とん…とん…と、小さな子供みたいに覚束ない手先で包丁を持ち、不器用に具材の玉ねぎを切る。
ズッ_
「…ふぅ」
少し慣れてきたからと人参の切るペースを早めようとしたら、包丁を持つ右手が滑って危うく左手の人差し指を切りかける。
ギリギリセーフで溜息と一緒に、零れる安堵。
ぐつぐつ_
どうにか具材を切り終えたあと、音を立てる鍋の中にシチューのルーを入れてかき混ぜる。
仕事から帰って来る父親のことを思い浮かべ、初めて自分で作るシチューを見下ろす横顔は自然と笑顔になる。
「……」
そして最後に、出来上がったシチューを小皿に一口分だけ乗せて、味見。
野菜を焦がしたせいで少し苦みもあるけれど、初めて作った割には美味しくできたシチューの味に満更でもない表情で微笑む横顔_
「黒山さん」
「どうした?」
いま私が黒山さんの使っている
黒山さん曰く、OKテイクをシナリオ通りに繋ぎ合わせるこの作業は“粗編集”と言うらしい。
「この映像、もう一回見ていいですか?」
「おう。何なら日が暮れるまで見てくれても構わないぜ」
「いやテスト期間なのでその前に帰ります」
黒山さんと柊さんに後ろから見守られつつ、粗く30秒に編集された映像をもう一度再生してみる。
とん…とん…_
不器用な手先で玉ねぎを切る、私の
ズッ_
利き手が滑って危うく左手人差し指を切りかけて、思わず安堵する私の
「……」
最後に、自分で作ったシチューを味見する私の
「……?」
同じ映像をもう一度見た。見終えたと同時に、画面の向こうに映し出された自分に気持ち悪さにも似た
カチッ_
その違和感の正体がはっきりと掴み取れないから、また最初から映像を見返す。
とん…とん…_
やっぱり……
「……おかしい」
「何がだ?」
カメラに映された違和感を呟いた私に、背後から監督の問いかけ。
もちろんおかしいのは、黒山さんが編集した映像じゃない。
「この映像の中にいる私、なんか変じゃないですか?」
おかしいのは、カメラの先にいる
「え、全然そんなことないよ?クライアントの評判良かったし千世子ちゃんも“上手くできた”って言ってたじゃん」
そんなことないと、黒山さんと一緒に見守っていた柊さんが私を気遣う。
柊さんの言った通り、初めての撮影は自分の中でも“上手くできた”という確かな手応えがあって、監督の黒山さんも満足げな顔をしていた。
「ハハッ、どういうふうに変なんだ?」
誘導尋問するかのように問う黒山さんの表情が、嬉しそうにほくそ笑む。
「…映像の中にいる
想像していた自分の顔と、カメラに映る自分の顔が違い過ぎて、自分を見ているはずなのに自分じゃない誰かがそこにいる気がして、見れば見るほど気持ち悪くなってくる。
体調って意味ではなく、心の中でモヤモヤが広がっていくという意味で。
「“この感覚”って何ですか?」
いま分かるのは、私が感じているこの違和感は当事者以外の人には伝わらないもの。
黒山さんは、その“正体”を知っている上で質問したこと。
「そいつを俺が次の仕事を
質問した私に、黒山さんはほくそ笑んだまま“自分で考えてこい”と突き放す。
昨日のことといい、この人は一番聞きたい肝心なところは私にぶん投げてくるタイプだとたったいま確信した。
「なるほど。自分で考えてこいと」
「そうだ」
「あの、私いまテスト期間中なんですけど」
「こんなの高校で習う授業なんかと比べたら小1レベルの宿題だぜ?お前なら余裕だろ」
「黒山さん基準で言われても困ります」
「ほぉ、ここまで来てまだビビってんの?」
「別にビビッてないです」
「余裕だってよ柊」
「ほんとにごめんねウチのヒゲが…」
おまけにテスト期間だろうとお構いなく、当人曰く“小1レベル”の宿題を挑発の末に押し付けられてしまった。
この人の
「せめてテストが終わるまで撮影は休ませてください」
「安心しろ。終わるまではちゃんと待ってやる」
「…本当にお願いしますよ?」
「もちろんだ」
「……本当ですよ?」
「信用ねえな俺」
「
とりあえずそんな黒山さんに学校のテスト期間を考えてくれる程度の常識があったことをせめてもの幸いと思いつつ、私はスタジオ大黒天を後にした。
「良かったんですか?
「教えるも何も自覚がないだけでとっくに気付いてるよ。手前の芝居の未熟さに」
自らの演技を第三者の視点で見たときに起こる、想像と現実の
これが初めてカメラの前に立った人間が最初に体験する“感覚”なのだが、大半はこの違和感に気付く前に羞恥の感情に襲われて重要な部分を見落としてしまう。
普通の連中は“こんなふうに自分が映っていたんだ”という感想で止まって、勝手に納得してしまう。
「こんなに芝居に貪欲なくせに、何が“ただの高校生”だ」
だが百城は、俺や柊が口を挟まずともいきなり羞恥の先にある本質に辿り着いてみせた。何も教えていないにも関わらず差異を受け入れることなく気持ち悪さを伴う
もしこれが普通に生きてきた高校生だとしたら、もうとっくに撮りたい映画の1本か2本は撮れているって話だ。
「ただ心配なのはカメラを意識すると途端に演技できなくなるところですね。才能は化物級なのに、まずそこを克服しないといつまで経っても映画なんて撮れませんよ」
「それはそうだな」
久しぶりに現れた本物を前に大人げなく気分が高まる心を、柊の正論が適温まで冷やす。
「人の視線を気にし過ぎる
柊の言う通り、百城には類まれな才能はあるが同時に克服しなければならない問題もある。いつまでもあのリハのような真似をされては、映画に向けて準備を進めるどころの話ではない。
「かと言って、まだ向こうからすれば赤の他人な俺たちが踏み込んだら今は逆効果ってとこだ」
「カメラを意識したら自分がどんなふうに見られているか気になって、それがノイズになって鬱陶しかったから自分の感情を押し殺してただ演じることだけ考えてました…」
無論、
「…こればかりは百城を信じて待つしかない。最終的に己の弱さを克服できるのは己だけだからな」
監督がやるべきことは最初から決まっている。余計な手助けは一切せず、
極端を言えば博打も同然だが、これが今の俺たちに出来る最善だ。
「そう言いながら楽しそうな顔してますね?」
「あ?」
住宅街の死角に消えていく百城の背中を見送る俺を見た柊が、嬉しそうに小さく笑う。
この事務所を作る前に監督業の傍ら専門学校で非常勤講師をしていたときからの付き合いだが、カメラの腕が上がるのと引き換えに良くも悪くも俺に対する態度が生意気になってきたものだ。
「撮りたい映画のためには“あの役”を演じるに相応しい
そんなこいつとはほぼ毎日のように何かしらで言い合っているが、周りにいる人間の中で誰よりも俺の映画に対する考え方を理解しているのもまたこいつだ。
おかげでこの事務所を立ち上げて道連れにしてからというもの、毎日が煩くて仕方ない。
「
本人には死んでも言うつもりはないが、俺にとっては柊もまた“あの映画”を撮るためには絶対に
「…そりゃあ、そのために作った事務所だからな。速攻でそこまで成長させてやる」
ひとまずこれで
「その前に千世子ちゃんの“カメラ嫌い”をどうにかしなきゃですけどね」
「まぁあの様子ならどうにかしてくるだろ。見られる緊張なんざ場数さえ踏めば幾分か慣れて薄まるもんさ」
「他人事みたいな言いぐさだけど背負ってるのは墨字さんですからね…」
「ただいま」
「おかえり千世子」
黒山さんの事務所から家に帰ると、ちょうど飼っている虫たちに餌を上げていたお母さんが学校を休んだ代わりに初仕事を終えてきた私を迎える。
「10分くらい前にお父さんから“撮影終わった”ってLIMEきた」
「そっか。じゃあ今日は一緒に夕ご飯食べれるね」
「そうね」
自覚はないけど家を出てから今に至るまでずっと緊張状態だったせいか、家の中に入ってお母さんの声がした瞬間、気持ちが一気に楽になった。
あと、そんなに辛くはないけど今までにない疲労感がある。
「黒山さんって人からはウェブCMの撮影をするって聞いてたけど、どうだった?」
とりあえず疲れたから10分くらい横になろうと自分の部屋へ行こうとして、お母さんに呼び止められる。
そりゃあ、聞かれるのは当然だ。
「まあ初めてにしては上手くできたって思う。工程が色々あるみたいでCMが流れるのは1ヶ月後くらいになるみたいだけど」
「ふふっ、じゃあ楽しみにしてるね」
「あんまり期待はしないで欲しいな…」
期待されるのはあまり好きじゃないから謙遜する私と、私の性格を分かっている上で期待の眼差しを向けるお母さん。
黒山さんが編集した映像を見るまでは、冗談半分で“期待してね”と言っていいくらい自分の中では手応えがあった。
「…お母さんに聞きたいことがあるんだけど」
「ん、何?」
理由を聞こうとしたら“自分で考えろ”と言われてきた。だからここに来るまでに、私なりに考えてきた。
「私って、お母さんからはどんなふうに見えてる?」
『まもなく、2番線に、各駅停車_』
帰り道。何かヒントがあるかもと、線の内側で各駅停車を待つ人の群れに意識を向けてみた。
スマホを見て時間を潰す人。
立ったまま本を読んでいる人。
ただ何となく駅のホームや周りをぼーっと見ている人。
誰一人として、自分以外に意識なんて向けていない。
『_黄色い線の内側まで、お下がりください』
各駅停車のホームにいる人たちから視線を正面へ移すと、快速線のホームで電車を待つ人たちが視界に入った。
きっと向こう側のホームにいる人たちも、自分が違う誰かから見られているなんて思いもしていない。
だけど見ている景色の中には、必ず“人”がいる。
意識は向けていないけど、向こう側にいる人の
ガタン_
向こう側にいる私。
同じホームにいる私。
想像する
この3人は、
「ももちって
気付いてしまった。映像を見たときに感じた“自分の顔が他人に見えた”感覚の正体。
自分が思い描いている“自分の顔”と、違う人から見た“自分の顔”は、
見え方が違うからこそ、人から見られ続けることが嫌になること。
「(…そういうことか)」
ずっと前から、私は
『阿佐ヶ谷。阿佐ヶ谷。この列車は_』
「どうって、普通にいつも通りの千世子にしか見えないけど?」
問いかけた私に、お母さんはキョトンとした表情で答える。
それもそうだ。普段からこの顔に見慣れている人に聞いたって、返って来る答えなんてこんなもの。
「撮影所から帰ったあと、黒山さんがCMで使う映像を見せてくれたんだよ。そしたらそこに映ってた私が自分じゃないみたいに見えてちょっと気持ち悪かった」
撮影技師のお父さんはともかく、芸能界とは程遠い普通の世界で生きてきたお母さんに言ったところで意味があるかは分からないけど、思ったことをそのまま伝える。
「世の中に気持ち悪い顔の人なんかいないでしょ」
「そういう意味じゃなくてさ……カメラに映る自分の顔がそういうふうに見えたのって、多分まだ私が人から視線を向けられることへの“恐怖心”を克服しきれてないからだと思う」
黒山さんが私に課した
昨日まで普通に生きてきた私にだって、明日も普通に生きていく人にだって、その気になればやれること。
「…そのことでお母さんにひとつだけお願いがあるんだけど、いい?」
「うん。お母さんにできる範囲なら」
「学校で何か嫌なことあった?」
「ううん。何でもない」
ちょっとだけ勇気はいるけれど、これを機会にずっと避けてきた
「今日から毎日、私のことをカメラで撮ってほしい_」
12日後。中野駅南口_
「おはようございます」
「おう。ちと早い時間だがちゃんと起きれたみたいだな」
「もちろんです。遅刻したら色んな人に迷惑が掛かるので」
中間テストも無事終わり、土曜日の朝7時。
休みの日なのにいつもより早起きして支度を済ませ家を出た私は、迎えに行くと言っていた黒山さんとの約束通り、南口のアーケードの路肩に止まる“スタジオ大黒天”の社名が書かれたバンに乗り込んでとある場所へ向かった。
「答えはまとまったか?」
「はい。自分なりに」
次の撮影に向けて墨字から“宿題”を課されていた千世子が何をやったのかは、次回をお楽しみに。
と言いながらまだ何も書けていない始末。