暗律の戦乙女は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
《神の箱庭》に現れたマナ加速装置に似た機構は、幸いにも即座に暴走する類のものではなかった。
起動直後に周囲のマナ濃度を急激に上昇させたものの、ハイセとシルヴィアの歌による干渉、そしてピアソラ達による外部観測によって、出力を最低値へ抑え込むことには成功した。完全な解析には時間が必要という結論になり、一行は隣接する安全区画で長めの休息を取ることになった。
簡易的な野営の準備が整った頃には、《神の箱庭》にも夜を思わせる暗さが訪れていた。
白い壁の向こうで淡い光が明滅し、人工物なのか星空なのかも分からない天井が静かに輝いている。
サーシャは一人、壁際へ腰を下ろしていた。
「隣、よろしいですの?」
声を掛けてきたのはピアソラだった。
「好きにしろ」
「では遠慮なく」
ピアソラはサーシャの隣へ座ると、愛用のウォークマンを膝の上へ置いた。
◇
しばらく二人とも黙っていた。
少し離れた場所では、ハイセがアーネストと綾斗を相手に何やらセルヴィトラの話をしている。時折、三人揃って剣を動かしているあたり、休憩中ですら剣術談義をしているらしい。
「……元気だな、あいつ」
サーシャが呟く。
「誰のことか聞く必要もありませんわね」
「嫌味か?」
「観察結果ですわ」
ピアソラは少し笑ったあと、サーシャを横目で見た。
「ところで」
「何だ」
「まだ気にしていますの?」
「だから何をだ」
「『研究とアイドル活動の邪魔さえしてこなければ、どうでもいい』と言われたことですわ」
サーシャの顔から表情が消えた。
「……お前、本当に時々ものすごく嫌なところを突くな」
「図星ですのね」
◇
「忘れられるわけないだろ」
サーシャは膝へ肘を置いた。
「嫌いだと言われた方が、まだ分かりやすかった」
「でしょうね」
「怒ってるなら謝ればいい。恨まれてるなら、それだけのことをしたと思える。いつか償えるかもしれないとも思える」
でも。
どうでもいい。
その言葉だけは違った。
「……あいつはもう、私を中心に怒ってすらいない」
サーシャは小さく息を吐いた。
「それが一番堪えた」
ピアソラはしばらく何も言わなかった。
「ですが」
「何だ?」
「本当にどうでもいい相手を、毎日のようにビッグフット呼ばわりして構いますの?」
「それは嫌がらせだ!」
「本当にどうでもいい相手のために、セルヴィトラを作ろうとします?」
「それは……」
「危険な時に障壁を飛ばします?」
「…………」
サーシャは黙った。
◇
「わたくしには、少し違って聞こえますわ」
ピアソラは言った。
「何が?」
「ハイセの言う『どうでもいい』ですわ」
サーシャが顔を向ける。
「サーシャという人間そのものが、どうでもいいのではありません」
「なら、何だ?」
「サーシャが、ハイセの人生をどう評価するか」
ピアソラの声は穏やかだった。
「それがもう、ハイセにとって重要ではないのではありませんこと?」
サーシャは何も返せなかった。
昔は違った。
自分達に認めてもらいたかった。
仲間でいたかった。
必要とされたかった。
だから追放された時、あれほど傷ついた。
今は。
研究をする。
歌う。
武器を作る。
女になった。
《武器マスター》まで手放した。
その全てを、サーシャが認めるかどうかとは関係なく選んでいる。
「……自由すぎるんだよ、あいつ」
「同感ですわ」
◇
「昔はもっと分かりやすかった」
サーシャは遠くにいるハイセを見る。
「強くなりたい。冒険者でいたい。私達と一緒にいたい。それだけだった」
「今は?」
「研究したい。歌いたい。金を稼いで研究費に突っ込みたい。世界を跨いで商売したい。裏で陰謀を企てたい。技術は社会にばら撒きたい」
一つずつ数えながら、サーシャの眉間の皺が深くなっていく。
「それで女を増やす」
「最後だけ随分私情が入りましたわね」
「うるさい」
ピアソラは笑った。
「好きですのね」
「殺すぞ」
「即答ですわね」
◇
サーシャは否定しなかった。
以前なら否定していたかもしれない。
けれど、もう自分でも分かっている。
「……嫌いなら楽だった」
「でしょうね」
「あいつが何をしても腹が立たないからな」
「今は?」
「何をしても腹が立つ」
「それはそれで随分ですわね」
「違法人体実験へ自分から突っ込んだ話を聞いた直後だぞ!」
それを言われると、ピアソラも否定出来なかった。
「それにビッグフットって何だ!」
「そこ、まだ引っ掛かっていますの?」
「一生許さん」
◇
ピアソラはウォークマンを操作した。
「では」
「何だ?」
「今のハイセを知るという意味で、少し音楽の話をしましょうか」
「音楽?」
「ハイセの曲ですわ」
最初に再生されたのは、『Glow in the dark』。
暗闇や破壊、狂気、革命といったイメージを、挑発的なショーへ変えて叩き付けるような楽曲だった。闇に飲まれるというより、むしろ闇そのものを舞台へ引きずり上げて支配してしまうような強さがある。
サーシャはしばらく黙って聴いた。
「……これ、あいつがヤミキューレになったばかりの頃に作ったんだよな?」
「そう聞いていますわ」
「荒れてるな」
「そう思います?」
「思う」
◇
「でも」
ピアソラは少し違う感想だった。
「わたくしには、荒れているだけには聞こえませんの」
「どういう意味だ?」
「昔なら、あの人は破壊衝動をそのまま戦いへ持っていったでしょう?」
ダークストーカーだった頃。
怒りも。
孤独も。
失ったものへの執着も。
全て、強くなるための燃料にした。
「今は、それを歌にしていますわ」
ピアソラはイヤホンを軽く指で押さえる。
「破壊したいなら、ステージの上で破壊を歌う。狂気があるなら、それすら表現に変える」
「……戦わずに済むようになった?」
「少なくとも、感情を全部剣にする必要はなくなったのでしょうね」
サーシャは少し考えた。
「……それもリューネハイムのおかげか」
「恐らく」
その名前を口にした時だけ、サーシャの声が少し低くなった。
◇
次に流れたのは『Diva in Abyss』だった。
こちらは『Glow in the dark』より内向的だった。翼、深淵、孤独、自由といったモチーフが重なり、失墜や破滅を思わせながらも、自らの意思で深い場所へ降りていくような印象を残す。
曲が終わったあと。
「……嫌いだ」
サーシャが言った。
「曲が?」
「違う」
一拍。
「今のあいつに似すぎてる」
ピアソラも、すぐには答えなかった。
「83話……ではありませんわね。先ほどハイセ自身が言っていたことを思い出しますわ」
「翼を自分から捧げた堕天使、か」
「ええ」
ピアソラは少し笑った。
「ですが、この曲を今聴くと、落とされたというより、自分から降りたように聞こえますの」
◇
サーシャの胸が少し痛んだ。
自分達が追放した時。
ハイセは確かに落ちた。
けれど今のハイセは違う。
《武器マスター》という翼を、自分で差し出した。
「私達が落としたのに」
サーシャが呟く。
「最後は自分から飛ぶのをやめたんだな」
「一人で飛ぶ必要がなくなったからでしょう?」
あの言葉を思い出す。
空を飛ぶ翼はなくなったけど、一緒に歩く人が増えたから。
「……本当に、勝手に先へ行きやがる」
「追いかければよろしいではありませんか」
「もう追いかけるだけなのは嫌だ」
「では?」
サーシャは遠くを見る。
「横に行く」
短い答えだった。
◇
ピアソラは微笑んだ。
「それなら、次はこちらですわ」
「まだあるのか?」
「ありますとも」
今度は『一度だけの恋なら』。
ハイセとシルヴィアがデュエットした録音だった。
恋心を強く前へ押し出しながら、胸騒ぎや祈り、束縛を飛び越えていくような勢いを持つ楽曲で、二人の声が追い掛け合う構成そのものに距離の近さを感じさせる。
開始からしばらくして。
「……近くないか?」
サーシャが言った。
「何が?」
「距離だ」
「歌ですわよ?」
「分かってる」
「デュエットですもの」
「分かってる!」
「でしたら、何故怒っていますの?」
「知らん!!」
ピアソラは楽しそうに笑った。
◇
さらに『絶対零度θノヴァティック』。
こちらでは、二人の歌はより力強くぶつかり合いながら、互いを押し潰すのではなく、一緒に前へ進む推進力へ変わっている。単独の歌姫と伴奏役ではなく、二つの声が互いを引き上げて成立するような曲だった。
サーシャは、今度は最後まで何も言わなかった。
「どうでした?」
「……悔しい」
「何が?」
「ちゃんと対等なんだな」
ピアソラは頷いた。
「わたくしもそう思いますわ」
「リューネハイムに引っ張ってもらってるだけじゃない」
「ええ」
「ハイセが合わせてるだけでもない」
「ええ」
「お互い、相手の歌を強くしてる」
それは、認めたくないからこそ、よく分かった。
◇
「昔は」
サーシャは静かに言った。
「あいつ、私達の後ろを追い掛けてたんだ」
置いていかれないように。
役に立てるように。
必死で。
「今は世界最高峰の歌姫と横に並んで歌ってる」
「寂しいです?」
「……少しな」
サーシャは苦笑した。
「知らない顔ばっかり増えた」
「でしたら、これから知ればよろしいのでは?」
ピアソラの答えは簡単だった。
サーシャは少し驚き、それから笑った。
「簡単に言うな」
「昔の顔を知っているからといって、今の顔を知る権利まで自動的に付いてくるわけではありませんもの」
「厳しいな」
「事実ですわ」
◇
ピアソラはウォークマンを止めた。
「そういえば」
「今度は何だ?」
「以前、ハイセに尋ねたことがありますの」
サーシャが嫌な予感を覚える。
「何を?」
「リューネハイムさんのことを、どう思っているのか」
サーシャの目が僅かに細くなった。
「……それで?」
ピアソラは、その時のことを思い出した。
◇
「リューネハイムさんのことは、どう思っていますの?」
何気ない質問だった。
研究区画の休憩室で、ハイセは紅茶を飲みながら資料を読んでいた。
「一番尊敬出来る人」
ほとんど迷わなかった。
「歌こそが、自分と世界を変える最強の武器なんだって気付かせてくれた。俺に初めて胸の鼓動を与えてくれた、最高の師匠かな」
「なるほど……」
そこまでは。
ピアソラも納得出来た。
「でも……」
ハイセが続けた。
「?」
「あの人、やたらグイグイ来るっていうか……その、めちゃくちゃ距離を縮めてくるから対応に困ってる……」
「え……」
ピアソラは目を瞬いた。
◇
「嫌なんですの?」
「嫌……ではない」
ハイセは困ったように眉を寄せる。
「じゃあ嬉しい?」
「それも……なんか違う」
「では?」
ハイセはしばらく考えた。
「なんだろう。モヤモヤする?」
一度、自分で首を横に振る。
「……違う」
胸元へ手を置く。
「近くに来られると、胸が変な感じするっていうか。歌ってる時とは違う鼓動がする」
頬が。
少しずつ。
赤くなる。
「……よく分からない」
「…………」
ピアソラは。
絶句した。
◇
「アレはもう、完全に乙女の顔でしたわ」
回想が終わった。
サーシャは。
固まっていた。
「……それは」
「はい?」
「経験者としての確信か?」
「間違いありませんわ」
ピアソラは断言した。
「本人は気付いていませんが」
「…………」
「サーシャ?」
「少し静かにしてくれ」
「現実を処理していますの?」
「そうだ!!」
◇
サーシャは両手で顔を覆った。
エクリプスの求婚は分かりやすい。
オーフェリアが歌へ聞き惚れるのも、まだ分かる。
だが。
シルヴィアは違う。
「……あいつ、リューネハイムが好きなのか?」
「そこまで断定するのは本人以外には無理ですわ」
「でも」
「少なくとも」
ピアソラは少し考えた。
「『どうでもいい相手』を見る顔ではありませんでしたわね」
「ぐっ……」
「効きました?」
「うるさい」
◇
「悔しいです?」
「当たり前だ」
サーシャは素直だった。
「私には『研究とアイドル活動を邪魔しなければどうでもいい』だぞ」
「ええ」
「向こうには『一番尊敬出来る人』『最高の師匠』『胸が変な感じ』」
「並べると酷いですわね」
「お前が言うな!」
ピアソラは笑った。
しかし、サーシャはシルヴィアを悪く言わなかった。
「……でも」
「?」
「リューネハイムがいなかったら、今のハイセはいないんだろ?」
「そうでしょうね」
歌を武器として見ることも。
Yami_Q_rayという身体を選ぶことも。
歌で誰かを支えることも。
その原点にはシルヴィアがいる。
「なら、嫌う理由はない」
サーシャは言った。
一拍置いて。
「腹は立つけどな」
「そこは譲れませんのね」
◇
「昔のハイセを取り戻したいです?」
ピアソラが静かに尋ねた。
サーシャはすぐには答えなかった。
男だった頃。
セイクリッドにいた頃。
自分の後ろを追い掛けていた頃。
戻れるなら。
昔はそう思った。
「……もういい」
「よろしいのです?」
「戻ったら、今のあいつが全部消えるだろ」
歌も。
研究も。
カミラとの出会いも。
シルヴィアとの師弟関係も。
Yami_Q_rayとして得たものも。
そして。
今のハイセが自分で選んだ未来も。
「そんなのは、もう嫌だ」
◇
「じゃあ、今のハイセをどう思っていますの?」
サーシャは少し考えた。
「腹が立つ」
「はい」
「自由すぎる」
「はい」
「陰謀と策略を覚えすぎた」
「はい」
「裏で金を稼ぎすぎる」
「はい」
「女が増えすぎる」
「そこは個人的意見ですわね」
「私をビッグフット呼ばわりする」
「重大案件ですわね」
「だろ?」
「そこだけは同意しておきますわ」
二人は少し笑った。
◇
「でも」
サーシャは遠くのハイセを見る。
今度は綾斗とアーネストだけでなく、シルヴィアまで話に加わっていた。
ハイセが何かを言い。
シルヴィアが笑う。
その笑顔を見て。
ハイセが少しだけ視線を逸らす。
「……昔に戻りたいとは思わない」
「では?」
サーシャは少しだけ笑った。
「今のあいつが腹立つ」
「そこは変わりませんのね」
「でも」
視線は離さない。
「もう目を離したくない」
ピアソラは何も茶化さなかった。
「それで十分ではありませんこと?」
「まだ分からん」
「何が?」
「これが恋なのか、未練なのか、ただの執着なのか」
「全部少しずつ入っているのでは?」
「雑だな」
「人の感情なんて、そんなものですわ」
◇
少しだけ。
静かな時間が流れた。
「ただし」
ピアソラが突然言った。
「何だ?」
「今のハイセを見続けたいのでしたら、まずビッグフットと呼ばれない努力から始めるべきですわね」
サーシャが顔を上げる。
「私に出来ることあるのか!?」
「姿勢を少し――」
「おい」
背後から声がした。
二人が振り返る。
ハイセが立っていた。
「何?」
サーシャの目が据わる。
「いつからいた?」
「ビッグフットと呼ばれない努力あたり」
「ほぼ最後じゃないか」
「ちなみに無理だと思う」
「何が?」
ハイセは真顔だった。
「ビッグフット卒業」
◇
サーシャはゆっくり立ち上がった。
「ハイセ」
「何?」
「今日は一つだけ聞きたい」
「うん」
「私はお前にとって、どうでもいいんだな?」
ピアソラが僅かに目を見開く。
ハイセも。
少しだけ。
考えた。
「俺の人生をどうするか決める人としては」
サーシャは黙る。
「どうでもいい」
ハイセは続けた。
「でもサーシャがいなくなったら、困るよ」
「……何で?」
「サーシャだから」
それだけ。
説明にもなっていない。
でも。
サーシャには。
少しだけ。
分かった。
◇
「……そうか」
「うん」
「なら」
一歩。
サーシャが近付く。
「ビッグフットは?」
「それは別」
「ハイセぇぇぇぇぇぇ!!」
「やっぱ怒るじゃん!」
ハイセが逃げた。
サーシャが追う。
「待て!! 今のいい話を全部返せ!!」
「何で!?」
「最後に台無しにしただろうが!!」
ピアソラは二人を見送りながら、大きく溜息を吐いた。
「……本当に」
でも。
口元は笑っている。
「面倒な二人ですわね」
◇
少し離れたところでは。
シルヴィアがその様子を眺めていた。
「仲良しね♪」
エクリプスが隣で首を傾げる。
「あれが?」
「ええ」
「殺すって言っているけれど」
「サーシャの場合は、あれくらいが通常運転なのよ」
「なるほど」
オーフェリアも二人を見る。
「楽しそう」
エクリプス。
シルヴィア。
オーフェリア。
三人。
同じ方向を見る。
走るハイセ。
追うサーシャ。
少し離れて。
ピアソラ。
頭を抱える。
「……サーシャ」
ピアソラは小さく呟いた。
「ジェラシーメーター、まだまだ上がりそうですわよ」
その事実だけは。
本人へ。
まだ。
伝えないでおくことにした。