暗律の戦乙女は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
第三領域の空気は、妙に澄んでいた。
澄んでいる――その言葉だけなら心地よいものを連想する。だが、この場所に限っては違った。風はなく、湿り気もなく、土や苔の匂いすらしない。巨大な石造建築の内部を思わせる空間には、薄青い光を放つ結晶が一定間隔で埋め込まれ、磨かれた石床だけを冷たく照らしていた。
九人が歩を進めるたび、靴底の音が石壁へぶつかり、幾重にも反響して返ってくる。そのせいで、自分たち以外にも誰かが歩いているような錯覚さえ覚えた。
「……嫌な静けさだな」
サーシャが周囲へ視線を巡らせながら呟いた。
先ほど最終編入試験を終えたばかりだというのに、表情にはもう浮ついた様子はない。腰には、ハイセが現地で組み上げた強化型煌式武装【セルヴィトラ】。柄に一度だけ手を触れ、その感触を確かめてから、再び正面へ視線を戻した。
「さっきみたいなのが、また来ると思う?」
綾斗が訊ねる。
アーネストは歩調を崩さないまま、前方の薄闇へ目を向けた。
「同じ試練を繰り返すほど、この迷宮が親切だとは思えないね」
その声が落ちた直後だった。
足元から、ごく微かな震えが伝わる。
最初は誰かが踏み込んだ振動かと思う程度だった。だが数秒も経たないうちに、震えは石床から柱へ、柱から壁へと広がり、第三領域全体が低く唸り始めた。
「来るぞ」
ハイセが足を止めた。
その瞬間、正面の床へ一本の青白い光が走った。
縦に、横に、斜めに。
光は互いに交差しながら複雑な幾何学模様を描き、巨大な魔法陣へ形を変えていく。
「……後ろもだ」
綾斗が振り返った。
彼の足元にも、同じ魔法陣が浮かび上がっている。
二つ。
そして、その二つは明確にハイセと綾斗だけを囲い込んでいた。
「分断型……?」
シルヴィアが眉を寄せる。
「どうやらそうらしいね」
ハイセは足元の光を見下ろしながら、流れている魔力の性質を探る。転移か、隔離か。それとも何らかの結界。
判断がまとまるより先に、魔法陣から放たれる光量が一気に増した。
「ハイセ!」
サーシャが咄嗟に踏み出す。
「来ないで!」
ハイセの声が鋭く飛んだ。
光の境界線へ入りかけたサーシャの足が止まる。
「多分、入ったら巻き込まれる」
「だが――」
「大丈夫」
ハイセは腰のセルヴィトラへ手を添えた。
特殊能力はない。圧倒的な出力もない。ただ一本の剣。それでも、今はそれで十分だった。
「一人でやる試練なんでしょ」
その隣で、綾斗も静かにセルヴィトラを抜く。
「……そうみたいだね」
二人の視線が、一瞬だけ交わった。
言葉はなかった。
だが、お互いに何を考えているのか、それだけで十分に伝わった。
次の瞬間。
二つの光が爆ぜ、ハイセと綾斗の姿を呑み込んだ。
◇
視界が戻った時、ハイセが最初に感じたのは暗さだった。
「……」
目が馴染むまで数秒。
そして、自分が立っている場所を理解する。
広い。
先ほどまでの石造りの回廊とはまるで違う。
そこは、巨大な円形空間だった。
半径は三十メートルほど。天井は高く、壁面には幾重もの段差が設けられている。それはまるで、観客席を備えた舞台のように見えた。
だが、その席には誰もいない。
暗闇だけが並んでいる。
唯一、中央だけが白い光に照らされていた。
そして、その光は。
ハイセだけを捉えている。
「……ステージ?」
思わず零れた言葉に、自分で少し呆れる。
「趣味悪いな」
そう呟いたものの、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
足元から、低い振動が響く。
正面。
観客席を模した暗闇の奥に、赤い光が二つ灯った。
一体。
その横に、また一つ。
二体。
三体。
四体。
黒い人型の影が、暗がりからゆっくり降りてくる。
全身は金属質の装甲に覆われ、両腕は人間よりも長い。その指先は刃のように尖り、顔のあるはずの場所には、縦に走る一本の赤い発光部しか存在しない。
「なるほど」
ハイセはセルヴィトラを抜いた。
鞘から滑り出た刀身が、舞台を照らす白い光を反射する。
「四人相手か」
最初の一体が動いた。
巨体に似合わぬ速さで、一気に間合いを詰めてくる。
ハイセは右へ半歩。
刃が頬の横を掠め、鋭い風圧が髪を揺らした。
避けた。
そう思った瞬間には、左側から二体目が入っていた。
「っ!」
セルヴィトラを立てる。
甲高い金属音と同時に、腕へ重い衝撃が突き抜けた。
重い。
重心を後ろへ持っていかれそうになるのを、足裏で床を噛むように踏み止める。
だが、息を整える暇はない。
三体目が頭上から叩きつけるように刃を振り下ろしてくる。
ハイセは横へ跳んだ。
直後、床へ刃が突き刺さり、石片と粉塵が弾け飛ぶ。
一瞬、視界が白く濁った。
その向こうから。
四体目。
「多いな!」
身体を捻る。
刃先が衣服を僅かに掠めた。
ハイセは大きく後ろへ跳び、ようやく四体との距離を取った。
肺へ空気を入れる。
一度。
二度。
呼吸を整えながら、敵を見る。
速い。
しかも、単純に四体が独立して襲っているのではない。互いの攻撃を邪魔しないように立ち位置をずらし、こちらの退路を削るように連携している。
いつもの武装があれば。
いつもの出力があれば。
もっと簡単に崩せる。
だが、今の手にあるのは。
セルヴィトラ一本。
「……いいね」
ハイセは、小さく笑った。
怖くないわけではない。
余裕があるわけでもない。
それでも、胸の奥に僅かな熱が灯る。
この感覚を、知っている。
ステージへ上がる直前。
照明が落ち、客席が暗くなり、まだ誰にも見られていない数秒間。
心臓が速くなる。
呼吸が浅くなる。
それでも、幕が上がればもう逃げられない。
そして。
逃げる必要もない。
――最初の一音で、空気を掴むの。
記憶の中で。
リューネハイムの声がした。
楽しそうで。
それでいて、誰より真剣に歌と向き合う人の声。
――歌うだけじゃ駄目よ。
――観客は耳だけで聴いているわけじゃない。
――目も、呼吸も、心臓も。
――全部であなたを見るの。
「……知ってる」
ハイセが呟く。
敵が来る。
今度は、すぐには動かなかった。
一歩。
前へ出る。
「――♪」
小さな声が、円形空間へ落ちた。
歌ですらない。
ほんの一音。
それでも。
四体の動きに、僅かな揺れが生まれた。
ハイセはそれを見逃さない。
ここに観客はいない。
いるのは敵だけ。
でも。
見る者がいるなら。
そこはステージになる。
ハイセは歩く。
ただ移動するのではない。
正面へ視線を向け、肩を開き、剣を見せ、相手の注意を自分へ集める。
意図的に。
少しだけ、動作を遅くする。
誘う。
一体が踏み込んだ。
その瞬間、ハイセの身体が沈む。
一閃。
セルヴィトラが装甲の継ぎ目へ滑り込み、腕を斬り落とした。
「一人」
しかし、残りは三体。
背後から迫る気配。
ハイセは振り返らない。
足音だけで距離を測る。
三歩。
二歩。
一歩。
「――そこ」
身体を横へ滑らせる。
直後、二体の敵が互いの進路を塞ぐようにぶつかった。
重い金属音が、舞台全体へ響く。
「……昔なら」
ハイセは、僅かに笑う。
「多分、もっと力で押してたな」
息を吸う。
今度は。
はっきりと歌った。
声が伸びる。
音程。
呼吸。
姿勢。
足の置き方。
胸の開き方。
息をどこへ通し、声をどこへ飛ばすのか。
全て。
リューネハイムから叩き込まれた、歌手としての基本。
しかし。
彼女が教えたのは技術だけではなかった。
――上手く歌うことだけを考えないで。
――届かせるの。
――自分が何を感じているか。
――それを隠したら、歌は空っぽになる。
「……面倒なこと言うんだよな」
ハイセの声が、少しだけ柔らかくなる。
二体が左右から挟み込む。
歌を止めない。
右足を一歩。
次に左。
身体を滑らせるように旋回する。
一体目の斬撃を避け、その勢いのまま二体目の側面へ回り込む。
セルヴィトラが弧を描く。
光が。
一本の線になる。
まるで。
ステージ上の振付。
一つの動作が、次の動作へ切れ目なく繋がる。
呼吸を乱さない。
声を切らさない。
足元を止めない。
そして。
最後に一歩。
前へ。
「――ッ!」
斬撃。
敵の胴へ深く食い込む。
二体目が崩れ落ちた。
残り。
二体。
だが、その二体の様子が変わる。
頭部の赤い発光部が強く輝き、全身の駆動音が一段高くなる。
「第二段階?」
片方が。
視界から消えた。
「――っ!」
背後。
速い。
セルヴィトラを上げる。
間に合わない。
刃が肩へ迫る。
その瞬間。
――迷った時は、胸の歌を信じなさい。
また。
リューネハイムの声が聞こえた。
あの日。
最後に。
笑いながら言った言葉。
――技術は裏切らない。
――練習も裏切らない。
――でも、最後の最後に人を動かすのは。
――胸の歌よ。
「…………」
ハイセの中で、一瞬だけ時間が伸びた。
敵の刃は目前。
頭では。
避ける角度。
反撃可能性。
距離。
確率。
いくつもの計算が同時に浮かんでいる。
いつもの自分なら。
その全部から最適解を探した。
だが。
今だけは。
それを捨てた。
「……なら」
ハイセは、笑った。
「信じてみる」
身体が。
理屈より先に動いた。
床を蹴る。
刃が頬を掠める。
一筋の血。
それでも。
ハイセは敵の懐へ潜り込んでいた。
セルヴィトラを。
両手で握る。
胸の奥に。
歌がある。
誰にも聞こえない。
形もない。
でも。
確かにある。
「――これが」
剣を振り抜く。
「俺の歌だ」
刃が敵の胴を貫いた。
静寂。
最後の一体が踏み込む。
しかし。
もう迷わない。
歌う。
足を運ぶ。
剣を振るう。
歌と。
身体と。
剣が。
一つになる。
最後の斬撃。
敵が崩れ落ちる。
重い金属音が響き。
やがて。
静寂だけが戻った。
「…………」
ハイセはゆっくり息を吐いた。
誰もいないステージ。
拍手はない。
歓声もない。
それでも。
胸の奥だけは。
不思議なくらい熱かった。
「……リューネハイム」
小さく。
名前を呼ぶ。
そして。
少しだけ困ったように笑った。
「やっぱり」
自分でも。
まだ。
答えは出ない。
「よくわかんないな」
◇
綾斗が降り立った場所は。
森だった。
足元には土。
頭上には枝葉。
微かな風が木々を揺らし、木漏れ日が地面へ淡い斑模様を落としている。
「……」
先ほどまでの石造空間とは、あまりにも違う。
もちろん。
本物ではない。
肌に触れる風にも。
土の匂いにも。
僅かな違和感がある。
それでも。
懐かしい。
木々が擦れる音。
足元の感触。
そして。
遠く。
聞こえた気がした。
『綾斗!』
「……紗夜?」
振り返る。
誰もいない。
けれど。
記憶は。
もう開いていた。
幼い頃。
何度も。
何度も。
剣を振った。
隣には。
沙々宮紗夜。
そして。
前には。
遥。
『違う』
厳しい。
でも。
突き放さない声。
『足だけで踏み込まない』
『腰から』
『肩に力を入れるな』
『相手を見る』
『剣だけを見るな』
「…………」
綾斗は、ゆっくりセルヴィトラを握る。
手に馴染む。
だが。
自分専用ではない。
特別な武器でもない。
だからこそ。
今。
自分が何を持っているのか。
よく分かる。
武器ではない。
剣。
ただ。
それだけ。
そして。
自分自身。
それだけ。
森の奥。
気配が一つ。
黒い甲冑を纏った人型の敵が現れる。
手には長剣。
構え。
隙がない。
「……一対一か」
綾斗もセルヴィトラを構える。
静か。
敵も。
すぐには動かない。
先に踏み込んだのは、相手だった。
一歩。
速い。
剣が、綾斗の肩口へ斜めに走る。
綾斗は受けなかった。
半歩。
身体をずらす。
刃が胸元すれすれを通り抜ける。
返しの二撃目。
綾斗の剣が。
相手の刀身へ触れる。
弾くのではない。
滑らせる。
流す。
相手の力を。
そのまま。
外へ逃がす。
身体が。
考えるより先に動く。
『綾斗、もう一回!』
記憶の中。
紗夜が。
むきになった顔で言う。
『今度は私が勝つ』
『さっきもそう言ってなかった?』
『今度こそ』
『二人とも』
遥の声。
『遊ぶなら終わってからにしなさい』
『遊んでない』
『稽古』
『同じこと』
思わず。
綾斗の口元が緩む。
「懐かしいな」
敵が下段から斬り上げる。
綾斗は足を引く。
そのまま。
踏み込む。
この角度。
昔。
何度も。
遥に直された。
『違う』
『そこだと遅い』
『半歩』
『もう半歩前』
今。
身体は。
何も考えず。
その位置へ入る。
敵の死角。
一閃。
装甲を斬る。
浅い。
「硬いな」
敵が振り返り。
刺突。
綾斗は。
剣の腹を当て。
僅かに。
軌道を逸らす。
力で止めない。
弾かない。
最小限の動きで。
相手の剣先を。
自分の中心から外す。
腕。
肩。
腰。
足。
全てが。
滑らかに繋がる。
敵の攻撃速度が上がる。
一撃。
二撃。
三撃。
綾斗は。
受け流す。
避ける。
踏み込む。
斬る。
派手な動きではない。
光もない。
爆発もない。
だが。
崩れない。
剣が。
身体の延長。
それ以上に。
身体そのもの。
そんな表現が。
一番近い。
その時。
ふと。
ハイセの顔が浮かんだ。
自分の剣を見る時の。
あの目。
尊敬。
憧れ。
それを隠さない。
真っ直ぐな眼差し。
「……ハイセ」
綾斗が。
小さく呟く。
自分も。
昔は。
そうだった。
遥の剣を。
追いかけた。
届きたかった。
隣に立ちたかった。
誰かの剣に憧れるというのは。
ただ真似したいわけじゃない。
そこへ行きたい。
その人が見ている景色を。
自分も見たい。
そういう。
気持ち。
「……いつか」
敵が大きく踏み込む。
綾斗も前へ出る。
距離が。
一気に縮まる。
「門を」
敵の斬撃。
綾斗は流す。
刀身を滑らせ。
上へ。
相手の剣を逃がす。
懐。
空く。
「開いてもいいかもな」
低く。
身体を沈める。
敵の剣は。
既に上へ流れている。
無防備。
綾斗のセルヴィトラが。
下から。
鋭く走る。
装甲へ。
深い傷。
敵が後退した。
だが。
倒れない。
「天霧辰明流を」
綾斗の目が細くなる。
遥から。
受け取った剣。
紗夜と。
磨いた剣。
戦いの中で。
何度も。
自分のものへ。
変えてきた剣。
今。
この手にある。
それは。
もう。
遥の剣ではない。
幼い頃の。
未完成な剣でもない。
これは。
天霧綾斗の。
剣。
「……見せるよ」
敵が走る。
綾斗も。
前へ。
三メートル。
二。
一。
敵の刃が横薙ぎに走る。
綾斗は身体を沈めた。
頭上。
刃が通る。
そのまま。
足。
腰。
肩。
腕。
全身の力が。
一本へ。
収束する。
「これが」
一閃。
ただ。
鋭い。
派手な光もない。
爆発もない。
ただ。
剣が通った。
「俺の剣だ」
敵が止まる。
次の瞬間。
黒い甲冑が。
斜めに。
崩れ落ちた。
森。
再び。
静寂。
綾斗はゆっくりセルヴィトラを下ろした。
風が。
頬を撫でる。
木々が。
揺れる。
その音の中に。
もう一度。
『綾斗!』
聞こえた気がした。
振り返る。
誰もいない。
それでも。
「……うん」
綾斗は。
少し笑った。
「ちゃんと覚えてるよ」
◇
第三領域。
元の回廊。
二つの魔法陣が。
ほぼ同時に光った。
「ハイセ!」
最初に駆け寄ったのはサーシャだった。
光の中から姿を現したハイセの頬に、一筋の血が見える。
「怪我は?」
「頬だけ」
「血が出てるじゃないか!」
「掠っただけ」
「見せろ」
「嫌だ」
「何故だ!」
いつものやり取りが始まる。
その横で。
もう一つの光が薄れ。
綾斗が戻ってくる。
「綾斗!」
誰かの声。
遥ではない。
今。
共に歩いている。
仲間の声。
「大丈夫です」
綾斗は。
静かに笑った。
アーネストが二人を見る。
「どうだった?」
「普通」
ハイセ。
「良い試練でした」
綾斗。
「温度差がすごいね」
シルヴィアが。
くすりと笑う。
そして。
ハイセを見る。
「何か掴めた?」
「うん」
「何を?」
ハイセは。
少し考える。
それから。
胸へ。
手を置いた。
「……歌」
短い。
それだけ。
でも。
シルヴィアは。
それ以上。
聞かなかった。
ただ。
少しだけ。
嬉しそうに。
笑った。
一方。
綾斗は。
手元のセルヴィトラを見る。
「僕も」
小さく。
呟く。
「剣を」
ずっと。
自分の中に。
あったもの。
受け取ったもの。
教わったもの。
憧れたもの。
全部。
今。
自分の中にある。
誰かから。
受け取る。
でも。
そのまま。
持っているだけではない。
磨く。
考える。
失敗する。
変える。
そして。
いつか。
自分のものになる。
ハイセは。
歌を。
綾斗は。
剣を。
受け継いだ。
そして。
二人とも。
その先へ。
歩き始めていた。