Ψ(Pusai) / Evangelion:R:A 作:AllZ:M
■ ◆
少女の首が傾いだまま、視線だけがハルの掌中に注がれ続ける。
銀の膜は、曇天から差す
「…あ、えっと」
ハルは、其の反応の意味を測りかねて、一瞬、言葉に詰まる。
毛布、という
そう思い至った途端、彼は其の考えを訂正するように、緩慢な動作で膜を広げて見せた。
「こう、羽織るものだよ。寒いでしょ、
ハルは慎重に、少女の肩へと銀膜を掛ける。
冷え切った肌に触れた瞬間、彼女の身体が、僅かに
だが、拒絶ではない。
寧ろ、其れは未知なる感触への、単純な驚きに近い反応。
少女は、自らの肩を覆う銀色の膜を、不思議そうに指先で撫ぜる。
乾いた音がする度に、其の紅い双眸が、僅かに見開かれた。
「…かるい」
譫言のように、彼女の唇から漏れたことば。
ハルの心臓が、どくり、と跳ねる。
発話が、できる。
それも、これほど
「…名前、は?」
衝動的に、ハルはそう問うていた。
少女は、其の問いの意味を
しばらく沈黙した後に、彼女はゆっくりと、其の首を振った。
◆ ■
ゆっくり、ゆっくりと、陽の光が傾き始めていた。
稜線の向こうへと沈んでいく光は、其の輪郭を
立ち込めていた暗雲は、遥か東に流れていく。
其の方角に立ち昇った積乱雲が、対流圏に達して
ハルは、其の光の角度だけで、時刻の見当をつけた。
もう、
「…帰り道、暗くなるなぁ」
誰へともなく漏らした呟きは、其の実、自分自身への言い聞かせに近かった。
少女――紅い双眸の、名も知れぬ
歩けるとは、到底思えない。
肌は未だ血の気を欠いたまま、足取りも覚束ないだろう。
何より、あの
其れが此処に
「…今日は、此処で」
ハルは、そう小さく
彼は、鞄の中身を
銀膜の他に、
飲料水、そして僅かな乾パン。
山行の折に必ず持たせられる、最低限の装備。
其れさえあれば、一晩を凌ぐことは、然程難しくない。
――がさり、と。
鞄の中で、微かな
其の作業の手を止め、ハルは、鞄の奥底へと指を差し入れた。
指先に触れたのは、油紙で幾重にも包まれた、小さな
彼は、其れを取り出す。
油紙の結び目を、慎重な手つきで解いていく。
中から現れたのは、端の千切れた、一葉の古びた紙片。
紙の色は、既に本来の白さを失い、飴色に近い
其の表面には、赤黒い
円と、円を貫く直線。
ハルの喉が、微かに鳴った。
――此れは、
彼は、其の紙片を懐から取り出す度、いつも同じ感慨に襲われる。
母が管理していた古い書物――「
此処から遥か以南に在る仮設居宅の奥、鍵のかかった木箱の中に、幾つもの巻物とともに仕舞われていたそれを、彼は誰にも告げずに持ち出していた。
書物の余白に、
『此の頁の端を千切り、山麓の火口の袂にて、はらり、はらりと沈めなさい』
差出人の記名はない。
だが、其の筆致の情報に、ハルの既往が過ぎる。
毎年、この時期になると、決まって数日間に渡って姿を消していた母。
帰ってきた彼女の指先には、いつも
――何をしてきたのかと聞いた事は、未だ
畏怖にも似ている、問うてはいけないという
故に彼は、其の意味を知らないまま、喪失感の既実だけを、ただ受け入れるしかなく。
「…鳴ってないなぁ、電話」
携帯を取り出し、もう一度だけ履歴を確認する。
電波は、相変わらず
彼女が何処に居るのか。
何をしているのか。
何一つ、彼には分からない。
理解に及べない事象があるからこそ、彼は此処へ来た。
自分にできることを、せめて
然して、此の胸に在る好奇心を――。
彼は、紙片を握りしめたまま、窪地の縁――少し離れた
本来ならば、其処まで足を運び、
だが、今は其れどころではない。
「…気を改めるしか、ないかな」
誰に許しを請うでもなく、彼は其う自分に言い聞かせた。
紙片を、再び油紙に包み直す。
結び目を、丁寧に結い直す手つきには、どこか祈りにも似た慎重さが滲んでいた。
◆ ■
少女は、其の一部始終を、
言葉を発することもなく、ただ、
彼女には、其の紙片が何であるかを知る術はない。
だが、其の紙に描かれた紋様――円と直線の絡み合う意匠に、彼女の裡で、微かな
――何処かで、見た。
其の感覚の出処を辿ろうとした瞬間、思考は、あの水槽の中で見た光景へと引き戻される。
橙色の
自らを取り巻いていた、無数の
――違う。
彼女は、其の記憶を静かに手放した。
此処で視ているものは、あの記憶とは異なる、もっと別の。
――誰かの、祈りの痕跡。
「…ごめん。
視線に気づいたハルが、ばつが悪そうに紙片を懐へと戻す。
少年の頬には、微かな
自らが為そうとしていること。
その全容を、彼はまだ、他人に語る準備が出来ていない。
「…とにかく、今日はここで宿営…うん、泊まるしかないみたいだ。此の辺りは昔、大きな災害があってさ」
彼は立ち上がり、言葉を周囲の枯れ枝を拾い集め始めた。
「大きな街が、灰に呑まれた。それから、此の辺りは宿舎どころか、居住すら許されていない土地になっちゃって…ん、待ってね、いま火を起こすから」
少女は、其の背を見送りながら、自らの膝を抱えるようにして座り直す。
銀膜の内側で、彼女は、先程覚えた温度の記憶を、静かに反芻していた。
――
其の一語だけが、今の彼女にとって、唯一の困惑の所在であった。
▲
相模湾沖より前触れもなく顕現を果たし、箱根を縦に裂きながら侵攻していた巨大質量の
其の現在位置は、海岸線の連なる浜松沖、
其の巨躯を視認できる位置に座する、海面を割るようにして展開した灰色の艦影。
通常の海上自衛隊の編成とは明らかに異質な、円弧を描くようにして
古傷の男は、艦橋の窓越しに其の光景を眺めていた。
「――
彼の傍らに立つ砂蕗之は、手元の端末に視線を落としたまま、静かに頷いた。
「目標の進路は、
「三十二度、ね。……こんな
古傷の男は、皮肉めいた笑みを口の端に浮かべる。
彼の言う「誘導」とは、無論、正八面体を正面から捻じ伏せるような手段ではない。
「――
「無人配備による三十七式殺獣光線車、及び懸架車を、進路上に間欠的に配しております。先の目標は進行方面直下、下方の物質認識に対して、明確な反応を示す性質があることを確認していましたので、手筈の通りに」
「無人車両、及び艦影、山々の起伏に沿って…。地球と人間の
窓の外、遥か彼方の空を、深紅の光点が横切っていく。
「…もしも此奴が真に相容れぬ曲率に座す破壊生物なら、これから行う事は真の
速度は緩慢だが、其の軌道は、確実に海上へと近づいている。
古傷の男は、其の光景を見ながら、過去の事変を思索していた。
「――囮部隊、第三ポイント通過を確認。目標、追従」
「良し」
古傷の男は、腕を組んだまま、小さく
「此処からが本題だ、心せよ。…
「…ええ。此処からです。高次元生命への随一の対象法、其の
名を呼ばれた男は、静謐な所作で、端末の一角に指を滑らせる。
「――
特務艦の後部甲板が、油圧の唸りとともに、左右へと開いていく。
操舵室内の小物たちが、開閉による復原力で、小刻みな鳴動を繰り返す。
「――最終目標は眼前、正八面体の帝都侵攻の停止、及び当該兵器による海上での物理的
「――時刻
▲
艦橋の轟音に混じって、遠く、重々しい起動音が空震を発生させている。
後部甲板の格納区画から、其の巨躯がずるり、とせり出した。
人型を模した機甲の
頭部は存在せず、
深紅と黒肌、純白の色味の混ざった
――重化学工業による、肉体の形成。
防衛庁直々の
然して、高次の副産の混合。
目標を特殊装甲の転用による凝固で其の場に繋ぎ止めることを目的とした、多元を内包する巨大兵器。
其の通称を、彼ら●対はこう通す。
只独り飛翔する
『
「――J号、射出準備完了。母機との接続、正常」
「当該機体
古傷の男の声に、一切の逡巡はなかった。
特務艦の甲板を蹴るようにして、輸送母機が滑走路もない空へと舞い上がる。
其の腹に抱えられたJ:Aの巨躯は、枷に縛られた贄のように、力なく吊り下げられていた。
「――高度、規定値まで上昇。…対象との相対距離、五千」
砂蕗之の声には、僅かな緊張の色が滲んでいる。
艦橋の主画面に、遠州灘の海面を割って進む正八面体の姿が、克明に映し出される。
赤黒い肉体の内部で明滅する青色の妖しい輝きは、まるで、獲物を見定める眼差しのようでもあった。
「対象、進路変わらず。…律儀な奴だよ、ほんと」
「三千。…高度、投下規定値まで残り十秒」
古傷の男は、窓の外を見据えたまま、静かに、そして誰にともなく呟いた。
「――さあ、御開帳と参ろうか」
「五、四、三……」
砂蕗之のカウントが、艦橋の緊張を極限まで研ぎ澄ませていく。
「二、一――投下ッ!!」
母機の腹から、其の巨躯が切り離される。
重力に従うままに、穹を裂いていく。
混合色の
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