平成ホラーって容赦ないよね 作:ホほ保
その電話がかかってきたのは、土曜日の昼過ぎだった。
「はい、中原です」
リビングに鳴り響いた固定電話を取った母さんは、最初こそ普段どおりの声で応対していた。
どうせセールスか何かだろう。
ソファに寝転がってゲームをしていた俺は、特に気に留めなかった。
けれど、しばらくして母さんの声が明るく弾んだ。
「えっ、本当ですか?」
思わず画面から顔を上げる。
受話器を耳に当てた母さんは、驚いたように目を見開いていた。
「温泉旅行……はい。そういえば、前に商店街の懸賞へ応募したような……」
そんなことを言いながら、電話の横に置いてある小型の通話録音機へ手を伸ばす。
重要な用件を聞き逃さないよう、父さんが買ったものだ。母さんは録音ボタンを押すと、近くにあったメモ帳へ何かを書き始めた。
「一泊二日で……ええ、一人です。はい」
母さん一人だけの温泉旅行が当たったらしい。
宿泊費と食事代はすべて向こう持ち。指定された日に最寄り駅へ行けば、宿まで送迎してくれるという。
「すごいじゃないか」
話を聞いた父さんも素直に喜んだ。
「いつも家のことを任せてるんだ。たまには一人で羽を伸ばしてきたらいいよ」
「そうね。せっかく当たったんだもの」
母さんは嬉しそうに笑った。
俺も、まあ、いいんじゃないかと思った。
母さんにはいつも世話になっている。
一泊くらいのんびりしてもらった方がいい。
それに、電話が鳴ってから話を聞き終えるまで、俺の危険察知はまったく反応しなかった。
少なくとも、俺に危険が迫っているわけではないらしい。
だからこの時は、それ以上深く考えなかった。
◇ ◇ ◇
電話を受けた日から、母さんは旅行を楽しみにするようになった。
「向こうは少し寒いらしいから、上着も持っていった方がいいわよね」
旅行鞄を引っ張り出し、着替えや化粧品を詰めていく。
何を着ていくか悩み、旅先で立ち寄れそうな場所を調べ、夕食の時にも旅行の話をした。
ただ、おかしなことがひとつあった。
旅行の日が近づくにつれ、母さんの顔色が悪くなっていったのだ。
最初は少し寝不足に見える程度だった。
それが一日ごとに目の下の隈が濃くなり、頬がこけ、唇から色が失われていった。
「母さん、大丈夫?」
「大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」
そう答える声にも、以前のような張りがない。
食事の量も明らかに減っていた。
箸を動かしてはいるが、ほとんど口へ運ばない。水を飲むだけでも辛そうなのに、本人だけは旅行の準備をやめようとしなかった。
「旅館に着いたら、ゆっくり休めるから」
母さんは青白い顔で笑った。
「温泉に入れば、きっと元気になるわよ」
さすがに父さんも不審に思ったらしい。
母さんが寝たあと、懸賞を開催したという商店街へ問い合わせていた。
翌日、帰宅した父さんは難しい顔をしていた。
「そんな懸賞、やってないらしい」
「応募した場所を間違えて覚えてるとか?」
「それも考えたんだけどな……」
父さんは、母さんがメモしていた旅館の電話番号にもかけたという。
返ってきたのは、機械的な女の声だった。
――おかけになった電話番号は、現在使われておりません。
それを聞いても、俺の危険察知は反応しなかった。
けれど、嫌な感じはした。
俺の能力は万能じゃない。
あくまで俺自身に迫る危険を察知するものだ。
母さんだけを狙っている何かがあったとして、それを教えてくれるとは限らない。
旅行前日の夜、母さんはリビングで立ち上がった直後、その場に膝をついた。
「おい!」
父さんが慌てて身体を支える。
母さんの手は冷たく、呼吸も浅かった。
「明日は病院に行こう」
父さんが強い口調で言った。
「旅行は中止だ。こんな状態で行かせられない」
「でも……迎えが……」
「旅行なら、元気になってからまた行けばいい。な?」
しばらく黙っていた母さんは、やがて小さくうなずいた。
「……そうね。今回は諦める」
俺も少しだけ安心した。
父さんが母さんを寝室へ連れていき、準備していた旅行鞄は、そのまま部屋の隅へ置かれた。
これで終わったのだと思った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
目を覚ますと、家の中が妙に静かだった。
リビングへ行くと、父さんが母さんの名前を呼びながら部屋を見て回っていた。
「母さんは?」
「いないんだ」
玄関を見る。
母さんの靴がない。
部屋の隅に置かれていたはずの旅行鞄も消えていた。
テーブルの上には、電話の時に取ったメモが残されている。
そこに書かれた出発時刻まで、あと二十分もなかった。
「駅だ」
父さんが呟いた。
俺たちは靴を引っかけるように履き、家を飛び出した。
幸い、最寄り駅までは走れば数分で着く。
改札を抜け、階段を駆け上がる。
ホームには通勤や通学途中らしい人たちが並んでいた。
父さんと二人で周囲を見回す。
けれど、母さんらしい姿はない。
「いない……?」
そう思った時だった。
ホームの端に、一人の女が立っているのが見えた。
旅行鞄を引き、線路をじっと見つめている。
母さんと同じ色の上着。
母さんと同じ鞄。
それでも、一瞬その人が母さんだとは分からなかった。
背中がひどく曲がり、服の隙間から見える手首は骨が浮き出るほど細い。
何日も飲まず食わずで歩き続けたような、今にも死にそうな女だった。
「母さん……?」
恐る恐る近づき、その肩を掴む。
女が、ゆっくりと振り返った。
頭の中が真っ白になった。
母さんの顔ではなかった。
皮膚は死体のように灰色で、頬は深く落ちくぼんでいる。
眼窩の奥に沈んだ目だけが、ぎょろりと俺を見下ろしていた。
裂けるように開いた口の中は、墨を塗り込めたように真っ黒だった。
その顔が、嬉しそうに笑った。
「迎えが来たの」
全身を貫くような怖気。
痛いほどの警告が身体中を駆け巡り、俺は母さんの肩を掴んだまま固まった。
危険察知が、今までにないほど強く叫んでいる。
逃げろ。
離れろ。
これは関わってはいけないものだと。
後ろにいた父さんも、母さんの顔を見たまま動けなくなっていた。
「ほら、電車が来たわ」
母さんが線路へ視線を戻した。
ホームには何も止まっていない。
線路が伸びているだけだ。
「扉が開いてる。早く乗らないと」
母さんは黄色い線を越えた。
そのまま、何もない空間へ足を踏み出そうとする。
「待て!」
先に動いたのは父さんだった。
母さんの身体を後ろから掴み、ホームへ引き戻そうとする。
しかし、母さんは止まらない。
立っているのも辛そうなほど衰弱していたはずなのに、父さんを引きずるように線路へ進んでいく。
「離して! 乗り遅れちゃう!」
「目を覚ませ! 電車なんか来てない!」
「来てる! 私を迎えに来てくれたの!」
母さんが激しく腕を振り回した。
爪が父さんの顔を引っかく。
「ぐっ……!」
目元から頬へ、数本の赤い筋が走った。
父さんの顔から血が流れる。
それを見た瞬間、固まっていた身体がようやく動いた。
力では駄目だ。
父さん一人でも止められない。
俺まで加わったところで、小学生の力なんて大した足しにはならない。
だったら、人を集めるしかない。
俺は母さんの空いている手を両手で掴んだ。
「誰か!」
ホームに響くほど大きな声を出す。
「誰か、助けてください! 母さんが線路に落ちる!」
周囲の視線が一斉にこちらへ向いた。
近くにいた男の人が駆け寄り、父さんと一緒に母さんの身体を掴む。
別の人が駅員を呼び、誰かがホームの非常停止ボタンを押した。
けたたましい警報音が鳴り響く。
その向こうから、本物の電車の接近を知らせるアナウンスが聞こえた。
複数人がかりで、母さんを黄色い線の内側へ引きずり戻す。
直後。
轟音とともに、電車がホームを通過した。
風圧で服と髪が激しく揺れる。
あと数秒遅ければ、母さんはあれの前へ落ちていた。
「行っちゃった……」
母さんが呟く。
その顔は、いつもの母さんへ戻っていた。
ただし、死人のように青白い。
「私の電車だったのに……」
それだけ言うと、母さんは糸が切れたように倒れた。
◇ ◇ ◇
母さんは病院へ運ばれた。
極度の疲労と脱水状態。
医者からは、あと少し遅ければ命に関わっていたと言われた。
どうして一晩でそこまで衰弱したのかは分からない。
父さんの怪我は、幸い目には届いていなかった。
それでも目元から頬にかけて深く引っかかれており、しばらくは大きなガーゼを貼って過ごすことになった。
数日後には、母さんも家へ帰ることができた。
けれど、本人は駅で起きたことをほとんど覚えていなかった。
「旅行が当たった電話のことは覚えてるの」
母さんは申し訳なさそうに言った。
「すごく楽しみで……でも、病院へ行こうって話したあたりから、記憶が曖昧で……」
「気にするな。母さんのせいじゃない」
父さんはそう言った。
母さんは父さんの顔の傷を見るたびに謝ったが、引っかいたことさえ覚えていないらしい。
俺も、駅で見た母さんの顔については話さなかった。
あんなもの、覚えていない方がいい。
その後、父さんが改めて旅館について調べた。
母さんが電話で聞いた宿泊先は、現在どこにも存在していなかった。
同じ名前の旅館は、ずっと昔にあったらしい。
しかし、夜中に起きた火災で全焼し、宿泊客や従業員を含む多くの死者を出したあと、再建されることなく廃業していた。
電話番号も、当然使われていない。
なら、母さんに電話をかけてきたのは誰だったのか。
◇ ◇ ◇
母さんが寝たあと、父さんと俺はリビングに残った。
テーブルの上には、固定電話につながれた小さな通話録音機が置かれている。
電話が来た日。
母さんは、旅行の案内を聞き逃さないように会話を録音していた。
「聞くぞ」
父さんが言った。
俺は黙ってうなずく。
再生ボタンが押される。
小さな機械音のあと、母さんの声が流れた。
『はい、中原です』
あの日と同じ、いつもの明るい声だった。
けれど、電話の向こうから相手の声は聞こえない。
代わりに、ざりざりと砂を噛むような雑音が続いている。
『えっ、本当ですか? ありがとうございます』
母さんは嬉しそうに答えている。
その背後で、ぱちぱちと何かが弾ける音がした。
薪が燃えているような音。
いや、もっと大きい。
火が壁や天井を舐め、建物そのものを焼いているような音だった。
『はい。一人で大丈夫です』
雑音の奥から、低い呻き声が聞こえる。
一人ではない。
男とも女ともつかない声が、いくつも重なっている。
『分かりました。当日は駅のホームで待っていればいいんですね』
誰かが泣いている。
幼い子どもの声だった。
その泣き声に重なるように、喉を潰した女の声が混じった。
『電車が来たら、そのまま乗ればいいんですね?』
この時になって、ようやく言葉が聞き取れた。
『シネ』
父さんの指が、録音機の上で止まった。
母さんは気づいていない。
『乗り換えはしなくていいんですか?』
『シネ、シネ、シネ、シネ』
低い男の声。
掠れた女の声。
泣いていた子どもの声。
それぞれ違う声が、同じ言葉を繰り返している。
『はい。楽しみにしています』
『シネシネシネシネシネシネシネシネ』
母さんの声を埋め尽くすように、呪詛が増えていく。
燃える音が大きくなる。
誰かが叫び、何か重いものが崩れ落ちる。
『シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ』
母さんは、誰かと会話をしているつもりだった。
けれど、録音を聞く限り、相手は母さんの質問に一度も答えていない。
最初から最後まで。
電話の向こうにいるものは、ただ同じ言葉を繰り返していた。
『では、当日よろしくお願いします』
母さんが電話を切る。
受話器を置く音がした。
それでも、録音は終わらない。
電話は切れているはずなのに、燃え盛る音と複数の声だけが機械から流れ続ける。
『シネ』
『シネ』
『シネシネシネ』
『シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ』
声は次第に近づいてくる。
電話の向こうからではない。
録音機のすぐそばで、何人もの人間が囁いているように聞こえた。
『シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ』
ぶつり。
そこでようやく、録音は途切れた。
部屋の中が静まり返る。
父さんは録音機へ伸ばした手を動かせず、俺も何も言えない。
電話を受けていた間、母さんにはこの声がどう聞こえていたのだろう。
本当に、旅行会社の女が丁寧に案内してくれているように聞こえていたのか。
それとも。
最初から全部聞こえていたのに、あれと会話をしていたのか。
父さんと俺は、音の止まった録音機の前で、いつまでも立ち尽くしていた。
これって何次創作になるのだろうか