平成ホラーって容赦ないよね 作:ホほ保
この世界で暮らしていくうえで、俺が最も大切にしていることは、言うまでもなく死なないことだ。
しかし、ただ生きているだけでは、部屋に閉じこもってストレスを溜めるだけの人生になってしまう。
命に危険がない範囲で、人生を楽しむことも必要だろう。
前世の俺は、一人でできるアウトドアを好んでいた。
キャンプへ行ったり、冬になればスノーボードをしたり。集団競技は苦手だったが、自分のペースで身体を動かすことは好きだった。
だが、この世界へ転生してからは事情が違う。
人気のない山。
深夜のキャンプ場。
雪に閉ざされた道。
どれもホラー作品では定番の舞台である。
わざわざ怪異の本拠地になりそうな場所へ、こちらから出向く気にはなれない。
家族に誘われればスノーボードくらいはするが、一人で山奥へ入るような趣味はほとんどやめてしまった。
代わりに始めたのが、カフェ巡りだった。
もともと甘いものが好きだったのもあるが、カフェは明るい時間帯に営業している。
人の目がある。
食べ物がおいしい。
何より、山奥に比べればはるかに安全だ。
我ながら、いい趣味を見つけたと思う。
◇ ◇ ◇
土曜日の午前九時。
俺は居間のテーブルに町の情報誌を広げ、スマートフォンへ目的地の住所を入力していた。
今回向かうのは、駅から少し離れた場所にある『喫茶flower』。
情報誌によれば、注文を受けてから一枚ずつ焼き上げる、分厚いパンケーキが名物らしい。
掲載されている写真を見る限り、厚さは三センチ以上。
表面には焼き色がつき、その上には四角く切られたバターが載っている。
横には、小さな器に入ったメープルシロップ。
実に素晴らしい。
これは行くしかない。
俺はスマートフォンの地図で道順を確認する。
大通りを通る道が一つ。
住宅街を抜ける近道が一つ。
所要時間は近道の方が五分ほど短いが、迷わず大通りを選択した。
時間を五分短縮するために、細くて人気のない道を歩くつもりはない。
「またパンケーキ?」
向かい側から、母さんが情報誌をのぞき込んできた。
「またってほど行ってないよ」
「先週も食べてなかった?」
「あれは昔ながらの硬めのパンケーキだったから別」
店ごとに生地も焼き方も違う。
一緒にしてもらっては困る。
母さんは俺のこだわりを理解できないらしく、笑いながら財布を取り出した。
「お金、足りるの?」
「小遣いがあるから大丈夫」
「暗くなる前には帰ってきなさいよ」
「うん。店を出たら連絡する」
俺が一人でカフェへ行くことについて、両親は特に反対していない。
行き先と帰る時間を伝え、スマートフォンを持っていくこと。
遠すぎる場所には行かないこと。
この二つを守れば、ある程度は自由にさせてくれている。
一人っ子だからなのか、前世の家庭よりも少し過保護なところはあるが、趣味に使うものはよく買ってくれる。
ありがたい話だ。
俺は自分の部屋へ戻り、持ち物を確認した。
スマートフォン。
財布。
ポケットに入る小さな懐中電灯。
神社で買った、小瓶入りの塩。
最後に、カフェの感想を書くための小さな手帳と筆記用具を鞄へ入れる。
昼間の町へパンケーキを食べに行くだけにしては、少し物々しいかもしれない。
だが、この世界では必要最低限の装備である。
塩が本当に効くのかは知らない。
一度も試したことがないからだ。
試さなければならない状況に陥っていないのだから、それでいい。
「行ってきます」
母さんへ声をかけ、俺は家を出た。
◇ ◇ ◇
目的の店までは、バスと徒歩で四十分ほどかかる。
空は晴れており、風も強くない。
絶好のカフェ巡り日和だ。
最寄りのバス停へ向かって歩いていると、少し先に誰かが立っていることに気づいた。
古びたワンピースを着た女だった。
バス停の標識へ額をつけ、両手で顔を覆っている。
最初は気分でも悪いのかと思った。
しかし、女の足元まで伸びた黒髪が、風もないのにゆらゆらと揺れている。
それに、標識へ額をつけているにしては、首が前へ曲がりすぎていた。
危険察知は反応していない。
俺は女から少し離れた場所で足を止め、スマートフォンを取り出した。
ああいう、ぱっと見ただけで人間ではないと分かるものは、視線を向けないようにしやすい分、むしろありがたい。
俺はバスの時刻を確認しているだけの、ごく普通の小学生であるふりをする。
しばらくすると、近所のおばあさんが歩いてきた。
おばあさんは女に目を向けることなく、その身体をすり抜けてベンチへ座った。
やはり、そちら側の存在らしい。
俺も女を見ないようにしながら、ベンチの端へ腰を下ろした。
危険察知が反応していない以上、こちらから余計なことをしなければ問題ないはずだ。
女は標識に額をつけたまま、一度も動かなかった。
数分後、バスが到着する。
俺がおばあさんのあとに続いて乗り込んでも、女はその場に残っていた。
よかった。
あれもバスに乗ると言いだしたら、次の便を待つつもりだった。
◇ ◇ ◇
駅前でバスを降りる。
そこから喫茶店までは徒歩で十五分ほどだ。
商店や住宅の並ぶ大通りを、スマートフォンの地図を確認しながら進んでいく。
休日のため、それなりに人通りもある。
このまま何事もなく到着できそうだ。
そう思っていたときだった。
「ねえ、君」
すれ違おうとした女から声をかけられた。
反射的に足を止めかけた瞬間、背中を冷たいものが駆け抜ける。
危険察知だ。
俺はそのまま、何も聞こえなかったふりをして歩き続けた。
横目で確認できた限りでは、ごく普通の若い女だった。
白いブラウスに、膝丈のスカート。
片手には小さな鞄を持っている。
顔立ちにも、目立っておかしなところはない。
だからといって、人間であるとは限らない。
むしろ、この世界では普通に見えるものほど疑った方がいい場合もある。
「この辺の子だよね?」
女が後ろからついてくる。
返事はしない。
もしかすると、本当に道を聞きたいだけの人間かもしれない。
だとしても、危険察知が反応した以上、俺にとって危険な存在であることに変わりはない。
怪異か、不審者か。
どちらにせよ、小学生が一人で相手をする必要はないだろう。
「聞こえてる?」
女の声が近づいた。
俺はスマートフォンを操作するふりをしながら、歩調を変えずに進む。
急に走れば、相手へ気づいていると伝わるかもしれない。
人通りの多い道を外れないようにしながら、目的地へ向かう。
「ねえ」
すぐ隣から声がした。
いつの間に追いついたのか、女が俺の顔を横からのぞき込んでいる。
それでも視線は向けない。
俺が見ているのは、スマートフォンの画面だけだ。
現在地を示す印が、一つ先の交差点へ近づいている。
そこを渡り、右へ曲がれば目的の喫茶店が見えるはずだ。
「私が見えるんでしょう?」
女の声が低くなる。
視界の端で、口元が笑ったように見えた。
見えていない。
聞こえていない。
俺は今、喫茶店への道順しか考えていない。
本日の目的はパンケーキであり、怪異との交流会ではない。
交差点へ着く。
歩行者用信号は赤だった。
俺はほかの通行人に混ざって立ち止まる。
女も隣で足を止めた。
周囲の人間は、誰も女を気にしていない。
それどころか、会社員らしき男が女の立っている場所を横切った。
身体同士がぶつかる。
そう思ったが、男は何の反応も見せずに女を通り抜けた。
女の姿が一瞬だけ煙のように揺らぎ、すぐに元へ戻る。
これで確定だ。
まあ、危険察知が反応した時点で分かっていたけど。
信号が青に変わった。
俺は周囲の人に合わせて横断歩道を渡る。
女はついてこない。
交差点の手前に立ったまま、こちらを見ている。
あと少し。
振り返るな。
安心するのは店へ入ってからだ。
俺は歩調を変えずに角を曲がった。
木製の看板が見える。
『喫茶flower』
情報誌に掲載されていたものと同じ店だ。
入口の前まで来たところで、俺は扉へ手を伸ばした。
危険察知は反応しない。
大丈夫だ。
扉を開け、店内へ入る。
コーヒーと、甘く焼けた生地の香りがした。
背後で扉が閉まる。
同時に、女の気配も完全に消えた。
ようやく俺は、小さく息を吐いた。
◇ ◇ ◇
店内には、穏やかなピアノ曲が流れていた。
木目調の壁に、暖色の照明。
席同士も少し離れており、話し声はそれほど気にならない。
情報誌で見た写真よりも、ずっと落ち着いた雰囲気だ。
「一名様ですか?」
店員に尋ねられ、俺は頷いた。
「はい」
「お好きな席へどうぞ」
窓際には二人用の席が空いていたが、俺は店の奥にある壁際を選んだ。
そこなら入口と店内の両方を見渡せる。
窓の外を確認するためではない。
外にいた女の姿を探したら、目が合ってしまうかもしれないからだ。
椅子へ座り、メニューを開く。
目当てのパンケーキは、写真つきで大きく掲載されていた。
追加料金を払えば、バニラアイスと生クリームを載せられるらしい。
少し迷った末、俺は両方追加することにした。
命の危機を無事に切り抜けたのだ。
今日くらい、多少の贅沢は許されるだろう。
注文を取りに来た店員へ、パンケーキとブレンドコーヒーを頼む。
「コーヒー、飲めるの?」
店員が少し驚いたように尋ねる。
「はい。大丈夫です」
「ミルクとお砂糖もつけておくね」
「ありがとうございます」
子ども扱いされるのは仕方がない。
今の俺は、どこから見ても小学五年生だ。
むしろ、小学生が一人で入店してコーヒーを注文しても追い出されなかっただけありがたい。
しばらくして、先にコーヒーが運ばれてきた。
一口飲んでみる。
少し酸味が強いが、香りはいい。
これなら甘いパンケーキにも合いそうだ。
俺は鞄から手帳を取り出し、店の名前と日付を書き込んだ。
店内は静か。
BGMの音量も小さい。
一人でも入りやすい。
席から出口が見える。
ここまでは高評価だ。
そして、十分ほど待ったところで、目的のものが運ばれてきた。
白い皿の中央に、分厚いパンケーキが二枚重なっている。
一番上にはバターが載せられ、その横にはバニラアイスと生クリーム。
温かい生地の熱で、アイスの表面が少しずつ溶け始めていた。
俺はスマートフォンを取り出し、最初の一枚だけ写真を撮った。
何枚も撮っている間に、パンケーキが冷めたら意味がない。
ナイフを入れると、ほとんど抵抗なく生地が切れた。
断面から湯気が立ち上る。
一口分を切り分け、少量のメープルシロップをつけて口へ運ぶ。
表面はわずかに香ばしく、中はスフレのように柔らかい。
甘さは控えめで、バターの塩気がよく合っている。
うまい。
道中で怪異に話しかけられたことなど、どうでもよくなるくらいにはうまい。
俺はパンケーキを食べ、合間にコーヒーを飲む。
店の外を確認することはしなかった。
危険察知は静かなままだ。
なら、今はこの時間を楽しめばいい。
二度目の人生がいつまで続くのかは、俺にも分からない。
だからこそ、安全なときくらいは、好きなものをゆっくり味わいたかった。
◇ ◇ ◇
会計を済ませて店を出るころには、昼を少し過ぎていた。
念のため周囲を確認したが、先ほどの女は見当たらない。
危険察知にも反応はない。
俺は母さんへ店を出たことを連絡し、来たときとは別の道を使って駅へ向かった。
自宅へ戻ったあと、机に手帳を広げる。
今日の記録へ、続きを書き加えた。
パンケーキはスフレ型で、とても柔らかい。
甘さは控えめ。バターとメープルシロップがよく合う。
コーヒーは少し酸味が強い。
店内は静かで、一人でも入りやすい。
少し間を空け、その下に小さく追記する。
駅前の交差点に、白い服の女。
声をかけられても無視すること。
次は北側の道を使う。
これでいい。
怪異がいたからといって、もう行かないと決めてしまうのもよくない。
そんなことを続けていけば、いつか俺が出歩ける場所はどこにもなくなってしまう。
もちろん、危険だと分かっている場所へ無理に近づくつもりはない。
だが、道を変える程度で避けられるのなら、それで十分だ。
俺は手帳を閉じ、次に訪れる店を探すため、町の情報誌を開いた。
怪異を無視して、無事に帰る。
帰ったあとで、食べたものの感想を書く。
それが俺のカフェ巡りだった。
高評価とお気に入りありがとうございますm(_ _)m