【暗律の戦乙女(ヤミキューレ)】は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
「ハイセ」
「ん?」
「起きろ」
「…………起きてる」
「その状態を起きているとは言わん」
アルルカント・アカデミーの研究室。その一角にある机へ突っ伏したまま、ハイセは返事の代わりに片手だけを上げた。
「意識あるから」
「五分前まで寝ていただろう」
「目閉じてただけ」
「寝息が聞こえていた」
「…………」
「起きろ」
「はい」
観念して身体を起こす。机の上には端末と資料、分解途中の試作煌式武装が所狭しと並び、その隙間には見覚えのないパンが置かれていた。しかも一口かじった跡がある。どうやら半分寝ながら食べたらしい。
ハイセはパンを摘み上げ、訝しげに眺めた。
「これ、いつ置いた?」
「十分前だ」
「カミラが?」
「ああ」
「…………」
「何だ」
「別に」
一口かじる。眠気の残る頭に、ようやく味が届いた。
「ありがと」
「礼を言うくらいなら食事を忘れるな」
「研究してたら忘れた」
「お前までエルネスタみたいなことを言うな」
「そこまで?」
「かなりだ」
「…………」
否定できなかった。
「気をつける」
「そうしろ」
カミラはそれだけ言って自分の端末へ視線を戻した。ハイセもパンを食べながら資料をめくる。
そんな時間が、いつの間にか特別ではなくなっていた。
◇
アルルカントへ正式に所属してから、ハイセの生活は大きく変わった。
朝になれば学園へ向かい、これまで触れたこともない理論や技術を学ぶ。
「…………分からん」
「昨日も言っていたな」
「数式多すぎるだろ」
「基礎だ」
「どこが?」
研究室へ戻れば、今度は試作機と睨み合う。
「ここ」
「何だ」
「壊れる」
「何故分かる?」
「使ったら分かる」
「それを数値で説明しろ!」
「無茶言うな!」
実験室では、別方向の災厄が待っている。
「ハイセくーん!」
「何」
「新しいの出来た!」
「何が?」
「前の試作機!」
「昨日壊れたやつ?」
「もう直した!」
「早くない?」
「褒めて!」
「怖い!」
そして夜になっても、研究室の明かりが消えるとは限らない。
「カミラ」
「何だ」
「まだ帰らない?」
「この計算が終わったらな」
「昨日もそれ言ってた」
「……」
「飯食った?」
「…………」
「食ってないだろ」
「……忘れていた」
「人のこと言えねぇじゃん」
ハイセは呆れながら、買ってきた包みを机へ置く。
「ほら」
「何だこれは」
「飯」
「……私の分まで?」
「俺だけ食うの気まずいから」
「…………」
「何?」
「いや」
カミラはほんの少しだけ目元を緩めた。
「ありがとう」
「ん」
知らない世界だった。
知らない技術、知らない文化、知らない人間ばかりだったはずなのに、毎日同じ場所へ通い、同じ連中と言い合い、同じ研究に頭を悩ませているうちに、少しずつ――ここは「知らない場所」ではなくなっていた。
◇
「ハイセ!」
その日、研究室の扉が勢いよく開いた。
珍しく息を弾ませたカミラが立っている。
試作煌式武装を手にしていたハイセは、すぐに顔を上げた。
「どうした?」
「今、時間はあるか?」
「実験中だけど」
「中止だ」
「え?」
周囲の研究員も驚いたように振り返る。
「会長?」
「後で再開する。ハイセ、来てくれ」
「…………」
いつものカミラとは明らかに違う。
ハイセは余計な質問をせず、手にしていた武装を作業台へ戻した。
「ああ」
◇
連れて行かれたのは、普段使用している研究室とは別の解析室だった。
中には既にエルネスタがいた。いつもなら何か一言くらい余計なことを言う女が、今日は妙に真面目な顔をしている。
「ハイセくん」
「エルネスタ」
「とりあえず座って」
「…………何?」
椅子へ腰を下ろすと、カミラが端末を操作した。大型モニターへ複雑な波形と数値が表示される。
「以前から、君がこの世界へ現れた時の状況を可能な範囲で調べていた」
「ああ」
「君自身の身体、所持品、出現地点。そして、その周囲の空間に残っていた異常反応だ」
ハイセは僅かに身を乗り出した。
「何か分かった?」
「完全ではない。だが――君が出現した地点で、通常の現象では説明できない空間座標の乱れが記録されていた」
「…………」
「エルネスタ」
「あいよ」
別のデータが重ねて表示された。
「こっちはハイセくん本人。それからアイテムボックス、中に入ってた異世界由来の物品。あと――これ」
画面へ映し出されたのは、ハイセが元の世界から持ち込んだ灰色の宝玉だった。
ブラックエンシェントドラゴンとの戦いの後、手元に残った正体不明の核。
「この宝玉だけ、他の素材と比べても出力の振れ幅がやたら大きいんだよね。正直、何でこんなの持ち歩いてるのってくらい」
「知らん。手に入ったから持ってただけだ」
「その感覚で危険物を持ち込まないでほしいんだけどなぁ」
「危険物って決まってないだろ」
「今のところはね」
エルネスタは肩を竦め、再びデータへ視線を戻した。
「ただし、強弱の違いはあっても、ハイセくん本人や他の所持品には共通した特徴が残ってる。こっちの世界の物質には存在しない、微妙な空間情報みたいなもの」
ハイセは画面を見つめた。
「つまり?」
「断言はできない」
カミラが答える。
「だが、君と君の持ち物には、この世界とは異なる座標系に由来する情報が残留している可能性がある」
「…………」
数秒かけて意味を理解する。
「それ――辿れる?」
カミラはすぐには答えなかった。
「カミラ」
「可能性は、ある」
「…………本当に?」
「ああ」
「じゃあ――」
思わず立ち上がる。
「帰れる?」
「待て」
「…………」
「今すぐ帰還できると言ったわけではない」
ハイセは一瞬だけ固まり、それからゆっくり座り直した。
「……そうだよな」
「現状、確認できているのは異なる座標系へ接続した可能性を示す痕跡だけだ。向こう側が本当に君の故郷なのか、同一の時間軸なのか、接続そのものを再現できるのか。そして、仮に再現できたとして安全に通過できるのか――何一つ保証できない」
「…………」
「入り口みたいなものだけ作れてもさ」
エルネスタも今日は茶化さない。
「出口がどこに繋がってるのか分からないんじゃ、ハイセくんを放り込むわけにはいかないよ。身体だけ別の場所、なんてことになっても困るし」
「怖いこと言うなよ」
「だから調べるんだって」
画面へ視線を戻す。
帰る。
ずっと頭のどこかにあった言葉が、初めて具体的な輪郭を持った。
◇
「ただし」
カミラが画面を切り替える。
「君が望むなら、研究の優先順位を変更する」
「?」
「現在進めている異世界素材の解析、煌式武装との共同研究、【武器マスター】の基礎研究。それらよりも、帰還方法の調査へ人員と時間を回す」
「…………いいの?」
「何がだ」
「だってアンタ、異世界素材かなり気に入ってるだろ」
「研究対象に『気に入っている』という表現を使うな」
「否定しないじゃん」
「…………」
「それに【武器マスター】だって、まだ何も分かってない。俺が帰ったら研究できなくなる」
「そうだな」
「…………」
「だから?」
あまりにも当然のように返され、今度はハイセが言葉に詰まった。
「ハイセ」
「何」
「研究のために君を帰さないと、私が勝手に決めると思っているのか?」
「…………」
思わず黙り込む。
「帰還研究を優先すれば、他の研究は遅れる。人員も予算も必要になるだろう。完全に安全な方法が見つかる保証もない。逆に今の研究を続ければ、君はこの世界で知識と技術を得られるが、故郷へ戻る時期は遠のくかもしれない」
カミラは一つずつ、得るものと失うものを並べていく。
「どちらを選んでも対価はある。だから私は、それを君に説明する」
「…………」
「その上で聞く」
真正面から、ハイセを見る。
「君はどうしたい?」
「…………」
また、この問いだった。
カミラはいつもそうだ。
答えを押しつけない。
正解らしいものを選ばせるのでもない。
情報を渡して、危険も対価も話したうえで、最後は必ずハイセへ返してくる。
――君はどうしたい?
「研究者としては、当然欲しいものがある。研究対象も、結果も、未知の技術も欲しい」
「ああ」
「だが、そのために君の人生を私の所有物にする気はない」
「…………」
「帰りたいなら帰還方法を調べる。残りたいなら今の研究を続ける。途中で考えが変わったなら、その時また選び直せばいい」
その言葉を聞いて、ハイセは何も返せなかった。
◇
「……帰りたい?」
エルネスタが静かに問いかけた。
「…………」
当然、帰る。
そう答えるつもりだった。
元の世界。
ガイスト。プレセア。冒険者ギルド。見慣れた街。魔物。ダンジョン。
自分が生きてきた場所。
そして――サーシャ。
終わっていないものもある。整理できていない感情だって残っている。
だから帰る。
そのはずだった。
けれど、すぐには言葉が出なかった。
「ハイセ?」
「……俺、帰るよ」
「そうか」
「いつか」
カミラの目が僅かに細くなる。
「いつか?」
「ああ」
ハイセは画面へ映る波形を見た。
「帰る方法は探してほしい。でも――急がなくていい」
「…………」
エルネスタが瞬きをする。
「いいの?」
「ああ」
「何故だ?」
カミラから問われ、ハイセは考える。
理由ならいくつもあった。
この世界には、まだ知らないことが山ほどある。
煌式武装。
自分が考え始めた【究極の汎用性】。
異世界素材。
【武器マスター】。
ヒルダが示した身体という器の可能性。
天霧綾斗の剣。
シルヴィア・リューネハイムの歌。
そして、カミラやエルネスタたちとの研究。
「俺、まだここでやりたいことがある」
「研究?」
エルネスタが聞く。
「それも」
「それも?」
「……他は、まだよく分からん」
「何それ」
「でも、今帰ったら今やってること全部途中になるだろ」
「そうだね」
「それが嫌だ」
エルネスタは少しだけ目を丸くしてから、ゆっくり笑った。
「そっか」
「何」
「いやぁ。ハイセくん、ここ結構好きなんだなぁって」
「…………別に」
「出た」
「何が」
「『別に』」
「…………」
「好きじゃないの?」
「…………嫌いじゃない」
「はいはい」
「何だよ!」
からかうエルネスタから顔を背ける。
だが否定し切れないことくらい、ハイセ自身が一番よく分かっていた。
◇
「ハイセ」
カミラが改めて呼ぶ。
「何?」
「確認する。帰還方法の研究は継続する。ただし現時点では最優先にはしない」
「ああ」
「安全性と接続先を確認できる段階まで調査は続ける。その間、現在の共同研究も進める」
「ああ」
「それを、君自身が望むんだな?」
ハイセは今度こそ迷わなかった。
「俺が、そうしたい」
「分かった」
カミラは一度頷いた。それだけだった。
「……それだけ?」
「それ以外に何がある」
「いや、もっと何か言うかと思った」
「例えば?」
「知らんけど。引き止めるとか」
「何故する」
「…………」
「君が帰ると決めれば私はそのために動く。今は帰らないと決めたなら、それに従う。それだけだ」
「……そう」
「ああ」
不思議だった。
引き止められないのに、拒絶された気はしない。
むしろ、自分の選択をそのまま受け取ってもらえたことが、妙に心地よかった。
「まあ」
カミラがほんの少しだけ視線を逸らす。
「研究協力者が当面いなくならないのは、研究者としてありがたいがな」
「やっぱそこなんだ」
「当然だ」
「…………」
エルネスタが二人を交互に見て、にやりと笑った。
「なんだ」
カミラが警戒する。
「いやぁ?」
「その顔をやめろ」
「何も言ってないよ?」
「言うつもりだろう」
「カミラ、ハイセくんが今すぐ帰らないって聞いて結構――」
「エルネスタ」
「嬉し――」
「余計な分析をするな!」
「わー!」
笑いながら逃げていくエルネスタを、カミラが怒鳴りながら追い払う。
ハイセはその様子を見て、小さく笑った。
やっぱり、嫌いじゃない。
この場所は。
◇
その夜も、研究室には二人分の明かりが残っていた。
「カミラ」
「何だ」
「まだやる?」
「ああ」
「…………俺もやる」
「今日は帰れ」
「何で」
「昼間寝ていただろう」
「もう元気」
「帰れ」
「研究途中」
「明日でもできる。睡眠不足で判断力を落とすのは効率が悪い」
「…………」
「…………」
「分かったよ」
ハイセは椅子から立ち上がり、数歩進んだところで振り返った。
「カミラ」
「今度は何だ」
「…………」
少し迷ってから口を開く。
「帰る方法」
「ああ」
「見つけてくれて、ありがと」
「まだ見つけてはいない」
「でも探してくれてるだろ」
「君が頼んだからな」
「ああ。だから、ありがと」
カミラは数秒黙った。
「……どういたしまして」
「ん」
「ハイセ」
「?」
「私からも一ついいか」
「何?」
「今日、自分で決めたことを忘れるな」
「…………」
「帰ることも、ここにいることも、研究することも、いずれ別の道を選ぶことも――誰かに言われたからではなく、君自身が決めていい」
「…………ああ」
「それだけだ」
ハイセは少しだけ笑った。
「分かった」
「なら帰れ」
「急に雑だな」
「睡眠不足の研究協力者など邪魔なだけだ」
「さっきちょっといいこと言ったのに」
「早く帰れ」
「はいはい。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
◇
廊下へ出たハイセは、一人で歩きながら先ほどの言葉を思い返していた。
帰ることも。
ここにいることも。
選び直すことも。
自分で決めていい。
「…………」
昔なら、そんなことをわざわざ考えもしなかった。
選べることが当たり前だった頃には、その価値など知らなかった。
けれど、一度それを奪われたからこそ――今は少しだけ分かる。
「……変な奴」
誰に向けるでもなく呟く。
それでも口元には、僅かな笑みが残っていた。
◇
翌朝。
「おっはよー!」
「うるせぇ」
研究室の扉を勢いよく開けたエルネスタを、ハイセは露骨に嫌そうな顔で迎えた。
「ハイセくん!」
「何」
「昨日、帰還研究の優先順位そのままにしたんだって?」
「何で知ってる」
「カミラから!」
ハイセがカミラを見る。
「言ったの?」
「必要事項として共有しただけだ」
「じゃあお祝いしよう!」
「何の」
「『今すぐ帰らない記念』!」
「微妙すぎるだろ」
「じゃあ『アルルカント生活延長記念』!」
「もっといらない」
「えー!」
「普通に研究しよう」
「研究がお祝い?」
「…………」
「…………」
「……俺、結構染まってる?」
「かなり!」
「自覚したか」
カミラまで真顔で頷く。
「アンタのせいでもあるからな!」
「何故だ!」
「最初に研究室連れてきたのアンタだろ!」
「それは……」
珍しくカミラが言葉に詰まった。
「ほら!」
「だが」
「?」
「今すぐ帰らず、ここで研究を続けると決めたのは――君だ」
「…………」
ハイセは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「ああ」
確かに。
「そうだった」
◇
帰る方法がないから、ここにいる。
昨日まで、心のどこかではそう考えていた。
けれど、違った。
帰れる可能性が生まれた。
帰還への道を、本気で探してもらうこともできる。
それでもハイセは、その道を今すぐ最優先にすることを選ばなかった。
帰らないと決めたわけではない。
故郷を捨てたわけでもない。
いつか帰る。
その意思は変わらない。
ただ、その前に。
もう少しだけ、ここで知りたいことがある。
やりたいことがある。
それを途中で投げ出したくない。
誰かに命令されたわけでもない。
誰かに頼まれたからでもない。
誰かのために決めたことでもない。
自分がそうしたいから。
ただ、それだけの小さな選択だった。
けれど、その一つひとつが、ハイセを少しずつ変えていく。
知識を得る。
技術を知る。
人と出会う。
違う考え方を知る。
そして、自分の未来を自分で選ぶことを覚えていく。
いつの日か故郷へ帰ったとしても、その時のハイセは、もうここへ来る前とまったく同じ人間ではないだろう。
その変化を喜ぶ者もいれば、受け入れられない者もいる。
それでも――それは、まだ先の話だ。
今はただ。
ハイセ自身が、自分で選んだ。
帰る道を捨てずに。
それでも、もう少しだけ。
ここにいたい、と。