Ψ(Pusai) / Evangelion:R:A 作:AllZ:M
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着水は音に先んじて、艦橋の床板を伝播する物理的な振動として到達した。
遠州灘の海面が、巨体の質量を受けて陥没する。
直径にして百メートルを超える水の窪みが一瞬だけ形成され、直後に外縁部が崩落し、白濁した
柱頂は高度二百メートルに達し、其処から降り注ぐ海水が、母機の翼面を乱打する。
「――着水確認、浮力機構展開。
主画面の暗視映像には、胸郭の高さまで海水に没した機甲の輪郭が、断続的な気泡の層の向こうで鎮座している。
頭部を欠く其の巨躯は、水面下で三又に分散した脚部の固定肢を展開しながら、浅瀬を持たぬ外洋の只中に、自らの座を
墨流れの装甲板に埋め込まれた結晶の断片が、海水に触れた箇所から順に、濁った
「
「初回起動にしては
古傷の男は、窓硝子の曇りを指の腹で拭った。
「…あとは、御本人様の意図次第だな」
其の「御本人」は、既に進路を変えていた。
遠州灘を南西へ滑走していた深紅の正八面体が、減速する。
慣性を殺しきれぬ質量の波状が、海面を押し広げながら荒波を描いたあと。
其れは、海岸線にて完全に静止した。
■ ◆
火は、三度目の燐寸でようやく枝に移る。
ハルは
橙の
少女は、銀膜の内側から、其の火を凝視している。
瞬き一つしない。
「…あつい、よ? あんまり近づくと」
ハルが言い終えるより先に、少女の指先が、火へと伸びた。
「わ、駄目だって!」
咄嗟に其の手首を掴む。
冷え切った皮膚は、骨の形がそのまま掌に伝わるほど薄く、体温と呼べるものを殆ど宿していない、寒冷な熱を孕んでいた。
少女は、掴まれた手首を不思議そうに見下ろす。
それからゆっくりと、ハルの顔へ視線を移した。
「…あつい?」
「うん、そう…あついの。…火傷はね…いたい、んだ」
「いた、い」
彼女は其の二音を、確かめるように口の中で転がした。
未だ意味を伴わぬ語。
だが、反芻されるたびに、其の発音は少しずつ、輪郭を得ていく。
彼女の唇が、其の二音を三度目に
ハルは、足許の小枝で其れを火の中心へ押し戻し、漸く自分の指が未だ少女の手首に掛かったままであることに気付き、慌てて解いた。
「…ええとっ、名前…やっぱり、無いんだよね」
確かめる声に、少女は暫く沈黙したのち、俯く。
銀膜の内側で、喉元の皮膚が一度だけ上下していた。
「わたし、は、それが、ない」
語を一つずつ、間を置いて並べるような発話。
其の不器用な文節の隙間を、焔の爆ぜる音が埋めていった。
ハルは、其の一文の構造に遅れて気付く。
自称の代名詞は、既に彼女の口にあった。
「わたし」という主語と、其れに対応する固有の呼称の欠落とが、同一の発話の内部で非対称に並立している。
指し示す主体は在り、指し示される語だけが空白。
ハルは、改めて少女の姿を見据える。
名も無く。
染めも、縒りも無く、橙の雫に毛先を斑らせながら、其れでも尚、焔の光を白く跳ね返す
何者にも染まる以前の、純真の
――白無垢。
其の語の連なりが、ハルの記憶の底から、一冊の本を引き上げた。
■
母の蔵書。仮設居宅の奥、湿気を吸って波打つ背表紙の列。
母は神話と古典に
其の中の一冊、各地の
世界の
色も、形も。
名も未だ無い、
古い異国の言葉で其れを
其の注記には、続きがある。
事実として其処に何も無い状態は
空白は空白で在るまま、充填の余地があるものとしての実体を以て存在する、という仮説の思想。
或る種の楽観、或いは仄かな希望。
――何も無い、というのは、希望への反転。
其処から全てがはじまる、ということの。
■
ハルは、焔へと視線を戻した。
「…何も無いなら、今は、其れでいいのかもしれない」
言葉を選びながら、彼は続ける。
「でも…誰かに名前を呼ばれた時に、『あ、わたしのことだ』って感じる時…すごく、とても…暖かい気持ちに、なれるんだ」
「…それが、わからない」
少女は、小さく首を振った。
参照すべき記憶が其処に無い、という事実の否定。
「えっと…この火を囲って、暖を取るみたいな。やわらかくて、心地のいい熱が…
ハルは一瞬だけ言葉を探し、それから、自分の胸の中心へ掌を当てる。
「此処に、ともるんだよ」
少女の紅い双眸が、其の掌の位置を追う。
やがて銀膜の合わせ目から、白く細い腕が現れた。
指先が鎖骨の下をなぞり、
掌の下で、薄い胸郭が一定の周期で持ち上がる。
皮膚越しに伝わる
其れを見届けてから、ハルは、小さく息を吸う。
「…だからね、仮称には、なるんだけど」
唇が、僅かに乾いていた。
「"ミデン"さん、って、呼んでもいいかな」
口にした直後、ハルの目が、大きく見開かれた。
◇
銀膜に包まる少女の背後。
焚火の光が届かぬ山奥、青白い
薄暗い
――光源など、何処にも無い筈の闇の中で、其の輪郭だけが、まるで正面から照らされたように浮かび上がっている。
髪の色は、うまく視認出来ない。
ただ、其の瞳。
其の肌の
■ ◆
――ばさあ、ばさあ。
激しい
ハルの頭上を、数羽の鳥が飛翔していく。
山で雷を避ける為、閃光から轟音までの間隙を数えよ、と教え込まれていた。
音は、一秒に約三百四十の距離で進む。
百メートルの隔たりならば、羽撃きは三百ミリ秒遅れて届く筈であった。
其の間隙が、無い。
距離にして百メートルは隔たっている筈の
「…っ!?」
息を呑み、ハルは反射的に顔を庇った。
「…ん」
小さな相槌が、少女の唇から零れる。
其の声と同時に、焚火がばち、ばち、と二度、強く爆ぜ。
舞い上がった火の粉と煙が、山奥の闇を一瞬だけ覆い――
視線を戻した時、木々の袂には、既に何者の影も無かった。
其の時、ハルは気付く。
少女の足元の地面に残された、赤黒い紋様。
焚火の光が届かぬ側の線から順に、濃淡を変えている。
乾いて褐色に沈んだはずの線が、内側から湿り気を取り戻し、再び赤みを増していく。
遠く南西、星の見え始めた稜線のさらに先。
同刻に何が起きているのかを、彼は、まだ何も知らぬままであった。
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