百合園セイア、旅の途中にて   作:桂木ヤコ

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7-2.折瀬川・滝見橋 #夜の湯 #朝の水音 #帰り道

 

 部屋へ戻ると、布団が敷かれていた。

 

 一組だけ。

 

 卓は少し横へ寄せられ、座布団も揃えて置いてある。

 

 窓辺の椅子は、そのままだった。

 

 セイアはそこへ座り、腹が落ち着くまで本を読んだ。

 

 午後に読んでいたところを探す。

 

 しおりの少し前へ戻り、会話を読み直す。

 

 内容を思い出すと、今度はすぐに頁が進んだ。

 

 窓には自分の姿が映っていた。

 

 向こう側の川は、よく見えない。

 

 橋の灯りだけが、ガラスの中で、読書をする自分の肩の横に浮かんでいる。

 

 しばらくして、本を閉じた。

 

 買った手ぬぐいを持つ。

 

 水を飲み、羽織を着直し、鍵を確かめる。

 

 今夜はまだ、帰るための支度ではなかった。

 

     ◇

 

 夜の温泉街は、昼より小さく感じられた。

 

 遠くの山が見えなくなる。

 

 閉じた店の前では灯りが落とされ、道の続きも、明るいところと暗いところに分かれていた。

 

 その分、開いている店の窓が近い。

 

 湯上がりらしい生徒たちが、飲み物を持って歩いている。

 

 旅館の名前が入った羽織もあれば、普段着に小さな籠を提げただけの姿もあった。

 

 セイアは川沿いへ下りた。

 

 石の道は、提灯の光を受けて淡く光っている。

 

 川は、形よりも音でそこにあった。

 

 坂を少し上がると、湯気の向こうに、共同浴場の入口が見えた。

 

     ◇

 

 番台には、小さなロボットがいた。

 

 料金を払い、靴をしまう。

 

 脱衣所には、木の籠と、鍵のついた保管庫が並んでいた。壁の注意書きの一つは、装備を濡らさないようにというものだった。

 

 セイアは場所を確かめ、荷物を収めた。

 

 浴場の戸を開ける。

 

 宿よりも、声がよく響いた。

 

 桶を置く音。

 

 湯を流す音。

 

 挨拶をする声。

 

 どれも大きすぎるわけではないが、人が使っている風呂だとはっきり分かる。

 

 宿の前掛けの生徒は、すでに来ていた。

 

 今は前掛けもなく、まとめ直した髪と、小さな手ぬぐいだけが見える。

 

 目が合うと、軽く会釈をした。

 

「こんばんは」

 

「先に来ていたんだね」

 

「はい。そっちの湯船の方が、入りやすいと思います」

 

 示された方へ行く。

 

 セイアは掛け湯をして、ゆっくり入った。

 

 宿とは、少し違う湯の感触だった。

 

 同じ温泉街でも、温度や浴槽の形が違えば、身体の落ち着くところも違う。

 

 生徒は少し離れた場所で、肩の力を抜いていた。

 

 仕事の話はしなかった。

 

 ほかの客から挨拶されると、短く返す。

 

 ここでは、宿の人ではなく、風呂へ入りに来た一人だった。

 

     ◇

 

 湯から上がると、生徒が入口脇の腰掛けに座っていた。

 

 手には瓶入りの牛乳を持っている。

 

 セイアも飲み物を買い、隣へ腰を下ろした。

 

 冷たい瓶を持つと、掌が少し落ち着く。

 

 蓋を開け、一口飲んだ。

 

 喉を通る冷たさが、湯上がりの身体にはっきり分かった。

 

「昼間、足湯にも入りました?」

 

 生徒が尋ねた。

 

「ああ。どちらから入れば熱すぎないか、教えてもらったよ」

 

「最初、湯口の方に座っちゃう人、多いんです」

 

「見事に、その一人だったわけだ」

 

 生徒が笑った。

 

 セイアも、瓶を置いて笑う。

 

 戸の向こうから、また一人、客が出てきた。

 

 濡れた髪を拭きながら二人へ挨拶し、外へ出る。

 

 冷たい空気が、足元へ少し入ってきた。

 

「君は、明日も宿に?」

 

「明日は休みです」

 

「それはよかった」

 

「朝の電車で、下の街へ行くつもりで」

 

「何か用事があるのかい」

 

 生徒は、少しだけ嬉しそうな顔をした。

 

「映画を観るんです。三本」

 

 セイアは瓶を持つ手を止めた。

 

「三本?」

 

「はい。時間がうまく繋がっていて。二本目のあとに、ご飯も食べられるので」

 

「よく考えられた休日だね」

 

「ここだと、そういうふうには観られないから」

 

 生徒は自分の瓶のラベルを指でなぞった。

 

「たぶん帰ったら、何を観たか少し混ざると思いますけど」

 

「それも含めて、楽しみなのかな」

 

「はい」

 

 迷わない返事だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

     ◇

 

「セイアさんは、明日どこへ?」

 

 宿で確認した名前を、そのまま呼んだのだろう。

 

 役職は、つかなかった。

 

「まだ、きちんとは決めていない。上流の橋へ行ってみたいと思っているけれど」

 

「滝見橋ですか?」

 

「ああ」

 

「朝の方が、川の色がきれいですよ。山の上から日が入るので。道の途中に少し上りがありますけど、急がなければ」

 

「それから帰るつもりだよ」

 

「じゃあ、お昼までくらいですね」

 

 生徒は頷いた。

 

 少し間を置いて尋ねる。

 

「今日は、どのくらい回りました?」

 

 セイアは指を折る代わりに、思い出した順に答えた。

 

「うどんを食べて、足湯へ入って、手ぬぐいを買った。そのあと宿の風呂へ入って……眠っていたね」

 

「お昼寝ですか」

 

「ああ。思ったより、長く」

 

 生徒は、満足そうに笑った。

 

「お部屋、静かでした?」

 

 セイアは少し考えた。

 

「川の音は、よく聞こえるね」

 

「あそこ、近いですから」

 

「けれど、眠れたよ」

 

「よかった」

 

 その返事は、主人と同じだった。

 

 昼の説明には、まだ少し慌てるところがあった生徒も、ここでは迷わなかった。

 

 セイアは、瓶に残っていた牛乳を飲み終えた。

 

     ◇

 

 外へ出ると、夜気が頬へ触れた。

 

 二人で川沿いを少し歩く。

 

 足音が、石の道に小さく響いた。

 

 生徒の帰る道は、途中で分かれるという。

 

 曲がり角に着くと、彼女は立ち止まった。

 

「それじゃあ。今日は、ありがとうございました」

 

「こちらこそ。明日の映画、楽しんでくるといい」

 

「はい。セイアさんも、ゆっくりしてください」

 

 会釈を交わす。

 

 生徒は細い坂道を上っていった。

 

 少し先で一度振り返り、手を上げる。

 

 セイアも、小さく返した。

 

 明日の朝、宿で彼女に会うことはない。

 

 自分が休んでいる間に働いていた人が、今度は出かける。

 

 その行き先が、三本の映画を続けて観られる街であることを、セイアは知っていた。

 

 それだけのことが、別れたあとも少し嬉しかった。

 

     ◇

 

 宿へ戻ると、玄関の灯りは少し落とされていた。

 

 主人へ挨拶をして、階段を上る。

 

 廊下には、まだ食事の名残のような、薄い出汁の匂いがあった。

 

 部屋へ入り、羽織を掛ける。

 

 使った手ぬぐいを広げると、青い川の模様がはっきり見えた。

 

 窓辺へ干して、布団へ座る。

 

 足を伸ばしたところで、今日、思っていたよりも歩いていたことが分かった。

 

 眠る前に、ナギサへ連絡した。

 

 宿へ戻っている。

 

 明日は予定通り帰る。

 

 写真を一枚添えようとして、端末の中を見た。

 

 昼のうどん。

 

 橋から見た川。

 

 窓の前の椅子。

 

 いつもより、枚数が少なかった。

 

 その中から、部屋の窓の写真を送る。

 

 返ってきたのは、短い言葉だった。

 

『よいお部屋ですね。おやすみなさい』

 

 セイアも同じように返し、端末を伏せた。

 

     ◇

 

 明かりを消すと、川の音が大きくなった。

 

 昼間から聞こえていた音だ。

 

 けれど、窓の外が見えなくなり、部屋の中も暗くなると、どこまでが近くで、どこからが遠くなのかが曖昧になった。

 

 岩へ当たる水。

 

 少し細くなる音。

 

 また、重なる音。

 

 セイアは布団の中で向きを変えた。

 

 昼寝をしたせいか、すぐには眠くならなかった。

 

 外で、下駄の音がした。

 

 二人分くらいの足音が橋を渡り、少しずつ遠ざかっていく。

 

 階下で、戸の閉まる音。

 

 それから、また川だけになった。

 

 セイアは目を開けた。

 

 暗い天井を見ても、することはない。

 

 端末を取れば、いくらでも何かはできる。

 

 明日の道を調べてもよい。

 

 写真を整理してもよい。

 

 けれど、手は伸ばさなかった。

 

 枕の位置を少し直す。

 

 足先は、まだ温かかった。

 

 次にどちらへ向きを変えたのかは、覚えていなかった。

 

     ◇

 

 朝は、川の音で始まった。

 

 目を覚ましてから、すぐに自分のいる場所が分かった。

 

 障子の向こうが白い。

 

 時計を見ると、朝食まではまだ時間があった。

 

 セイアは上体を起こした。

 

 よく眠った。

 

 夜中に一度くらい目を覚ましたような気もするが、それが何時だったかは分からない。

 

 窓へ近づき、障子を開ける。

 

 向かいの屋根が、薄い光の中にあった。

 

 橋には、まだ影が落ちている。

 

 山の上の方だけが明るかった。

 

 川の色は、昨日の昼よりも深い。

 

 窓辺の手ぬぐいを指で触る。

 

 端の方は乾いていたが、畳み目にはまだ少し湿り気が残っていた。

 

     ◇

 

 朝の浴場は、ほとんど無人だった。

 

 湯船の表面を、窓の形の光が揺れている。

 

 昨夜は共同浴場でいろいろな声を聞いたが、ここでは、湯の流れる音だけがした。

 

 セイアは身体を流し、短く湯へ浸かった。

 

 肩まで沈むと、寝起きの身体がゆっくり目を覚ます。

 

 露天へ出ると、空気は昨日よりも冷たかった。

 

 庭木の葉に、細かな水滴がついている。

 

 枝の先から一滴、落ちた。

 

 それを見たあとで顔を上げると、山の端に光が差していた。

 

 まだ、今日のうちの何も食べていない。

 

 どこも歩いていない。

 

 それなのに、もう少し満足している。

 

 セイアは両手で湯をすくい、指の間から落とした。

 

 長く入りすぎる前に上がり、水を飲んだ。

 

 廊下を戻る途中で、朝食の匂いがした。

 

 今度は、はっきりと腹が空いていた。

 

     ◇

 

 朝食の席には、白いご飯と味噌汁があった。

 

 小さな焼き魚。

 

 青菜のお浸し。

 

 海苔。

 

 漬物。

 

 そして、蓋つきの器に温泉卵。

 

 主人が急須を置いた。

 

「おはようございます。よくお休みになれましたか」

 

「ええ。……いや、ああ。よく眠れたよ」

 

 寝起きの返事が、自分でも少しおかしかった。

 

 主人は気にしなかった。

 

 セイアは温泉卵の蓋を開けた。

 

 淡い色の出汁の中に、白い卵が収まっている。

 

 匙を入れると、白身が柔らかく崩れた。

 

 黄身は、すぐには流れ出さない。

 

 少しすくい、ご飯へ載せる。

 

 出汁も少し。

 

 口へ運ぶと、卵の濃さと米の甘さが重なった。

 

 朝のうちから、ずいぶんよい組み合わせを見つけてしまった。

 

 味噌汁を飲む。

 

 大根が柔らかい。

 

 焼き魚を少し食べ、今度は何も載せていないご飯へ戻る。

 

 窓の外を、白い湯気が上がっていった。

 

     ◇

 

 食事処には、ほかにも泊まり客がいた。

 

 昨夜、風呂で会った生徒もいる。

 

 目が合い、軽く会釈をした。

 

 隣の席では、二人連れが今日の予定を話している。

 

 もう一度風呂へ入ってから出るらしい。

 

 別の席では、一人客が新聞を畳み、食事に手をつけた。

 

 それぞれの朝だった。

 

 セイアは茶碗を持ったまま、少しだけその気配を聞いていた。

 

 自分も、その一席にいる。

 

 昨日の朝には、列車の中にいた。

 

 その違いを考えてから、もう一口、ご飯を食べた。

 

 おかわりはしなかった。

 

 お腹がちょうどよく満ちていることが、今日は分かった。

 

     ◇

 

 荷物をまとめる前に、もう一度、窓の椅子へ座った。

 

 着替えは鞄へ入っている。

 

 使った浴衣も、ひとまとめにした。

 

 本は、まだ卓の上にあった。

 

 開くと、昨日より少し先に栞がある。

 

 眠る前に、どこまで読んだのか。

 

 少し見直して、思い出す。

 

 セイアは一節だけ読んだ。

 

 それから本を閉じた。

 

 続きを読む時間は、帰りの列車にもある。

 

 今は窓の外を見た。

 

 橋の上を、早足の生徒が渡っていく。

 

 鞄を肩へ掛け、駅の方へ向かっている。

 

 遠く、顔まではよく分からなかった。

 

 けれど髪のまとめ方に見覚えがある気がして、セイアは少しだけ身を乗り出した。

 

 その生徒は振り返らず、坂の先へ消えた。

 

 今日の映画は、何時からだったのだろう。

 

 尋ねておけばよかったと思った。

 

 そのあと、尋ねなかったことも、別に困ることではないと思い直した。

 

     ◇

 

 会計を済ませ、午後まで荷物を預かってもらうことにした。

 

 主人が控えを渡してくれる。

 

「上へ歩かれるんでしたね」

 

「ああ。滝見橋まで」

 

「道は少し湿っていますから、足元だけお気をつけて」

 

「ありがとう」

 

 玄関で靴を履く。

 

 昨日、ここへ着いた時よりも、靴の位置がすぐに分かった。

 

 外へ出ると、宿の屋根から落ちる雫が一つ、石へ当たった。

 

 川沿いの道を上流へ向かう。

 

 店は、まだ開ける準備をしているところが多い。

 

 暖簾を掛ける生徒。

 

 台の上へ菓子を並べるロボット。

 

 入口の掃き掃除。

 

 夕方には片づけていたものが、今は順番に外へ出てきていた。

 

     ◇

 

 宿の並びを抜けると、川沿いの道は少し細くなった。

 

 石畳から、踏み固められた道へ変わる。

 

 ところどころに板が渡され、足元の湿ったところを避けて歩けるようになっていた。

 

 川は近い。

 

 けれど、建物に挟まれていた時よりも、水音は散って聞こえた。

 

 頭の上には木の葉がある。

 

 その隙間から日が差し、地面に小さな明るい場所を作っている。

 

 セイアは上着の前を少し緩めた。

 

 上り坂を歩いていると、身体が温まってきた。

 

 途中の腰掛けで水を飲む。

 

 地図を見ると、滝見橋はもう近い。

 

 畳んでしまい、また歩く。

 

 曲がり角の向こうから、今までとは少し違う水音が聞こえた。

 

     ◇

 

 滝は、大きくはなかった。

 

 岩が段になっているところを、水が二つに分かれて落ちていた。

 

 手前に、細い橋が渡されている。

 

 セイアは、その中央へ立った。

 

 上から来た水は、白くほどけ、岩の間でまた一つになる。

 

 少し先では、何事もなかったように流れていた。

 

 光が当たる場所だけ、底の石がはっきり見える。

 

 昨日、浴場の帰りに話した生徒の言っていた通りだった。

 

 朝の川の色は、きれいだった。

 

 セイアは欄干へ手を置いた。

 

 冷たい。

 

 しばらく、流れる水を眺めた。

 

 宿の窓から聞いていた音も、この先へ続いている。

 

 同じ川だと分かっていても、見えるものも、聞こえる音も、場所によって違っていた。

 

 端末を取り出す。

 

 写真を一枚撮り、それから短い動画も撮った。

 

 今度は、音も持って帰りたかった。

 

     ◇

 

 戻る途中、温泉街へ向かう人とすれ違った。

 

 昨日の自分と同じように、案内図を持っている。

 

 橋へ行く道を尋ねられた。

 

 セイアは、来た方を振り返る。

 

「この道をそのまま。途中の腰掛けを過ぎれば、もう近いよ」

 

「ありがとうございます」

 

 相手が歩いていく。

 

 セイアも坂を下り始めた。

 

 道を教えたのは、ほんの一か所だった。

 

 それでも、間違いなく自分で歩いて確かめた道だった。

 

 そのことが、足元の石を少し見慣れたものにした。

 

     ◇

 

 昼近くの温泉街には、湯気と一緒に食べ物の匂いが戻っていた。

 

 昨日は外から眺めただけだった饅頭屋の前で、セイアは足を止めた。

 

 せいろの蓋が開く。

 

 白い湯気が一度、大きく上がった。

 

「蒸したて、ありますよ」

 

 店員の生徒に声をかけられ、セイアは頷いた。

 

 土産の箱を一つ。

 

 それから、自分で食べるものを一つ。

 

 受け取った饅頭は、紙越しでも温かかった。

 

 店先の腰掛けへ座り、少し待ってから、二つに割る。

 

 薄い皮の下に、餡が詰まっている。

 

 割れ目から、新しい湯気が出た。

 

 ひと口。

 

 皮は、思っていたより弾力があった。

 

 餡は柔らかく、甘さのあとに小豆の味が残る。

 

 熱いので、急いでは食べられない。

 

 セイアは半分を紙の上へ置き、通りを見た。

 

 旅館の荷物を積んだロボットが、昨日と同じ坂を上っている。

 

 足湯へ向かうらしい生徒たちが、タオルを買っていた。

 

 店の前で、地図を広げた人が迷っている。

 

 町は、昨日の昼へ戻ったようにも見えた。

 

 けれど、自分は一晩、ここに泊まっていた。

 

 暗くなった橋も、朝の空いた浴場も知っている。

 

 セイアは、残りの饅頭を食べた。

 

     ◇

 

 荷物を受け取りに宿へ戻ると、玄関には、来た時と違う生徒が座っていた。

 

 控えを見せる。

 

 鞄が出てくる。

 

 主人も奥から顔を出し、礼を言ってくれた。

 

「こちらこそ、お世話になったね」

 

「橋の方は、いかがでしたか」

 

「よく見えたよ。朝に行って、よかった」

 

 主人が頷いた。

 

 セイアは鞄を持ち、もう一度、二階の方へ目を向けた。

 

 自分のいた部屋は、ここからは見えない。

 

 けれど、椅子の位置は覚えている。

 

 卓の高さも。

 

 窓の下に川が見える範囲も。

 

 写真を見ていた時には分からなかったことが、いくつか残った。

 

 玄関を出る。

 

 橋を渡り、駅へ向かう坂を上り始めた。

 

     ◇

 

 帰りの坂は、案内所で言われた通りだった。

 

 荷物があると、少しずつ足に来る。

 

 饅頭の箱と、射的でもらった煎餅も増えている。

 

 セイアは途中で一度立ち止まり、鞄を持ち替えた。

 

「……帰りの私に、任せすぎたかな」

 

 朝、駅で言ったことを思い出す。

 

 幸い、列車までは余裕があった。

 

 坂の途中から振り返ると、屋根の向こうに川が少し見えた。

 

 白い湯気が、二か所から上がっている。

 

 遠くの山は、昨日と同じように動かない。

 

 セイアはもう少し眺めてから、また上り始めた。

 

     ◇

 

 駅のホームには、日帰りの旅行者が何人かいた。

 

 これから温泉街へ向かう人もいる。

 

 大きな荷物を持たない二人連れが、改札の方へ足早に歩いていった。

 

 セイアはベンチへ座り、水を飲んだ。

 

 帰りの切符を確かめる。

 

 列車は、時間通りにやってきた。

 

 乗り込んで窓際へ座ると、今度は荷物を置く場所が少し狭かった。

 

 箱をつぶさないように重ね、鞄を足元へ収める。

 

 手ぬぐいだけは、まだ奥へしまわなかった。

 

 畳み目に、わずかに湿り気が残っていたからだ。

 

 小さな袋へ分け、口を閉じずに鞄の上へ置いた。

 

 発車の音がする。

 

 ホームが、ゆっくり動き出した。

 

     ◇

 

 温泉街は、列車の窓からはほとんど見えなかった。

 

 少しだけ屋根が現れ、そのあと、木々に隠れる。

 

 川は見えた。

 

 列車はしばらく川に沿い、それから別の方へ曲がった。

 

 セイアは、見えなくなるまで目で追った。

 

 昨日の朝と同じ車輪の音がする。

 

 同じように、山の間を走っている。

 

 けれど、足元の鞄には、使ったタオルと、着替えた服が入っていた。

 

 宿の紙に書き留めた帰りの時刻。

 

 少し折り目の増えた地図。

 

 饅頭の箱。

 

 どれも、出かける時にはなかった重さだった。

 

 セイアは本を開いた。

 

 今度は、栞のところから、迷わず読めた。

 

     ◇

 

 乗り換え駅に着く頃、ミカから連絡が来た。

 

『帰ってくる?』

 

『今、乗り換えるところだよ』

 

『お饅頭あった?』

 

 セイアは、鞄の上の箱を見た。

 

『あった。君の分もあるよ』

 

『やった!』

 

 続いて、ナギサから到着時刻を尋ねられた。

 

 次の列車を確認し、返信する。

 

 それから少し考え、滝見橋で撮った動画を送った。

 

 短い水の音。

 

 白く落ちる流れ。

 

 岩の上を動く光。

 

 返事が来るまでに、少し間があった。

 

『音がよいですね』

 

 セイアは、その一文を見た。

 

『宿でも、ずっと聞こえていたよ』

 

 送ってから、端末をしまう。

 

 言葉にして初めて、今はもう川の音がしないことに気づいた。

 

 駅の放送。

 

 隣のホームへ入ってくる列車。

 

 靴音。

 

 今いる場所の音が、代わりにあった。

 

     ◇

 

 トリニティへ戻ったのは、夕方だった。

 

 談話室には、ナギサとミカがいた。

 

 セイアが菓子の箱を置くと、ミカはすぐに身を乗り出した。

 

「お帰り!」

 

「ただいま」

 

「温泉、どうだった?」

 

 セイアは鞄を椅子の横へ置いた。

 

「よかったよ」

 

「何が一番?」

 

 尋ねられ、少し考える。

 

 風呂。

 

 夕食。

 

 朝の川。

 

 夜の町。

 

 どれも思い出せる。

 

 けれど、最初に口へ出たのは、別のことだった。

 

「よく眠れた」

 

 ミカが、少し驚いた顔をした。

 

 ナギサは、茶器を置く手を止める。

 

 それから、静かに微笑んだ。

 

「それは、よかったです」

 

「部屋、気に入ったんだ?」

 

 ミカが尋ねる。

 

「ああ。椅子が、思っていた通りでね」

 

「椅子?」

 

 セイアは端末を取り出し、写真を見せた。

 

 窓。

 

 丸い卓。

 

 籐の椅子。

 

 撮ったのは、帰る前だった。

 

 写真の中には、誰も座っていない。

 

「ここで寝てたの?」

 

「少しだけ」

 

「少しだけって言いながら、結構寝てそう」

 

「……否定はしないよ」

 

 ミカが笑った。

 

 ナギサも、写真を見ながら少し笑った。

 

     ◇

 

 饅頭を皿へ出し、お茶を淹れてもらった。

 

 蒸したての時より、皮は少し落ち着いている。

 

 割ると、餡がきれいに分かれた。

 

 ミカが一口食べる。

 

「美味しい」

 

「向こうでは、温かいものも食べたよ」

 

「それ、絶対美味しいやつじゃん」

 

「ああ。熱くて、すぐには食べられなかったけれど」

 

 ナギサは射的の煎餅の箱を見た。

 

「こちらも、お店で?」

 

「射的でもらったんだ」

 

 ミカが顔を上げる。

 

「セイアちゃん、射的したの?」

 

「ああ」

 

「何狙ったの?」

 

「本当は、小さな招き猫だった」

 

「取れなかったんだ」

 

「少々、手強かったのでね」

 

 ミカが笑い、ナギサも箱を手に取った。

 

 うどんの話をした。

 

 足湯の熱い側へ座ってしまったこと。

 

 部屋へ戻ったら、夕方になっていたこと。

 

 旅館で働いていた生徒が、今日は映画を三本観に行っていること。

 

「三本も?」

 

 ミカが言った。

 

「私も、そう聞き返したよ」

 

 セイアはお茶を飲んだ。

 

 その生徒は今、何本目を観ているのだろう。

 

 もう、二本目のあとの食事を済ませた頃かもしれない。

 

 自分とは別の場所で、同じ休日の終わりへ向かっている。

 

 セイアは、もう一口、饅頭を食べた。

 

     ◇

 

 部屋へ戻り、荷物をほどいた。

 

 着替えを出す。

 

 地図を本の横へ置く。

 

 手ぬぐいを取り出すと、石鹸と、乾ききらない布の匂いがした。

 

 広げる。

 

 白い布の中を、青い線が何本も曲がっている。

 

 買った時には、ただ涼しそうな模様に見えた。

 

 今は、その曲がり方を、少しだけ思い浮かべられる。

 

 窓際へ干し、鞄を片づける。

 

 いつもの部屋は、旅館より静かだった。

 

 川の音はしない。

 

 窓の外から、遠くの足音が聞こえる。

 

 セイアは椅子を少し窓の方へ寄せた。

 

 腰を下ろす。

 

 籐の椅子とは、座り心地が違った。

 

 それでも、背中を預けてみる。

 

 夕方の光が、干した手ぬぐいを薄く透かしていた。

 

 明日の用事を確かめるまでに、まだ少し時間がある。

 

 セイアは、湯上がりの時と同じように、ゆっくり息を吐いた。

 

 そして、しばらくそのまま座っていた。

 

 

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