ロケット団したっぱちゃんの日常   作:宇迦之たま猫

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第3話 ボスが来る日は大掃除

 

 ロケット団という組織には、いくつかの不文律が存在する。

任務先で警察を見かけたら無駄に刺激しないこと、幹部の機嫌が悪い日はなるべく目を合わせないこと、食堂で最後のプリンを取る時は周囲を確認すること。

そして、その中でも末端構成員にとって特に重要なのが、「ボスが視察に来ると決まった拠点では、前日から全員が清掃員になる」というものだった。

 

「なんで悪の組織が朝七時から床磨いてんの……?」

 

 地下施設の廊下で、レナは巨大なモップを握りながらぼやいた。

いつもの黒い制服の上から灰色の作業用エプロンを着け、銀色の大型グローブには雑巾が握られている。

隣では同期の男団員がバケツを運び、その後ろでは別の団員が壁に付着した謎の黒ずみと格闘していた。

 

「ボスが来るからだろ」

 

「それは知ってる。でもボスって別に床の光沢を見るために来るわけじゃないでしょ?」

 

「お前、ボスが歩いてる途中で床に落ちてる菓子袋踏んだらどうすんだよ」

 

「拾う」

 

「ボス本人に拾わせるなよ!」

 

「いや、その前に私が拾うって意味!」

 

 昨夜突然届いた通達によれば、本日午後、ロケット団のボスであるサカキがこの拠点を視察するらしい。

施設運営状況の確認と現場責任者との会議が主な目的であり、レナのような一介のしたっぱが直接話す機会など本来なら皆無である。

それにもかかわらず、通達から三十分後には拠点全体へ非常清掃命令が発令され、普段はポケモン捕獲や警備を担当している団員まで雑巾と箒を握らされていた。

 

「昨日までは『多少汚れてても業務に支障がなければ良い』って言ってたのに……」

 

「社会ってそういうもんなんだよ」

 

「悪の組織なのに社会人の悲哀が強すぎない?」

 

「給料もらって働いてる時点で俺たちは社会人だ」

 

「夢がないなぁ」

 

 文句を言いながらも、レナは手を止めなかった。こういう時に適当に済ませると後で班長から呼び出されることを三年間の経験で知っているからだ。

モップを往復させ、床の汚れを落とし、隅に溜まった埃まで丁寧に掻き出していく。しばらくするとコラッタのチィが廊下の向こうから走ってきて、小さな前足で何かを押してきた。

 

「ん? 何それ」

 

「ラッタ!」

 

 チィが押してきたのは、机の下から発見したらしい古いボールペンだった。

 

「ありがと。落とし物箱に入れとこうか」

 

「ラッタ!」

 

「偉い偉い」

 

 頭を撫でてやると、チィは得意げに胸を張った。するとその光景を見ていた同期が、「うちの掃除班、一番働いてるのコラッタじゃね?」と呟く。

 

「失礼な。私だって働いてる」

 

「さっき十分くらい雑巾持ったまま自販機の前で休んでただろ」

 

「あれは休憩じゃなくて自販機周辺の異常確認」

 

「缶コーヒー飲みながら?」

 

「液体商品の品質検査」

 

「百四十円自腹で?」

 

「経費で落ちないかな」

 

「落ちるわけねえだろ」

 

 午前九時を過ぎる頃には、清掃作業は施設の奥へ移った。今度は資材倉庫である。

レナが前にも何度か担当させられている場所であり、箱の位置も備品の分類も大体頭に入っている。

そのため班長から「お前ここ詳しいだろ」と半ば強制的に整理責任者を任された。

 

「捕獲ネットは右側二段目! 傷薬とどくけしは医療用品棚! 誰、モンスターボールの箱を工具棚に置いたの!」

 

「俺じゃない!」

 

「誰も名指ししてないのに返事したね?」

 

「……俺です」

 

「戻して!」

 

 レナは腰に手を当てながら倉庫内を見回し、次々と指示を飛ばしていった。普段は気の抜けた態度を取っているものの、三年も同じ施設で働いていればどこに何があるかくらいは把握している。

特に倉庫勤務を何度も経験しているせいで、新入りよりよほど物資管理に詳しかった。

 

「ねえレナ、この壊れた捕獲装置どうする?」

 

「修理待ちの札付けて奥。電源は絶対入れないで。前にそれ勝手に触った人、ネットに巻かれて二時間くらい天井から吊るされてたから」

 

「何それ怖っ」

 

「ちなみに私」

 

「お前だったの!?」

 

「若かったんだよ、入団一年目だったし」

 

「二年前じゃねえか」

 

「人は二年で大人になるの」

 

 午前十一時。倉庫整理がほぼ終わった頃、今度は食堂から応援要請が入った。視察に伴い幹部や現場責任者の食事も用意するため、人手が足りないらしい。

 

「いや待って。私、調理担当じゃないんだけど」

 

「料理できるだろ?」

 

「自炊くらいならするけど」

 

「なら十分だ。厨房で野菜切ってこい」

 

「悪の組織のしたっぱがボスの昼飯の下ごしらえ……?」

 

「嫌なら廊下のワックス二度塗り」

 

「野菜切ります」

 

 即答だった。

 

 厨房へ入ると、既に食堂担当の団員たちが忙しく動き回っていた。巨大な鍋から湯気が立ち、コンロでは肉が焼かれ、調理台には大量の野菜が並んでいる。

レナはエプロンを交換し、渡された包丁でタマネギを刻み始めた。

 

「うぅ……目が……」

 

「泣くなよ」

 

「タマネギのせいだよ! 別にボスが怖くて泣いてるんじゃないから!」

 

「誰もそんなこと言ってない」

 

 その横ではチィが椅子の上に座り、興味深そうに調理を眺めている。

モクは厨房へ出すと衛生面で怒られるのでボールの中、ズバットも同様だ。

チィだけが特別に許可されたのは、小型で大人しくしていられることと、食材へ近づかないよう躾けられているからだった。

 

「チィ、そこから動いたら駄目だからね」

 

「ラッタ」

 

「あと落ちた物も勝手に食べない」

 

「ラッタ」

 

「昨日それやったから言ってるんだよ」

 

 チィは視線を逸らした。

 

 正午を過ぎる頃、施設は普段とは比べものにならないほど整然としていた。床は磨かれ、壁の汚れは消え、倉庫の箱は寸分違わず並び、食堂まで妙に清潔である。

何人かの団員が「毎日これくらい綺麗ならいいのに」と口にしたが、それを維持するために毎朝一時間早く出勤する提案をすると全員黙った。

 

 そして午後一時四十分。

 

『サカキ様、施設到着まであと五分』

 

 館内放送が流れた瞬間、空気が変わった。

 

「来た!」

 

「私語やめろ!」

 

「そこの箱ちゃんと揃えろ!」

 

「誰だ廊下に缶置いた奴!」

 

「ズボンの裾出てるぞ!」

 

 それまで多少騒がしかった団員たちが、一斉に背筋を伸ばし始める。レナも慌ててエプロンを外して制服を整え、大きな黄色の「R」が曲がっていないか確認した。

 

「帽子変じゃない?」

 

「大丈夫」

 

「髪出てない?」

 

「いつも出てる」

 

「そういうデザインなの!」

 

「知らねえよ!」

 

 チィをボールへ戻し、レナは他の団員たちと共に担当区域へ配置された。本人の予定では、壁際に立って敬礼し、ボス一行が通り過ぎるのを眺めて終わるはずだった。

 

 ところが世の中というものは、大抵予定通りには進まない。

 

 午後一時四十九分。

 

 廊下の角からサカキと数名の幹部、そして施設責任者が姿を現した。

黒いスーツを纏ったサカキは写真や映像で見る以上に威圧感があり、周囲の団員たちは緊張で完全に固まっている。

 

「サカキ様!」

 

 責任者の号令と共に、全員が一斉に姿勢を正した。

 

 レナも敬礼する。

 

「……」

 

 視察団が近づく。

 

 あと十メートル。

 

 五メートル。

 

 三メートル。

 

 その時だった。

 

「ドガァァ……」

 

 レナの腰から、妙に間延びした声が聞こえた。

 

 血の気が引いた。

 

「……え?」

 

 腰に装着していたモンスターボールが僅かに震えている。

 

 モクだ。

 

「嘘でしょ」

 

 ボールがもう一度震えた。

 

「ドガァ……」

 

 静まり返った廊下では、やけに響いた。

 

 隣の同期が横目でこちらを見る。その顔には明確に「終わったな」と書かれていた。

 

 サカキの足が止まった。

 

「……何だ?」

 

 施設責任者の表情が凍りつく。

 

「も、申し訳ありません! 構成員の所持ポケモンが……!」

 

 レナは一瞬、本気で逃げたくなった。しかし逃げれば確実にもっと酷いことになる。腹を括って一歩前へ出る。

 

「も、申し訳ありません、サカキ様! 私のドガースです!」

 

 周囲の視線が集中する。

 

「出してみろ」

 

「……はい?」

 

「そのドガースだ」

 

「は、はい!」

 

 震える手でボールを投げる。赤い光が弾け、モクが廊下へ現れた。

 

「ドガー」

 

 いつもの眠そうな顔だった。

 

 サカキはドガースをしばらく眺めた後、レナへ視線を移した。

 

「よく育てているようだな」

 

「……え?」

 

「体色も良い。状態も悪くない」

 

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 それだけ言うと、サカキは再び歩き始めた。幹部たちも後へ続き、施設責任者だけがレナへ「後で話がある」という顔を向けてから去っていく。

 

 完全に姿が見えなくなってから、レナはその場へ膝をついた。

 

「寿命縮んだぁ……!」

 

「お前すげえな」

 

「何が!?」

 

「ボスに直接ポケモン褒められたしたっぱ、そういないぞ」

 

「嬉しいけど心臓が耐えないよ!」

 

「ドガァ?」

 

「モクは悪くない! 悪くないけど今じゃなかった!」

 

 レナが頭を抱えていると、ボールの中からチィまで出てきた。

 

「ラッタ!」

 

「君まで勝手に出てこない!」

 

「ラッタ?」

 

「今日はもう私の精神力がゼロなの!」

 

 結局、施設責任者からは軽く注意されただけで済んだ。むしろサカキがモクの状態を評価したこともあり、普段から手持ちポケモンの健康管理を怠っていない点については褒められたほどだった。

 

 そして午後六時。

 

 視察終了。

 

「終わったぁぁ……」

 

 レナは食堂の椅子へ深く沈み込み、机へ突っ伏した。その前には今日の清掃作業への慰労として無料で配られたカレーライスが置かれている。

 

「朝から掃除して、倉庫整理して、タマネギ切って、ボスの前でモクが鳴いて……今日濃すぎない?」

 

 向かいに座った同期が笑いながらスプーンを動かした。

 

「でも結果的には良かったじゃん。ボスに顔覚えられたかもしれないぞ」

 

「それ怖いからやめて」

 

「出世のチャンスかも」

 

「私の夢はもっと給料もらって寮の個室に移ることであって、ボス直属とかじゃないから」

 

「志低っ」

 

「現実的って言って」

 

 レナはカレーを一口食べ、ようやく肩の力を抜いた。足元ではチィが専用フードを食べ、隣ではモクがふわふわ浮かび、ズバットは椅子の背もたれに器用にぶら下がっている。

 

「まあ、モクが褒められたのは嬉しかったけどね」

 

「ドガー!」

 

「でも次から偉い人がいる時は静かにしようね」

 

「ドガ?」

 

「分かってないなぁ、その顔」

 

 ロケット団したっぱ、レナ。所属歴三年目。

 

 本日の任務、大掃除および視察対応。

 

 評価、特に問題なし。

 

 なお翌朝。

 

「床に泥ついてるんだけど!」

 

「昨日あんなに磨いたのに!」

 

「誰よ外靴で入ったの!」

 

 三時間かけて磨かれた廊下は、通常営業開始からわずか十五分で元通りになった。

 

 これもまた、ロケット団の日常である。

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