亀更新ですが、感想などよろしければお願いします。
白い化け物に両親が殺される様を見たときに感じたのは、納得感と安堵だった。
家庭環境は最悪ではないが、決して良くはなかった。親から話しかけられることはなく、目が合ってもすぐに逸らされる。食事は与えられなかったが金は渡されていたので、コンビニやスーパーの総菜で食い繋いだ。服を買い与えられることもないので、使い古した服をずっと身に着けた。おかげで友人もいなかったが、今となってはどうでもいいことだ。
ある日、空から化け物が降ってきた。母は降ってきた影響で崩れた建物の下敷きになって死に、父は化け物に胸を貫かれて死んだ。
俺はその光景を目に焼き付けて、それから背を向けて走った。死にたくないわけじゃなかったけど、今死ぬとあの世で両親と顔を合わせてしまうような気がして嫌だったから、全力で逃げた。
生まれついてから悩まされ続けた変な能力も、この時は大いに役に立った。それでも子供の脚では化け物から逃げることは難しい。足を貫かれて動けないところを、裾の長いコートを羽織った男に助けられた。救急車に乗せられたところで気絶してしまったので、その後のことはわからない。気付けば消毒液のにおいがする白い部屋のベッドで眠っていた。
ぼんやりと曇り空を眺めながら、今後どうしようかと思いを巡らせる。
戸籍上の親は死に、身寄りはない。親戚は一応いるが顔を合わせた記憶はないから望み薄だ。一人暮らしはできる。今までとそう変わらないから。
問題は俺の年齢だ。今は13歳。社会的には何の衒いもない子供だ。働くこともままならない。金はなく、住む場所もさっき消えた。どうすべきか悶々と考えていた時、病室の入り口が開いた。反射的に目を向けると、見覚えのない女性がいた。
「錬太郎君?お姉さんのこと覚えてる?」
小さく手を振る女性に見覚えはない。どこかで会ったのかもしれないがあいにく記憶には残っていなかった。
「う、そっか。そうよね、最後に会ったの、まだあなたが4歳とかだったし」
幼少期に会っていたなら覚えていなくても無理はない。そう自分を納得させる。それでも非礼であることに変わりはないのでとりあえず頭を下げておく。こうしておけば大抵のことは流せたから。
「ごめんなさい。どちら様ですか」
「いやいや、謝らないで!ちっちゃい頃のことだもの、覚えてなくて当然よ!じゃあ、まずは自己紹介ね。私は沢村響子。あなたのいとこです」
「……いとこ、いたんですね」
「そうよ。あなたのおうちがあまり親戚の集まりに顔を出さなかったから、わからなくても無理ないわね。にしても、大きくなったわね」
わさわさと頭を撫でられる。覚えのない感触に若干戸惑いつつ、目の前の女性を見つめる。
綺麗な人だ。その顔にはわずかに隈が見て取れる。化粧で隠してはいるものの、疲れた表情は隠せていない。それもそうだろう。こんなわけもわからない災害に巻き込まれては疲れない方がおかしい。
「それで、ご用件はなんですか。結構お疲れみたいですが」
「あら、やっぱりわかっちゃうものね。……あなたも見たでしょう?あの化け物。私の家族はみんな無事だったけど、友達とかが結構被害受けてるみたいでね。家も壊れちゃって、しばらく休めていないの」
ふぅ、とため息を吐く彼女の表情には憂いが混じる。
「なら、なんで俺のところに?ほとんど関わりのない親戚の子供なんか、気にしてる余裕ないでしょう」
「……それはね、あなたの今後について話しておく必要があったからなの」
「……今後?」
要はどこの施設へ行くかとかそういう話だろう。身の振り方を選べるほどの自由は俺にない。
「あなたのご両親がお亡くなりになったでしょう?それでね、あなたが良ければ、私が引き取ろうかと思うの」
「……え?」
「いくら大人びているとはいえ、まだ十四歳でしょう?……あなたの家庭環境については、私の母からも聞いていたし、たぶん一人でも生きていけるとは思う。それでも、頼れる大人の一人くらいはそばにいたほうがいいじゃない?」
ぱか、と間抜けに口を開けて呆ける俺を横目に見ながら、それに、と続ける。
「これを機に一人暮らしでもしようと思ったんだけど、やっぱりちょっと寂しくて。あなたさえよければ、一緒に暮らさない?」
差し伸べられた手を前に、どうすればいいかまるでわからなかった。
選択肢など、今までで与えられなかった。せいぜい食事に何を食べるかとか、その程度。それもただ買うものを選んでいただけだった。
断るべきなのだろう。親戚とはいえ、一人暮らしの女性の家に転がり込むなど迷惑千万。児童養護施設に世話になるのが正しいはずだ。それに俺の体質のこともある。やはり断ろう。そう思い口を開いた。
「申し出はありがたいんですが……」
「あ、ちなみにもう手続きはしてあるわ。戸籍上の保護者の欄は私の名前よ」
結局選択肢なんてなかった。
「……さっきのセリフはなんだったんですか」
「うふふ、あなたなら断りそうだな、と思ったから先に退路をなくしておいたの。……ねぇ錬太郎君。遠慮なんてしなくていいのよ」
にっこりと笑う女性を睨んでいると、再び頭に手を乗せられる。今度はさっきと違い、気遣うような触れ方だった。
「迷惑なんてこれっぽっちも思わないわ。親戚の子の面倒を見るなんて、昔からやっていたことだしね。あの子たちに比べれば、あなたなんて大人しすぎて逆に心配になるくらいだわ」
「……でも」
「それに、一人暮らしとはいえ、私の家族もそう遠くないところに住む予定だから、何かあったらそっちを頼れるしね。何にも心配いらないわ」
なんと答えていいかわからず、視線を彷徨わせる。誰かを頼るなんてこと今まで一度もしてこなかったから、どうすればいいのかわからなかった。
「……錬太郎君」
顔をむぎゅ、と挟まれて強引に目を合わせられる。ブラウンの瞳が強い光を携えて俺の目を射抜いた。
「甘えたっていいの。今は難しいでしょうけど、少しずつ、誰かを頼れるようになりましょう」
「……よろしく、お願いします」
「もう、敬語もなしよ。家族だもの」
そう言って困ったように笑う。俺も笑ってみようと思ったが、口元はピクリとも動かなかった。
白い化け物が大量に襲ってきたあの日、私はある男の子を引き取った。
親戚の子だった。と言っても会ったのは彼がまだ小さい頃だったから、彼は私を覚えてはいなかった。
母から聞いた話では、彼の両親は彼を育てているとは言い難かった。まともに食事を与えている様子もなく、服は常にぼろぼろで汚れていた。話によれば、彼が原因不明の体調不良を頻発させた当たりからそうなったらしい。自己中心的な夫婦で、無駄にプライドが高い人達だったから、手のかかる子供を育てる気をなくしたのだろう。
そんなどうしようもない二人でも、親は親。両親を失ったあの子が気がかりで様子を見に行けば、彼は病室のベッドからぼんやりと空を眺めていた。扉を開いた音に反応した彼と目が合う。年齢にしては酷く痩せ、肌は青白く、瞳に光はない。傷は足にしか無いのに、とても痛々しく見えた。
彼を引き取ると決めたのはこの時。手続きをしたと言ったがあれは嘘。きっと彼は遠慮して、養護施設に入ることを選ぶと予想はついていたから、先手を打った。
予想通り、彼は断ろうとしてきた。迷惑になるだとかなんとか言って。それは私を案じてのこともあるだろうが、それだけではなかっただろう。
彼はおそらく我儘を言ったり、誰かを頼るということをしたことがない。歳不相応な物言いからもそれは察せられた。
撫でられるとき、抱きしめられるとき。彼はされるがままで抵抗もしなかった。表情も変わらない。
彼から感情を表に引き出すのは根気がいることだろう。だがそんなのは慣れっこだ。いつか絶対分厚い殻を剝がし、笑った顔を見てやろう。そう決めて、私はもう一度強く彼を抱きしめた。
いとこの響子さんと暮らすようになってから半年経った。馴れ馴れしいと思い最初は沢村さんと呼ぼうとしたが、他人行儀過ぎるからやめろと言われて響子さん呼びになった。
彼女はボーダーという新しくできた組織に入った。なんでも、近界民というらしいあの白い化け物から街を守る組織なんだとか。
思えば、あの時俺を助けた男もボーダーなのだろう。響子さんから機密に触れない範囲で話を聞くが、案外緩いらしい。ニュースでも言っていたが未成年を積極的に採っているようなので、必然そうなるのだろう。
半年も経てばとっくに学校は再開しているが、俺は未だに登校していない。いわゆる不登校というヤツである。その理由は、俺が生まれつき持つ不明な体質にある。
理屈はわからないが、俺は近くにいる人間の位置を感知することができる。壁の向こうにいようが関係なく、なんとなくそこに誰かがいると判別ができたのだ。例えるなら、ゲームの2Dマップに映る敵ユニットみたいな感じか。
この能力のせいで、俺は人混みが致命的に苦手だった。10人20人程度ならまだいいが、人が多すぎると処理する情報が増えすぎて物凄く疲れる。体調次第では頭痛や嘔吐などの症状も伴うクソみたいな力だ。これがあったから近界民から逃れられたものの、今のところデメリットしか感じていない。
こんな体質を持って学校に行けば、まともに授業など受けられない。全く行けないわけでもないが、保健室で日がな一日くたばっていることになる。
故に登校せず、購入したテキストなんかを使って自主学習に励むようにしている。事情を把握した響子さんが家で勉強できるように計らってくれたのは物凄く助かった。話した後思い切り抱き締められたのはよくわからなかったが。
そんな折、響子さんがこんな話を持ち帰ってきた。
「錬太郎君、ちょっと一回ボーダーに行ってみない?」
「……なんでまた?」
「ちょっとね、気になる話を聞いたの」
ノートに数式を書く手を止めて響子さんに目を向ける。湯気を上げるマグカップを握って思案するような顔が見えた。
「機密だからあんまり詳しくは言えないんだけどね、副作用、っていうのがあるらしいの」
「サイドエフェクト?」
「そう。人の感覚の延長線上にある特殊能力らしいわ」
「よくわかんないな」
「火を吐いたり空を飛ぶみたいな、人間にはありえない超能力じゃなくて、物凄く目や耳がいいとか、死角から見られてるのがわかるとか、そういう第六感のことを言うみたい」
「ふーん。それはまたSFチックな」
そこまで言ってはたと気付く。
俺、それ持ってないか?
「でね、あなたの体質ってたぶんその副作用じゃないかなと思って。一度検査してみない?ボーダー本部に行くことになるから、少し我慢してもらうことにはなるけど……」
「検査……」
正直体質の正体についてはどっちでもいいが、ボーダー自体には興味がある。毎日響子さんから話を聞かされていれば興味を持たないわけもなかった。
「……わかった、行ってみる」
どうせいつかは知るべきことだ。早いか遅いか、能動的か強制的かの違いしかない。それに、せっかく選べるなら選んだ方が響子さんの安心にもつながるだろう。その証拠に、響子さんは花開くような笑顔を浮かべていた。
「そう、わかった。ボーダーの人に伝えておくね」
おやすみ、と俺の頭をひと撫でして寝室へと消えていった。時計の針を見ると短針が11を指していたので、テキスト類を片付けて自室に戻る。ベッドと勉強机と椅子しかない部屋は寒々しく、殺風景に映る。それでも、今までと比べたら何倍も暖かい居場所だ。
何かが変わるかもしれない。そんな微かな期待感を抱えてベッドに潜り込んだ。
ボーダー周りの警戒区域は人っ子一人おらず、物凄く静かだった。ここまで頭の中がクリアなのも久しぶりかもしれない。今感知できているのは、隣を歩く響子さんのものだけ。普段よりずいぶん気分がよかった。
響子さんから話を聞いてから一週間、今日はボーダーに検査に行く日である。
「錬太郎君、大丈夫?気分悪くない?」
「……頭痛い」
さっきまでの清々しさが嘘のようにどんよりとした気分で頭を抱える。ボーダーの白い建物に近付くにつれて人の反応が爆発的に増え、中に入る頃には頭痛が止まない程に騒がしくなった。検査が終わるまでとはいえ、これはキツイ。常備している薬を飲んだが、効くまでは耐えるほかない。
「早く終わらせちゃいましょう。こっちよ」
響子さんに支えられながら歩みを進める。ちらほら刺さる視線を感じながら辿り着いた扉には、「開発室」と札が掛けられていた。
「失礼します。鬼怒田さん、連れてきましたよ」
「おお、ようこそ沢村くん。この子が例の子かい?」
「はい、いとこの錬太郎君です」
「……どうも」
部屋の中は慌ただしく、ひっきりなしに人が動き回っていた。物凄く忙しそうにしているが、大丈夫なのだろうか。
「ボーダー開発室の室長をしとる、鬼怒田本吉だ。沢村くんから話は聞いとる」
「……國枝錬太郎です」
「ふん、愛想の無いやつだのう」
「この子体調がよくないんです。大目に見てあげてください」
「例の副作用かもしれん体質だな、わかっとる。ここは人も多いからな」
ついてこい、と背を向けて歩き出した鬼怒田さんを追いかける。案内された部屋には、ベッドを中心によくわからない機材類が所狭しと並べられていた。
「上を脱いで、ここに横になれ。色々と検査器具をつけていくから、あまり動くなよ」
鬼怒田さんはそういうと機械に手を伸ばして操作し始めた。響子さんは俺の頭をぽんぽんと撫でて部屋を出て行った。急かす声に覚悟を決めて、服を脱ぎ、ベッドに横たわった。ぺたぺたと貼られる器具に身を捩りそうになるのをなんとか堪える。
「よし、それではこれから検査を始める。少し時間がかかるから、寝ておっても構わんぞ」
そうして鬼怒田さんも部屋を出て行った。部屋には無骨な機械が稼働する音だけが響く。未だに頭の中は騒がしいが、先ほど飲んだ薬のおかげで少しは痛みが引いている。目を閉じ、お言葉に甘えて眠ることにした。
「……い、おい。起きんか國枝!」
そこそこの音量に眉を顰めながら目を開ける。鬼怒田さんがしかめっ面で俺を揺さぶっていた。上体を起こすと既に電極は外されており、機器の音もしなかった。
「全く、しっかり熟睡しおって。普段眠れておらんのか」
「来る途中に薬飲んだので、それかもしれません。ていうか、寝ていいって言ったじゃないですか」
俺のささやかな抗議は鼻を鳴らすだけで退けられる。ため息をついて服を着なおし、検査室を出る。相変わらず忙しそうな職員たちの中に響子さんの姿はなかった。
「沢村くんは呼んである。来るまでそこに座って待っとれ」
そう言うと鬼怒田さんは資料を抱えてどこかへ行ってしまった。室長というくらいだからあの人も相当忙しいのだろう。なんだか手を煩わせてしまったようで申し訳ないな。
椅子に座って、ぼんやりと宙を見つめる。時折寄越される視線はきっと職員のものだろう。それを気にすることもなく、意味もなく頭の中を動き回る点を眺めていた。
「鬼怒田さーん、沢村到着しましたー。錬太郎君、おまたせ」
「来たか。こっちの部屋に来なさい。結果を説明しよう」
さっきとはまた別の部屋に入る。そこには既に人が座っていた。
「え」
「おや、君は……」
忘れもしない、化け物が降ってきたあの日。怪我をして動けなくなった俺を助けた張本人だった。
「……忍田本部長、知り合いか?」
「知り合い、と言っていいかわかりませんが……」
「……あの時、助けてくれた人ですよね」
「ああ、君が無事でよかった」
「ちょ、ちょっと錬太郎君、どういうこと?」
何故か激しくあたふたしている響子さんに説明する。響子さんも彼がここにいることは知らなかったのだろうか。
「あの時、化け物に襲われた俺を助けて、救急車まで運んでくれた人だよ」
「あの時は自己紹介できなかったな。私は忍田真史。ボーダーの本部長という立場を預かっている。よろしく頼む」
「國枝錬太郎です。あの時は助けていただきありがとうございました」
「そ、そうだったのね……!あの、本部長!錬太郎君を助けていただいてありがとうございました!」
「沢村くん、君の関係者だったか」
「はい、いとこです。ご両親が亡くなられたので、私が引き取りまして、今は一緒に暮らしています」
「……そうか」
響子さん、余計な事言ったな。
「あの、両親については気にしないでください」
「……だが、我々がもっと早く到着していれば……」
「終わったことをとやかく言うつもりはありません。百点満点なんて誰にもできませんから」
「……そう言ってもらえると救われるよ」
少し影の残る笑みが視界に映る。響子さんは響子さんでバツの悪そうな顔をしていた。
「積もる話はそこまでだ。今日はそいつの検査が本題だろう。とっとと座らんか」
ぱん、と乾いた音を合図に若干気まずくなっていた空気が霧散する。大人しく忍田さんの反対側の椅子に腰を下ろした。
「これが結果だ。結論から言えば、國枝には副作用がある」
差し出された資料には細々した文字が並べられていた。
「機密事項が多いからあまり詳しくは言えんが、人にはトリオン器官というものがあり、そこからトリオンという生体エネルギーが生み出されている。その生産量には個人差があり、多い者は副作用を持っている可能性がある」
トン、と指をさされた箇所を見る。トリオン量という項目に9という数字が印字されていた。
「國枝のトリオン量は9。これはボーダー全体を見ても大きい数値だ。同時に、副作用があることも確認できた。聞くが、お前の体質は、”視認せずとも人のいる位置がわかる”だったな?」
「そうです。向こうの部屋に何人、どこにいるかもわかります」
「ならば間違いなく副作用だ。普通はそんなことできんからな。名付けるならば”生体反応感知体質”と言ったところかの」
”副作用”と書かれた欄に印字された有の文字を見つめる。自分が普通の人間から外れた存在だと突き付けられた気がして、何とも言えない気持ちになる。
「さて、國枝くん。検査はこんなところだが、それとは別に君に提案がある」
「……どうぞ」
「ボーダーに入隊してはくれないだろうか。君のトリオン量は間違いなく優秀だ。副作用もうまく使えばかなり有用のようだしな」
……トリオン量のくだりでなんとなく想定はしていたが、やはりか。息を細く吐き、対面の忍田さんを見つめる。
「体質……副作用のせいか、昔から人混みに行くと必ず体調を崩します。情報量に耐えられないのか何なのかわかりませんが、ボーダーは人が多いんですよね。多分無理だと思います」
「無理、というのは体調面でのことかな?それならば多少対策はとれるかもしれない」
鬼怒田さん、と忍田さんが何かを言うと鬼怒田さんは渋面を作って出て行き、白い棒のようなものを持って戻ってきた。
「これがトリガーだ。我々の武器とも言える。それを持って、”トリガー・オン”と言ってみたまえ」
「よ、よろしいのですか本部長。一応まだ錬太郎君は部外者ですが……」
「構わないよ。沢村くんの身内ということで信用もあるしね」
差し出された白い棒を握る。まるで実感のなかったSFの世界が急に間近に迫ったように感じて、背筋に冷たいものが走った。大きく息を吐いて、吸って、覚悟を決める。
「トリガー・オン」
一瞬だけ目の前がはじけるように光り、何かに包み込まれるような感触が全身を覆った。気付けば、着ていた簡素な黒パーカーは白いジャージのような恰好へ変わっている。
「それはC級……所謂訓練生に与えられるトリガーだ。武器は一切セットされていない。ただトリオン体に換装する機能のみを有している」
「さて、その状態で副作用の調子をみてほしい。どうかね?」
そう言われて少し集中する。目を閉じて脳内を飛び交う位置情報にピントを合わせる。真上のフロアに複数人、隣の部屋には十人単位の人間が動き回っている。もう少し離れた広い部屋には三十、四十人近い点が犇めいていた。
「うーん……さっきまでとあんまり変わったような感じは……」
「体調の方はどうだい?頭痛やめまいが引き起こされると聞いていたが」
「……あ?」
目を開ける。
「……頭が痛くない?」
「トリオン体に痛覚は存在しない。不快感は少し残るだろうが、生身でいるより苦労はないはずだ」
さっき飲んだ薬かとも思ったが、あれでも痛みが和らいだだけだった。正真正銘、トリオン体になったから痛みを感じていないらしい。
「基地内で換装する分には制限はない。武器の使用は模擬戦やランク戦に限るがな」
「どうだろうか國枝くん。君の才能は多くの人を救うことができるだろう。我々に力を貸してくれないか」
ちらりと響子さんの顔を見る。喜んでいるのか悩んでいるのか、実に複雑な表情をしていた。
「……ちょっと考えさせてください。何分急な話なので……」
「もちろん。危険もないわけじゃないから、じっくり考えてくれ」
一通りの話が終わり、帰路についた。忍田さんは、また会えるのを楽しみにしているとにこやかに送り出してくれた。響子さんは耳まで真っ赤にしてお辞儀しまくっていた。
行きと同じようにボーダー職員用の通路を二人並んで歩く。本部から離れるほど点の数と痛みが減っていくのが爽快だ。実に気分がいい。帰ったらまた少し増えるが、そこはもう慣れた。
「ねぇ、錬太郎君。あなたは、ボーダーに、」
「響子さんて忍田さんのこと好きなの?」
言いかけたことを遮って気になっていたことを聞いてみる。我ながら直球だと思うが、やはり気になるものは気になる。目線をやると湯気を立ち昇らせそうなほど真っ赤になった人がいた。
「えっ、な、なななんで」
「いや、わかりやすすぎるよ……顔合わせるだけで真っ赤になってたし」
言葉にならない未知の言語を発しながらあわあわしている様に口角が緩む。口に出さずとも答えは火を見るよりも明らかだろう。当の本人は熱を冷まそうとしているのか、頬に手を当てて「あー」だの「うー」だの言っていた。
「そんなに私わかりやすい……?」
「傍から見る分には。響子さん意外と顔に出るし」
「忍田さんにもバレてるかしら…………」
「……鈍そうだから大丈夫じゃない?」
実際忍田さんの表情は変わっていなかったし気付いてすらいなさそう。まだ知り合って間もないし勘だが。
「そ、そう、よかった……ってそうじゃなくて!スカウトはどうする?」
「響子さんは、」
「私としても思うことはあるけど、言わないわよ。言ったらあなた、私の気持ちを汲もうとするでしょう?」
それはもう既に言っているようなものだが口には出さない。彼女はきっと俺に選ばせたいのだ。俺を拾ってから、彼女はことあるごとに俺に選択を迫る。明日の晩ご飯、着る服、出かける場所、食べるおやつまで。何がしたいかはいやでもわかるから、特に拒否なんかはしなかった。
「…………ボーダーって給料出るかな」
「B級に上がればもらえるようになるよ。防衛任務出たらだけどね」
「そっか」
じゃあ、と呟いた言葉に、彼女は淡く微笑んだ。
選択が間違っていないと良い。そんな保証をしてくれる人なんていないけど、それでも。少しだけでも正しいと思えたら良いな、なんて、柄にもなく思う。
見上げた夕焼けは、いつにも増して鮮やかに瞳の奥に焼き付いた。