「あの国には、俺のパスを受けられるFWがいない」
糸師冴は、吐き捨てるようにそう言い切った。
場所はスペイン。世界有数の巨大クラブ「レ・アール」の下部組織が誇る専用練習場。
抜けるような青空の下、散水栓の撒く水滴が芝の上でキラキラと光を反射している。冴は無表情のまま、左足の足元に黒と白のパネルが描く球体をぴたりと止めていた。
そのすぐ隣、ベンチに腰を下ろし、スパイクの紐を締め直している一人の少年がいた。
「えー? いるじゃん。ここに」
「お前は黙ってろ」
「ひどくない? 僕という存在を丸ごと無視するスタイル?」
少年の名は、
日本人。ポジションはFW。そして、レ・アールにおいて糸師冴の「相棒」と目される男だった。名実ともに。
苛烈なまでにエゴイスティックで、他者の妥協を許さない冴が、日本人選手の中で唯一「自身のパスを受けるに値する」と認めているストライカー。それが、有麻天遊という異端の存在である。
「そもそも、僕がいるんだから何の問題もないでしょ。冴くんのパスを受けられる人間が日本にいないなんて、そんな寂しいこと言わないでよ」
「お前に向けて言ったわけじゃねぇ。日本の惨状を言ったまでだ」
「えっ、僕以外に誰がいるの?」
「いねぇよ」
「じゃあ、やっぱり僕じゃん!」
「うるせぇ。屁理屈こねる口があるなら足を動かせ」
いつものやり取りだった。スペインに来てから、もはや何度繰り返したか分からない会話。
天遊は軽口を叩きながら、足元に転がってきたボールを右足の爪先で軽く蹴り上げた。
ポン、ポン、ポン。
緩やかなリズムのリフティング。肩の力は完全に抜けており、視線すらボールを追っていない。落ちてくる球体に合わせて、ただ無造作に足首を滑らせているだけ。それなのに、ボールはまるで天遊の肉体の一部であるかのように、あるいは強力な磁石で引き寄せられているかのように、彼の半径数十センチメートルから決して離れなかった。
「……お前、また午前のフィジカルトレーニングサボっただろ」
「えー? そんなことないよ? フィジカルコーチのフアンとは熱い抱擁を交わしてコミュニケーション取ったよ?」
「昨日のメニュー、最後までやってねぇだろ。周回走の最後の2本、陰に隠れてただろ」
「ああ、あれね。途中で飽きちゃって。走るって行為、単調すぎて脳が溶けそうになるんだよね」
「死ね」
「物騒だなぁ。スペインの法律でも暴言はアウトだよ?」
天遊は悪びれる様子もなく、へらへらと笑った。
実際、彼は「努力」という概念があまり好きではない。泥臭く限界を超えて追い込む根性論や、精神論に基づいた過剰なトレーニングを極度に嫌う。
もちろん、まったく何もしないわけではない。プロのストライカーとして必要な最低限の筋肉量は維持するし、己の課題を解消するための精密なメニューはこなす。ただし、それ以上の負荷を自分にかけることは基本的に拒否する。
自分に必要なアプローチを正確に理解し、必要な分だけをスマートに取り入れる。それで十分だった。
なぜなら、彼は天才だから。
それも、単に恵まれた身体能力や感覚だけで突っ切るタイプではない。己の才能をどのように切り売りすれば最大のパフォーマンスを発揮できるのか――その構造と運用法を、直感的に理詰めで理解しているタイプの天才だった。
「……お前、今日のBチームとの練習試合、何点取るつもりだ」
「んー、三点?」
「少ねぇな。ハットトリックごときで満足か」
「じゃあ五点。後半途中で代えてもらう条件で」
「最初からそう言え。最初の一本は、俺が右斜め45度の裏に落としてやる」
「冴くん、僕のこと大好きじゃん」
「黙れ。次その口を開いたら、顔面にインステップでぶち込む」
糸師冴。有麻天遊。
世界最高峰の育成組織で研鑽を積む、二人の日本人。周囲の現地メディアやスカウト陣からは、二人のコンビネーションに対して称賛の声が絶えなかった。
――至高のゲームメーカーと、至高の原石。
もっとも、当の本人たちはそんな大層な呼び名など、一度として気にしたことはなかったが。
◇
数日後。
日本サッカー協会が誇る最新施設の室内練習場。
湿度を含んだ日本の空気が漂うピッチには、普段とは明らかに異なる重苦しい緊張感が張り詰めていた。
「……で、今日から合流するっていう海外組の二人って、マジで来るのか?」
「ああ。片方は、あの糸師冴だ」
「もう片方は?」
「有麻天遊。ここ最近、欧州の若手専門紙で名前が踊り出してるフォワードだ」
練習場の壁際で、U-20日本代表の主力メンバーたちがひそひそと噂を交わしていた。
糸師冴の名前は、日本サッカー界において圧倒的な絶対性を持っていた。スペインの名門レ・アールに所属し、MFとして欧州の同世代を蹂躙する天才。世界中の若手トッププロから構成される「新世代世界11傑」の一人。
日本人でありながら、すでに世界の頂点を見据えて戦うその姿は、閉塞感漂う日本サッカー界の「至宝」であり、「絶対的な象徴」だった。
そして、もう一人の有麻天遊。
彼もまた、ここ数ヶ月で急激に海外サッカーメディアの誌面を賑わせ始めた存在である。彼につけられた異名は――【至高の原石】。
圧倒的な直感と、極限まで磨き上げられたボールタッチを持ちながら、どこか底が見えない可能性の塊。そんな二人が同時にU-20代表の合宿へ合流する。生粋の国内組である彼らが、強烈な劣民意識と警戒心を抱かないはずがなかった。
「でもさ、海外海外って言ったって、俺たちだってこの国のアンダー世代の頂点だぞ?」
「そりゃそうだが……相手はレ・アールだぞ。住んでる世界が違う」
「特に糸師冴は別格だ。だが、有麻とかいう奴の実力はどんなもんなんだ?」
「噂じゃ、冴の身勝手なパスに唯一ついていける日本人らしいが……そもそもどんな奴なんだ?」
不穏な熱気を帯びた会話が交わされていた、その時だった。
ガチャリ。
重厚な防音扉が開き、長旅の疲れを感じさせない軽快な足音が響いた。
「あ、どうもー。ここがU-20の練習場ですかー?」
最初に姿を現したのは、一人の少年だった。
整えられていない少し跳ねた髪、どこか気の抜けた緩やかな表情。そして、練習場全体を覆う重苦しいピリついた空気など、まるで秋の散歩道で吹く風程度にしか感じていないような、無防備で飄々とした佇まい。ひらひらと軽薄に手を振っている。
「有麻天遊です。ポジションはFW。好きなものはサッカーと甘いもの、嫌いなものは面倒くさいことと長時間の正座です。よろしくお願いしまーす」
「…………」
静まり返る室内に、あまりにも軽すぎる自己紹介が響き渡った。選手たちは思わず顔を見合わせ、眉をひそめる。
「……えっと、お前が有麻、か?」
主将であるオリヴァ・愛空が、苦笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。
「うん。そうだよ。君がキャプテンの愛空さん?」
「ああ。……なんか、思ってた第一印象とだいぶ違うな」
「よく言われる。『もっと尖ったナイフみたいな奴かと思った』とか?」
天遊はケラケラと笑う。
「もっとこう、海外で揉まれてギラギラした、他人を食い殺すような目を想像してたんだが」
「いやぁ、サッカーしてない時間までギラギラしてたら疲れちゃうでしょ。省エネで行かないと、大事な時に動けなくなっちゃう」
「そ、そういうもんか……?」
「そういうもんだよ。たぶんね」
適当極まりない返事をしながら、天遊はパイプ椅子を見つけると、吸い寄せられるように腰を下ろした。
その瞬間――ピチリと、空気が爆ぜるような気配が入口から漂った。
「おい」
低く、氷を削るような冷たい声。
全員の視線が、再び開かれた扉へと突き刺さる。
そこに立っていたのは、糸師冴だった。
エンジ色のジャージを羽織り、眼光鋭く室内を一瞥する。彼が踏み込んだだけで、練習場の温度が数度下がったかのような錯覚すら覚える。
「……糸師冴!」
「本物だ……圧倒的なオーラが違う……」
「……待て、隣にいるあの派手な髪の奴は誰だ?」
冴のすぐ後ろには、褐色の肌にピンク色の髪をなびかせた、異様な威圧感を放つ長身の少年――士道龍聖が立っていた。
冴は室内を見回すと、鼻で小さく笑い、心底つまらなさそうに口を開いた。
「糸師冴。ポジションはMFだ」
それだけ。自らの存在感を証明する必要すら感じていない、簡潔極まりない挨拶。
そして、間髪入れずに次の言葉を放った。
「……で?」
冴は眉間にしわを寄せ、吐き気がすると言わんばかりの表情で言い放つ。
「ここに転がっている生ゴミどもが、日本のU-20代表か?」
「……は?」
「俺のパスを受けられるFWがいないどころか、まともに戦術を組み立てられる最低限の知性を持った奴すら見当たらん。時間の無駄だったな」
静寂。そして、瞬時に噴き出す激昂の波。
「おいおい、いきなり随分な挨拶をしてくれるじゃねぇか」
愛空が引きつった笑みを浮かべ、前へ踏み出す。
「噂通りの天才ちゃんってわけだ。口の減らないところも含めてな」
「天才くん、もう少し言い方ってものがあるだろ! 俺たちは予選を勝ち抜いてきたんだぞ!」
FWのエースを自負する閃堂秋人が、顔を真っ赤にして怒声を上げる。しかし、冴は閃堂の顔すら見ようとせず、冷たく言い捨てた。
「事実を言ったまでだ。お前たちのレベルが、俺の基準に達していない」
「……マジで言ってんのか、こいつ」
「冗談に聞こえたなら、お前の耳と脳みそは飾りだな」
一触即発。歓迎ムードなど微塵もない。むしろ、今すぐ殴り合いが始まってもおかしくないほどの険悪な毒気が充満していた。
その重苦しい静寂を切り裂いたのは、拍子抜けた高い声だった。
「はいはーい!」
天遊が、授業で指名された小学生のように元気よく挙手していた。
「ここに僕がいるよー!」
「……あ?」
冴が鬱陶しそうに視線を向ける。
「だから、冴くんのパスを受けられるストライカー。ここに一匹、ちゃんと生息してるじゃん」
「お前は黙ってろ」
「えー? ひどい! 僕の存在意義を根底から否定された!」
天遊は不満そうに頬を膨らませ、ベンチから立ち上がると、殺気立つU-20の選手たちに向かってニコニコと微笑みかけた。
「というわけで、僕が冴くんのわがままなパスを唯一処理できる相棒です。みんな、よろしくねー」
「……相棒?」
閃堂が呆気にとられたように呟く。
「そうそう。名実ともに、ね」
冴は、その言葉を否定しなかった。
いつもなら「調子に乗るな」と蹴り飛ばすはずの冴が、天遊の「相棒」という言葉を黙認している。
その事実だけで、U-20代表の選手たちに走った衝撃は小さくなかった。あの傲岸不遜な糸師冴が、同世代の日本人を一人だけ「自分の領域」に踏み込ませている。
その時だった。
「へぇ……」
冴の後ろからヌッと姿を現した士道龍聖が、凶悪な肉食獣のような笑みを浮かべた。
「お前、そんなにスゲェの?」
士道は天遊に近づくと、その顔を覗き込むようにして視線を絡ませる。
「ちょっと俺と遊ぼうぜ、海外組の『原石』ちゃん」
「ん? 今から?」
「1on1だ。ボール一つあればできるだろ?」
「えー……」
天遊は露骨に嫌そうな顔を作り、眉を下げた。
「僕、さっき座ったばっかりで、腰が重いんだけど」
「知るかよ。俺のインスティンクトが言ってるんだよ。お前をブチ殺せってな」
「横暴だなぁ。治安が悪いよ日本のサッカー界」
士道は楽しそうに喉を鳴らす。
「冴が認めてるFWなんだろ? だったら、どんだけイカれた爆発を起こせるのか、俺に見せてみろよ!」
天遊は困ったように隣の冴を見上げた。
「冴くん、どうする? 暴漢に絡まれてるんだけど」
「好きにしろ。潰されるならそれまでの男だ」
「冷たいねぇ。……じゃあ、ちょっとだけね。本当にちょっとだけだよ」
天遊は溜息を吐きながら、ピッチの中央へと歩き出した。
◇
室内練習場の人工芝の中央。ボールを挟んで、二人のストライカーが対峙していた。
U-20代表のメンバーが息を飲んで見守る。
士道龍聖は、身体中の細胞を歓喜で爆発させるかのように、狂気的な笑みを浮かべて低い姿勢をとった。
「ルールは単純だ。ボールを持った奴が、相手を完全に置き去りにしたら勝ち。お前から来いよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
天遊はボールを右足の足元に転がした。
その構えには、プレッシャーも緊張感も一切存在しない。相手を威圧しようとする気負いもなければ、勝利への執着すら見えない。ただ、近所の公園で遊ぶ少年のような無防備さ。
そして――。
(――あ?)
見守っていた愛空の目が、激しく見開かれた。
天遊が「動いた」瞬間を、誰も視覚的に捉えられなかった。
爆発的な初速ではない。筋力による強烈な蹴り出しでもない。ただ、すっと風景に溶け込むように、天遊の体が前方へとスライドしていた。
「ハっ!」
士道が野生の勘で反応し、右足を突き出す。
右へ――いや、左。
天遊の足元でボールが、まるで生き物のように小さく跳ねた。
インサイドの極めて繊細なタッチ。軸足の重心をコンマ数ミリ単位で移動させながら、士道の踏み込む角度、膝の向き、視線の焦点を全てすり抜けていく。相手が対応のモーションに入った瞬間には、既にそのモーションを無力化するルートへ身体が滑り込んでいる。
(なッ……何目線で動いてやがる!?)
士道が無理やり強靭な体幹で身体を捻り、左足を伸ばしてボールを狩り取ろうとした。
その瞬間。
「おっと」
天遊は、伸ばされた士道の足先の上をすれすれで通過するように、ボールをちょんと浮かせた。
スカッ。
士道の足が空を切る。
浮いたボールは天遊の膝、そして胸へと吸い付くように落ち、彼はそのまま士道の真横を、散歩でもするかのような軽快さで通り抜けていた。
「……は?」
一瞬。ほんの二秒足らずの出来事だった。
士道が反転して追撃に移るよりも早く、天遊は彼の背後に立ち、つま先でボールをぽんと跳ね上げてキャッチしていた。
「はい、終わりー」
天遊は振り返り、パチンと指を鳴らして笑う。
「どう? 満足した?」
「…………」
士道は静止していた。己の真横を通り抜けていった感覚。何もさせてもらえなかった屈辱。
しかし、次の瞬間――。
「……ハハッ! ハハハハハハハ!」
士道は頭を抱え、爆笑した。顔を歪め、歓喜に満ちた絶叫を上げる。
「いいねぇ……! 最高じゃんお前! 溜まんねぇよ! 今のタッチ、俺の細胞がビンビンに感じちまったぜ!」
「えー、そう? 気持ち悪いこと言わないでよ」
「もう一回だ! 今度は俺がボールを持って仕掛ける! もう一回やろうぜ!」
「やだよ。疲れるもん。僕の今日の運動量上限超えちゃう」
「ふざけんな! ここからが本番だろ!」
「ふざけてないよ? 本当に疲れるの嫌いなんだって」
士道が強引に詰め寄ろうとするが、天遊はすでに興味を失った様子で、ボールを片手に抱えてベンチへと歩き出していた。
その背中に向かって、少し離れた場所にいた冴が冷ややかな声をかける。
「相変わらずキモいタッチだな」
「え、今の見て褒めてくれてるの?」
「褒めてねぇ。軸足の抜き方が甘い。あとコンマ5秒早く抜けた」
「えー、僕的には100点満点の省エネ突破だったんだけどな」
「脳みそまで腐ったか」
冴は短く息を吐いた。だが、その瞳は天遊の動きの「異様さ」を正確に捉えていた。
あのタッチ。相手の重心位置を見極め、最小限の運動エネルギーで敵を無力化する圧倒的技術。
単純な「技術の精度」だけで言えば、完璧主義者の冴自身の方が上かもしれない。だが、天遊にはそれを凌駕する「何か」があった。
直感――それも、常人の領域を遥かに踏み外した超感覚。
天遊は相手の動きを見てから思考し、判断しているのではない。
相手の筋肉の収縮、重心の移動、思考の偏り――それら全ての未来予測を、意識にのぼる前の「直感」という形で瞬時に処理している。だからこそ、理屈を組み立てる時間すらスキップして、最初から正解の軌道へ身体を滑り込ませることができるのだ。
(……理屈を超えた思考の省略。相変わらず理解しがたい異物だ)
冴は心の中で小さく呟いた。
「……あいつの才能は、相変わらず胸糞が悪い」
「えっ、今なんて? 冴くん僕のこと愛おしいって言った?」
「言ってねぇ。耳鼻科行け」
「ひどい!」
いつもの軽口。
そのやり取りを遠目から観察していた愛空は、顎を撫でながら目を細めた。
(なるほどな……)
あの糸師冴が、なぜこの飄々とした少年を「相棒」と呼び、日本代表のピッチに連れてきたのか。その理由の端片が見えた気がした。
身体能力や野性味なら、士道もバケモノだ。だが、今の短い1on1で、天遊は士道の野性を完璧に「受け流し」、無力化した。
しかも、本人は死力どころか、ウォーミングアップ程度の集中力しか出していない。
何より不気味なのは、あの圧倒的な「余裕」だ。
相手を煽るわけでもなく、己の優位を誇るわけでもない。当たり前の作業を当たり前にこなしただけ、と言わんばかりの平然とした顔。
(あの余裕……底が見えねぇな。まだ奥に何か隠してやがる)
愛空は不敵な笑みを浮かべた。
「……面白ぇ怪物が飛び込んできたもんだ」
◇
同日。
薄暗い室内に、無数の大型モニターの光が青白く浮かび上がっていた。
「今回のU-20日本代表戦において、我々が最も警戒すべき『異物』が二人存在する」
絵心甚八が、マイク越しに冷徹な声で告げる。
集められた一次〜三次選抜の生き残りたち――潔世一、蜂楽廻、千切豹馬、馬狼照英、烏旅人、凪誠士郎らの視線が、フロントモニターへと集中した。
画面に映し出されたのは、二人の写真。
一人目。糸師冴。
そして、二人目。有麻天遊。
「……有麻、天遊?」
潔世一が画面を見つめ、首を傾げた。
「誰だ……? U-20の既存メンバーじゃないよな?」
「お前、海外のユース情報追ってねぇのかよ」
隣に立った馬狼が、苛立ちを隠さずに鼻を鳴らす。
「レ・アールのカンテラで、最近トップ昇格の噂が出てる日本人だ。欧州のスカウト陣が追ってる若手の一人だろ」
「へぇ……」
潔は画面の写真を注視した。
そこに写っていたのは、カメラに向かって緊張感のない笑みを向ける、どこか頼りなげな印象の少年だった。写真を見る限り、糸師冴のような圧倒的な威圧感もなければ、士道のような危険な殺気も感じられない。
「有麻天遊。18歳。ポジションはFW。レ・アール・カンテラ所属」
絵心が竹串のついたカップ焼きそばを口に運びながら、淡々と説明を続ける。
「欧州のメディアにおける彼の異名は――【至高の原石】」
「……原石?」
烏旅人が眉をひそめ、顎を弄くった。
「磨けば光る、みたいな生ぬるい意味か?」
「いや、逆だ」
絵心は眼鏡の奥の瞳を怪しく光らせた。
「『未完成のまま、既に完成品を凌駕する輝きを放っている』という意味での原石だ。あいつは、サッカーというスポーツの理屈を、努力によって積み上げた男ではない」
モニターの映像が切り替わり、レ・アールでの天遊のプレー集が再生され始めた。
画面の中で、天遊は驚異的な動きを見せていた。
密集した相手DF陣の真っ只中。スペースなど存在しない狭小なエリアで、天遊は吸い付くようなタッチでボールをコントロールする。相手が足を伸ばした瞬間、その重心の逆へと最小限の動作で抜け出す。
三人、四人に囲まれても、まるで最初から「誰もいない安全なルート」が空いていたかのように、滑らかにすり抜けていく。
そしてゴール前。絶妙なタイミングで届いた冴の高速クロスに対し、天遊は相手DFに背中を預けながら、空中での体幹の捻りだけで、あり得ない角度からボレーシュートを突き刺した。
「……なんだ、今のトラップと抜け出し」
千切が息を飲んだ。
「スピードでちぎってるわけじゃない……相手の足が止まって見えるぞ」
「相手の動きを読むのが上手い、なんてレベルやないな」
烏が分析するように呟く。
「まるで、相手がどっちに動くか『最初から知ってる』みたいな体の運び方や」
「その通りだ、烏旅人」
絵心が頷く。
「有麻天遊の最大の特徴――それは、異常なまでに洗練された【直感的最適解の選択能力】だ」
「直感……?」
潔が思わず呟く。
「そうだ、潔世一。お前が得意とする『空間認識能力』や『予見力』は、ピッチ上の情報を脳内で構築し、論理的に未来を導き出すプロセスの果てにある。だが、有麻天遊はその『論理的プロセス』を一切経ない」
画面の中で、天遊が敵のタックルをミリ単位でかわす映像がスロー再生される。
「視線、筋収縮、芝の状態、ボールの回転。全てのパラメーターを意識下で一瞬にして処理し、無意識のうちに『最も正解に近い動作』を身体に実行させる。思考のタイムラグがゼロなんだよ」
「……化け物じゃねぇか」
雷市陣吾が忌々しそうに吐き捨てた。
「じゃあ⋯⋯努力して考え抜いてる俺たちを、そいつは『直感』だけで上回ってくってのか!?」
「そうだ。そしてさらにタチが悪いことに……」
絵心は画面を静かに停止させた。
「有麻天遊という男は、お前たちが大好きな『熱血』や『努力』という言葉から最も遠い場所にいる」
「あ?」
「あいつは、必要以上のトレーニングを一切拒否する。己の才能を維持・発揮するための最小限のメンテナンスしか行わない。普通の選手が『10』の努力を重ねて辿り着く領域に、あいつは『1』の省エネで到達する」
潔は拳を強く握りしめた。
爪が掌に食い込む。
「そんな……そんな省エネで、世界の頂点近くにいるのか……?」
「才能とは理不尽なものだ、潔世一。だが、誤解するなよ」
絵心が不敵に口角を上げた。
「努力をしないということは、あいつのキャパシティはまだスカスカだということだ。潜在能力のパーセンテージで言えば、まだ30%程度しか開花させていない。だからこその『原石』なんだよ」
モニターに、天遊と冴が並んで映し出された。
「そして、この試合において最大の脅威となる事実を教えよう」
絵心の声が低く重く響く。
「有麻天遊は――あの糸師冴が『唯一、自分のパスを受けられる』と認めたストライカーだ」
「――ッ!!」
潔の背筋に、冷たい衝撃が走った。
あの糸師冴。日本のサッカーを「下らん」と切り捨て、誰一人として視界に入れていなかった冷徹な天才が、唯一認めた日本人。
「糸師冴の描く緻密で苛烈な『最適解のパス』。それに対し、理屈を超えた直感で反応し、ゴールへ沈める有麻天遊。この二人のラインが開通した時、U-20代表の破壊力は跳ね上がる」
部屋全体を重い圧迫感が包み込む。
士道龍聖という規格外の異物だけでも厄介極まりないというのに、そこへ糸師冴と完璧に調和する「もう一人の天才」が立ち塞がる。
「糸師冴、士道龍聖、そして有麻天遊……」
潔は画面の中の天遊の写真を見つめた。
どこか飄々としていて、緊張感のない瞳。
しかし、その奥底に潜む底知れない才能の深淵。
「面白くなってきたじゃねぇか……!」
静寂を破ったのは、馬狼の獰猛な笑い声だった。
「原石だか天才だか知らねぇが、俺の前に立つなら全員まとめて踏みつぶす。俺がこのピッチの唯一のキングだ」
「ふーん」
凪誠士郎が、興味深そうに画面をぼんやりと眺めていた。
「なんか、めんどくさそうな人だね。でも……」
「でも?」
潔が問いかけると、凪は少しだけ目を細めて言った。
「楽しそうだね、あの人。サッカーしてる時、すっごく楽そう」
「……楽そう?」
「うん。頑張ってなさそうだけど、すごく楽しそう」
潔はもう一度、天遊のプレー映像に視線を戻した。
ボールを持った瞬間、流れるような動作で敵を去なす姿。そこには、ブルーロックの選手たちが抱くような「エゴの餓鬼」としてのドロドロとした執念や、相手を喰らおうとする殺気は見当たらない。
ただ、あまりにも自然体。
風が吹くように、水が流れるように、ピッチの上で誰よりも自由に躍動している。
(糸師冴が認めた、もう一人の日本人ストライカー……)
潔の胸の奥で、静かな熱が燃え上がり始めていた。
自分たちが目指す「世界」という高い壁の向こう側には、まだ見ぬ怪物がごロゴロ転がっている。その圧倒的な現実に対する恐怖と、それを超えたいという強烈な欲望。
そして、潔の頭の中に一つの問いが浮かんだ。
(あの人は……一体、何のためにサッカーをやっているんだ?)
エゴのためか。勝利のためか。それとも名声のためか。
映像の中の有麻天遊は、そのどれでもないような、不思議な空気を纏っていた。
◇
一方、その頃。
夜の帳が降りたJヴィレッジの宿舎。U-20日本代表のミーティングを終え、廊下のベンチで缶ジュースを飲んでいた天遊の元へ、冴が通りかかった。
「ねぇ、冴くん」
「あ?」
冴は足を止めず、冷たい視線だけを天遊に向ける。
「明日の朝の戦術ミーティングとフィジカル、僕休んでいい?」
「死ね」
「即答!? 提案の余地すら与えてくれないの!?」
「今日の練習も途中で抜けようとしてただろ。愛空が苦笑いしながら止めてたぞ」
「いやぁ、ほら。今日は士道くんと1on1っていう過酷なアトラクションを消化したし、僕的にはもう今週分の労働量を満たしたかなって」
「あれを練習に含めるな。ただの戯れだ」
「厳しいなぁ。僕の繊細なメンタルが削られていくよ」
天遊はベンチの背もたれに深く体重を預け、大きな欠伸を噛み殺した。
「だってさぁ……正直、僕はもう十分強いし。これ以上苦しい思いをしてまで努力する必要って、ある?」
「……相変わらず、気分の悪くなる思考回路だな」
冴は足を止め、天遊をストイックな瞳で見下ろした。
「才能に胡坐をかき、成長を止めた奴から脱落していく。それがこの世界だ。お前のそのぬるま湯につかった態度は、いつか必ず足をすくわれる」
「そうかなぁ」
天遊は天井の蛍光灯をぼんやりと見上げた。夜の静寂が二人の間に流れる。
少しだけ考える素振振せを見せた後、天遊はいつもの、どこかつかみどころのない笑みを浮かべた。
「まぁ、そのときはそのときじゃない?」
「……お前な」
「大丈夫だよ。僕、サッカーは好きだし」
その言葉に、冴は言葉を詰まらせ、沈黙した。
努力は嫌いだ。苦しいことも、面倒な手続も嫌いだ。
勝利のために己の精神を削り、泥を舐めるような執念を燃やすことにも、天遊はさほど興味を持っていない。
それでも――彼は、サッカーが好きだった。
足元に吸い付くボールの触感。
相手の予測を嘲笑うように裏をかく瞬間。
ゴールネットが激しく揺れる爽快感。
そして何より、己の脳裏に描いた美しいプレイのイメージが、寸分の狂いもなくピッチの上に現実として結実する、あの至高の瞬間。
それさえあれば、彼にとっては他に何も要らなかった。
有麻天遊。
【至高の原石】。
彼自身が、己の中に眠るモンスターの存在をどれほど自覚しているのかは分からない。
ただ一つ確かなのは――。
彼は今日も、己の圧倒的な才能の赴くままに、ただ気ままに、世界を相手にサッカーを楽しんでいるということだった。