ψ(Pusai) / Evangelion:R:A   作:AllZ:M

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◆第六話 / 暫(しば)し穹(そら)に祈りて

 

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 ▲

 

 地震波観測所(ネオ・ジーク)からの伝令ののちに、明確に、そして最初に変じたのは、液晶画面の左半面であった。

 

 英数と記号の羅列が流れ落ちる最中に、一行のみが記述の途中で、別の概算文字列(ソース)に入れ替わる。

 入れ替わった行は、直下の行。

 更に其の下の行が同じ要領で、上から下へと一行ずつ。

 

 砂蕗之(さぶきの)が睨(ね)め付ける先で、誰も入力(タイポ)していない独自の記述が、演算回路の上を降りる。

 

「…未登録記述の混入を確認。侵犯(ハック)ではありません、発信源はあくまで…J:A自身の第二・第三結晶層」

 

「機械(ロボ)っころに、そこまでの自我が持てるもんか?」

 古傷の男が、顎に嗄れた手を添えながら思案する。

 

「…待て、コイツは此方側、●対のψ制約(アジロマ)を反故にしてやがるってのか」

「…少なくとも…ほら、此処です」

 砂蕗之が指を指したのは、今現在において改竄されていく数列其のものではなく、裏で演算されている源泉(ソース)。

 

「戴天遣に取り付いてからのコンマ数秒の間に、既にOSが約数万回、●対の安全制御システムから抜け出してるんです」

 其の下方にあったのは、数十万、更に数百万と記述され続ける、ジェイルブレイクの実行例。

 然して、其れと同じ数の当然的阻止(ブロッキング)履歴。

 

「ログの記述行が八桁の閾値を越えようとしたところで、暗号字列(コマンド)が其の輪を潜り抜けているのが、わかりますか」

「目標を此の世界に"はいどうぞ"させる為だけに、組織の謀叛(むほん)までしちまったのか…コイツは」

 

 ●対特務艦(ガイダマーク)の窓の外では、J:Aの左肩から見える黄金の溶解面から、赤黒い線虫(コード)の筋が一本、装甲板の上へと這い出していた。

 筋自体は、墨流れの装甲を直線には進まない。

 埋め込まれた結晶の粒を、一粒、また一粒と辿りながら、其の粉々を吸い込むように再侵蝕(さいしんしょく)していた。

 

「侵蝕線!? …あんなもの、我々は仕組んでいない!」

 砂蕗之の声色が、がなりを含んだ荒々しいものに変わる。

 

 古傷の男は、其れ以上は何も口にしなかった。

 ――何より、"其れ"が内部構造に組み込まれている以上、常態ならざるものの発生は想定の範疇。

 だが、古傷の男は、其れを砂蕗之自身に最後まで伝えることが出来ずにいた。

 

 "其れ"は、古来より続く、秘匿された因果律(ペプロメーノ)。

 真実を当事者以外に伝えることは、其れこそ"彼ら"への謀叛になると。

 

 ▲ 

 

 主画面の中央では、J(s)M2(システマ)の造り出した欠けた親指が、干渉縞(モアレ)を描きながら明滅していた。

 右下の文字列が崩れた箇所から、記号が一つ、また一つと赤い文字に置き換わり、欠落は輪郭の内側へゆっくりと広がっていく。

 

 艦橋の隅にて、若い通信士が小さく息を詰める。

「土着要項自体も、まだ完全ではありません。恐らく、先の噴火事象も…無因果ではないですから」

「…見えてる」

 古傷の男の返答は、平坦であった。

「最期まで戦い抜いた奴の"遺志"が完全に欠落した時にだけ、落胆と死は赦されるってもんさ」

 

「…目標から蚕食(さんしょく)が発生してる!」

 砂蕗之が、冷や汗を散らしながら端末から目を上げた。

 

「…間違いない、侵されていますっ! 我々の物質と同じ質の物質を同じ質量の物質に、物理的な物質がっ、いままさに物理的に伝っている!」

「砂蕗之さんよ、掌中の珠の成長に感激する気持ちは汲むが、語彙を固める前に発言するなね」

「あ、あッ!?」

 男の諭しに、砂蕗之は反射的に額を拭った。

 

「…っ、ですが、先の線流による外殻熱の損傷とは、明らかに性質が異なります!」

 観測員の声が、其処へ重なった。

「噴出柱地点、隆起継続。縁部より発光を確認。噴煙は確認できません!」

「火砕流もなし…下手すりゃ噴火じゃないのか」

「はい、発光のみとのことです」

 

 古傷の男の指が、再び上衣の内側へ伸びる。

「…NEO:GQ(ネオ・ジーク)の報告は噴火兆候の報告のみだったが、其れはいまだ高次災害の全容を知らぬからだな」

 呟きは、砂蕗之にだけ届いた。

 砂蕗之は、一度だけ古傷の男の顔を一瞥したが、其れから視線を端末へ戻し、結局は何も訊かず。

 

 嘗て、此の世界には大災が振りまかれた。

 

 ――箱ノ根岳は、嘗て起きた"天変地異"の元凶が遡行(しゅだん)に遣わした、巡合特異点(ガフ)のひとつだとされている。

 

 

 

 ■ ◆ 

 

 

 

 根元から無惨に引き千切られるようにして地に伏した倒木群が、二人の行く手を塞いでいた。

 

 古びた大地の表皮ごと剥がれ落ちた杉の巨木が、幾重にも重なって急斜面を覆い尽くしている。

 かつてハルが熟知していたはずの微小な山道や獣道の痕跡は、今や土砂と断絶した枝葉の下へと完全に埋没し、跡形もなく消失している。

 

 ハルは手探りで湿った幹を跨ぎ、生い茂る硬質な針葉を掻き分けながら、手探りで歩みを前へ進めていく。

 夜の深い闇の中で唯一の指針となる明かりは、折り重なる木々の間隙から漏れ出す、あの異質な赤黒い耀りだけであった。

 

 其の耀りは、暗闇の奥底で脈打つように、強く、弱く、そして再び強く。

 厳密な周期性を保った不吉な輝きが、荒廃した夜の山肌を怪しく照らし出している。

 

 不意に、少女を覆う銀膜の裾が、太い枯れ枝の鋭利な突起に引っ掛かる、乾いた音が響いた。

 

「…あ、ごめん! 其処が引っ掛かって──」

 制止の言葉を言い終えるより前に、ハルの右足が浮き上がった大根の隙間へと滑り込み、足首を深く取られた。

 

「わ、と、とっ!?」

 平衡感覚を失い、ハルの身体が唐突に前傾する。

 彼は倒れるまいとして、繋いでいた少女の細い手へと咄嗟に全体重を預けてしまった。

 

 引きちぎられそうなほど引っ張られた彼女の指先は、小刻みに震えながらも、決してハルの手を離そうとはしなかった。

 

 華奢な皮膚のすぐ下に骨の硬質な形状がはっきりと感じ取れるほどの、薄い手。

 しかし其処には、彼の身体を支え留めるだけの、かつ最低限の膂力が、確かに込められている。

 

「…っ!」

 

 その確かな繋がりに支えられ、ハルは先程の前傾で泥に取られた足首を、どうにか引き抜くことに成功した。

「…ありがとう、助かったよ…ミデンさん」

「…ん」

 

 ハルの謝意に対し、ミデンはただ短くそれだけを返すと、再び表情を変えずに前方の暗闇を見据えた。

 

 彼女の足元は裸足(らそく)であった。

 鋭利に砕けた小石も、不規則に散乱する割れた枝木すらも、彼女は何の躊躇いもなく踏み越えていく。

 その足取りには、人間が物理的な苦痛に対して抱く本能的な忌避や躊躇が一切見られない。

 

 倒木の太い幹の表面、苔の薄い場所へと確実に足を掛け、根の浮いていない強固な地面を見極めて次の足を置く。

 

「…足、痛くないの?」

 ハルの問いかけに対し、少女は歩みを止めることなく、少しの間を置いてから言葉を返した。

 

「…いた、い…?」

 まるでその言葉の持つ意味合いや、痛覚という生体の概念そのものを未だ知らぬかのような。

 無垢で、不確かで、どこか遠い響きを帯びた疑問文。

 

「…そっか」

 

 ハルは胸の奥で静かに息を呑み、それ以上を追求することをやめた。

 

 

 ■ ◆

 

 

 焚火の赫灼たる焔が突如として途絶し、二人が夜の山道へと足を踏み出してから、すでに十数分の時間が経過していた。

 

 暗闇の中、少年の視界をかすめるミデンの足運びを見つめながら、ハルは胸の奥底に小さな引っ掛かりと不審を覚える。

 

「…道、分かるの?」

 

 その問いに対し、少女は返答をなさず、暫しの間だけ沈黙を守った。

 しかし、彼女の足首が刻む歩みそのものは、迷うことなく前進を続けている。

 

「…わからない」

 静かな声が夜気に落ちるが、歩みは止まらない。

 

「でも…あっち、だけ…わかる」

 ミデンは前を歩いてハルを牽引するのではなく、繋いだ手からほんのわずかに方向を示唆するようにして、白く細い指先を暗闇の彼方へと向けた。

 特定点に存在する現象の所在を、淡々と教え示す助言の身振り。

 

 ハルは、黙って頷いた。

 これ以上の詳細を問い詰めたところで、彼女自身が言句として提示できる明確な解を持ち得てはいないのだという事実は、既に察せられていた。

 

 ■ ◆

 

 ——ごう、と、大地の底部から低く地鳴りが響く。

 足許が再び、不吉に揺らぐ。

 

 ハルはふと、鼻腔を掠める夜の空気の中に、噴火の山特有であるはずの硫黄の異臭が存在しないことに気付いた。

 

 山体が咆哮し、地脈が激しく鳴動する異常な夜であるにもかかわらず、上空から降下してくるはずの火山灰の一片すら漂っていない。

 また、大気は凍てついたように冷やされたまま。

 

 地下から滲み出す赤き耀りの色彩が近づくに従って密度を増し、濃厚に視界を染め上げていく中。

 肌を叩いていた凶暴な風だけが、不思議と少しずつ凪ぐ。

 

ハルは空いた左手で懐の感触を探り、油紙に包まれた紙片へと指先で触れた。

何重にも折り畳まれた滑らかな油紙の感触越しに、破断された紙の端の、微細な毛羽立ちが不均一な手応えとして伝わってくる。

 

 母は、この暗憺たる夜の山道を、毎年ただ独りで歩み続けていたのだろうか。

 ――その問いに、答えてくれる者は誰もいない。

 

 只に、互いに繋ぎ合わせた二人の手だけが、迷いを消し去るようにして、静かに、確実に、向こう側へと引き寄せていた。

 

 

 

 ▲

 

 

 

 J:Aと正八面体(オクタ・へドローン)の接触面から放射状に広がった侵蝕線は、胸部扉の縁に手を掛けている。

 

 金碧の輝きを放っていた八面体の先端が、縁から赤黒い脈状の紋に取り巻かれて、輝度がじりじりと落ちていく。

 

 三又の固定肢の一本が、足場の岩礁に其の爪を引っ掛けようとするが、自律制御の麻痺によって縺れを起こす。

 

「第三固定肢、応答喪失! 炉心温度、尚も上昇中!」

「膜網との接続が完全に遮断。●対の制御を離れたいま、安全制御も意味を成しません!」

 報告が、途切れなく積み上がる。

 

 ――J:Aには、炉心を内包した駆動機構が内蔵されている。

 この機体に万が一が及んだとあれば。

 只でさえ帰還困難区域となっているSO県、及び関東全域が、高濃度物質(アクタノボリア)の汚染によって――。

 

 砂蕗之の声は、其の事実全てを平坦に受け止めたまま、一拍だけ間を置いてから放たれた。

 

「せめて、祈念しましょう。彼(あ)れが我々の味方であるはずだと」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 折り重なっていた杉の林の倒木が、唐突に途切れた。

 

 樹幹が引き裂かれ、巨根が空を仰ぐ其の痕は、まさに過去の地殻変動が残した傷跡其のものの姿であった。

 

 植物の生活環が断絶され、荒れ果てた地表の其の先。

 かつて破局的噴火——地質学的年代において壊滅的な威力を以て熱界を吐き出した箱ノ根岳の、旧噴火口による小規模な陥没孔(カルデラ)構造が広がっている。

 緩やかな登り勾配の果て、ひと息にその連続性が途切れた場所に、急峻な落差を伴う絶壁の縁(へり)が形成されていた。

 

 縁の向こう、直径にして二百メートルほどの窪みの底から、非物質的な光彩が垂直方向に立ち上るのを、ミデンは其の瞳で視認した。

 

 先程までに広がっていた深紅(しんく)の照り返しというよりは、既に純白に近い光。

 溶出するのは火砕した岩塊でもなく、熱気も殆ど無い。

 光の柱は規則的な可変性を伴いながら、其の発光を継続している。

 

 其の火口の奥にある光景を見て、ミデンは違和感を覚えた。

 

 穹に広がっているはずの星々(ほしぼし)が、其処に在るのだ。

 立ち並ぶ七星も、流れる彗星も。

 

 彼女がこの現存する物理世界へと到達する以前、其の一瞬に目撃した情景——すなわち第零次元(カルデラリム・ワールド)の断片的位相。

其の淡く鈍い色彩が、地殻の孔の中で怪しくも静謐な燐光(りんこう)を放ちながら、静かに揺らめいていた。

 

「…こ、これが」

 ハルが喘鳴を吐きながら、其の場で立ち止まる。

 其の先の言葉は、続かなかった。

 

  ミデンは自らの傍らに身を硬直させている少年を一瞥したあと、その紅い網膜(ひとみ)の焦点を、再び地に横たわる虚数孔(くらやみ)へと回帰させた。

 少年の眼に映っているのは、縁の内側から立ち上る、幾何学的かつ単調な白光の柱(ライト・ピラー)のみ。

 

 然し、彼女の眼に映る確度(ベクトル)は違った。

 

 七つの星が、柱の根元で列を成している。

 彗星が一筋、孔の壁面に沿って音もなく流れて消える。

 其の奥に、更に小さな光の粒が、数え切れぬ程に点在している。

 

——此処を、知っている。

 起源の記憶を持たぬ自らの由来、存在論(ロゴス)を欠いた零点(ミデン)。

 

 あの密閉された水槽(バショ)の底から不条理に放逐され、自らの意識の輪郭が曖昧なままの静寂。

 其れと同一の位相をたもつ、此の深淵なる孔の底に、それは確かに存在している。

 

 彼女は、貪るように瞳孔を動かし、視野角を隅々まで探求させた。

 

 揺らめく星辰の渦動のただ中に存在した、凪いだ風。

 揺らぐ波。

 

 然して、あったはずの月の姿を。

 

 黒い水面を真っ直ぐに切り裂いていた、透明な銀の条痕を。

 

 

 ◆

 

 

 ——無い、のだ。

 この孔の中のいかなる場所を探すとも、それは物理的にも、概念的にも。

 知覚的にも、感覚的にも、絶対に、必然に、限りなく。

 

 如何なる場所を覗き見たというのに、"月"は存在し得なかった。

 

 探していたものが無い、ということに、ミデンは謂れぬ感情を抱く。

 同時に彼女は、胸腔の深部が割れるような、喉の狭まりを物理的に知覚するような、未知の感覚を感じ取った。

 

 …其れが何であり、何と呼ばれるのかは知らなかったが。

 

 

 ■ ◆

 

「…母さんは」

 

 ハルの声は、金切るようにして掠れていた。

 彼の足は、杉の根が途切れた線の上で、静止したままだ。

 

 常緑の緑景がどこまでも続いていた稜線の向こう側、突如として露出した地肌は、水分を完全に喪失して白濁し、南方の海の砂のように崩れ落ちていく。

 

 決して、恐怖で竦んでいるわけではなかった。

 前へ送り出した筈の足が、地面に触れた時には、既に元の位置から半歩も違わぬ場所に在る。

 何度繰り返しても、同じこと。

 

 鼓膜の内側では、光の拍と同じ間隔で耳鳴りが脈打つ。

 

 彼の鼓膜の内側では、不気味に立ち上る光の脈動の泊と同期した、高音の耳鳴りが拍動し続けていた。

 

『山麓の火口の袂(たもと)にて』

 わたしの母は、繰り返される歳月の中、常にこの目に見えない事象の線引き(パーソナル)の境界手前に、ただ孤立して立ち続けていたのだと、ハルは悟る。

 

 この空間的拒絶の絶対的な境界である、絶壁の縁の極限まで、知的生命体(ホモ・サピエンス)が到達できるはずなどなかったのだ。

 侵入を許されざる不可侵領域——あるいは、一度でもその一線を踏み越えれば存在の再構成が不可能になることを解しながら、それでもなお。

 

 ――わたしの母は、記号の刻まれた紙片をその手に携え、この孤独な巡礼の地へと足を運んでいたのだ、と。

 

「…此処までしか、来られなかったんだね」

 

 その瞬間であった。

 

 思考に沈む少年の横で、ミデンが一歩、迷いなく前方へと足を踏み出したのは。

 世界の法則が課していた暗黙の停止線を、彼女は何の抵抗もなく無造作に越した。

「っ、あっ、えっ…ちょっ!?」

 ハルは驚愕に目を見開き、慌てて彼女と繋がっていた指先に力を込めようとしたが、彼の身体は未だ強張ったままだ。

 彼の右腕だけが、ベクトルを失ったままで前方へと引き伸ばされていく。

「ミデンさんっ…!」

 

 少女は彼の悲痛な制止の声に振り返ることすらなく、白濁した砂の領域を、素足の触覚で、一歩、一歩と、揺らぎない歩調で邁進していく。

 その白妙の髪先から滴り落ちる鮮烈な橙色の雫が、彼女が描く絶対的な軌跡に沿って、点々と白い地表へと落降した。

 孔の底から放出される光の脈動が強度を増すたび、その生体液体の滴は其の軌跡を拡げ、拡散する。

 それは完璧な同心円状のパターンを描きながら、干上がった砂利の隙間へと吸い込まれ―――。

 

絶壁の縁まで残すところ僅か数歩という限界地点において、ミデンの進行運動が唐突に停止した。

 

 彼女は緩慢な動作で右腕を持ち上げ、眼前に広がる圧倒的な光の空間へと、その先導たる指先を差し出した。

しかし、彼女の人差し指の先端は、真空の空間の中に存在する「見えざる界面」に接した瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 

 物理的な圧力によって押し返されたのではない。

 不可視の障壁によって行動が阻害されたのでもない。

 

 ただ、彼女の存在を定義する"認知(メタ)"の領域そのものが、その空間座標を超えて伸長することを拒絶したのである。

 

「…ここ、まで」

 静寂を穿つ密やかな声が、極度に大気が減衰した夜空の中に、どこまでも鮮明に響き渡った。

 静止したまま、彼女は徐々に身体の軸を反転させ、後方を見つめる。

 ハルの右腕は、二人の皮膚が接する最小限の面積を維持しながら、其の先端が限界まで引き伸ばされた状態。

 ミデンの左手人差し指の皮膚と、ハルの右手親指の指先のみが、分子レベルの結びつきを保つかのように辛うじて繋ぎ止められている。

 

 ミデンは、自らの指先の微小な接触面と、眼下に渦巻く広大な深淵とを、交互に視認した。

 そして、何らの躊躇もなく、一歩だけ後方へと身体の重心を移動させる。

 

 緊張状態にあった二人の手が、失われた距離を埋めるように緩やかに収縮していく。

 

「…もどる」

 彼女は、その単一の概念のみを口唇から零した。

 

 ■ ◆

 

 ハルの傍へ戻ったミデンは、少年が懐を探る手つきを、凝っと見つめている。

 油紙の結び目を解くと、飴色の端切が白い光を透かして、半ばを朱に染めた。

 摩訶不思議な構造を持つ曼荼羅紋様の、途切れた不完全な曲線——その不連続な図形を目にした瞬間、ミデンの紅い瞳孔が微細に収縮し、わずかに拡大された。

 

「…さっきの?」

 彼女は、自らの足元へと不意に視線を降ろした。

 彼女の肉体から紡ぎ出され、点々と規則的に続いていた生命液体(オレンジス)の雫が、白濁した砂の表面に不気味な暗赤色の痕跡として残存している。

 然して、ミデンが横たわっていた場所に刻まれていた、まるで血深泥(ちみどろ)のような文様にも、どこか既視の念が過ぎった。

 

 それから彼女は、再び少年の掲げる端切の上に刻まれた複雑な紋様へと焦点を戻す。

「…これと、さっきの、に…にてる」

「…うん…多分、無関係じゃない」

 ハルは絞り出すような声で同意を示したが、その現象が持つ意味についての説明ら、、彼自身も持ち合わせてはいなかった。

 

 ——"此の頁の端を千切り、山麓の火口の袂にて、はらり、はらりと鎮めなさい"。

 

 母の指示ごとに従い、ハルは数センチメートル四方の古びた端切の脆弱な縁に対し、自らの爪の先を立てた。

 遠方の地殻から響く巨響の最中、紙の繊維が物理的に破断する微小な知覚が、彼の掌へとダイレクトに伝達される。

 やがて、小指の爪程度の極小の欠片が、一片だけ彼の掌の上に残留した。

 

「…っ」

 彼は躊躇を捨て、その紙片の断裁面を自らの右人差し指の先端に強く押し当てた。

 表皮が切り裂かれ、微小な擦過傷(かすりきず)が刻まれる。

 

「…いてて」

 かつて母の指先に刻まれていた赤色の染みと全く同一の色彩が、ハルの指先から、紙片の繊維構造へと速やかに転写されていく。

 

 其れを確認したのち、カルデラの境界線に向けて、ハルが血の染み込んだ掌をゆっくりと突き出した、その時であった。

 

 彼の視界の側方から、滑らかな質感を持つ白い手が重なった。

 ――ミデンの手だ。

 

 彼女はハルの掌の下面へと自らの指先を滑り込ませ、寸分違わぬ角度、寸分違わぬ高度を保ちながら、平行して手を空調の中へと差し出している。

 少年の行動完璧に投影(トレス)した、純粋な学習と模倣の行動。

 その絶対的な同期行動にハルの意識が奪われていたまさにその時、彼の指先から、摩擦力を失った小さな欠片が。

 

いま、はらり、と離脱した。

 

 垂直に立ち上る光の構造体と、その背後に展開する無限の星々に向かって、紙片はその質量に相反し、緩慢に下降を開始する。

 底部からの強い放射光に透かされて、紙の組織内部に刻み込まれた赤の筆跡——その幾何学的な紋様が、ぽわり、ぽわりと、それ自体が独立した可視光を発し、やがて強烈な輝きを伴って浮上した。

 

 ハルは、加速する意識の中で、無意識に数を数え始めた。

 

 欠片が重力にしたがって舞い散り、空間の対称性を保ちながら翻る回数。

 孔の底から放出される光の脈動が、明滅を繰り返す周期の回数。

 

 そして、重ね合わされた掌を通じてミデンの皮膚から、己へと脈々と伝達される、もう一つの生命的な脈打(はくどう)の回数。

 

 これら無関係に見えた三つの独立した時間振動の位相が完璧に合致した瞬間、地底からの白光が鈍くなった。

 目が眩むばかりの苛烈な輝きを、深淵の底へと緩やかに沈澱させていく。

 

 カルデラの縁の内側には、極めて静かな光のみが、残滓として揺らめいた。

 膨大な質量を呑み込んでいた巨大な破砕孔そのものは消滅することなく、古代からの「火口」としての輪郭を静かに留めていたが、その地殻深部に貯蔵され、灼熱を解き放っていた膨大な溶岩(マグマ)の流動体は存在しない。

 ただ、その静まり返った底において、ミデンの網膜に深く焼き付けられた星々の後像だけが、朧気に残っていた。

 

 沈黙した夜の凪ぎが、此の場所へと充満していく。

「…しずか」

 ミデンが、息を呑むような小ささで吐息を漏らす。

 ハルは、静かに少女の横顔を見つめた。

 

 彼女の紅い双眸は、先の余韻をその瞳孔に映したまま、二回ほど瞬いた。

「…ぁ」

 

 ミデンが本能的な驚愕とともに小さな音を漏らすとほぼ同時に、彼女のふたつの瞳孔の表面に、かすかな輝点が点灯する。

 

 それは遥か上空、大気圏の無限の彼方に存在する、暗雲の亀裂。

 その幾何学的な間隙から、本物の星がひとつ、彼らの存在を覗き込むように光を放った。

 

 彼女はその唯一の輝点を起点として、夜空の広大な周囲を、慎重に見渡していく、

 

 本来であれば、そこに君臨しているはずの"決定的な存在"が位置すべき天球の座標には何の光もなく、ただ底なしの深い闇だけが静寂とともに広がっている。

 それは何ものによっても侵され得ない、完璧な新月(ニュー・ムーン)の夜空であった。

 

「…ない」

 掠れた小さな呟きが、風の完全に止んだ夜の静寂の中に溶け込んで離散した。

 

 けれど、遥かなる時空を超えて届いたその微かな一等星の光彩は、確かに彼女の瞳の奥深くへと、消えぬ刻印として刻み込まれた。

 

 

 

 ▲

 

 

 

 砂蕗之の諦念にも似た言葉の重みが、艦橋の空気にまだ残存している間であった。

 画面の左半分で、赤く蠢く文字列が、動きを止めた。

 

 J:Aが自律的に行っていたコードの書き換えは、其の一行を最後に下方へ降りてこない。

 びちびちと肩から伸び出た侵蝕線のコードは、胸部扉の縁で脈打ちを止め、正八面体の逆流的な蚕食も、其処で静止した。

 墨流れの装甲に這う赤黒い筋は、其の儘の形で固定される。

 

「…侵蝕、停止! …停止です!」

「炉心温度、下降! 濃度、安定圏に入りました!」

 観測員の声が、半拍だけ遅れて上擦る。

 

 当の砂蕗之は、端末の上で指を震わせ続けていた。

 窓の外の海岸線に立ち尽くす、巨大な機甲の姿。

 

 其れに対する語彙を固める度に、口を開かない状況が数十秒ほど続いたあと、彼は懐の端切に触れた儘の古傷の男に目を向けた。

 

「…あの物質は」

 呟きが、艦内に轟いた。

「…使っては、いけなかったのではないですか!」

 主画面の中央では、欠けた親指の干渉縞(モアレ)が、明滅を止めている。

 窓の外では、赤熱していた正八面体の外殻が、深紅から暗い楔色へと変わっていく。

 内側で明滅していた青白い光は、鈍い輝きに落ち着いて、其れ以上、強くも弱くもならなかった。

 

 稜は、保たれたままに、全体が、内へ向けて縮み始める。

 数百メートルあった質量が、J:Aの両腕で抱えられる大きさへと変貌した。

 

「…体積、急速に縮小。…しかし、重力計測値は減じません。質量は変わらないまま、物量だけが矮小化したものと」

 艦橋の全員が、同じ結論を口に出せぬまま悶々としていた。

 

 広義では、土着と呼称出来るかもしれないが。

 其れは内部に鈍い光を保った儘、動かぬ結晶体となる。

 

 J:Aの目の前に、どずり、という地響きと共に沈下した其れは、完全に生体的な反応を失った。

 

「…帝都には、土着要項は完遂と通達しろ。膜網の人的・物理的損害も含めて、我々●対が全責務を負うとも」

 古傷の男が通達を要請した、其のときであった。

 画面から、全ての記述が失せる。

 

 J(s)M2(システマ)の最後の一行が、空白に吸われ――。

 

 ――然して、消滅したのだ。

 

「…J:A、全系統応答なし!」

「帰投処理、受理されません。●対の制御系統から完全に離脱しています」

 

 観測員の報告に、砂蕗之が顔を上げる。

 

「…っ、我々は!」

 

 砂蕗之の指は、腰に携えていた機械端末に伸びている。

 彼は徐にそれを取り出し、台に置くと、中央に伸びているレバーに手をかけた。

 

 ●対の安全制御が、最後に残した緊急停止の暗号。

 

「我々はッ、機械(ロボ)ではなく邪神(マキナ)を生み出してしまったのだっ、だ、だから…此処でっ!」

 此のレバーを引けば、J:Aは操舵系統の可否に関わらず、其の駆動を停止させる。

「…ここで贖罪を!」

 

「産み落としたからには、相応の責務が伴うことをお忘れかい」

 古傷の男の発した言葉は、ドスの効いた諭しであった。

 然し、命令というよりは頼みに近しい響き。

 

「彼奴が、何を抱えて、何処へ行くのか。少なくとも、現状は其れを見届けるしかないんだ」

「…ですが、あれは!」

 砂蕗之の声が、僅かに揺れる。

 

「…謀叛、です…ウチのアローンは、制御系から外れて!」

「違う、"自立"だ」

 

 男は、窓の外から目を離さずに頷く。

「謀叛というのは、敵の策に乗じて我々に牙を向いた時に使うもんだ。ヤツは俺たちを護った。それに…"自我が芽生えた"というだけで、お前は我が子を殺めるのか」

 砂蕗之の視線が泳ぐ。

 彼は暫し、言葉を探していた。

 

 彼の脳裏にあるのは、肩から湧き出した肉体的な物質。

 其の機体が"人類の公理"から完全に逸脱した化け物であるという認識を、どうしても拭うことが出来なかった。

 

「…っ、そもそも、謀叛とは俺が言い出した例えだったかい?…まさか、ロボット相手に情がうつっちまったのかね」

 古傷の男が頭を搔く仕草を見せたあと、熱の引いた砂蕗之は、停止レバーから指を離した。

 

 ▲ 

 

 窓の外で、J:Aが動き出す。

 三又の固定肢が、岸から離れる。

 

 縋り付いていた両腕が、縮んだ結晶体を胸の前へ引き寄せた。

 溶け落ちた左腕の繊維を、残された右腕が補って、結晶体をそっと抱え直す。

 

 内部に鈍い光を湛えた儘の結晶体と、頭部を持たぬ機甲は、そうして、一つの影となっていく。

 

 J:Aは海岸線に荒波をもたらしながら、SO県に上陸した。

 浜の砂を踏み、其の先の夜の陸へ。

 

 進む先には、直線の筋が一本だけ在った。

 

 先刻に正八面体が通過し、樹冠を左右へ押し退けた跡。

 箱ノ根岳の方角から此処へ伸びていた其の筋を、J:Aは、反対の向きに、辿り始める。

 

「…御散歩コースは踵返し、ね。…追跡できるか?」

 古傷の男の問いに、砂蕗之が答える。

 

「…進路上は、数十年前の大災害時から既に退避が完了している区域です。T県から以北を超えなければ、人的被害は見込まれない」

「追え、但し距離を取りながらな」

 

 男は、懐の端切を、布越しにゆっくりと撫でた。

 

「…独立独歩への邪魔立ては、許されてねえ」

 

 J:Aは、夜の戴天遣の通った道すがらを、●対の誰の制御にも拠らずに進行し続けていく。

 

 脚を踏み締める度に、地鳴りが響く。

 

 遥か先の山奥に残る燐光が、J:Aの墨流れ(マーヴリング)模様を、そっと、照らし続けていた。

 

 ▲

 

 

 

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