【暗律の戦乙女(ヤミキューレ)】は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
サーシャが自室へ閉じこもった翌日。
アルルカント・アカデミーの研究区画では、前日の騒ぎが嘘だったかのように、いつもの時間が戻り始めていた。
ハイセは朝から研究室へ入り、カミラと並んで新型煌式武装の演算結果を確認している。昨日までなら、その横でエルネスタが余計な機能を追加しようとして怒鳴られ、ヒルダが人体実験ぎりぎりの提案を持ち込み、ディルクが採算性の話を始めるところだったが、今日は珍しく人影が少ない。
リューネハイムも仕事で席を外していた。
だからだろうか。
研究室の扉が開き、その向こうにサーシャの姿が現れた時、ハイセは最初、それほど身構えなかった。
「サーシャ?」
声をかけても、返事はすぐには返ってこない。
昨日までほとんど部屋から出ていなかったと聞いていたが、顔色そのものが極端に悪いわけではなかった。ただ、眠れていないのか目元には薄い疲労が残り、いつもなら真っ直ぐこちらへ向けられる視線にも、どこか焦点の定まらない危うさがある。
そして腰には、一本の剣が下げられていた。
サーシャのためにハイセ自身が調整した【セルヴィトラ】。
神の箱庭へ挑む前、原点へ立ち返るために作った、特殊能力に頼らない一振りだった。
「まだ使ってるんだ、それ」
ハイセが何気なく言うと、サーシャの指が柄へ触れた。
「……お前が作った剣だからな」
「そっか」
それ以上の意味を込めずに返された言葉が、今のサーシャには妙に遠く聞こえた。
以前なら、それで十分だったかもしれない。
自分の癖を覚え、剣筋を見て、握りや重心まで合わせて作ってくれた武器。その事実だけで、自分はまだハイセにとって特別なのではないかと期待することもできた。
けれど今は、分かってしまっている。
ハイセは必要だと思えば誰かのために武器を作る。
誰かが選択肢を失っていれば、そのための道具を作る。
自分だけではない。
それが今のハイセなのだ。
「ハイセ」
「うん?」
「少し、話したい」
声は落ち着いていた。
少なくとも、最初は。
カミラは二人を一度見比べたが、何も言わず端末を閉じた。
「私は席を外す」
「別にいてもいいけど」
「私がいると話しづらいだろう」
そう告げて研究室を出る直前、カミラは一度だけサーシャへ視線を向けた。その目には警戒があったが、それ以上に、今は本人同士で話す必要があると判断したのだろう。
扉が閉じる。
研究室に残ったのは、二人だけ。
しばらく沈黙が続いた。
「昨日のことなんだが」
やがてサーシャが口を開いた。
「ライブ?」
「ああ」
ハイセは椅子から立ち上がり、サーシャへ向き直った。
「リューネハイムと……付き合うことになったんだな」
「うん」
迷いのない返事だった。
それだけで胸が痛んだが、サーシャは顔に出さないよう拳を握る。
「本当に、好きなのか?」
「好きだよ」
また、即答だった。
前日のステージで初めて自覚したばかりだというのに、もうその言葉には迷いがない。
「……そうか」
サーシャは目を伏せた。
聞かなければよかった。
そんな思いが一瞬だけ浮かんだが、それでもここで帰ることはできなかった。
「私は」
一度、息を吸う。
「まだ、お前を諦めたくない」
ハイセの表情が僅かに変わった。
拒絶ではない。
怒りでもない。
ただ、困ったような顔だった。
それが余計に苦しい。
「サーシャ」
「分かっている」
先回りするように言った。
「お前が今の自分を気に入っていることも、男に戻りたいと思っていないことも分かっている。アスタリスクに残ると決めたことも、お前自身が選んだことだというのも分かっている」
そこまで言葉にしたことで、一瞬だけサーシャ自身も落ち着きを取り戻した。
少し前までの自分なら、男に戻れと叫んでいた。
昔の姿を取り戻せと願っていた。
だが、それがハイセ自身の望みではないと、ようやく認めた。
だから。
今度こそ。
今のハイセを見て。
「それでも」
サーシャは顔を上げる。
「私を選んでほしい」
ハイセは、すぐには答えなかった。
その沈黙に、ほんの僅かな期待が生まれる。
しかし。
「ごめん」
短い言葉が、その期待を切り落とした。
「俺はリューネハイムが好きだから」
「…………」
「サーシャのことが嫌いだからじゃないよ。昔のことも、今までのことも含めて、もう全部どうでもいいってわけでもない。でも」
ハイセは視線を逸らさなかった。
「恋愛として、サーシャを選ぶことはない」
曖昧にしない。
期待を持たせない。
それが今のハイセなりの誠実さだった。
けれどサーシャにとって、その誠実さは刃と変わらなかった。
「……何故だ」
「何故って」
「私の方が、お前を長く知っている」
「うん」
「幼い頃から一緒だった」
「そうだね」
「お前が弱かった頃も、何も持っていなかった頃も私は知っている」
声が少しずつ強くなる。
「それなのに、何故」
拳が震えた。
「後から現れたあいつなんだ」
ハイセの顔から、僅かに笑みが消えた。
「それは関係ないよ」
「関係ある!」
「ない」
今度は明確だった。
「どれだけ長く一緒にいたかで、好きになる相手が決まるわけじゃない」
「……っ」
「それに、リューネハイムは後から来たんじゃない」
ハイセは少し考えてから、静かに続けた。
「今の俺が歩いてきた道の途中で出会っただけだよ」
研究を始めた。
身体を変えた。
歌を手に入れた。
アスタリスクで多くの人間と出会った。
その全てを経て、今の自分がいる。
リューネハイムは、その現在を見ていた。
変わる前の自分へ戻ることを望まず、変化する自分を止めようともせず、ただ隣で一緒に歩いてきた。
「私は……」
サーシャの声が震える。
「私だって、今のお前を見ると決めた!」
「うん」
「なら!」
「それでも、俺が誰を好きになるかは別だよ」
また。
正しい。
何一つ間違っていない。
それが、たまらなく苦しかった。
「じゃあ……」
サーシャは唇を噛む。
「アスタリスクに残るのをやめろ」
「嫌だよ」
「研究もやめろ」
「嫌」
「アイドルも」
「やめない」
「リューネハイムと別れろ!」
「それは絶対嫌」
一つ、一つと言葉を重ねるたび、サーシャ自身にも、自分が何を言っているのか分からなくなっていった。
ハイセが選んだものを認めると言ったはずなのに、今のハイセを見ると決めたはずなのに、口から出てくる言葉は、その全てを捨てろという要求ばかりだった。
「じゃあ……私はどうすればいい!」
とうとう叫んだ。
「お前が勝手に先へ行って! 勝手に変わって! 勝手に居場所を見つけて! 好きな相手まで作って! 私だけ置いていって!」
「サーシャ」
「私はどうすればいいんだ!!」
研究室に怒声が響いた。
それは怒りというより、悲鳴に近かった。
ハイセはしばらく黙っていた。
そして。
「それを決めるのは、俺じゃないよ」
穏やかに言った。
「…………」
「サーシャの人生だろ」
その一言が。
最後に残っていた何かを切った。
サーシャの手が、腰のセルヴィトラへ伸びる。
起動。
淡い光が刀身を形作った。
それを見ても、ハイセは動かなかった。
「……何のつもり?」
「勝負しろ」
「嫌だよ」
「逃げるのか」
「そういう煽り、今さら俺に効かないよ」
「なら!」
サーシャが剣先を向ける。
その目は、もう理屈で止まれる状態ではなかった。
「私が勝ったら、何もかもから降りてもらう」
ハイセの表情が消える。
「アルルカントも、アイドルも、リューネハイムも全部だ」
そしてサーシャは、自分でも引き返せなくなる言葉を吐いた。
「鎖で縛って、一生離さない!!」
研究室から、音が消えた。
ハイセは何も言わず、ただ僅かに俯いたまま立っていた。怒ったのか、それとも呆れたのか、サーシャにはその沈黙の意味が分からない。
数秒後、ハイセは顔を上げた。
笑っていた。
だが、それはいつもの軽い笑みではない。
何かをようやく理解し、同時に見切ったような、妙に静かな笑顔だった。
「……ああ。じゃ、これでお互いスッキリだね、サーシャ」
「何?」
「殺し合おうなんて言わないよ」
ハイセが一歩前へ出る。
武器は持っていない。それでも、サーシャは反射的にセルヴィトラを握り直した。目の前にいるハイセから、剣を抜いた時とは別種の圧力を感じたからだ。
「一方的にブチのめすからさぁ!」
その瞬間、研究区画の警報が鳴り響いた。
外にいたカミラが状況を察し、強制的に訓練フィールドへの隔離設定を起動したのだろう。周囲の壁が展開し、研究室の一角が戦闘用防護区画へ切り替わっていく。
完全に隔離が終わるより早く、サーシャは床を蹴った。
初速から全力。
迷いはない。
ハイセ自身が調整したセルヴィトラは、その踏み込みに寸分違わず追従し、まるで彼女の身体の延長のように鋭い斬撃を走らせる。
狙いは首元。
避けられない距離まで詰めたはずだった。
だが、届かなかった。
「っ!」
セルヴィトラは確かに正しい軌道を通った。
ハイセも大きく身体を動かしてはいない。それなのに、刃は髪をほんの僅かに揺らしただけで、数センチ外側の虚空を切り裂いた。
サーシャは即座に足を入れ替え、返す刃で二撃目を放つ。そこから切り上げ、横薙ぎ、さらに踏み込んで三撃、四撃と繋げるが、どれも同じだった。
あと僅か。
触れられるはずの距離。
それなのに、どうしても届かない。
「何を……!」
ハイセは反撃すらしていなかった。
少なくとも、その時のサーシャにはそう見えた。
武器を構えているわけでもない。
拳を握っているわけでもない。
彼女の連撃を最小限の動きだけで外しながら、ハイセは静かに呼吸を整えた。
そして。
歌い始めた。
【Monochrome Eden】。
低く始まった旋律が、防護区画へ柔らかく広がっていく。
その瞬間、空気が変わった。
音が星辰力を纏い、ただの歌声ではなくなっていく。
リューネハイムを教師データとして学び、自分自身の身体と感覚で磨き上げてきた、歌を媒介とする事象干渉。
かつて【セイレーン計画】の施術を受けた時、ハイセが手にしたものは、誰かの能力をそのまま写し取ったコピーではなかった。
呼吸。
発声。
星辰力操作。
そして、歌を現実へ届けるための方法。
与えられたのは完成した答えではなく、自分自身の答えへ辿り着くための土台だった。
そこから何を歌い、何を世界へ伝え、どんな現象へ変えるのかは、最初からハイセ自身に委ねられている。
そして今、ハイセが歌へ乗せているものは、過去を消し去る意思ではない。
傷を無かったことにするためでもない。
後悔を抱えたままでも、それでも自分自身で未来を選び続けるという意思だった。
サーシャが踏み込む。
床を蹴ったはずの足が、ほんの僅かに滑った。
「なっ――」
すぐさま体勢を立て直した瞬間には、ハイセが視界の正面から消えている。気配を追って背後へ振り向き、そのまま剣を振り抜く。
しかし、刃が届く直前、空気の密度が僅かに変わり、その軌道はほんの数度だけ外側へ逸れた。
大きな奇跡ではない。
攻撃そのものを消しているわけでもない。
ハイセが介入しているのは、攻撃が結果へ到達するまでに存在する小さな条件の一つ一つだった。
足場。
空気。
風圧。
音。
重心。
それらのどれかを、ほんの僅かだけ変える。
たったそれだけで、サーシャの剣はハイセへ届かなくなる。
「ふざけるな!」
サーシャは星辰力を込めてさらに踏み込み、今度こそ逃げ場を消すように斬撃を連ねた。
それでもハイセは歌い続ける。
声は乱れない。
呼吸も、音程も、星辰力の循環も崩れない。
サーシャの攻撃を紙一重で外すたび、戦場を構成する条件が少しずつ書き換えられていく。
右へ踏み込めば、そこに最適な足場がない。
左へ回れば、僅かな風圧が身体を押す。
距離を取れば、声に乗った圧力が逃げ道を限定する。
そうして選べる行動を一つずつ狭められ、正面へ踏み込むしかなくなった瞬間、ハイセの掌がサーシャの胸元へ触れた。
「っ――!」
爆発ではない。
圧縮された空気と星辰力が一瞬だけ解放され、純粋な衝撃としてサーシャの身体を数メートル後方へ押し飛ばす。
床を転がりながら受け身を取り、すぐさま立ち上がる。
身体は動く。
剣も握れる。
サーシャは決して弱くなってなどいなかった。
むしろ神の箱庭を経て、以前より遥かに強くなっている。范星露から学び、ただ自分の力を押し付けるだけではなく、相手の動きを見て判断することも覚えた。仲間と噛み合い、その場の状況に応じて戦い方を変える柔軟性だって身につけている。
だからこそ、分かってしまった。
ハイセは、自分の行動を見てから対応しているのではない。
自分がその瞬間に選べる行動を先に見て、その中で最も自然に選ぶであろう答えへ、あらかじめ戦場そのものを寄せている。
間違った行動を取らせているわけではない。
むしろ、その瞬間だけなら正しい選択をさせている。
そして次の瞬間、前提となる条件だけを変える。
かつてクレアが自分へ見せた、選択を誘導する戦い方。
だが、規模が違う。
武器の変形によって間合いや対応を限定するのではなく、今のハイセは歌によって戦場そのものへ干渉し、自分にとって最も都合のいい答えへ相手を誘導している。
「……くそっ!」
サーシャはセルヴィトラを強く握り直した。
ならば、条件を変えられるより先に突破すればいい。
圧倒的な速度と力で、真正面から最短距離を貫く。余計な選択肢を自分から捨ててしまえば、誘導される余地も減る。
剣へ全力の星辰力を込め、一直線に走る。
その真正面で、ハイセはなおもウォーレ=ザインへ手を伸ばさない。
いや。
そもそも、ここには持ってきてすらいなかった。
「ハイセェェェッ!!」
セルヴィトラが振り下ろされる。
その刹那、ハイセの歌声が一段高く響いた。
圧力、床面、空気、星辰力の流れ。
それまで別々に動いていた複数の条件が、一つの音へ導かれるように噛み合っていく。
サーシャの足が止まった。
セルヴィトラの刃は、ハイセの額へ届くまであと数センチ。
そこから先へ、どうしても進まない。
腕へ力を込めても、脚へ星辰力を回しても、まるで透明な何かへ押し返されているように距離が縮まらない。
「何でだ……」
声が震える。
さらに力を込めても結果は変わらない。
「何で……」
そして、とうとう堪えきれなくなった。
「何で【青鳴の魔剣】を使わない!!」
歌が、そこで一度だけ止まった。
ハイセは少し不思議そうな顔でサーシャを見る。
「なんで?」
「私を舐めているのか!」
「違うよ」
ハイセはゆっくりと首を横へ振った。
「ウォーレ=ザインは強い。今でも大事な武器だよ」
かつて、マディアス・メサの計画を壊すためにリンドヴルムへ挑み、その過程で手にした魔剣。
自分で選び、自分で握り、数え切れない戦いを共にしてきた武器。
その価値を、ハイセは少しも否定していない。
「でも、勘違いしてるよ、サーシャ」
「……何を」
「俺、武器を持ってないんじゃない」
ハイセはもう一度静かに息を吸い、僅かに笑った。
「歌ってるだろ?」
「…………」
「ウォーレ=ザインがなきゃ戦えないわけじゃない。あれは俺の武器の一つであって、俺そのものじゃない」
その言葉を聞き、サーシャの瞳が揺れる。
それは、ウォーレ=ザインを初めて手にした頃から、ハイセの根底で変わっていない考え方だった。
武器を大切にしても、武器へ自分自身を預けない。
一つの力だけへ執着し、それを失えば自分まで終わるような生き方をしない。
身体が変わっても。
能力が増えても。
研究者になっても。
歌姫になっても。
そのどれか一つだけを「これこそが自分だ」と決めつけることなく、得たもの全てを自分の一部として取り込み、その時その時で最も適した答えを選ぶ。
だからハイセは、何度でも自分を更新してきた。
「俺にとって、今この場で一番強い武器は――歌だよ」
その言葉と同時に、再び旋律が防護区画へ満ちていく。
今度は、サーシャにも分かった。
舐められているのではない。
ハイセは本気だ。
自分が持つ数多くの力の中から、この戦いへ最も適したものを選んだ結果が、歌だっただけなのだ。
そして、その歌は。
リューネハイムとの出会いを通じて磨かれてきたものでもある。
その事実が胸へ刺さる。
「……っ!」
それでも止まれない。
サーシャはもう一度走り出し、歌声の中へ何度も斬り込んだ。
右から。
左から。
間合いを変え。
速度を変え。
あらゆる方法を試す。
だが、何度繰り返しても結果は同じだった。
届かない。
ハイセは必要最低限の干渉だけで攻撃を外し、そのたびに短い反撃を返してくる。肩、脇腹、脚。いずれも急所は外し、致命傷になる威力も使わない。
それでも確実に、サーシャが戦い続けるための余力だけが削られていく。
気付けば、乱れているのはサーシャの呼吸だけだった。
対するハイセの歌は、戦闘開始から一度も崩れていない。
「はぁ……はぁ……」
膝が僅かに沈む。
それでもセルヴィトラは下ろさなかった。
「何で……そんなに……」
強くなった。
そう言いかけて、サーシャは言葉を止めた。
違う。
これは単純な強さだけの話ではない。
目の前にいるハイセは、ただ力を増したのではなく、変わり続けたのだ。
昔の自分を捨てたわけではない。
弱かった自分も。
冒険者だった自分も。
追放された自分も。
ウォーレ=ザインを握った自分も。
歌姫になった自分も。
研究者になった自分も。
全部を切り捨てず、自分の中へ残したまま、その全てを連れて先へ進んだ。
一方で、自分は。
その長い道の途中に残された、たった一つの過去だけを掴もうとしていた。
「ハイセ……!」
残っていた力を振り絞り、サーシャが最後の踏み込みを放つ。
横薙ぎの斬撃。
今度こそ全てを叩き込んだ一撃だった。
だが、ハイセは避けなかった。
歌声を途切れさせることなく右手を上げると、それに応じて空気が震え、セルヴィトラの軌道がほんの僅かだけ上へ逸れていく。
その結果、サーシャの懐が完全に開いた。
そこへハイセの掌が触れる。
次の瞬間、歌が一つの現象を完成させた。
これまでより遥かに強い衝撃が、サーシャの腹部から全身へ抜けていく。
それでも、身体を壊すための威力ではない。
殺すためでもない。
これ以上戦えなくするためだけに調整された一撃だった。
サーシャの身体が大きく吹き飛び、床へ落ちる。
手から離れたセルヴィトラが乾いた音を立てながら転がり、そのまま数メートル先で止まった。
サーシャはすぐに立とうとした。
腕へ力を入れ、上体を起こそうとする。
だが、身体が言うことを聞かない。
破壊されたわけではない。
意識もある。
それでも、もう戦闘を続けられるだけの力が残っていなかった。
やがて【Monochrome Eden】の旋律が静かに終わり、防護区画へ沈黙が戻ってくる。
ハイセは倒れているサーシャのところまで歩いていった。
上から見下ろすことはせず、すぐそばへしゃがみ込む。
「俺は、サーシャから選択肢を奪うつもりはないよ」
その声を聞き、サーシャの視線が僅かに動いた。
「俺を諦めるのも、まだ好きでいるのも、サーシャが決めればいい。それは俺が決めることじゃない」
ハイセは床へ落ちていたセルヴィトラを拾い上げる。
自分が作った剣。
かつてではなく、今のサーシャのために調整した武器。
その一振りを、彼女のすぐ隣へ静かに置いた。
「でも」
そこで声色が少しだけ変わる。
怒鳴りはしない。
それでも、その言葉だけは決して譲らないという意思がはっきり伝わった。
「俺が誰を好きになるか、どこで生きるか、何をするか。研究も、歌も、冒険者でいることも、この身体も、俺の居場所も――リューネハイムを好きでいることも」
一つ一つ、今まで自分で選んできたものを確かめるように言葉へしていく。
「俺の人生を、サーシャが決めることだけは許さない」
サーシャは、何も言えなかった。
間違っていない。
全部、分かっている。
頭では。
それでも、理解したことと感情が受け入れられることは、同じではなかった。
頬を、一筋の涙が伝っていく。
ハイセはそれを見ても、慰めるようなことはしなかった。
抱き締めもしない。
大丈夫だとも言わない。
ここで優しくすれば、サーシャに余計な期待を持たせるだけだと分かっている。
だからただ、彼女の気持ちは彼女自身のものだと認めたうえで、自分の人生まで差し出すことはできないという線だけを引いた。
そしてハイセが立ち上がった、その時だった。
訓練フィールドの入口から、乾いた拍手の音が聞こえた。
一度。
二度。
やがて、それは五人分へ増えていく。
ハイセが振り返る。
サーシャも、床に横たわったまま僅かに顔を向けた。
そこにいたのは、五人の少女たちだった。
【ルサールカ】。
普段、ステージの上で見せる華やかな顔とは違う。
五人とも、今は戦う者の目をしている。
彼女たちはまず床に倒れているサーシャを見て、それからハイセへ視線を移し、ゆっくりとフィールドの中へ足を踏み入れた。
ハイセとの戦いには敗れた。
けれど、それでサーシャの問題が解決したわけではない。
ハイセは彼女から過去を奪うことも、気持ちを捨てさせることもできない。
できるのは、自分の人生を自分で選ぶという答えを見せるところまでだった。
そこから先。
今度はサーシャ自身が、自分の足で前へ進まなければならない。
そして、そのために必要なのは、過去のハイセを追いかける戦いではなく、今この瞬間を生きている者たちと真正面からぶつかることだった。
五人の足音が、静かなフィールドへ響いていく。
過去へ追いつこうとするサーシャの戦いは、ここで一度終わった。
これから始まるのは。
現在の自分で未来を選ぶための戦いだった。