噛み裂かれた肩からは、絶えず血が噴き出していた。
背中には焼け
呼吸をするだけで肺の奥が
【
そしてレイたちが今いるのは、そのひとつ───【
それは、人の生存を許されぬ封鎖の大地。
近づいてはならないと、誰もが知る災厄の領域だった。
危険であることは理解していた。
だが、記憶を失っている今のマナリルには、それをただ知識としてしか
だが、いまならわかる。
記憶を失った自分が、力を満足に扱えない自分が、決して立っていてよい場所ではなかった。
「っっ……!【潰れなさい】!!」
迫り来る狼型の魔物の群れが、重力によって地へ沈む。
数匹まとめて仕留めたはずなのに、次の瞬間にはその隙間を埋めるように、さらに新たな魔物が牙を剥いて押し寄せてくる。
「はっ……はっ……」
マナリルは肩で息をした。
肺が焼けつくように苦しい、視界の端がじわじわと暗く
息を整える
もし、自分が万全であったなら。
もし、記憶を失っていなければ。
もし、この力を完全に扱えていたなら。
そんな考えが一瞬よぎる。
だが、そんな過程は必要ない。
失ったものを悔やんでも、この場を覆す力にはならない。
「がっ……!!」
不意に背後から
死角から迫った魔物が吐き出した業火が、彼女の背をまともに焼いた。
服地が焦げ、皮膚を
遅れて激痛が神経を焼き、膝が地面へ落ちる。
限界だった。
一日中、周囲を警戒しながら進み続け、そのうえで戦い続けた。
休息などほとんどない。
回復する余地もないまま、彼女はただレイを守るためだけに立ち続けてきた。
その果てが、いまのこの姿だった。
(……レイ様は、逃げられただろうか)
地面に伏したまま、マナリルの脳裏に浮かぶのは、自分自身の痛みではない。
記憶を失い、何もわからぬまま目を覚ました少年の顔だった。
不安だったはずだ。
怖かったはずだ。
何ひとつ思い出せず、知らない世界に放り出されて、それでも彼は自分のことより他人の心配をしていた。
なんて優しい方なのだろう、とマナリルは思う。
あのような人が、ここで死んではならない。
自分のことなどどうなってもいい。
だが、あの少年だけは生かさなければならない。
視界の先に、一匹の魔物がゆっくりと近づいてくる。
鋭い牙が白く光った。
避けられない。
そう悟った瞬間、マナリルは静かに目を閉じた。
『ガアァァ!?』
だが、訪れるはずの終わりは来なかった。
代わりに響いたのは、魔物の
「はああああああっっ!!」
少年の叫びが、夜気を切り裂く。
マナリルが弾かれたように目を開くと、そこには
片手には護身用として渡したマナリルの短剣。
握り方も踏み込みも、到底手慣れているとは言えない。
それでも、その刃は運よく魔物の首元へ深く突き立っていた。
喉を裂かれ、血を噴き上げながら地面へ崩れ落ちる。
荒い呼吸。
震える肩。
明らかに恐怖を抱えながら、それでも彼はここへ戻ってきたのだ。
「大丈夫ですか!!マナリルさん!!」
マナリルの紫の瞳が大きく揺れる。
「どうして……」
「どうして助けに来たんですか!!」
彼を逃がすために、自分はここへ残ったはずだった。
それなのに。
それなのに、彼は戻ってきてしまった。
無謀で、愚かで、どうしようもなく危うい。
それでも、その姿は眩しいほどまっすぐだった。
「助けたいって、そう思ってしまったから」
レイは、まっすぐな声でそう言った。
そこに理屈はなかった。
助ける策など何ひとつ持っていない。
短剣ひとつ握っただけの少年に、この絶望的な戦場を覆せるだけの力があるはずもなかった。
それでも、ただ助けたいと思ってしまった。
その気持ちだけを抱えて、彼はここへ戻ってきた
「貴方が来たところで
「知ってます」
「力も魔法もない貴方がきても何も変わらない!!」
「その通りです」
返答に迷いはなかった。
取り
ただ事実を事実として受け止めたうえで、それでもなお彼はここに立っていた。
その姿が、かえってマナリルの胸を締めつける。
彼女の叫びは、敬意を含んだ言葉遣いではなく、責めるように、突き放すように叫んでいた。
それでもレイは、彼女の言葉を一つとして否定しなかった。
それは、揺るがない真実だったから
自分は弱い。
自分がいても、役に立たないかもしれない。
そのすべてを、彼自身が誰より理解していた。
「私は……っ」
マナリルの喉が震えた。
魔物の
「私は、レイ様だけには生きていてほしいって思ったのに!!」
感情が
紫の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
夜の光を宿した
いままで取り繕ってきた気丈さも、完璧な給仕としての落ち着きも、その一言とともに崩れていく。
彼女は怖かったのだ。
自分が傷つくことではない。
レイが死ぬことが、たまらなく怖かった。
記憶を失っても覚えている彼というのは、彼女にとっては生き
レイだから命をかけることができた。
あの優しい少年だから、生きてほしいと願ったのに。
それを知ったとき、レイは───笑った。
「なら、一緒に生きましょう」
「!!」
その一言に、マナリルの目が大きく見開かれる。
それは、彼女の願いへの答えだった。
レイだけが生きるのではない。
彼女だけが犠牲になるのでもない。
どちらか片方を切り捨てるのではなく、二人で生き残る。
あまりにも子供じみていて、あまりにも難しくて、けれどひどくまっすぐな願いだった。
「僕はわがままだから」
レイはそう言って、小さく笑う。
その顔には恐怖の色がまだ残っていた。
手にした短剣は震えているし、肩も呼吸も落ち着いてはいない。
それでも、その瞳だけは驚くほど
「マナリルさんともっと一緒にいたいって、そう思っちゃったんです」
戦場の
「マナリルさんが冗談を言って、僕が動揺して、それでお互いの顔を見て笑い合って……そんな日々を、あなたと一緒に過ごしたい」
ただ、少年が少年らしいまま口にした、子供じみた願いだった。
だが、そのあまりに飾らない言葉こそが、マナリルの心の奥深くへまっすぐ届いた。
レイは彼女の瞳から目を離さなかった。
「けど、僕は弱いから……この状況を、僕一人じゃ切り抜けられない」
その言葉には、自嘲も見栄もなかった。
そして彼は、血と土に汚れたマナリルへ向けて、そっと手を差し伸べる。
「だから、僕を助けてくれませんか?───僕のメイドさん」
息が止まりそうになる。
大きく見開かれた紫の瞳が、目の前の少年を映す。
守られるだけだったはずの少年が。
今、彼女を置いていかないために、彼女を一人にしないために、そこに立っている。
レイを守らなければならないという想い。
命を
過去もわからないまま、それだけを頼りに立ち続けてきた。
けれど今、その一方通行だったはずの想いに、彼が手を伸ばしてくれている。
一緒にいたいのだと。
そんなふうに求められることが、こんなにも胸が苦しくて、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
マナリルは震える指先で目元を拭った。
泣いている場合ではない。
こんな場所で、こんな状況で、立ち止まっている暇などない。
彼の伸ばされた、大きくない手。
少し震えていて、頼りない。
彼は強いから差し伸べているのではない。
ただ助けたい。
一緒にいたい。
彼にはそれしかなかった。
それがたまらなく愛おしかった。
ゆっくりと、マナリルはその手に指先を重ねる。
「本当に……」
「本当に
この手を離したくない。
胸の奥が、どうしようもなく甘く痛んだ。
この人の傍にいたい。
この人に呼ばれたい。
この人が笑うなら、そのすぐ近くで見ていたい。
そんな願いが、静かに、それでいて抗えないほど強く、彼女の内側に
もっと近く、もっと深く、この人の特別になりたいと───そう願ってしまうほどに。
─────────
マナリルさんの指先が、震えながら僕の手に触れた。
その手を、僕はぎゅっと握り返す。
細い指。
冷たいはずなのに、なぜか胸の奥だけが熱かった。
だけど、そんな時間はほんの一瞬しか続かなかった。
『グルルルルルル……!!』
低い
僕ははっとして顔を上げた。
前にも、後ろにも、横にも。
崩れた家の影にも、瓦礫の隙間にも、草の揺れる丘の
黒い狼型の魔物が、隙間なく僕たちを囲んでいた。
黄色く濁った目が、ぎらぎらと光っていた。
牙の隙間からは熱い息が漏れ、喉の奥では今にも飛びかかってきそうな
僕たちにすぐ襲い掛からなかったのは、僕という異物が紛れ込んできたから。
そしてこの行動で、僕は理解した。
この魔物は統率されていて、賢い。
最初からずっとおかしかったんだ。
一度に全部で押し潰せばいいはずなのに、そうはしなかった。
少しずつ現れて、少しずつ襲ってきて、休む暇も考える暇も与えないまま、じわじわと僕たちを削っていった。
まるで、僕たちの力を測るように。
そして確実に仕留めるために、狩り場へ追い込んだ。
それに気づいたのはマナリルさんだった。
僕はそのとき、ただ必死についていくだけで、言われて初めて理解したけど。
だけど予想外があった、僕という存在だ。
弱いくせに、介入してきた異物は同胞を仕留めた僕を警戒している。
群れの狩りを乱した、予想外の存在。
だから、すぐには襲って来なかった。
一度下がって、今度こそ確実に仕留める。
そんな意図が、あの濁った目の奥にある気がした。
僕は短剣を握る手に力を込めた。 冷や汗で、柄がぬるりと滑りそうになる。
打開策なんてなかった。
考えても考えても、何も浮かばない。
逃げ道はもう塞がれている。
マナリルさんは傷だらけで、立っているだけでも痛むはずだ。
僕は短剣一本あるだけで、まともに戦えるわけじゃない。
つまり───ここで終わりなんだ、と。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、背中を冷たいものが這った。
嫌だった。
そんなふうに考えてしまった自分が、たまらなく嫌だった。
けど、現実は変わらない。
僕が何を思おうと、囲んでいる魔物の数は減らないし、マナリルさんの傷が軽くなるわけでもない。 助かる方法なんて、どうしても見つからなかった。
死ぬのかもしれない。
僕も。マナリルさんも。
ここで、何もわからないまま。
喉の奥がきゅっと狭くなる。 息が浅い。 心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。
怖い。
当たり前だ。
死ぬのなんて怖いに決まってる。
まして僕は、自分が何者なのかも知らない。 どうしてここにいるのかもわからない。
取り戻していないものばかりなのに、こんなところで終わるなんて、あまりにもひどい。
だけど。
それ以上に嫌だったのは、僕のせいでマナリルさんまで死ぬことだった。
「……レイ様」
マナリルさんが、僕を
肩で荒く息をしている。
服は裂け、傷口から
足元だってもうふらついているのに、それでも彼女は前に出る。
僕を守るために。
その背中を見た瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
駄目だ。
そんなの、絶対に駄目だ。
ここまでずっと守られてきた。
助けられてきた、何もできないまま、僕はただ彼女の後ろにいた。
それなのに最後まで、全部をマナリルさんに背負わせるなんて。
そんなのだけは、嫌だった。
「僕も……戦います」
僕も一歩前に出る。
今度はマナリルさんの隣に、僕は立った。
一瞬マナリルさんは僕を止めようとしたが、ゆっくり笑って前を向き直した。
群れの一匹が、ぐっと前脚を沈める。
黄色い目が、僕たちを
来る。
そう思った瞬間、右側の陰から別の一匹が跳んだ。
「っ!」
速い。
黒い影が、まっすぐマナリルさんへ食らいつこうと迫る。 傷ついた彼女じゃ、避けきれない。
考えるより先に、身体が動いていた。
「マナリルさん!!」
叫んで、僕は地面を蹴る。
足がもつれそうになる。
それでも無理やり前へ出て、彼女の身体を押すみたいにして庇った。
視界の端で、マナリルさんの紫の瞳が大きく見開かれる。
次の瞬間には、もう目の前に牙があった。
生臭い息。濁った黄色い目。開いた口の奥に並ぶ鋭い牙。
喉の奥から漏れる低い
死ぬ。
今度こそ、本当にそう思った。
「───させない」
その瞬間。
澄み切った音が、夜気を裂いた。
「───え?」
目の前を、白金の光が走った。
それは
白金の輝きを
刃には星の粒そのものが宿っているみたいに、無数の光が揺れていた。
次の瞬間、飛びかかってきた魔物の身体が真横へ弾け飛ぶ。
『オオオォ!?』
その光の先に───一人の男性が立っていた。
月明かりを受けて揺れる金髪、高い背丈。
細身なのに、無駄のない身体。
その横顔は驚くほど端正で、洗練されていた。
ただ立っているだけなのに、その場の空気ごと変えてしまうような存在感があった。
手にした剣には、なおも白金の光が
星の粒そのものが刃に宿り、脈打つように
そして背中は、圧倒的だった。
その人は、僕たちを庇うように一歩前へ出る。
「もう大丈夫だ」
低すぎず、よく通る声だった。
彼は剣を軽く構え直し、群れを見据える。
群れの奥からひときわ鋭い
『ガァアアアアアアアッ!!』
空気が震える。
それを合図にするみたいに、黒い狼型の魔物たちが一斉に地を蹴った。
前から、横から、崩れた家の陰から。
さっきまで様子を窺っていた群れが、今度こそ仕留めるとでも言うみたいに、牙を剥いて殺到する。
その圧倒的な存在感を放つ彼は、ただ静かに剣を握り、刃に宿る
まるで夜の闇で、星が瞬くみたいに。
「はッッ!!」
一振りだった。
視界が白金に塗り替えられた。
刃が描いた
剣に宿っていた無数の
視界の端から端までいた魔物たちが、まとめてその光の中へ消えていく。 黒い毛皮も、牙も、濁った目も、
『──────ッ!!』
声にならない悲鳴だけが、かすかに耳へ残る。
あれは斬った、というより違った。
薙ぎ払ったんだ。
絶望ごと、死の気配ごと。
僕たちを囲んでいた夜そのものを、まとめて一閃で消し飛ばしたみたいに。
さっきまで逃げ場なく僕たちを囲んでいたはずなのに。 今のたった一振りだけで、群れの八割近くが消滅していた。
残った魔物が低く唸る。
やがて群れは、一歩、また一歩と後ずさる。
そして次の瞬間、残った影は夜の闇へ溶けるように散っていった。
まるで最初からそこにいなかったみたいに、黒い影は次々と消えていく。
相手が退いたと見ると、その人はようやく剣を下ろし、彼は、剣を腰の鞘へ静かに収める。
「……ふぅ」
僕は、呆然とその背中を見つめていた。
圧倒的だった。
強い、なんて言葉じゃ足りない。 すごい、だけでも全然足りない。
あれだけ絶望みたいに思えた光景を、この人はたった一振りでひっくり返してしまった。
圧倒的な力。 圧倒的な存在。
その背中は、夜の中でひどく眩しく見えた。 僕たちを助けるために立つその姿が、どうしようもなく胸に焼きついた。
僕は思う。
英雄って、きっとこういう人のことを言うんだ。
胸の奥が、熱かった。
たぶん、この瞬間を僕は一生忘れない。
僕は彼に憧れた。