部屋へ戻ると、布団が敷かれていた。
一組だけ。
卓は少し横へ寄せられ、座布団も揃えて置いてある。
窓辺の椅子は、そのままだった。
セイアはそこへ座り、腹が落ち着くまで本を読んだ。
午後に読んでいたところを探す。
しおりの少し前へ戻り、会話を読み直す。
内容を思い出すと、今度はすぐに頁が進んだ。
窓には自分の姿が映っていた。
向こう側の川は、よく見えない。
橋の灯りだけが、ガラスの中で、読書をする自分の肩の横に浮かんでいる。
しばらくして、本を閉じた。
買った手ぬぐいを持つ。
水を飲み、羽織を着直し、鍵を確かめる。
今夜はまだ、帰るための支度ではなかった。
◇
夜の温泉街は、昼より小さく感じられた。
遠くの山が見えなくなる。
閉じた店の前では灯りが落とされ、道の続きも、明るいところと暗いところに分かれていた。
その分、開いている店の窓が近い。
湯上がりらしい生徒たちが、飲み物を持って歩いている。
旅館の名前が入った羽織もあれば、普段着に小さな籠を提げただけの姿もあった。
セイアは川沿いへ下りた。
石の道は、提灯の光を受けて淡く光っている。
川は、形よりも音でそこにあった。
坂を少し上がると、湯気の向こうに、共同浴場の入口が見えた。
◇
番台には、小さなロボットがいた。
料金を払い、靴をしまう。
脱衣所には、木の籠と、鍵のついた保管庫が並んでいた。壁の注意書きの一つは、装備を濡らさないようにというものだった。
セイアは場所を確かめ、荷物を収めた。
浴場の戸を開ける。
宿よりも、声がよく響いた。
桶を置く音。
湯を流す音。
挨拶をする声。
どれも大きすぎるわけではないが、人が使っている風呂だとはっきり分かる。
宿の前掛けの生徒は、すでに来ていた。
今は前掛けもなく、まとめ直した髪と、小さな手ぬぐいだけが見える。
目が合うと、軽く会釈をした。
「こんばんは」
「先に来ていたんだね」
「はい。そっちの湯船の方が、入りやすいと思います」
示された方へ行く。
セイアは掛け湯をして、ゆっくり入った。
宿とは、少し違う湯の感触だった。
同じ温泉街でも、温度や浴槽の形が違えば、身体の落ち着くところも違う。
生徒は少し離れた場所で、肩の力を抜いていた。
仕事の話はしなかった。
ほかの客から挨拶されると、短く返す。
ここでは、宿の人ではなく、風呂へ入りに来た一人だった。
◇
湯から上がると、生徒が入口脇の腰掛けに座っていた。
手には瓶入りの牛乳を持っている。
セイアも飲み物を買い、隣へ腰を下ろした。
冷たい瓶を持つと、掌が少し落ち着く。
蓋を開け、一口飲んだ。
喉を通る冷たさが、湯上がりの身体にはっきり分かった。
「昼間、足湯にも入りました?」
生徒が尋ねた。
「ああ。どちらから入れば熱すぎないか、教えてもらったよ」
「最初、湯口の方に座っちゃう人、多いんです」
「見事に、その一人だったわけだ」
生徒が笑った。
セイアも、瓶を置いて笑う。
戸の向こうから、また一人、客が出てきた。
濡れた髪を拭きながら二人へ挨拶し、外へ出る。
冷たい空気が、足元へ少し入ってきた。
「君は、明日も宿に?」
「明日は休みです」
「それはよかった」
「朝の電車で、下の街へ行くつもりで」
「何か用事があるのかい」
生徒は、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「映画を観るんです。三本」
セイアは瓶を持つ手を止めた。
「三本?」
「はい。時間がうまく繋がっていて。二本目のあとに、ご飯も食べられるので」
「よく考えられた休日だね」
「ここだと、そういうふうには観られないから」
生徒は自分の瓶のラベルを指でなぞった。
「たぶん帰ったら、何を観たか少し混ざると思いますけど」
「それも含めて、楽しみなのかな」
「はい」
迷わない返事だった。
◇
「セイアさんは、明日どこへ?」
宿で確認した名前を、そのまま呼んだのだろう。
役職は、つかなかった。
「まだ、きちんとは決めていない。上流の橋へ行ってみたいと思っているけれど」
「滝見橋ですか?」
「ああ」
「朝の方が、川の色がきれいですよ。山の上から日が入るので。道の途中に少し上りがありますけど、急がなければ」
「それから帰るつもりだよ」
「じゃあ、お昼までくらいですね」
生徒は頷いた。
少し間を置いて尋ねる。
「今日は、どのくらい回りました?」
セイアは指を折る代わりに、思い出した順に答えた。
「うどんを食べて、足湯へ入って、手ぬぐいを買った。そのあと宿の風呂へ入って……眠っていたね」
「お昼寝ですか」
「ああ。思ったより、長く」
生徒は、満足そうに笑った。
「お部屋、静かでした?」
セイアは少し考えた。
「川の音は、よく聞こえるね」
「あそこ、近いですから」
「けれど、眠れたよ」
「よかった」
その返事は、主人と同じだった。
昼の説明には、まだ少し慌てるところがあった生徒も、ここでは迷わなかった。
セイアは、瓶に残っていた牛乳を飲み終えた。
◇
外へ出ると、夜気が頬へ触れた。
二人で川沿いを少し歩く。
足音が、石の道に小さく響いた。
生徒の帰る道は、途中で分かれるという。
曲がり角に着くと、彼女は立ち止まった。
「それじゃあ。今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。明日の映画、楽しんでくるといい」
「はい。セイアさんも、ゆっくりしてください」
会釈を交わす。
生徒は細い坂道を上っていった。
少し先で一度振り返り、手を上げる。
セイアも、小さく返した。
明日の朝、宿で彼女に会うことはない。
自分が休んでいる間に働いていた人が、今度は出かける。
その行き先が、三本の映画を続けて観られる街であることを、セイアは知っていた。
それだけのことが、別れたあとも少し嬉しかった。
◇
宿へ戻ると、玄関の灯りは少し落とされていた。
主人へ挨拶をして、階段を上る。
廊下には、まだ食事の名残のような、薄い出汁の匂いがあった。
部屋へ入り、羽織を掛ける。
使った手ぬぐいを広げると、青い川の模様がはっきり見えた。
窓辺へ干して、布団へ座る。
足を伸ばしたところで、今日、思っていたよりも歩いていたことが分かった。
眠る前に、ナギサへ連絡した。
宿へ戻っている。
明日は予定通り帰る。
写真を一枚添えようとして、端末の中を見た。
昼のうどん。
橋から見た川。
窓の前の椅子。
いつもより、枚数が少なかった。
その中から、部屋の窓の写真を送る。
返ってきたのは、短い言葉だった。
『よいお部屋ですね。おやすみなさい』
セイアも同じように返し、端末を伏せた。
◇
明かりを消すと、川の音が大きくなった。
昼間から聞こえていた音だ。
けれど、窓の外が見えなくなり、部屋の中も暗くなると、どこまでが近くで、どこからが遠くなのかが曖昧になった。
岩へ当たる水。
少し細くなる音。
また、重なる音。
セイアは布団の中で向きを変えた。
昼寝をしたせいか、すぐには眠くならなかった。
外で、下駄の音がした。
二人分くらいの足音が橋を渡り、少しずつ遠ざかっていく。
階下で、戸の閉まる音。
それから、また川だけになった。
セイアは目を開けた。
暗い天井を見ても、することはない。
端末を取れば、いくらでも何かはできる。
明日の道を調べてもよい。
写真を整理してもよい。
けれど、手は伸ばさなかった。
枕の位置を少し直す。
足先は、まだ温かかった。
次にどちらへ向きを変えたのかは、覚えていなかった。
◇
朝は、川の音で始まった。
目を覚ましてから、すぐに自分のいる場所が分かった。
障子の向こうが白い。
時計を見ると、朝食まではまだ時間があった。
セイアは上体を起こした。
よく眠った。
夜中に一度くらい目を覚ましたような気もするが、それが何時だったかは分からない。
窓へ近づき、障子を開ける。
向かいの屋根が、薄い光の中にあった。
橋には、まだ影が落ちている。
山の上の方だけが明るかった。
川の色は、昨日の昼よりも深い。
窓辺の手ぬぐいを指で触る。
端の方は乾いていたが、畳み目にはまだ少し湿り気が残っていた。
◇
朝の浴場は、ほとんど無人だった。
湯船の表面を、窓の形の光が揺れている。
昨夜は共同浴場でいろいろな声を聞いたが、ここでは、湯の流れる音だけがした。
セイアは身体を流し、短く湯へ浸かった。
肩まで沈むと、寝起きの身体がゆっくり目を覚ます。
露天へ出ると、空気は昨日よりも冷たかった。
庭木の葉に、細かな水滴がついている。
枝の先から一滴、落ちた。
それを見たあとで顔を上げると、山の端に光が差していた。
まだ、今日のうちの何も食べていない。
どこも歩いていない。
それなのに、もう少し満足している。
セイアは両手で湯をすくい、指の間から落とした。
長く入りすぎる前に上がり、水を飲んだ。
廊下を戻る途中で、朝食の匂いがした。
今度は、はっきりと腹が空いていた。
◇
朝食の席には、白いご飯と味噌汁があった。
小さな焼き魚。
青菜のお浸し。
海苔。
漬物。
そして、蓋つきの器に温泉卵。
主人が急須を置いた。
「おはようございます。よくお休みになれましたか」
「ええ。……いや、ああ。よく眠れたよ」
寝起きの返事が、自分でも少しおかしかった。
主人は気にしなかった。
セイアは温泉卵の蓋を開けた。
淡い色の出汁の中に、白い卵が収まっている。
匙を入れると、白身が柔らかく崩れた。
黄身は、すぐには流れ出さない。
少しすくい、ご飯へ載せる。
出汁も少し。
口へ運ぶと、卵の濃さと米の甘さが重なった。
朝のうちから、ずいぶんよい組み合わせを見つけてしまった。
味噌汁を飲む。
大根が柔らかい。
焼き魚を少し食べ、今度は何も載せていないご飯へ戻る。
窓の外を、白い湯気が上がっていった。
◇
食事処には、ほかにも泊まり客がいた。
昨夜、風呂で会った生徒もいる。
目が合い、軽く会釈をした。
隣の席では、二人連れが今日の予定を話している。
もう一度風呂へ入ってから出るらしい。
別の席では、一人客が新聞を畳み、食事に手をつけた。
それぞれの朝だった。
セイアは茶碗を持ったまま、少しだけその気配を聞いていた。
自分も、その一席にいる。
昨日の朝には、列車の中にいた。
その違いを考えてから、もう一口、ご飯を食べた。
おかわりはしなかった。
お腹がちょうどよく満ちていることが、今日は分かった。
◇
荷物をまとめる前に、もう一度、窓の椅子へ座った。
着替えは鞄へ入っている。
使った浴衣も、ひとまとめにした。
本は、まだ卓の上にあった。
開くと、昨日より少し先に栞がある。
眠る前に、どこまで読んだのか。
少し見直して、思い出す。
セイアは一節だけ読んだ。
それから本を閉じた。
続きを読む時間は、帰りの列車にもある。
今は窓の外を見た。
橋の上を、早足の生徒が渡っていく。
鞄を肩へ掛け、駅の方へ向かっている。
遠く、顔まではよく分からなかった。
けれど髪のまとめ方に見覚えがある気がして、セイアは少しだけ身を乗り出した。
その生徒は振り返らず、坂の先へ消えた。
今日の映画は、何時からだったのだろう。
尋ねておけばよかったと思った。
そのあと、尋ねなかったことも、別に困ることではないと思い直した。
◇
会計を済ませ、午後まで荷物を預かってもらうことにした。
主人が控えを渡してくれる。
「上へ歩かれるんでしたね」
「ああ。滝見橋まで」
「道は少し湿っていますから、足元だけお気をつけて」
「ありがとう」
玄関で靴を履く。
昨日、ここへ着いた時よりも、靴の位置がすぐに分かった。
外へ出ると、宿の屋根から落ちる雫が一つ、石へ当たった。
川沿いの道を上流へ向かう。
店は、まだ開ける準備をしているところが多い。
暖簾を掛ける生徒。
台の上へ菓子を並べるロボット。
入口の掃き掃除。
夕方には片づけていたものが、今は順番に外へ出てきていた。
◇
宿の並びを抜けると、川沿いの道は少し細くなった。
石畳から、踏み固められた道へ変わる。
ところどころに板が渡され、足元の湿ったところを避けて歩けるようになっていた。
川は近い。
けれど、建物に挟まれていた時よりも、水音は散って聞こえた。
頭の上には木の葉がある。
その隙間から日が差し、地面に小さな明るい場所を作っている。
セイアは上着の前を少し緩めた。
上り坂を歩いていると、身体が温まってきた。
途中の腰掛けで水を飲む。
地図を見ると、滝見橋はもう近い。
畳んでしまい、また歩く。
曲がり角の向こうから、今までとは少し違う水音が聞こえた。
◇
滝は、大きくはなかった。
岩が段になっているところを、水が二つに分かれて落ちていた。
手前に、細い橋が渡されている。
セイアは、その中央へ立った。
上から来た水は、白くほどけ、岩の間でまた一つになる。
少し先では、何事もなかったように流れていた。
光が当たる場所だけ、底の石がはっきり見える。
昨日、浴場の帰りに話した生徒の言っていた通りだった。
朝の川の色は、きれいだった。
セイアは欄干へ手を置いた。
冷たい。
しばらく、流れる水を眺めた。
宿の窓から聞いていた音も、この先へ続いている。
同じ川だと分かっていても、見えるものも、聞こえる音も、場所によって違っていた。
端末を取り出す。
写真を一枚撮り、それから短い動画も撮った。
今度は、音も持って帰りたかった。
◇
戻る途中、温泉街へ向かう人とすれ違った。
昨日の自分と同じように、案内図を持っている。
橋へ行く道を尋ねられた。
セイアは、来た方を振り返る。
「この道をそのまま。途中の腰掛けを過ぎれば、もう近いよ」
「ありがとうございます」
相手が歩いていく。
セイアも坂を下り始めた。
道を教えたのは、ほんの一か所だった。
それでも、間違いなく自分で歩いて確かめた道だった。
そのことが、足元の石を少し見慣れたものにした。
◇
昼近くの温泉街には、湯気と一緒に食べ物の匂いが戻っていた。
昨日は外から眺めただけだった饅頭屋の前で、セイアは足を止めた。
せいろの蓋が開く。
白い湯気が一度、大きく上がった。
「蒸したて、ありますよ」
店員の生徒に声をかけられ、セイアは頷いた。
土産の箱を一つ。
それから、自分で食べるものを一つ。
受け取った饅頭は、紙越しでも温かかった。
店先の腰掛けへ座り、少し待ってから、二つに割る。
薄い皮の下に、餡が詰まっている。
割れ目から、新しい湯気が出た。
ひと口。
皮は、思っていたより弾力があった。
餡は柔らかく、甘さのあとに小豆の味が残る。
熱いので、急いでは食べられない。
セイアは半分を紙の上へ置き、通りを見た。
旅館の荷物を積んだロボットが、昨日と同じ坂を上っている。
足湯へ向かうらしい生徒たちが、タオルを買っていた。
店の前で、地図を広げた人が迷っている。
町は、昨日の昼へ戻ったようにも見えた。
けれど、自分は一晩、ここに泊まっていた。
暗くなった橋も、朝の空いた浴場も知っている。
セイアは、残りの饅頭を食べた。
◇
荷物を受け取りに宿へ戻ると、玄関には、来た時と違う生徒が座っていた。
控えを見せる。
鞄が出てくる。
主人も奥から顔を出し、礼を言ってくれた。
「こちらこそ、お世話になったね」
「橋の方は、いかがでしたか」
「よく見えたよ。朝に行って、よかった」
主人が頷いた。
セイアは鞄を持ち、もう一度、二階の方へ目を向けた。
自分のいた部屋は、ここからは見えない。
けれど、椅子の位置は覚えている。
卓の高さも。
窓の下に川が見える範囲も。
写真を見ていた時には分からなかったことが、いくつか残った。
玄関を出る。
橋を渡り、駅へ向かう坂を上り始めた。
◇
帰りの坂は、案内所で言われた通りだった。
荷物があると、少しずつ足に来る。
饅頭の箱と、射的でもらった煎餅も増えている。
セイアは途中で一度立ち止まり、鞄を持ち替えた。
「……帰りの私に、任せすぎたかな」
朝、駅で言ったことを思い出す。
幸い、列車までは余裕があった。
坂の途中から振り返ると、屋根の向こうに川が少し見えた。
白い湯気が、二か所から上がっている。
遠くの山は、昨日と同じように動かない。
セイアはもう少し眺めてから、また上り始めた。
◇
駅のホームには、日帰りの旅行者が何人かいた。
これから温泉街へ向かう人もいる。
大きな荷物を持たない二人連れが、改札の方へ足早に歩いていった。
セイアはベンチへ座り、水を飲んだ。
帰りの切符を確かめる。
列車は、時間通りにやってきた。
乗り込んで窓際へ座ると、今度は荷物を置く場所が少し狭かった。
箱をつぶさないように重ね、鞄を足元へ収める。
手ぬぐいだけは、まだ奥へしまわなかった。
畳み目に、わずかに湿り気が残っていたからだ。
小さな袋へ分け、口を閉じずに鞄の上へ置いた。
発車の音がする。
ホームが、ゆっくり動き出した。
◇
温泉街は、列車の窓からはほとんど見えなかった。
少しだけ屋根が現れ、そのあと、木々に隠れる。
川は見えた。
列車はしばらく川に沿い、それから別の方へ曲がった。
セイアは、見えなくなるまで目で追った。
昨日の朝と同じ車輪の音がする。
同じように、山の間を走っている。
けれど、足元の鞄には、使ったタオルと、着替えた服が入っていた。
宿の紙に書き留めた帰りの時刻。
少し折り目の増えた地図。
饅頭の箱。
どれも、出かける時にはなかった重さだった。
セイアは本を開いた。
今度は、栞のところから、迷わず読めた。
◇
乗り換え駅に着く頃、ミカから連絡が来た。
『帰ってくる?』
『今、乗り換えるところだよ』
『お饅頭あった?』
セイアは、鞄の上の箱を見た。
『あった。君の分もあるよ』
『やった!』
続いて、ナギサから到着時刻を尋ねられた。
次の列車を確認し、返信する。
それから少し考え、滝見橋で撮った動画を送った。
短い水の音。
白く落ちる流れ。
岩の上を動く光。
返事が来るまでに、少し間があった。
『音がよいですね』
セイアは、その一文を見た。
『宿でも、ずっと聞こえていたよ』
送ってから、端末をしまう。
言葉にして初めて、今はもう川の音がしないことに気づいた。
駅の放送。
隣のホームへ入ってくる列車。
靴音。
今いる場所の音が、代わりにあった。
◇
トリニティへ戻ったのは、夕方だった。
談話室には、ナギサとミカがいた。
セイアが菓子の箱を置くと、ミカはすぐに身を乗り出した。
「お帰り!」
「ただいま」
「温泉、どうだった?」
セイアは鞄を椅子の横へ置いた。
「よかったよ」
「何が一番?」
尋ねられ、少し考える。
風呂。
夕食。
朝の川。
夜の町。
どれも思い出せる。
けれど、最初に口へ出たのは、別のことだった。
「よく眠れた」
ミカが、少し驚いた顔をした。
ナギサは、茶器を置く手を止める。
それから、静かに微笑んだ。
「それは、よかったです」
「部屋、気に入ったんだ?」
ミカが尋ねる。
「ああ。椅子が、思っていた通りでね」
「椅子?」
セイアは端末を取り出し、写真を見せた。
窓。
丸い卓。
籐の椅子。
撮ったのは、帰る前だった。
写真の中には、誰も座っていない。
「ここで寝てたの?」
「少しだけ」
「少しだけって言いながら、結構寝てそう」
「……否定はしないよ」
ミカが笑った。
ナギサも、写真を見ながら少し笑った。
◇
饅頭を皿へ出し、お茶を淹れてもらった。
蒸したての時より、皮は少し落ち着いている。
割ると、餡がきれいに分かれた。
ミカが一口食べる。
「美味しい」
「向こうでは、温かいものも食べたよ」
「それ、絶対美味しいやつじゃん」
「ああ。熱くて、すぐには食べられなかったけれど」
ナギサは射的の煎餅の箱を見た。
「こちらも、お店で?」
「射的でもらったんだ」
ミカが顔を上げる。
「セイアちゃん、射的したの?」
「ああ」
「何狙ったの?」
「本当は、小さな招き猫だった」
「取れなかったんだ」
「少々、手強かったのでね」
ミカが笑い、ナギサも箱を手に取った。
うどんの話をした。
足湯の熱い側へ座ってしまったこと。
部屋へ戻ったら、夕方になっていたこと。
旅館で働いていた生徒が、今日は映画を三本観に行っていること。
「三本も?」
ミカが言った。
「私も、そう聞き返したよ」
セイアはお茶を飲んだ。
その生徒は今、何本目を観ているのだろう。
もう、二本目のあとの食事を済ませた頃かもしれない。
自分とは別の場所で、同じ休日の終わりへ向かっている。
セイアは、もう一口、饅頭を食べた。
◇
部屋へ戻り、荷物をほどいた。
着替えを出す。
地図を本の横へ置く。
手ぬぐいを取り出すと、石鹸と、乾ききらない布の匂いがした。
広げる。
白い布の中を、青い線が何本も曲がっている。
買った時には、ただ涼しそうな模様に見えた。
今は、その曲がり方を、少しだけ思い浮かべられる。
窓際へ干し、鞄を片づける。
いつもの部屋は、旅館より静かだった。
川の音はしない。
窓の外から、遠くの足音が聞こえる。
セイアは椅子を少し窓の方へ寄せた。
腰を下ろす。
籐の椅子とは、座り心地が違った。
それでも、背中を預けてみる。
夕方の光が、干した手ぬぐいを薄く透かしていた。
明日の用事を確かめるまでに、まだ少し時間がある。
セイアは、湯上がりの時と同じように、ゆっくり息を吐いた。
そして、しばらくそのまま座っていた。