暗律の戦乙女は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
ハイセと綾斗が第三領域へ戻ってから、まだそれほど時間は経っていなかった。
二人を送り出した魔法陣は既に光を失い、磨かれた石床には淡い残光だけが残っている。第三領域を満たす静寂も以前と変わらない。だが、一度この場所の性質を理解してしまえば、その静けさが休息を意味していないことくらい誰にでも分かった。
次は誰か。
それだけが問題だった。
「……来るわね」
シルヴィアが呟く。
彼女の声に呼応するように、今度は複数の地点で床が輝き始めた。
一つ、二つ――五つ。
星露、アーネスト、オーフェリア、シルヴィア、エクリプス。
そして少し離れた場所で、もう一つ。
ピアソラの足元にも同じ光が現れる。
「今度は六人か」
サーシャが眉を寄せた。
「まとめて片づけに来たみたいだね」
ハイセは呑気に言ったが、サーシャの表情は晴れない。自分も既に試練を終えている。ハイセと綾斗も戻ってきた。残っている者たちが順番に呼ばれること自体はおかしくない。
それでも、ピアソラの足元に浮かんだ魔法陣を見た時だけ、胸の奥に僅かな引っ掛かりが残った。
「ピアソラ」
「そんな顔をなさらなくても結構ですわ」
本人はいつも通りだった。
ドレスの裾を整え、穏やかに微笑む。
「皆様が戻っていらしたのです。わたくしだけ戻れない理由などございませんでしょう?」
「……それはそうだが」
「では、後ほど」
軽く手を振る。
その直後、六つの光が一斉に立ち上がった。
眩い輝きが視界を覆い、六人の姿を呑み込む。
光が消えた時、そこには誰も残っていなかった。
◇
星露が送り込まれた先は、岩山を思わせる荒涼とした空間だった。
切り立った岩壁が四方を囲み、その中央には人の倍ほどもある石像が三体立っている。それぞれが異なる武器を手にしており、斧、槍、長剣と構えも違っていた。
星露は三体を順番に眺めると、面白そうに目を細めた。
「ほう」
敵はまだ動いていない。
それでも、彼女には十分だった。
重心の置き方。足の幅。武器の握り。肩の向き。間合いの取り方。
動く前から、癖が見える。
「なるほどのう。三体で互いの死角を補うつもりか」
一体が前に出れば、残り二体が側面と退路を潰す。単純だが、真正面から崩そうとすれば面倒な布陣だった。
普通なら。
「悪くはない」
星露は笑った。
「じゃが、まだ甘い」
三体が同時に動いた。
次の瞬間には、既に一体目の懐へ入り込んでいた。
大きな破壊音が響く。
何が起きたのか理解する間もなく、最初の石像が宙を舞った。続いて二体目。三体目が槍を振り下ろすより先に、星露はその懐へ踏み込み、相手の動きそのものを利用して姿勢を崩す。
そこから先は、試練と呼ぶには一方的だった。
彼女にとって重要だったのは、敵を倒すことではない。
どう崩れるかを見ること。
どんな構造で動いているかを確かめること。
そして。
「ふむ」
最後の石像が地面へ沈む。
星露は拳を軽く振りながら、少し残念そうに首を傾げた。
「もう少し遊べるかと思ったんじゃが」
その言葉を合図にしたかのように、帰還用の魔法陣が足元へ浮かび上がった。
◇
アーネストの試練は、さらに静かだった。
場所は巨大な礼拝堂。
その中央。
白銀の甲冑を纏った騎士が一人だけ立っている。
手には剣。
盾はない。
魔法も使わない。
真正面からの、一対一。
「なるほど」
アーネストは僅かに笑った。
「これは分かりやすい」
相手が構える。
彼も剣を抜く。
ただそれだけ。
激しい衝突はなかった。
相手が踏み込み、アーネストが受け流す。反撃。防御。再び踏み込み。
剣と剣が触れるたびに、澄んだ金属音が礼拝堂へ響いた。
派手な技はない。
大きな魔力もない。
それでも、戦いは少しずつ傾いていく。
敵の足が半歩ずれる。
アーネストは見逃さない。
肩が僅かに上がる。
次に来る斬撃の軌道を読む。
呼吸が乱れる。
攻撃の間が変わる。
一つ一つの変化を拾いながら、彼は必要な場所にだけ剣を置いていった。
やがて。
敵の剣が、床へ落ちる。
アーネストの切っ先は、相手の喉元で止まっていた。
「良い剣だったよ」
静かに告げる。
斬らない。
倒す必要もない。
既に勝負は終わっている。
白銀の騎士がゆっくり膝をつき、光の粒へ変わって消えていく。
「……これなら、サーシャにも良い教材になったかもしれないね」
そんなことを呟いた直後、彼の足元にも帰還の光が生まれた。
◇
オーフェリアの前に現れた敵は。
巨大だった。
それだけではない。
彼女の魔力に反応して装甲を変質させ、受けた攻撃に適応する性質まで持っていた。
一撃目。
耐える。
二撃目。
さらに装甲が強化される。
防御性能だけを見れば、長期戦へ持ち込むために設計された相手なのだろう。
オーフェリアは無表情のまま、その変化を見ていた。
「……そう」
次に放った攻撃は。
それまでとは比べ物にならなかった。
空間が震える。
敵が強化した装甲ごと押し潰される。
適応する。
なら。
適応する前提ごと超えればいい。
ただし。
昔のオーフェリアとは違う。
必要以上には壊さなかった。
敵が動けなくなった瞬間、攻撃を止める。
周囲の地形も残す。
試練を構成する空間そのものを吹き飛ばすこともない。
膨大な力。
それを。
必要なだけ使う。
「終わり?」
オーフェリアが小さく呟く。
答えるように、魔法陣が浮かび上がった。
◇
シルヴィアの試練は。
皮肉なほど。
ハイセのものに似ていた。
暗闇。
舞台。
照明。
そして、その中央に立つシルヴィア。
「まあ」
彼女は周囲を見渡し。
楽しそうに笑った。
「私にこれを用意してくれるの?」
直後。
観客席を模した暗闇から、複数の敵が現れる。
それを見ても。
彼女の表情は変わらない。
「それじゃあ」
胸へ手を添える。
呼吸。
笑顔。
視線。
全てが。
最初から完成していた。
「始めましょうか」
歌が響く。
その一音だけで、空間の意味が変わった。
試練の舞台。
ではない。
シルヴィアのステージ。
敵は攻撃する。
だが。
その動きすら。
彼女の演出へ取り込まれていく。
敵の踏み込みに合わせて身体を翻し、伸ばされた刃を紙一重で避け、その動作のまま次の一節へ入る。
声は乱れない。
息も切れない。
相手がどれだけ動いても、視線は最後まで前を向く。
歌う。
魅せる。
戦う。
その三つが完全に一つになっている。
最後の敵が倒れた時も。
シルヴィアは。
歌を途中で切らなかった。
最後の音まで。
きちんと届ける。
余韻が消える。
そこで初めて。
小さく息を吐いた。
「ふふっ」
誰もいない客席へ。
一礼。
「ありがとうございました♪」
帰還の光が。
まるで舞台照明のように。
彼女を包んだ。
◇
エクリプスに用意された試練は。
他の者とは少し違った。
広い部屋。
中央に扉。
その前には。
巨大な守護者。
恐らく。
倒せ。
そういう意図だったのだろう。
エクリプスは守護者を見た。
次に。
扉を見る。
そして。
壁を見る。
「…………」
数秒。
「別に、倒す必要ないですよね?」
守護者が動く。
しかし。
エクリプスは戦わなかった。
真正面から突破するでもない。
敵の間合いへ入り、攻撃を誘い、その勢いを利用して壁際へ回り込む。
守護者が振り下ろした拳。
その衝撃で。
壁が砕けた。
「ありがとうございます」
エクリプスは。
破壊された壁の向こうへ。
普通に歩いていった。
守護者は。
止まる。
少しして。
帰還の魔法陣が。
エクリプスの足元へ現れる。
「……やっぱり」
彼女は首を傾げた。
「倒さなくても良かったんですね」
◇
第三領域。
最初に戻ってきたのは。
星露だった。
「おお、もう終わったか」
まるで散歩から帰ってきたような口調だった。
「早くない?」
ハイセが訊ねる。
「相手が素直じゃったからのう」
「それで済ませるんだ……」
続いて。
光。
アーネスト。
「ただいま」
「そっちも早いね」
「良い試合だったよ」
さらに。
オーフェリア。
「終わったわ」
シルヴィア。
「楽しかったわよ♪」
最後に。
エクリプス。
「戻りました」
ハイセは。
次々と帰還する面々を見ながら。
少しだけ呆れた。
「……なんというか」
「何だ?」
サーシャが訊ねる。
「試練側が可哀想になってきた」
「同感だ」
この面子を一人ずつ隔離した。
そこまでは。
試練として正しい。
問題は。
隔離された側が。
揃いも揃って。
一人でも十分過ぎるほど強かったことだった。
「本当に国を一つ落としに来たみたいだね」
綾斗が苦笑する。
「国によっては、一人で十分じゃろう」
「星露さんが言うと冗談に聞こえません」
そんな。
少し緩んだ空気。
しかし。
サーシャだけは。
笑わなかった。
「…………」
帰還した者を。
一人ずつ。
見る。
星露。
アーネスト。
オーフェリア。
シルヴィア。
エクリプス。
五人。
「……おい」
サーシャの声が。
低くなる。
ハイセが。
そちらを見る。
「どうしたの?」
「ピアソラは?」
その一言で。
空気が。
変わった。
全員が。
初めて気づく。
六人。
送り出された。
でも。
戻ってきたのは。
五人。
ピアソラだけが。
いない。
「……まだ試練の途中なのかもしれない」
綾斗が言う。
可能性としては。
当然ある。
試練の内容が。
全員同じ難易度とは限らない。
戦闘時間にも。
差は出る。
だが。
サーシャの胸に。
先ほど感じた。
あの小さな引っ掛かりが。
また。
戻ってくる。
そして。
今度は。
もっと。
はっきりしていた。
「…………ピアソラ」
サーシャは。
彼女が消えた場所を見る。
光はない。
魔法陣も。
もう。
残っていない。
ただ。
冷たい石床だけが。
そこにある。
待てばいい。
そう。
頭では。
分かっている。
自分も。
ハイセも。
綾斗も。
皆。
戻ってきた。
ピアソラも。
戻ってくる。
それでも。
胸の奥に生まれた。
嫌な感覚だけは。
消えなかった。
「……遅いぞ」
誰に聞かせるでもなく。
サーシャは。
小さく呟いた。
その声は。
第三領域の静寂へ。
吸い込まれていった。