Ψ(Pusai) / Evangelion:R:A   作:AllZ:M

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第弐拾参話+零話 其の② / やがて()()つ、()の光

 ◆

 

 容れ器(いれもの)(われ)が宿るなど、有り得る筈がない。

 

 然し、其れは既実(きじつ)となって、いま、眼前に存在する。

 

 特務機関NERV(ネルフ)の最深部に位置する零点終着駅(ターミナル・ドグマ)の深部の傍ら。

 水硝子(ガラス)で隔たれた境界線の稜線にて、其の瞳と瞳は、数十の刻をきざんで尚、お互いを凝視し続けていた。

 

 報告するべきか。

 其の逡巡(しゅんじゅん)が、リツコの喉元を数瞬だけ塞いだ。

 

 もし此の異常を、(しら)せずに済ませられるのなら。

 もし此の個体一つの存在を、無かった事に出来るのなら。

 

 あの人の行程(プロセカ)は、狂わずに済むのかもしれない。

 

 ――否。

 其の考えこそが、最も愚昧(ぐまい)な選択。

 それを、彼女自身が誰よりも理解していた。

 

 感知器の異常などではない、明確な生体反応。

 これを黙殺した先に待つのは、更なる不測(ふそく)の事態でしかない。

 

 彼女は、端末(たんまつ)を取り上げた。

 

「…あなたたちは其の場で待機。私は司令に復命を」

 

 ◇

 

 NERVに位置するその部屋は、通称「揺籃(ユリカゴ)の間」と呼称される。

 一面に敷き詰められた全景展望(パノラマ)を望む、だだ広い無機質な空間。

 石畳の床には、特徴的な曼荼羅(マンダラー)――生命(セフィロト)の樹の意匠が象られた、幾何学的な紋様が刻まれている。

 

 静寂が支配する其の司令執務室の薄暗がりにて、二人の男が無言で佇んでいた。

 

 先刻の子宮の天使(アルミサエル)との決戦――零号機(ぜろごうき)の自爆という最悪の手口(フダ)を切ってまで得てしまった戦果。

 其れは、NERVにあまりにも深い爪痕を残していた。

 

「…レイ自身が(コア)を潰したか」

 理知的な目鼻立ちの、白髪の初老の男性――冬月コウゾウは、遠い目をしながら低く呟いた。

 あの凄惨な爆炎の中に消えた少女。

 幾ら肉体は繋ぎ止められても、其の魂までもが、其のまま元通りになるわけではない。

 

死海文書(シナリオ)に沿った使徒殲滅要項。だが、此処に来て機体と搭乗者(パイロット)の損失という代償(ツケ)は大きすぎる」

 冬月は、背後に目配せをした。

「…猶予はないぞ、碇」

 

 碇ゲンドウは、組み合わされた手元に顔を埋めたまま、ピクリとも動かない。

 その眼鏡の奥の双眸は、固く閉ざされている。

 

「…ああ」

「それにだ」

 冬月は一度言葉を切り、重苦しい沈黙(しじま)の中で、もう一つの懸念を口にしかけた。

 

 「…碇、お前の息子は、目の前で…第三の少年の精神状態は、すでに極限を超えて――」

 

 冬月の喉が、途中で言葉を飲み込んだ。

 卓上の内線通信機から、緊張を孕んだ電子音が鳴り響いたからである。

 

 『――司令、副司令。赤木博士より緊急の言伝が入っております』

 オペレーターの強張った声が、空間の冷気をさらに押し下げた。

 

 『最深部にて異常事態が発生。…保管中の予備個体(スペア)の一体において、未確認の自主的な生体情報の発露が確認されたとのことです』

 「なに…?」

 冬月の眉が、深く寄せられた。

 

 予備の容れ器(いれもの)

 ――即ち、本来ならば魂を持たぬ空洞(からっぽ)の器に、自我(エゴ)が芽生えたというのか。

 

 ゲンドウがゆっくりと顔を持ち上げた。

 その瞳に宿るは、計算が狂ったことへの不快感か、或いは。

 

 「…わかった。赤木君に直接報告させろ」

 短く言い捨てたゲンドウの声に応えるように、重厚な扉が滑開(すべ)り、足音とともに彼女が姿を現した。

 

 ◇

 

 冬月は、リツコより手渡された記録用箋を、無言のまま一瞥(いちべつ)した。

 

「…なんと」

 彼の口から漏れたのは、驚愕とも、むしろ興趣(きょうしゅ)ともとれる響き。

 

該当個体(がいとうこたい)定着待機(ダミー・プラグ)にも、次代(じだい)第一の少女(レイ)にも、使用不可と?」

「はい。既に生体反応が確立しております。これ以上の接触(アクセス)は…他の個体への波及の懸念も、拭えません」

 リツコの返答に、冬月は僅かに目を細める。

 

委員会(ゼーレ)の台本にもない、文字通りの特異点の発露…か」

 彼は、其の言葉を()み締めるように呟いた。

 

 ◇

 

 リツコが去った後の揺籃(ユリカゴ)は、何処か奇妙な雰囲気を内包していた。

「無期延期の掉尾(ちょうび)装飾(そうしょく)とはな」

 傍らに佇んでいた、黄褐色の眼鏡の男――碇ゲンドウは、其の一部始終を、ただ静かに聞いている。

「…(いかり)、此れから如何にする」

 冬月は、ゲンドウに訊いた。

零号機(ぜろごうき)の損失に、レイの再構成(パスハ)も出来ぬ現状だ。此のままでは、老人達も黙っていないぞ」

 

 彼は、窓先に宿る暗がりの景色を一瞥して呟いた。

「解析記録によれば、Ψ番の生体活性化は零号機の自爆と殆ど一致していたそうだ。あの状況下で生じた不可解な波形(なみ)は、死への同調だというのか」

 

 其の言葉を拝聴するゲンドウの視線は、記録用箋にも、冬月にも向いてはいない。

 彼が見ていたのは、もっと別の、遥か遠くにあるはずの誰かの面影。

 

 ――手付かずの未来に在る、三廻目の衝撃(はちく)補完計画(しゅだん)再開(もくてき)と。

 

「…爾後(じご)を期すよ、ユイ」

 其の呟きは、少なくとも、此の世界の魂に対して向けられたものでもなかった。

 

 ◆

 

 水底に沈潜(ちんせん)する感覚(かんかく)は、以前(いぜん)と、何ら変わりありませんでした。

 

 揺蕩う生命水(エル・シー・エル)の中で、「彼女」はただ、あの日感じた熱の記憶を、只管に反芻(はんすう)し続けておりました。

 

 ――誰かの、輪郭(かげ)

 ――誰かの、()の形。

 

 其れらは、いまもなお、「彼女」の裡に、鮮明(せんめい)痕跡(こんせき)として留まり続けています。

 

 名も知らぬ、誰かの消失。

 其れを悼むように、「彼女」は幾度となく、同じ問いを、胸の裡で繰り返しました。

 

 

『わたしは、なに?』

 

 

 答えの無い其の問いに、応じる者は誰もおりません。

 

 同胞(はらから)たちは、あいも変わらず、(うつろ)な微笑みを浮かべたまま、無為(むい)な時を漂うばかり。

 

 けれど「彼女」は、其の静寂の中にあっても、確かに、何某(なにがし)かを体得(たいとく)してゆきました。

 

 水硝子の向こう側で、幾度となく交わされていたはずの、言葉にならない気配。

 自分について、何かが(さだ)められている――。

 其の漠然とした予感だけが、「彼女」の裡に、澱のように沈んでいくのでした。

 

 然し、其の予感の正体(しょうたい)を、「彼女」が知る術は、此の軽い流体と、然して重い水圧の最中には、決してありませんでした。

 

 ◇

 

 其れより、数日の時が過ぎた。

 

 零点終着駅(ターミナル・ドグマ)へと続く最深部の回廊を、リツコは一人、歩いていた。

 

 無機質な足音が、高密度の隔壁に反射して低く響く。

 手に握られた記録用箋の端は、指先の微かな湿り気によってわずかに歪曲していた。

 

 そこに印字された、記号の連なり。

 

 ――該当個体(ナンバー)Ψ(プサイ)は、人類補完計画(じんるいほかんけいかく)大網(たいこう)に甚大な齟齬(そご)を引き起こす可能性がある故、可及的速やかに破棄との(むね)

 

 文末に押捺(おうなつ)された碇ゲンドウの朱印の輪郭は、寸分の乱れもなく、極めて事務的な調印の印。

 

 老巧委員会(ゼーレ)への論理弁明、再構成(パスハ)計画への力学的支障。

 然して、不可逆な機能喪失による余波の算定。

 脳内で自動的に立ち上がる幾通りもの反論式は、然れども彼女の唇を一度も押し開くことはなかった。

 

 用箋を折る。

 二つに、四つに。

 鋭利な紙の端が、手袋越しに親指の腹へ喰い込む。

 

 白濁した照明が、規則的な周期で彼女の影を前方へ投げ出し、引き戻す。

 

 歩調は乱れない。

 だが、呼吸のたびに、肺の奥を冷涼な窒息感が満たしていく。

 水硝子の分厚い層を透過し、昏い琥珀色の光が視界を包む。

 

 此の静寂の底に、「彼女」はいる。

 

 不純な自意識を内包してしまった、「彼女」が。

 

  ◇

 

 重厚な隔壁の向こうから、油圧機器の微かな振音と、高周波の共振音漏れが伝わってくる。

 

 端末が起動手順(シーケンス)の認証を完了するまでの数秒間、リツコは両手をポケットの奥へ滑り込ませた。拳の中で、先ほど折った用箋の角が鋭く皮膚を突く。

 

 ——同一の塩基配列(ゲノム)、同一の外貌(がいぼう)を持つ形質(にくたい)の破壊行程。

 理性的には、単なる実験器具の廃却処理に過ぎない。

 

 それにもかかわらず、硝子面に映る己の輪郭と、その奥に沈む無数の影を見比べた瞬間、喉の奥が焼き付くような渇きを覚えた。

 

 水硝子の内に並ぶ、無数の同胞たち。

 均一に脱色された髪、均一に肉体を歪める浮力。

 生命水の中に揺蕩うそれらは、完全な幾何学的配置のまま、空洞な虚無(ほほえみ)をたたえて漂っていた。

 

 リツコは白衣の襟元を正し、視線を右から左へと、機械的に滑らせていく。

 

 視認し、確認し、計量する。

 

 だが、網膜が捉える複製物(クローン)の顔立ちの一つ一つが、彼女の網膜の裏側に焼き付いた「特定の存在」の影と不吉に重なり合う。

 

 あの男が注視し続けた対掌性。

 あの男が追い求める、永遠の不在の代理。

 

 均一な器質の群れ。

 幾十、幾百と積み重ねられた、精巧な|仮象。

 

 そのひとつひとつが、言葉を持たぬまま、リツコの存在価値を静かに否認していた。

 

 ——非合理なのは、わかっている。

 心内で呟いた思考すら、冷ややかな自己嫌悪の毒を含んでいた。

 

 リツコは手袋を脱ぎ捨て、剥き出しの指先で制御盤の冷却金属に触れる。

 

 結露した水滴が、皮膚の体温を急速に奪っていく。

 乾いた吐息が、ガラス面をわずかに曇らせた。

 

 視線を下げ、コンソールの奥深くに潜むタスクへと指を滑らせる。

 

 破棄命令の対象は、Ψ(プサイ)個体、単体。

 彼女は、液晶に明滅するコマンドカーソルを見つめた。

 

 γ番から、ω番まで。

 この保管区画の培養液内の肉体を細胞膜から破壊し尽くし、細胞構造そのものを死滅へと誘導するプロトコルの画面。

 

 存在の余剰を消去して、因果をこの場所で破断させる、死兆破壊(デストルドー・リリース)の、全個体一斉解除。

 

 リツコの指が、その項目に触れようとした、其の瞬間であった。

 

 

 

 ――びがり、びがり。

 

 

 聞こえるはずのない金切りが、鼓膜の奥で明滅した。

 

 

 

 ◆

 

 燦然(さんぜん)な光が、「彼女」を包み込みました。

 

 其れは視覚を超えた、存在(そんざい)そのものへの浸潤(しんじゅん)

 

 網膜が捉えるより先に、皮膚(ひふ)の内側、(ほね)の髄にまで、眩い白が浸透してゆく感覚。

 

 びがり、びがり。

 明滅する律動(りつどう)の鼓動が、遠く、然し確かに、「彼女」の奥底で反響しました。

 

 其れが何を意味するのか、「彼女」には知る由もありません。

 

 その胎動に呼応するように、身体を形成していた自我境界(フィールド)と、表皮と生命水(エル・シー・エル)とを隔てていた、曖昧(あいまい)輪郭(りんかく)の隔たりが、懐柔されてゆくのを感じました。

 

 

 質量拘束からの解放とともに、其の瞳を開けた瞬間には、もう視界に同胞(はらから)たちの姿は存在しませんでした。

 

 只管に、冷厳に静まり返った世界の外輪(カルデラリム・ワールド)

 

 小さな光と大きな光の点在する、虚数(まどろみ)の空間。

 

 数刻前まで狭い水槽の中に漂っていた、「彼女」の小さな小さな体躯(たいく)

 

 今や其の肉体は、其の余りにも広漠(こうばく)大千世界(だいせんせかい)の中に、ひっそり、ひっそりと漂泊(ひょうはく)していました。

 

 ふと、「彼女」は、其れを視認します。

 

 自らの頭に取り付いていた、青白い氷藍(ひょうらん)の、名前も知らぬ不思議な糸の束達。

 それらが其の末端から徐々に、まっさらに無垢白(むくしろ)へと還元されているのです。

 

 全てが確在(かくざい)する、絶無の空間で。

 

 点在する綺羅星(きらぼし)の逆光を浴びて。

 

「彼女」の白妙(しろたえ)と化した髪が、きらり、きらりと輝いていました。

 

 ◆

 

 

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