺の鈍い脳が、その顔と声を記憶の引き出しから手繰り寄せようとするが、そんな気力は無く、床にそのまま身を委ねた。

 

「ちょっとアンタ、聞いてるの!?」

 

 彼女が何か言っているが、耳に届かない。俺はただ、思考する事にも疲れ、震えたまま、指一本も体を動かしたくない自分の本能にただ従うだけだった。

 

「なによ……その眼……」

 

 彼女の言葉が、激しい雨音の向こう側に消えていく。睨みつけてくる彼女の大きな瞳に、水浸しの床に横たわる俺の姿が映っていた。生気なんて微塵もなくて、ただ呼吸をしているだけの、ボロ雑巾みたいな泥人形。

 

 

  恐怖のピークが去った俺の身体は、急激に熱を奪われ、芯からガタガタと震え始めていた。指一本動かす気力も湧かない。ただ、冷たいアスファルトに頬をつけたまま、すべてを拒絶するように目を閉じようとした。

 

「――ちょっと、寝んじゃないわよ! 冗談きついって!」 

 

 慌てたような彼女の声と同時に、俺の肩が強引に揺さぶられる。

 

 小柄な身体のどこにそんな力が残っているのか、彼女は俺の腕を自分の肩に回し、泥塗れになるのも構わず、必死に俺の身体を起こそうとしていた。

 

「死ぬのが怖くてガチガチになってたくせに、ここで凍死したら世話ないでしょ! ほら、立ちなさい! 踏ん張りなさいよ、このバカ!」

 

 容赦ない罵声。だけど、俺を支える彼女の小さな肩は、俺と同じように激しく震えていた。

 

 今思えば録でもない出会いだった。本来ならきっと、もっとロマンチックな出会いが有っても良かったが、きっと俺達にはこの出会い方しか無かったのだろう。

 

 この俺を助けてくれた少女ーー有馬かなが、後に俺の飼い主になり、長い間添い遂げるパートナーになるなんて、この時の茫然自失で死にそうな俺には知る由もなかった。




もう少し進めたかったけど、今はこんなものかな。

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ADHDの描写は避けた方がいいかな?

  • 今のままでいい
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