それは、在り得たかもしれないif(もしも)。運命の間隙に挟まれた、泡沫の如き光景。
 虹の幕間に揺蕩う少女と少年の、幻想の一幕なれば。

『彩る世界に響く音』
https://syosetu.org/novel/261600/

『眩き夢路に耀う虹』
https://syosetu.org/novel/403053/

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束の間のSecret

 詰まる所それは、複数の要因が招いた必然めいた偶然だったのだ。

 

 南方で発達中の低気圧の影響か、昨日から今朝方まで降り続いた雨。鼠色の雲はとうに東方に過ぎ去り、午後からは青空が戻ったが、その爪痕はまだ微かに残っていたという事だ。

 

 例えばそれは、校舎の陰に残された水溜まり。或いは紫陽花の葉から滴る小さな輝き。はたまた、大地に残され植物の糧となりきらぬ泥濘。どれも微かな、それでいて確かな雨の名残を覗かせる光景の数々だ。だがあまりに小さくて、気が付かなかった。これはそれだけの事なのだ。

 

 同好会の練習中、足元の泥濘に気付かなかった侑が転倒した。言葉にしてしまえば、これはそれだけの事。ランニングを一着で終えた彩歌の許に駆け寄っていた最中の出来事であった。

 

「わーっ!?」

「侑さん!?」

 

 唐突にあがる侑の悲鳴。そして、真野彩歌とは基本的に善性のヒトである。それは走り込みを終えた直後、体力が半ば消尽した今でさえ。故に悲鳴が聞こえれば、反射的に反応してしまうは必定であった。それこそ、考えるより先に身体が動いてしまうといった程に。──それがいけなかった。

 

「大丈夫かい、侑さん!? ──っ!?」

「イテテ……うん、何ともない──あ」

 

 その“事実”に侑と彩歌が気づいたのは殆ど同時。何しろ惜しげもなく晒されているのだから、見るなという方が無理な話。彼がその可能性を考慮できていなかったのは、或いは体力切れによるものか。

 

 小走りのまま転倒してしまったせいか、ボトルが周囲に散乱している。だがその程度は問題ではない。重要なのは侑に怪我があるか否かで、彩歌の見立てでは否。転倒の原因になった叢と泥がクッションになったのは皮肉だが。

 

 そんな中にあって最大の想定外とは、侑が転倒したのは後ろ向きであった事。どうやら止まろうとした表紙に足を取られたようだ。羽織っていた長袖のジャージ越しに尻と背中を地面に受け留められていて──その上で、腹の辺りがめくれてしまっていた。

 

 故に彩歌からは見えてしまったのだ。日焼けの痕跡がない白い肌だとか、綺麗に落ち窪んだ臍だとか……腰紐の上に乗った、少しの余分な肉だとか。

 

「み……見た?」

「……」

 

 慌てて身体を起こした侑の問いに、彩歌は答えない。手を差し伸べて立ち上がらせたものの、その間でさえ咄嗟に目を逸らした姿勢のまま、石にでもなったかの如く固まっている。だが、無駄だ。その姿自体が物語っている。何より顔どころか耳まで赤くなってしまっては、何をしようとも無意味だ。

 

「あ、あはは……お腹なんて皆の衣装姿で見慣れてるよね。それに比べたら私なんて……」

 

 半ば自虐めいた誤魔化しは、だが途中で止まってしまう。侑が口にしたそれは確かに、一面では事実である。同好会の面々の衣装には、肌を大きく露出しているものも多い。その引き締まった腹囲に比べれば、侑のそれが些かだらしないのは事実だ。

 

 しかしこの一連において、そこはさして重要ではないのだろう。ならば状況だろうか。自発性、或いは同意の有無。侑にその仔細は分からない。しかしこうも過剰(オーバー)な反応をされてしまえば恥ずかしくなってしまうのも、致し方ない事だ。

 

「……さいちゃんの、えっち」

「……!? えっ──」

 

 頬を赤く染めて、侑が言う。

 

 背徳の極点。羞恥の坩堝。罪悪感と正体不明の何かが脳の芯で混ざり、思考が鈍るのを彩歌は理解する。元より彼はアドリブが大の苦手なのだ。こんな法外の想定外を前にして、適切な対応ができる筈もない。

 

 見てしまった。見えてしまった。普通にしていれば見えない筈のものが。自分の意思ではないとか、胸や尻や、ましてや恥部でないだけまだ良いとか、そんな事は関係ない。自分には見る機会や権利もない筈のものを見てしまった。その事実が全て。

 

 そして行動には責任が伴う。責任。しかし、何を。赤熱(オーバーヒート)した頭では適切な解は分からず、しかし最善は解る。何はともあれ、まずは謝罪を──

 

「──何を、してるんですか? 彩歌くん?」

 

 ごめーん! と。彩歌が口にしようとした、その時。彼の背後から声が投げられた。平時であれば何よりも安心できる、だが今はさながら辺獄より立ち昇る業火を思わせる声だ。振り返るまでもなく、彩歌にはその正体が分かった。半ば競争のように彩歌と競り合って走っていたのだから、彼に次いで戻ってくるのは自然な事だ。

 

 しかし、これはあまりにも状況が悪すぎる。男女が顔を赤くして向かい合っているなどと、これでは何かの()()でもあったかのようではないか。真面目な彼女が、それを見逃す筈もない。片割れが彩歌というのならば猶更に。

 

「せつ菜ちゃん!」

「や、やぁ、せつ菜。お疲れ。で、これは、その……」

 

 かくかくしかじか。状況を限りなく正確に、かつ簡潔に。この状況には似つかわしくない程に、彩歌の説明はあくまでも冷静であった。或いは俎板の鯉にはそれしかできる事が無いというのもあろうが。

 

 そして優木せつ菜の前において、真野彩歌は嘘を吐かない。たった一度の説明でせつ菜が剣呑の気配を消したのは、その誓いに対する信用によるものでもあった。

 

「……なるほど、そういうコトでしたか。お怪我はありませんか、侑さん?」

「うん、それは大丈夫。どこも痛くないよ。ジャージにはちょっと泥ついちゃったけど……」

「怪我がないならよかった。泥も、今ならまだ洗剤つけて洗えば落とせそうだね。

 それと……本当にごめん。不可抗力とはいえ、その……」

 

 何しろ両者にとって想定外の事態だ。誰が悪いなどと、存在しない下手人を探しても仕方がない。だがそれでも、彩歌が見てしまったのは事実。それ故に彼にとって、謝罪は必定であった。

 

 けれど彩歌の辞宜を、侑は軽く笑って流した。

 

「気にしていないよ。そりゃ、他の男子だったら少しは気にしてたかもだけど……さいちゃんはさいちゃんだもんね」

 

 なんだいそりゃ、と彩歌。しかし侑は答えない。はにかむように笑って、せつ菜と目を合わせた。瞬間、苦笑を零すせつ菜。彩歌とは対照的に、彼女は侑の視線が宿す意味が理解できたようであった。

 

「じゃあ私、ジャージ洗ってくるね。いいかな?」

「はい、もちろん! その間の諸々は私たちにお任せください!」

「うん、ありがと! 行ってくるね!」

 

 何処か彩歌を置き去りにしたまま、それだけの遣り取りの後に侑はジャージを手に去ってしまう。尻もちをついた痛みは既に消えているのかその足取りは軽快で、あっという間にその姿は校舎の陰に消えてしまった。

 

 そうして、ただふたり残された彩歌とせつ菜。唐突な事ばかりであったが、事態は一先ずの落ち着きを見た。であれば彩歌もできる事をするのみ。彼には責任があるのだから、それが義務というものだろう。

 

 そう結論し動こうとした彩歌の耳朶を、再びせつ菜の声が打った。彼を揶揄おうとするかのような、そんな悪戯な声音であった。

 

「……お腹、好きなんですか?」

「えっ……!? いや、だから俺は……」

「ふふっ、分かってますよ。あなたはそんなつもりじゃないコトは。最初は一瞬、浮気かとも思っちゃいましたが、あなたはそんな人じゃありません。でも──」

 

 でも、何なのか。不自然に途切れた言葉の続きを待つように、彩歌が一種の隙を見せる。刹那、彼の首をせつ菜の両腕が絡めとった。全く油断していた身体に、その細腕には似つかわしくない力がかかる。そのまま倒れなかったのは普段のトレーニングの成果であろうか。

 

 接近する体温。全くの不意打ちに、心臓が跳ねるのを彩歌は自覚する。せつ菜の肩口が近いせいか鼻腔を甘い香りが突いて、それが動揺を増強するかのようだ。

 

 せつ菜の表情は見えない。互いの頬が密着せんばかりの距離ではそれも叶わず、だが小刻みに揺れる吐息は彼女が何かを言おうと逡巡しているが故のものだろう。顔は見えずとも、それは明らかだ。

 

 けれどこの状況においてさえ逡巡する事とは、いったい何であるのか。問いが口を突かんとした、その時であった。

 

「──────」

 

 耳を撫でるせつ菜の吐息。その意味が彩歌の中で像を結ぶより早く、彼の身体が解放された。そうして早々にせつ菜は踵を返し、しかし彩歌は見逃さなかった。立ち去る彼女の頬が、先の彼もかくやといった程に紅潮していたのを。初心な彼女であるから、その一言にさえ勇気が要ったのだろう。

 

 そして、遂に独り取り残された彩歌。そのまま数拍、ようやくせつ菜の言葉を咀嚼した彩歌が誰に言うでもなく呟いた、

 

「それは、流石に反則だろう……」

 

 そんなことを言われては、平然としていられる筈もない。両手で覆っていた顔が、ひどく熱くなっている。心拍は相も変わらず速いままで、これでは傍から見れば珍奇そのものだ。中庭でひとり、顔を覆ったまま天を仰いでいるなどと。

 

 だが、それも致し方ない事ではあろう。せつ菜の言葉は彼にとってそれだけの力を持っていたのだから。それでもどうにか深呼吸を何度か。やっと心臓は落ち着いてきて、それでも色濃いままの記憶を彼は反芻する。

 

 ──私なら、いくらでも見せてあげるのに。

 

(これは、しばらく忘れられそうにないなぁ……)

 

 単純な己を恥じるように、声にならぬ自嘲であった。それを隠す努力を続けたまま、彼はせつ菜の後に続くのだった。




【tips】
彩歌の真のフェチズムはお腹ではなく脚。

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