Ψ(Pusai) / Evangelion:R:A 作:AllZ:M
第壱話 /
◆
思えば、
然し、其れは同時に、全てがある、という実証。
輪郭を持たぬ「意識」だけが、絶無の空間に放逐されていた。
己の実在という
視ようとすれば、視える。
聴こうとすれば、聴こえる。
感じようとすれば、感じられる。
だが、触れることは出来ない。
留まることも、進むことも、此の場所には意味を成さない。
――全知にして、無力。
それが、此の
◆
点在する
視界という概念すら朧気なままで、「彼女」は、光の粒子ひとつひとつの
やがて、聴覚と呼ぶには余りにも茫漠とした感覚の奥底で、何かが
――ざぷん。
ざぷん、ざぷんと。
寄せては返す、規則正しい律動。
あの
あれは、閉じ込められた水の音。
これは、何処までも続く、
寄せる波が、爪先を撫でる感触すらないというのに。
「彼女」は、確かにそれを、優しいと感じた。
誰にも急かされず、誰にも見張られず。
ただ、寄せて、返す。
其れだけを、気の遠くなるほど繰り返す、大きな
――此れは、何処の音だろう。
問おうとした思考の輪郭すら、次の瞬間には波間に溶けていく。
◆
波の彼方に、光が満ちる。
銀の帯が、黒い水面の上を、真っ直ぐに切り裂いていた。
満ちた月が、其の光源であることを、「彼女」は理屈より先に理解する。
水面に散らばる光の欠片は、まるで、無数の魂が寄り添っているような素振りで。
揺れて、砕けて、また集まって。
其れでも、決して消えることはない。
――綺麗。
初めて浮かんだ、その単純な感情に、「彼女」自身が戸惑う。
もっと近くで、視てみたい。
あの
『わたしを、月へ、連れてって』
誰に向けたわけでもない、其の願いが、確かな輪郭を持って紡がれた瞬間。
満月の光が、不意に、其の
吸い寄せられるように、「彼女」は其の身を、光の方へと傾ける。
――否、傾けようとしたのだが。
肉体という重さを持たぬ其の存在にとって、其れは意志だけで完結する動作だった筈だが。
次の瞬間、視界のすべてを、白が以て塗り潰す。
波の音も、月の光も、何もかもが、其の眩さの中に
■
舗装された参道を外れ、獣道に近い斜面へと踏み込んでから、もう小一時間が経つ。
其の少年の足取りに、迷いはなかった。
勝手知ったる山であることは、その足運びを見れば
背負った
汗ばんだ
この山の名の由来を、少年は誰かから聞いた覚えがある。
――遠い神代の昔、天より降りた
それらが此の地に
真偽の兎も角はさて置いても、この山の稜線を見上げる度に、少年は決まって、その
半合目を過ぎた辺りで、少年は足を止め、
電波の入りが悪いこの辺りでも、辛うじて一本だけ、
押し慣れたボタンを、四桁、三桁、四桁と、
呼び出し音が、三回、四回と、間延びして響いたのち。
『此方の番号は守秘回線契約済のため、一般回線からはお繋ぎできません。
自動音声の後、何時ものコールが流れ、直後、通話は呆気なくぷつり、と切れてしまった。
「…そっか」
遥か先に
「今日こそは
手垢で霞んだ
「…
少年は、ゆっくりと歩を進めた。
◇
少年は、
記憶にある限りの初夏に、彼は其の名の
母は、其の言葉を聞いて目を丸くしたあと、僅かに
『…それはね』
少年は小さな掌で、伸び切った髪をそっと撫ぜまわした。
『冬は、必ず春となる。あなたは此れから、色んなものを見て、移り変わりながら、進んでいく。…わたしたちは、そう願って』
其の
人の
それでも少年は、迷わない。
此の地区は、人の気を喪ってから、永い年月が経過していた。
遥か以前――とは言えど数十年前の事柄であったが。
二十一世紀が約十刻の年を数えたころ、世界中で
無論、此の国も例外ではなかった。
此処より然程遠くはない活火山、
其の起因は、依然として不明。
ネットに蔓延るオカルティックな記事達では、やれ作為的な
でも、其れらが仮に
ハルには、其れが
其の起因が、何であるか。
――いつか、記憶の片隅に置かれた、断片的な記憶。
あの時に眼前にあった、あの『光』。
それが世界で廻りつづける推察と不一致だとは、如何せん思えなかった。
「…っ?」
ハルの脚は、何か異様な気配と
其れまで
湿った土の匂いに混じって、何か、生臭い匂いが鼻腔を掠める。
獣か、あるいは。
否――此の地に、
雑木の茂みを掻き分け、彼は其の気配の
■ ◆
目を、疑った。
此の場から逃げ遂せ、今にも視界を遮断したいほどの抵抗感と、其れでも何とかしなければ、という
開けた
衣も、
湿った土の上に、まるで、其処に置き去りにされたかのように
其の無造作に流れる髪の先、然して指の先からは、ぽたり、ぽたりと、微かに
其の肌は、日の光を受けてなお、血の気を感じさせない。
俯せのまま、土に
だが、微かに上下する胸元。
――まだ、生きている。
少年の思考は、其の事実に追いつくよりも早く、身体が動いていた。
「っ、だだだっ、だ…大丈夫っ!?」
其の瞬間、であった。
ハルの視界が、少女の足元へと吸い寄せられる。
湿った土の上――少女の
幾何学的な均整とは程遠い、まるで、何かを引き摺りながら描いたような
円と、円を貫く直線。
いくつもの
其れは、彼女の指先から滴る、橙色の雫と混ざり合っていた。
「…文様?」
――曼荼羅。
何処かで見た覚えのある紋様に、ハルの喉が、
だが、其の疑問を
■ ◆
――どん。
鈍い衝撃が、大地の底から突き上げた。
最初は、遠雷か、あるいは山鳴りかと思った。
だが、二度目、三度目と続くその律動は、明らかに、自然の起こす音ではない。
――どん、どん、どん。
等間隔に刻まれる其の音は、まるで、何か巨大なものの
木々の梢が、一斉にざわめく。
山の鳥たちが、悲鳴のような鳴き声を上げて飛び立つ。
「…っ」
ハルは、咄嗟に少女の身体を庇うようにして、その場に膝をついた。
視線の先、尾根の向こう。
樹冠の隙間から覗く空の色が、滲むように、暗く沈んでいく。
――影。
太陽を遮る、何か巨大なものの影。
その輪郭は、まだ判然としない。
だが、山ひとつを丸ごと覆い尽くすほどの大きさであることだけは、疑いようがなかった。
――どん。
最後の一歩を踏みしめたのだろう。
振動が、直接、ハルの
そして、次の瞬間。
箱ノ根岳の稜線を、その
輪郭が、ようやく像を結ぶ。
「…っ、あ…ッ」
――それは、
ハルは、幼少の頃に呼んだ
人間より以前の世から存在し、新月のときに冥府から顕れる
其れを形容するような正八面体の赤い肉体が、
地響きとともに、山の斜面が、大きく
土砂のと折れた木々の堆積が、脆くも
▼
山々の遥か彼方に、其れは存在した。
『――
「…やはり。
其の言葉を紡ぐ初老の男性の額には、ひどく皺が寄っていた。
「此奴は
手許の端末に表示された地図波形には、赤い
箱ノ根岳の稜線を象る地形図の上、其の光点だけがまるで
「他国による
「…否、其れは無いな」
疑問を呈した男の設問に、初老の男性は即、否定を呈した。
「海上で
「では、これは天然発生か?」
別の男が、苦々しげに呟いた。
「――それもない。相模沖に前触れもなく現出したことは、ナチュラルでは説明がつかないんだ」
初老の男は、端末の波形を睨んだまま、首を振った。
「曼荼羅なくして、高次元存在が単独で顕現した例は過去に一度もない。其の証左が
彼の表情が、更に曇る。
「何者かが、事前に土着させていたか――あるいは」
言葉を切り、男は視線を上げた。
「あるいは、此の世界の技法ではないのか」
テント内に、沈黙が落ちた。
誰も、其の意味を、深くは追及しない。
追及する猶予が、無かったからだ。
「――司令、
若い通信士官の声が、テントの空気を切り裂いた。
「|三十八式共通戦術装輪車《みとぱちしききょうつうせんじゅつそうりんしゃ》、進発。
「――撃破は求めん、だが
「了解」
命令が、無線を通じて前線へ下る。
山麓に控えていた車列が、一斉に動き出した。
複数の懸架を持つ其の車体は、通常の装輪車両とは一線を画す重装甲を纏い、不整地に於いてもなお一定の機動性を保つよう設計されている。
同時に、後方に据えられた陣地から、重々しい起動音が轟いた。
「――電璃陽電子砲台、充填完了まで、あと二十秒」
「殺獣砲台拘引、及び照準同期完了。指示待ちます」
通称を、メーサー・アフトキーニト。
高出力の指向性エネルギーを集束させる兵器。
理論上、いかなる生体組織であろうと分子結合を瞬時に破砕せしめる、筈であった。
だが、テント内の誰もが、内心に一抹の疑念を拭えずにいる。
――此の敵に、通常の理が、通用するのか。
「――目標、動きません。威嚇にも反応なし」
「構わん。封鎖線が完成次第、退避勧告を優先しろ」
初老の男の視線は、地図上の光点から離れない。
深紅の正八面体は、内部に妖しい発光を内包しながら、此方へと着実に侵攻している。
彼の脳裏にあったのは、目の前の脅威ではない。
更に、別の――数十年前、この国が失ったものへの記憶。
「…異形のものよ」
誰にともなく、彼は呟いた。
「
正八面体の内部で、ぎらり、ぎらりと。
其の言葉に呼応するように、微かに明滅を繰り返したような気がした。
▼
「――撃て」
下令と共に、大地が震える。
電璃陽電子砲台から放たれた荷電粒子の奔流が、白光の尾を引きながら、正八面体の巨躯へと殺到した。
着弾。
爆炎が、山肌を舐める。
だが――。
爆煙が薄れた其の中心に、傷ひとつない赤い外殻は、さして変わらずの形状のまま、鎮座していた。
「――っ、
高出力の光線が、大気を焼きながら直進する。
理論上、いかなる生体組織をも瞬時に破砕せしめる、筈のその一撃は――。
正八面体の表皮に触れた瞬間、まるで水面に石を投じたかのように、波紋を残して、霧散した。
「…効いて、いない?」
通信士官の声が、掠れた。
テント内に、重い沈黙が満ちる。
初老の男は、しかし、驚いた様子を見せなかった。
むしろ、其の瞳には、どこか諦観にも似た色が滲んでいた。
「予想通りだ」
彼は、静かに呟いた。
「あれは、我々の理では、殺せないと」
■ ◆
窪地の底で、ハルは、其の光景を、遠く、聞いていた。
山鳴りと爆音。
人智の限りを尽くした攻撃の全てが、目の前の巨躯には、届いていない。
少年の背に庇われた少女は、依然として、目を閉じたままだった。
その痩身を縁取る赤黒い曼荼羅の紋様だけが、まるで意志を持つかのように、微かな明滅を繰り返している。
――此の子と、此の怪物は、何か関係が?
思考が、其処まで辿り着いた刹那。
正八面体の巨躯が、咆哮とも呼べぬ、重畳とした振動音を発した。
地面が、大きく撓む。
――次の攻撃が来ると、本能が、告げていた。
ハルは、少女の身体を隠すようにして、その場に防ぎ込む。
――其の刹那、少女の瞼が僅かに、痙攣するように震えた。
喉の奥から、掠れた譫言が漏れる。
『…ぅ』
少年の心臓が、どくり、と跳ねた。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
ハルの視界に現れたのは、血の如くに赤い、
■ ◆