Ψ(Pusai) / Evangelion:R:A   作:AllZ:M

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第肆話 /μηδέν(ミデン)、心のむこうに : "Κυμηδέν l"

 ▲

 

 着水は音に先んじて、艦橋の床板を伝播する物理的な振動として到達した。

 遠州灘の海面が、巨体の質量を受けて陥没する。

 

 直径にして百メートルを超える水の窪みが一瞬だけ形成され、直後に外縁部が崩落し、白濁した水柱(すいちゅう)が垂直に聳立(しょうりつ)した。

 柱頂は高度二百メートルに達し、其処から降り注ぐ海水が、母機の翼面を乱打する。

 

「――着水確認、浮力機構展開。制御棒(アンテナ)射出後、微速前身」

 砂蕗之(さぶきの)の報告は、抑揚を欠いていた。

 

 主画面の暗視映像には、胸郭の高さまで海水に没した機甲の輪郭が、断続的な気泡の層の向こうで鎮座している。

 頭部を欠く其の巨躯は、水面下で三又に分散した脚部の固定肢を展開しながら、浅瀬を持たぬ外洋の只中に、自らの座を穿(うが)ちつつあった。

 墨流れの装甲板に埋め込まれた結晶の断片が、海水に触れた箇所から順に、濁った紫紺(しこん)の光を帯びていく。

 

「内部演算(プラ・クスィー)結晶体が励起を開始。反応値は規定の七割に達しています」

「初回起動にしては上々(じょうじょう)だ」

 古傷の男は、窓硝子の曇りを指の腹で拭った。

 

「…あとは、御本人様の意図次第だな」

 

 其の「御本人」は、既に進路を変えていた。

 遠州灘を南西へ滑走していた深紅の正八面体が、減速する。

 慣性を殺しきれぬ質量の波状が、海面を押し広げながら荒波を描いたあと。

 

 其れは、海岸線にて完全に静止した。

 

 ■ ◆

 

 火は、三度目の燐寸でようやく枝に移る。

 ハルは掌(てのひら)で風を遮り、湿気を含んだ小枝が爆ぜる音に、息を詰めて耳を澄ませる。

 橙の焔(ほのお)が、乾いた葉を舐めて立ち上がった。

 

 少女は、銀膜の内側から、其の火を凝視している。

 瞬き一つしない。瞳孔(どうこう)は収縮と拡張を繰り返し、焔の揺らぎに逐一(ちくいち)追随していた。

 

「…あつい、よ? あんまり近づくと」

 ハルが言い終えるより先に、少女の指先が、火へと伸びた。

 

「わ、駄目だって!」

 咄嗟に其の手首を掴む。

 冷え切った皮膚は、骨の形がそのまま掌に伝わるほど薄く、体温と呼べるものを殆ど宿していない、寒冷な熱を孕んでいた。

 

 少女は、掴まれた手首を不思議そうに見下ろす。

 それからゆっくりと、ハルの顔へ視線を移した。

 

「…あつい?」

「うん、そう…あついの。…火傷はね…いたい、んだ」

「いた、い」

 彼女は其の二音を、確かめるように口の中で転がした。

 

 未だ意味を伴わぬ語。

 だが、反芻されるたびに、其の発音は少しずつ、輪郭を得ていく。

 彼女の唇が、其の二音を三度目に象(かたど)り終えたところで、枝が一本、赤い断面を晒して崩れた。

 

 ハルは、足許の小枝で其れを火の中心へ押し戻し、漸く自分の指が未だ少女の手首に掛かったままであることに気付き、慌てて解いた。

 

「…ええとっ、名前…やっぱり、無いんだよね」

 確かめる声に、少女は暫く沈黙したのち、俯く。

 銀膜の内側で、喉元の皮膚が一度だけ上下していた。

 

「わたし、は、それが、ない」

 

 語を一つずつ、間を置いて並べるような発話。

 其の不器用な文節の隙間を、焔の爆ぜる音が埋めていった。

 

 ハルは、其の一文の構造に遅れて気付く。

 自称の代名詞は、既に彼女の口にあった。

 

「わたし」という主語と、其れに対応する固有の呼称の欠落とが、同一の発話の内部で非対称に並立している。

 指し示す主体は在り、指し示される語だけが空白。

 

 ハルは、改めて少女の姿を見据える。

 

 名も無く。

 染めも、縒りも無く、橙の雫に毛先を斑らせながら、其れでも尚、焔の光を白く跳ね返す白妙(しろたえ)の髪。

 何者にも染まる以前の、純真の白無垢(しろむく)。

 

 ――白無垢。

 其の語の連なりが、ハルの記憶の底から、一冊の本を引き上げた。

 

 ■

 

 母の蔵書。仮設居宅の奥、湿気を吸って波打つ背表紙の列。

 母は神話と古典に偏執(へんしゅう)の域で傾倒する人であり、ハルは其の影響のまま、文字を覚えるより先に、天地開闢(かいびゃく)の頁を指でなぞっていた。

 

 其の中の一冊、各地の宇宙創成言論(コスモ・ゴニャ)を蒐集した古い訳本の冒頭。

 世界の原初(げんしょ)は、いずれの語り部に於いても、純白を象っていたのだ。

 

 色も、形も。

 名も未だ無い、零(ゼロ)。

 

 古い異国の言葉で其れを無(ミデン)と呼ぶのだと、頁の余白に、母の筆跡で書き添えられていた。

 

 其の注記には、続きがある。

 事実として其処に何も無い状態はοὐδέν(ウーデン)と呼び、μηδέν(ミデン)は、「何も無いものと想定された」状態を指すと、母の筆跡は細く、然し断定的に続けていた。

 

 空白は空白で在るまま、充填の余地があるものとしての実体を以て存在する、という仮説の思想。

 

 或る種の楽観、或いは仄かな希望。

 ――何も無い、というのは、希望への反転。

 其処から全てがはじまる、ということの。

 

 ■

 

 ハルは、焔へと視線を戻した。

 

「…何も無いなら、今は、其れでいいのかもしれない」

 言葉を選びながら、彼は続ける。

「でも…誰かに名前を呼ばれた時に、『あ、わたしのことだ』って感じる時…すごく、とても…暖かい気持ちに、なれるんだ」

 

「…それが、わからない」

 少女は、小さく首を振った。

 参照すべき記憶が其処に無い、という事実の否定。

 

「えっと…この火を囲って、暖を取るみたいな。やわらかくて、心地のいい熱が…

 ハルは一瞬だけ言葉を探し、それから、自分の胸の中心へ掌を当てる。

「此処に、ともるんだよ」

 

 少女の紅い双眸が、其の掌の位置を追う。

 やがて銀膜の合わせ目から、白く細い腕が現れた。

 

 指先が鎖骨の下をなぞり、胸骨(きょうこつ)の上に着地する。

 掌の下で、薄い胸郭が一定の周期で持ち上がる。

 

 皮膚越しに伝わる拍動(はくどう)を、彼女は暫く、じっと確かめていた。

 

 其れを見届けてから、ハルは、小さく息を吸う。

「…だからね、仮称には、なるんだけど」

 唇が、僅かに乾いていた。

 

「"ミデン"さん、って、呼んでもいいかな」

 

 口にした直後、ハルの目が、大きく見開かれた。

 

 ◇

 

 銀膜に包まる少女の背後。

 焚火の光が届かぬ山奥、青白い寒色(かんしょく)に沈んだ木々の袂に、人の形をした何かが、立っている。

 

 薄暗い順光(じゅんこう)を浴びて。

 ――光源など、何処にも無い筈の闇の中で、其の輪郭だけが、まるで正面から照らされたように浮かび上がっている。

 

 髪の色は、うまく視認出来ない。

 青絹(あおぎぬ)の制服めいた着衣を纏っているようにも見えるが、襟も袖も、焦点を結ばない。

 

 ただ、其の瞳。

 其の肌の血色(けっしょく)が、何処か――

 

 ■ ◆

 

 ――ばさあ、ばさあ。

 激しい羽撃(はばた)きが、耳元で炸裂した。

 ハルの頭上を、数羽の鳥が飛翔していく。

 

 山で雷を避ける為、閃光から轟音までの間隙を数えよ、と教え込まれていた。

 音は、一秒に約三百四十の距離で進む。

 

 百メートルの隔たりならば、羽撃きは三百ミリ秒遅れて届く筈であった。

 

 其の間隙が、無い。

 

 距離にして百メートルは隔たっている筈の鼓翼(こよく)が、鼓膜の直ぐ傍で劈(つんざ)かれる。

 

「…っ!?」

 息を呑み、ハルは反射的に顔を庇った。

 

「…ん」

 小さな相槌が、少女の唇から零れる。

 

 其の声と同時に、焚火がばち、ばち、と二度、強く爆ぜ。

 舞い上がった火の粉と煙が、山奥の闇を一瞬だけ覆い――

 

 視線を戻した時、木々の袂には、既に何者の影も無かった。

 

 其の時、ハルは気付く。

 

 少女の足元の地面に残された、赤黒い紋様。

 

 焚火の光が届かぬ側の線から順に、濃淡を変えている。

 乾いて褐色に沈んだはずの線が、内側から湿り気を取り戻し、再び赤みを増していく。

 

 遠く南西、星の見え始めた稜線のさらに先。

 

 同刻に何が起きているのかを、彼は、まだ何も知らぬままであった。

 

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