どれほど歩いただろう。
もちろん、まったく休まず進み続けたわけじゃない。
途中で休憩を挟み、身を隠せそうな場所を見つけては短く眠った。
けれど、それはあくまで最低限の休息でしかなく、身体に溜まっていく疲労はじわじわと確実に重なっていった。
僕は『魔法』が使えない。
だから休んでいるあいだも、周囲の警戒はすべてマナリルさんが担ってくれていた。
僕が仮眠から目を覚ましたあと、気になって「マナリルさんも少しは眠れたんですか」と尋ねた。
そのとき彼女は、いつもの穏やかな笑みを浮かべて「少しだけ仮眠いたしましたので、ご心配には及びません」と言った。
でも、それが嘘だということくらい、僕にだってわかった。
その後歩みを進めて、荒廃した街を超え、崩れた村を抜け、丘を越えた。
その道中で魔物と遭遇することも、一度や二度じゃなかった。
魔物と接敵するたび、僕を庇うようにマナリルさんが魔法で戦ってくれる。
彼女が強いことはわかっているけど。
けれど、強いから疲れないわけじゃない。
むしろ戦うたびに消耗しているはずなのに、僕はその後ろで息を潜めることしかできなかった。
僕は戦うことができない、そんな自分の弱さを呪った。
ちょうど丸一日ほどが経ったころ、昨夜はあれほど鮮明だった満月も、今夜は厚い雲に隠されていた。
「マナリルさん……ごめんなさい……」
歩きながら、僕はぽつりとそう零した。
「何を謝っているのですか?」
「……僕が何もできないせいで、負担を全部押し付けてしまって……」
言葉にした途端、情けなさがいっそう強くなる。
自分でもわかっていた、謝ったところで何かが変わるわけじゃない。
けれど、何も言わないままでいるほうが、もっと耐えられなかった。
「ふふっ、そんなことですか」
「え?」
笑われるとは思っていなかった僕は、思わず間の抜けた声を出してしまった。
マナリルさんは、呆れるでもなく、馬鹿にするでもなく、ただ少しだけおかしそうに目を細めていた。
「私わたくしは嬉しいですよ」
「……嬉しい?」
「はい。レイ様のお役に立てていると、ちゃんと実感できますから」
そう言って、マナリルさんは柔らかく笑った。
僕とマナリルさんは、昨日出会ったばかりだ。
いや、本当はもっと前から知っていたのかもしれないけれど。
だけど僕もマナリルさんも、そのことを覚えていない。
それは悲しいことだけど事実だ。
でも───それでも。
記憶があった頃の僕たちも、きっとこんなふうに話していたんじゃないかって思った。
こうして笑って、少し困って、同じ景色を見ながら言葉を交わしていたんじゃないかって。
そうじゃなきゃ、こんなに早く笑い合えるわけがない。
根拠なんて何もない。
ただの都合のいい想像かもしれない。
それでも、そうだったらいいなって思った。
「マナリルさん」
「はい、レイ様」
「僕は……魔法のことまで忘れてしまってるんですか?」
ずっと胸の中に引っかかっていたことを、ようやく口に出した。
今の僕にとって、それが一番大きかった。
魔法が使えれば、少なくともマナリルさんに全部を背負わせずにすむかもしれない。
でも現実には、僕は魔法を使えない。
「考えられることは三つございます」
そう言って、マナリルさんは僕の前にすっと三本の指を立てた。
「一つ目は、レイ様のおっしゃる通り、魔法そのものを忘れてしまっている可能性。二つ目は、魔法の存在自体は覚えていても、記憶喪失の影響で使い方を忘れている可能性。そして三つ目は、まだ魔法が発現していない可能性でございます」
思わず目を丸くした。
その発想はなかった。
僕はこの一日ずっと、魔法を忘れたのか、使い方を忘れているのか、その二つばかり考えていた。
でも、そもそもまだ持っていない可能性だってあるのか。
「はい。レイ様はまだお若く見えます。……それはもう、食べてしまいたくなるほどに」
「……え゛」
何かちょっと聞き捨てならないことが混ざった気がした。
え、いま絶対さらっと怖いこと言わなかった?
言ったよね?
でもマナリルさんはいつも通りの綺麗な笑顔のままだし、僕の聞き間違いみたいな空気になっている。
……うん、聞こえなかったことにしよう。
たぶんその方がいい。絶対その方がいい。
「魔法は十五の年に発現いたします。ですが、誕生日を迎えた瞬間というわけではございません。同じ十五でも、早い方もいれば遅い方もおります」
その年のどこかで発現するものだとは知らなかった。
じゃあ、僕はまだ魔法を持っていないのかもしれない。
……いや、でも。
結局、今の僕は何もできない。
その事実だけが、重く胸の中に残る。
「大丈夫でございます」
ふいに、マナリルさんの声がやわらかく落ちてきた。
「レイ様だけは、この命に代えても
その声音は、慰めるようでいて、でもただ優しいだけじゃなかった。
そこには揺るがない決意みたいなものがあった。
そんなふうに言ってもらえるのは、嬉しい。
嬉しいけどやっぱり悔しかった。
守られてばかりだ。
僕はずっと、守られてばかりいる。
そのときだった。
『ガアアアアアアッッ!!』
空気を引き裂くような咆哮が、いきなり響いた。
「っっ!?」
身体がびくっと跳ねる。
考えるより先に、マナリルさんが動いていた。
「下がってください!!」
強く腕を押され、僕は後方へよろめく。
ただ押された僕に怪我はない。
けれどその一瞬の差で、前に出たマナリルさんの肩を、狼のような魔物の鋭い爪が掠めていった。
布が裂ける音。
次の瞬間、黒い服にじわっと赤が滲む。
マナリルさんは眉ひとつ動かさない。
むしろ紫の瞳には、さっきまでの穏やかさが嘘みたいに冷たい光が宿っていた。
「【潰れなさい】!!」
『ギィッッ!?』
直後、魔物の身体が地面へ叩きつけられる。
前に見たときより、明らかに強い。
魔物は血溜まりだけを残して、魔物は完全に動かなくなった。
「マナリルさん!!」
「私は大丈夫でございます。それより、レイ様はお怪我ありませんか?」
肩から血を滲ませているのに、マナリルさんは真っ先に僕の心配をした。
傷ついているのはマナリルさんなのに、気にかけられているのは僕の方だ。
でも、そんなことを言っていられる状況じゃなかった。
目の前の魔物は、一匹じゃなかった。
「……え」
息が止まりそうになった。
僕たちの見える範囲、そのほとんどすべてに、狼型の魔物がいた。
道の上にも、崩れた家の影にも、瓦礫の向こうにも、丘の斜面にも。
黒い獣の群れが、
多い、なんてもんじゃない。
それは群れというより、軍隊みたいだった。
整列している。
まるで最初から僕たちを待ち構えていたみたいに。
「レイ様……私が時間を稼ぎます。その隙にお逃げください」
「そんな!!マナリルさんは!?」
「レイ様を逃したあと、私もすぐに退きます。ですから、どうか」
嘘だ。
まだたった一日しか一緒にいない。
なのに、マナリルさんがいま嘘をついたことだけは、すぐにわかった。
僕を逃がすために、ここに残るつもりなんだ。
一緒に戦います、なんて言葉は僕の口からは出なかった。
───僕に何ができる?
何もできない。
ここにいたって足手まといになるだけかもしれない。
マナリルさんの邪魔になるだけかもしれない。
『グオオオオオオッッ!!』
「行ってっ!!」
その言葉と同時に、マナリルさんは魔物の群れへ向かって駆け出した。
黒髪が翻る。
細い背中が、無数の魔物に向かっていく。
その姿が、ひどく小さく見えた。
「っ……!」
僕はその場に立ち尽くした。
逃げるのか?
本当に?
このまま?
額から汗が流れる。
呼吸が浅い。心臓の音がうるさい。頭の中がぐちゃぐちゃで、何を考えればいいのかもわからない。
そのときだった。
頭の奥で、声がした。
───お前に何ができる。魔法も使えないくせに。
びくっと肩が揺れる。
違う。
これは誰かの声じゃない。
僕自身だ。
情けなくて、臆病で、逃げたいと思ってる自分が、勝手に喋ってるだけだ。
───あいつの言う通り逃げろ。あんな女、放っておけばいい。
「……っ」
そんなこと、できるわけない。
でも、どうすればいい?
何か方法はないのか?
考えろ。考えろよ、僕……!
───ない。お前みたいな役立たずに、何ができる。
見ろ、あの数だ。
せっかく逃げる隙を作ってもらったのに、お前はそれすら無駄にしてる。
うるさい!
そんなの、僕が一番わかってる。
わかってる……!
僕が魔法を使えないから、こうなってるのか……?
───そうだ。お前に力がないからだ。
その言葉は、ずるいくらい胸に刺さった。
でも、次の瞬間。
ふっと別の考えが浮かんだ。
……本当に、そうなのか?
魔法が使えないから?
力がないから?
だから何もできない?
違う。
それを言い訳にしてるだけだ。
昨日からずっと、僕はそうだった。
戦えない理由を探して、できない理由を並べて、仕方ないって顔をして。
魔法がないから、記憶がないから、弱いから。
そうやって、自分を納得させようとしてただけだ。
───戻ったって足手まといが増えるだけだ。
そうかもしれない。
戻ったところで何もできなくて、結局マナリルさんの邪魔になるだけかもしれない。
でも。
それでも。
助けたい。
頭より先に、その気持ちが出てきた。
うまく説明なんてできない。勝てる方法もわからない。何をすればいいかもまだわからない。
けど、助けたいんだ。
───お前は本当に馬鹿だな。
うん、そうかもしれない。
記憶を失って、自分が何者かもわからなくて、魔法も使えなくて。
そんな僕が、たった一人の女の子も見捨てられないなんて、きっとどうしようもない大馬鹿だ。
でも───
それが僕だ。
たとえ何も思い出せなくても。
たとえ弱くても。
ここで背中を向けたら、きっと僕は僕じゃなくなる。
だったら、馬鹿でいい。
大馬鹿者でいいから、僕は───
「助けます……!」
震える足に力を入れる。
胸の奥で暴れていた怖さを、無理やり押し込める。
都合のいい妄想でも、綺麗事でもなんでもよかった。
ようやく、決められた。
僕は一人の女の子を助けたいだけなんだ。
僕は駆け出した。