【暗律の戦乙女(ヤミキューレ)】は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
ルサールカとの再戦が終わってから、数日が経った。
サーシャはあの敗北以降、以前のように自室へ閉じこもることはなくなったものの、だからといって何かが綺麗に吹っ切れたわけでもなかった。ハイセとの戦いでは、自分が相手の人生そのものを縛ろうとしていたことを突きつけられ、ルサールカとの再戦では、自分が過去へ執着している間にも周囲の人間は変わり、進み続けていたのだと身体で理解させられた。
答えは、少しずつ見え始めている。
けれど、頭で理解したからといって、長い時間をかけて絡みついた感情まで簡単にほどけてくれるわけではない。
そんなサーシャへ、ルサールカ戦が終わった直後、ピアソラは一つだけ告げていた。
――次は、私と戦ってくださいませ。
挑戦を受けるかどうか、サーシャはその場では答えなかった。
だが、その頃には既に、ピアソラの側で準備が始まっていた。
◇
「まず確認なんだけど、ピアソラ」
アルルカントの訓練区画で、ハイセは目の前に展開された複数の演算ウィンドウを指先で払いながら問いかけた。
「真正面から殴り合ったら、サーシャに勝てると思う?」
「思いませんわ」
ピアソラは即答した。
「判断早いね」
「事実を認めることと、自分を卑下することは別でしょう?」
「それなら話が早い」
ハイセは満足そうに笑うと、訓練用に調整された煌式複装――デミルークスの設定画面を開いた。
ピアソラは弱くない。
以前の彼女と比べれば、戦闘技術も星辰力操作も大きく伸びている。それでも、純粋な近接戦闘能力や反応速度、経験、一撃ごとの重さまで含めれば、サーシャの方が明確に上だった。
ならば、同じ土俵へ立つ必要はない。
「サーシャ相手に大事なのは、強い攻撃を当てることじゃない」
「当てるための状況を作ること、ですわね」
「そう」
ハイセは指を立てる。
「合成弾って聞くと、みんな威力が上がる技だと思いがちなんだけど、本当に面白いのはそこじゃないんだよ」
そう言って、ピアソラのデミルークスへ一つ目の術式を転送する。
「【トマホーク】。バイパーとメテオラの合成」
軌道を自在に設定できるバイパーへ、爆発性を持つメテオラを組み合わせることで、単純な直射では成立しない角度から爆撃を叩き込める。
「次が【サラマンダー】。ハウンドとメテオラ」
今度は、追尾性能を持つ弾丸へ爆発性を加える。
「これは避けた相手を追える。つまり、回避行動そのものを次の攻撃へ利用できる」
「なるほど。どちらも、相手が正しく回避した結果を利用するわけですのね」
「そういうこと」
ハイセが楽しそうに頷く。
「で、最後」
表示された術式を見たピアソラが、僅かに眉を動かした。
「【クレイモア】?」
「メテオラ+メテオラ」
「……要するに?」
「爆発をもっと爆発させる」
「急に説明が雑ですわね」
「でも分かりやすいでしょ?」
「思想が物騒すぎますわ」
「俺が作ったからね」
「納得したくありませんけれど、納得できてしまいますわ」
ピアソラが額へ手を当てる。
とはいえ、クレイモアも単純に威力を求めた弾ではない。爆発範囲そのものを巨大化させることで、「そこへ逃げれば安全」という選択肢をまとめて消すための兵装だった。
ハイセは三種類の合成弾を並べながら、改めてピアソラへ向き直る。
「サーシャより速く動こうとしなくていいし、剣で勝とうともしなくていい。サーシャがどこへ動くのかを考えて、その場所を一個ずつ潰す」
「選択肢を減らす」
「正確には、選ばせる」
その違いを、ハイセは少し強調した。
「こっちが全部奪おうとすると、相手は無理やり突破しようとする。でも、“ここなら行ける”って場所を一つ残しておけば、人ってかなりの確率でそこを選ぶんだよ」
「そして、その先に本命を置く」
「そう。サーシャくらい強い相手だと、無理な選択を押し付けても突破される。でも本人が正しいと思って選んだ場所なら、警戒が一瞬だけ遅れる」
それは、つい先日ハイセ自身がサーシャへ見せた戦い方でもあった。
ハイセの場合は歌による事象干渉で戦場そのものへ介入したが、ピアソラには同じことはできない。
だからこそ、デミルークスを使う。
弾道、爆発、追尾、そしてセルヴィトラによる遠隔防御。
この世界のデミルークスには、攻撃用の術式を二つ組み合わせている間は防御を完全に捨てなければならない、という制約がない。したがって合成弾を構築しながらでも、セルヴィトラによる防御処理を並行して維持できる。
サーシャと真正面から競り合う必要はない。
守りながら距離を取り、逃がす場所を選ばせ、そこへ追い込み、最後の一発だけを確実に当てればいい。
「……ずいぶん性格の悪い戦い方ですこと」
「戦術って、だいたいそういうものだよ」
「褒めていますのよ」
「それならよかった」
訓練は何度も繰り返された。
最初はトマホークの弾道設定が間に合わず、爆発が予定より大きく逸れた。サラマンダーは追尾性能を意識しすぎて速度が落ち、クレイモアに至っては範囲設定を誤り、危うくハイセまで巻き込むところだった。
「危なっ!」
「避けましたでしょう?」
「先生撃つ生徒がいる!?」
「実戦的ですわ」
「意味違うから!」
そんな軽口を交わしながらも、ピアソラの吸収は早かった。
一度失敗すれば原因を分析し、次には修正する。技そのものを覚えるだけではなく、なぜその技を使うのか、どういう状況なら別の手段を選ぶべきなのかまで考え始める。
やがて最後の模擬標的をトマホークで誘導し、サラマンダーで回避方向を限定したうえで、逃げ込んだ先へクレイモアを展開すると、訓練用標的は逃げ場を完全に失った。
「うん」
ハイセが満足そうに頷く。
「これならサーシャ相手でも戦えると思う」
「勝てる、ではありませんのね」
「そこまで無責任なことは言えないよ。最後はピアソラ次第」
「……そうですわね」
ピアソラはデミルークスを停止させた。
光が消え、訓練場に静けさが戻る。
「じゃあ、今日はここまでかな」
ハイセが端末を閉じ、戻ろうとした。
「ハイセ」
背中へ声が届く。
「ん?」
振り返ると、ピアソラはその場から動かずに立っていた。
先ほどまでの訓練中とは違い、冗談を言うような雰囲気ではない。
「どうしたの?」
「一つ……いえ、二つ。お伝えしておきたいことがありますわ」
「二つ?」
ピアソラは一度息を整え、そのまま深く頭を下げた。
「以前のセイクリッドにいた頃のことを、謝らせてくださいませ」
ハイセの目が僅かに見開かれる。
「……急だね」
「今だから、ですわ」
ピアソラは顔を上げないまま続けた。
「あなたが弱かった頃。セイクリッドの中で居場所を失い始めた頃。そして、追放された時も……私はあなたを理解しようとはしませんでした」
過去の出来事が、静かな声で一つずつ言葉へ変わっていく。
「あの時の私は、自分が強い側にいることを当然だと思い、あなたの立場から物事を見ることすらしなかった。サーシャがどう考えていたかは関係ありません。周囲がどうだったかも、言い訳にはなりませんわ」
そこで初めて、ピアソラは顔を上げた。
「あなたへ向けた態度は、私自身が選んだものですもの」
ハイセは何も言わず、その言葉を最後まで聞いていた。
「今になって謝れば無かったことになるとは思っておりません。それでも……申し訳ありませんでした」
再び頭を下げる。
しばらくして返ってきた声は、驚くほど軽かった。
「別にいいよ」
ピアソラが思わず顔を上げる。
「……そんな簡単に?」
「簡単っていうか」
ハイセは少し困ったように笑う。
「昔のことを忘れたわけじゃないし、全部良かったことにする気もない。でも、今のピアソラが謝りたいと思って、ちゃんと謝ってくれたんでしょ?」
「ええ」
「なら、それでいいよ。俺も昔と同じじゃないし」
誰かの過去を消すことはできない。
けれど、過去にしたことだけを理由に、今のその人まで永遠に固定する必要もない。
それは、ハイセ自身がこれまで何度も選んできた考え方でもあった。
「ありがとうございます」
ピアソラは小さく息を吐いた。
胸の奥へ長く残っていたものが、一つだけ軽くなったように感じた。
「それと、もう一つ」
「まだあるんだ」
「こちらが本題かもしれませんわ」
「謝罪より?」
「ある意味では」
ピアソラは今度こそ、まっすぐハイセを見る。
「私は今、あなたを心から信頼しております」
「急に重いなぁ」
「戦術の先生として、ですわ」
「あ、そっち」
「何を期待しましたの?」
「何も期待してないよ!」
思わずいつもの調子に戻りかけたハイセだったが、ピアソラの表情は真剣なままだった。
「私は、あなたと同じように戦いたいわけではありません。あなたの真似をしたところで、私はあなたにはなれませんもの」
「うん」
「ですが、あなたのように相手を見て、相手が何を選ぶのかを考え、その選択すら自分の勝利へ組み込む。その考え方を、私は心から尊敬しております」
そこで、ほんの少しだけ笑う。
「ですから、戦術に関しては先生と呼んでもよろしいでしょう?」
「……照れるな」
「嫌ですの?」
「嫌じゃない」
「では、決まりですわね」
そのやり取りを、訓練区画の外から静かに見ていた人物がいた。
アーネストだった。
彼は中へ入ることも、二人へ声をかけることもしなかった。ただ、ピアソラがハイセへ頭を下げ、ハイセがそれを受け入れるまでを見届けると、長いあいだ胸の奥へ残っていた重石をようやく下ろせたように、静かに息を吐いた。
昔のセイクリッドで起きたことは、消えない。
それでも、当時そこにいた者たちが、いつまでも同じ場所へ立ち続ける必要はない。
サーシャだけではなく、ピアソラも、ハイセも、それぞれが自分のやり方で過去と向き合い、少しずつ先へ進み始めている。
ならば、残っているのは最後の二人の問題だった。
◇
ピアソラとサーシャの一騎討ちは、その翌日に行われた。
大々的なイベントではなく、観客も限られていた。
ハイセ、リューネハイム、アーネスト、プレセア、ヒジリ、そしてルサールカの面々。
これは誰かへ見せるための試合ではない。
サーシャとピアソラが、自分たちの関係に答えを出すための戦いだった。
フィールド中央で向かい合う。
「本当にやるのか」
サーシャが尋ねる。
「ええ」
「私に勝てると思っている?」
「簡単には勝てないと思っておりますわ」
「……正直だな」
「ですが」
ピアソラはデミルークスを起動する。
その周囲へ射撃用の演算式が展開され、同時にセルヴィトラが遠隔防御態勢へ移行した。
「負けるつもりもありません」
開始の合図が響く。
先に動いたのはサーシャだった。
速い。
ピアソラ自身も分かっていたことだが、実際に真正面から向き合えば、その差はより明確だった。
セルヴィトラの刃が一直線に迫る。
ピアソラは防御を展開した。
衝突の瞬間、重い衝撃が腕から全身へ抜けていく。
一撃を受けただけで、真正面から打ち合うという選択肢を捨てるには十分だった。
サーシャが二撃目へ移るより先に、ピアソラは後方へ退きながらハウンドを展開する。
複数の弾丸が別角度からサーシャへ殺到した。
サーシャはセルヴィトラを振り、一部を弾き、残りを回避する。
その先へ、今度はバイパー。
「っ!」
正面から飛来したはずの弾丸が途中で軌道を変え、サーシャの側面へ回り込む。
避ける。
そのまま前へ出る。
ピアソラはさらに距離を取る。
当然、サーシャは追う。
そこまでがピアソラの狙いだった。
「【サラマンダー】」
ハウンドとメテオラが結合し、回避したサーシャを追尾する爆撃が背後から迫る。
サーシャは振り返りざまに剣を叩き込み、爆発を正面から切り裂いた。
「この程度で!」
爆煙を抜ける。
だが、その先にピアソラはいない。
「上ですわ」
声に反応して顔を上げた瞬間、頭上には既に別の術式が完成していた。
「【トマホーク】」
バイパーとメテオラを組み合わせた爆撃が、複雑な軌道を描きながら降り注ぐ。
サーシャは横へ跳んだ。
爆発。
その衝撃を背中へ受けながらも、さらに前へ出る。
「見えている!」
ピアソラの位置を捉えた。
最短距離へ入り、今度こそセルヴィトラを振り抜く。
しかし、刃が届く寸前でピアソラの防御障壁が展開された。
サーシャの一撃が障壁を大きく歪ませる。
「合成弾を使いながら防御を……!」
「デミルークスには、同時使用を制限する理由がありませんもの。それくらいは、当然利用させてもらいますわ」
「なら、砕くだけだ!」
サーシャが連撃へ移る。
一撃、二撃、三撃と重なるたびに障壁が軋み、防御だけでは長く耐え切れないことが分かる。
もちろん、ピアソラ自身も最初から分かっていた。
だから四撃目が来る直前、自分から防御を解いた。
「なっ――」
抵抗が突然消えたことで、サーシャの身体が僅かに前へ流れる。
その足元へ、既に術式が置かれていた。
「メテオラ」
爆発。
サーシャは咄嗟に跳び、直撃だけは避ける。
だが、跳んだ方向こそが、ピアソラの欲しかった場所だった。
「……そういうことか」
空中でサーシャの目が細くなる。
先ほどから、自分は攻撃を見て、正しく避けているつもりだった。
しかし実際には、その「正しい回避先」そのものをピアソラに選ばされている。
「お前……その戦い方」
「お気付きになりました?」
ピアソラが微笑む。
「私の戦術の先生は、ハイセですもの」
サーシャの表情が僅かに揺れた。
以前なら、その名前を聞いただけで怒りが先に出ていたかもしれない。
だが今は違う。
ハイセのように。
ルサールカのように。
ピアソラもまた、自分が立ち止まっている間に進んでいた。
「……そうか」
着地し、セルヴィトラを構え直す。
「なら、先生ごと超えてやる」
「望むところですわ」
再び、二人が激突した。
そこからのサーシャは強かった。
同じ誘導には二度とかからない。ハウンドを見れば追尾の弱点を突き、バイパーの軌道を読んで最短距離へ踏み込み、メテオラの爆発範囲を逆に利用して、自ら煙幕を作りピアソラの視界を奪う。
ハイセから戦術を教わったからといって、それだけで簡単にサーシャへ勝てるわけではない。
セルヴィトラがピアソラの肩を掠め、次の一撃が脇腹へ入る。
「っ……!」
息が詰まる。
それでも倒れない。
後退しながらハウンド。
避けられる。
バイパー。
切り落とされる。
トマホークを放っても、爆風しか届かない。
「どうした!」
サーシャが距離を詰める。
「ハイセの戦術を覚えただけでは、私には勝てないぞ!」
「……当然ですわ」
荒い呼吸の中で、ピアソラは笑った。
「私は、ハイセではありませんもの」
ならば、ここから先は自分で考える。
サーシャが何をするかではなく、サーシャが何をしたいのか。
長い付き合いだからこそ、分かることがある。
サーシャは真正面から勝ちたい。
自分より弱かった人間に、策だけで負けることを嫌う。
そして今は、ハイセに敗れ、ルサールカにも敗れたことで、自分自身が本当に成長できているのかを何より確かめたがっている。
だから最後には、必ず真正面から来る。
ピアソラはデミルークスへ大量の星辰力を流した。
「【クレイモア】」
巨大な爆発術式が形成される。
サーシャが目を見開く。
範囲が広い。
左右も後方も、爆発へ巻き込まれる。
ならば、選べる道は一つしかない。
「なら――前だ!」
予想通り、サーシャは爆発が完成するより前に術者本人を倒す道を選んだ。
最短距離を一直線に走り、セルヴィトラを構えて全力で踏み込む。
ピアソラは逃げない。
「捕まえた!!」
サーシャの剣が迫る。
その寸前、ピアソラが笑った。
「ええ」
クレイモアの術式が消える。
「捕まえましたわ」
「――っ!」
最初から、撃つつもりなどなかった。
巨大な術式を見せることで、サーシャ自身に正面突破を選ばせただけ。
その時には既に、ピアソラの背後で二種類の弾丸が生成を終えていた。
左右から回り込むトマホーク。
後方から追尾するサラマンダー。
逃げ道はない。
そして真正面には、ピアソラ自身が立っている。
「今度は」
セルヴィトラによる防御障壁を展開する。
サーシャの剣が衝突し、障壁が砕けた。
だが、その一瞬だけ、セルヴィトラの刃が止まる。
それで十分だった。
「私の番ですわ!」
左右からトマホークが炸裂し、回避しようとした身体へ、後方からサラマンダーが追いついた。
連続する爆発がサーシャの身体を大きく浮かせる。
それでも彼女は倒れない。
「まだ……!」
着地しようとした、その足元へ。
最後まで残していたメテオラが一発。
爆発。
サーシャの身体が再び吹き飛ばされ、床へ叩きつけられた。
セルヴィトラが手から離れる。
静寂が落ちる。
サーシャはすぐに立とうとした。
一度、腕へ力を入れる。
けれど身体が持ち上がらない。
「……負けた、のか」
その声には、以前のような怒りはなかった。
むしろ驚きの方が大きかった。
ピアソラが、ゆっくりと歩いてくる。
彼女自身も無傷ではない。肩には裂傷が残り、脇腹には大きな打撲を受け、呼吸も荒れている。
それでも、最後まで立っていたのはピアソラだった。
「昔の、お前なら……」
サーシャは床へ横たわったまま、目の前の彼女を見る。
以前のピアソラなら、【聖女】としての力へ依存し、真正面から戦うことを避け、自分より強い相手には勝てない。
そんな印象を、ずっと抱いていた。
「いつの話をしておりますの?」
ピアソラが静かに問い返す。
サーシャは答えられなかった。
また同じだった。
自分はハイセだけではなく、ピアソラのことまで昔の姿で見ていた。
「私も変わりましたわ」
ピアソラはサーシャの傍らへ立つ。
「あなたがハイセだけを見ていた間に」
「……」
「だから」
そこで一度、息を整えた。
そしてサーシャの瞳を真正面から見据える。
「今度は私を見なさい」
サーシャが目を見開いた。
ピアソラは逃げなかった。
「私はあなたが好きですわ。昔から、ずっと」
真っ直ぐ、言い切る。
サーシャは何も言えなかった。
「ですが、あなたが私を好きになるかどうかは、あなたが選ぶことです」
その言葉を聞いた瞬間、サーシャの中で、いくつもの言葉が重なった。
ハイセが言った。
まだ好きでいるのも、諦めるのも、サーシャ自身が決めればいい。
けれど、ハイセの人生をサーシャが決めることだけは許さないと。
ピアソラも同じだった。
自分の気持ちは伝える。
それでも、相手の答えまでは奪わない。
「……お前は」
サーシャが小さく呟く。
「怖くないのか」
「何がですの?」
「私がお前を選ばなかったら」
ピアソラは少しだけ笑った。
「悲しいでしょうね」
あまりにも普通の答えだった。
「ですが、それでもあなたを鎖で縛ろうとは思いませんわ」
「…………」
その言葉は痛かった。
けれど、今度はそこから逃げたくなかった。
サーシャはゆっくりと目を閉じる。
ハイセ。
ずっと追い続けてきた人。
幼い頃から隣にいて、自分の間違いで失い、それからずっと取り戻そうとしてきた人。
けれど、本当に欲しかったものは、昔のハイセそのものではなかったのかもしれない。
やり直したかった。
謝りたかった。
自分が間違っていなかったことにしたかった。
失ったものを取り戻すことができれば、あの日から先の全てまで元通りになるような気がしていた。
だが、ハイセはもう、自分自身の未来を選んだ。
ならば。
自分もまた、自分の未来を選ばなければならない。
サーシャは目を開いた。
その目の前に、ピアソラがいる。
昔のピアソラではない。
今、この場で自分を倒した、現在のピアソラが。
「……私は」
少しだけ言葉を探した。
「今すぐ、お前を好きだとは言えない」
ピアソラは黙って聞いている。
「ハイセへの気持ちも、すぐには消えないと思う」
「ええ」
「でも」
サーシャは痛みに顔を歪めながらも、ゆっくりと自分の力で身体を起こした。
そして、ピアソラへ手を伸ばす。
「今度は、私がお前を見る」
ピアソラの目が僅かに揺れた。
「ハイセじゃない。過去でもない」
差し出された手を握る。
「今のお前を」
しばらく、ピアソラは何も言わなかった。
やがて、その表情に小さな笑みが浮かぶ。
「……それで十分ですわ」
サーシャは少し考えたあと、もう一つだけ言葉を付け加えた。
「だから」
「はい?」
「お前の隣から始めさせてくれ」
ピアソラの表情が、完全に止まった。
今度はサーシャが、ほんの少しだけ笑った。
観客席では、その光景を見ていたアーネストが静かに目を閉じる。
長かった。
本当に長かった。
過去のセイクリッドに残されていた傷。
ハイセ、サーシャ、ピアソラ。
それぞれが別の形で抱えてきたものが、ようやく未来へ向かって動き始めている。
ハイセは、自分の道を選んだ。
ピアソラは、過去の自分を認めて謝り、そのうえで新しい戦い方と生き方を選んだ。
そして、最後まで過去を手放せずにいたサーシャも、ようやく昔ではなく、目の前にいる誰かを見ることを選んだ。
恋が、すぐに始まるわけではない。
失ったものが、全て戻るわけでもない。
過去そのものが消えることもない。
それでも、未来はここから作っていくことができる。
ピアソラに支えられながら立ち上がったサーシャは、もう一度だけ、自分が倒れていた場所を振り返った。
あそこに残っているのは、敗北だけではない。
過去だけを見続けていた自分も、そこへ置いていく。
そうするように一度だけ静かに息を吐くと、サーシャはピアソラと並んで歩き始めた。
今度こそ。
前を向いて。