百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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折瀬川・滝見橋 #夜の湯 #朝の水音 #帰り道

 

 部屋へ戻ると、布団が敷かれていた。

 

 一組だけ。

 

 卓は少し横へ寄せられ、座布団も揃えて置いてある。

 

 窓辺の椅子は、そのままだった。

 

 セイアはそこへ座り、腹が落ち着くまで本を読んだ。

 

 午後に読んでいたところを探す。

 

 しおりの少し前へ戻り、会話を読み直す。

 

 内容を思い出すと、今度はすぐに頁が進んだ。

 

 窓には自分の姿が映っていた。

 

 向こう側の川は、よく見えない。

 

 橋の灯りだけが、ガラスの中で、読書をする自分の肩の横に浮かんでいる。

 

 しばらくして、本を閉じた。

 

 買った手ぬぐいを持つ。

 

 水を飲み、羽織を着直し、鍵を確かめる。

 

 今夜はまだ、帰るための支度ではなかった。

 

     ◇

 

 夜の温泉街は、昼より小さく感じられた。

 

 遠くの山が見えなくなる。

 

 閉じた店の前では灯りが落とされ、道の続きも、明るいところと暗いところに分かれていた。

 

 その分、開いている店の窓が近い。

 

 湯上がりらしい生徒たちが、飲み物を持って歩いている。

 

 旅館の名前が入った羽織もあれば、普段着に小さな籠を提げただけの姿もあった。

 

 セイアは川沿いへ下りた。

 

 石の道は、提灯の光を受けて淡く光っている。

 

 川は、形よりも音でそこにあった。

 

 坂を少し上がると、湯気の向こうに、共同浴場の入口が見えた。

 

     ◇

 

 番台には、小さなロボットがいた。

 

 料金を払い、靴をしまう。

 

 脱衣所には、木の籠と、鍵のついた保管庫が並んでいた。壁の注意書きの一つは、装備を濡らさないようにというものだった。

 

 セイアは場所を確かめ、荷物を収めた。

 

 浴場の戸を開ける。

 

 宿よりも、声がよく響いた。

 

 桶を置く音。

 

 湯を流す音。

 

 挨拶をする声。

 

 どれも大きすぎるわけではないが、人が使っている風呂だとはっきり分かる。

 

 宿の前掛けの生徒は、すでに来ていた。

 

 今は前掛けもなく、まとめ直した髪と、小さな手ぬぐいだけが見える。

 

 目が合うと、軽く会釈をした。

 

「こんばんは」

 

「先に来ていたんだね」

 

「はい。そっちの湯船の方が、入りやすいと思います」

 

 示された方へ行く。

 

 セイアは掛け湯をして、ゆっくり入った。

 

 宿とは、少し違う湯の感触だった。

 

 同じ温泉街でも、温度や浴槽の形が違えば、身体の落ち着くところも違う。

 

 生徒は少し離れた場所で、肩の力を抜いていた。

 

 仕事の話はしなかった。

 

 ほかの客から挨拶されると、短く返す。

 

 ここでは、宿の人ではなく、風呂へ入りに来た一人だった。

 

     ◇

 

 湯から上がると、生徒が入口脇の腰掛けに座っていた。

 

 手には瓶入りの牛乳を持っている。

 

 セイアも飲み物を買い、隣へ腰を下ろした。

 

 冷たい瓶を持つと、掌が少し落ち着く。

 

 蓋を開け、一口飲んだ。

 

 喉を通る冷たさが、湯上がりの身体にはっきり分かった。

 

「昼間、足湯にも入りました?」

 

 生徒が尋ねた。

 

「ああ。どちらから入れば熱すぎないか、教えてもらったよ」

 

「最初、湯口の方に座っちゃう人、多いんです」

 

「見事に、その一人だったわけだ」

 

 生徒が笑った。

 

 セイアも、瓶を置いて笑う。

 

 戸の向こうから、また一人、客が出てきた。

 

 濡れた髪を拭きながら二人へ挨拶し、外へ出る。

 

 冷たい空気が、足元へ少し入ってきた。

 

「君は、明日も宿に?」

 

「明日は休みです」

 

「それはよかった」

 

「朝の電車で、下の街へ行くつもりで」

 

「何か用事があるのかい」

 

 生徒は、少しだけ嬉しそうな顔をした。

 

「映画を観るんです。三本」

 

 セイアは瓶を持つ手を止めた。

 

「三本?」

 

「はい。時間がうまく繋がっていて。二本目のあとに、ご飯も食べられるので」

 

「よく考えられた休日だね」

 

「ここだと、そういうふうには観られないから」

 

 生徒は自分の瓶のラベルを指でなぞった。

 

「たぶん帰ったら、何を観たか少し混ざると思いますけど」

 

「それも含めて、楽しみなのかな」

 

「はい」

 

 迷わない返事だった。

 

     ◇

 

「セイアさんは、明日どこへ?」

 

 宿で確認した名前を、そのまま呼んだのだろう。

 

 役職は、つかなかった。

 

「まだ、きちんとは決めていない。上流の橋へ行ってみたいと思っているけれど」

 

「滝見橋ですか?」

 

「ああ」

 

「朝の方が、川の色がきれいですよ。山の上から日が入るので。道の途中に少し上りがありますけど、急がなければ」

 

「それから帰るつもりだよ」

 

「じゃあ、お昼までくらいですね」

 

 生徒は頷いた。

 

 少し間を置いて尋ねる。

 

「今日は、どのくらい回りました?」

 

 セイアは指を折る代わりに、思い出した順に答えた。

 

「うどんを食べて、足湯へ入って、手ぬぐいを買った。そのあと宿の風呂へ入って……眠っていたね」

 

「お昼寝ですか」

 

「ああ。思ったより、長く」

 

 生徒は、満足そうに笑った。

 

「お部屋、静かでした?」

 

 セイアは少し考えた。

 

「川の音は、よく聞こえるね」

 

「あそこ、近いですから」

 

「けれど、眠れたよ」

 

「よかった」

 

 その返事は、主人と同じだった。

 

 昼の説明には、まだ少し慌てるところがあった生徒も、ここでは迷わなかった。

 

 セイアは、瓶に残っていた牛乳を飲み終えた。

 

     ◇

 

 外へ出ると、夜気が頬へ触れた。

 

 二人で川沿いを少し歩く。

 

 足音が、石の道に小さく響いた。

 

 生徒の帰る道は、途中で分かれるという。

 

 曲がり角に着くと、彼女は立ち止まった。

 

「それじゃあ。今日は、ありがとうございました」

 

「こちらこそ。明日の映画、楽しんでくるといい」

 

「はい。セイアさんも、ゆっくりしてください」

 

 会釈を交わす。

 

 生徒は細い坂道を上っていった。

 

 少し先で一度振り返り、手を上げる。

 

 セイアも、小さく返した。

 

 明日の朝、宿で彼女に会うことはない。

 

 自分が休んでいる間に働いていた人が、今度は出かける。

 

 その行き先が、三本の映画を続けて観られる街であることを、セイアは知っていた。

 

 それだけのことが、別れたあとも少し嬉しかった。

 

     ◇

 

 宿へ戻ると、玄関の灯りは少し落とされていた。

 

 主人へ挨拶をして、階段を上る。

 

 廊下には、まだ食事の名残のような、薄い出汁の匂いがあった。

 

 部屋へ入り、羽織を掛ける。

 

 使った手ぬぐいを広げると、青い川の模様がはっきり見えた。

 

 窓辺へ干して、布団へ座る。

 

 足を伸ばしたところで、今日、思っていたよりも歩いていたことが分かった。

 

 眠る前に、ナギサへ連絡した。

 

 宿へ戻っている。

 

 明日は予定通り帰る。

 

 写真を一枚添えようとして、端末の中を見た。

 

 昼のうどん。

 

 橋から見た川。

 

 窓の前の椅子。

 

 いつもより、枚数が少なかった。

 

 その中から、部屋の窓の写真を送る。

 

 返ってきたのは、短い言葉だった。

 

『よいお部屋ですね。おやすみなさい』

 

 セイアも同じように返し、端末を伏せた。

 

     ◇

 

 明かりを消すと、川の音が大きくなった。

 

 昼間から聞こえていた音だ。

 

 けれど、窓の外が見えなくなり、部屋の中も暗くなると、どこまでが近くで、どこからが遠くなのかが曖昧になった。

 

 岩へ当たる水。

 

 少し細くなる音。

 

 また、重なる音。

 

 セイアは布団の中で向きを変えた。

 

 昼寝をしたせいか、すぐには眠くならなかった。

 

 外で、下駄の音がした。

 

 二人分くらいの足音が橋を渡り、少しずつ遠ざかっていく。

 

 階下で、戸の閉まる音。

 

 それから、また川だけになった。

 

 セイアは目を開けた。

 

 暗い天井を見ても、することはない。

 

 端末を取れば、いくらでも何かはできる。

 

 明日の道を調べてもよい。

 

 写真を整理してもよい。

 

 けれど、手は伸ばさなかった。

 

 枕の位置を少し直す。

 

 足先は、まだ温かかった。

 

 次にどちらへ向きを変えたのかは、覚えていなかった。

 

     ◇

 

 朝は、川の音で始まった。

 

 目を覚ましてから、すぐに自分のいる場所が分かった。

 

 障子の向こうが白い。

 

 時計を見ると、朝食まではまだ時間があった。

 

 セイアは上体を起こした。

 

 よく眠った。

 

 夜中に一度くらい目を覚ましたような気もするが、それが何時だったかは分からない。

 

 窓へ近づき、障子を開ける。

 

 向かいの屋根が、薄い光の中にあった。

 

 橋には、まだ影が落ちている。

 

 山の上の方だけが明るかった。

 

 川の色は、昨日の昼よりも深い。

 

 窓辺の手ぬぐいを指で触る。

 

 端の方は乾いていたが、畳み目にはまだ少し湿り気が残っていた。

 

     ◇

 

 朝の浴場は、ほとんど無人だった。

 

 湯船の表面を、窓の形の光が揺れている。

 

 昨夜は共同浴場でいろいろな声を聞いたが、ここでは、湯の流れる音だけがした。

 

 セイアは身体を流し、短く湯へ浸かった。

 

 肩まで沈むと、寝起きの身体がゆっくり目を覚ます。

 

 露天へ出ると、空気は昨日よりも冷たかった。

 

 庭木の葉に、細かな水滴がついている。

 

 枝の先から一滴、落ちた。

 

 それを見たあとで顔を上げると、山の端に光が差していた。

 

 まだ、今日のうちの何も食べていない。

 

 どこも歩いていない。

 

 それなのに、もう少し満足している。

 

 セイアは両手で湯をすくい、指の間から落とした。

 

 長く入りすぎる前に上がり、水を飲んだ。

 

 廊下を戻る途中で、朝食の匂いがした。

 

 今度は、はっきりと腹が空いていた。

 

     ◇

 

 朝食の席には、白いご飯と味噌汁があった。

 

 小さな焼き魚。

 

 青菜のお浸し。

 

 海苔。

 

 漬物。

 

 そして、蓋つきの器に温泉卵。

 

 主人が急須を置いた。

 

「おはようございます。よくお休みになれましたか」

 

「ええ。……いや、ああ。よく眠れたよ」

 

 寝起きの返事が、自分でも少しおかしかった。

 

 主人は気にしなかった。

 

 セイアは温泉卵の蓋を開けた。

 

 淡い色の出汁の中に、白い卵が収まっている。

 

 匙を入れると、白身が柔らかく崩れた。

 

 黄身は、すぐには流れ出さない。

 

 少しすくい、ご飯へ載せる。

 

 出汁も少し。

 

 口へ運ぶと、卵の濃さと米の甘さが重なった。

 

 朝のうちから、ずいぶんよい組み合わせを見つけてしまった。

 

 味噌汁を飲む。

 

 大根が柔らかい。

 

 焼き魚を少し食べ、今度は何も載せていないご飯へ戻る。

 

 窓の外を、白い湯気が上がっていった。

 

     ◇

 

 食事処には、ほかにも泊まり客がいた。

 

 昨夜、風呂で会った生徒もいる。

 

 目が合い、軽く会釈をした。

 

 隣の席では、二人連れが今日の予定を話している。

 

 もう一度風呂へ入ってから出るらしい。

 

 別の席では、一人客が新聞を畳み、食事に手をつけた。

 

 それぞれの朝だった。

 

 セイアは茶碗を持ったまま、少しだけその気配を聞いていた。

 

 自分も、その一席にいる。

 

 昨日の朝には、列車の中にいた。

 

 その違いを考えてから、もう一口、ご飯を食べた。

 

 おかわりはしなかった。

 

 お腹がちょうどよく満ちていることが、今日は分かった。

 

     ◇

 

 荷物をまとめる前に、もう一度、窓の椅子へ座った。

 

 着替えは鞄へ入っている。

 

 使った浴衣も、ひとまとめにした。

 

 本は、まだ卓の上にあった。

 

 開くと、昨日より少し先に栞がある。

 

 眠る前に、どこまで読んだのか。

 

 少し見直して、思い出す。

 

 セイアは一節だけ読んだ。

 

 それから本を閉じた。

 

 続きを読む時間は、帰りの列車にもある。

 

 今は窓の外を見た。

 

 橋の上を、早足の生徒が渡っていく。

 

 鞄を肩へ掛け、駅の方へ向かっている。

 

 遠く、顔まではよく分からなかった。

 

 けれど髪のまとめ方に見覚えがある気がして、セイアは少しだけ身を乗り出した。

 

 その生徒は振り返らず、坂の先へ消えた。

 

 今日の映画は、何時からだったのだろう。

 

 尋ねておけばよかったと思った。

 

 そのあと、尋ねなかったことも、別に困ることではないと思い直した。

 

     ◇

 

 会計を済ませ、午後まで荷物を預かってもらうことにした。

 

 主人が控えを渡してくれる。

 

「上へ歩かれるんでしたね」

 

「ああ。滝見橋まで」

 

「道は少し湿っていますから、足元だけお気をつけて」

 

「ありがとう」

 

 玄関で靴を履く。

 

 昨日、ここへ着いた時よりも、靴の位置がすぐに分かった。

 

 外へ出ると、宿の屋根から落ちる雫が一つ、石へ当たった。

 

 川沿いの道を上流へ向かう。

 

 店は、まだ開ける準備をしているところが多い。

 

 暖簾を掛ける生徒。

 

 台の上へ菓子を並べるロボット。

 

 入口の掃き掃除。

 

 夕方には片づけていたものが、今は順番に外へ出てきていた。

 

     ◇

 

 宿の並びを抜けると、川沿いの道は少し細くなった。

 

 石畳から、踏み固められた道へ変わる。

 

 ところどころに板が渡され、足元の湿ったところを避けて歩けるようになっていた。

 

 川は近い。

 

 けれど、建物に挟まれていた時よりも、水音は散って聞こえた。

 

 頭の上には木の葉がある。

 

 その隙間から日が差し、地面に小さな明るい場所を作っている。

 

 セイアは上着の前を少し緩めた。

 

 上り坂を歩いていると、身体が温まってきた。

 

 途中の腰掛けで水を飲む。

 

 地図を見ると、滝見橋はもう近い。

 

 畳んでしまい、また歩く。

 

 曲がり角の向こうから、今までとは少し違う水音が聞こえた。

 

     ◇

 

 滝は、大きくはなかった。

 

 岩が段になっているところを、水が二つに分かれて落ちていた。

 

 手前に、細い橋が渡されている。

 

 セイアは、その中央へ立った。

 

 上から来た水は、白くほどけ、岩の間でまた一つになる。

 

 少し先では、何事もなかったように流れていた。

 

 光が当たる場所だけ、底の石がはっきり見える。

 

 昨日、浴場の帰りに話した生徒の言っていた通りだった。

 

 朝の川の色は、きれいだった。

 

 セイアは欄干へ手を置いた。

 

 冷たい。

 

 しばらく、流れる水を眺めた。

 

 宿の窓から聞いていた音も、この先へ続いている。

 

 同じ川だと分かっていても、見えるものも、聞こえる音も、場所によって違っていた。

 

 端末を取り出す。

 

 写真を一枚撮り、それから短い動画も撮った。

 

 今度は、音も持って帰りたかった。

 

     ◇

 

 戻る途中、温泉街へ向かう人とすれ違った。

 

 昨日の自分と同じように、案内図を持っている。

 

 橋へ行く道を尋ねられた。

 

 セイアは、来た方を振り返る。

 

「この道をそのまま。途中の腰掛けを過ぎれば、もう近いよ」

 

「ありがとうございます」

 

 相手が歩いていく。

 

 セイアも坂を下り始めた。

 

 道を教えたのは、ほんの一か所だった。

 

 それでも、間違いなく自分で歩いて確かめた道だった。

 

 そのことが、足元の石を少し見慣れたものにした。

 

     ◇

 

 昼近くの温泉街には、湯気と一緒に食べ物の匂いが戻っていた。

 

 昨日は外から眺めただけだった饅頭屋の前で、セイアは足を止めた。

 

 せいろの蓋が開く。

 

 白い湯気が一度、大きく上がった。

 

「蒸したて、ありますよ」

 

 店員の生徒に声をかけられ、セイアは頷いた。

 

 土産の箱を一つ。

 

 それから、自分で食べるものを一つ。

 

 受け取った饅頭は、紙越しでも温かかった。

 

 店先の腰掛けへ座り、少し待ってから、二つに割る。

 

 薄い皮の下に、餡が詰まっている。

 

 割れ目から、新しい湯気が出た。

 

 ひと口。

 

 皮は、思っていたより弾力があった。

 

 餡は柔らかく、甘さのあとに小豆の味が残る。

 

 熱いので、急いでは食べられない。

 

 セイアは半分を紙の上へ置き、通りを見た。

 

 旅館の荷物を積んだロボットが、昨日と同じ坂を上っている。

 

 足湯へ向かうらしい生徒たちが、タオルを買っていた。

 

 店の前で、地図を広げた人が迷っている。

 

 町は、昨日の昼へ戻ったようにも見えた。

 

 けれど、自分は一晩、ここに泊まっていた。

 

 暗くなった橋も、朝の空いた浴場も知っている。

 

 セイアは、残りの饅頭を食べた。

 

     ◇

 

 荷物を受け取りに宿へ戻ると、玄関には、来た時と違う生徒が座っていた。

 

 控えを見せる。

 

 鞄が出てくる。

 

 主人も奥から顔を出し、礼を言ってくれた。

 

「こちらこそ、お世話になったね」

 

「橋の方は、いかがでしたか」

 

「よく見えたよ。朝に行って、よかった」

 

 主人が頷いた。

 

 セイアは鞄を持ち、もう一度、二階の方へ目を向けた。

 

 自分のいた部屋は、ここからは見えない。

 

 けれど、椅子の位置は覚えている。

 

 卓の高さも。

 

 窓の下に川が見える範囲も。

 

 写真を見ていた時には分からなかったことが、いくつか残った。

 

 玄関を出る。

 

 橋を渡り、駅へ向かう坂を上り始めた。

 

     ◇

 

 帰りの坂は、案内所で言われた通りだった。

 

 荷物があると、少しずつ足に来る。

 

 饅頭の箱と、射的でもらった煎餅も増えている。

 

 セイアは途中で一度立ち止まり、鞄を持ち替えた。

 

「……帰りの私に、任せすぎたかな」

 

 朝、駅で言ったことを思い出す。

 

 幸い、列車までは余裕があった。

 

 坂の途中から振り返ると、屋根の向こうに川が少し見えた。

 

 白い湯気が、二か所から上がっている。

 

 遠くの山は、昨日と同じように動かない。

 

 セイアはもう少し眺めてから、また上り始めた。

 

     ◇

 

 駅のホームには、日帰りの旅行者が何人かいた。

 

 これから温泉街へ向かう人もいる。

 

 大きな荷物を持たない二人連れが、改札の方へ足早に歩いていった。

 

 セイアはベンチへ座り、水を飲んだ。

 

 帰りの切符を確かめる。

 

 列車は、時間通りにやってきた。

 

 乗り込んで窓際へ座ると、今度は荷物を置く場所が少し狭かった。

 

 箱をつぶさないように重ね、鞄を足元へ収める。

 

 手ぬぐいだけは、まだ奥へしまわなかった。

 

 畳み目に、わずかに湿り気が残っていたからだ。

 

 小さな袋へ分け、口を閉じずに鞄の上へ置いた。

 

 発車の音がする。

 

 ホームが、ゆっくり動き出した。

 

     ◇

 

 温泉街は、列車の窓からはほとんど見えなかった。

 

 少しだけ屋根が現れ、そのあと、木々に隠れる。

 

 川は見えた。

 

 列車はしばらく川に沿い、それから別の方へ曲がった。

 

 セイアは、見えなくなるまで目で追った。

 

 昨日の朝と同じ車輪の音がする。

 

 同じように、山の間を走っている。

 

 けれど、足元の鞄には、使ったタオルと、着替えた服が入っていた。

 

 宿の紙に書き留めた帰りの時刻。

 

 少し折り目の増えた地図。

 

 饅頭の箱。

 

 どれも、出かける時にはなかった重さだった。

 

 セイアは本を開いた。

 

 今度は、栞のところから、迷わず読めた。

 

     ◇

 

 乗り換え駅に着く頃、ミカから連絡が来た。

 

『帰ってくる?』

 

『今、乗り換えるところだよ』

 

『お饅頭あった?』

 

 セイアは、鞄の上の箱を見た。

 

『あった。君の分もあるよ』

 

『やった!』

 

 続いて、ナギサから到着時刻を尋ねられた。

 

 次の列車を確認し、返信する。

 

 それから少し考え、滝見橋で撮った動画を送った。

 

 短い水の音。

 

 白く落ちる流れ。

 

 岩の上を動く光。

 

 返事が来るまでに、少し間があった。

 

『音がよいですね』

 

 セイアは、その一文を見た。

 

『宿でも、ずっと聞こえていたよ』

 

 送ってから、端末をしまう。

 

 言葉にして初めて、今はもう川の音がしないことに気づいた。

 

 駅の放送。

 

 隣のホームへ入ってくる列車。

 

 靴音。

 

 今いる場所の音が、代わりにあった。

 

     ◇

 

 トリニティへ戻ったのは、夕方だった。

 

 談話室には、ナギサとミカがいた。

 

 セイアが菓子の箱を置くと、ミカはすぐに身を乗り出した。

 

「お帰り!」

 

「ただいま」

 

「温泉、どうだった?」

 

 セイアは鞄を椅子の横へ置いた。

 

「よかったよ」

 

「何が一番?」

 

 尋ねられ、少し考える。

 

 風呂。

 

 夕食。

 

 朝の川。

 

 夜の町。

 

 どれも思い出せる。

 

 けれど、最初に口へ出たのは、別のことだった。

 

「よく眠れた」

 

 ミカが、少し驚いた顔をした。

 

 ナギサは、茶器を置く手を止める。

 

 それから、静かに微笑んだ。

 

「それは、よかったです」

 

「部屋、気に入ったんだ?」

 

 ミカが尋ねる。

 

「ああ。椅子が、思っていた通りでね」

 

「椅子?」

 

 セイアは端末を取り出し、写真を見せた。

 

 窓。

 

 丸い卓。

 

 籐の椅子。

 

 撮ったのは、帰る前だった。

 

 写真の中には、誰も座っていない。

 

「ここで寝てたの?」

 

「少しだけ」

 

「少しだけって言いながら、結構寝てそう」

 

「……否定はしないよ」

 

 ミカが笑った。

 

 ナギサも、写真を見ながら少し笑った。

 

     ◇

 

 饅頭を皿へ出し、お茶を淹れてもらった。

 

 蒸したての時より、皮は少し落ち着いている。

 

 割ると、餡がきれいに分かれた。

 

 ミカが一口食べる。

 

「美味しい」

 

「向こうでは、温かいものも食べたよ」

 

「それ、絶対美味しいやつじゃん」

 

「ああ。熱くて、すぐには食べられなかったけれど」

 

 ナギサは射的の煎餅の箱を見た。

 

「こちらも、お店で?」

 

「射的でもらったんだ」

 

 ミカが顔を上げる。

 

「セイアちゃん、射的したの?」

 

「ああ」

 

「何狙ったの?」

 

「本当は、小さな招き猫だった」

 

「取れなかったんだ」

 

「少々、手強かったのでね」

 

 ミカが笑い、ナギサも箱を手に取った。

 

 うどんの話をした。

 

 足湯の熱い側へ座ってしまったこと。

 

 部屋へ戻ったら、夕方になっていたこと。

 

 旅館で働いていた生徒が、今日は映画を三本観に行っていること。

 

「三本も?」

 

 ミカが言った。

 

「私も、そう聞き返したよ」

 

 セイアはお茶を飲んだ。

 

 その生徒は今、何本目を観ているのだろう。

 

 もう、二本目のあとの食事を済ませた頃かもしれない。

 

 自分とは別の場所で、同じ休日の終わりへ向かっている。

 

 セイアは、もう一口、饅頭を食べた。

 

     ◇

 

 部屋へ戻り、荷物をほどいた。

 

 着替えを出す。

 

 地図を本の横へ置く。

 

 手ぬぐいを取り出すと、石鹸と、乾ききらない布の匂いがした。

 

 広げる。

 

 白い布の中を、青い線が何本も曲がっている。

 

 買った時には、ただ涼しそうな模様に見えた。

 

 今は、その曲がり方を、少しだけ思い浮かべられる。

 

 窓際へ干し、鞄を片づける。

 

 いつもの部屋は、旅館より静かだった。

 

 川の音はしない。

 

 窓の外から、遠くの足音が聞こえる。

 

 セイアは椅子を少し窓の方へ寄せた。

 

 腰を下ろす。

 

 籐の椅子とは、座り心地が違った。

 

 それでも、背中を預けてみる。

 

 夕方の光が、干した手ぬぐいを薄く透かしていた。

 

 明日の用事を確かめるまでに、まだ少し時間がある。

 

 セイアは、湯上がりの時と同じように、ゆっくり息を吐いた。

 

 そして、しばらくそのまま座っていた。

 

 

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総合評価:320/評価:7.82/連載:33話/更新日時:2026年09月12日(土) 22:05 小説情報

【完結】ワタクシは蒼森ミネに恋をした。(作者:詠符音黎)(原作:ブルーアーカイブ)

救護騎士団副団長、風我(ふうが)フミは団長の蒼森ミネとは幼馴染の間柄である。▼小さい頃から共に救護の道を志し、ついにはそれぞれ救護騎士団において団長と副団長の地位に着くまでになっていた。▼フミとミネ、公私共に篤い絆で結ばれた二人。▼だが、フミは一つだけミネに隠し事をしていた。▼フミは、ミネに対し同性でありながら恋愛感情を抱いていたのである。▼けれども彼女はそ…


総合評価:1103/評価:8.8/完結:24話/更新日時:2026年08月07日(金) 20:00 小説情報

あなたがトリニティでやってはいけない事リスト(作者:装甲アッサム春雨)(原作:ブルーアーカイブ)

キヴォトス最大規模の学園の一つにして、キヴォトス屈指のお嬢様学園であるトリニティ総合学園。▼そこは日々を麗しく華やかに過ごすお嬢様の楽園。▼しかし、そこの片隅では今日もなにやら必死なお説教とそれから逃げ回る声が?


総合評価:5079/評価:8.76/短編:39話/更新日時:2026年09月14日(月) 13:42 小説情報


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