Ψ(Pusai) / Evangelion:R:A 作:AllZ:M
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『――』
少女の脳裏に最初に
視界の輪郭が、朧気に像を結んでいく。
滲んだ光の粒が、ひとつに寄り集まる。
やがて其れは、実体的な巨躯へと収斂していく。
激しい耳鳴りにも似た振動が、少女の
◆ ■
「――ぅ…」
瞼の裏側に灼きついていたはずの闇が完全に拭われて、途方もない紅に塗り替えられる。
其の紅は、彼女の知る何よりも遠く、そして近しいものであった。
視界いっぱいに広がる、正八面体の巨躯。
その表皮は、燃え盛る熾火の如く、深い
視界の中心に鎮座するのは、幾何学的な
其の表皮を伝う色彩と、自らの指先から滴り落ちる橙の雫の色とは、明確に異なっていた。
それにもかかわらず、彼女の裡ではその二つの紅が奇妙に混ざり合い、ひとつの疑問となって浮かび上がる。
――わたしの身体も、此の紅い
答えの出ない
けれど、其処に見える血の色はどこか――。
――どこか、
其の違和感の正体を見極めるだけの猶予は、彼女には未だ与えられていない。
傍らに座する少年――ハルは、其の思案の裏側を知る由もない。
ただ震える少女の肩を庇うようにして、その場に縮こまっているだけであった。
▼
金時山の中枢に設けられた仮説テントに、悲鳴に近い報告が飛び込んできたのは、まさにその刹那であった。
「――目標、防衛線内方に侵入! 後退可能距離、あと二百」
「
初老の男の視線が、地図上を這う光点から離れない。
荒神隊の車列は依然として侵攻する正八面体に対して後退を余儀なくされており、残された
その均衡を破ったのは、突如として指揮系統に割り込んだ、聞き慣れぬ周波の声であった。
『――此方、
「――容認できん!」
通信士官の声が裏返る。
「何処の管轄だっ、此れは!
初老の男が語気を強めた、其の言葉尻を断ち切るように、通信は一方的に打ち切られた。
沈黙が、テントの中を支配する。
誰もが、其の意味を理解しかねていた。
だが、
「…まさか、国連の
初老の男は、地図から視線を上げぬまま、苦虫を噛み潰さんと歯軋りを鳴らしたあと、無線を全部隊へと繋ぐ。
「…くっ、全隊、撤収! 安全区域まで後退したのち、指定の車両で此方へ!」
震える声で、そう呟く。
平静を保っていた男の脳内には、先の大災の記憶が甦る。
――此の世界は、歪んでいるのだ。
「
其の怒声と共に、其れまで当該目標を指していた端末が、中空へと投げ出される。
次の瞬間には、どん、と。
鈍重な音が、
▲
其処を疾走する一台の特殊車両の車内には、数名の乗員が息を潜めていた。
革張りの座席に深く沈み込む、サングラスをかけた老いた男。
――此の場において、彼は名を持たぬ。
誰もが彼を、只、「
窓の外を流れる荒神隊の残骸を見遣りながら、彼は口を開いた。
「
彼の視線は、退避を始める車列に注がれている。
「
その言に応じるように、車内の若い乗員が無線機へ向き直り、投降と誘導の指示を淡々と告げていく。
古傷の男は、その様を横目に、ふ、と息を漏らした。
「目標の
彼は自嘲めいた笑みを口の端に浮かべる。
「我々の現場兵装がワイヤレスと、此のボロちい
「…もし、此度の高次元生物に通常兵器が無効と判断された場合のこと、問答無用でウチの最新鋭、特例仕様の
若い乗員の声色に、僅かな不安の陰が滲む。
「…うん、判る。唐突な本番、
問いは、背後に控える人影へと向けられた。
「のう、
「此の世ならざる副産と、我々の
名を呼ばれた男――
「その時が来ても、後悔はさせませんよ」
「――ふん」
古傷の男は鼻先で笑うと、懐から一葉の紙片を取り出した。
長年の風雪に晒されたのだろう、其の紙は茶褐色にくすみ、端は幾度も折り畳まれた跡で毛羽立っている。
彼はそれを、車窓から差し込む乏しい光に
紙面の影が、彼の輪郭に落ちる。
片眼が、その屈折の中に沈む。
「従来兵器で斃せない怪物を屠る為の組成を生み出してくれた、先のものたちの戦果には」
彼は、紙片を見つめたまま呟いた。
「感謝せねばなるまいなあ」
其の言葉には、何処か遠い過去を懐かしむような、乾いた響きが混じっていた。
彼は暫く、紙片を見つめ続けていたが、やがてそれを丁寧に折り畳み直し、再び懐へと仕舞い込む。
「…あいつの息子に、御苦労をかける訳にゃいかんしな」
誰にともなく漏らされたその言葉は、車内の喧騒に紛れて溶けていった。
「いま此処に居なければいいが…あの子が、
古傷の男は、窓の外――金時山の稜線の彼方を眺めながら、目を細めた。
「んだとも、
誰に届くわけでもない
▼
撤退を始めた荒神隊の車列の直上を、正八面体が悠然と通り過ぎていく。
直径にして数百メートルにも及ぶ其の質量が空を覆った瞬間、後方の兵たちの間から、堪えきれぬ悲鳴が漏れた。
「――ば、化け物っ…!」
装甲車の陰に身を隠しながら、若い兵が震える声を絞り出す。
幾何学的な均整を保ったまま浮遊するその姿は、人智の及ぶ範疇を、余りにも容易く超越していた。
誰もが、其の巨躯の通過を、ただ息を殺して見送ることしか出来ない。
其の鈍く光る内部からは、何処か
音色を聴いた
■ ●
窪地の底で身を伏せていたハルの視界にも、其の巨躯は映る。
――此れは、まるで。
幼き日に絵本の
ハルの脳裏に、古い記憶の断片が過ぎった。
神の力によって二つに分かたれた海原と、其の間を渡る人々。
眼前の光景は、其れと同質の、人知を超えた分割の理を纏っていた。
樹々が撓む。
地表が抉れる。
其の隙間を縫うようにして、正八面体は進んでいく。
やがて其の巨躯は、
「…何だったんだ…っ」
残されたのは、抉れた大地と、倒れ伏した木々と、其して、静寂だけであった。
◆ ■
ハルは、其の遠ざかる背をしばらく見つめていたが、やがて、傍らに横たわる少女の存在を思い出す。
湿った土に
血の気の失せた肌が、山の冷気に晒され続けている。
「…っ、いけない…!」
ハルは慌てて、背負っていた布鞄を漁った。
指先が触れたのは、山行の際に必ず携行するよう、母に教え込まれていた一枚の銀膜。
遭難時に用いる、保温用の携帯毛布であった。
薄く畳まれたそれを引き抜き、皺を伸ばしながら、少女の身体へと差し出す。
「其のままでは、体温も下がるよ」
ハルは、少女に向き直った。
「さあ…早く」
少女は、其の声に反応するようにして、緩慢に顔を上げた。
紅い双眸が、まず、ハルの顔を見据える。
次いで、彼の手の中で光を弾く、銀色の膜へと視線を移す。
だが、彼女の反応は、ハルの予期したものとは、まるで異なっていた。
――此れは、何、と。
問う其の言葉すら持たぬまま。
少女は、只に小さく、首を傾げるだけであった。
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