「おかーさん! わたし、ダービーウマ娘になる!」

その夢を抱いて、オールソレイユはトレセン学園に入学した。

一年後。
模擬レースはすべて最下位。

デビューすらできず、彼女は退学届を提出する。
雨の降る三女神像の前で、こぼした願いはひとつ。

「もう一回だけ、最初からやらせてください」

顔を上げると、入学式の日の桜が咲いていた。

戻った体に、積み重ねた努力は残らない。
出会った人も、交わした約束も、春が来るたび遠ざかる。
それでも、負けた記憶と覚えた走り方だけは、彼女の中に残っていた。

これは、ダービーウマ娘に憧れた少女が、
何度も同じ春を越えて、まだ見ぬ明日へ走る物語。


※登場するのは秋川理事長を除き、オリジナルキャラクターのみとなります。

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逆行ダービー

一 夢の果て

 

『本年度最後の模擬レースは終了しました。生徒の皆さんは――』

 

 声が遠い。

 放送も、はしゃぐ声も、誰かを呼び止めるトレーナーの声も。

 

 口の中に芝と土と鉄の味がした。

 ゴールと同時に倒れた私の頬に、踏み荒らされた芝が刺さっていた。

 起きろ。

 せめて自分で立って、自分の足でコースを出ろ。

 膝に手をつく。震える脚を伸ばす。

 駆け寄ってくる人はいなかった。

 一年分の模擬レース、全部最下位。その締めくくりにふさわしい景色だった。

 

 幼い頃、テレビでダービーを見た。

 名前も知らなかったウマ娘が、最後の直線で先頭を追いかけていた。

 届かない、と隣の大人が言った。それでも彼女は走って、走って、本当に届いてしまった。

 勝った瞬間より、その少し前を覚えている。

 まだ負けているのに、少しも諦めていない顔。

 

『おかーさん! わたし、だーびーウマ娘になる!』

 

『そうね。なれるといいわね』

 

 母は笑わなかった。

 だから、なれると思った。

 

 母は一度も、なれるとは言わなかったのに。

 

 翌日、私は退学届を提出した。

 

「再考ッ! 君にはまだ、別の道も――」

 

「家族と約束したんです。一年でデビューできなかったら、帰るって」

 

 競技を続けながら家を助ける方法も、相談できたのかもしれない。

 でも私は、これ以上母に待ってと言えなかった。

 

 受話器の向こうで聞こえる夜勤明けの咳を、聞こえないふりもできなかった。

 

「私、頑張りました」

 

 秋川理事長は、黙って私を見た。

 

「頑張ったんですけど、駄目でした」

 

 そこで声がひっくり返った。

 頭を下げて部屋を出た。最後まで、顔を上げられなかった。

 

 雨が降っていた。

 

 荷物を抱えたまま、中庭の三女神像の前で立ち止まった。

 入学した日、ここで写真を撮った。母に送った。必ず勝って帰ると、余計なことまで書いた。

 

「……もう一回」

 

 石の顔は微笑んでいた。

 

「もう一回だけ、最初からやらせてください」

 

 何を変えればいいのかも、わからなかった。

 それでも頭を下げた。

 

「ダービーウマ娘になるまで、帰れません」

 

 頬を流れるものが冷たかった。

 そのうち、雨の音が消えた。

 

「――写真、撮りましょうか?」

 

 顔を上げると、桜が咲いていた。

 

 手には鞄ではなく、真新しい入学案内。

 目の前には、去年の春と同じ、紺色のジャージを着た青年がいた。

 

「ご家族に送るんでしょう?」

 

 彼の名札に見覚えがある。佐伯。まだ担当のいない、新人トレーナー。

 

 私はスマートフォンを落とした。

 割れていない画面に、去年の日付が浮かんでいた。

 

二 二度目の最下位

 

 二度目なら、勝てると思った。

 

 最初の模擬レースで外から被せられることも、前の子が直線で右に膨らむことも覚えている。そのぶん内を走ればいい。

 

 私は一周目より前に出た。

 

 そして一周目より早く、脚が止まった。

 

 抜かれた。抜かれた。また抜かれた。

 最後のひとりが通り過ぎてから、ようやくゴールが来た。

 去年と同じタイムを見て、笑いそうになった。

 

 体は、去年の春のままだった。

 

 今度は退学届を出さなかった。

 母には、もう少しだけと頼んだ。

 練習を増やした。朝も夜も走った。知らない未来に行けば、この悪夢は終わると思った。

 

 ダービーの日、私は観客席にいた。

 

 同期のグランアステールが勝った。

 

 青い流星みたいなウマ娘だった。長い脚で大きく地面を捉え、追いすがる全員を正面から振り切った。

 

 同じ教室で授業を受けていたはずなのに、勝利者インタビューの彼女は、テレビの向こうの生き物に見えた。

 

 私は帰寮しても眠れなかった。

 

 時計の針が、十二時に重なった。

 

「――写真、撮りましょうか?」

 

 桜。入学案内――佐伯トレーナー。

 

 私は彼の袖をつかんだ。

 

「今日は、何月何日ですか」

 

 答えは同じだった。

 

 三度目の春、私は中庭で一日待った。

 像を調べ、お願いを撤回して、謝って、怒鳴った。何も起きなかった。

 やめても戻る。ダービーを勝てずにその日を終えても戻る。

 そう考えるほかなかった。

 誰が決めたのか。何回あるのか。勝てば本当に終わるのか。

 答えは、どこにも書かれていなかった。

 

 その日の夕方、走っている途中で吐いた。

 吐くものがなくなっても、腹の底がひっくり返った。

 

「今日は終わりだ」

 

 肩にタオルがかかった。

 佐伯トレーナーだった。

 

「まだ、走れます」

 

「歩いて帰れるうちに終わるんだ」

 

「そんなことしてたら、間に合わない」

 

「何に?」

 

 ダービーに。

 

 そう言えば、笑われると思った。

 私は彼の手から逃げて立ち上がろうとした。膝が折れた。彼は黙って支えてくれた。

 初めて、誰かがコースから連れ出してくれた。

 

 医務室を出たあと、彼はタブレットを見せた。

 私の走る映像だった。

 

「君、ずっと前の子の脚を見ているね」

 

「追い抜きたいですから」

 

「歩幅まで合わせてる。届かないのに足を前へ投げるから、着くたびにブレーキがかかる」

 

 画面の私は、速そうに走っていた。

 顔だけは、誰より必死だった。

 

「頑張ってないってことですか」

 

「頑張りが、前に進む力になってないってこと」

 

 彼は一度、映像を止めた。

 

「直せるところがある。一緒に確かめないか」

 

 そんな言い方をされたのは、初めてだった。

 才能があるとも、絶対勝てるとも言われなかった。

 それが少しだけ、信じられた。

 

 その日、私に初めてのトレーナーができた。

 

三 消えないもの

 

 私たちは、ゆっくり走ることから始めた。

 顎を上げない。肩を固めない。遠くへ脚を伸ばすより、体の下で地面を押す。

 

 最初は前より遅くなった。

 急ぐと佐伯さんが止めた。

 泣くと、泣き終わるまで待った。

 

 夏の終わり、初めて模擬レースで最下位を逃れた。

 

 たったひとり、抜いた。

 

 私はゴールのあと振り返った。

 後ろから来る子に失礼だとわかっているのに、何度も振り返った。

 佐伯さんはストップウォッチを握って、私より変な顔で笑っていた。

 

 その秋、初めてゲートの中に立った。

 

 メイクデビュー。

 靴底から伝わる振動も、隣で鳴る息も、本番のものだった。

 

 結果は八着。

 

 母は電話で泣いた。

 

『見たよ。ちゃんと名前、呼ばれてたね』

 

 私は何も言えなくなった。

 ダービーどころか、勝ってもいない。それなのに母は、何度も録画を見たと言った。

 

 この一年だけは消えないでほしかった。

 

 翌春まで、私は一勝もできなかった。

 ダービーはグランアステールが勝った。

 その夜、佐伯さんに電話をかけた。

 

「来年も、担当してくれますか」

 

『当然だろ。今日の映像、次に生かそう』

 

「私のこと、忘れませんか」

 

『どうした?』

 

 時計を見た。

 

 あと十秒。

 

「ありがとうございました」

 

『ソレイユ?』

 

「私を見つけてくれて、ありがとう」

 

 返事は、聞けなかった。

 

「――写真、撮りましょうか?」

 

 私はその場にしゃがんだ。

 

 目の前の人は、八着の私を知らない。

 母の涙も、初めて結んだ担当契約も、全部なくなった。

 

 背中に触れた手が、よそよそしく優しかった。

 

 四度目、私は後日改めて佐伯さんを探して、最初から担当を頼んだ。

 

 覚えている練習を全部やった。去年の終わりにこなせた量まで、すぐに増やした。

 

 ――夏に脚を痛めた。

 

「フォームを知っていても、それを支える体はまだできてない」

 

 佐伯さんの声は厳しかった。

 

「焦って積んだぶんだけ、積めなくなるぞ」

 

 包帯の巻かれた脚を抱えて、ダービーを見た。

 

 ――五度目、休む練習をした。

 

 休日に靴を隠した。寝る前に明日の予定を増やさないよう、ノートを閉じて紐で縛った。

 窓の外から足音が聞こえると、爪を噛んだ。

 

 その年、初めて二着になった。

 

 ――六度目、初めて勝った。

 

 未勝利戦。人気はなかった。歓声も大きくなかった。

 けれどゴールの先に、私より前を走る背中がなかった。

 

 止まり方がわからなくなった。

 もっと走れば、もっと確かな一着になる気がした。

 

「ソレイユ! 終わった! 勝ったんだ!」

 

 佐伯さんの声で、ようやく脚を緩めた。

 目を向けると、喜んだ拍子に握っていたストップウォッチを落として踏んづけて焦っていた。

 

 もう、ばかだなぁ。

 

 くしゃくしゃに顔を歪めて、しゃがんで芝に触った。指の間に、冷たい土が入った。

 

 これを持って帰れたらと思った。

 次の春にも、持っていけたらと思った。

 

 ――七度目、出走するレースの選び方を変えた。

 

 勝ち上がることと、ダービーへ進むことは同じではなかった。

 必要な実績を積もうと焦り、使い詰めにして大事なレースで力を出せなかった。

 

 ――八度目、ようやく出走に届いた。

 

 十八着。

 最下位だった。

 でも、その最下位になるまでに、私は八回も春をやった。

 

 持ち越せるのは、記憶だけだと思っていた。

 違った。

 同じ坂を見れば、どこで苦しくなるかわかる。

 肩が上がれば、下げようと思う前に息を吐ける。隣の足音が近づいても、すぐにはつられない。

 

 戻った体に、覚えた走り方を教え直す。

 それでも、筋肉は一日ずつしかつかなかった。

 時間をかけることだけは、どれだけやり直しても省けなかった。

 

 そしてグランアステールは、私が何年かけて身につけたことを、ひと夏で覚えた。

 

四 天才の隣

 

 九度目の春から、朝のコースで彼女と会うようになった。

 見たことがなかったのは、私がその時間を避けていたからだった。

 

 自分が必死に走っている隣で、天才が軽々と走るところなんか見たくなかった。

 

 グランアステールは、汗だくだった。

 短い距離を走っては映像を見て、また走った。

 休憩のたびに、シューズの紐を結び直した。

 

「よくほどけるの?」

 

 つい聞くと、彼女は眉を寄せた。

 

「右だけ、いつもしっくりこない」

 

 意外なくらい幼い声だった。

 

「締めすぎじゃない?」

 

「緩いと気になる」

 

「…一個上の穴、通し方変えてみたら?」

 

 彼女は私の足元を見た。

 

「見せて」

 

 隣に座ると、呼吸が聞こえた。

 当たり前に、彼女も息を切らしていた。

 

 それから、時々一緒に走った。

 私は彼女の後ろにつけば風が弱まることを知った。彼女は私がコーナーで速度を落としにくいことに気づいた。

 

「その脚の入れ替え、どうやってるの」

 

「わからない。何度も走ってたら」

 

「ずるい答え」

 

 むっとされた。

 笑ってしまった。

 

 彼女にずるいと言われるものが、私にもあった。

 

 その年のダービー、私は五着に入った。

 勝った彼女は、表彰のあと私を見つけた。

 

「直線、来ると思った」

 

 喉が焼けて、答えられなかった。

 

「次はもっと早く来て。待ってないから」

 

 彼女はそう言って、笑った。

 

 次。

 その言葉だけを握って、私はまた春に戻った。

 

 ――十度目は二着だった。

 

 最後の坂を上り切るまで、並んでいた。

 そこから、彼女だけがもう一度伸びた。

 

 半バ身。

 

 走り終えた彼女の肩に触れられるほどの距離が、どうやっても埋まらなかった。

 佐伯さんは泣いていた。

 

「よくやった。本当によくやった」

 

 私はうなずけなかった。

 

 誰もいないトイレで、壁に額を押しつけた。

 

 何が足りない。

 あと何年あればいい。

 

 あの子は、まだ一回目なのに!

 

 ――十一度目、私は彼女の走りを調べ尽くした。

 

 朝、声をかけるのもやめた。

 紐を結び直しているのを見ても通り過ぎた。

 

 ダービー当日には、彼女がどこで外へ出て、どこから加速するか、足音ごと覚えていた。

 だからそこを先に取った。

 

 彼女が動こうとするたび、私も動いた。

 勝つためだった。

 

 今度こそ、この一年を終わらせるためだった。

 

 残り二百で、私の脚が止まった。

 細かく位置を変えたぶんだけ、余力がなくなっていた。

 グランアステールは、去年と違うところから来た。

 

 一瞬、私を見た。

 

 それから前だけを向き、追い越していった。

 私は四着だった。

 

「どうして…」

 

 引き揚げる通路で、彼女を呼び止めた。

 

「いつもは、外から行くのに」

 

()()()?」

 

 汗の滴る顔が、不思議そうに傾いた。

 

「外が空かなかったから、別のところにしただけ」

 

 それだけだった。

 

 私が覚えているのは、未来じゃない。

 違うレースを走った、違う彼女の選択だった。

 

「今日のソレイユ、ずっと横を見てたね」

 

 彼女は言った。

 

「私、そんなに気になった?」

 

 悔しさも非難もない声が、一番痛かった。

 その夜は、時計を見なかった。

 

五 十二度目の自己紹介

 

「――写真、撮りましょうか?」

 

「はい」

 

 私は初めて、素直にスマートフォンを渡した。

 佐伯さんは三女神像まで入るように少し下がり、私が笑うのを待った。

 

 うまく笑えなかった。

 それでも一枚撮ってもらった。

 

「私、オールソレイユです」

 

「佐伯です。トレーナーをしています」

 

「知ってます」

 

 彼は目を瞬かせた。

 

「長い話になります。聞いてもらえますか」

 

 全部話した。

 

 最下位のこと。三女神像のこと。繰り返した春のこと。

 佐伯さんが、これから私に教えてくれること。

 

 初勝利のあと、喜びすぎてストップウォッチを落とし、自分で踏んで壊すことまで。

 彼は笑わなかったが、すぐに信じもしなかった。

 

「確認できることから、確認しよう」

 

 その返事が懐かしくて、私は泣いた。

 

 数日かけて、私は知っている練習を説明し、まだ未熟な体でできる範囲の走りを見せた。

 彼は何冊もメモを取った。

 

「君の話を全部証明することはできない。でも、その経験は無視できない」

 

 そしてノートの最後に、大きく書いた。

 

『今の体を測る』

 

「去年はできた、は使わない。去年の君を診ることはできないから」

 

「……はい」

 

「それと、僕も去年の僕じゃない。違うことを言うかもしれない」

 

 顔を上げた。

 

「それでも、一緒にやってくれるか」

 

 私は、今度はちゃんとうなずいた。

 

 母にも電話をした。

 ループのことは、言葉にできなかった。代わりに、一年で駄目なら帰るという約束が怖いと言った。

 

『あれは、あんたが自分で決めたんでしょう』

 

 母は驚いていた。

 

『お母さんは帰ってきてもいいって言ったの。帰ってきなさいとは言ってないよ』

 

「でも、お金も、仕事も」

 

『相談はして。勝手に大丈夫とも言わない。でも、ひとりで決めて、ひとりでいなくならないで』

 

 私は机に伏せた。

 十一年分の返事をするには、喉が狭すぎた。

 

「私、まだ走りたい」

 

『うん』

 

「勝ちたい」

 

『うん』

 

「ダービーウマ娘に、なりたい!」

 

『――うん』

 

 母は、なれるとは言わなかった。

 でも、私が話し終えるまで、電話を切らなかった。

 

 翌朝、グランアステールの隣に座った。

 

「その紐、通し方変えてみたら」

 

 彼女はいつもの顔でこちらを見た。

 

「見せて」

 

 私はシューズを脱いだ。

 初めて会う彼女に、もう一度、最初から教えた。

 

 練習は、これまでより静かになった。

 

 追い込みたい日ほど数値を確かめた。

 疲れの抜けない朝には予定を減らした。代わりに映像を見た。

 

 十一回分の記憶を、勝ち筋だけでなく、失敗した理由まで書き出した。

 

 途中で数字が曖昧になった。

 何年前のものかわからない痛みもあった。

 

 佐伯さんは、それらに別の色の線を引いた。

 

「覚えていることと、確かめたことは分けよう」

 

 ノートの余白が、少しずつ今年の記録で埋まった。

 去年をなぞっているつもりだった私の一年が、違う形になっていった。

 

 初勝利の日、私は佐伯さんの手元を見た。

 彼はストップウォッチに紐を通していた。

 

「壊すって聞いたから」

 

 可笑しくて、ふたりで笑った。

 

 壊れなかった。

 そんな小さな未来でも、変えられることが嬉しかった。

 

六 勝てないかもしれない作戦

 

 ダービーへの出走を決めたあと、私たちは何度も東京のコース映像を見た。

 

 私にグランアステールの最高速度は出せない。

 最後の二百だけの勝負になれば、負ける。

 

「ただ、長くいい速度を保つ練習は、今までで一番積めてる」

 

 佐伯さんが画面に指を置いた。

 

「直線に入ってから待たずに動く。君のリズムで、長い勝負にする」

 

「早く動いたら、あの子も来ます」

 

「来るだろうね」

 

「目標にされます」

 

「される」

 

 私は彼を見た。

 いつもの、確かめてから話す顔だった。

 

「勝てるんですか」

 

「わからない」

 

 十一年かけて、一番聞きたくなかった答え。

 彼は続けた。

 

「でも、君がいちばん力を出せる走り方だと思う」

 

 画面の中で、過去のダービーウマ娘たちが坂を駆け上がっていた。

 

 負けない方法を探してきた。

 そんなものは、十一回探してもなかった。

 

「それで行きます」

 

 言うと、腹の底が冷えた。

 同時に、呼吸が深くなった。

 

 前日の夕方、グランアステールに呼び止められた。

 

「明日、晴れるって」

 

「うん」

 

「ちゃんと寝てよ。時々、すごく昔のこと考えてる顔してる」

 

 私は笑った。

 

 彼女は笑わなかった。

 

「……そんなに、ダービーじゃなきゃ駄目?」

 

 風に、長い髪が揺れた。

 

 私は、十一回負けた相手を見た。

 この子はまだ、私に一度も勝っていない。

 

 明日初めてダービーを走る、同い年の少女だった。

 

「駄目っていうか」

 

 言葉を選んだ。

 

「なりたい。ずっと」

 

「私も」

 

 彼女は即答した。

 

 それから、自分の指を見た。爪の端が少し荒れていた。

 

「みんな、勝つと思ってるんだよね」

 

 初めて聞いた声だった。

 

「私も勝つつもり。でも、それと怖くないのは違うから」

 

 私は何も言えなかった。

 

 あの子は一回目なのに。

 ずっと、そう思っていた。

 

 この子には、一回しかないのだ。

 

「明日、負けないから」

 

 私は言った。

 慰めるための言葉なんて、持っていなかった。

 

「私も…絶対に欲しいから」

 

 グランアステールは私を見て、ようやく笑った。

 

「それでいい」

 

 差し出された拳に、自分の拳を当てた。

 硬くて、温かかった。

 

七 二千四百メートル

 

 ゲートの中で、私は指を開いて閉じた。

 空は青かった。

 

 観客席のどこかに母がいる。佐伯さんがいる。

 十一回分の誰かはいない。

 

 今日ここにいる人たちは、今日の私を見に来てくれた。

 

 扉が開いた。

 

 出遅れなかった。

 それだけで一度目の私より前にいた。

 

 焦って先頭を追わなかった。

 それだけで二度目の私を越えた。

 

 蹄鉄が芝を噛む。隣の腕が揺れる。土の粒が頬に当たる。

 

 頭数を数えた。前に六人。

 外側、少し後ろにグランアステールの気配があった。

 

 見なくていい。

 顎を引いて、肩を落とした。

 

 最初のコーナーを、窮屈にならない位置で回る。

 

 去年ここには、もっと広い隙間があった。

 今年はない。

 

 押し込まず、半歩待った。

 知らないレースだった。

 

 私が少し違えば、みんなも少し違う。

 

 怖かった。

 

 けれど誰も、私の覚えた台本を読んで走っているわけではない。

 目の前の背中を見た。今の速さを聞いた。

 

 向正面。

 

 脚は軽い。

 軽いからと使えば、あとでなくなる。

 

 四度目の夏、包帯を巻いた脚で眺めた窓を思い出した。

 

 ――まだ。

 

 五度目の休日、靴を隠して座っていたベッドを思い出した。

 

 ――まだだ!

 

 息を吐く。次の息が入る。

 前のウマ娘が少し首を上げた。私はその横ではなく、後ろで流れに乗った。

 抜ける場所を、抜かないまま過ぎた。

 

 そうすることも、走ることだった。

 

 第三コーナーで、列が縮まった。

 左前の背中が近い。外へ一頭、上がっていく。

 

 グランアステールではない。

 

 ついていきたくなる脚を抑えた。

 視界の端に、青い勝負服が入った。

 

 彼女も動いていなかった。

 同じものを待っている。

 

 でも、私は彼女より先に使わなければならない。

 

 第四コーナー。

 出口が開ける。

 私はひとつ外へ出した。

 

 大きく膨らまない。内側の脚を急がせない。

 何度も走った曲がり方で、直線へ体を送り出した。

 

 ――行く。

 

 前の背中が近づいた。

 

 ひとり。

 

 もうひとり。

 

 歓声が、一段大きくなった。

 早い!、と誰かが言っている気がした。

 

 早いよ。

 知ってる。

 

 ここからじゃなきゃ、私は届かない。

 

 残り四百。

 先頭の横に並んだ。

 相手の息が聞こえた。私と同じ、潰れかけた息だった。

 

 一歩、前に出る。

 初めて勝った日に見た、背中のない芝が開けた。

 

 まだ終わりじゃない。

 

 坂が来る。

 後ろから、足音が来る。

 

 グランアステール。

 

 確かめなくてもわかった。

 朝のコースで何度も聞いた、強く長い足音。

 

 坂の途中で並ばれた。

 十度目より、ずっと早い。

 

 彼女も早く動いたのだ。

 私を捕まえるために。

 

 息が裂けた。

 

 脚が重い。

 

 視界の端で、青い袖が前に出た。

 

 まただ、と思った。

 

 こんなに積んでも。

 

 全部話しても。

 

 正しく休んでも。

 

 もう、何を変えれば――。

 

 右足が、遠くへ伸びかけた。

 

 その瞬間、思い出した。

 医務室のあとに見せられた、最初の映像。

 

 速い子の歩幅を真似して、着くたびに減速していた私。

 

 戻す。

 

 自分の下へ。

 

 グランアステールの一歩には、私の一歩半でいい。

 同じ走り方で、勝たなくていい。

 

 肩を下げた。

 息を吐いた。

 もう一度、地面を押した。

 

 離れなかった。

 

 坂を越えた。

 彼女の横顔が見えた。

 歯を食いしばっていた。目が見開かれていた。

 

 天才の余裕なんかなかった。

 私を振り切ろうとして、全力で走っていた。

 

 嬉しい、と思ってしまった。

 こんなところで。

 こんなに苦しいのに。

 

 ――私は今、この子と勝負をしている!

 

 残り二百。

 脚はもう、軽くならない。

 

 奇跡みたいな力も湧かなかった。

 あるのは今日まで鍛えた脚と、何度もほどいて結び直した走り方だけだ。

 

 隣の足音が速くなる。

 私も回す。

 頬の横で、互いの髪が跳ねた。

 

 あと百!

 

 誰かが叫んでいる。

 佐伯さんかもしれない。母かもしれない。知らない誰かかもしれない。

 聞き分けられない。

 私は、前を見た。

 

 テレビの中にいた、あのウマ娘。

 まだ負けているのに、諦めていなかった顔。

 あのとき、私には奇跡が起きたように見えた。

 今は少しだけ、違って見える。

 あの人も最後まで、次の一歩を出していたのだ。

 

 出せ。

 

 ――もう一歩!

 

 グランアステールの肩が揺れた。

 私の視界も揺れた。

 どちらが前か、わからない。

 

 それでも。

 

 息を吸っても、もう何も入ってこない。

 胸の奥が焼けて、視界の端から世界が消えていく。

 

 腕を振る。脚を回す。残っているものを全部、次の一歩に叩きつける。

 苦しい。痛い。もう動かない。その全部を引きずって、前へ。

 

 歓声が遠ざかる。自分の息さえ、もう聞こえない。

 あと一歩。その次の一歩。それだけでいい。

 

 指も、足も、どこにあるかわからない。

 考える力も、叫ぶ声も、削れて消える。

 

 それでも、この脚だけは止めない。

 何も残らなくても、まだ前へ。

 

 最後のひと欠片まで。

 燃やして、走る。

 

 ただ、走る。

 

 燃やす。

 

 ――走れ。

 

 振る。

 

 ――走れ!

 

 回す。

 

 ――走れ!!

 

 ただ、

 

 前へ――!!

 

 ――白い線が、足元を抜けた。

 

八 明日

 

 止まれなかった。

 急に緩めれば倒れる気がして、しばらく走った。

 脚を落として、歩いて、ようやくしゃがんだ。

 

 喉の奥に鉄の味がした。

 芝をつかんだ指に土がついた。

 

 同じだ。

 最初のあの日と、同じ味だった。

 

 顔を上げると、グランアステールも膝に手をついていた。

 少し向こうで、肩が大きく上下していた。

 

 私たちは大型ビジョンを見た。

 着順は、まだ出ていなかった。

 

 写真判定。

 その文字が、やけにはっきり読めた。

 

「……最後」

 

 彼女が、息の間から言った。

 

「もう一回、来たね」

 

「そっちも」

 

「うん」

 

 それ以上話せなかった。

 

 ただ待った。

 走って変えられる時間は、終わっていた。

 

 表示が切り替わった。

 

 一着。

 

 ――オールソレイユ。

 

 読んだ。

 

 もう一度、読んだ。

 

 自分の名前のはずなのに、うまく意味にならなかった。

 

 場内の声がその名前を呼んだ。

 着差、ハナ。

 

「……そっか」

 

 隣で、小さく声がした。

 

 グランアステールは空を見上げた。

 唇を引き結び、何度かまばたきをして、それから私に向き直った。

 

「おめでとう」

 

 声が震えていた。

 

 私は、ありがとうと言おうとした。

 先に涙が出た。

 

「でも、次は勝つ」

 

 彼女は目を赤くしたまま言った。

 

「今日の、絶対覚えておくから」

 

 私は、何度もうなずいた。

 何度も何度も、うなずいた。

 

 覚えていてほしい。

 私だけじゃなく。

 

 あなたも、この日を持っていってほしい。

 

 客席で、小さな子が跳びはねていた。

 隣の大人の袖を引き、何かを叫んでいる。

 声は届かなかった。

 

 それでも、私はあの日のテレビの前を思い出して、手を振った。

 

 佐伯さんが来た。

 私は立ち上がろうとして、うまく立てなかった。

 彼は急がせなかった。目の前まで来て、しゃがんだ。

 

「勝った」

 

「はい」

 

「勝ったな」

 

「はい」

 

 言葉がそれしかなかった。

 それだけで足りた。

 

 差し出された手を、今度は自分からつかんだ。

 

 母に会ったら、もっと駄目だった。

 最初の一言から泣いてしまった。

 

「お母さん、…っ、わ、私」

 

「見たよ」

 

「なれた」

 

「うん」

 

「ダービーウマ娘にっ、なれたよ」

 

 母は抱きしめてくれた。

 背中を叩く手のひらが、記憶より小さかった。

 

「おかえり」

 

 まだ家じゃないのに、そう言った。

 私は母の肩に顔を押しつけて、ようやく息を吐いた。

 

 その夜、私は眠れなかった。

 

 勝った。

 確かに勝った。

 

 けれど、勝てば戻らないなんて、誰も約束していない。

 

 十一時五十分に、寮の談話室へ行った。

 佐伯さんが、寮への説明を済ませて待っていてくれた。

 

「ひとりで待たなくていいって、言ったろ」

 

 私は隣に座った。

 

 テーブルには、明日から使う新しいノートがあった。

 まだ一文字も書いていない。

 

 十一時五十九分。

 

 手が冷たくなった。

 耳の奥に、存在しない春の風が聞こえた気がした。

 

 佐伯さんの袖をつかんだ。

 初めて戻った日に、そうしたように。

 

「もし、また」

 

「うん」

 

「また会ったら、話を聞いてください」

 

 彼は少し黙った。

 

「聞くように、言っておいてくれ」

 

 私は笑って、泣いた。

 

 ――時計の数字が変わった。

 

 零時零分。

 

 桜は、降らなかった。

 手の中には、同じ袖があった。

 

 零時一分。

 

 廊下の向こうで、誰かがくしゃみをした。

 冷蔵庫のモーターが止まった。

 

 私の知らない一分が、過ぎた。

 

「……明日だ」

 

 声にした途端、体から力が抜けた。

 佐伯さんがノートを開いた。

 

「最初の予定、書こうか」

 

 私はペンを持った。

 震えて、字が曲がった。

 

『休養』

 

 その下に、もう一行書いた。

 

『お母さんとごはん』

 

 たったそれだけの予定が、眩しくて見えなかった。

 

 朝、中庭を通った。

 三女神像は、何も言わなかった。

 

 私も理由は聞かなかった。

 一度だけ頭を下げた。

 

 顔を上げると、グランアステールが立っていた。

 

「いた。次の予定、決まった?」

 

「今日は休む」

 

「今日じゃなくて」

 

 目の下が、少し腫れていた。

 私もきっと、同じ顔だった。

 

「次のレース」

 

 私は彼女を見た。

 知らない答えだった。

 考えたことさえ、なかった。

 

「まだ」

 

 言うと、彼女は鼻を鳴らした。

 

「早く決めて。取り返さなきゃいけないんだから」

 

 彼女の向こうに、コースが見えた。

 朝の光の中を、誰かが走っていた。

 

 昨日の先にも、あんなに道があった。

 

 胸が鳴った。

 戻りたいとは、もう思わなかった。

 

 私の名前はオールソレイユ。

 ダービーウマ娘だ。

 

 次の夢は、まだ決まっていない。


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