Ψ(Pusai) / Evangelion:R:A   作:AllZ:M

1 / 1
第弐拾参話+零話 其の① / 天国の記憶

 

 

 

「彼女」は、いつからじぶんが其処にいたのかを、まったく、覚えておりませんでした。

 

「記憶の欠落」という事象そのもの(ソコニアルモノ)

知らないもの(ワカラナイコト)」への「懐古」。

 その不思議な事象の発露に対する困惑。

 其れらすべてを、ただただ、頭の中で反芻し続けるだけでありました。

 

 現在(いま)もなお、「彼女」の脳裏に固着し続けているもの。

 それは、ただ無際限(むさいげん)なる、揺蕩う身体の物理的な感触。

 

 然しながら、その感覚は、決して恐怖を喚起するものではありませんでした。

 

 止まった刻を()すように、流れていくもの。

「永劫に此処へ留まっても構わない」と、自己の存在を無条件に受け入れてくれる。

 

 彼女の最初の知覚(はじまり)は、生暖かい生命の根源の流体(スープ)痩身(やせぎす)の肌で撫ぜまわる、奇妙な感覚の只中にあったのです。

 

 その虚数(まどろみ)の知覚のなかに、

 ぽたり、と雫が落ちました。

 

 ◇

 

『――わたし』

 

 激しい重畳雑音(じゅうじょうざつおん)の中から鳴り響く其の声色(こわいろ)が、擂鉢(すりばち)型の発令所に鳴り響く。

 

『―――泣いているの?』

 

 次いで、震えるようなか細い声が響く。

 

 人類史の雌雄を決さんとする死斗(しと)の最中にあって、其れは余りにも人間的な気づきであり、同時に悲痛な感情の発露。

 

 光学によって背部投影に転写された映像には、白い遺伝子(ヒモ)型の不定形な怪物が、青い人型の巨躯の下腹を貫通している光景がはっきりと視認出来た。

 

 貫通された場所から、青筋にも似た侵食痕(しんしょくこん)が蠢きながら走り続ける。

 

 其の流脈が肋や腿、指先にまで肉体の蚕食(さんしょく)を繰り返すたび、其の巨人は苦悶するように身体を踞らせていく。

 

 其の様子を視認していた場の誰もが、自体の急性を認識していた。

 

『現刻を以て、EVA(エヴァ)初号機(しょごうき)の凍結・出撃停止要項を破約(はやく)する』

 司令塔に座している黄褐色の眼鏡の男――(いかり)ゲンドウが、毅然とした声で命令を下した。

 其の言葉を聞いた瞬間、場の面々からどよめきが発生する。

 指揮系統(けいとう)の末端にまで浸透していた沈黙が、たった一言で瓦解した。

 

 ――誰もが、息を呑む。

 ――誰もが同時に、この決定の不可逆性を悟る。

 

『ですが…!』

 中央作戦司令室に座していた、赤い長外套(ロングコート)の女性――葛城(かつらぎ)ミサトから、懇願(こんがん)とも抗議(こうぎ)ともつかない声が発せられる。

『発進準備』

 ゲンドウは、彼女の懸念に構わなかった。

 一刻を争う状況の最中にあって、先の事を憂うような手段を選んではいられない。

 

『…はい』

 其れを受領したミサトの返答は短く、此の状況に則る覚悟を伴っていた。

 

 主画面に踊る波長は、既に既存の分類体系を逸脱している。

 状態(パターン)青―――波状に明滅するその脈動は、相敵の侵蝕線が『個』の精神域(ナカ)へと、深く、深く(くさび)を打ち込んだことを示していた。

 

 ◆

 

 

 ざざあ、ざざあ。

 

 其の水流の静穏(せいおん)夕凪(なぎ)は、其処に揺蕩う同胞(はらから)たちの、心地の良い()(どこ)になっていました。

 

 ですが、そのひとときは、静謐(せいひつ)に終わりを告げます。

 

 其れは、遠い水底にまで届く熱量(ねつ)の波及でありました。

 

 距離や物理的な隔たりを超えて、多胎としての網膜と神経系の最深部を、強烈な閃光が、「彼女」の思考を、ずざり、と貫きました。

 

 掌から、胸元、脚先にまで波及していく、激しい熱の感覚。

 次に、その熱に対する苦悶。

 更に、「此処に在りたい」という、なにか複雑な概念に対する渇望。

 

 其処に居るわけでもないのに、まるで其の場に居合わせたように。

 次々と、形而化されていない認識が、「彼女」を蝕み始めていきます。

 その未知の、得も言われぬ感覚に、「彼女」は思わず。

 

『――これは、なに?』

 

 初めて其の声帯から、はっきりとした初語(ことのは)を漏らしました。

 

 ◆

 

 地下深くの静謐なる揺籃(ダミープラグ・タンク)にて、無数に漂う同胞(はらから)たち。

 それらは「彼女」とはまるで違います。

 

 其の痛覚(イタミ)に同調すらせず、ただ只管(ひたすら)に、に甲高い微笑の声を、くすくす、くすくす、と零すだけ。

 

 無際限なる漂白の液体の中で、等しく眼球を開き、等しく同じ方向を凝視するものたち。

 魂のなき、(うつろ)(からだ)

 それを瞳で見据えた「彼女」は、先の感覚を心の中で手繰り寄せてゆきました。

 

 ――熱い、身体が、熔けてゆく感覚。

 

 高熱量(サーマル)の渦。

 地上で展開される、爆縮の衝撃。

 

 遠隔の共振線(回線)を伝って彼女の精神(かんかく)を焼き尽くさんとした知覚の出処は、いまだ彼女には理解の出来ぬ(ところ)にありました。

 

 消滅の絶頂の中で、一瞬だけ伝播してきた純粋な意志(おもい)

 

 同胞(はらから)たちが浮かべる不気味で均一な仮面(えがお)とは異なるもの。

「彼女」の目蓋の裏側にだけ、一滴の温かい流体(なみだ)と、だれかの輪郭(かげ)が。

 そして、先の焔とは違う、生暖かい熱の記憶が、鮮明に刻み込まれます。

 

 其れは、「彼女」の掌の形に似ていました。

 

『――わたしは、消えるの?』

 

 閃光(ひかり)がすべてを包み込み。

 地上で巨人がその命脈(コア)を爆散させた、その瞬間。

 

 タンクの底で「彼女」の口唇から漏れ出たのは、どこか愛惜(いとおしさ)を孕んだ、静かな問い掛けでありました。

 

 

 ◇

 

 

 一晩にして形成された巨大な湖畔(こはん)には、まだ硝煙(しょうえん)とも水蒸気(すいじょうき)ともつかぬ白靄(はくもや)が立ち込めていた。

 

 青き巨人――EVA零号機(ぜろごうき)χ(カイ)が自爆した後の痕跡は、既にNERV回収班によって大方が回収されていたが、コアの破片とともに打ち上げられた円柱形状型操縦席(エントリー・プラグ)の回収は未だ未実行の状態。

 立ち込める霧の向こうには紅い規制線が張り巡らされ、武装した警備員たちによる厳重な警戒態勢が敷かれたうえで、極秘裏に作業は進められた。

 

 防護服を身に纏った数人の人影が、円柱形状型操縦席(エントリー・プラグ)の内部を確認する為に、群がるようにして集まっている。

 

「…赤木博士」

 ひとつ、男性が声を漏らした。

「…これは」

 確認を急く声に応答し、防護服の遮光窓より金髪をちらつかせた女性が其の内部を覗き込んで確認する。

 

「…」

 密閉された空間から漏れ出すのは、高熱で焼かれた生命維持液体の焦げ付いた肉の匂いと、残存する高濃度の汚染物質。

 彼女は、其の眼前に在る事象に対して、釈然としない感情を抱く。

 

「此の件は、断固秘匿とします」

 焼け焦げた操縦席の内側は、数刻が経ったいまもなお、惨憺(さんたん)な熱が孕んでいた。

 

 ◇

 

 其の夜には、既に次の事が進む準備が出来つつあった。

 EVA零号機(ぜろごうき)χ(カイ)パイロットである第一の子供(ファースト・チルドレン)――名を綾波(あやなみ)レイとする少女による一端の事例による、重大な事変。

 

 自爆、という形で零号機(ぜろごうき)(ほふ)った、螺旋型の怪物体――第十六使徒(だいじゅうろくしと)・アルミサエルと呼称される其れの構成物質は、侵食段階にあった機体コアの爆散によって完全に対消失し、痕跡は跡形もなく雲散霧消(うんさんむしょう)となる。

 

 死海文書(もんじょ)に記された最終定数の使徒まであと一体、という手前での戦力の消失は、、当該組織である特務機関NERV(ネルフ)にとって、甚大な損失であった。

 

 先の金髪に、泣き黒子(ぼくろ)をつけた女性――赤木(あかぎ)リツコは、NERVの深層に位置する保管区画(タンク)へと足を運んでいた。

 

 既に集められた数名の技官達が、橙色の淡い光を内包する水槽を見据えている。

 辺りには輸送用の担架や、専門の器具が立ち並んでおり、どこか物々しい雰囲気を醸していた。

 

DPR(ダミー・アール)γ番からひとつ飛ばしてω番まで、肉体維持に問題なし。選定可能です」

 技官のひとりが、手元の用箋挟(クリップボード)を携えながら、淡々と呟いた。

「博士、何時からでも開始出来ます」

「…ええ、碇司令の特命よ。肉体(スペア)への(コア)の移管、予定を大幅に繰り上げて始めていいわ」

 

 そう返答すると、リツコは眼前に立ち並ぶパノラマ型の水槽を、じっと見据えた。

 

 琥珀色の液体のなかに、生まれ出でた(まま)の全裸の姿で浮かぶ、蒼白の髪の、まったく同じ――顔、顔、顔。

 

 ――『あの人』に似た輪郭を見る度に、己の深層意識が不快な振動とともに反芻されるのを感じた。

 

 同時に頭腔を支配するのは、此の惨憺たる行程(プロセカ)を実行せんとした碇ゲンドウ(あのひと)への、(いわ)れのある複雑な愛憎と嫉妬。

 その歪んだ意識が、皮肉な冷笑となって表に発露しかけた瞬間であった。

 

 ――ひとつの肉体(スペア)と、視線がぶつかった。

 

 泡の泡滅すら途絶えた水槽の中で、開かれた眼窩と眼窩が、明確な意図をもって衝突する。

 

「ですが、赤木博士」

 技官の一人が、電子端末を携えながら言葉を呈したことで、現実に引き戻される。

 

「何?」

「Ψ番の波形が特異なんです。ほら、これ…思考波形(プシュケー・テンソル)応答特性(おうとうとくせい)波形の数値が、通常の空白パターンとは明らかに異なり、常態の値を突き抜けている」

 其処に記された波形型の痕跡が、二日前の黄昏頃から、明らかに異常な突出をきたしていた。

 

 ――(にわか)には、信じられない事だった。

 (ガフ)の部屋が虚構(きょこう)で満たされているはずの「肉体の容れ物」が、このような自発的思考パターンを示す確率は、理論上絶対に存在しない。

 

「感知器の異常、としか思えないわね。チェックしなさい」

「いえ、それなんですが…」

 技官はさらに手が震える指先で、別のバイタル記録波形をモニターに展開する。

 

「私にも、信じられない事なのですが…物理的な反応なんです」

「…っ?」

 リツコは思わず、言葉を失って息を呑んだ。

 

 ――まさか。あり得ない。

 そんなはずはない。

 

「心音が、あるんです」

 

「…っ!?」

「…まだ(コア)の定着作業をしていないにもかかわらず…心臓が、自律的に拍動しているんです」

 

 二人は同時に、静寂の広がる水槽の中の人影を見据えた。

 

 他の容物(スペア)とは、まるで違っていた。

 

 感情を奪われ、薄笑いを浮かべたまま揺蕩う無数の同胞(はらから)たちには目もくれず。

 

 ただひとり、橙色の生命水(エル・シー・エル)の中に漂う「彼女」だけが。

 

 意識の深淵から手繰り寄せた、炯々(けいけい)とした瞳で。

 

 物憂げで、整然とした顔色を保ち。

 

 然して、水硝子(ガラス)の向こうに立つひとの影を――明確に、見つめ返していたのであった。

 

 

 ◆

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。