【暗律の戦乙女(ヤミキューレ)】は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
「せっかくの100話だし、パーティでもする?」
アルルカント・アカデミーの研究室で、ハイセがあまりにも自然な調子でそんなことを言い出した瞬間、端末へ向かっていたカミラの手がぴたりと止まった。
「メタい話で記念パーティをしようとするな」
「えー、いいじゃん。100ってなんか区切りいいし」
「何の区切りなんだ!」
当然のように返されたツッコミにも、ハイセはまるで懲りる様子がない。その横ではエルネスタが面白そうに笑い、ディルクは最初から関わるつもりがないのか、ソファへ深く腰掛けたまま資料だけを眺めていた。
そんな中、リューネハイムが何でもないことのように手を挙げる。
「ウェディングケーキと、ウェディングドレス二着は発注済みよ!」
「待って!?」
ハイセが勢いよく振り返る。
「昨日付き合ったばっかだよね!?」
「善は急げって言うでしょう?」
「これは善とか悪とかの問題なの!?」
「早ぇよ、気が」
ディルクが心底呆れたように吐き捨てる。
「ほら! ディルクまで言ってる!」
「俺を味方扱いすんな。面倒事増えるから止めてるだけだ」
「理由が酷い!」
リューネハイムはそんな二人の反応などまるで気にしておらず、楽しそうに指を折りながら何かを数え始めている。どうやら本気で衣装や式場、あるいはそれに近い何かまで考え始めているらしく、ハイセの顔から徐々に余裕が消えていった。
「ねえねえ」
その様子を眺めていたエルネスタが、不意にカミラたちへ顔を向けた。
「もうリューネハイムもレギュラーで良くない?」
「何のレギュラーだ」
「悪巧み会議の♪」
「嫌よ?」
リューネハイム本人は即答した。
だが、その隣でヒルダが顎へ手を添え、妙に真剣な顔で考え込む。
「悪巧み五人集から、悪巧み六人集か」
「勝手に増員するな!」
カミラの怒声が研究室へ響き渡り、ハイセは腹を抱えて笑った。ディルクは「くだらねえ」と呟きながらも席を立つ気配はなく、エルネスタは完全に面白がっている。ヒルダに至っては、呼称が六人集になった場合の語感まで気にし始めていた。
そして、その騒ぎの中心にいるリューネハイムは、昨日までとは少しだけ違う距離でハイセの隣に立っている。
たった一晩しか経っていない。それでも、二人の関係にはもう明確な名前がついた。
昨夜のお疲れ様ライブ、その最後に披露した新曲【ノーザンクロス】。そして、その直後にリューネハイムが二つの世界へ向けて行った公開告白は、ハイセ自身ですら正体を理解できていなかった感情に、ようやく名前を与えた瞬間でもあった。
当然、その余波が小さく済むはずもない。
「それよりさ」
カミラが疲れたように端末を操作すると、研究室中央の大型モニターへ大量のニュース記事やSNS投稿が表示された。
「お前たち、こっちをどうにかしろ」
「うわ」
ハイセが思わず声を漏らす。
どこを見ても自分とリューネハイムだった。
ライブ終了直後から切り抜かれた告白映像、手を重ねた瞬間、ハイセが恋愛感情を自覚して固まっている場面、リューネハイムに「今気付いたの!?」と詰め寄られている場面まで、ご丁寧に何種類もの角度から切り抜かれている。
「なんでここまで映像あるの?」
「生配信だぞ」
ディルクが冷静に返す。
「二世界同時配信。しかも相手はシルヴィア・リューネハイムだ。話題にならねえ方がおかしい」
「俺までセットで世界規模になってない?」
「今さら何言ってんだ」
ランキング上位には二人の名前が並び、祝福のメッセージが洪水のように流れている。既にファンアートまで大量に投稿され、昨日のステージ衣装を再現したイラストから、何故か結婚式を描いたものまで現れていた。
「ほら、みんな分かってるじゃない♪」
リューネハイムが嬉しそうに結婚式のファンアートを指差した。
「乗せられないで!」
「ウェディングドレス、こっちのデザインも可愛いわね」
「もう発注済みなんでしょ!?」
「三着目にする?」
「増やすな!」
ハイセが本気で頭を抱える。
そんな二人のやり取りすら、周囲にとってはすっかり新しい日常の一部になりつつあった。
エルネスタは面白そうに二人を眺め、カミラは今後の研究への影響よりもハイセが浮かれすぎないかを心配し、ディルクは交際発表によって変動した広告価値や市場への影響を既に計算し始めている。ヒルダに至っては、恋愛感情が人工歌姫としての能力出力へ与える影響を調査できないか真剣に考え始めており、その発言を聞いた瞬間、ハイセとカミラから同時に止められた。
あまりにも騒がしく、あまりにも平和だった。
昨日まで続いていた巨大な計画や政治交渉の緊張など、まるで最初から存在しなかったようにすら思える。
だからこそ、その場に一人足りないことへ気付くまでには、少し時間がかかった。
「……そういえば」
ハイセが画面から視線を外し、何気なく周囲を見渡す。
「サーシャってどうしてる?」
それまで続いていた笑い声が、ほんの僅かに弱くなった。
誰もすぐには答えない。
「昨日、ライブ終わってから見てないけど」
「帰ったんじゃないか?」
ディルクが興味なさそうに言う。
「まあ、会合も終わったし、それなら別に――」
「帰ってはいませんわ」
研究室の入口から聞こえた声に、全員が振り返った。
そこに立っていたのはピアソラだった。
普段なら多少なりとも挑発的な余裕を纏っている彼女が、今日は妙に静かな表情をしている。
「ピアソラ?」
ハイセが眉を寄せる。
「サーシャ、どうしたの?」
「……昨日から、ほとんど部屋を出ておりませんの」
その言葉を聞いた瞬間、研究室を満たしていた明るい空気が、ほんの少しだけ形を変えた。
「体調悪い?」
「そういうわけではありませんわ」
「じゃあ何?」
ピアソラは、答えを選ぶように一度視線を伏せる。
「おそらく、自分でも分かっていないのだと思います」
「何が?」
「今、何を感じているのか」
ハイセは黙った。
昨日のライブ、公開告白、その最中にサーシャがどんな顔をしていたのか思い出そうとする。
けれど。
自分は、リューネハイムのことしか見ていなかった。
あの状況なら、それも当然なのかもしれない。それでも、思い返してみれば何か一つ、見落としてしまったものがあるような感覚だけが胸の奥へ残った。
「私が様子を見てきますわ」
ピアソラはそれ以上説明せず、静かに踵を返した。
ハイセは一度呼び止めかけたものの、結局その声を飲み込んだ。
サーシャは自分とは違う人間だ。
何を感じ、どう受け止めるのか。それを自分が勝手に決めることはできない。
昨日、サーシャがようやく今の自分を自分で選ぶことを認めようとしてくれたように、自分もまた、彼女の感情を勝手に決めつけるべきではないのだろう。
そう考えながらも、胸に残った小さな引っかかりだけは、どうしても消えなかった。
その頃。
サーシャは、誰もいない部屋の中で一人きりで端末を見つめていた。
何度閉じても、画面の向こうにはハイセとリューネハイムが現れる。
ニュース記事を閉じれば、今度は動画サイトのおすすめ欄に告白の切り抜きが並び、SNSを開けば祝福の投稿が流れ込み、そのどれもが昨夜の光景を何度でも突きつけてくる。
リューネハイムがハイセへ好きだと伝えた場面。
ハイセがしばらく呆然としたあと、自分も同じ感情を抱いているのだと初めて理解した瞬間。
そして最後に、これからも一緒にいたいと笑った場面。
サーシャの指が再生停止へ触れ、映像が止まった。
けれど、止まった画面の中でさえ、ハイセは笑っていた。
リューネハイムの隣で、本当に幸せそうに。
サーシャは耐えきれず端末を伏せた。
部屋は静かだった。
何も聞こえない。
それなのに、頭の中では昨夜の歓声が今も鳴り続けている。
祝福。
拍手。
笑い声。
誰も怒っていなかった。
誰も悲しんでいなかった。
二人が一緒になることを、世界中が当然のように祝福していた。
その事実が、サーシャにはどうしようもなく苦しかった。
もしリューネハイムがハイセを騙していたのなら、怒れた。
何かを強要していたなら、止められた。
もしハイセが迷っていたのなら、自分の方を見ろと叫ぶことだってできたかもしれない。
けれど、実際には誰も何も奪っていない。
リューネハイムは、ただハイセを好きになり、自分の気持ちを正面から伝えただけだった。そしてハイセもまた、その言葉によって自分の中にあった感情へ気付き、自分の意志で彼女を選んだ。
誰かに押し付けられたものではない。
誰かに誘導された選択でもない。
だからこそ、自分が何かを否定しようとすれば、それはそのままハイセ自身の選択を否定することになる。
そのことが分かっているからこそ、余計に苦しかった。
「……なんで」
小さく漏れた声は、静かな部屋の中ですぐに消えた。
「なんで……私は……」
その先の言葉が続かない。
リューネハイムが憎い。
そう言ってしまえば楽だったかもしれない。
けれど、それだけではなかった。
ハイセが憎いわけでもない。
自分自身が嫌いなのかと問われれば、それもきっと感情の一部に過ぎない。
胸の中には、名前の違う感情がいくつも重なっていた。
羨ましい。
悔しい。
寂しい。
それでも好きで。
だからこそ許せなくて。
取り戻したいと願い、それ以上に、これ以上置いていかれたくないと思っている。
サーシャは、伏せていた端末をもう一度手に取った。
検索するつもりなどなかったのに、画面にはまたハイセの記事が表示される。
研究者。
人工歌姫。
S級冒険者。
七席。
フェアステージ。
フェアトレード。
セイレーン計画。
新エネルギー。
アルルカント。
そして、リューネハイム。
記事を指で送るたびに、自分の知らないハイセが次々と現れてくるように思えた。
だが、本当は違う。
知らなかったわけではない。
研究を始めたことも、アイドルになったことも、アスタリスクで仲間を作ったことも、リューネハイムと親しくなっていったことも、全部見ていた。
ただ、どこかで終わると思っていた。
いつか全部が一段落すれば。
ハイセは戻ってくると。
昔の自分が知っていたハイセへ。
追放する以前、自分の隣にいたハイセへ。
いつか戻ってきてくれるのだと、心のどこかで信じ続けていた。
だから本当の意味では、今のハイセを見ようとしていなかった。
その事実に気付いた瞬間、サーシャはようやく理解してしまった。
ハイセは、自分が立ち止まっている間にも、ずっと前へ進み続けていた。
追放され、壊れ、それでも新しい仲間を作った。
研究を始め、自分の身体を受け入れ、歌うことを好きになり、世界を変えるような技術や制度を生み出し、自分がこれから生きる場所まで選んだ。
そして今、好きな相手まで見つけた。
一方で自分はどうだったのか。
S級冒険者になった。
七大冒険者にもなった。
セイクリッドを率い、昔とは比べものにならないほど強くなった。
それなのに。
心だけは、ずっとあの日に残ったままだった。
ハイセを追放した日。
すべてが壊れたと思った、あの日から。
一歩も動かず。
過去だけを見ていた。
「私だけ……?」
声が震える。
「私だけ……ずっと……」
画面の中では、ハイセがまた笑っている。
それはまるで、自分だけが昔に取り残されていたことを突きつけてくるようだった。
胸の奥が大きく揺れる。
痛みよりも先に、恐怖が来た。
もし本当に。
今のハイセの人生に、自分がもう必要とされていないのだとしたら。
自分は何のために、ここまで彼を追い続けてきたのだろう。
何のために昔を取り戻そうとし、何のために今のハイセを受け入れられず、それでも諦めきれないままここまで来たのだろう。
サーシャは端末を握り締めた。
指先に力が入り、僅かに震える。
「……嫌だ」
小さな声だった。
けれど、その一言だけは妙にはっきりと響いた。
「そんなの……嫌だ」
頭では分かっている。
ハイセが自分で未来を選んだことも。
それを認めるべきなのだということも。
少し前、自分自身がようやく受け入れたはずだった。
ハイセの身体も、人生も、ハイセ自身が決めるべきだと。
昔の姿へ戻ることを願い続けるのではなく、今のハイセを見なければならないのだと。
だから、今さらその選択を否定することなどできない。
できないはずだった。
それなのに。
感情は。
頭で理解したからといって、綺麗に消えてはくれない。
「…………まだ」
サーシャの唇がゆっくりと動く。
「まだ……終わってない」
その言葉が何を意味しているのか、彼女自身にもまだ分かっていなかった。
前へ進むために、一度きちんと終わらせたいという意味なのか。
それとも、最後にもう一度だけハイセへ手を伸ばしたいという意味なのか。
あるいは。
もっと別の。
自分でも認めたくない何かが、その言葉の奥に混ざっているのか。
ただ一つだけ分かっていたのは、このまま何もしないまま諦めることだけはできないということだった。
その時。
部屋の外で、小さな気配が止まった。
ピアソラだった。
サーシャの様子を見に来た彼女は、扉を叩こうとして、その手を止めている。
室内から聞こえてきた最後の言葉。
――まだ、終わってない。
その意味を、ピアソラにもすぐには理解できなかった。
ただ。
言葉そのものよりも、その声に込められていた何かが、妙に胸へ引っかかった。
諦めないという決意なのか。
立ち直ろうとする意志なのか。
それとも。
もっと危うい何かなのか。
答えはまだ分からない。
けれど、嫌な予感だけは、理由もなくはっきりと残った。
昨日。
二つの世界が、一つの恋を祝福した。
その祝福は、ハイセとリューネハイムへ新しい未来を与えた。
そして同じ光が、別の場所では、一人の少女が長く抱えてきた未練や後悔を、これ以上隠せないほど鮮明に照らし出していた。
強い光が差せば、その傍らには必ず影が生まれる。
今はまだ、それはほんの小さな影に過ぎない。
けれど。
ハイセたちが知らないところで、その影は確かに輪郭を持ち始めていた。