平成ホラーって容赦ないよね   作:ホほ保

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ごわめ

 

白石栞は、チャイムの音で目を覚ました。

 

机に伏せて眠っていたらしい。

 

ゆっくりと顔を上げると、見覚えのない教室が目に入った。

 

傷のついた木製の机。

 

板張りの床。

 

黒板や教卓の形も、普段使っている教室のものとは違っている。

 

教室そのものは、ただ古いだけのように見えた。

 

おかしいのは、窓の外だった。

 

電灯がついているにもかかわらず、窓の向こうには何も見えない。

 

校庭も、ほかの校舎も、遠くの街明かりさえ見当たらない。

 

窓の向こう側だけが、黒く塗り潰されているようだった。

 

栞は眼鏡の位置を直し、教室を見回した。

 

並んでいる机は、四つだけだった。

 

本来なら三十人近い児童がいてもおかしくない教室。その中央に、四つの机だけが前を向いて並んでいる。

 

栞は、そのうちの一つに座っていた。

 

右隣には森下美桜。

 

斜め前には高瀬悠真。

 

そして一番前の席には、見覚えのない女の子が座っている。

 

肩より少し長い黒髪。

 

色あせた紺色の服。

 

こちらには背を向けているため、顔は見えなかった。

 

「……美桜ちゃん」

 

栞が小声で呼びかける。

 

美桜は机に伏せたまま動かない。

 

もう一度名前を呼ぼうとしたとき、斜め前の悠真が勢いよく顔を上げた。

 

「うわっ!」

 

悠真の声が教室に響く。

 

それに驚いた美桜も身体を起こし、辺りを見回した。

 

「何、ここ……?」

 

「教室、だよな」

 

悠真は椅子から立ち上がると、窓へ近づいた。

 

黒い窓ガラスに手を当て、外をのぞき込む。

 

「何も見えない。校庭も、街の明かりもない」

 

「悠真、あんまり動かない方がいいよ」

 

美桜が不安そうに呼びかける。

 

悠真は窓から離れると、壁に掛けられた時計を見上げた。

 

長針と短針は、どちらも中途半端な位置で止まっている。

 

午前四時四十四分。

 

秒針だけが、同じ場所で小刻みに震えていた。

 

「私たち、どうして学校にいるの?」

 

美桜の問いに、答えられる者はいなかった。

 

栞が最後に覚えているのは、自宅のベッドへ入ったところまでだった。

 

家を出た記憶も、学校へ来た記憶もない。

 

これは夢なのかもしれない。

 

そう思ったが、机へ触れる指の感触も、床から伝わる冷たさも、夢とは思えないほどはっきりしていた。

 

「あなたは、誰?」

 

美桜が一番前に座る女の子へ声をかけた。

 

女の子は答えない。

 

聞こえていないのか、俯いたまま微動だにしなかった。

 

悠真が女の子へ近づこうとする。

 

そのとき。

 

廊下から、足音が聞こえた。

 

こつ。

 

こつ。

 

こつ。

 

硬い靴底が床を叩く、規則正しい音。

 

三人は一斉に教室の扉を見た。

 

扉の上半分には、細長い窓がついている。

 

その向こうを、黒い人影が横切った。

 

「先生……?」

 

美桜が呟く。

 

返事はない。

 

廊下の足音が止まる。

 

教室の前だ。

 

悠真が二人をかばうように、扉との間へ立った。

 

やがて前方の扉が、音もなく横へ開いた。

 

廊下には誰もいない。

 

しかし、何かが教室へ入ってきた。

 

姿は見えない。

 

それでも床が軋み、足音が教壇へ近づいてくる。

 

教卓の上へ、一冊の黒い名簿が現れた。

 

誰も触れていないのに、表紙がゆっくりと開く。

 

『これから、出席を取ります』

 

女とも男ともつかない声が、教室中に響いた。

 

三人は何も言えなかった。

 

教卓の前には誰もいない。

 

それなのに黒い名簿だけが宙に浮き、紙の擦れる音を立てている。

 

『名前を呼ばれたら、返事をしてください』

 

名簿のページが、一枚めくられた。

 

『高瀬悠真』

 

突然自分の名前を呼ばれ、悠真の肩が跳ねる。

 

返事をするべきなのか。

 

黙っているべきなのか。

 

迷っているうちに、名簿の横へ赤いペンが浮かび上がった。

 

『高瀬悠真』

 

先ほどよりも低い声が、もう一度名前を呼ぶ。

 

「……はい」

 

悠真が答えた。

 

赤いペンが名簿へ丸をつける。

 

今のところ、悠真の身には何も起こらなかった。

 

『森下美桜』

 

「は、はい」

 

美桜も返事をする。

 

再び、名簿へ丸がつけられた。

 

『白石栞』

 

栞は声を出そうとした。

 

しかし、喉が固まってしまっている。

 

分かっていても、身体が動いてくれなかった。

 

『白石栞』

 

名前が繰り返される。

 

「栞」

 

悠真に呼ばれ、栞はようやく小さく息を吸った。

 

「……はい」

 

三つ目の丸がつけられた。

 

名簿のページが、もう一枚めくられる。

 

残っているのは、一番前に座る女の子だけだ。

 

『————』

 

声が聞き取れなかった。

 

激しい雑音のようなものに遮られ、名前の部分だけが抜け落ちている。

 

女の子は返事をしない。

 

ただ、膝の上で両手を強く握っていた。

 

『————』

 

もう一度、名前らしき音が呼ばれる。

 

女の子の肩が震える。

 

返事をしようとしているのだろう。

 

しかし、いくら口を動かしても声が出ていない。

 

美桜が、女の子の横顔をのぞき込んだ。

 

「泣いてる……」

 

その頬を、一筋の涙が流れていた。

 

『返事がないので』

 

赤いペンが持ち上がる。

 

『今日も欠席ですね』

 

女の子の名前があるはずの場所へ、大きな赤い線が引かれた。

 

瞬間。

 

教室中の窓が一斉に割れた。

 

栞は悲鳴を上げ、机の下へ身を縮める。

 

黒い風が教室へ吹き込み、机や椅子が激しく揺れ始めた。

 

「栞!」

 

「美桜、伏せろ!」

 

悠真の声が聞こえる。

 

栞は必死で頭を抱え、目を閉じた。

 

    ◇ ◇ ◇

 

次に目を開けたとき、栞は自分のベッドにいた。

 

カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。

 

身体を起こし、机の上にある時計を見る。

 

午前六時二十分。

 

夢だった。

 

そう思った途端、全身から力が抜けた。

 

栞は胸を撫で下ろし、もう一度布団へ横になろうとした。

 

そのとき、右手が赤く汚れていることに気づいた。

 

手のひらに、一本の線が引かれている。

 

赤いチョークで書かれたような、太く真っ直ぐな線だった。

 

    ◇ ◇ ◇

 

「なあ。二人とも、昨日変な夢を見なかったか?」

 

その日の朝。

 

教室へ入るなり、悠真がそう尋ねてきた。

 

栞と美桜は同時に足を止めた。

 

悠真の右手にも、赤い線が残っている。

 

美桜は何も言わず、自分の手のひらを見せた。

 

同じ線がついていた。

 

「夜の学校?」

 

美桜が恐る恐る尋ねる。

 

「教室に机が四つあった」

 

悠真が答える。

 

「時計は四時四十四分で止まってたわ」

 

栞が続ける。

 

三人の間から、言葉がなくなった。

 

それぞれが似たような夢を見ただけではない。

 

三人は、同じ場所にいた。

 

「あの子もいたよね」

 

美桜が口を開く。

 

夢の中で一番前に座っていた、名前の分からない女の子。

 

返事をすることができず、欠席にされてしまった子。

 

「あの子、返事をしたかったんだと思う」

 

「でも、名前が聞こえなかった」

 

悠真は自分の手の赤い線を指で擦った。

 

何度擦っても薄くならない。

 

「なら、調べてみよう」

 

「何を?」

 

「昔、この学校にあの子がいたのかどうか」

 

悠真は迷いなく答えた。

 

「名前が分かれば、今度は返事ができるかもしれない」

 

「今度って……」

 

美桜の表情が引きつる。

 

「またあの夢を見るつもり?」

 

「見るつもりがなくても、向こうから来るかもしれないだろ」

 

それを言われると、反論できなかった。

 

栞は窓際にある時計へ目を向ける。

 

現在の時刻は、午前八時十分。

 

秒針は正常に動いている。

 

それでも一瞬だけ、時計の針が四時四十四分を指しているように見えた。

 

栞は眼鏡を外し、目元を押さえた。

 

もう一度見たときには、時計は元へ戻っている。

 

「……調べましょう」

 

怖くないわけではない。

 

できることなら、もう二度とあの教室へ行きたくない。

 

それでも、泣いていた女の子の顔が頭から離れなかった。

 

三人の手のひらについた赤い線は、その日の放課後になっても消えなかった。

 

    ◇ ◇ ◇

 

放課後。

 

三人は図書室の一番奥にある、郷土資料の棚を調べていた。

 

普段はほとんど誰も近づかない場所で、地域の歴史をまとめた本や、学校の記念誌が並べられている。

 

「本当にここにあるのか?」

 

悠真が、分厚い本を棚から引き出しながら尋ねる。

 

「分からない。でも、昔の児童について調べるなら、卒業アルバムか学校の記録を見るしかないわ」

 

栞は机の上に何冊もの本を積み上げていた。

 

『創立五十周年記念誌』

 

『わたしたちの学校の歩み』

 

『町と小学校の歴史』

 

表紙には難しそうな題名が並んでいる。

 

「夢に出てきた子、今と服が違ったよね」

 

美桜が記念誌のページをめくりながら言う。

 

「制服って感じでもなかったけど、かなり古そうだった」

 

「じゃあ、最近の卒業生じゃないかもしれないな」

 

「それが困るのよ」

 

栞が棚を見上げる。

 

この学校が建てられてから、すでに八十年以上が経っている。

 

夢で見た服装だけを頼りに、その中から一人の児童を探し出すのは簡単ではなかった。

 

三人は手分けをして、古い写真を一枚ずつ確認していった。

 

木造だったころの校舎。

 

運動場で行われている運動会。

 

今とは形の違うランドセルを背負った児童。

 

どの写真にも、夢で見た女の子らしき姿はなかった。

 

「これ、いつまでやるの?」

 

一時間近く調べたところで、美桜が机へ突っ伏した。

 

「図書室が閉まるまで」

 

栞がページから目を離さずに答える。

 

「明日にしない?」

 

「今夜、またあの夢を見るかもしれないだろ」

 

悠真も、別の記念誌をめくり続けている。

 

「そうだけど……」

 

美桜は小さく息を吐くと、再び顔を上げた。

 

自分たちには、何が起きているのか分からない。

 

次に夢を見たときも、返事ができない少女がどうなるのか分からなかった。

 

また大きな赤い線を引かれるだけで済む保証もない。

 

「せめて、何年くらい前か分かればいいのに」

 

美桜が何気なく呟いたとき、栞の手が止まった。

 

「どうした?」

 

「教室」

 

栞が、開いていた記念誌を三人の中央へ置く。

 

そこには、昔使われていた教室の写真が掲載されていた。

 

木製の机。

 

黒板の横に掛けられた大きな三角定規。

 

教卓の上に置かれた、黒い出席簿。

 

夢の中で見たものとよく似ている。

 

「これだ」

 

悠真が身を乗り出す。

 

写真の下には、昭和四十八年と書かれていた。

 

「じゃあ、あの子もこのころの児童?」

 

「そうだと思う。でも、これだけじゃ名前までは分からないわ」

 

写真には二十人以上の児童が写っている。

 

夢の少女に似た子がいないか探したが、どの顔も小さく、白黒で判別しづらかった。

 

それでも、調べる年代は絞れた。

 

三人は昭和四十年代から五十年代までの記録を中心に、再び本をめくり始めた。

 

やがて閉館を知らせる時刻が近づき、図書委員の児童が片づけを始める。

 

「今日はもう無理か……」

 

悠真が悔しそうに本を閉じた。

 

その隣で、美桜は棚へ戻そうと持ち上げた記念誌を取り落とした。

 

分厚い本が床へ落ちる。

 

本の間から、古びた紙が一枚滑り出した。

 

「ごめん!」

 

美桜が慌てて拾い上げる。

 

記念誌に挟まれていたのは、学校新聞の切り抜きだった。

 

紙は茶色く変色し、端が破れている。

 

中央には、小さな女の子の写真が掲載されていた。

 

肩より少し長い黒髪。

 

色の濃い服。

 

夢では横顔しか見えなかったが、三人には同じ子だと分かった。

 

「この子……」

 

美桜の声が震える。

 

栞は切り抜きを受け取り、薄くなった文字を目で追った。

 

見出しには、こう書かれていた。

 

五年二組、雨宮小春さんへ

みんなの声を届けよう

 

記事によると、雨宮小春という児童は、五年生へ進級する直前に重い病気で入院していた。

 

始業式へ出ることもできず、一度も新しい教室へ来られないまま、長い入院生活を送っていたらしい。

 

クラスメイトたちは、彼女が戻ってきたときに寂しくないよう、教室に小春の机を用意していた。

 

毎週手紙を書き、授業で作ったものを病院へ届けた。

 

担任も毎朝、ほかの児童と同じように、小春の名前を呼んでいたという。

 

いつか教室へ戻り、自分で返事ができる日を願って。

 

記事は、次の言葉で締めくくられていた。

 

小春さんが早く元気になって、みんなと一緒に勉強できますように。

 

その後、小春がどうなったのかは書かれていない。

 

しかし、三人とも分かっていた。

 

彼女は学校へ戻れなかったのだ。

 

「雨宮、小春……」

 

悠真が、その名前をゆっくりと口にした。

 

その瞬間。

 

三人の手のひらに残っていた赤い線が、同時に熱を帯びた。

 

「痛っ……」

 

美桜が小さく声を上げる。

 

三人が手のひらを確認したときには、熱はすでに消えていた。

 

赤い線も、先ほどまでと何も変わっていない。

 

それでも、三人には分かった。

 

この名前は、夢の中にいた少女へ繋がっている。

 

栞は学校新聞へ目を戻した。

 

写真の中の小春は、緊張したような表情で正面を見ている。

 

笑ってはいなかった。

 

「小春さんは、返事をしたかったのかもしれない」

 

栞が呟く。

 

「ずっと名前を呼ばれていたのに、一度も新しい教室で返事ができなかったから」

 

「じゃあ、今度名前を呼ばれたら、俺たちが教えてやればいい」

 

悠真が言った。

 

「聞こえなかった部分に、小春の名前が入るように?」

 

「そう。それで本人が返事をすれば、何か変わるかもしれない」

 

確証はない。

 

夢の中にいるものが、本当にこの少女なのかも分からない。

 

名前を口にすることで、かえって危険なことが起きる可能性もある。

 

それでも、何もしなければ、あの夢は終わらない気がした。

 

「怖い?」

 

美桜が栞へ尋ねる。

 

栞は少しだけ迷ってから頷いた。

 

「怖いわ」

 

あの教室を思い出すだけで、身体が固くなる。

 

名前を呼ぶ声。

 

勝手に動く赤いペン。

 

窓を割って入ってきた、真っ黒な風。

 

もう一度あの場所へ行けば、今度こそ戻れなくなるかもしれない。

 

「でも、小春さんはもっと怖かったと思う」

 

一人きりで机へ座り、何度名前を呼ばれても返事ができなかった。

 

そう考えると、見なかったことにはできなかった。

 

美桜は栞の手を握った。

 

「大丈夫。今度も三人一緒だよ」

 

「俺が何とかする」

 

悠真が言う。

 

「何をするのかは、まだ全然決まってないけど」

 

「そこまで自信満々に言っておいて?」

 

美桜が思わず笑う。

 

栞も、小さく笑った。

 

恐怖が消えたわけではない。

 

それでも、少しだけ身体の力が抜けた。

 

三人は学校新聞を元の記念誌へ戻し、本を棚へ片づけた。

 

窓の外では、すでに日が傾き始めている。

 

    ◇ ◇ ◇

 

その夜。

 

栞は、なかなか眠ることができなかった。

 

枕元には、紙へ書き写した少女の名前を置いている。

 

雨宮小春

 

忘れるはずはない。

 

それでも夢の中へ入った途端、読めなくなるかもしれない。

 

声が出なくなるかもしれない。

 

何度も名前を確かめてから、栞は部屋の明かりを消した。

 

暗闇の中で目を閉じる。

 

しばらくして、遠くからチャイムの音が聞こえてきた。

 

    ◇ ◇ ◇

 

目を開けると、栞は再び教室の机へ座っていた。

 

窓の外は真っ暗だった。

 

壁の時計は、四時四十四分で止まっている。

 

右隣には美桜。

 

斜め前には悠真。

 

一番前の席には、黒髪の女の子。

 

昨夜と同じだった。

 

違っているのは、教卓の上に黒い名簿が最初から置かれていることだけ。

 

廊下から、硬い足音が近づいてくる。

 

こつ。

 

こつ。

 

こつ。

 

三人は顔を見合わせた。

 

悠真が頷く。

 

美桜が、震えている栞の手を握った。

 

教室の扉が、ゆっくりと開く。

 

誰もいない教壇の上で、黒い名簿が宙へ浮かび上がった。

 

『これから、出席を取ります』

 

名簿の表紙が開く。

 

『高瀬悠真』

 

「はい」

 

『森下美桜』

 

「はい」

 

『白石栞』

 

栞は、握られた手の温かさを確かめる。

 

「……はい」

 

赤いペンが、三人の名前へ丸をつけた。

 

名簿のページがめくられる。

 

一番前に座る少女の肩が、かすかに震えた。

 

『————』

 

また、名前だけが雑音に遮られる。

 

少女が口を開く。

 

しかし、声は出なかった。

 

赤いペンが持ち上がる。

 

『返事がないので——』

 

「雨宮小春!」

 

悠真が叫んだ。

 

悠真の声が、教室中に響いた。

 

赤いペンが止まる。

 

名簿の上で、先端を震わせたまま動かなくなった。

 

教室を満たしていた雑音も、徐々に小さくなっていく。

 

『あまみや……こはる』

 

今度は、はっきりと名前が聞こえた。

 

一番前に座っていた女の子が、ゆっくりと顔を上げる。

 

学校新聞に掲載されていた写真と同じ顔だった。

 

小春は口を開く。

 

けれど、まだ声が出ない。

 

「大丈夫だよ」

 

美桜が呼びかけた。

 

「ちゃんと聞こえてるから」

 

小春が振り返る。

 

泣きそうな目で、三人の顔を順番に見た。

 

栞は美桜に握られていた手を離し、自分から小春へ頷いてみせる。

 

怖くないわけではなかった。

 

それでも、今は小春の方がずっと怯えているように見えた。

 

「もう一度、呼んでください!」

 

悠真が誰もいない教壇へ向かって叫ぶ。

 

しばらく返事はなかった。

 

赤いペンだけが、名簿の上で静止している。

 

やがて、紙の擦れる音がした。

 

『雨宮小春』

 

小春の肩が震えた。

 

三人は、黙ってその返事を待った。

 

「……はい」

 

とても小さな声だった。

 

それでも、今度は確かに聞こえた。

 

赤いペンが動き、小春の名前へ丸をつける。

 

『雨宮小春』

 

同じ名前が、もう一度呼ばれた。

 

「はい」

 

先ほどよりも、少しだけ大きな声。

 

小春の頬を涙が伝う。

 

『雨宮小春』

 

「はい!」

 

三度目の返事が響いた瞬間、止まっていた時計の秒針が動き始めた。

 

教室中の照明が、一斉に明るくなる。

 

窓の外を覆っていた暗闇が薄れ、朝の光が差し込んできた。

 

黒板には、白いチョークで大きく文字が書かれている。

 

五年二組

本日 全員出席

 

黒い名簿が教卓の上へ落ちた。

 

赤いペンも、その横へ転がる。

 

『おはようございます』

 

先ほどまで不気味に響いていた声が、今度はどこにでもいる先生のように穏やかに聞こえた。

 

悠真たちは顔を見合わせる。

 

少し遅れて、小春が立ち上がった。

 

「おはようございます」

 

四人の声が重なった。

 

    ◇ ◇ ◇

 

それから始まったのは、ごく普通の学校の一日だった。

 

教室には相変わらず四つの机しかなく、先生の姿も見えない。

 

それでも黒板には次々と問題が書かれ、教科書はひとりでにページをめくっていった。

 

一時間目は国語。

 

指名された悠真が教科書を読み間違え、栞が笑う。

 

「そこ、『様子』じゃなくて『容姿』だよ」

 

「似たようなものだろ」

 

「全っ然違うわ」

 

美桜にまで訂正され、悠真は不満そうに教科書を見直した。

 

小春は三人のやり取りを、不思議そうに見ていた。

 

やがて我慢できなくなったのか、口元を押さえて小さく笑う。

 

それが、小春の最初の笑顔だった。

 

二時間目は算数。

 

小春が問題の解き方を分からずにいると、栞が隣へ椅子を運んだ。

 

「ここまでは分かる?」

 

「うん」

 

「だったら、次はこの数字を使うの」

 

栞が順番に説明すると、小春は何度も頷いた。

 

答えを書き終えた小春のノートには、大きな花丸が浮かび上がった。

 

「できた……」

 

嬉しそうに呟く小春を見て、栞も静かに笑った。

 

休み時間になると、悠真は教室の後ろにあった紙を使って、紙飛行機を作り始めた。

 

「教室で飛ばしたら怒られるよ」

 

美桜が注意する。

 

「先生、いないだろ」

 

「声は聞こえてるでしょ」

 

「じゃあ、廊下でやればいい」

 

「そういう問題じゃないと思う」

 

そう言いながらも、美桜は悠真から紙を受け取った。

 

四人で紙飛行機を折り、誰が一番遠くまで飛ばせるか競争する。

 

小春の飛行機は、ほとんど前へ進まずに床へ落ちた。

 

「あ……」

 

残念そうな顔をする小春の横で、悠真が落ちた飛行機を拾う。

 

「ここの折り方を変えたら飛ぶよ」

 

悠真は紙飛行機の翼を少しだけ調整して、小春へ返した。

 

もう一度投げる。

 

今度は真っ直ぐ廊下を進み、四人の中で一番遠くまで飛んだ。

 

「やった!」

 

小春が声を上げる。

 

そのまま廊下へ駆けだし、自分の飛行機を追いかけていった。

 

病気だったころにはできなかったであろう走り方で。

 

悠真たちも、そのあとを追った。

 

    ◇ ◇ ◇

 

昼休みには、四人で校庭へ出た。

 

空は青く、暖かい風が吹いている。

 

しかし、校舎にも校庭にも、四人以外の児童はいなかった。

 

小春が昔遊んでみたかったというゴム跳びを美桜が教え、そのあと悠真の提案で鬼ごっこをした。

 

栞は運動が苦手なため、すぐに捕まった。

 

「今度は栞が鬼ね!」

 

「少し休ませて……」

 

「まだ始まったばかりだぞ」

 

「悠真くんが本気で逃げるからでしょう」

 

栞は息を切らしながら悠真を睨む。

 

その横では、小春が声を上げて笑っていた。

 

最初に教室で見たときとは、まるで別人だった。

 

午後は音楽室へ行き、美桜が知っている歌を四人で歌った。

 

小春が知らない歌も多かったが、美桜が何度か歌うと、すぐに覚えた。

 

最後には誰よりも大きな声で歌っていた。

 

楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。

 

窓の外が茜色に染まり、校内に帰りのチャイムが流れた。

 

四人は最初の教室へ戻り、それぞれの席へ座る。

 

黒板には、いつの間にか新しい言葉が書かれていた。

 

きょうのじゅぎょうは

これでおわりです

 

小春は、その文字をじっと見つめていた。

 

「もう、終わりなんだね」

 

その声は、少し寂しそうだった。

 

「また来ればいいだろ」

 

悠真が当たり前のように答える。

 

小春は何も言わない。

 

代わりに、美桜がその手を握った。

 

「今日、楽しかった?」

 

「うん」

 

「なら、よかった」

 

美桜が笑うと、小春も笑った。

 

「私、ずっと、もう一度学校へ行きたかったの」

 

授業を受けること。

 

休み時間に遊ぶこと。

 

給食を食べること。

 

友達と一緒に歌うこと。

 

病院でクラスメイトから届く手紙を読むたびに、学校へ戻りたいという気持ちが募っていった。

 

けれど、小春が五年二組の教室へ足を運ぶことは、最後まで叶わなかった。

 

「今日、全部できた」

 

小春は三人の顔を見た。

 

「ありがとう」

 

教室へ、下校を知らせる音楽が流れ始める。

 

小春の身体が、夕日の中へ少しずつ溶けていく。

 

「待って」

 

美桜が手を伸ばす。

 

しかし、美桜が握っていたはずの手は、すでに透き通っていた。

 

「明日も、学校に来ていい?」

 

小春が尋ねた。

 

「当たり前だろ」

 

悠真が答える。

 

「席も空けておくから」

 

栞も頷いた。

 

小春は安心したように、最後まで笑っていた。

 

その姿が完全に消えた瞬間、三人の意識も暗闇へ沈んだ。

 

    ◇ ◇ ◇

 

翌朝。

 

三人は、それぞれ自宅のベッドで目を覚ました。

 

手のひらにあった赤い線は、きれいに消えている。

 

学校で顔を合わせると、誰からともなく昨夜の出来事を確かめ合った。

 

授業の内容。

 

紙飛行機。

 

鬼ごっこ。

 

音楽室で歌った歌。

 

細かな部分まで、三人の記憶は一致していた。

 

夢ではなかった。

 

そう考えるには、不思議なことが多すぎた。

 

それでも、小春が最後に笑っていたことだけは、素直に喜べた。

 

    ◇ ◇ ◇

 

その日の朝。

 

教室へ入ると、定番トリオはすでに集まっていた。

 

三人とも少し寝不足らしい。目の下に隈ができていた。

 

何か楽しそうに話しているが、俺には関係のないことだ。

 

できるだけ離れた場所を通り、自分の席へ向かおうとした。

 

そのとき、三人の間に見覚えのない女の子がいることに気づいた。

 

肩より少し長い黒髪。

 

色あせた紺色の服。

 

どう見ても、今の時代の子どもではない。

 

三人は、女の子の存在に気づいていないらしい。

 

高瀬が何かを話すと、女の子が楽しそうに笑う。

 

森下が身振りを交えて話せば、自分も会話に参加しているように何度も頷く。

 

白石が開いている本を、横から興味深そうにのぞき込んでいた。

 

危険察知は反応していない。

 

背筋に嫌な感覚も走らなかった。

 

少なくとも、あの三人へ危害を加えるものではないらしい。

 

俺は見なかったことにして、自分の席へ向かった。

 

また何かを連れてきたのかとも思ったが、悪いものではないなら気にする必要はない。

 

その日一日、女の子は三人のそばにいた。

 

授業中は、誰も使っていない机へ座っていた。

 

休み時間になると、三人のあとを楽しそうについて歩いた。

 

給食の時間には、三人の机の間に立ち、食事をする様子を眺めている。

 

おいしそうなものが出るたび、目を輝かせていた。

 

森下がプリンを食べながら、何もない隣へ少し身体をずらした。

 

本人にそのつもりはなかったのだろう。

 

けれど、女の子一人分の場所が自然と空いた。

 

女の子は嬉しそうに、そこへ座った。

 

放課後。

 

三人が並んで校門を出ていく。

 

女の子は、その真ん中を歩いていた。

 

笑い合う三人に囲まれながら、その子も楽しそうに笑っている。

 

俺は何も言わず、その後ろ姿を見送った。

 

    ◇ ◇ ◇

 

翌日。

 

教室にいたのは、いつもの三人だけだった。

 

女の子の姿は、どこにもない。

 

使っていた机にも、何かが残されているわけではなかった。

 

三人は昨日と変わらない様子で話している。

 

俺は自分の席へ鞄を置き、念のため教室を見回した。

 

気配はしない。

 

どうやら、今度こそいなくなったらしい。

 

あの子が誰だったのか。

 

どうして一日だけ三人のそばにいたのか。

 

俺には分からない。

 

知らない方がいいことなのだろう。

 

ただ、最後に見たあの子の顔は、幸せそうに笑らっていた。

 

それならきっと、悪い怪異ではなかったのだと思う。

 

この世界にいるのは、人を傷つけるものばかりではない。

 

ほんの少しだけ、そのことを覚えておいてもいいのかもしれない。

 

だからといって、次に見かけた怪異へ、こちらから話しかけるつもりは一切ないが。

 

それはそれ。

 

これはこれである。

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