もしもDS研に第四種接触者として病室に入れられていたら。
もしも空魚が冴月と親しかったら。
そんな、いろいろな「もしも」を膨らませたIF作品です。
本編とは少し違う空魚たちの物語を、お楽しみいただければ幸いです。
※Pixiv・ハーメルンの両方に掲載しています。
1
二月二十八日。
朝、私はデジタル時計のアラームで目を覚ました。サイドデスクに置いてある時計の上部をカチッと押して、アラームを止める。
枕元のスイッチに手を伸ばすと、白い光が天井に広がって、部屋の輪郭がはっきりした。
あくびをひとつして、着ていた病院着を脱ぐ。かわいいピンク色のスクラブをハンガーから外して袖を通した。
ベッドの端に腰を下ろし、太ももまで伸びた髪をブラシで丁寧にとかす。根元から毛先まで、ゆっくりと。
伸びきって少し頼りない、けれどもらい物で捨てられずにいるヘアゴムで、髪をひとつにまとめた。
それから、右目に眼帯をつける。これで準備完了。
壁のアナログ時計を見る。
いまは……五時二十二分、くらいかな。
ちょっと不安になって、デジタル時計の表示を確認する。
五時二十二分。
合ってた。ほっとする。
「時計をちゃんと読めるようになりましょう」って。
ここに来たばかりの頃は、長針と短針の区別すらおぼつかなかった。今もまだ怪しいところはあるけど、生活に支障が出るほどではない。
一通り身支度を終えた私は、ドアの差し入れ口に置かれていた朝食のトレイを手に取った。
今日のメニューは、豚肉や糸こんにゃく、玉ねぎ、白菜の入った煮もの。それに、大豆とソーセージをトマトで煮込んだ料理。
どれも「美味しい」ことはわかる。でも、それ以上のことはうまく説明できない。そういうことって、まだけっこう多い。
十五分ほどかけて食事を終え、紙パックがぺこぺこになるまで牛乳を飲み干す。
洗面台で歯を磨いて、ベッドのシーツを整える。
使い終わった食器をトレイにまとめて持ち上げ、病室の出口へ。
頑丈な鉄のドアに肩を当てて、ぐっと押し開ける。
ドアの前には、私専用のワゴンが置いてある。
私が頼んで、ここに置いてもらっているものだ。
中には、手入れの行き届いた箒とチリトリ。少し黒ずんできたモップ。先週交換したばかりの雑巾が何枚か。Sサイズのゴム手袋と、洗剤のスプレーボトル。
掃除道具一式。全部、私の大切な道具。
私は、トレイに乗せた食器が掃除道具に触れてしまわないように注意しながら、ワゴンを押して、返却口まで向かった。
まだ朝番の職員さんたちは出勤しておらず、病棟の廊下には薄暗い照明だけが灯っている。私に朝食を届けてくれた夜勤の看護師さんの姿も見当たらない。たぶん、まだ忙しくしているのだろう。
私はその場にいない相手に、口の中でそっと「ごちそうさまでした」とつぶやいて、トレイを返却口に置いた。
そのまま足を向けたのは、昨日に引き続き、応接室だった。
一応ノックしてから扉を開けて、電気を点ける。
昨日は埃を落とす作業をしていたので、今日は壁や床をモップと洗剤で仕上げていく。
──自分で言うのもなんだけど、掃除は得意な方だと思う。
誰に褒められるわけでもないけれど、角の埃や細かな汚れまでブラシで丁寧にかき出して、モップでしっかり拭き取る。
きれいになったタイルを見ると、それだけで嬉しくなる。満足して、次の一枚に移った。
とはいえ、ひとつひとつに時間をかけすぎるわけにもいかない。こだわりはあるけれど、そればかり気にしていたら終わらない。
手早く、けれど雑にならないように気をつけながら、タイルを一枚ずつ掃除していった。
一時間ほど経った頃、エレベーターホールの方から人の気配がした。
朝番の人たちが出勤してきたのだ。
私は使っていた道具をワゴンにしまい、足早にエレベーターホールへ向かった。
「おはよう、空魚ちゃん」
「おはようございます!」
エレベーターが開くたび、降りてくる人たちにしっかりと頭を下げて挨拶する。
職員のほとんどが、あくびをかみ殺すか、もう隠しきれないという感じであくびをしながら、それぞれの持ち場へ向かっていく。
朝はつらいよね。
私も最初のころは、よく二度寝してしまっていたっけ。
それに比べたら、ここにいる人たちは、ちゃんと起きて、遅刻もせずに出勤しているんだから、本当にすごい。
これが「社会人」ってやつなんだろうな、と思う。
そんなふうに考えていると、またエレベーターが鳴った。
私が振り返ると、扉の中にいたのは一人だけ。
その人の顔を見て、私は思わず小走りで駆け寄った。
「先生っ、おはようございます!」
「やあ、紙越ちゃん。おはよう」
主治医の先生だ。
つるつるに剃られた頭が特徴的で、私よりもずっとずっと偉い人らしい。私が挨拶すると、よく仕事をくれる。
「今日は何かお手伝いできることはありますか?」
「僕からは特にはないかな。看護師さんか職員さんが困ってたら、手を貸してあげてくれるかい?」
「はいっ」
「それじゃあね、紙越ちゃん。今日も頑張るんだよ」
「はい! ありがとうございます!」
先生が歩き去るのを手を振って見送ったあと、私はホールにかかった時計を見上げる。
……もうすぐ七時。
七時十分には朝礼があるけど、私は参加しない。
前に一度、興味本位で参加してみたことがあった。
でも、話の内容が難しすぎて、ほとんど理解できなかった。専門用語や略語が多すぎて、言葉だけが頭に届かず宙を舞っていた。
それに、「紙越さんは朝礼に出なくていいんですよ」とも言われていた。
悔しくて、あと何度か挑戦しようとしたけれど、結局どれも途中で眠くなってしまって、最後まで起きていられなかった。
だから今は、参加しないことにしている。眠ってしまうくらいなら、掃除をしていた方が、みんなの役に立てる。
……たぶん。
そう考えながらワゴンを引こうとして、はっとする。
応接室に掃除道具を全部置いたままにしてきたのだった。取りに行かなければ、誰かの邪魔になるかもしれない。私は少し急ぎ足で応接室へ向かった。
途中、ナースステーションのそばを通る。
ちらっと中をのぞくと、すでに看護師さんたちが出勤していて、みんな同じピンクのスクラブを着て、てきぱきと動き回っていた。
挨拶しようとしたけれど、なんとなく気が引けて、カウンターの向こうをうろうろしていると――気づいた男性の看護師さんが声をかけてくれた。
「おはよう、空魚ちゃん。どうしたの?」
「おはようございます!」
その声につられるように、他の人たちも次々と挨拶してくれる。
邪魔したくはなかったけれど、みんながちゃんと返してくれるのが、嬉しかった。
一通り挨拶を終えて、私は奥でファイルを読んでいた看護師長さんに声をかけた。
看護師長さんはふくよかで、いつもニコニコしている。少し厳しいところもあるけれど、優しくて、ちゃんと話を聞いてくれて、仕事もくれる良い人だ。
「おはようございます。今日は何かお手伝いできること、ありますか? 掃除とか」
「あ、空魚ちゃん。おはよう。ご飯は? もうちゃんと食べた? 何かやりかけのこととか残ってない?」
「朝ご飯は食べました。応接室の掃除をしてたんですけど、職員の方たちが出勤してきたので、中断してます」
「そっか〜ご飯、おいしかった? 全部食べた?」
「はい、おいしかったです。全部食べました」
「よしっ」
師長さんが、私の頭をワシャワシャと撫でる。というより、揉みこむようにぐにぐにと。
ちょっと乱暴だけど、私はこれが好きだった。
「応接室に何か置きっぱなしにしてない? 元に戻すものとかはある?」
「ワゴンだけです」
「じゃあ、それは取ってきなさい」
また頭をグニグニ揉まれた。心地よさに私は目を細める。
「もうご飯を食べたなら、応接室の掃除の続きを任せてもいい? ただ、来客の予定があるかもしれないから、掃除を始める前に、ワゴンだけどかしておいて。誰か職員さんか汀さんに確認してちょうだい。いい?」
「はいっ」
「私の言ったことよりも、汀さんたちの指示を優先してね?」
「わかりました。……それじゃあ、応接室の掃除が終わったら、そのあと他にやることはありませんか?」
師長さんは腕を組んで、少し考え込む。
やがて、うーん、と唸りながら顔を上げる。額にしわが寄っていて、私は一瞬、なにか間違ったことを言ったのかと不安になった。
怒られるようなことはしてないはずだけど……それでも、何かあったなら謝らなきゃ。そう思って、謝る言葉を探していると──。
師長さんが口を開いた。
「……今朝ね、第四種の患者さんたちのお部屋の清掃をするから、そこに参加してもらえる? ただし、これも汀さんに許可をとってちょうだい。私が勝手にお掃除のメンツを増やしたりはできないから」
師長さんの言葉に、私は緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
「なんだ、そんなことか」
「なによ、そんなことって?」
苦笑いする私の背中を、師長さんが軽く叩く。
怒られるとばかり思っていた。使えないとか、のろまだとか、そんな言葉が飛んでくるんじゃないかと。でも、返ってきたのはまるで違う言葉で、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「わかりました〜」
「こら。語尾は伸ばさない」
すかさず注意が飛んでくる。
「ちゃんとした言葉遣いしなきゃ、将来恥ずかしいわよ。はい、もう一回言ってみて!」
「はい、わかりました!」
「よしよしっ」
今度は優しく頭を撫でられた。
「あっ、撫でないで〜」
つい、甘えた声が出る。
そのまま無意識に師長さんの手に頭を擦りつけてしまって、我に返る。
そんな私に、師長さんが言った。
「空魚ちゃんがいると、助かるわあ」
「……ほんとに?」
その言葉に、私は目を見開いた。
師長さんは、あたたかい目で私を見つめている。
「本当よ。空魚ちゃんも、一人前の風格が出てきたじゃない」
その一言で、私は一歩後ずさりして思わず顔を隠した。髪の根元までじわじわ熱くなる。
「ありがとう、ございます……」
火照る顔を左手でパタパタとあおぎながら、蚊の鳴くような声で返事をする。
視界の端で、師長さんがニヤリと笑っている気がした。
「最初に来たときなんて、閏間さんとしか話してくれなくて、お人形さんみたいだったのにね」
「あの頃は……その、ごめんなさい」
「いいのよ。仕方なかったって、みんなわかってるから」
そこまで言って、師長さんの表情が少し曇る。
「……それにしても、最近閏間さん、顔出さないわよね。前に来たのっていつ頃だったかしら……空魚ちゃんが待ってるのに」
その目が鋭くなったのを感じて、私は咄嗟にかばうように言葉を探す。
「冴月は、きっとまだ『フィールドワーク』っていうのが忙しいんだと思います。すぐに戻ってくるはずですよ」
その言葉に、師長さんは何も言わなかった。沈黙が降りて、ナースステーション内の作業音だけがやけに大きく耳に入ってくる。
息苦しい空気の中、私がモジモジとしていると──、
「さっ! 空魚ちゃん。遅くなる前に、汀さんに確認を取ってから応接室の清掃、お願いね!」
「あ、はい! ちなみに……〈セイソウ〉って、お掃除のことですよね?」
私はポケットからメモ帳とペンを取り出す。わからない言葉や指示はすぐに聞いてメモする。それが習慣になっていた。
師長さんは笑顔で頷くと、続けて言う。
「繰り返すけど、汀さんか職員さんに、必ず応接室を掃除していいか確認してからね。あと、患者さんの方たちのお部屋の清掃に加わっていいかどうかも、忘れずに訊いて。いい?」
「はーい」
「『はーい』じゃない、『はい』!」
「はい!」
「よし……じゃあ、いってらっしゃい!」
師長さんがもう一度、背中をポンと叩く。
少し痛かったけど、その痛みが嬉しかった。
ナースステーションを後にし、応接室からワゴンを回収した私は、清掃と第四種の方の病室の許可をもらうために、汀さんのオフィスへ向かっていた。
あと数十メートルというところで、ちょうど汀さんがオフィスから出てくるのが見えた。その横顔は無表情で、どこか落ち着かない雰囲気を漂わせていて怖かった。
私はおそるおそる声をかけた。
「汀さん。おはようございます……」
振り返った汀さんは、私の顔を見るとさらに険しい表情になった。少しの沈黙のあと、私が思わず体を縮めてワゴンの影に隠れかけたとき、ようやく口を開いた。
「紙越さん。おはようございます」
「……あの、大丈夫ですか?」
「ええ、問題ありません」
「……本当にですか?」
訊ねるたびに、汀さんの顔はますます暗くなるようで、私は嫌な予感を覚えた。
汀さんは私を見つめ、ふっと表情をゆるめる。
「隠していても仕方ありませんね」
そう言って腕時計に目を落とし、ひとつ深呼吸した。
「楽しい話題ではありませんが、紙越さんにとっても無関係な話ではありません。……お聞きになりますか?」
「はい。……冴月のことですか?」
半ば確信めいた気持ちで尋ねると、汀さんは静かに頷いた。
「紙越さんもご存知のとおり、ここ二週間ほど閏間さんとは連絡が取れていません」
「はい……」
私は自分のスケジュール帳に、冴月が来た日を赤ペンで〇していたから、間が空いているのは一目でわかった。
「冴月、どうしちゃったんですか?」
「今のところ、なにもわかっていません。UBLへ向かうという連絡さえなく、音信不通です」
「でも、たとえばUBLじゃなくて、どこか遠くに行ってるだけとか……病気で動けないとか、もしかして、DS研を辞めたとか……」
「そうであればよかったのですが」
汀さんは静かに首を振った。
「連絡が途絶えてから二週間。引っ越しの形跡もなく、ご自宅に伺っても不在。我々のネットワークや興信所を通じても、二週間前を最後に一切の足取りがつかめていません。もし単純なトラブルであれば、こちらに一報があったはずです。それすらないとなると……」
そこで汀さんは、私の目をまっすぐに見据え、言った。
「まだ推測の域を出ませんが──閏間さんはUBL内、もしくはその関連領域で何かに巻き込まれた可能性が高いと考えています」
汀さんの口が閉じられ、沈黙が落ちる。私も何も言えなかった。
しんとした空気の中、汀さんを中心に壁や床がぐにゃぐにゃと歪んで見えた。視線は汀さんに向いているのに、焦点が合わない……そんな感覚に襲われる。
「どうしたらいいんでしょう……?」
私の口から出たのは、情けなく、泣きそうな声だった。
汀さんは落ち着いた声で続ける。
「これから私は、閏間さんのご友人の住居を訪ねてきます」
「冴月の……友達? あの、ちびっちゃい……」
「……ええ。その方です。機会があれば、ご紹介しましょう」
そう前置きしたうえで、汀さんが少し口調を改める。
「紙越さん。他人に『ちびっちゃい』など、身体的特徴をからかうような表現を使うのは、非常に失礼な行為です。今後はそういったとき、もし必要があるなら〈小柄〉という言葉を選ぶようにしてください。もちろん、言及の必要自体がなければ、触れないのが最善です」
「………………」
「紙越さん?」
「あっ、はい……わかりました……」
ぼんやりしていた意識が、ようやく戻ってくる。私はとってつけたように返事をした。
冴月の失踪。その事実だけでも手一杯なのに、さらに冴月の「友達」まで——。
頭がいっぱいだった。
正直に言えば、私は冴月がいなくなったことよりも、冴月に私以外の友達がいたという事実の方に、より強く動揺していた。
冴月に友達がいても、おかしくはない。当たり前だ。
私にだってDS研に友達はいる。けれど、冴月にとって私は特別な存在でありたかった。
私にとっては、唯一の、大切な人なのに——冴月にとって私は、その「数ある友達のひとり」に過ぎないのかもしれないだなんて。
知りたくなかった。
認めたくなんて、なかった。
自分で考えていて、消えてしまいたくなった。どう考えても冴月が失踪した件のほうがよほど深刻なはずなのに、私は余計なことばかりに囚われている……。
私の顔に影が差したのを察してくれたのか、汀さんが少し申し訳なさそうに口を開いた。
「やはり急にお話しする話題ではありませんでしたね。申し訳ありませんでした」
「あ……ううん。そんなことないです。こんな話、いつ聞いても、ダメな感じになっちゃうので……ごめんなさい」
汀さん曰く、私は顔に考えが出やすいらしい。
本来は、それを隠すよう、微笑む程度の表情を心がけるようにと指導されていた。それなのに今日は、何も言われなかった──たぶん、汀さんの方が顔に出ていたからかもしれない。
「それでは、閏間さんのご友人との約束があるので、失礼します」
私に向かって丁寧に深く一礼してから、汀さんはエレベーターホールへと静かに歩いていった。
私はその場にしばらく突っ立ったまま、ぼんやりしていた。夢の中みたいな感覚でワゴンを引いて応接室に向かう。扉を開け、何も考えずにモップを手に取った――そのとき、ハッとして手を止めた。
慌ててエレベーターホールへ向かおうとしたが、きっともう汀さんは建物の外に出てしまっている。そう思って諦める。
仕方なく、私は去年、汀さんから支給されたスマホを取り出して、師長さんにメッセージを打つ。
《汀さんと会ったのですが、応接室の掃除と第四種の方の部屋の清掃について聞くのを忘れてしまいました。どうすればいいでしょうか?》
送信した直後に、慌てて追加のメッセージも送る。
《汀さんはいまさっきお出かけしました》
既読がついたまま、しばらく返信はなかった。こういう短い待ち時間が私は苦手だ。手持ち無沙汰になると、仕事をサボっているみたいで落ち着かない。
我慢できずに、私はオフィスのドアを雑巾とダスターで拭きながら待つことにした。しばらくして、師長さんからようやく返信が届く。
《いま職員さんから許可をもらったので、応接室と第四種の方の病室清掃の作業をしてください》
師長さんの文章は、少しだけ怖く感じてしまう。普段はとても優しいのに、文字にするとどうしても怒っているように見えてしまう。でも、師長さんにそのつもりはきっとない。言葉って、本当に難しい。
私は《わかりました》と返した。するとすぐ、追ってメッセージが届く。
《目上の人や年上の人には「畏まりました」と言ってください》
……うん。やっぱり、ちょっと怖い。
《畏まりました》
私は師長さんの指示に従い、応接室の掃除に取りかかった。もともと途中まで掃除していたこともあり、やるべきことは多くなかった。さっき使った、静電気でホコリを吸着するふわふわした道具で集めたゴミを、箒とチリトリでまとめてゴミ箱へ捨てる。最後に綺麗なダスターに薬液を染み込ませ、机とソファを丁寧に拭いて、掃除は完了した。
私は応接室を出て、掃除が終わったことを師長さんに報告する。《お疲れ様でした》という、少しかしこまった返信を読みながらワゴンを押して歩いていると、ふと階段が目に入った。
その先には、冴月の研究室がある。
途端に、頭の先からつま先まで、不快な感覚が押し寄せてきた。掃除をしている間は忘れようと努力していた「何か」が、堰を切ったように戻ってくる。
私はワゴンに体重を預けて蹲った。頭を何度か振って、嫌な想像を追い払おうとする。
──大丈夫。冴月なら、きっと大丈夫。もちろん心配はしているけれど、冴月が死ぬはずがない。あの人なら、またヒョイと顔を出してくれる。きっと。
冴月の話によれば、UBLでは、人は「死ぬ」か、「出口を見つけて運良く生き延びる」か、「第四種接触者になる」かの三択しかないという。
私はまた頭を振り、余計な思考を追い払いながらワゴンを押し進める。第四種接触者の病室が並ぶフロアへとたどり着く。この先の突き当たりには、自分の病室もある。
すでに清掃を進めていたみんなに声をかけると、どこかホッとしたように「助かった」と言って、私にも作業を分担してくれた。
私が任された病室は、壁にも床にも読めない文字がびっしりと書き込まれた、異様な空間だった。患者さんは痩せこけた男性で、指先から伸びた短い触手が爪の間から覗いており、それが動いて文字を刻んでいく。
その姿を見ていると、どうしてもまた、あの暗くて嫌な気持ちが胸に戻ってきてしまう。
私は心を無にするように意識を切り替えた。患者さんが床に伏せて、一心不乱に文字を書きつけているあいだに、私は素早く天井や壁からホコリを落とし、使われた形跡のないベッドのシーツを引き直す。枕カバーも新しいものに交換する。
あとは、床に箒とモップをかければ、掃除は完了だ。
再び、冴月が言っていた言葉が頭に浮かぶ。
──UBLに迷い込んだ人間は、運良く生き残るか、死ぬか、あるいは第四種になって帰ってくる。
……もし冴月が、いまもUBLにいるのだとして。
きっと、冴月なら生きている。そう信じたい。
でももし、ここにいる患者さんたちのように、変わり果てた姿になってしまっていたら……。
私は、どうしたらいいんだろう。
そんな思考に沈んでいたとき、不意に「ピト」と冷たい感触が足首に触れた。
「ひっ……!」
反射的に引き攣った叫び声を上げて振り向く。
患者さんの指が、私の足元に触れていた。
どうやら、次に文字を書くタイルがちょうど私の立っていた場所だったらしく、邪魔をしてしまっていたようだった。
「あっ、ごめんなさい……!」
私は慌てて一歩飛び退き、別のタイルに足を移す。
患者さんは私をじっと見つめ、それから再び、床に文字を書き始めた。
……私のことを認識しているのだろうか?
その姿を見て、私は思う。
もし冴月が第四種になっていたとしても──それでも、いい。
毎日、抱きしめてあげよう。
ご飯を食べさせて、部屋を掃除してあげて、一緒に眠ろう。
今までみたいに話せなくなっても、言葉が通じなくても、それでも私はそばにいる。
だから。
どうか──。
どうか、冴月。早く帰ってきて。
2
翌日。三月一日、午後四時ごろ。
清掃の仕事を終え、ワゴンをガラガラと引きながら部屋へ戻ろうとしていたとき、第四種の患者さんたちがいる廊下の奥から、青白い照明に照らされた人影が二つ、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
やつれた様子の小柄な女性が、汀さんに肩を貸されている。
その女性を見て、私はすぐに気づいた。
……冴月についてきて、いつも楽しそうに二人でお喋りしていた、あの人だ。
「……こんにちは」
私が挨拶すると、女性はちらりと私に目を向け、消え入りそうな声で「こんにちは」とだけ返した。
……無理もない。
私はワゴンを端に寄せて道を空けた。すると、汀さんが私の前で立ち止まる。女性もつられるように足を止めた。
「小桜さん。こちらが先ほどお話しした、弊協会所属の紙越です。紙越さん、こちらが──既にご存知かもしれませんが、先日お話しした閏間さんのご友人、小桜様です」
私の名前を聞いた瞬間、女性──小桜様が血相を変え、ばっと顔を上げた。
あまりに強い眼差しに、私は思わず視線を逸らしてしまう。
次の瞬間、小桜様が一歩踏み出してきて、私の両腕をがしっと掴んだ。
「お願いします……冴月がどこに行ったのか探してるんです。少しでいいから、話を聞かせてください」
突然の勢いに圧倒されて、私は一歩引いた。
「わ、私も……冴月がどこに行ったのか、何もわかりません……」
「でも交流があったんですよね!? 一緒に話してたって!」
「はい……お喋りは、たくさんしました」
「なら──それを──」
「お二人とも、失礼します」
汀さんが間に割って入った。
「こちらは病室区域のため、あまり会話には適しておりません。よろしければ応接室か──閏間さんの研究室でお話ししてはいかがでしょうか」
「行く!」
小桜様は返事を待つことなく踵を返し、足早に歩き出した。
何度かDS研を訪れているというだけあって、冴月の研究室の場所も知っているらしい。汀さんを置いて先に行ってしまった。
私は急いでワゴンを自室前まで押してから、ふたりの後を追った。
冴月の研究室にたどり着くと、明るいLEDライトに照らされた室内では、小桜様がすでに部屋を探っている最中だった。
資料が収められたシルバーラックからファイルを抜き取り、まばたきもせずに中身を読み込む。
次の瞬間には、壁に貼られた地図をじっと凝視している。
……私も、この部屋には何度か入っている。
清掃のついでに、分かる範囲で情報を見ていたけれど、私に理解できることなんてほんのわずかしかなかった。
それでも、小桜様には何かを見つけてほしいと思っていた。
けれどその一方で──部屋のものに手をつけてほしくない、という感情も沸き上がってきた。
部屋の中をぐるりと見渡して、私は視線をある一点に止める。
冴月が使っていたデスクと、オフィスチェア。その隣には、私がよく座っていた客人用の椅子が置かれている。
私は記憶をたぐる。
この部屋で、私は冴月とよく話をした。
私の病室で会うことも多かったけれど、場所がどこであれ、冴月とのひとつひとつの時間は、私にとって何よりも大切だった。
その記憶を、誰かに踏み荒らされるのが……ただ、辛かった。
汀さんと私は研究室の入口に立ち、物音を立てないようにしていた。
でも、私はもう我慢できなくなって、部屋の中へと足を踏み入れる。
そして、冴月がいつも座っていた椅子に、ゆっくり腰を下ろした。
そのとき、汀さんの声が背後から聞こえた。
「紙越さん。お客様をご案内中に座ってはいけません」
「……いや、いいよ。気にしないから」
小桜様が、背を向けたまま応じた。
デスクの上に置かれた黒い表紙のノートを手に取り、開いた瞬間、険しい表情になる。私には一瞥もくれなかった。
そのノートは、前に冴月が私に見せてくれたものだ。何語かも分からない、まるで呪文のような文字列が並んでいて、私にはもちろん読めなかったし、冴月がいなくなってから研究室を調べていた汀さんたちも手をこまねいていた。
小桜様も、しばらくは真剣な面持ちでノートを読み解こうとしていたけれど、やがてそっと目を伏せ、「……読めない」とだけ呟いた。
そして、それを最後に荒々しかった動きが止まる。
まるで力が抜けたみたいにフラフラと歩いていき、私がいつも座っていたひとまわり小さなオフィスチェアに腰を下ろす。
深く息を吐き、両手で顔を覆ったまま、小桜様はうなだれた。
「改めて訊きたいんですが……本当に、何も思い出せることはない?」
誰に向けられた問いか、顔を隠したままなのでわからなかったけれど、私は口を開いた。
「……UBLに行くときは、いつも誘われていたんですけど……今回は、誘われませんでした」
「………………」
しばし沈黙があってから、再び小桜様が訊いた。
「紙越さん、UBLって何回くらい行ったことある?」
「えっと……たぶん、一回か、ゼロ回です」
「……じゃあ、誘われたのは何回くらい?」
「えーと……」
記憶をたどろうとしたけれど、両手の指でも数えきれなかったので、途中で数えるのをやめた。
「思い出せないくらい、たくさんです」
そう答えると、小桜様は「はっ」と鼻で笑い、泣きそうな声で呟いた。
「なんだよそれ、あたしと対応違いすぎんだろ、バカやろう……」
「………………」
小桜様の落ち込みを目の当たりにしながら、冴月が自分を特別扱いしてくれていたことが、私は嬉しかった。
──そしてそれは、小桜様にも伝わってしまったようだった。彼女は顔を上げて、私をじろりと睨んだ。
「……まあ、いい」
そう言って、しばらく沈黙したあと、ふと誰に向けるでもなく話し始める。
「あたしと冴月は、もともと大学の同期だったんだ」
視線は虚空をさまよい、焦点が合っていなかった。
「どこから情報を仕入れたのか、あっちの世界の存在に気づいて……そんで、あたしを共同研究に引っ張り込んできた。でも、あたしがあっちに行くのを拒むようになってからは、あいつも誘ってこなくなった」
語るうちに、小桜様の背中はますます丸くなり、頭が重そうに垂れていく。
「いつか絶対に悪いことが起きると思ってた。だから止めたかった。でも……何もできなかった。気づいたら、あいつは『新しい相棒』だって……別の女を連れてきたんだ」
「え、それは……私ですか?」
冴月にどこかへ『連れて行かれた』記憶はない。でも、他に心当たりのある人はいなかった。
すると、小桜様は意地の悪い笑みを浮かべた。片頬だけで吊り上げた、冷えた笑みだった。
「違うね。仁科鳥子って女。金髪の、面の良いやつ。……まだ高校だか大学生だかのガキだったな」
その名前を聞いた瞬間、心に黒い水が流れ込んでくるようだった。
冴月がどれだけ人に慕われる存在でも──私は、冴月が他の人と「友達」だったなんて、聞きたくなかった。
私はできるだけ平静を装いながら、小桜様に訊ねた。
「……どうして、そんな話を私にしたんですか」
「さあ……情報共有? 憐れんででも欲しかったのかも。あるいは……ただの八つ当たり」
そう言ったあと、しばらく間があって、ばつの悪そうな表情になった。
「……悪い」
何に対する謝罪なのか、よくわからなかった。
けれど、その一言が、私の中にこびりついていた嫌な感情を、少しだけ洗い流してくれた。
小桜様が続ける。
「まあ、あたしが知ってる冴月のことなんて、もうその程度しかないんだ。どこかに手がかりがあると思って、今日ここを訪ねた。でも……正直、もうお手上げだよ」
深く頭を下げる。
「紙越さんが知ってること……本当に、少しでもいい。なんでもいいから、教えてほしいんだ」
私は「どんなことを……?」と訊き返そうとした。けれど、その言葉を遮るように、小桜様はこう言った。
「例えば……二人の馴れ初めとか」
3
「私、昔はカルト教団で巫女みたいなことをしてたんですよ」
「は? え、カルト?……巫女?」
「はい」
小桜様に冴月との馴れ初めを訊かれ、どこから話せばいいのか迷った末、私は自分の過去を話すことにした。
「私の母が、私が小学生の頃に亡くなって。それが原因で、父と祖母が二人ともカルト宗教にのめり込んでしまったんです」
「それは……なんていうか。すまない」
私は首を傾げた。小桜様が謝る理由が、私にはわからなかった。
「気にしないでください。私は気にしてませんから」
「でも、そう言われても……。周りは気にするもんなんだと思うぞ」
ああ、そういうものなのか、と私は心の中で頷いた。また常識から外れた反応をしてしまったのかもしれない。
少し反省しながら、言葉を続けた。
「それで……父と祖母が、私をその宗教に『捧げた』んです」
「捧げたって……えっ? それ、小学生のとき……?」
「え? ええ、そうです」
小桜様が動揺して、隣にいた汀さんの方へ顔を向ける。
「これ、本当に聞いてよかったやつ……?」
汀さんは、困ったように曖昧な笑顔を浮かべた。
私も少し笑って、フォローするように言った。
「大丈夫ですよ。生きてますし」
「そりゃあ、死んでるようには見えないけどさ……」
それでも小桜様は納得のいかない顔で、呟いた。
「でも……あるだろ、傷とか、トラウマとかさ……いろいろ」
「ないんですよね、これが」
私があっけらかんと答えると、小桜様は酸っぱいものでも食べたような顔をした。
その顔も、よく見たことがある。私がこの話をすると、みんな大体こんな顔になる。だから私は、なるべく軽い調子で話すようにしている。自分が異常な体験をしてきたことくらいは、ちゃんとわかっているから。
「何度か逃げ出そうとはしたんですよ。でも、所詮は子どもですから、すぐに捕まっちゃって。何度目かには、私を匿ってくれた人の家に火をつけられたりして……迷惑かけるのが怖くなって。もう逃げるのがしんどくなって、心が折れちゃって。結局、諦めて捕まることにしたんです」
小桜様の表情が、ますます渋くなる。
「そのカルトが目指してたのは、『幸福の青い世界』に近づくことでした」
「……それって、もしかして『あっちの世界』に関係あるのか?」
「確証はありません。でも、私がいた教団なりのUBLの呼び方だったんだと思います」
「一応、確認しとくけど……UBLって、『あっちの世界』のことだよな?」
「はい。ウルトラ・ブルー・ランドスケープ。小桜様の言う『あっちの世界』のDS研内での正式な呼び方です。私がいたカルトでは、『聖地』で儀式をして、選ばれた『巫女』にUBLの力を取り込ませる……というのが目的でした。私は、その『巫女』に十数回選ばれました」
「十数回って……何を基準に選ばれてたんだ?」
「誕生日と、処女かどうか、ですね」
「そ、そうか……。にしても、十数回も……大変だったな」
「いえ、今思えば巫女役って、寝転がって変な印を結んでるだけだったので、案外ラクでした。跪いて何時間も祈る信者側の時の方が、よっぽど辛かったですね。当時は緊張してたんで、あまり意識してませんでしたけど」
小桜様の顔から、憐れみの色が消えて、少し呆れたような表情が浮かぶ。私はそれを見て、少し安心した。悲しまれるより、よっぽどいい。
「あんた……けっこう図太いな」
「そうかもしれません。で……だいたい二年前、私が十八歳のときにやった儀式で──」
言葉を切ると、小桜様が促してくる。
「……それで?」
「儀式が、成功しちゃったんです」
「……しちゃったんだ」
呆れと苦笑と困惑が混ざったような表情をして、小桜様が言う。
「『成功』って、どういう感じなんだ? UBLに入ったってこと?」
私は「はい」とも「いいえ」とも言えず、少し唸った。
「入った……んだと思います。でも、口で説明するのが難しくて。気づいたら、目の前一面に青い景色が広がっていて、なんというか……初めて万華鏡を覗いたような感覚で──」
その瞬間、背中に冷たい感覚が走った。身体が震えはじめる。でも、言葉は止まらなかった。
「いろんな国の景色や夕焼け、海の底。笑ってる顔、無表情な顔。お母さんが私を見てると思ったら、すぐに消えて……そこに父や祖母が入り込んできて。嫌だなって思ったら、最後に、私の右目が全部の鏡を埋めてて──」
「紙越さん」
気づけば、汀さんがすぐそばにいた。肩にそっと手が触れて、私ははっと我に返る。
「あ、はい……すみません。変なことして……」
「な、なになに、今のは? やっぱトラウマ残ってたりするのか?」
小桜様の声が少し遠くで聞こえた。驚いたのか、椅子ごと距離をとっていた。
「この話すると、よくこうなっちゃうんですよね」
「そ、そうなんだ……?」
まだ納得しきれていない様子の小桜様に、私はどう説明すればいいか考え──諦めた。私自身がうまく言葉にできないのだから、伝えようもない。なんとなくで、察してもらうしかない。
「だから、私はUBLに入ったという実感があまりなくて。……でも気づいたら、右目が変異してて。カルトの信者たちは、全員死んでました。父も、祖母も」
「え、死ん……え?……なんで?」
「たぶん、私の右目のせいです。DS研の──辻さんって友達から聞いたんですけど、私の右目、見た相手を壊しちゃうらしいんです」
小桜様が、じっと私の右目を覆う眼帯を見つめる。
「私もよくわかってないんですけどね。使ったのも、たぶんあのときが初めてでしたし」
「……だから、その眼帯を?」
彼女が指差すのを見て、私は頷き、黒革の眼帯を指先で撫でる。
「DS研に来たとき、危険だからって作ってもらったんです。それ以来、ずっとつけてます」
「まあ……たしかに。けど、大変じゃない? 日常生活とか」
「大丈夫ですよ。これ、けっこう気に入ってますし。かっこいいし。お風呂の時は外せますしね」
私は首にぶら下げていた小さな鍵を見せた。それは、私が自分を管理するための鍵。信頼の証。
「へあ? いやいや、おかしいだろ。なんで拘束されてる人が鍵持ってんの?」
その言葉に、私は少しムッとする。
「気持ちと信用の問題です。たとえば……包丁を持ち歩くにしても、裸のままよりケースに入ってる方が、周囲は安心してくれる。そういうものじゃないですか」
「……嫌じゃないの?」
「全然。オーケーです。これのおかげで暮らせてますから」
私は鍵を胸元に戻し、軽く頷いた。
「……そうか」
まだ釈然としない様子で首を傾げる小桜様に、私はさらに頷いた。そして、そのときようやく会話が本題から外れていることに気づいた。
「えーと、どこまで話しましたっけ?」
ふと気づくと、少し離れたところに立っていた汀さんが、落ち着いた声で答える。
「カルトが全滅して、紙越さんの右目が変異していたところまでですね」
「あ、そうでした」
私は咳払いをして続きを語ろうとするが……もうほとんど喋り終えていた。気まずくなって、こめかみをかいた。
「その後のことは──実は、あまり覚えてないんです。父も祖母も、他の人たちも、みんな倒れてて。なんで皆寝てるんだろうって、思ってて。……で、しばらくぼんやりしてたら──冴月が現れたんです」
「……唐突だな」
「冴月が言うには、フィールドワーク中だったそうです」
「タイミングが良すぎる」
小桜様が鼻を鳴らして、いかにも疑わしげな顔をする。
「運命だったのかもしれません」
「運命ねえ……」
私が構わず続けると、小桜様は気のない声で返してきた。
「そのまま、私は冴月に連れられて……それからずっと、DS研で保護してもらっています」
「そのあとは?」
視線が静かに刺さる。私は少し間を置いてから、言った。
「そのあとは……今日までの二年間、冴月が私の右目の研究をするって言って、ほとんど毎日のように話し相手になってくれていました」
「UBLのこととか、何か言ってなかったのか?」
「さっきも言いましたけど、『一緒にUBLに行かない?』って、冴月には何度も誘われてました」
「それでも、行かなかったんだ?」
「はい……。冴月は『この右目が役に立つかも』って言ってくれてたんですけど──」
私は言葉を切り、息を吸った。
「……でも、初めてUBLに入ったときの感覚が……あまりにも怖くて」
思い出した瞬間、背筋が冷たくなった。私は小さく身をすくめて、肩を抱く。
小桜様は、私の震えに気づいて何度も頷いた。
「たしかにな。あっち側は、怖すぎる……その恐怖は、間違ってないと思うぞ」
「ありがとうございます。……でも、私がUBLに行くのが怖かったのはもちろんあるんですけど……」
言い淀み、視線を落とす。けれど、ちゃんと伝えなければと思って、私は顔を上げた。
「……冴月がUBLに行っちゃうのが、怖かったんです。何度も『行かないで』って、お願いしてました。でも……」
言葉を継ごうとして、喉の奥が詰まった。
「……結局、いなくなっちゃいました」
部屋の空気が、しんと静まった。
小桜様は、しばらくうつむいたままだった。表情は見えなかったけれど──私は思い出していた。
この人も、冴月がUBLに行こうとするのを止めようとしていた。──私と同じように。
だから私は、この女性に対して、不思議な友情のようなものを感じていた。
「──これが、私と冴月との馴れ初めです」
「そうか……いろいろ聞かせてくれて、ありがとな」
そう言って小桜様は、丁寧に頭を下げた。
その長い、脱色された髪が、床にすっと触れる。
この部屋は掃除が行き届いているけれど、床に髪がつくのは、やっぱり不衛生かもしれない。そう思ったけれど、頭を上げた小桜様は、まるでそんなこと気にした様子もなく、まっすぐに私を見つめていた。
その視線が、迷いがなくて──。
私は思った。
ああ、この人は誠実で、きっと良い人なんだな、と。
その後、小桜様は汀さんとしばらく話をしてから、汀さんに送られて帰っていった。
また会えるといいな、と私は思った。
4
三月十一日。
冴月が失踪してから、そろそろ一ヶ月が経つ。
「よお、空魚ちゃん」
「あ、小桜さん。こんにちは」
「これ、お土産。みんなで食べて」
「ありがとうございます。いただきます」
あれからも小桜さんは、たびたびDS研を訪れていた。
汀さんの話では、今は冴月と同じ「客員研究員」という立場になったらしい。個人的には、客員研究員っていうのは冴月のための特別なポジションだと勝手に思っていたから、そこに誰かが入ってしまうのは、冴月の不在が完全な事実になってしまうようで、ちょっと嫌だった。
でも……小桜さんなら、まだ我慢できた。
口調はちょっと乱暴だけど、お土産を持ってきてくれたり、気さくに声をかけてくれたり、優しいところもちゃんとある。そういうのが積み重なって、小桜さんがここにいるのは自然なことに思えてきた。
何も知らない外部の人がやってきて、冴月の研究室を勝手に片づけていくより、何千倍もいい。
もっとも、小桜さん自身は、研究員らしい活動をしているわけじゃない。
冴月の研究室をゴソゴソと漁っては、何かを探している様子で、それが見つからないと、がっかりした顔で帰っていく。
それでも、私とすれ違えば軽く言葉を交わすようになっていて、私もそれが楽しみになっていた。
難しい話題も、小桜さんが話すと噛み砕かれて聞きやすくなる。だから、来てくれるのがちょっと待ち遠しい。そういう感じだ。
ただひとつ──冴月の話題になると……いつもモヤモヤする。
小桜さんの語る冴月は、私の知らない顔ばかりで、聞いていてむず痒くなった。しかも、そういう話の締めに限って、「空魚ちゃんは、ああはなるなよ」と言ってくる。まるで当てつけみたいで、ちょっと意地悪だな、と思っていた。
だけど、今日は様子が違った。
お土産を渡したあと、小桜さんは私を連れてそのまま冴月の研究室に向かった。
冴月のものだったオフィスチェアに、小桜さんがドサッと腰を下ろすのを、やはり私はムズムズしながら見ていた。
すると、不意に小桜さんが口を開く。
「空魚ちゃんはさ、冴月が生きてると思うか?」
机に肘をつき、手を組んだ姿勢のまま、私にそう問いかける。
「……あたしは、もう絶望的だと思ってる」
その一言を残して、小桜さんは黙る。私の答えを待っているのがわかる。
「どうして……」
喉が詰まる。ようやく絞り出した声は、思った以上に弱々しかった。
「そんなこと言わないでくださいよ……」
必死に続ける。
「冴月はUBLに行ったわけじゃなくて、どこか遠くに行ってるだけかもしれない」
「心機一転、人間関係をリセットしたかったってこと?」
「………………」
「だといいんだけどな。そうだったら、帰ってきたときに一発ぶん殴って終わりにしてやるのに」
小桜さんは、私の沈黙を気にも留めず、さらに続けた。
「まだ諦めずに、一人でUBLに潜ってるバカがいるんだ。仁科鳥子って女なんだけど……話したよな」
「知ってます。仁科鳥子さんも……冴月のこと、好きなんですよね」
「……まあ、そうだな」
「……」
「……」
冴月を探すために、たった一人でUBLに潜るなんて。仁科鳥子という人は、なんて強いんだろう。
私なんかより、ずっと冴月のことを想っているんじゃないか──そんな疑問と、どす黒い敗北感が、胸の奥に重く沈んだ。
「なあ、空魚ちゃん」
その思考を、小桜さんの声が遮った。
「将来のこと、何か考えてんの?」
「え……?」
あまりに不意打ちすぎて、思考が真っ白になる。なんで今、そんなことを?
「いやさ、冴月の話は一旦置いておこうと思ってたんだけど……そうすると、なんとなく今は空魚ちゃんのことが気になってな。お節介というか、余計なお世話かもしれないけどさ。いつまでもDS研にいるわけにもいかないだろ?」
「私は……DS研で、ずっと働きたいです」
「働くって……空魚ちゃん、働いてんの?」
「……ちゃんと働いてますから」
ちょっとムッとしながら言い返すと、小桜さんが興味ありげに訊いてきた。
「へえ、どんな仕事してるの?」
「主に清掃とか、ゴミ収集とか、お客さんが来たときのお茶出しとか……あとは第四種の患者さんの部屋掃除とか。頼まれれば、他にも。何でもやります」
「じゃあ、冴月の部屋の掃除も?」
「はい!」
私は胸を張って答えた。
「へえー、そうか。綺麗にしてくれてありがとさん」
小桜さんが研究室を見回す。私はその言葉に満足して、さらに胸をそらした。
「失礼だけどさ、給料いくらくらいもらってるの?」
「……いくらくらいだろう? あるのかな」
言った瞬間、小桜さんの眉間に深いシワが刻まれた。しまった、怒らせたかも。
「なんで把握してないんだよ。念のため聞くけど、搾取とかされてないよな?」
「それは……はい、ないと思います」
小桜さんは、少し間を置いてから、重たい口調で言った。
「契約内容とか賃金によっては、労基法的にも道理的にもアウトだぞ?」
「そもそも、雇ってもらってるんでしょうか……」
「なあ、本当に大丈夫なのか?」
小桜さんの言葉に、私の中にも疑問が広がっていく。今まで、そんなこと考えたこともなかった。
「空魚ちゃんがDS研と健全な関係を保つためにも、自分の財布の中身くらいはちゃんと把握しとけ。ほしいものがある時、何も買えなくなるぞ」
「ほしいもの……特にないんですよね。去年、誕生日にSwitch買ってもらったので」
「Switchって……」
「アソビ大全とマイクラと、あとピクミンが面白くて。ずっと遊べます」
「ああ……そう」
「小桜さんもやってみます?」
「いや、遠慮しとくわ」
小桜さんは、ゆるく頭を振った。
「空魚ちゃんと話してると、大きい子供と話してる気分になるな」
「小さいころから学校に行ってなかったからかもしれません。必要なら常識、知らないんです。私」
私がそう言うと、小桜さんは少し気まずそうに目を伏せた。
「それは……そうだな。悪かった」
不意の謝罪に、私はちょっと戸惑ってしまう。そんなつもりじゃなかったのに。
「いえいえっ。自分でも、欠点だと思ってるので!」
私が言うと、小桜さんは笑って、さっきより少し前のめりになった。
「ていうか、空魚ちゃんの業務って、雑用兼御用聞きって感じなんだな。働き者なら、ウチで働いてほしいくらいだよ」
「小桜さんのお家で、ですか?」
「そう。無駄に広くてさ」
私は首を傾げる。
「小桜さんって、自分の部屋の掃除できないタイプなんですか?」
「『広すぎる』って言ってるだろ。一人じゃ全部には手が回らないの」
「あ、なるほど。それは失礼しました」
「いーよ。で、どう? ウチで働いてみるの。ここより給料出せるかもしれないよ?」
「えぇ〜? 私が、ですか? そうですねえ?」
小桜さんの言葉に、私は口角がググッと上がった。口にこそ出さなかったが、その申し出がうれしくて仕方なかった。
でも──私はここを離れられない。
「せっかくのお話、ありがたいんですが、お給料とか関係なく、私はDS研で働きたいと思っているんです」
「へえ、それはどうして?」
「私がいると助かるって言ってくれる人たちが、いるので」
「……それってつまり、やりがいってことか?」
その言葉に、私は「あっ」となって、頷いた。そうか。その表現があったか。
「やりがい……そうですね。やりがい、です」
「やりがい、ねえ……」
小桜さんは、なんともいえない顔で空中を見つめた。
「あたしはさ、やりがいだけで働くの、ちょっと反対派なんだけど……まあ、空魚ちゃんがそう言うなら、仕方ないか」
「でも、やりがいだけじゃないんですよ」
「へえ、なに?」
小桜さんがさらに前のめりになって訊いてくる。その真剣さに、私は少し背筋を伸ばして答えた。
「冴月が戻ってきたら、研究を手伝わないといけないので。だから、私はここにいなきゃいけないんです」
「………………」
小桜さんは黙ったまま私の顔を見ている。でも、私は続けた。
「冴月は、私の右目には研究の価値があるって言ってくれました。でも、どれだけ価値があるって言われても、それを研究する人がいなければ、私自身には価値がないんです。だから、ここに残るために、ちゃんと働かないといけないんです。右目以外の価値を、作らないといけないんです」
小桜さんの表情が、少しずつ険しくなっていく。
「空魚ちゃんは、それで本当にいいわけ?
「もちろんです。DS研にとって今の私は、変な右目を持った危険人物のはずなのに、それでも嫌な顔ひとつせずに置いてくれてる。だったら、ちゃんと価値を示して、ここにいさせてもらわないと」
「……なんていうかさ」
小桜さんは、険しい顔のまま自分の脱色した髪をいじっている。納得がいかないといった表情だった。
「今の空魚ちゃんの考え方、ちょっとDS研とか冴月に依存しすぎてるぞ。世の中には、他にも選択肢がたくさんある」
そして、小桜さんはまっすぐ私の目を見て言った。
「DS研とか冴月のことを、神格化するのはやめておけ」
「……小桜さんの言ってること、難しくてよくわからないです」
私は口ごもりながらそう答えた。……でも、本当はわかっていた。
少なくとも、言われていることの意味は。でも──わかっているからこそ、返せなかった。だって、私にとって『外』は、自由なんかじゃない。
私は、年齢の割にすごく遅れてる。他の人たちとは、全然違う。だから、DS研を出るっていうのは、私にとっては、たぶん、生きていけないってことなんだ。
「そうか。少しずつでいいから考えてみな。常識とかも、学んでいけ」
私の心のうちなど知る由もなく、小桜さんは続けた。
「そのうち、ウチにでも遊びに来な。茶くらい出してやるから」
「ありがとうございます」
「ついでに家の掃除も頼むわ」
「いいですけど……え? 遊びに行った家を掃除するのって、常識なんですか?」
「いや、全然一般的じゃない。今のは冗談だ」
私は「なるほど」と頷いた。ほら、私は今、常識を勉強中なのだ。
「じゃあ、やめておいたほうがいいですね」
「そうだな」
そう言われて、私はうれしくなってオフィスチェアからよいしょと立ち上がり、小桜さんのほうへテクテクと歩いていった。
小桜さんは、不思議そうな顔でこっちを見ている。
「小桜さんって……良い人、ですよね」
「今のやりとりで、そう思えるところあった?」
私は力強く頷いた。
「だって、『常識』って嘘を吐いてたら、私、お掃除くらいしたと思うんです。でも、小桜さんは、ちゃんと『常識じゃない』って教えてくれましたから」
「そりゃあ……当たり前だからな。何も知らない空魚ちゃんを利用するのは、寝覚めが悪い」
「でも、その『当たり前』をしてくれる人が、私の人生の中にはぜんぜんいなかったんです。だから、DS研のみんなも、小桜さんも、特別で、良い人なんです」
汀さんも、師長さんも、お医者さんの先生も、看護師さんたちも、職員さんたちも、みんなそうだ。
私に「注意」をして、「叱って」くれる人たち──それは、私に「常識」を教えてくれる、〈良い人〉たちなのだ。
食事は毎日取るものだとか、お風呂には毎日入ること、歯は一日三回磨くこと。ドアは静かに開け閉めすること。くしゃみや咳をするときは口元を隠すこと。肘をついて食事をしないこと。食べ物を口いっぱいに入れて食べないこと。爪は週一で切ること。お箸とスプーンの正しい持ち方──。
そういう、「細かい」でも大事なことを教えてくれたのは、全部、DS研のみんななのだ。
私は、みんなのおかげで、ようやく「人間」に近づけている。
「……そっか」
小桜さんは「特別な良い人」という言葉に、少しばつが悪そうに頬を掻いた。その仕草が、どういうわけか私にはとても可愛らしく見えた。
「私、小桜さんのこと好きみたいですね」
「は……す、好き? あたしが?」
「はい。小桜さんに抱きつきたいです」
そう言うと、小桜さんはぎょっとした顔で両手を前に出し、バツ印を作りながらオフィスチェアごと後ずさった。
「い、言っとくけどな、知らんやつにいきなり抱きついたりすんなよ。もちろん、あたしにもな」
「大丈夫です。常識的じゃないって、もう汀さんたちに教えてもらってます。よく知らない人にはしません」
「……そりゃ安心した。でもな、抱きつくだけじゃなくて、『好き』って言うのも、あんまり軽く口にするもんじゃないぞ。ちゃんと考えてから言った方がいい」
「えっ? 好きもダメなんですか? じゃあどうやって好きって伝えればいいんですか?」
首を傾げる私に、小桜さんは口元に手を添えながら、少し悩むように言った。
「あー……心を込めて、真摯に人と向き合うこと、か? あたし的には、誰彼構わず『好き』とか『愛してる』とか言うのは、あんまり勧めたくないな」
「そうなんですか……でも私、もうけっこうな人に言っちゃいました」
「おいおい……」
「それに、誰かれ構わず言ってるわけじゃないです! 好きとか抱きつくのも、ちゃんと選んでます!」
「………………」
私の抗議に、小桜さんはふっと目を閉じて、肩のあたりで両手をひらひらと振った。なんだろう、そのジェスチャー。
「それって、どういう意味なんですか?」
「さあ……? 別に深い意味があるわけじゃないけど」
「そうなんですか?」
「まあ、少なくとも悪い意味じゃないよ」
私がまだ腑に落ちないでいると、小桜さんがぽつりと呟いた。
「……汀たちが空魚ちゃんを気に入ってる理由が、ちょっと分かった気がするな」
「気に入られてますか? 私」
「べったべたに、な。過保護じゃないか。ってくらいだ」
そう言って、小桜さんはまっすぐ私の目を見た。
「でもな、それは当たり前にやってもらえることじゃない。ちゃんと感謝して、自覚しておけよ? わかった?」
「はい。わかりました!」
私は元気よく返事をして、そのまま小桜さんに抱きついた。
一瞬、小桜さんの体がこわばるのが分かった。再起動するみたいに、ぎこちなく動き出した小桜さんは、「離せ、離せ」と慌てた様子で言っていたけど、私が、
「小桜さんはよく知らない人じゃないからいいんです」
と言うと、しばらくして力が抜いて黙り込んだ。
そして、何も言わないまま私の背中にそっと手を回し、優しくポンポンと叩いてくれたのだった。
5
小桜さんとハグし合った日から、数週間が経った三月二十七日の午後。
私の部屋の前に汀さんが現れた。
誰かが来ている気配はなんとなく感じていた。でも、第四種の患者さんに会いに来るご家族や関係者が、この突き当たりにある私の病室まで来ることはまずない。
私はその日が休日だったこともあって、薄緑色の病院着のまま、ベッドにだらしなく寝転がってSwitchで遊んでいた。枕元には外した黒革の眼帯が転がっていて、机の上にはさっきまでやっていた算数と国語のドリルが開きっぱなしになっている。
慌ててSwitchのホームボタンを長押ししてスリープにし、扉を開けた。
「休日中に申し訳ありません、紙越さん」
「あ、全然平気です。どうかしましたか?」
汀さんは小さく頷くと、自分の後ろに立っていた二人の女性を手で示した。
一人は小桜さんだった。「おっす」と手を挙げて挨拶してくれる。その隣に立っていたのは、私よりもスラリと背の高い女性──見覚えのない顔。でも、すぐにわかった。
美女。間違いなく美女。今まで見た中で一番、漫画みたいに容姿が整っている。
通った鼻筋、深い藍色の瞳、光をまとったような長い金髪──目を引く。どころか、視線を外すのが難しかった。
この人だ。冴月の、私以外の友達。……仁科鳥子。
「……私のお客さん、ですか?」
私は汀さんに訊ねた。
「はい。突然の訪問で申し訳ありません。メッセージを送らせていただいたのですが……」
そう言って汀さんが頭を下げる。私はあわててポケットからスマホを取り出して確認した。
……マナーモードのままだった。
普段からあまりスマホは使わないし、ゲームに集中していて気づかなかった……。
自分の不注意を悔やんでいると、汀さんの後ろから小桜さんの声が飛んできた。
「悪いね、急に来ちゃって。こいつがどうしても空魚ちゃんに会いたいって言うからさ」
そう言って小桜さんが隣を指差す。
急に来たって別にかまわない。むしろ、小桜さんなら大歓迎だ。暇な休日を潰すにはちょうどいい。
問題は、その隣で涼しい顔をして立っている仁科鳥子だった。
視線に気づいたのか、彼女も私の方を見返してきた。目を逸らしたくても動けなかった。そうして固まっている私に、仁科鳥子は小首を傾げ、ニコッと笑いかけてきた。
顔が一気に熱くなるのを感じた。
私は俯いて、自分の姿を確認する。
……ダメだ。今の私はひどい。
シワの寄った病院着、くしゃくしゃのベッドシーツ、散らかった私物。髪もとかしていない。完全に休日モードのまま。こんな姿で初対面の人と対面するなんて無理だ。
「着替えてきます!」
そう叫んで、私は慌ててドアを閉めた。
普段から着ているピンク色のスクラブに着替え、手に取った櫛は……諦めた。今の私の髪に櫛を通すには時間がかかりすぎるし、人を待たせるのは気が引ける。
くたびれたヘアゴムで髪をひとまとめにして、勢いよく部屋を飛び出した。
「遅くなりました!」
そう言うと、汀さんが改めて頭を下げた。
「休日中に申し訳ございません。閏間さんのことで、紙越さんからお話を伺いたいとのことでご案内しました……仁科様。こちらが弊協会所属の紙越です」
「はじめまして。紙越空魚と申します。よろしくお願いいたします!」
汀さんの紹介に合わせて、私も頭を下げる。
仁科鳥子──仁科様は、すっと私の方へ歩み寄り、手を差し出してきた。私も同じように手を伸ばし、その手を取る。
私の手とはまるで違う。すべすべしていて、あたたかくて、気持ちがよかった。
仁科様が言った。
「はじめまして。部屋の中、入ってもいい?」
「あ、はい。どうぞ……」
言ってから、「しまった」と気づく。ベッドの上は散らかりっぱなしだった。
きっと、私はものすごくバツの悪い顔をしていたのだろう。仁科様は笑って、こう言った。
「部屋、片付け途中だった? ごめんね。でも、私は気にしないから大丈夫だよ?」
──あなたが気にしなくても、私は気にするんだってば!
内心でそうツッコミながらも、私は諦めて扉を開け、三人を部屋に招き入れることにした。
「私、仁科鳥子。よろしくね」
「……紙越空魚です。はじめまして」
挨拶を返しながら、私は仁科様のフランクな態度に、どう応じるべきか迷っていた。接客モードか、それともオフモードか──どのくらいの温度感でいくべきか、見極めが難しい。
そんな私の迷いになんて気づいていない様子で、仁科様がぽつりと呟いた。
「この部屋……」
「部屋……?」
「ガラス張りなんだね。落ち着かなくない?」
訊かれて、自分の心を探ってみる。ガラス張りの部屋──たしかに普通の部屋ではない。でも。
「特には……慣れました。それに、すりガラスにもできるので」
「へえ。すごいね。でも、『慣れる』って、どれくらいここに住んでるの?」
「だいたい、二年くらいになります」
「二年!? そうなんだ……」
私は「はい」と声に出す代わりに、静かに頷いた。
「ずっとここにいるの、退屈じゃない? なんで外に出ないの?」
あまりにも突然な質問で、私は少し驚いてしまった。
「それは……外に、出られないから……」
「え、出られない……?」
──外は怖い。私の居場所なんて、外にはない。
ここ、DS研の方がずっと安全だし、何より冴月が帰ってくる可能性があるなら、私はここで待っていたい。
もしも生存は絶望的でも、第四種としてどこかにいるのなら、希望はゼロじゃない。変わり果てた姿になっていたとしても、私がお世話してあげられる。だから、私はここにいる。
そんなことを頭の中で必死に反芻していると、仁科様がそっと私の腕をさすった。
そして、少し眉をひそめながら、汀さんの方をじっと見つめる。
再びこちらに顔を戻すと、優しい笑顔で言った。
「いつか出られるといいね。外に」
「え? あ、はい……」
なんだろう、いまの……?
「ねえ、空魚って呼んでもいい? 私、敬語って苦手なんだ」
突然の提案に、私は面食らう。こんな距離の詰め方をしてくる人は初めてだった。
緊張で、体中の筋肉がぎゅっと固くなるのを感じながら、なんとか応じた。
「い、いいよ……鳥子ちゃん」
「うーん……」
鳥子ちゃんは、指先で顎を突きながら悩ましげな表情を浮かべた。
その仕草ひとつとっても、私とはまるで違う。洗練されている。ちゃんとしてる子は、やっぱり違うんだなあ……。
そんなことを思いながら、私も真似して顎を撫でてみる。
すると、鳥子ちゃんが言った。
「『鳥子ちゃん』より、『鳥子』の方がいいかな」
「わ、わかった……鳥子」
鳥子は嬉しそうに目を細め、ふいに両手で私の手を取ると、唐突に言った。
「すごく綺麗な目だね。それが──あっちの世界で手に入れた目なの?」
「へ?」
間抜けな声が出る。慌てて右目に手をやる。……いつもの革の感触がない。
――眼帯を、巻き忘れてた。
「ご、ごめんなさいっ!」
「いいよいいよ。気にしないで。だって、こんなに綺麗なんだもん。隠すなんてもったいないよ」
そう言って、鳥子は私の両肩をしっかりと掴む。驚く間もなく、そのままベッドの縁に腰を下ろさせられた。
私は、鳥子が視界に入らないように必死で首を背ける。
けれど、そんな私の抵抗など知らない様子で、鳥子は満足げに笑い、部屋の中をぐるりと見渡しながら、私の隣に腰かけて言った。
「ひどいよね、小桜。DS研のことも、空魚のことも、私には何も教えてくれなかったんだから」
「そ、そうなんだー……」
曖昧な返事をしながら、鳥子がこちらを見ていない隙を狙って、私は枕元に手を伸ばす。置いてあった眼帯を手早く取り付けた。
──ふう、落ち着く。
目をそらしている間に私が眼帯をつけたと気づいた鳥子は、ちょっと残念そうに口をとがらせた。
でも「本当に危ないんだ」と私が言うと、肩をすくめてあっさり引き下がった。
「まあ、いいけどね……それよりさ」
鳥子は表情をピッと引き締め、姿勢もどこか真剣なものに変わる。
「空魚が知ってる冴月のこと、何か教えてくれない?」
やっぱり──鳥子の用件は、冴月の失踪に関して、私が何か知っていないかということだった。
でも、誰に訊かれたとしても、多少のニュアンスの違いはあれど、私の答えは変わらない。
私は鳥子の問いに答えながら、しばらく会話を続けるうちに、ふと気づく。
鳥子って、よく笑うんだ。
もちろん、場違いに笑ったりはしない。けれど、そうじゃないときには自然にニコニコしている。
悲しい話をしているときでさえ、完全には沈み込まず、どこか笑顔を忘れない。
そのことがどうにも気になって、私は思わず訊いた。
「鳥子は、どうしてそんなに明るいの?」
すると鳥子は、少し首をかしげ、不思議そうな顔をして──真剣な目で、逆に問い返してきた。
「空魚は、どうしてそんなに暗いの?」
私は、眉を寄せて反論する。
「だって、冴月がいなくなってから……もう二ヶ月近く経ってるんだよ?」
「そうだね。それがどうしたの?」
あまりにあっさり返されて、私は言葉を失った。
鳥子の顔を見つめる。嘘でも冗談でもない。強がりでもない。
心から信じている。そんな表情だった。
小桜さんにちょっと言われただけで、ぐらついてしまった私とは違う。
その強さが、まぶしかった。
だから私は、少し悔しさをにじませて言った。
「……みんな言ってるよ。冴月、もう死んじゃってるかもしれないって」
「冴月は生きてるよ」
私の言葉にかぶせるように、鳥子が断言する。
「どこかで、必ず生きてるの」
その声があまりにも真っ直ぐで、私は思い出す。
──まだ、鳥子には話していなかった冴月とのやりとりを。
「……冴月はね、UBLに行くとき、必ず私に『行く』って伝えてくれてたんだ」
「……そう、なんだ」
鳥子は、ふと虚ろな表情になった。
私のせいで、そんな顔をさせてしまった。
なんとかしてあげたかった。でも私は、慰め方なんて知らない。ただ、知っていることを話すしかできなかった。
「でもね……冴月がいなくなっちゃった日だけは、何も言ってくれなかったんだ」
鳥子は眉を上げてしばらく私の言葉を咀嚼していたが、意味がわかった途端、喰らいつくように前のめりになった。
「それなら、あっち側じゃなくて、こっちの世界にいる可能性もあるってことだよね!」
私は少し考えてから、首を横に振る。……これを言ったら、また鳥子は落ち込むかもしれない。
「その可能性は低いって、このあいだ小桜さんと汀さんと私の三人で話したの」
「それはどうして?」
「……もう二ヶ月も経ってるのに、連絡ひとつないなら、UBLで何かあったか、こっちの世界で連絡できない状況にいるかのどちらかじゃないかって。でも、汀さんが調べても、こっちの世界での冴月の足取りはまったく掴めなかったんだ」
私がそう告げると、鳥子は一瞬だけ目を伏せた。けれどすぐに顔を上げ、強い意志を宿したまなざしで私をまっすぐに見つめてくる。
「なら、汀さんたちが探しきれてないのがUBLだけってことだよね。なら、そっちは私が探すしかない。あっちかこっちか、場所が分かっただけでも十分だよ」
そう言って鳥子はくるりと汀さんの方を向き、すぐに問いかける。
「一応訊きたいんですけど、どうしてDS研の人たちはUBLに冴月を探しに行かないんですか?」
汀さんは目を伏せ、こくりと頷く。それは、気まずい話をするときの仕草だ。
「危険だからです。侵入・脱出のルートが確立されておらず、先ほど病室前でもご説明した通り、UBL内のアノマリーに接触した場合、対処不可能なダメージを負い、第四種接触者となるリスクが極めて高い」
「あの人たちみたいになる……『第四種接触者』」
鳥子はゆっくりと私に向き直る。
「空魚もそうなんだよね? 第何種になるの?」
「……私も、第四種だったはずだよ」
今度は小桜さんの方へ向き直って、鳥子は首を傾げた。それに小桜さんは数秒目を閉じ、少し思案してから答える。
「ああ、分類的には空魚ちゃんも四種なはずだ」
「そっか……」
鳥子は小さく唸りながら、なぜかじわじわと私の方へ近寄ってくる。
「でも空魚って、他の第四種の人たちとはぜんぜん違うよね。ちゃんと人間だし、ちゃんとかわいいし、髪もこんなに長くてサラサラで綺麗。ってことは──冴月も同じ……」
その瞬間、鳥子の指が私の髪に触れ──。
パツンッ!
乾いた音とともに、ヘアゴムが千切れて飛んだ。
「ひゃっ」
「あっ、ごめん!」
私は音と感触に驚いて、小さく悲鳴を上げてしまった。鳥子は目を丸くして手を引き、慌てた様子で謝ってくる。
「大丈夫? ごめんね?」
「だ、大丈夫……ちょっとびっくりしただけ」
私は胸を押さえながら、鳥子に首を振ってみせる。
嫌だったわけじゃない。ただ、こんなふうに、断りなく触れてくる人なんて、親しい人でもなかなかいなかったから。それで驚いてしまっただけ。……だから、引かないでほしい。
「おまえさあ、距離の詰め方が急すぎるんだよ」
椅子に座っていた小桜さんが、やれやれといった調子で言う。
その言葉に、鳥子は目尻を下げて、また私の方へ向き直った。
「ほんとにごめん。私、コミュニケーション取るの苦手で……変なことしちゃったよね。もうしないから。……あのヘアゴム、大切なものだった?」
私は鳥子に向かって、ぶんぶんと首を振った。
「ううん、大丈夫。本当にちょっと驚いただけだから。ヘアゴムも、看護師長さんに昔もらったやつで、二年ぐらい使ってたからもうボロボロだったの。だから気にしないで」
「ほんと?」
鳥子が念を押すように尋ねてきたので、私は今度はもっと大きく頷いて返した。
「よかった……なんか、トラウマでもあるのかと思っちゃった」
鳥子は胸をなでおろすように息を吐いた。
「でも、本当に綺麗な髪だよね。すごく長いのに、さらさらで。……うらやましい。冴月の髪みたい。……触ってもいい?」
「うん」
鳥子はまたそっと手を伸ばし、私の髪に触れた。壊れ物でも扱うみたいな優しい手つきで、くすぐったいような、でも心地よい感触がした。
──ああ。
私はふと気づく。この子も、同じなんだ。小桜さんと同じ、外から来て、でもちゃんと「良い人」だ。
ちょっとだけ、抱きつきたくなった。でも、まだ早いかな。もっと仲良くなってから……。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、鳥子は満足そうに手を引くと、肩にかけたバッグからひとつヘアゴムを取り出して、私に差し出した。
「あげる」
「えっ……いいの?」
「いいよ。壊したの、私だし」
「えっと……たぶん、ちがう……よ?」
私は小さく呟いたけど、鳥子はまったく気に留めず、私の手のひらにヘアゴムをそっと乗せた。
そして、「うん」と満足げに頷くと、急に首を傾げて訊ねた。
「ところで、どこまで話したんだっけ?」
「空魚ちゃんが他の第四種と違って、人間のままなのはなんでだろう──冴月もそうなってるかも、ってとこまでの話だな」
と、小桜さんが会話を引き戻す。
この流れ、なんか前にもあったような気がするな。私が人と話すと話題がズレやすい気がする。
でも、私にとってはありがたかった。少し忘れかけていたところだったから。
「そう、それ! 冴月も空魚みたいな第四種になって、生きてる可能性があるってことだよね。……ところで、空魚が普通の人間の体のままでいられるのって、どうしてなの?」
鳥子は不思議そうに尋ねてきた。
私はちょっとだけ首を傾げてから、答えた。
「正確なことはわからないんだけど、たぶん……私は他の第四種の人たちみたいにUBL内を歩き回ったりしてないからかも。アノマリーにちゃんと接触したわけじゃないんだと思う。だから、右目だけ変質したままで済んでるのかも」
鳥子は「うーん」と唸り、腕を組んだ。
「私、けっこうUBL歩き回ってるけどなー。何にも起きないよ?」
不満げに言う鳥子に、小桜さんがちょっと呆れたように口を尖らせる。
「何もなくてよかったろ。冴月や汀の話聞いてる限り、ろくでもないことばっかなんだから」
「もちろん、どうにかなりたいわけじゃないよ?」
鳥子は軽く肩をすくめ、私の方に向き直った。
「空魚は、UBLに行くつもりないの?」
私は一瞬、息を詰めた。
そこは……できれば訊かれたくなかった。
「い、行きたいけど……怖いし……」
と、言い訳を続けようとしたところで、鳥子の言葉がかぶさった。
「なら、私と一緒に行ってみないっ? そしたらきっと怖くないよ!」
「で、でも……行き方わかんないよね? 冴月みたいに事故物件とか探すの?」
「私、行く方法知ってるよ」
鳥子は自信満々の笑みで答えた。
「えっ、ほんとに?」
「うん。冴月に教わった場所があるの」
そう言って、鳥子は自然な動きで私の肩を抱き、汀さんの方に体を向けて訊いた。
「汀さん、冴月を探しに、空魚を連れてUBLに行きたいんですけど、いいですか?」
笑顔でそう訊いた鳥子に対し、汀さんは首を横に大きく振った。
「申し訳ございませんが、たとえ閏間さんを救助するためであっても、弊協会の職員を危険に晒すことは致しかねます」
あらかじめ用意していた言葉を読み上げるように、汀さんはそう言って、深々と頭を下げた。
「どうかご理解いただけますと幸いです」
「……そっか」
鳥子が肩を落としたのを見て、私は思わず反射的に口をついてしまっていた。
「ごめんね、鳥子」
「申し訳ございません、仁科様」
私と汀さん、二人に並んで謝られて、鳥子はむずがゆそうに笑った。
「なんで謝るの? 二人が悪いわけじゃないでしょ」
一連のやり取りを経て、ふと、私は少し前のことを思い出していた。
──まだ冴月がここにいたころ。
あのときも冴月は、私をUBLに連れて行こうとしていた。
でも、汀さんは必ず「賛成しかねる」と言って、私の気持ちとは関係なく、その話を断っていた。
汀さんは、私がUBLに行くことは許さないのに、冴月が行くことは止めない。
それは、私がまだ子どもだから? 判断力が足りないと思われてるから?
でも──今、目の前にいる鳥子は、私と同い年か、せいぜい数歳上くらいに見える。その鳥子が行くと言っても、汀さんは止めない。
じゃあ、年齢は関係ないってこと? それとも、私だけ……?
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
鳥子が立ち上がりながら言った。
「そうするか」
小桜さんもそれに続いた。
ベッドの上には、鳥子のいた場所の名残のように、皺がくっきりと残っていた。
そのとき、汀さんが私に向き直る。
「本日はお休み中に失礼いたしました。本日の分は出勤扱いにしておきますので、そのままお休みください。正式な休日は後日へと振り替えておきます。引き続き、ゆっくりとお過ごしください」
思いがけない言葉に、私は両手をバタバタさせてしまった。
「い、いえ、私、たいしたことしてませんから! 働いたなんて、とても……!」
そんな私に、汀さんは少しやわらかく、でも諭すような口調で言った。
「働いた分だけ、きちんと休む。それで体と心を整える──それも、働く大人としての責任の持ち方の一つですよ。紙越さん」
「……あ」
汀さんの言葉で、私はこの前、小桜さんから聞いた話を思い出した。
──DS研と私の「雇用」に関する話。
「やっぱり、私……雇われてたんですね」
「はい? ええ、もちろんです。雇用に関する契約書も、きちんと交わしてありますよ」
「……そうなんですか?」
「はい。こちらの手元に一通、そして紙越さんにも、同じ内容の契約書が一通渡されているはずです」
私はなんとも言えない表情で、ぎこちなく頭を下げた。
「私……契約書、なくしちゃったかも、です。はい……」
汀さんは苦笑して、首を横に振った。
「仕方ありませんね……」
「空魚ちゃんさぁ……それじゃあ大人失格だぞ?」
備え付けの椅子から立ち上がった小桜さんが、からかうように言った。
「はい……精進します……」
私は何も言い返せず、ただひたすらぺこぺこと頭を下げるしかなかった。
数分後、私たちはエレベーターホールにいた。帰宅する鳥子と小桜さんを見送るために、一緒にここまで来たのだ。
エレベーターを待つあいだ、ふと気になって鳥子に尋ねた。
「鳥子って、これまでにUBLに何回くらい行ったことあるの?」
訊かれた鳥子の藍色の瞳が、ヒョイと左上を向く。指を折って数えながら答えた。
「十回くらいかな……空魚は?」
「私は……一回って言っていいのかわかんないけど、多分、一回」
「そっか。小桜は?」
不意に振られた小桜さんは、面倒くさそうに口を開いた。
「……三回」
「じゃあ、鳥子が一番ベテランで、次が小桜さんなんだ」
私がそう言うと、小桜さんは露骨に眉をひそめた。
「言っとくけどな。あたしは頭下げられたってもう二度とUBLには行かねえから。戦力に数えんなよ」
「どうしてそんなに行きたくないの?」
鳥子が、小首をかしげて小桜さんの顔をのぞき込んだ。
「だから……怖えからだよ」
「でも冴月のためなんだから、我慢しなきゃ」
その言葉に、小桜さんはピクリと表情を強張らせ、キッと鳥子を睨みつけた。
「お前とは比べ物にならないくらい、あたしは繊細なんだ! それに、人にはできることとできないことがあるんだよ!!」
「ご、ごめんね……」
思わぬ怒気に、鳥子は目を丸くして謝った。
そうこうしているうちに、エレベーターが昇ってきた。チンと軽い音を立てて、目の前で止まる。
汀さんが扉を押さえ、鳥子と小桜さんが乗り込んだ。最後に汀さんも乗って、エレベーターは出発の準備を整えた。
私の見送りはここまでだ。
──DS研に来てから、私は一度もこの建物の外に出たことがない。
理由はいくつかあるけれど、根っこは一つ。私はまだ、「外」に出るには子どもすぎるからだ。
知らない人の前に立つと、胸が苦しくなって、泣きたくなるほど緊張してしまう。
「外」は怖い。「外」は、私の知らないことで動いている。ルールも、常識も、言葉の使い方さえも、私はまだよく知らない。そんな私が何かを間違えたらどうなるんだろう……そう考えるだけで、冷や汗が出る。
DS研での日々だって、私はまだまともに過ごせていない。みんなに叱られたり、助けられたりしてばかりだ。そんな私が、「外の世界」の空気を吸えるはずがないと感じていた。
この感覚は、私がカルトにいた頃からずっと変わらない。
知らない儀式をしているあいだに、同年代の子たちは普通の学校に通い、普通の生活を営んでいた。私は、もうそんな子たちに追いつける気がしない。それなのに、自分の意思とは無関係に、私はカルトから引き離されてしまった。
もう、私の居場所はここしかない──そう思うしかなかったのだ。
「それじゃ、またね、空魚」
「じゃあな、空魚ちゃん」
鳥子がエレベーターの中から手を振ると、小桜さんも小さく手を上げてくれた。
「うん……鳥子も、小桜さんも。またね」
私も、二人に向かってそっと手を振った。
エレベーターの扉がゆっくり閉まりかけたとき、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
まるで、本当にひとりぼっちになってしまうような、そんな気持ちになった。
不思議だった。小桜さんの見送りは何度もしているし、鳥子とだって、一時間も一緒にいたかどうかという程度だ。
それなのに、どうしてだろう。
冴月の話はもう済んだから、鳥子はきっとここに用はない。もう来ない。そう思っただけで、目元がじわっと熱くなる。
この涙は、誰との別れを惜しんで流れようとしているんだろう。
答えはわかっていたけれど、途中の過程がうまくつながらない。まるで、途中式の理解できない算数の問題みたいで、納得がいかなかった。――あの子とはまだ、ちゃんと友達にもなれていないのに。
「もう少し……喋りたかった」
閉じていくドアを見送りながら、私は誰にも聞こえないようにつぶやいた。
そのときだった。
「あっ!」
突然の声に顔を上げる。鳥子の声だった。
閉まりかけた扉の隙間に、すっと手が差し込まれる。
開かれたドアの向こうから、鳥子が小走りに戻ってきた。
忘れ物? と思ったけれど、そうじゃなかった。鳥子はポケットからスマホを取り出すと、私に向かって言った。
「空魚、連絡先交換しようよ」
「え……?」
「あれ? 嫌だった?」
鳥子が小首をかしげる。
「……ううん! する! 交換!」
私は慌ててスマホを取り出し、メッセージアプリを開いてQRコードを表示した。鳥子がそれを読み取ると、ピコンと音が鳴り、友達リストに〈鳥子〉の名前が追加された。
友達……増えた。
「そういやしてなかったな。ついでにあたしのも交換しとくか」
小桜さんもスマホを差し出してくれる。私は、少し噛みしめるような気持ちで、小桜さんも友達に加えた。
――ふわふわと、体が軽くなる。
汀さんやDS研の人たちとも連絡先は交換している。だから、友達追加自体は珍しいことじゃない。
でも、鳥子みたいな「同年代の子」と連絡先を交換したのは、これが初めてだった。
DS研の外の人と、初めて繋がった。しかも、二人も。
三人がエレベーターに戻っていく。私はフリフリと大きく手を振った。さっきまで胸を締めつけていた寂しさは、どこかへまるごと消えていた。
扉が閉まり、エレベーターの駆動音が遠ざかる。
私は、足取りも軽く自室へ戻ると、思わず掃除を始めてしまった。床を整え、箒とちりとりで埃を集めて、モップで丁寧に拭く。
あっという間に、部屋はきれいになってしまった。
壁掛け時計を見ると、二時間近く経っていた。体感では三十分ほどにしか感じなかった。
けれど、それでもまだ足りなかった。
今度は廊下に出て、掃除を始める。箒でホコリを掃き、モップで床を拭いていると、不意に背中に視線を感じた。
振り向くと、鳥子と小桜さんを送り届けて戻ってきたのだろう、汀さんがこちらを見ていた。微笑んでいるように見えた。
私は、何と声をかけたらいいか迷った末に、鳥子と小桜さん、二人分の意味を込めて、Vサインを作って見せたのだった。
夕方ごろ、仕事が終わって部屋に戻ると、鳥子からメッセージが届いていた。
今度はちゃんと音が鳴るようにマナーモードを解除していたのだけれど、作業中はすっかり集中していて気づかなかったらしい。
──不覚、二度目だ。よくないな。
《いま家に着いたよ》
届いてからけっこう時間が経っている。
今さら何を返すべきかしばらく迷ってから、ようやく指を動かした。
《今日はお疲れ様でした》
数十秒も経たないうちに既読がつき、すぐに返信が来た。
《空魚もお疲れ様。話してくれてありがとうね。冴月が無事な可能性が上がって良かった》
私はスマホを持ったまま、頭をフル回転させて言葉を選んだ。
変な文章を送って、この子に「なんだ。変な子だな」と思われたくない。嫌われるのだけは、絶対に嫌だった。
何度も文章を作っては消し、打ち直してはまた消す──。
そんな私の葛藤をよそに、鳥子から追加のメッセージが届いた。
《今度行く時は連絡するね》
やった、また来てくれるんだ……!
胸がじんと熱くなる。
事前に連絡をくれるのは、本音を言えばすごくありがたい。今日みたいに部屋が散らかってる状態を見られるのは、ほんとうに、勘弁してほしいから。
私は急いで返事を打った。
《今度はちゃんとおもてなしするね》
《ありがとう。一緒におしゃべりしようね》
続いて、鳥子からゆるくデフォルメされたパンダのスタンプが送られてきた。
私もよく使うシリーズのやつだ。嬉しくなって、同じシリーズの別のスタンプで返す。
《同じだね。このスタンプかわいいよね》
ただスタンプを褒められただけなのに、自分自身を褒められたような気がして落ち着かなくなる。
《うん、かわいいよね。好きなシリーズなんだ》
私は無難そうな返事をして、慎重にやりとりを続けた。
その直後、鳥子から謝罪スタンプと共にこんなメッセージが届いた。
《ごめん空魚、私は大学のレポートやらなくちゃだから》
レポート。
それが何かよくわからなかった私は、「大学生 レポート」で検索してみた。
いろいろ出てくるけど、正直ピンとこない。難易度の高い読書感想文、みたいなもの? とりあえず、そんなイメージだけつかんだ。
──大学生って、こんな大変なことやるんだ。
本当は、もう少し話していたかった。けれど、鳥子の邪魔はしたくなかった。
悩んで、考えて、選んだのは、たった一文だった。
《また来てね》
6
五月十四日。
鳥子はその後も、DS研に頻繁に顔を出してくれていた。
UBアーティファクトを換金したついでに寄ってくれることもあれば、ただ私と話すためだけに来てくれることもある。
鳥子がどんな毎日を過ごしているのか。
私がDS研でどんなふうに過ごしているのか。
お互いの趣味や好きなこと。
鳥子の、亡くなってしまったご両親のこと。
それから、私たちがそれぞれ知っている冴月のこと。
こんなにも一人の人と話すのは、たぶん生まれて初めてだった。
それが私だけでなく、鳥子にとってもそうであってほしい──そんなふうに願いながら、私たちは会うたび顔を突き合わせて、私のベッドに並んで座り、話して、笑って、語り合った。
けれど、一つだけ。
私には、どうしても笑えない話題があった。
UBLのことだ。
そこがどれほど魅力的な場所であっても。
冴月との思い出がどれほど詰まっていると聞かされても。
私の心が晴れることはなく、不安だけが、胸の奥にじっとりと積もっていく。
そんな話題があった時。
私は項垂れていた。
鳥子はそんな私の様子が気になったのだろう。
長い髪を垂らしたまま膝を見つめていた私の横顔を、そっと覗き込んでくる。
鳥子の指が髪に触れて、横髪を耳にかけてくれた。顔が外気に晒される。
鳥子の声がそばから聞こえる。
「空魚、平気? どこか調子悪いの?」
私は少しだけ顔を上げて、鳥子の目を見た。
すると鳥子はギョッとしたように眉を上げ、私の背中をゴシゴシとさすりはじめる。
──どうしたんだろう?
そう訊ねようとした矢先、自分の顔がじんじんと熱くなっていくのに気づいた。
戸惑う間もなく、視界が滲み、目から涙がぽろぽろと零れ落ちてきた。
鳥子は何度も、私の頬を指で拭ってくれた。
心配をかけてしまった申し訳なさに耐えきれず、「ごめん、わたし、うわあ……」と謝りながら鼻を啜る。
鳥子はそっとティッシュを取ってきて、私の鼻をかんでくれた。
……でも、人に鼻をかまれるなんて、はずかしい。
ベッドのタオルケットにくるまって隠れたくなる。──いや、実際にはしなかったけど。
そんなことをしたら、本当に子供みたいになってしまう。
しばらくして、ようやく泣き止んだ私に、鳥子がそっと訊ねた。
「空魚、どうしたの? 私、なにか気に障るようなこと言っちゃったかな」
私は答えられなかった。黙ったまま、首をすくめる。
それでも鳥子は、私の背中を撫でる手を止めなかった。
──やめてよ。
そんなに優しい声で、優しく撫でられたら、また泣いちゃうじゃない。
顔が、くしゃくしゃになっちゃう。
私が何も言わないままでいると、鳥子はぽつりぽつりと、独り言のように呟いた。
「私ね……いつもそうなの。人との距離感がうまく掴めなくて、後になってから後悔するようなことばっかりしちゃって……ほんと、ひどいんだよ? 自分でも笑っちゃうくらい、変なことしちゃうの。思い出すと、ああもう、うわー!ってなるくらい」
鳥子は遠い目をして、中空を見つめながら話していた。
どんなことをしちゃったんだろう? と、少し気になったけれど、今は訊かないほうがいい気がして、私は黙っていた。
鳥子が続ける。
「だから私、また空魚にもそういうことしちゃったんじゃないかって、不安なの。自分だけなら、後で自己嫌悪して終わりだけど……空魚が嫌な思いをしたなら、それはちゃんと謝りたい」
そう言って、鳥子は私の両手を取った。
顔が、すごく近い。
藍色の瞳の中に、自分の姿が映っているような気がした。
「私に、謝るチャンスをくれない?」
思わず、私は首を横に振った。
「……そっか、ダメか」
「違うっ、ダメじゃないの!」
鳥子が諦めかけて、私の手を離そうとしたので、私は慌てて、するりと落ちかけたその手を握り返した。
鳥子が驚いたように目を見開く。
その瞳が、少し潤んでいるように見えた。
「なんで泣いたのか、私にもよくわからないの。だから……ちょっと、待って」
「う、うん。わからないんだ……?」
戸惑う鳥子を前に、私は普段あまり使わない脳みその部分を必死に回転させた。
なんとか言葉を捻り出す。
「私……鳥子がUBLに一人で行くの、すごく怖いの」
「………………」
「冴月みたいに、いなくなっちゃうんじゃないかって。第四種の人たちみたいになっちゃうんじゃないかって、すごく不安になる。鳥子は冴月のこと、諦めてないみたいだけど……私は本当はもう、ほとんど諦めちゃってて……だから余計に、怖いの」
「そっか……」
鳥子は、穏やかに微笑んだ。どこか、ほっとしたような表情だった。
「心配してくれてありがとう。でも、私は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよっ。冴月だって、いなくなっちゃったんだよ!?」
思わず声が裏返ってしまった。ヒステリックに叫んでしまった自分に、私自身も驚いた。
けれど鳥子は静かに、穏やかに、私の言葉を聞いてくれていた。
私は問う。
「鳥子は、第四種になったり、UBLから帰ってこられなくなったりするの……怖くないの?」
「怖いよ、もちろん。でも他に誰が冴月を見つけてあげられるの? 誰かがやらなきゃいけないなら、私が行くしかないって、そう思ってる」
その言葉に、私はうなだれた。
私だって、本当は行きたい。
でも、無理だ。あの「青」は怖すぎる。私じゃ、きっと何の役にも立てない。
自分だけが死んでしまうなら、まだいいんだ。
でも、私のせいで、この子がどうにかなってしまうのは──。
そんなの、絶対イヤだ。イヤすぎる。
私も、強くなりたい。
私も──。
「……私も、鳥子みたいになりたい」
私の胸の奥から漏れたその言葉に、鳥子が凛とした声で返す。
「じゃあ、一緒に行ってみない?」
私は即座に、首を横に振った。
「無理だよ……だって、私、UBLのこと考えるだけで……」
言いながら、ぶるりと身震いする。
かつて、あのカルトの祭壇から飛ばされたときの、あの青。
見渡すかぎり青に包まれた、異なる世界。
実際にはそれほどひどい目に遭ったわけじゃないのに、思い出しただけで、身体が――。
「空魚? 大丈夫?」
「あ、うん。まだ大丈夫……」
そう言いながら、私は腕をさすった。産毛が総立ちになっている。
鳥子がそっと手を伸ばし、私の腕に触れた。優しく撫でてくれるその手の温もりに、私はふっと息を吐いた。人肌って、こんなに安心するんだ。
「こうなっちゃうんだ」
「うん」
「おっかしいなあ。私があっちに行っても、そんなに怖い思いしたことないのに」
「私は、ただUBLに行っただけで、もう怖くなっちゃった」
「何がそんなに怖かったの?」
鳥子の問いに、私は言葉に詰まった。何が、と言われても、うまく答えられない。でも、あえて言うなら——。
「……青」
「青?」
「青い世界。一面が、真っ青だったの。あれが怖い」
思い出すだけで、また鳥肌が立ちそうになる。
私はぶるぶると頭を振った。あの色を脳裏から追い出そうとするように。
「大丈夫?」
「うん……」
鳥子は私の様子を見ながら、何か考えているようだった。ふいに、思いついたように指をパチンと鳴らし、私の肩を軽く叩く。
「空魚、それ、もしかしたら一番ヤバい時にあっちに入っちゃったんじゃないかな」
「ヤバい時?」
UBLについて語られるとき、あまり聞かない表現だった。それだけに、私は思わず問い返す。
鳥子は、ゆっくりと語りかけるように話す。
「冴月が言ってたんだ。あっちの世界って、いろいろ危ないことがあるけど、一番ヤバいのは、『青くなった時』なんだって」
「そう……なの?」
「そうだよ! だって私、今まで一度も怖い目に遭ったことないし、青い景色なんて、せいぜい青空くらいだよ?」
…………。
「ね? だからさ、一回だけ、私と試しに行ってみない? それでダメだったら、潔く諦めよう。小桜も言ってたじゃん。『誰にでもできることと、できないことがある』って。それを確かめに行こうよ!」
そう言って、鳥子が手を差し伸べてくる。
私は思わずその手を取ろうとして——けれど、躊躇してしまった。差し出された手の前で、私の指先が宙を彷徨う。
信じたい気持ちと、また怖い思いをして、自分の無力さを知ってしまうことへの恐れがぐるぐると渦巻く。
いや、それよりも──私のせいで、この子が何かに巻き込まれたら……それが、いちばん怖い。
そんな私の心を見透かしたように、鳥子がそっと私の手を取る。壊れものを扱うような手つきで、ゆっくりと手のひらを包んでくれる。
まるごと、抱えてくれた。
あたたかい……。
「無理はしなくていいんだよ、空魚」
そう言ったあとで、鳥子はもう一度、やさしく続けた。
「でもね、大事なのは、空魚が『今どうしたいか』ってことだと思うな。怖いこととか、不安なこととか、全部あとにしてさ。まずは安全な範囲でやってみるっていうのも、ひとつの選択じゃない?」
私は目を閉じる。ここまで言ってくれた人の前で、まだ悩んでいる自分が、なんだかとても情けなく思えた。
「私……UBL、行ってみたい」
「じゃあ、行こう!」
鳥子が嬉しそうにぴょんと跳ねて、拳を天に突き上げた。そしてそのまま、私の手を取って立ち上がらせ、出鱈目なステップを踏む。映画で観たことのある、大人の男女が踊る綺麗なダンスとは似ても似つかない。それでもずっと、鳥子は笑顔だった。
私と一緒に行けることが、そんなに嬉しいのかな。もしそうなら……私も、とても嬉しい。
一通り踊り終えると、鳥子はほんのり頬を赤らめて訊いてきた。
「どうすればいいのかな? 汀さんに許可、もらえばいいんだよね?」
私は少し考えてから、首を振った。
「うん、そうなんだけど……きっとまた、ダメって言われちゃうと思う」
そう返しても、鳥子はまったく動じなかった。
「私も一緒に行くから、もう一回言うだけ言ってみようよ!」
私は、頷いた。
「……わかった。汀さんに、言いに行こう!」
7
「紙越さんがUBLに行くことに反対するのは、私だけでなくDS研全体の総意です」
鳥子は私との話を終えると、そのまま私の手を取って、ノックすらもどかしいとばかりに汀さんのオフィスへと踏み込んだ。汀さんは落ち着いた様子で静かに微笑んでいる。
私たちは促されるまま、汀さんの正面にあるソファに並んで腰掛けた。これまでの経緯を二人で説明し、私のUBL出向の許可を求めた──その返答が、先ほどの「No」だった。
「どうして空魚に断りなく、勝手に『行っちゃダメ』なんてことになるの? 空魚の意志は?」
「危険だからです」
「汀さん、あっちに行ったことある? 私は何度も行ってるけど、危ない目になんて、一度も遭ったことないよ?」
私は、それを横で聞きながら「それは悪手だよ」と、鳥子とつないだ手に念を送った。
「仁科さんも、第四種接触者の方々が今どんな状態で病室にいるのか、ご存知のはずでは?」
鳥子は「ぐっ」と唸り、言葉に詰まると、すぐに論点を切り替えた。
「でも、空魚が怖がってる『真っ青な世界』と、私がいつも行ってるUBLは、たぶんまったくの別物だと思うの」
「そのご意見を否定することは私にはできませんが、肯定することもできません」
「だったら、空魚の意思を尊重して、行かせてあげるべきじゃないの?」
「ええ、その通りですね」
「じゃあ、私と一緒に行くぶんには構わないってこと?」
「紙越さんの自由を尊重することと、紙越さんの決断に我々が反対することは、両立するものです」
「……? すみません、それってどういう意味ですか?」
汀さんの言葉がよく飲み込めず、私は思わず聞き返した。
汀さんは表情を崩さず、優しい笑みを浮かべたまま、私にわかるようにゆっくりと言葉を選んでくれる。
「紙越さんが何かをしたいという意思は、私たちにとって大切にすべきものです。ただし、それが私たちの判断として『良し』とは言えない行為であれば、反対の立場を取ることもあります。しかしそれは、紙越さんの行動を妨げるという意味ではありません。意志を尊重する、というのは、そういうことなのです。もし紙越さんが私たちの反対を押し切って行くというならば、私たちはそれを受け入れるしかありません」
「えーと……?」
私はますます混乱した。もともと頭の回転が早いほうではないとは思っていたけど、これはちょっと……難しすぎる。
結局、行っていいの? ダメなの?
「つまり、『行くのは反対だけど、止めはしない』ってこと?」
私とつないでいた手をギュッと握りながら、鳥子が代わりに問いかける。
「ええ。それが、私たちが考える『紙越さんの意志を尊重する』ということです」
「……私が空魚を連れて行って、空魚が何か不利益を被るようなことが起きたりは……しないよね?」
「そのような意図は一切ございません」
つまりこれは……事実上の「行っていいよ」と同じでは?
《おい、おまえら。これで許可が下りたとか思ってんなら、甘いぞ》
鳥子が持っていたスマホから、やや低めの女性の声が響いた。スピーカーモードにした小桜さんの声だ。鳥子が交渉の助っ人として呼んでくれていたが、正直私は、どちらかというと小桜さんは汀さん側の人なんじゃないかと感じていた。
その間にも、小桜さんの声が続く。
《おまえらの思考にはな、「周囲の人間が心配してる」っていう観点がごっそり抜け落ちてる》
さらに鋭く刺すような声で言い放った。
《今まで世話してきた子が、これから危ない場所に行こうとしてる。止めるのが大人の責任だろ? いくら自由意志があるとはいえ、心底心配だから「行かないでほしい」って願ってるんだ。それくらい、察してやれよ》
小桜さんの言葉に、私は思わず汀さんの方を見る。目を閉じ、膝の上で手を組んでいた。反論の気配はない。ということは……本当に、そういうことなの?
胸の中にずっと燻っていた疑問が、抑えきれずに口をついて出た。
「でも、私って……DS研にとって、その……お荷物なんじゃなかったんですか?」
その瞬間、汀さんが目を大きく見開いた。初めて見る――彼の、驚いた表情だった。
「お荷物……とは?」
「えっと……穀潰し、というか……DS研に負担ばかりかけてる人……ええと、ニート? みたいな……」
私の言葉に合点がいかないのか、汀さんが小さく首を傾げている。なんとか伝えたくて、私はうまくもない口で無理やり言葉をつないだ。
「だって私、冴月が右目の研究をしてくれない限り、何の利益も生み出さない存在じゃないですか。掃除とかはしてるけど、それだって本当に役に立ってるかどうか……自己満足なだけなんじゃないかって」
喋っているうちに、自分がどんどん惨めになってきて、泣きそうになった。語尾は曖昧になり、揺れて、空気に溶けていった。
数秒の沈黙のあと、汀さんが真剣なまなざしで私を見据えた。
「事実だけを述べるなら──最初は、そうであったかもしれません。以前の紙越さんは、生気がなく、何事にも関心を持たず、我々との意思疎通の意思もほとんどなかった。……もちろん、後ろ盾となるスポンサーもおられませんでした。そういう意味では……あまり使いたくない言葉ですが、『穀潰し』という表現も、まったくの的外れではないでしょう。ですが──」
汀さんは言葉を切り、私をまっすぐ見つめる。私は胸の前で握っていた手に、もう一度力を込めた。
「いまの紙越さんは、DS研の職員として指示された仕事をしっかりこなしています。そして、衣食住に必要な費用は給金から天引きされている。つまり、紙越さんは既に、DS研にとって一方的に負担をかける存在ではありません」
その言葉が、じわじわと頭にしみこんでくる。右手に込めていた力が抜け、私はゆっくりと手を緩めた。汀さんのひとつひとつの言葉が胸に沁みて、自然と息が吐き出された。
隣の鳥子が肘で私を突く。見上げると、「よかったね」と顔に書いたような笑み。私もそれに頷いた。
ずっと心に引っかかっていたもやもやが、すーっと晴れて、胸の中が温かさと安堵で満たされていく。
……もう、今日はこれで十分かもしれない。
そんな甘い考えが頭に浮かんだところで、それを見透かしたように鳥子が次の質問をぶつけた。
「UBLの話はわかったけど、あっち側と関係ない『外』にまで空魚を出そうとしないのは、なんで?」
汀さんは、また小さく首を傾げた。私も傾げる。鳥子も「ん?」と首を傾げて――三人そろって首をかしげた。
……え、外出って、ダメだって言われてたっけ?
戸惑っていると、汀さんが落ち着いた声で答えた。
「我々が反対しているのはUBLへの同行だけで、DS研の外に出ること自体については、紙越さんの自由に任せるつもりです。ただ──紙越さんご自身が、外出を怖がっていらっしゃると、私は記憶していますが」
「あ……はい。外に出なかったのは、私が嫌だったからです」
「え? あれ、そうだったの……?」
鳥子に聞かれて、私はこくんと頷く。
「初めて会ったとき、空魚、『外に出られない』って言ってなかった?」
言ったかもしれない。でも、あのときの私の言葉は、少し違う意味を持っていたように思う。
「……『閉じ込められてて出られない』っていうより、『外が怖くて出られなかった』って感じだったと思う。ややこしい言い方して、ごめん」
すると鳥子は、左手で顔を覆ってから天を仰いだ。
「ごめん、完全に勘違いしてた。そういえば言ってたよね、外が怖いって」
「ううん、私こそ、混乱させるような言い方しちゃったんだと思う。気にしないで」
「汀さんもごめんなさい。変なこと言っちゃって」
「いえ、お気になさらず」
私は繋いだままの鳥子の手を、両手で優しく包んでにぎにぎと揉んだ。鳥子が少し照れたような顔をして、それがまたうれしくて、自然と笑顔になった。
「ちょうど良い話題ですので、少し続けさせていただいても?」
汀さんが穏やかに言葉をつないだ。
「紙越さんの外出についてですが、強いて言えば、もう少しだけ一般常識や教養を、私たちと一緒に働く中で身につけてからの方が望ましいと考えています。我々DS研としては、紙越さんが一人の自立した女性として、社会の中で暮らしていけるよう、支えになりたい。DS研一同、その意志で行動しているつもりです」
そう聞くと、たしかに汀さんや師長さん、お医者さんたちもみんな、私が常識を覚えるまでちゃんと叱ったり、注意してくれていた。
私は汀さんの言葉に、こくこくと頷いた。鳥子も納得したように、同じように首を縦に振っていた。
「小桜は? どう思う?」
鳥子が問いかけると、小桜さんは間を置かずに返した。
《あたしは今のところ、汀寄りの考えだな。空魚ちゃんまでUBLに連れてくのは反対。空魚ちゃんが怖がってるのに無理やり連れてくってんなら、もっと反対。ただ……汀の言う『もうしばらくDS研の中で』っていうのにも賛成できない。今みたいに閉じこもってばかりじゃ、教育にも限界がある。そういう意味では、今の状況はあまり健全とは思えないな》
「ごもっともです」
汀さんは深く頷いた。小桜さんの言葉に、全面的とは言わずとも同意しているようだった。
《ていうかさ、そもそも空魚ちゃんはどうしたいわけ?》
「え? 私、ですか……?」
戸惑う私に、スピーカーの奥からため息が聞こえた。
《空魚ちゃんのことでみんな話してるんだから、空魚ちゃんが決めないとダメだろ。空魚ちゃんの自由意志で、やりたいこと、行きたいところ、見てみたいもの、ほしいもの……なんでも言ってみな。ここにいるメンツなら、言うだけならタダだからさ》
小桜さんのその言葉を、私は心の中で何度も繰り返した。
……私のやりたいこと。
……私の行きたいところ。
……私の見てみたいもの。
「私は……」
つばを飲み込んで、カサついた喉を潤そうとする。言葉を切らず、一気に口にした。
「私は、鳥子と一緒にお出かけしてみたいです……それと、鳥子と一緒に冴月を探しにUBLに行きたい。あと、鳥子の通ってる大学にも一緒に通ってみたいです。それで、お金が貯まるまではDS研で働かせてもらいたい……です」
話しながら、だんだん自分が訊かれていることとズレてきている気がして、語尾が曖昧になった。
けれど、鳥子がそっと私の左手を優しく握り直してくれて、それだけで平静を取り戻せた。
恐る恐る汀さんの顔を見ると、いつもの微笑みを浮かべながらも、今は少し俯いて考えを巡らせているようだった。
しばらく黙った後、汀さんは顔を上げ、静かに口を開いた。
「仁科さんの通っている大学であることが、重要なのですか?」
「あ、はい!」
「仁科さん、失礼ですが、通っておられる大学はどちらでしょうか?」
「上智大学ってところ」
「おや、そちらですと……」
汀さんがやや難しい顔になり、私を見つめる。
「紙越さん、高認試験や大学受験の対策については、どのようにお考えですか?」
「え? それは……もちろん自分で勉強して……」
《それはちょっと見通しが甘いな》
小桜さんが遮るように言った。その声は、普段よりずっと厳しい響きを帯びていた。
《空魚ちゃんは今まで、ほとんど勉強してこなかったんだろ? それを今年か来年に受験して、しかも独学で合格ってのは……さすがに夢見すぎだろ》
そもそも、と続けて言う。
《友達と同じ大学に入りたいって気持ちはわかるけど、学部が違えば一緒にいる時間なんてほとんど取れないこともある。無理してレベルの高い大学を目指さなくても、空魚ちゃんが自分のペースで勉強して入れるところに行けばいい。鳥子と遊ぶなら、講義のない日に集まればそれで十分だろ》
「……でも、私は鳥子と同じ、上智大学ってとこに行きたいんです。どうすれば……」
正論の嵐に押しつぶされて、私は情けなくも這いつくばるような気持ちになった。
せめてもの抵抗として「上智大学」という単語にすがる。
すると鳥子が、パッと手を挙げた。
「私、勉強見てあげられるよ」
「本当?」
「うん。空いてる時間なら結構あるし。それに、小桜の言う通り、同じ大学じゃなくてもいいかもしれないよ?」
「う……むぅ……」
鳥子にまでそう言われて、私は少しむくれた。
「どう? 汀さん」
鳥子から振られた汀さんは、はっきりと頷き、私たちに向き直って言った。
「仁科さんに勉強を見てもらえるなら、特に問題はありません。仮に困難があっても、家庭教師を雇うなどで十分対応可能です」
「家庭教師……」
鳥子がぽつりと呟いた。その声が気になって、私は隣に座る鳥子に訊ねた。
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもないよ」
鳥子は首を振って、何かを振り払うように笑った。ふわりと石鹸の香りが鼻をかすめて、私は心配の気持ちといい匂いへの反応とで、ちょっと混乱した。
「あとは、UBLに行く許可と、学費を稼ぐまで働かせてもらいたいって話だね」
「繰り返しになりますが、紙越さんがUBLに行くことについて、私はDS研を代表して明確に反対いたします」
「うん、それはもう、わかってるよ」
そう返した鳥子に対し、汀さんは静かに首を振る。そして、汀さんの言葉は、さらに続いていった――。
「ですが、本来、紙越さんの行動に鎖をつけるようなことは、私たちにはできません。する権利もありません。ですから、紙越さんがどうしても行くと決めたのなら、私たちはただ、不安を抱えながら見送るしかありません」
汀さんが視線を伏せた。いつもの微笑みのない、飾らない素の表情。
そこでようやく、私は気が付いた。
汀さんが本当に、私を心配してくれていたことに。
いままでは、その気遣いが自分のためのものだとは、どうしても思えなかった。他人事のようにしか感じられなかった。
でも今ならわかる。鳥子がいなくなることを恐れる私と同じように、汀さんも、私がいなくなることを本気で案じてくれているのだ。
「………………」
どう返せばいいのか分からず、私はただ黙ってしまった。
「もし、紙越さんの中に、私やDS研の職員たちへの思いやりがあるのなら……もう少し人として成長した姿を、私たちに見せてからにしていただけませんか?」
「それは……具体的には?」
汀さんは眉間に皺を寄せ、腕を組む。珍しく、悩ましげな表情を隠そうとしなかった。
「紙越さんが成人したら──ああ、もう成人はされてましたね……。では、上智大学に……いえ、どこでも構いません。大学に合格──いえ高卒認定試験に合格したら……というのは、どうでしょうか……」
え、今なんだか、すごい勢いでハードルが下がっていってなかった……? 私ってそんなにポンコツなの???
「高卒認定試験に合格したら、UBLに入っていいんですか……?」
汀さんは、それは違うと言いたげに首を横に振った。
「『具体的に』と仰ったので、目安として高卒認定試験と申し上げただけです。我々の立場としては、いつ何時たりともUBL入りには賛成いたしません」
小桜さんも続けて同意する。
《高校やら大学やらに入ったからって、大人になれるわけでもないしな。大学デビューでまわりに迷惑かけるガキなんて、嫌というほど見てきたよ》
「……そうなの?」
私が不安そうに首をかしげると、鳥子は苦笑した。
「まあ、そういう人もいるってだけ。どこにでもいるよ。でも空魚は違うから。安心していいよ」
私は納得して頷き、再び汀さんへ向き直った。
「私、成績はともかく、悪いこととかはしません。大丈夫です」
「ええ、それはよく存じておりますよ」
汀さんは穏やかに頷き、話題を切り替えた。
「最後に。学費や、それ以外の生活費についてですが、紙越さんのほうで何かご希望やご意見はありますか?」
「ええっと……」
私は少し考えてから、姿勢を正し、背筋を伸ばして答えた。
「毎月の生活費を自分でまかなえて、学費や貯金も貯められるくらいの収入がほしいです」
「……住まいの目処は立っていますか?」
「えっと、まだです……」
その返答に、汀さんが少し口調をゆっくりにして説明する。
「家賃は生活費の中でも大きな割合を占めます。住まいがどこで、いくらかかるかの見通しが立っていないと、必要な収入の計算もできません。わかりますか?」
「あ、はい」
「この建物の近くに、DS研の職員が利用している寮があります。よろしければ、住居はそちらでどうでしょう?」
「え、いいんですか?」
汀さんはにこやかに頷いた。
「そのかわり、今まで通りDS研で働いていただくことになります。それでもよろしいですか?」
「え、いいんですか!?」
私は思わず声を上げた。この仕事は好きだったし、ここにいる人たちとも別れたくなかった。別の場所で働くのも不安だったし、せっかく覚えたことが無駄になるのもいやだった。積み重ねてきたものを壊さずに済む。それがうれしくて、私は小さく息を吐いた。
そんな私に、汀さんが少し声を低くして言った。
「ただし、業務内容は今よりも複雑になるでしょう。指導も、これまで以上に厳しくなるかもしれません。それでも、DS研で働きたいと思われますか?」
「働きたいです!」
「かしこまりました。それでは後日、新しい契約書をお持ちします」
そう言って、汀さんが右手を差し出してきた。
……え? この手、なに? 私は一瞬戸惑って固まった。すると、鳥子が笑いながら耳打ちする。
「握手するんだよ」
……な、なんで今急に? と思ったけど、とにかく私は動揺を隠しながら、そっとその手を握る。すると汀さんも、しっかりと、力強く握り返してくれた。どうやら、これで仮契約は完了らしい。
……あぶなかった。もう少しで、師長さんがよくやってくれるみたいに、自分の頭をそのまま汀さんの手に乗せてしまうところだった。私の中では「握手は初対面の人とするもの」という思い込みがあったから。……ああ、超恥ずかしい。やっぱり社会って、知らないことだらけだ。……本当にやっていけるんだろうか。
《なあ、空魚ちゃん》
スマホ越しに、小桜さんの声が聞こえてきた。
《住むところと働ける場所が決まって嬉しいのはわかるけどさ。結局、いくらくらい稼げるのか、ちゃんと確認してなくない?》
「あ、そうでした」
「それでしたら──」
私が言うと、汀さんはスーツの内ポケットから革張りの、いかにも高級そうなメモ帳を取り出した。
さらさらと金額を書きつける。
「最低でも、このくらいにはなるかと」
私はメモ帳を受け取り、書かれた数字をじっと見つめる。
一、十、百、千、万、十万──おー……。
「これ、高くない?」
しげしげと紙面を見つめてから、鳥子と、画面越しの小桜さんに訊いた。二人も同じように「一、十、百……」と数え上げて、そして──
「え、高い!」
《高いなおい!》
「やっぱり高いんだ!」
お金なんて、カルトでお札の枚数を数える係をやってた頃以来、まともに扱ってこなかったから、感覚がまるでわからなくなっていた。
でも、やっぱりこれは……多いんだ。
Switch、何台買えるんだろ……。
ていうか、ほんとに? 本当にこんなお金が、私のものになるの? なんで?
《空魚ちゃんの仕事を貶すわけじゃないけどさ》
小桜さんが、警戒するような声で言った。
《雑用係の給料にしては高すぎんじゃない? なんかこう……後ろ暗い会社とか、闇バイトって感じになってない?》
「後ろ暗いところなど、ありませんよ」
小桜さんと汀さんのやりとりに、私も割り込む。
「私も気になります。どうして私、こんなにお金を貰えるんでしょうか」
「理由は複数ありますが、大きく分けて三つです」
汀さんは指を三本立てて、淡々と語り始めた。
「一つ目は──紙越さんの右目の価値です。紙越さんは誤解しておられるようですが、閏間さんの存在とは無関係に、その右目には研究的価値があります。UBLによって変異した眼が、どのような経過を辿り、最終的にどうなるのか。それを観察させていただくための対価として、本人の同意を得るに足る金額をお支払いしています。これは一括請求も可能ですが、現在は月給に分割して組み込んでおります。詳細は今後、別途ご相談しましょう」
「……なんだか、実験動物みたい」
鳥子が嫌そうに呟いた。
汀さんは表情を崩さなかったが、どこか申し訳なさそうな気配が滲んでいた。
「まさしく。仁科様のおっしゃる通りです。しかし、このような名目でもなければ、私はDS研から予算を引き出すことができません。どうか、ご理解ください」
鳥子が渋々と頷くのを見届けて、汀さんは話を続けた。
「二つ目は、この施設を秘匿するためのもの──いわゆる、口止め料です。DS研は守るべき機密が多い場所ですので、どの程度の機密に接しているかに応じて、給与へ反映させていただいています」
この説明には、鳥子も小桜さんもとくに反応しなかった。
私も言葉は見つからなかったので、黙って頷いて先を促す。
「そして最後は──紙越さんご自身の価値です」
「私の……価値?」
「この二年、紙越さんには雑務程度の仕事しかお願いしていませんでした。しかし我々の予想を上回り、紙越さんは自発的に業務に取り組み、DS研に貢献してきた。施設内の清掃はもちろん、職員が見落としがちな作業や、緊急度の高い案件に追われて手が回らない細部の業務まで、紙越さんが代わりになって担ってくださっています。これは、複数の職員への聞き取りで明らかになった紙越さんへの正式な評価です。こうした『縁の下の力持ち』は、職員を容易に増やせないDS研という特殊な組織において、紙越さんが想像するよりずっと貴重な存在なのです」
汀さんは、指を立てていた手をゆっくりと下ろした。
「もっとも、あくまで清掃員という立場上、他の職員に比べて基本給は控えめです。ただし、紙越さんが資格を取るなど努力された場合、それに応じて給与にも反映させていくつもりです」
……認めてもらえていたんだ、私。私の価値。
《空魚ちゃん? ちゃんと話聞いてた?》
「あ、はい。聞いてま──せんでした。難しくて……はい」
とっさに嘘をついた。
大した意味はないと思う。
ただ、なんとなく自分がたくさん褒められているという事実を全部ちゃんと聞いてたことが、なんとなく……恥ずかしかった。
小桜さんがため息をつく。
《自分の飯の種に関することなんだからさ、難しくても頑張って聞けよ。わからなかったら質問して訊けばいいんだ。これから大人になるんだろ?》
「ごめんなさい……つい」
「そうだよ空魚。ほら、汀さんも『お給料下げちゃおうかな』って顔してる」
「み、汀さんも、ごめんなさいっ」
「そんな顔はしていませんよ」
《大人使って遊ぶなガキ共……それで? 空魚ちゃんは衣食住のうち、少なくとも「食」と「住」は手に入れたわけだ。じゃあ「衣」についてはどうなの?》
「空魚はその看護師さんみたいな服の他に、どんな服持ってるの?」
二人の質問に、私は正直に答えた。
「ううん。これだけ」
鳥子がびっくりしたように口を開けた。
「うそ、信じられない!」
「でもこれ、着やすいんだよ。他にも前に師長さんたちから貰った、かわいい髪留めなら持ってるし」
《それは「衣」だけど、「衣」ではないだろう……》
小桜さんが呆れたように言うと、鳥子が私の手を掴んで立ち上がった。
「じゃあ、一緒に服買いに行こう! 今日これから? それとも明日空いてる?」
「えっと、今日は……」
「今日は休日扱いにしましょう」
就業日だと伝えようとした瞬間、汀さんが助け舟を出してくれた。
《土日もあるし、三連休じゃん。良かったな空魚ちゃん》
「あの、小桜さんの家にも行っていいですか?」
《構わんが、大したもんは出せねえぞ?》
「じゃあ、お菓子とかたくさん買って行きますね!」
「いいね、私も行っていい?」
《別にいいけど》
「やった! それじゃあ今日は、空魚の服を買いに行こう! 久しぶりのお外だね、空魚」
久しぶりのお外。そう言われて、私は動揺してしまった。
「ううぅ……」
「どうしたの?」
「……外、出るの、怖い」
「怖い? なんで?」
「わかんない。でも、この服って変なんでしょ? 眼帯も変らしいし……バカにされそうで、怖い」
鳥子が、そっと私の両肩に腕を回して言った。
「たしかにその服は目立つけど、看護師さんの制服だってわかるし、問題ないよ。それに代わりの服を買うために外出するんだから、ノーカン、ノーカン! 眼帯も………………まあ、大丈夫だよ。それに──」
鳥子が、さっきよりぐっと近づいてきた。距離が縮まって、体温を感じる。
「空魚をバカにする奴がいたら、私がその人の足、ヒールで思いっきり踏んでやるから。空魚のことは、私が守るよ」
鳥子がその場で、足をふみふみとアピールする。思わず笑ってしまうと、鳥子もくすくすと笑った。
「わかった……一緒に行ってくれる? 鳥子」
「もちろん!」
鳥子はウィンクしながら親指を立てると、また私の手をぎゅっと握った。
「じゃあ行こう、今から!」
「い、今から?」
「あれ、やだ? 今日はダメ?」
「えーと……まだ心の準備が……」
私は、助けを求めるように小桜さんと汀さんに視線を送る。
《頑張ってこい。いってらー》
「行ってらっしゃいませ」
誰も助けてくれなかった。
「行ってきます……」
テクテクと三人でエレベーターへ向かっていると、汀さんが思い出したように声を上げた。
「紙越さんの預金通帳をお渡ししないといけませんね」
「通帳?」
「これまで紙越さんが働いて得た収入から、DS研が支払っていた諸経費を差し引いた残額です。今回の買い物に限らず、今後の生活に役立てていただければと」
「そんなものまで作ってくださってたんですね……」
そう言うと、汀さんは微笑んでうなずいた。
「通帳や預金については、契約書にも記載していませんでしたからね。私の判断で作ってきたものです。ご存じなかったのも無理はありません ──こちらです。申し訳ありませんが、仁科さんはそのままエレベーターホールでお待ちいただけますか」
汀さんが歩き出す。私は鳥子と、スマホ越しの小桜さんに手を振ってから、そのあとを追った。オフィスの前まで来ると、汀さんは「ここでお待ちください」と私に伝え、中へ入っていった。
扉越しにガチャガチャと棚を開ける音、重い引き出しのバタンという音がして、数分と経たないうちに汀さんが戻ってきた。
手には透明なビニールポーチ。その中には通帳と銀行カード、印鑑が整然と収められていた。
「こちらです」
汀さんがそれらを私に手渡す。私は神妙な面持ちで受け取り、中身をしげしげと眺めていた。
その様子を見て、汀さんがやや厳しい声色で言った。
「紙越さん。これはとても大切なものです。決して紛失しないよう、厳重に保管してください」
「は、はい……!」
私はビクビクしながら尋ねた。
「中身、見てもいいですか……?」
「構いませんが、仁科さんをお待たせしてますので、手短に」
私はいそいそとポーチから通帳を取り出し、記帳欄を覗き込む。カルトで会計係をしていたことがあるので、通帳の見方はなんとなくわかる。
「百万円くらいあるような……?」
「紙越さんは、収入に対して支出が極端に少ない方でしたから」
汀さんは微笑んで続ける。
「それに、最後に通帳記入してからやや期間が空いていますので、実際の金額は──五百万円程度はあるかと」
「ご、五百万円……!?」
私のお金……すごい。お金がたくさん。すごい……。
頭がフリーズしていると、汀さんが子供を諭すように言った。
「大金だからといって豪遊したり、遊び呆けたりして、私のように勉学をおろそかにしてはいけませんよ」
私は聞き慣れない言葉に首をかしげた。
「汀さんも……不登校だったんですか?」
「……ええ、まあ」
気まずそうに笑う汀さん。
その仕草がどこか恥ずかしげで、私は失礼ながらも可愛らしさを感じてしまった。
「とにかく、お金を大切にせず、勉強もしないでいると、私のような悪い大人になってしまいますからね。気をつけてください」
やや早口でそう言って歩き出そうとしたので、私は思わずからかうように言ってしまった。
「色々サボると、汀さんみたいなカッコいい大人になれるってことですか?」
汀さんは歩きながら、私の頭を軽くコツンと叩いた。
「大人をからかうものじゃありません」
その声色はとても優しくて、私は本当に──こんな大人になれたらいいな、と思った。
エレベーターホールには、私と鳥子、そして汀さん。三人で並んで立っていた。
「空魚、機嫌いいね。そんなにたくさん入ってた?」
「うん。あった」
「よかったね」
「うん!」
チン、と音がして、エレベーターが到着する。私たちはそのまま中に乗り込んだ。
「じゃあ、行ってみよっか!」
「はい!」
思わず声が裏返ってしまった。鳥子が笑ったような気がしたけれど、緊張していて気にする余裕もない。だって私は、およそ二年ぶり──いや、小学校以来の、自由な街歩きなんだから!
そんな私の胸の内など知らないまま、エレベーターが下がっていくあいだも、鳥子はずっと私の手を握っていてくれた。
下降するにつれて、ヒュッとお腹が浮く感じがして、パネルの数字が変わるたびに心臓の鼓動が早くなっていく。
やがて目的の階に着き、扉がゆっくりと開かれる。一定の温度に保たれていた空気が外気と混じり合い、消えていく。代わりに残ったのは、ほんのりとした生温かさと、嗅ぎ慣れないにおいだった。
汀さんが扉を押さえてくれて、私と鳥子は頭を下げてエレベーターを降りた。
そこは薄暗く、車がズラリと並んでいる──地下駐車場だった。
「こっちだよ」
鳥子が私の右手を引いて歩き出す。
私は躊躇いながら、足をもつれさせながらも、恐れと期待を胸に光の方へと進んでいった。
鳥子の手が、私を地上へと導いていく。
地下駐車場からスロープを登り、私たちは地上へ出た。
晴れ渡った空の下、光と影の境界を踏み越えて、私は──外の世界に足を踏み出す。
眩しさに目がくらみ、何も見えない。でも、鳥子の右手の感触だけがはっきりと伝わってきた。
やがて目が光に慣れてくる。
……外だ。外に、出た。
私は首を巡らせ、あたりを見回す。行き交う人々、街路樹、車のエンジン音。
何事もなく、私は地上に出てしまった。息が苦しくなるとか、汗が止まらなくなるとか、倒れるとか──悪い予感ばかりしていたのに、何ひとつ起きなかった。
それどころか、特別な感情も湧いてこない。
感動のない自分が、少しだけ寂しかった。
その気持ちを胸に隠し、私は視線を足元に戻す。
「空魚、大丈夫?」
「うん。今のところは──」
そう言いかけて気づく。鳥子がずっと手を握っていてくれたことに。もしかしたら、これがあったから私は平気だったのかもしれない。
「ええと、一番近い服屋はね……」
鳥子が左手で器用にスマホを取り出し、何かのアプリを開いて体を左右に回す。私はその肩越しにスマホを覗き込んだ。たぶん地図アプリだ。
「こら、空魚。人の携帯はジロジロ見るもんじゃないよ?」
「ご、ごめん」
私が慌ててスマホから離れると、鳥子は私の頭を撫でた。
「よし、いい子」
「あ、ありがとう」
言った直後、鳥子は画面を見て、斜め右の方を指差した。
「あっちの方角だね……行ってくるね、汀さん」
「お車は必要ではありませんか?」
「車? 必要かな?」
鳥子の疑問に、汀さんがうなずく。
「紙越さんにとって街中は慣れない環境です。体調を崩す可能性もあります」
それを聞いて鳥子が迷うように首を傾げると、汀さんは続けた。
「それに、もし出先で体調が悪化しても、一般病院ではあまり事情を知られたくない面もあります……もちろん必要であれば仕方ありませんが」
「DS研では救急対応とかは……?」
「希望はありますが、設備が整っていません。ですが軽度の体調不良なら十分に対応可能です」
「なるほどね……」
鳥子が感心したように頷いたあと、提案するように言った。
「じゃあ、少しでも体調が変だったら、汀さんに連絡入れるってことでどう?」
「……紙越さんはどう思いますか?」
汀さんが私の顔を覗き込むようにして尋ねる。私は少し迷ってから、正直な気持ちを口にした。
「私は……私のせいで汀さんに迷惑かけるのは、あんまり……」
私が見上げると、汀さんはフッと笑った。
「あまりに気になるのでしたら、無理に同行はしません。ただ、誤解してほしくないのは──紙越さんを支えるのも、私の大切な仕事のひとつだということ。迷惑だなんて思いませんよ」
「それじゃあ、さっきの案で決まりかな? 私と空魚でデートして、何かあったらすぐに汀さんに連絡ってことで!」
鳥子の言葉に、汀さんが一瞬目を閉じる。数秒の沈黙のあと、やや厳しく言った。
「何かが起きてからでは遅い可能性もあります。仁科さん、紙越さんの体調には……どうか、人一倍注意してください」
「オーケイ! わかってるよ!」
鳥子は汀さんの言葉に大きく頷いた。
その流れで汀さんは私の方へ視線を向ける。
「紙越さんも、それでよろしいですか?」
「はい」私は頷いた。汀さんには悪いけれど、「業務の一つだから」と言われても、申し訳なさは拭えず、それが気にかかってしまいそうだったからだ。
「じゃあ行ってきます、汀さん」
「行ってくるねー」
「お二人とも、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
その後、私たちがDS研のビルを出て最初に入ったのは洋服屋ではなく、道中にあった薬局だった。
「周りからの視線もあるし、とりあえずその眼帯はなんとかしたほうがいいね」
──鳥子の、そんな鶴の一声が理由だ。
私は少し不満げな気持ちで、お気に入りの黒革の眼帯をポケットにしまい、コットン製のものに付け替えた。なんでよ、あれ、かっこいいのに……。
だけど悔しいことに、街中を歩いているあいだ、密かに感じていた視線は確かに減ったようだった。今の私は、たぶん「なぜか看護師の格好で街を歩いている医療関係者」程度の見え方なのだろう。
それから私と鳥子は、街中の服屋やおしゃれなカフェを練り歩いた。
服屋では鳥子が見繕うがままに大量に試着し、「あれが可愛い」「これが似合ってる」と選ばれたものを次々と買い物カゴへ入れていく。
ついにはランジェリーショップにまで入り、私の体に合ったサイズの下着まで購入した。初めての体験だったけど、鳥子が楽しそうだったから、私も自然と楽しくなっていた。
両手にはブランドの袋がずっしりと重みを持ち、服装も簡素なスクラブから、鳥子が選んでくれた私服に替わっていた。
十数年ぶりの私服だった。
白い薄手のインナーシャツに紺色のカーディガン。三重のフリルがついたロングスカート。
まさか靴下にまでブランドがあるとは知らなかったが、いま私は女性人気が高いというナントカというふかふかした靴下を履き、スリッポンから真っ白なスニーカーに履き替えていた。
さらに鳥子は「空魚のお化粧してみたい!」と化粧品売り場にまでなだれ込み──
……結果、私は、我ながら驚くほど別人のようになっていた。
なんというか……かわいい…………?
カフェのテラス席に座り、鳥子とおしゃべりをするたびに、ウィンドウに映る自分の姿へつい視線を向けてしまう。
そんな上の空な私を、鳥子は怒るでもなく、にこやかに見守ってくれていた。
ふと、鳥子が「あ、空魚」と声をかけてくる。
「なあに?」
「髪、地面についてるよ」
見ると、確かに毛先が地面に落ちて広がっていた。私は慌てて髪を持ち上げ、パッパッと払い落とす。ばっちくなっちゃった……。
スクラブの入った袋を探り、ポケットからヘアゴムを取り出すと──。
「あ、それ」
鳥子が私の手元を指差す。
「持っててくれたんだ」
「うん。毎日使ってるよ」
「本当に? 嬉しい……」
鳥子は目を細めて笑うと、席を立って私の後ろに回った。
「貸して。結んであげる」
「いや、自分でできるよ」と言いかけたが、鳥子の結び方に少し興味があった。
鳥子も髪は長めだ。なら、私がいつもやっているようなフロントもサイドも無視した雑なまとめ方より、きっと綺麗にしてくれるはず。
「うん。お願い」
そう言うと、鳥子は私の前髪を耳にかけ、そのまま後ろ髪とまとめて器用に結っていく。
私は目を細めた。
人に髪を触ってもらうのって、こんな感じなんだ。……気持ちいい。
クイクイと引っ張られる感覚が心地よい。今度、誰かに髪を梳いてもらおうかな……。
「空魚の髪、長いのにサラサラで、すごく綺麗だよね」
鳥子が言う。
たしかこの間も言われたような。でも何度言われても、嬉しいものは嬉しい。
だからだろう。私はつい、余計なことまで口にしてしまった。
「前にカルトの話したよね……あそこ、女性信者の断髪は禁止だったから、その名残で切らずにいただけなんだ。でも鳥子が気に入ってくれてるなら、切らなくてよかったかも」
「………………」
「鳥子?」
鳥子の手が止まっていた。
あっ……やってしまった。
これ系の話は、あまり良い反応をされないのに……。
「ま、まあ、今では冴月とお揃いにしたくて伸ばしてるだけなんだけどね! ……どうかな? そろそろ、冴月くらいに伸びてきたと思うんだけど……ど、どう?」
「……うん」
それだけ言うと、鳥子は黙って髪を編み、バッグから取り出したヘアピンで留めてくれた。
「できたよ、空魚」
「わー、あ、ありがとう。……嬉しいな……」
私は気まずさに消えて無くなってしまいたくなった。
なんで私は、いつもこうなんだろう?
せっかくの楽しい空気が台無しじゃないか……自分の口を縫ってやりたい……。
苦悶の表情で固まっていると、ふわりと、何かが背中に覆いかぶさってきた。
鳥子が、私を後ろから抱きしめていた。
「鳥子……?」
「空魚……ごめんね。私、余計なこと聞いて、嫌なこと思い出させちゃった……」
鳥子は、まるで自分のことのように悲しそうな声で謝ってくる。謝りたいのは、こっちなのに。
「違うの、鳥子。本当に違うから!」
「違う……? 何が?」
鳥子の疑問に、私は必死に言葉を探す。でも、うまく見つからない。
それでも、何とか伝えたかった。
「私……みんなが思ってるほど、この話に興味ないの。あ、違う。……トラウマ? がないの」
「……本当に? そんなこと、ありえるの?」
私はブンブンと頭を縦に振った。
「あるあるある! むしろ、カルトに捕まってたから冴月にも出会えたし、DS研にも入れたし、小桜さんや──」
私は、自分の言葉に気づいて、耳が熱くなる。まるで告白みたいじゃないか。
だけど、もう止まらなかった。
「鳥子に出逢えて、……幸せで。……とにかく、よかったの!」
「………………」
数秒の沈黙のあと、鳥子は私をギュウッと強く抱きしめた。
その心地よい圧迫感に、私は小さく唸った。
「──空魚がそう言うなら、信じるね」
耳元で、そう囁かれた。
私はぶるりと身を震わせる。
くすぐったい。
それでいて、今までに感じたことのない、優しくてあたたかい感覚だった。
鳥子は私の背後から離れて自分の席に戻ると、注文していたホットカフェラテを啜り、ウィンドウの方を指さした。
「じゃあ、改めまして。お気に召しましたでしょうか、紙越さん?」
冗談めかした言い方に釣られて、私もウィンドウを振り返る。そこには、ぼんやりとだけど私の姿が映っていた。くっきりとはいかないけれど、輪郭や髪型のシルエットを見るには十分だった。
……かわいい。頭には、お団子を半分にしたような形の髪が一つ乗っている。なんていう髪型かは知らないけれど、ただ伸ばしていただけの頃よりも、百倍は良く見えた。
「どう? 空魚」
「いい……すごく可愛いっ! この髪型、好き! これって、なんて言うの?」
「シニョンっていうんだよ」
「シニョン?」
やっぱり聞き慣れない響きだった。私は髪型が崩れないようにそっと手で触れる。鳥子は、それを楽しそうに見守っていた。
「いいなあ、自分でもできるようになりたい……」
私が呟くと、鳥子はにっこりと笑って答えた。
「やってみる? それ、自分ひとりでも結べるよ」
「ほんと? やりたい!」
そんなふうに私と鳥子は言葉を交わしながら、穏やかに時間を過ごしていた。私は今、心の底から楽しいと感じている。
──鳥子はどうだろう。私みたいに、楽しんでくれてるといいな。
そんなことを考えながら顔を上げると、鳥子は微笑ましそうな目で、じっとこちらを見ていた。
三時間ほど経った頃、鳥子がふと口にした。
「電車、乗ってみない?」
私は思わず自分の両手を見下ろした。そこには、今日買ったあれこれがぎゅうぎゅうに詰まっている。しかも、鳥子の手にも、私の荷物がいくつか──。
二人合わせて、十人分くらいの荷物を持っているんじゃないだろうか。
これ以上どこかに出かけるのは、さすがに無理がある気がする。私にとっても、鳥子にとっても。
けれど、そんな私の戸惑いを見透かしたように、鳥子は笑顔で言った。
「駅にはロッカーがあるから。そこにしばらく預けておけば大丈夫だよ」
なるほど、と私は頷いて、言われるまま荷物をロッカーに詰め込む。
それから、鳥子と一緒に、人生で初めての電車に乗った。
鳥子に教わりながら切符を買って、電車に乗り込む。出発駅の名前は〈溜池山王〉。どこか仰々しくてかっこいい。そこから〈神保町〉という、これまた由緒ありげな駅を目指すことになった。
「神保町って、何しに行くの?」
そう尋ねると、鳥子はイタズラっぽく笑いながら舌を出した。
「ナイショ!」
途中、一度だけ電車を乗り換えて──それでも二十分も経たずに、目的地の神保町に到着した。
私は、背の高い鳥子を見上げるようにして、これからどうするの?と首を傾げる。
「こっちだよ」
そう言って、鳥子が私の手を引いた。私は、そのまま素直に従う。
案内されるまま辿り着いたのは、古本屋の裏手にひっそりと建つ、ひょろりと背の高いビルだった。
ここで何をするのか──そう尋ねるよりも早く、鳥子は私の手を引いたまま、ビルの中へと足を踏み入れた。
電灯がチカチカと明滅する、少しホコリっぽいホールを抜けて、私たちはエレベーターに乗り込んだ。
すると鳥子が〈開く〉ボタンを押したまま、こちらを振り返って言った。
「今から、あっちの世界に行きます」
「え?──えっ!?」
驚きに、思わず声が裏返った。
鳥子の顔をじっと見つめるけれど、それが冗談なのか本気なのか、私の拙いコミュニケーション能力では判断がつかない。
「ほ、本当に? 冗談じゃなくて?」
「マジです」
鳥子の指は、依然として〈開く〉ボタンの上にある。他の階の人がエレベーターを呼ぼうとしてたら、きっと迷惑だろうな──なんて、どうでもいいことが頭をよぎったとき、鳥子が口を開いた。
「私ね──」
目を閉じて、わざとらしく一拍置く。そして、パッと目を見開いて言う。
「友達と、ちょっとした悪いことするのが夢だったの!」
「ばかたれー!!」
あまりのくだらなさに、私はエレベーターを降りようとした。でも、鳥子という名の分厚い壁が立ちはだかる。
「どいてよ! 汀さんに怒られちゃう!」
私が抗議すると、鳥子は気取った仕草で指をチッチッと振った。
「バレたらどうしよう……っていう、そのスリルも、良いアクセントになるんだよね〜」
そう言いながら、鳥子が一歩、私に近づいてくる。
その瞬間、彼女の指が〈開く〉ボタンから離れ、エレベーターの扉が音もなく閉まった。
幸いというか、なんというか、誰も外で待っている気配はなかった。エレベーターは、静かに宙に浮いた箱のように、私たち二人だけを閉じ込めている。
「私と一緒に、思い出作っちゃおうぜ〜? 相棒〜」
鳥子が顔をぐっと近づけてくる。
ち、近い!
精巧なパーツを組み立てたような、美しい顔が視界を埋め尽くす。目を逸らすことも、瞼を閉じることもできない。ふわりと香る甘さ──これは、鳥子の香水だろうか。それとももし、これが地の体臭だとしたら……世の中、不公平すぎるでしょ。
目と鼻と耳、すべてを鳥子に支配されながら、私はささやかな抵抗を試みた。
「う〜っ!」
「大丈夫、大丈夫。ちょびっと行って帰ってくるだけ。空魚が本気で怖くなったら、すぐに汀さんに連絡するって。ね?」
「ね? って言われてもぉ……ダメだよぉ……」
私があーでもないこーでもないと反抗を繰り返していると──。
鳥子の顔から、いたずらに成功したときのような笑みが徐々に薄れていき、代わりに、どこか寂しげな表情が浮かんだ。
鳥子はスッと身を引き、静かに言った。
「ごめんね。私、空魚がそんなに嫌がると思わなくて……」
覇気のない、小さな声。
鳥子は〈開く〉ボタンをそっと押す。
エレベーターのドアが音もなく開いた。
「あっちに行くのは、空魚が高卒認定取ってからだもんね。それまで楽しみはとっておかなきゃ……帰ろっか」
鳥子は両手を合わせて謝ると、そのままエレベーターから降りようとした。
──その言い方は、卑怯だよ……!
私は思わず、エレベーターを出ようとする鳥子の腕を、両手でぎゅっと掴んだ。
引き止めようとしたけれど、鳥子の歩みに想像以上の力があって、私はズルズルと数センチ引きずられる。
「え、空魚?」
鳥子が戸惑ったように振り返る。
私は必死に言った。
「ちょっと待ってよ!」
不意の制止に驚く鳥子に向かって、私は確認するように叫ぶ。
「もしバレて汀さんに怒られるとき……ちゃんと、一緒に怒られてくれるんだよね!?」
私の言葉に、しおれていた鳥子の顔が、パッと花が咲くように明るくなった。
「うん! 一緒にたくさん叱られようね、空魚!」
「たくさんはやだ」
8
「ここが……UBL?」
「そうだよ。大丈夫? 怖くない?」
ほとんど独り言のようにつぶやいた私の声に、鳥子がすぐさま応じてくる。私はその反応に少し驚きつつ、言葉を返す。
「怖くは……ないよ。ただ、鳥子が言ってた通りだなって。全然、青くないんだ……」
私たちは高層ビルの屋上に立っていた。
私はゆっくりと屋上の縁に近づき、そろりと顔を乗り出して下を覗いた。
風がビュウと吹き上がり、髪が乱れる。どれだけの高さがあるのだろう。地上が遥か遠くに思えて、目がクラクラする。
た、高い……怖っ。
「そっちは危ないよ、空魚。行かないで」
「う、うん……!」
素直に頷いて鳥子の方へ戻った私は、気がつけば彼女の腕に手を絡めていた。
今、正気を失いそうなほどの恐怖はない。けれど一度地上を見てしまったせいで、足が小刻みに震えているのを感じる。
その様子に気づいたのか、鳥子はにこっと優しく笑い、私を屋上の中央まで引いていった。そして思い切りよく、大の字に寝転がる。
私もつられて隣に寝転んだ。
太陽の位置は、溜池山王で買い物をしていたときよりも少し傾いていた。
風が髪をさらさらと撫でていく。
「綺麗なところだよね」
「うん」
本当はまだ周囲の景色にまで気が回っていなかった。でも、鳥子がそう言うのならきっとそうなのだろう、と思いながら私は頷いた。
「いま冴月、どこで何してるんだろうね」
「わからない……」
鳥子の問いに、私はふいに胸がざわついた。
「冴月、大丈夫かな。私、大学合格するまではこっちに来ちゃいけないって言われてるし……」
「大丈夫! それまでに私が見つけておくから」
鳥子の言葉は、不安を一瞬で吹き飛ばす。根拠なんてどこにもないのに、不思議と気持ちが軽くなる。
鳥子は私の手をぎゅっと握ってくれた。藍色の瞳が楽しげに細まり、私を見つめている。
「そしたらさ、この世界で、三人でピクニックしようよ!」
「ピクニック……って何?」
「ちょっと遠くへ行って、お弁当食べたり、お日さまの下でのんびりしたりすること!」
「あ……行きたい! 私も行きたい!」
「じゃあ、空魚と冴月と私で決まりだね。ピクニック!」
私たちは顔を見合わせて笑い合う。
「気の合う友達」って、きっと鳥子みたいな人のことを言うんだろう。
DS研の皆も好き。でも鳥子に対する「好き」は、どこか少し違っていた。
私は、親しい人には自然とハグしたくなる性分だ。けれど鳥子に対しては、なぜかその一歩が踏み出せない。抱きしめたい気持ちは確かにあるのに……いったい何が違うんだろう?
ひとしきり会話を楽しむと、ふと沈黙が訪れる。
普段の私なら、その沈黙が怖くて、相手に悪い印象を与えたんじゃないかと不安になる。でも今は違う。鳥子が相手なら、きっと大丈夫だと、なぜか信じられた。
「空魚も汀さんもさ、UBL、UBLって呼んでるけど……全然『ウルトラブルー』な感じしないよね?」
不意に鳥子がつぶやく。私は少し考え込んでから口を開いた。
「たしかに、ここは青くないけど……私が行ったところは、本当に青かったんだ」
「どうして場所によって違うんだろうね?」
「……わかんない」
言葉を濁す。説明できないことじゃない、なんとなくの予感はある。でも言葉にするのが怖かった。あの青を思い出すと、またおかしくなってしまいそうだった。鳥子を心配させたくなかった。
鳥子はそんな私に気づかないまま、顎に手を添えて考え込む。
「じゃあさ、この世界の名前、私たちで考えない?」
「名前?」
「そう。だって『UBL』じゃ、なんかしっくりこないし」
「鳥子はなんて呼んでたんだっけ?」
「あっち側、とか、あっちの方……あんまり格好よくないよね」
たしかに名称としては頼りない。
「異世界? 別世界? 青世界……ではないんだよね」
「世界……」
私は五月の陽光と風を感じながら、考えに沈んでいく。
異なる世界なら異世界、別の世界なら別世界。けれどどれも今ひとつ、決め手に欠けている。
──私と鳥子だけの場所。誰も知らない、入ってこられない、世界の裏側。
「……世界って、名前に入れなくてもいいかも。でも……どう思う? 空魚?」
「──裏世界」
私は鳥子を見ながら、もう一度口にした。
「裏世界。みんなが暮らしてる『表』の裏側。私たちだけの場所……裏世界、なんてどうかな…………なんちゃってっ」
言葉にしてしまったら、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。鳥子の顔を直視できない。顔がじわじわと熱くなる。
自分の熱でとけてしまいそうになっていたそのとき、鳥子が私の右手を両手で包み込んだ。
「それ、いい! すごくかっこいい!」
顔を上げると、鳥子の目がキラキラと輝いていた。
「空魚、ネーミングセンスあるよ!」
「ま、まだ仮の名前だから! 他にもっと良いのがあったら、そっちに……」
「だめ! 裏世界に決定!」
両手で顔を隠そうとしたけど、両手とも鳥子に握られていて隠せなかった。
「離せよ〜!」
「空魚の照れた顔かわいい。もっと見せて!」
「やめろ〜!」
子供みたいにじゃれ合って、二人でケタケタ笑った。頬が痛くなるまで笑って、お互いをベシベシ叩きながら。
やがて、私たちはまた並んで寝転んだ。
空が赤く染まり始めていた。夕方が近い。
もうすぐ鳥子と別れて、私はまたDS研の病室に戻る。以前はそれが当たり前だったはずなのに、今はもう、あの部屋にあった心地よさを感じられそうにない。
──なんて勝手なんだろう。DS研の皆は、私に本当によくして貰っているのに。これじゃ恩知らずだ。
私は左手に爪を立てて強く握った。痛みで少しだけ落ち着ける。でも右手は、まだ鳥子に握られたままだった。
私は鳥子の横顔をそっと見つめた。目を閉じた鳥子は、とても綺麗だった。スッと通った鼻筋、柔らかそうな唇。まるで書道が得意な人が丁寧に描いた横顔、そんなことをぼんやり考えていたとき、鳥子が静かに口を開いた。
「私ね、空魚と会うの、最初は怖かったんだ」
「ん……どうして?」
自分でも驚くほど穏やかに返せた。心に刺さる内容のはずなのに、不思議と怖くなかった。
鳥子は少し沈黙してから「たぶん……」とつぶやき、唇をぺろりと舐めた。
「冴月が、私の知らない人と仲良くしてるなんて、知りたくなかったんだと思う。だから最初、空魚のことあんまり良く思えなかった」
少しだけ間を置いて、鳥子が私の表情を覗き込む。
「怒った?」
「ううん。小桜さんに鳥子の話を聞いたとき、私も全く同じこと思った。冴月を取った、嫌な人なんだって」
私は笑った。鳥子も笑った。
こんなことを笑いながら話せるなんて、友達って不思議だ。
「でも今は、一緒に話して、ピクニックの約束までしちゃってるんだもんね」
「だね」
「私、空魚といると楽しい」
「私も。すごく楽しい」
「もう私たち、共犯者だね」
「うん。……えっ?」
聞き慣れない言葉に、思わず聞き返す。
「キョーハンシャ?」
「うん。共犯者。汀さんたちに内緒でこっち来ちゃった、悪い子ふたり」
「友達じゃ、ないんだ……?」
その一言に、胸がきゅうっと締めつけられた。目頭がじんわり熱くなる。
「違うよ。『共犯者』って、この世で一番親密な関係のことなんだよ」
「あ……そうなんだ」
「うん。だからバレないようにしようね、へへへ」
「う、うーん。わかった」
よく分からない。でも、最も親密っていうのは、たぶん、友達や親友よりも上の関係ってことなんだと思う。別にいいや。
私と鳥子はエレベーターに乗っていた。
裏世界の赤みが薄れ、ゆっくりと闇が降りてこようとしていたからだ。夜の裏世界は危険──冴月からそう教えられた。
鳥子が階数パネルの「1」を押すと、エレベーターは素直に動き出した。
行きのときはあんなに手順を踏んでいたのに、帰りはこんなにあっさりなんだなあ……とぼんやり考えていたそのとき、鳥子がふとこちらを振り向いた。
「本当はね、今日、空魚がどこに住んでるのかって話になったとき──誘いたかったんだ。空魚を、シェアハウスに」
「シェアハウス……って、なに?」
「一緒に住むこと」
「へ……えっ!? それ、いい! 鳥子と一緒に暮らしたい!」
思わず小さくジャンプすると、鳥子は少しだけ眉を寄せた。どこか申し訳なさそうな顔だった。
「……ごめんね。誘いたいんだけど、先約がいるんだよね」
「えっ……」
心臓が、跳ねた。
「だ、だれ……?」
「冴月だよ。まあ、まだ冴月本人にすら何も言えてないんだけどね」
「冴月……」
冴月と鳥子が、一緒に暮らす。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが生まれた。
それは煙のように身体の中へ広がって、私の呼吸をじんわりと重くする。
気がつくと私は、鳥子の手を引き寄せて、ぎゅっと腕を抱きしめていた。
「空魚? どうしたの?」
「……別に。なんでもないよ」
この感情に、名前はつけられない。
何もわからないし、わかりたくもない。
このモヤモヤの矛先が、冴月と一緒に暮らしたいと言った鳥子に向いているのか、それとも──鳥子と暮らせる冴月に向いているのか。
そのどちらなのかも、今の私にはまだ、なにもわからなかったのだった。
おわり