暗律の戦乙女は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ   作:カミッシー

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第89話 試練を越える者、残される者

 

ハイセと綾斗が第三領域へ戻ってから、まだそれほど時間は経っていなかった。

 

 二人を送り出した魔法陣は既に光を失い、磨かれた石床には淡い残光だけが残っている。第三領域を満たす静寂も以前と変わらない。だが、一度この場所の性質を理解してしまえば、その静けさが休息を意味していないことくらい誰にでも分かった。

 

 次は誰か。

 

 それだけが問題だった。

 

「……来るわね」

 

 シルヴィアが呟く。

 

 彼女の声に呼応するように、今度は複数の地点で床が輝き始めた。

 

 一つ、二つ――五つ。

 

 星露、アーネスト、オーフェリア、シルヴィア、エクリプス。

 

 そして少し離れた場所で、もう一つ。

 

 ピアソラの足元にも同じ光が現れる。

 

「今度は六人か」

 

 サーシャが眉を寄せた。

 

「まとめて片づけに来たみたいだね」

 

 ハイセは呑気に言ったが、サーシャの表情は晴れない。自分も既に試練を終えている。ハイセと綾斗も戻ってきた。残っている者たちが順番に呼ばれること自体はおかしくない。

 

 それでも、ピアソラの足元に浮かんだ魔法陣を見た時だけ、胸の奥に僅かな引っ掛かりが残った。

 

「ピアソラ」

 

「そんな顔をなさらなくても結構ですわ」

 

 本人はいつも通りだった。

 

 ドレスの裾を整え、穏やかに微笑む。

 

「皆様が戻っていらしたのです。わたくしだけ戻れない理由などございませんでしょう?」

 

「……それはそうだが」

 

「では、後ほど」

 

 軽く手を振る。

 

 その直後、六つの光が一斉に立ち上がった。

 

 眩い輝きが視界を覆い、六人の姿を呑み込む。

 

 光が消えた時、そこには誰も残っていなかった。

 

     ◇

 

 星露が送り込まれた先は、岩山を思わせる荒涼とした空間だった。

 

 切り立った岩壁が四方を囲み、その中央には人の倍ほどもある石像が三体立っている。それぞれが異なる武器を手にしており、斧、槍、長剣と構えも違っていた。

 

 星露は三体を順番に眺めると、面白そうに目を細めた。

 

「ほう」

 

 敵はまだ動いていない。

 

 それでも、彼女には十分だった。

 

 重心の置き方。足の幅。武器の握り。肩の向き。間合いの取り方。

 

 動く前から、癖が見える。

 

「なるほどのう。三体で互いの死角を補うつもりか」

 

 一体が前に出れば、残り二体が側面と退路を潰す。単純だが、真正面から崩そうとすれば面倒な布陣だった。

 

 普通なら。

 

「悪くはない」

 

 星露は笑った。

 

「じゃが、まだ甘い」

 

 三体が同時に動いた。

 

 次の瞬間には、既に一体目の懐へ入り込んでいた。

 

 大きな破壊音が響く。

 

 何が起きたのか理解する間もなく、最初の石像が宙を舞った。続いて二体目。三体目が槍を振り下ろすより先に、星露はその懐へ踏み込み、相手の動きそのものを利用して姿勢を崩す。

 

 そこから先は、試練と呼ぶには一方的だった。

 

 彼女にとって重要だったのは、敵を倒すことではない。

 

 どう崩れるかを見ること。

 

 どんな構造で動いているかを確かめること。

 

 そして。

 

「ふむ」

 

 最後の石像が地面へ沈む。

 

 星露は拳を軽く振りながら、少し残念そうに首を傾げた。

 

「もう少し遊べるかと思ったんじゃが」

 

 その言葉を合図にしたかのように、帰還用の魔法陣が足元へ浮かび上がった。

 

     ◇

 

 アーネストの試練は、さらに静かだった。

 

 場所は巨大な礼拝堂。

 

 その中央。

 

 白銀の甲冑を纏った騎士が一人だけ立っている。

 

 手には剣。

 

 盾はない。

 

 魔法も使わない。

 

 真正面からの、一対一。

 

「なるほど」

 

 アーネストは僅かに笑った。

 

「これは分かりやすい」

 

 相手が構える。

 

 彼も剣を抜く。

 

 ただそれだけ。

 

 激しい衝突はなかった。

 

 相手が踏み込み、アーネストが受け流す。反撃。防御。再び踏み込み。

 

 剣と剣が触れるたびに、澄んだ金属音が礼拝堂へ響いた。

 

 派手な技はない。

 

 大きな魔力もない。

 

 それでも、戦いは少しずつ傾いていく。

 

 敵の足が半歩ずれる。

 

 アーネストは見逃さない。

 

 肩が僅かに上がる。

 

 次に来る斬撃の軌道を読む。

 

 呼吸が乱れる。

 

 攻撃の間が変わる。

 

 一つ一つの変化を拾いながら、彼は必要な場所にだけ剣を置いていった。

 

 やがて。

 

 敵の剣が、床へ落ちる。

 

 アーネストの切っ先は、相手の喉元で止まっていた。

 

「良い剣だったよ」

 

 静かに告げる。

 

 斬らない。

 

 倒す必要もない。

 

 既に勝負は終わっている。

 

 白銀の騎士がゆっくり膝をつき、光の粒へ変わって消えていく。

 

「……これなら、サーシャにも良い教材になったかもしれないね」

 

 そんなことを呟いた直後、彼の足元にも帰還の光が生まれた。

 

     ◇

 

 オーフェリアの前に現れた敵は。

 

 巨大だった。

 

 それだけではない。

 

 彼女の魔力に反応して装甲を変質させ、受けた攻撃に適応する性質まで持っていた。

 

 一撃目。

 

 耐える。

 

 二撃目。

 

 さらに装甲が強化される。

 

 防御性能だけを見れば、長期戦へ持ち込むために設計された相手なのだろう。

 

 オーフェリアは無表情のまま、その変化を見ていた。

 

「……そう」

 

 次に放った攻撃は。

 

 それまでとは比べ物にならなかった。

 

 空間が震える。

 

 敵が強化した装甲ごと押し潰される。

 

 適応する。

 

 なら。

 

 適応する前提ごと超えればいい。

 

 ただし。

 

 昔のオーフェリアとは違う。

 

 必要以上には壊さなかった。

 

 敵が動けなくなった瞬間、攻撃を止める。

 

 周囲の地形も残す。

 

 試練を構成する空間そのものを吹き飛ばすこともない。

 

 膨大な力。

 

 それを。

 

 必要なだけ使う。

 

「終わり?」

 

 オーフェリアが小さく呟く。

 

 答えるように、魔法陣が浮かび上がった。

 

     ◇

 

 シルヴィアの試練は。

 

 皮肉なほど。

 

 ハイセのものに似ていた。

 

 暗闇。

 

 舞台。

 

 照明。

 

 そして、その中央に立つシルヴィア。

 

「まあ」

 

 彼女は周囲を見渡し。

 

 楽しそうに笑った。

 

「私にこれを用意してくれるの?」

 

 直後。

 

 観客席を模した暗闇から、複数の敵が現れる。

 

 それを見ても。

 

 彼女の表情は変わらない。

 

「それじゃあ」

 

 胸へ手を添える。

 

 呼吸。

 

 笑顔。

 

 視線。

 

 全てが。

 

 最初から完成していた。

 

「始めましょうか」

 

 歌が響く。

 

 その一音だけで、空間の意味が変わった。

 

 試練の舞台。

 

 ではない。

 

 シルヴィアのステージ。

 

 敵は攻撃する。

 

 だが。

 

 その動きすら。

 

 彼女の演出へ取り込まれていく。

 

 敵の踏み込みに合わせて身体を翻し、伸ばされた刃を紙一重で避け、その動作のまま次の一節へ入る。

 

 声は乱れない。

 

 息も切れない。

 

 相手がどれだけ動いても、視線は最後まで前を向く。

 

 歌う。

 

 魅せる。

 

 戦う。

 

 その三つが完全に一つになっている。

 

 最後の敵が倒れた時も。

 

 シルヴィアは。

 

 歌を途中で切らなかった。

 

 最後の音まで。

 

 きちんと届ける。

 

 余韻が消える。

 

 そこで初めて。

 

 小さく息を吐いた。

 

「ふふっ」

 

 誰もいない客席へ。

 

 一礼。

 

「ありがとうございました♪」

 

 帰還の光が。

 

 まるで舞台照明のように。

 

 彼女を包んだ。

 

     ◇

 

 エクリプスに用意された試練は。

 

 他の者とは少し違った。

 

 広い部屋。

 

 中央に扉。

 

 その前には。

 

 巨大な守護者。

 

 恐らく。

 

 倒せ。

 

 そういう意図だったのだろう。

 

 エクリプスは守護者を見た。

 

 次に。

 

 扉を見る。

 

 そして。

 

 壁を見る。

 

「…………」

 

 数秒。

 

「別に、倒す必要ないですよね?」

 

 守護者が動く。

 

 しかし。

 

 エクリプスは戦わなかった。

 

 真正面から突破するでもない。

 

 敵の間合いへ入り、攻撃を誘い、その勢いを利用して壁際へ回り込む。

 

 守護者が振り下ろした拳。

 

 その衝撃で。

 

 壁が砕けた。

 

「ありがとうございます」

 

 エクリプスは。

 

 破壊された壁の向こうへ。

 

 普通に歩いていった。

 

 守護者は。

 

 止まる。

 

 少しして。

 

 帰還の魔法陣が。

 

 エクリプスの足元へ現れる。

 

「……やっぱり」

 

 彼女は首を傾げた。

 

「倒さなくても良かったんですね」

 

     ◇

 

 第三領域。

 

 最初に戻ってきたのは。

 

 星露だった。

 

「おお、もう終わったか」

 

 まるで散歩から帰ってきたような口調だった。

 

「早くない?」

 

 ハイセが訊ねる。

 

「相手が素直じゃったからのう」

 

「それで済ませるんだ……」

 

 続いて。

 

 光。

 

 アーネスト。

 

「ただいま」

 

「そっちも早いね」

 

「良い試合だったよ」

 

 さらに。

 

 オーフェリア。

 

「終わったわ」

 

 シルヴィア。

 

「楽しかったわよ♪」

 

 最後に。

 

 エクリプス。

 

「戻りました」

 

 ハイセは。

 

 次々と帰還する面々を見ながら。

 

 少しだけ呆れた。

 

「……なんというか」

 

「何だ?」

 

 サーシャが訊ねる。

 

「試練側が可哀想になってきた」

 

「同感だ」

 

 この面子を一人ずつ隔離した。

 

 そこまでは。

 

 試練として正しい。

 

 問題は。

 

 隔離された側が。

 

 揃いも揃って。

 

 一人でも十分過ぎるほど強かったことだった。

 

「本当に国を一つ落としに来たみたいだね」

 

 綾斗が苦笑する。

 

「国によっては、一人で十分じゃろう」

 

「星露さんが言うと冗談に聞こえません」

 

 そんな。

 

 少し緩んだ空気。

 

 しかし。

 

 サーシャだけは。

 

 笑わなかった。

 

「…………」

 

 帰還した者を。

 

 一人ずつ。

 

 見る。

 

 星露。

 

 アーネスト。

 

 オーフェリア。

 

 シルヴィア。

 

 エクリプス。

 

 五人。

 

「……おい」

 

 サーシャの声が。

 

 低くなる。

 

 ハイセが。

 

 そちらを見る。

 

「どうしたの?」

 

「ピアソラは?」

 

 その一言で。

 

 空気が。

 

 変わった。

 

 全員が。

 

 初めて気づく。

 

 六人。

 

 送り出された。

 

 でも。

 

 戻ってきたのは。

 

 五人。

 

 ピアソラだけが。

 

 いない。

 

「……まだ試練の途中なのかもしれない」

 

 綾斗が言う。

 

 可能性としては。

 

 当然ある。

 

 試練の内容が。

 

 全員同じ難易度とは限らない。

 

 戦闘時間にも。

 

 差は出る。

 

 だが。

 

 サーシャの胸に。

 

 先ほど感じた。

 

 あの小さな引っ掛かりが。

 

 また。

 

 戻ってくる。

 

 そして。

 

 今度は。

 

 もっと。

 

 はっきりしていた。

 

「…………ピアソラ」

 

 サーシャは。

 

 彼女が消えた場所を見る。

 

 光はない。

 

 魔法陣も。

 

 もう。

 

 残っていない。

 

 ただ。

 

 冷たい石床だけが。

 

 そこにある。

 

 待てばいい。

 

 そう。

 

 頭では。

 

 分かっている。

 

 自分も。

 

 ハイセも。

 

 綾斗も。

 

 皆。

 

 戻ってきた。

 

 ピアソラも。

 

 戻ってくる。

 

 それでも。

 

 胸の奥に生まれた。

 

 嫌な感覚だけは。

 

 消えなかった。

 

「……遅いぞ」

 

 誰に聞かせるでもなく。

 

 サーシャは。

 

 小さく呟いた。

 

 その声は。

 

 第三領域の静寂へ。

 

 吸い込まれていった。

 

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