暗律の戦乙女は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
ピアソラが目を開いた時、最初に認識したのは、視界いっぱいに広がる無数の柱だった。
白灰色の石柱が規則性もなく林立し、その一本一本が人の胴よりも遥かに太い。天井まで届くほど高く伸びているせいで、数十メートル先を見通すことさえ難しかった。足元には浅い水が張られており、僅かに動くだけでも波紋が広がり、靴音とは別に水を踏む音が周囲へ反響する。
「……なるほど」
ピアソラはすぐには動かず、視線だけで柱の間隔や足場、水面へ映る影、わずかな空気の揺らぎを確認した。空間全体の広さは分からない。出口も見えず、敵の姿も確認できない。
それでも、何もいないとは思わなかった。
「わたくしだけ、随分と性格の悪い場所へ送ってくださいましたわね」
呟いた直後、水面が小さく揺れた。
右。
ピアソラは迷わずセルヴィトラを構える。直後、柱の影から放たれた光弾が真正面から飛び込んできた。
甲高い衝突音とともに、光弾はセルヴィトラの刀身へ弾かれる。腕へ伝わった衝撃は重かったが、防御そのものは崩れない。
続いて左から三発、さらに背後から二発。どれも直撃すれば無傷では済まない威力だったが、攻撃そのものよりも、どこか意図的な配置の方が気になった。
「射撃型……いえ」
ピアソラは柱の陰へ身体を滑らせながら、飛来した光弾の軌道を脳裏で結んでいく。
右を避ければ左へ追い込み、左へ動けば背後から撃つ。まるでこちらの動きを最初から知っているかのように、攻撃が次の逃げ道へ先回りしている。
いや。
違う。
知っているのではない。
選ばせている。
「……嫌なところまで似ていますわ」
その瞬間、ピアソラの脳裏に、少し前の光景が蘇った。
◇
「これ読んでみて」
そう言ってハイセが差し出したのは、武器でも研究資料でもなかった。
漫画だった。
ピアソラはしばらく表紙を見つめたあと、無言でハイセへ視線を戻した。
「何ですの、これは」
「漫画」
「それは見れば分かりますわ」
「面白いよ」
「そういうことを聞いているのではありません」
ハイセは少しだけ考え、それから隣に積んであった数冊を手に取った。
「エルネスタから借りた」
「何故わたくしが読む必要がありますの?」
「ピアソラと相性が良さそうな戦術があるから」
「……漫画の中に?」
「うん」
あまりにも当然のように答えるので、ピアソラはしばらく言葉を失った。
その作品――『ワールドトリガー』の中で、ハイセが特に注目したのは二人の人物だった。
二宮匡貴。
そして、那須玲。
「この二人の戦い方を、そのまま真似しろってことじゃないよ」
机の上へ漫画を開きながら、ハイセは説明を始めた。
「二宮の強みは火力だけじゃない。攻撃を置くことで、相手に嫌な選択をさせること」
そう言って、ページの一角を指先で示す。
「広く守れば重い攻撃が通る。重い攻撃に意識を寄せれば、別の弾が通る。避ければ、その逃げた先に次がある」
「つまり、攻撃そのものではなく」
「相手の行動を設計する」
ピアソラが続きを言うと、ハイセは頷いた。
「そう。それで那須の方はもっと分かりやすい。バイパーの軌道そのものを使って、戦場の形を変える」
「真正面へ撃つ必要はない、と」
「うん。後ろでも上でも、柱の裏でもいい。敵が『そこへ行きたくない』と思う場所に弾を置けばいい」
ハイセは机の上に三つの小物を置いた。一つが敵、一つがピアソラ、もう一つが障害物らしい。
「ピアソラの場合、さらにセルヴィトラがある」
「防御力、ですわね」
「そう」
ハイセは小物の一つを指で動かして、ピアソラ役へ近づけた。
「普通の射手なら、相手に接近されるのは嫌でしょ?」
「当然でしょう」
「でもピアソラは違う」
ハイセは笑った。
「近づいてきてもいい」
「…………」
「むしろ、近づかせればいい」
その一言に、ピアソラは僅かに目を細めた。
「ハウンドで動かす。バイパーで逃げ道を作り替える。それでも前へ来るなら、最後はセルヴィトラで受ける」
「つまり……」
「ピアソラ自身を、最後の壁にする」
ハイセはそこで一度説明を止めたあと、机の上の小物を元の位置へ戻した。
「でも、そのまま使わなくていいよ」
「ここまで説明しておいて?」
「俺が考えたのは材料だけだから」
そう言って椅子の背へ身体を預ける。
「最後はピアソラが決めればいい」
その時の言葉を、今のピアソラは不思議なほど鮮明に覚えていた。
◇
「……本当に」
現在へ意識を戻し、柱の向こうに複数の光弾が浮かぶのを見ながら、ピアソラは小さく息を吐いた。
「妙な方ですわ」
デミルークスを展開し、複数の光弾を生成する。
「ハウンド」
敵の姿はまだ見えない。それでも撃つ。
柱の左右へ弾を散らし、あえて敵そのものを狙わない。狙うのは、敵が隠れている場所から出たくなる方向だ。
着弾。
爆音。
石片。
直後、一つの影が柱の裏から飛び出した。
「そこですわね」
ピアソラはすぐには追撃せず、まず相手を見る。
黒い装甲。細身の体躯。両腕には射撃機構。動きは速いが、防御力はそれほど高くない。代わりに、こちらとの距離を一定に保とうとしている。
「なるほど」
再びハウンドを展開する。
今度は弾数を増やし、正面、右、上と三方向から圧力をかける。敵は左へ動いた。
想定通り。
だが、そこへは撃たない。
「バイパー」
新たな光弾が正面へ飛び、柱を回り込み、さらに軌道を変えて敵の背後へ回る。逃げ道そのものを塞ぐ軌道だった。
敵が止まる。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
後方からハウンドが追いつき、爆発が起こる。
敵は被弾直前に横へ飛び、直撃は避けた。浅い。まだ倒れない。
「まだですわね」
ピアソラは追わなかった。
追えば、自分が相手の動きに合わせることになる。
それでは駄目だ。
戦場を、こちらへ合わせる。
次のハウンドは数を増やし、その代わり威力を落とした。目的は倒すことではなく、動かすこと。
右へ弾を置けば、敵が避ける。
左へさらに置けば、また避ける。
後ろへ下がろうとした先には、既にバイパーが回り込んでいる。
逃げ道を潰された敵は、前へ出るしかない。
「そうですわ」
ピアソラは僅かに笑った。
「こちらへいらっしゃいな」
敵は一気に距離を詰める。
射撃では埒が明かないと判断したのだろう。両腕の機構を変形させ、光の刃を形成して真っ直ぐ突っ込んでくる。
「射手だと思ったのなら」
ピアソラはセルヴィトラを構える。
「残念でしたわね」
衝突。
重い。
足元の水が大きく弾け、衝撃が腕から肩、身体全体へ伝わる。それでもセルヴィトラは受け止めた。
敵は、一瞬だけ動きを止める。
そこで。
ピアソラは思い出す。
ハイセの、もう一つの顔を。
研究者。
戦闘者。
冒険者。
そして。
アイドル。
◇
最初に聞いた時、正直なところ理解できなかった。
何故。
そう思った。
女性になった。
それだけでも、普通なら人生が大きく揺らぐ。
それなのにハイセは、あまりにも自然に言った。
後悔していない。
今の自分の方が好きだ。
最初は強がりかとも思った。
けれど、違った。
ピアソラは知っている。
ステージの上で歌うハイセを見たことがある。
照明を浴び、客席へ手を振り、リューネハイムと並んで笑っている姿を。
そこに無理はなかった。
誰かに押しつけられた役割を演じている顔でもない。
誰かに命じられて立っている顔でもない。
ただ、楽しそうだった。
自分で選んだ場所に、自分の足で立っている人間の顔だった。
そして、その事実を思い出すたびに、ピアソラの中で一つの結論がはっきりしていく。
サーシャが取り戻したかった「昔のハイセ」。
けれど、その昔へ戻りたいと、ハイセ本人は望んでいない。
むしろ今、歌って、研究して、冒険して、女性として生きている現在の自分を、本人が気に入っている。
なら。
昔へ戻そうとすることは、救いではない。
本人が選び取った今を否定することになる。
そこまでサーシャは、最初は分かっていなかった。
だから壊れた。
だから衝突した。
そして。
あの事件まで行ってしまった。
「……本当に」
敵の刃をセルヴィトラで受け止めながら、ピアソラは僅かに目を細める。
「不器用ですわね」
それがサーシャへ向けた言葉なのか、ハイセへ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
でも、分かることは一つあった。
今のハイセを、昔へ戻す必要はない。
今のハイセを、そのまま見るべきなのだ。
そしてサーシャも、ようやくそれを始めた。
「……なら」
敵がさらに力を込める。
セルヴィトラが軋む。
それでも、ピアソラは退かなかった。
「わたくしも」
自分の思い込みだけで、ハイセという人間を決めつけるべきではない。
サーシャを泣かせる男。
それだけではない。
技術を人へ渡す。
戦術を人へ渡す。
選択肢を人へ渡す。
そして最後は、自分で決めろと言う。
「……腹立たしいですわ」
ピアソラは小さく笑った。
何故なら。
分かってしまう。
その考え方が。
嫌いではない。
「それでも」
敵の刃を横へ流す。
姿勢が崩れた。
その背後。
そこには、先ほど外れたはずのバイパーがまだ飛んでいる。
大きく回り、柱の裏を抜け、今まさにここへ戻ってくる。
「サーシャへの態度まで許した覚えはございませんけれど」
背後と左右にはバイパー。
上空にはハウンド。
そして正面には、セルヴィトラを構えたピアソラ自身。
敵が動きを止める。
逃げ道はない。
「チェックメイトですわ」
一斉に光が収束した。
爆音。
水面が大きく波打ち、柱の間を衝撃波が走る。
やがて光が消えた時、敵は膝をつき、そのまま崩れ落ちた。
ピアソラはしばらく動かず、呼吸を一度、二度と整えてから、ゆっくりセルヴィトラを下ろした。
「……なるほど」
今なら分かる。
ハイセが何を言いたかったのか。
ハウンド。
バイパー。
セルヴィトラ。
どれか一つが主役なのではない。
相手の選択肢を一つずつ減らし、最後に残した場所へ自分が立つ。
それがピアソラの戦い方。
借り物ではない。
二宮でも、那須でも、ハイセでもない。
ピアソラ自身の戦術。
「……ありがとうございます」
誰もいない空間で、彼女は小さく呟く。
「ハイセ」
だが。
すぐに少しだけ眉を寄せた。
本当に。
扱いに困る。
サーシャはハイセが好き。
けれど、ハイセは絶対に振り向かない。
そして。
ハイセには、もう別の人がいる。
本人だけが、それを理解していない。
「よくわからない、ですものね」
リューネハイムのことを聞いた時、ハイセはそう言った。
よくわからない。
でも嫌ではない。
離れたいとも思わない。
心も、身体も許せる。
そんなもの。
ピアソラからすれば、答えはほとんど出ている。
「……喜ぶべきなのか」
サーシャがハイセに振り向いてもらえない。
それは自分にとって有利。
でも。
サーシャが傷つく。
それは嫌だ。
「困惑していますわ」
ピアソラは深く溜息を吐いた。
その時。
足元に帰還の魔法陣が浮かび上がる。
「……やっとですのね」
遅くなった。
皆、待っている。
特に。
サーシャ。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「戻りましょう」
光が、身体を包んだ。
◇
第三領域。
サーシャは、ずっと同じ場所に立っていた。
「……まだか」
何度目か分からない同じ言葉を呟く。
「大丈夫だよ」
壁へ寄りかかっていたハイセが言う。
「ピアソラなら」
「分かっている」
「じゃあ座れば?」
「うるさい」
「はい」
シルヴィアは、そんな二人を少し離れた場所から眺めていた。アーネストも何も言わない。ただ待つ。
その時。
床に光が生まれた。
「!」
サーシャが一番に振り向く。
魔法陣の輝きが大きくなり、その中央からピアソラが姿を現した。
「ピアソラ!」
サーシャが駆け寄る。
「遅いぞ!」
「申し訳ありませんわ」
ピアソラは少しだけ驚いたあと、笑った。
「少々、考え事をしておりましたの」
「怪我は?」
「ありません」
「本当だな?」
「ええ」
サーシャは肩、腕、顔と順番に確認していく。
ピアソラはされるがままになりながら、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
そこへハイセが近づく。
「どうだった?」
ピアソラは、そちらを見た。
今、改めて見る。
女性になったハイセ。
研究者。
冒険者。
アイドル。
歌姫。
昔とはまるで違う。
でも。
それでいい。
本人が今を気に入っているなら。
それが答え。
「非常に」
ピアソラは静かに微笑む。
「参考になりましたわ」
「そっか」
「それと」
「なに?」
「あなたという方が」
一瞬、言葉を選ぶ。
「以前より、少し理解できました」
「褒めてる?」
「半分ほどは」
「半分なんだ」
「残り半分は、やはり腹立たしいですわ」
「なんで?」
「ご自分でお考えください」
「理不尽」
「あなたにだけは言われたくありませんわ」
ピアソラは、ぷいと顔を逸らす。
その先には、サーシャが心配そうにこちらを見ていた。
胸の奥が、少しだけ痛い。
でも。
それでいい。
サーシャが誰を好きか。
それを自分が変える権利はない。
ハイセが誰を好きになるか。
それも同じ。
戦場では、相手の選択肢を奪う。
けれど。
人の心まで奪ってはいけない。
自分が好きなのは、誰かに選ばされたサーシャではない。
自分で選ぶサーシャ。
だから。
「……行きましょうか」
ピアソラが言う。
「皆様」
声は、いつもと変わらない。
けれど。
少しだけ軽かった。
試練を越えたのは、戦術だけではない。
自分の中にあったいくつもの感情を、無理に一つへ決めつけることをやめた。
好き。
嫌い。
羨ましい。
腹立たしい。
尊敬。
困惑。
全部あっていい。
その上で。
自分が何を選ぶかを決めればいい。
ハイセが、いつもそうするように。
ピアソラもようやく、自分の答えを選び始めていた。