空が裂けた。
そう語り継がれている。
今からおよそ八百年前、夜空を横切った四つの彗星を見た人々は、それを神の奇跡だと信じた。
人々はその星を【
願いを叶える。
そんな甘美な伝承とともに語られながら、実際に願いを果たした者は、ただの一人として確認されていない。
それは祝福ではなかった。
記憶を。
感情を。
認知を。
感覚を。
人が人であるために必要なものを、悪意ある手つきで奪い去っていく。
神意にも、災厄にも似た、理解不能の爪痕だった。
かつて【ルミナ】と呼ばれた大陸がある。
肥沃な大地と豊かな水脈を抱え、多くの者に理想郷と謳われたその地にも、彗星は流れた。
そしてその名は、いつしか別のものへと変わった。
【
理想郷は滅びた。
街は朽ち、人は消え、記憶だけが奪われた。
それでもなお、星に願う者は絶えなかった。
─────────
寒い。
最初に僕が感じたのは、それだった。
ひやりとした空気が肌を刺す。
思わず身を震わせながら目を開けると、視界に入ったのは崩れた民家の中だった。
壁は割れ、屋根は落ち、道はひびだらけ。
まるでずっと昔に捨てられた街みたいだった。
「うっ……!?」
起き上がろうとした瞬間、頭の奥を鋭い痛みが貫いた。
反射的に額を押さえ、片目をつむる。ずきずきと脈打つような痛みに、思わず声がでた。
それでもどうにか身体を起こし、辺りを見回しながら外へ出る。
……ここはどこだ。
どうして僕はこんな場所で倒れていた。
いや、それより──
「え……」
僕は、誰だ?
その瞬間、背筋が凍った。
思い出せない!
僕は焦って何かを思い出そうと必死に記憶の海にダイブしてみるが、何も思い出せなかった。
自分が何者で、どこから来て、何のためにここにいるのか。
そして自分の名前すらも。
せめて、何か一つでも手がかりが欲しかった。
息を呑みながら視線をさまよわせた先、崩れた壁の足元に、鈍く光るものが落ちているのが見えた。
……鏡?
表面には大きな亀裂が何本も走っている。
割れた破片の寄せ集めみたいなそれに、恐る恐る自分の顔を映しこむ。
「これが……僕……?」
そこに映っていたのは、僕の知らない少年がいた。
短く整っている
顔立ちは自分で言うのも変だけれど、少し女装をすれば女性と間違えられるかもしれない中性的な顔。
年齢は……たぶん、二十には届いていないそれよりも下、青年というよりは少年に近い僕は十代だと感じた。
何一つわからない。
この顔にも、この髪にも、この目にも、まるで見覚えがなかった。
鏡の向こうにいるのは確かに僕のはずなのに、まるで他人を見ているみたいだった。
『グルルルルルルッ!!』
「っ!?」
低く湿った唸り声に、動揺していた僕は現実に引き戻されるように、顔を上げた。
少し離れた場所に、それはいた。
狼に似た獣。
けれどただの狼じゃない。異様に発達した牙を剥き出しにし、開いた口の端からは唾液ではなく火の粉が散っている。
暗がりの中でぎらつく双眸は、獲物を前にした殺意そのものだった。
「魔物……!?」
その単語が、反射みたいに口をついて出た。
魔物、それは人類に無差別に襲いかかる敵であり、脅威そのものだ。
───どうしてわかる?
自分の名前すら思い出せないのに、どうして目の前の怪物を
これはどういうことなのか、記憶を全て失っているのであれば、あの敵意丸出しのモノが『魔物』というのは理解できないはずだ。
だけど僕は理解ができた。
そんな状況を整理していると、痺れを切らした魔物が地面を蹴る。
火の粉を散らしながら、一直線に僕へ飛びかかってきた。
避けられない。
そう思った瞬間、身体が強張り、僕は反射的に目を閉じた。
牙が喉笛を噛み砕く光景が、見てもいないのに脳裏へ浮かぶ。
だが───痛みは来なかった。
『───ギャン!?』
代わりに響いたのは、何かが押し潰されるような鈍い音と、短い断末魔。
恐る恐る目を開けてみると、僕に飛びかかってきたはずの魔物は、跡形もなく消えていて、骨も肉も原形を失い、血溜まりに変わり果てていた。
まるで見えない大きな何かに、
「お怪我はございませんか?」
月明かりを受けたその姿は、ただ美しいという言葉だけでは足りなかった。
長く艶やかな髪は夜そのものを溶かしたように背を流れ、黒を基調とした装いには白いエプロンと手袋が添えられている。
給仕のような服装だったが、この荒廃した町の中でも不思議と場違いには見えない。
彼女の紫の瞳は、まっすぐに僕だけを映していた。
「あ、あなたは……?い、いや、その前に……助けてくれて、ありがとうございました!」
「いえ、お怪我がなさそうでよかったでございます」
僕に怪我がないことがわかると、瞳細めて笑ってくれた。
月明かりに照らされながら、その綺麗な顔を僕に向けられていると思うと、ドキッとしてしまい僕は顔を赤くしてしまった。
「
その女性が僕の顔を見ながら、そう呼んだ。
この場には僕と彼女しかいない。
僕の顔を見ながらそう告げるということは、レイというのは僕の名前……!?
ということは、僕が誰なのかを知っている!?
「あの!!僕何にも覚えていなくて!!ここがどこなのか!僕が誰なのかすら覚えてないんです!!あなたは何か知っているんですか!?」
縋るような気持ちのまま、思わず掴みかかりそうな勢いで詰め寄る。
けれど彼女はわずかに目を伏せ、申し訳なさそうに唇を開いた。
「申し訳ございません、
「え……?」
そんなはずはないと思った。
彼女が本当に記憶喪失なら、どうして僕の名前を知っているんだ。
困惑する僕に向かって、彼女は静かに続ける。
「
「命を懸けて!?」
紫の瞳が間近に迫る。長い睫毛、白い肌、整いすぎた顔立ちが僕の前に…!?
僕は反射的に一歩後ずさった。
「ち、近いです……!」
「失礼いたしました」
「い、いえ……」
「自己紹介がまだでしたね、
そう言って、スカートの裾を指先でつまみ、軽く頭を下げる。
その一連の動きはひどく美しく、まるで長い時間をかけて身体に染み込ませた作法そのものだった。
こんな綺麗な人が、僕に仕えていた……?
僕はいったい、どんな立場の人間だったんだろう。貴族とか、そういう類の人間だったのだろうか。
「えっと、アルフィール……さん?ちょっと聞いてもいいですか?」
「マナリルとお呼びください」
「いや!初対面の女性に名前呼びなんて!!」
「マナリルとお呼びください」
「うぐっ……」
穏やかな声色なのに、有無を言わせない圧がある。
しかもじり、とまた顔が近づいてきて、僕はたまらず視線を逸らした。
ちょっと強引というか、なんというか……。
「マナリル……さん……」
「まあ、今はこれで良しとしましょう」
どこか満足げに、けれど少しだけ物足りなさそうに、マナリルさんは小さく息をついた。
「マナリルさんは記憶喪失なんですよね?僕と同じく」
「はい、私も記憶喪失でございます」
「ならなぜ、僕の名前や僕に仕えていることを覚えているんですか?」
「それはわかりません。ただ───」
そこで彼女は言葉を切り、静かに空を見上げた。
つられるように僕も視線を上げる。
雲ひとつない夜空には、冴え冴えとした満月が浮かんでいた。白い光が廃墟の輪郭を淡くなぞり、壊れた家々に薄い影を落としている。
「目覚めて、記憶がなくなった私は、眠る貴方様を見た時守らなければいけないと心が言っていたんです」
「心が……?」
マナリルさんは小さく頷きながら「はい」と答えた。
「心が覚えているんです、頭の中が空っぽになっていても、私の心がレイ様を覚えていた」
マナリルさんは笑顔でそう告げた。
それはとても綺麗で、美しかった。
多分僕はこの微笑みを忘れることはない。
もう、忘れてはいけないとそう思ってしまった。
「わかるのはレイ様を守ること、辛うじて自分の名前とレイ様のお名前、そして自身の『魔法』のみでございます。
それでも十分と言えるのではないだろうか。
僕は言語やある程度の常識、それしか覚えていなかった、自分のこと、ましてや過去に自分に仕えていてくれただろう。
僕はマナリルさんの関係も忘れているんだ。
マナリルさんが凄いのか、それともお互いの記憶喪失は
どちらにせよ、今の時点では答えは出ない。
「マナリルさんは自分の『魔法』を覚えているんですね」
「はい、それを覚えていたというのか、
『魔法』
十五の年を迎えると、神の祝福とともに啓示を受け、各々の魔法を得る。
僕の知識ではここまでしかわからない。
元々ここまでしか知らないのか、それとも記憶喪失ですっぽ抜けてしまったのか。
それでも、僕がわかるのはここまでということ。
マナリルさんは歩き出した。
草むらを撫でる夜風が、さわさわと音を立てる。
月と星の光を浴びた草は銀色に揺れ、その向こうには崩れた町並みがどこまでも続いていた。
数歩進んだところで、マナリルさんがこちらを振り返り、控えめに手招きした。
僕は慌てて立ち上がり、駆け足でその隣へ並ぶ。
「私は【
マナリルさんは僕にそう決意を示してくれた。
僕たちは歩く。
何もない場所を。
いや───かつては確かに何かがあったはずなのに、今はもう人の存在だけが綺麗に消えた場所を。
「マナリルさん、ここどこかわかりますか?」
「ここはおそらく、大陸名は【ルミナ】別名、
「っ……じゃあ、僕たちが記憶喪失なのは……!」
「はい、おそらく【
『
その光を浴びたものは例外なく記憶を失われる。
忘却の彗星、そう呼ばれている。
「じゃあ人の気配や村や街が崩壊していたのも!」
「はい、この大陸に人が
歩きながら、マナリルさんはそう言った。
崩れた街。
朽ちた村。
どこまで進んでも、人の気配がひとつもない。
月明かりのせいか、この景色は妙に綺麗で───だからこそ、逆に少しだけ怖かった。
「私たちはこの大陸から急いで出る必要があります」
「……この場所は、そんなに危険なんですか?」
「はい、もし
そう言って、マナリルさんは少しだけ俯いた。
その声はいつも通り落ち着いていたけど、どこか申し訳なさそうだった。
そんなことない、ってすぐに言いたかった。
だって、さっきだってそうだ。
あの恐ろしい魔物を、マナリルさんは一瞬で倒してみせた。
でも、その言葉を飲み込んだ。
何もできない僕が、口だけでそんなことを言っても、たぶん全然慰めにならない。
だから、何も言えなかった。
正直に言えば、この場所がそこまで危険だという実感は薄かった。
もちろん、人が誰もいないのは不気味だけど……
でも、人がいないなら盗賊に襲われることもないだろうし、もし魔物が出てきたとしても、マナリルさんにはあの『魔法』がある。
あれだけ強ければ、大体なんとかできてしまうんじゃないか━━━そんな甘い考えが、頭の隅に浮かんでしまう。
「確かに、私の魔法はとても強力です」
「心読めるの!?」
びっくりして、上擦った声が出た。
マナリルさんは前を向いたまま、少しだけ口元を緩める。
「まあ、レイ様のことなら大体は……」
「何それ怖い!!」
マナリルさんは先に急ぎながら、僕にそう言う。
いや!怖いんですけど……!?
「これも愛がなすパワーですね」
「愛ってすごいっ!!」
そんな冗談は置いておいて、やはりこの場所は危険だと僕は思えなかった。
こんなにも綺麗なのに、人が住んでいないなんて、どこか現実味がなくて、ここが本当に災厄の爪痕だなんて、まだうまく信じきれなかった。
「まずはこの大陸を越え、近くの街まで避難いたしましょう。お話はそれからでございます」
「あ、はい!!」
マナリルさんが歩く速さを少し上げる。
僕も慌ててその後を追いかけた。
長い黒髪が月明かりを受けて揺れていて、今の僕にとって、その後ろ姿だけが唯一の道しるべだった。