暗律の戦乙女は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
七大災厄【コルナディオ・ミノタウルス】が跡形もなく消滅してから、しばらく誰も動かなかった。
九人の眼前には、先ほどまで広大な草原だったとは到底思えない巨大なクレーターが口を開けている。剥ぎ取られた土壌の断面からはまだ熱気が立ち昇り、焦げた土と魔力の残滓が混ざり合った独特の匂いが鼻を刺した。遥か遠方まで吹き飛ばされた草木が、遅れて吹き抜けてきた風に揺れている。
その惨状の中心で、淡い光だけが浮かんでいた。
最初は拳ほどの大きさだったそれが、九人の視線を集めるにつれて静かに膨らみ始める。白でもなければ金でもない。見る角度によって色を変える虹色の球体は、周囲に漂っていた膨大な魔力を吸収しながら、やがて人間の頭ほどの大きさまで成長した。
ハイセは土埃を払いながら、その光を見つめる。
「……最後の敵倒したら、いかにも意味深な光の玉が出てきたんだけど」
「触るなよ」
間髪入れずサーシャが言った。
「俺を何だと思ってるの?」
「未知のものを見つけると、とりあえず触って解析しようとする研究馬鹿だ」
「否定しにくいな……」
横で綾斗が苦笑する一方、星露は興味深そうに球体を覗き込んでいた。しかし、彼女が一歩踏み出すより早く、虹色の光が柔らかく脈打つ。
同時に、声が響いた。
男とも女とも判別できない。耳から聞こえているというより、直接意識の中へ流れ込んでくるような声だった。
『九つの試練を越えし者たちよ』
全員の表情が引き締まる。
『汝らは《神の箱庭》を踏破した。その力、その知恵、その意志を認め、ここに最後の報酬を与える』
虹色の球体が一段強く輝き、幾重もの光輪がその周囲へ広がった。
『望むものを一つ、与えよう』
一瞬。
誰も口を開かなかった。
七大災厄を相手にした時とは違う種類の緊張が九人の間を走る。
どんな願いでも一つ。
あまりにも単純で、あまりにも危険な言葉だった。
ハイセは球体を見つめながら片眉を上げる。
「……なんか展開がFateだよね」
「あぁ」
アーネストが妙に納得した顔で頷いた。
「『第三魔法【ヘブンズフィール】を起動しますか?』ってシーンだよね?」
「アンリマユが出てきそうで怖いな」
綾斗まで真顔で乗っかった。
「さっきからお前らは何の話をしているんだ!?」
サーシャだけが置いていかれていた。
「知らなくていい」
「何故だ!」
「お前にネット文化を教えると面倒になるから」
「またそれか!」
「ネットリテラシー要保護観察対象でしょう、あなたは」
ピアソラまで当然のように追撃すると、サーシャは明らかに言い返したそうな顔をした。しかし今は目の前にあるものがものだけに、どうにか怒りを飲み込んでいる。
リューネハイムはそんなやり取りを楽しそうに眺めていたが、やがて虹色の球体へ視線を戻した。
「それで……本当に何でもいいのかしら?」
『望みを述べよ。その形を問わぬ』
「ずいぶん豪気じゃのう」
星露が腕を組む。
「ならば究極の武を、と願えば得られるのか?」
『可能である』
「いらん」
即答だった。
全員が彼女を見る。
星露は当然のように笑っている。
「他人から貰った究極など、何が面白い。そんなもの、自分で辿り着いてこそじゃろう」
「星露らしいね」
綾斗が笑う。
アーネストも剣を鞘へ戻しながら、静かに首を横へ振った。
「僕も同じかな。理想の騎士としての力や名誉を与えられたところで、それは僕が積み上げたものではない。それでは意味がないよ」
「綾斗は?」
「俺もいいかな」
綾斗は少し考えてから答えた。
「欲しいものが全くないわけじゃない。でも、今の自分なら自分で取りに行きたいと思う。遥姉も戻ってきたしね」
その表情には、過去の喪失に囚われていた頃の影はもう薄い。
オーフェリアも、淡々とした口調で続いた。
「私もいらない」
「意外ね」
リューネハイムが首を傾げる。
「何でも叶うのよ?」
「だから」
オーフェリアは虹色の球体を見つめた。
「自分がどう生きるかを、また何かに決めてもらうのは嫌」
短い言葉だったが、その意味を理解している者たちは何も言わなかった。
彼女がどれほど長い間、自分の意思とは無関係に生き方を決められてきたのか。それを知っているからこそ、万能の願いを前にして「いらない」と言えること自体が、彼女にとって一つの到達点だった。
エクリプスも同様に、静かに辞退した。
「私も、自分の意思で得られないものには興味がありません」
「みんな妙に欲がないわねぇ」
リューネハイムはそう言いながら、ふと隣を見る。
そこにはハイセがいる。
一瞬だけ、彼女の瞳が柔らかく細められた。
もし願えば。
この少年――今は少女であるハイセの心を、自分だけへ向けることもできるのだろう。
絶対に離れないようにすることも。
自分を愛するようにすることも。
けれど、そんな想像が浮かんだ瞬間、リューネハイムは自分でもおかしくなって小さく笑った。
「……それじゃ意味ないわね」
「何が?」
「なんでもない♪」
ハイセは不思議そうに首を傾げたが、リューネハイムはそれ以上答えなかった。
彼女が欲しいのは、自分を好きになるよう作り替えられたハイセではない。
自分で考え、自分で迷い、自分で選んだ末に、自分を選んでくれるハイセだった。
少し離れたところでは、ピアソラもまた同じようなことを考えていた。
サーシャを見る。
願えば。
もしかすると、彼女の心を自分へ向けることができるかもしれない。
自分だけを見るように。
ハイセを忘れるように。
しかし、その考えは胸の中へ浮かんだ直後、自分自身によって否定された。
そんなサーシャは、サーシャではない。
戦場なら相手の選択肢を奪って構わない。
むしろそれこそが、ハイセから教わり、自分が磨き始めた戦術だった。
だが、人の心まで同じように扱っていいはずがない。
「……結構ですわ」
ピアソラは小さく呟いた。
その視線の先で、今度はサーシャが虹色の球体を見つめている。
サーシャの胸にも、一瞬だけ甘い誘惑が浮かんだ。
昔のハイセ。
男だったハイセ。
まだ自分の横で笑っていた頃のハイセ。
あるいは。
今のハイセの心を、自分だけへ向けること。
願えば叶う。
目の前の存在は、そう言っている。
ほんの少し前までの自分なら、本気で考えたかもしれない。
だが。
サーシャは拳を握り、静かに息を吐いた。
「……いらない」
ハイセがサーシャを見る。
「いいの?」
「何がだ」
「いや。何でも一個だよ?」
「分かっている」
サーシャは少し不機嫌そうにハイセを見返した。
「お前の人生を願いで変えたところで、それはお前が選んだ人生ではないだろう」
ハイセの目が僅かに開かれる。
サーシャは、それ以上何も言わなかった。
ただ虹色の光から目を逸らし、腕を組む。
ピアソラだけが、その横顔を静かに見ていた。
やがて、自然と全員の視線が一人へ集まる。
「……何?」
ハイセが周囲を見回す。
「いや」
綾斗が言う。
「ハイセなら何かあるかなって」
「何その期待」
「研究者でしょう?」
アーネストが微笑む。
「何でも一つと言われた時に、一番危険なのはキミだと思う」
「酷くない?」
「否定できますの?」
ピアソラに言われ、ハイセは口を閉じた。
「…………できない」
「でしょうね」
そうは言ったものの、ハイセ自身もすぐに答えが出たわけではなかった。
何でも一つ。
その言葉を頭の中でもう一度転がす。
新しい武器。
未知の理論。
無限の研究資源。
より強い身体。
もっと多くの魔力。
どれも魅力的ではある。
けれど、それらは本当に今、自分が最も欲しいものなのだろうか。
ハイセの脳裏に、一つずつ顔が浮かんでいった。
カミラ。
ディルク。
エルネスタ。
セイレーン計画に関わる研究者たち。
そして。
実際に処置を受けることになる、大勢の人々。
計画は進んでいる。
技術的には、もう十分なところまで来ていた。
しかし、カミラはずっと言っていた。
可能であることと、社会へ普及させていいことは違う。
成功率が高いことと、安全であることも違う。
一万人に一人でも死亡するなら、それを「安全」と呼んでいいのか。
設備が整った都市でしか受けられないのであれば、結局それは一部の人間だけの技術ではないのか。
術者の腕によって成功率が変動するなら、本当に誰にでも開かれた技術と言えるのか。
ディルクも同じ懸念を抱いていた。
技術が成立すること。
大量に普及できること。
そして、普及させても事故が起きないこと。
その三つを同時に満たさなければならない。
ハイセはそのために何度も設計を変え、何度もシミュレーションを繰り返してきた。
それでも。
あと一つ。
決定的な何かが足りなかった。
ハイセの瞳が、僅かに見開かれる。
「……あった」
「何が?」
リューネハイムが尋ねる。
ハイセは答えず、虹色の球体へ向き直った。
「一個、欲しいものあった」
『述べよ』
ハイセは少しだけ息を吸う。
「【セイレーン計画】を完成させるために足りないものが欲しい」
その言葉に、事情を知る者たちの表情が変わった。
「星脈世代化処置を、誰が、どこで受けても絶対に失敗しないようにする技術と知識」
ハイセの声は次第に明確になっていく。
「年齢も、体質も、術者の技量も関係ない。拒絶反応も、能力暴走も、後遺症も起こさない。処置を受けたこと自体が原因で死ぬ人間を、一人も出さない」
虹色の球体が静かに明滅する。
「それだけじゃない」
ハイセは続ける。
「大都市の最先端施設じゃないとできないなら意味がない。設備はできるだけ簡略化して、安価にする。術者の腕に依存する部分は自動制御で補う。異常が起きる前に検知して止められるようにする。子供が受けても成長に影響しないようにする」
サーシャが、無意識にハイセを見つめていた。
願えば、自分自身のために何でも得られる。
それなのに。
この男――この少女は。
そんな機会を与えられて最初に考えたのが、また技術だった。
けれど。
今のサーシャには、昔と違ってそれが「自己犠牲」には見えなかった。
ハイセの目は輝いている。
誰かのために無理をしている目ではない。
本当に。
これを完成させたいのだ。
「……お前、それでいいのか?」
サーシャが訊ねた。
ハイセが振り返る。
「何が?」
「自分のために使わなくて」
「これ、俺のためでもあるけど?」
あまりにも当然のように返され、サーシャは言葉を失った。
「完成させたいんだよ、俺が」
ハイセは笑った。
「カミラとずっとやってきたし。ここまで来て安全性で止まるの、普通に悔しいじゃん」
「…………そうか」
サーシャはそれ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ表情を緩める。
ハイセは再び光へ向き直る。
「だから欲しい」
そして最後に、はっきりと言った。
「【セイレーン計画】を、誰にでも使える技術にするための最後のピースを全部くれ」
数秒。
何も起きなかった。
やがて。
『承認した』
虹色の球体が弾けた。
眩い光が空間全体を埋め尽くし、無数の文字列、立体図、術式、数式、人体モデルが九人の周囲へ展開される。
「……うわ」
綾斗が思わず声を漏らした。
情報量が尋常ではなかった。
神経接続。
魔力循環。
星辰力定着。
拒絶反応予測。
能力発現時の暴走抑制。
成長期に合わせた自動補正。
術者による誤差を排除する制御系。
簡易設備へ落とし込むための代替素材。
各種装置の標準規格。
緊急停止プロトコル。
安全性を担保しながらコストを削減するための生産工程。
それらは一つの技術ではなかった。
星脈世代化という医療行為そのものを、研究段階から社会インフラへ移行させるために必要な、巨大な体系だった。
「……なるほど」
ハイセの声が変わる。
リューネハイムが横目で見る。
先ほどまで戦闘後の疲れを残していた少女の顔が、完全に研究者のそれへ切り替わっていた。
「そう繋ぐのか……いや、待って。だったらここの制御系いらないじゃん。こっちに統合できる。設備も三割……いや、もっと落とせる……」
「始まりましたわね」
ピアソラが呆れる。
「始まったわね♪」
リューネハイムは楽しそうだった。
「ハイセ」
綾斗が呼ぶ。
「帰ってからやろう?」
「ちょっと待って。これ今見ないと忘れるかも」
『情報は全て保存される』
「……先に言ってよ」
神にまで窘められた。
星露が腹を抱えて笑う。
「神に研究を止められる者など初めて見たぞ!」
「うるさいな!」
ハイセは頬を膨らませながらも、展開された技術体系を改めて見上げた。
その中に。
地方向け簡易設備の設計図がある。
巨大な病院もいらない。
大量のエネルギーもいらない。
数人の医療従事者と最低限の設備さえあれば、処置が可能になる。
ハイセの表情から、ふざけた色が消えた。
「……これなら」
誰に言うでもなく呟く。
「村に病院一個しかないような場所でもできる」
その言葉に、周囲が静かになる。
「寒村でも、辺境でも」
ハイセは小さく笑った。
「金がないからとか、生まれた場所が悪かったからとか。そういう理由で選べない奴、かなり減らせる」
それはカミラが掲げた【究極の汎用性】から始まった思想が、ハイセ自身の中で辿り着いた一つの答えだった。
誰にでも扱える武器。
誰にでも使える技術。
そして。
誰にでも、未来を選べるだけの力を。
虹色の光が一つずつ収束し始める。
役目を終えた《神の箱庭》そのものが、静かに崩れ始めていた。
空を覆っていた青が白へ溶け、草原も、巨大なクレーターも、その輪郭を失っていく。
『願いは果たされた』
声が響く。
『汝らの歩む未来が、汝ら自身の選択によって紡がれんことを』
九人の身体が光へ包まれる。
ハイセは消えていく世界を一度だけ振り返った。
長かった。
戦った。
歌った。
サーシャと喧嘩もした。
ピアソラの意外な一面も知った。
綾斗やリューネハイムたちと、それぞれの原点にも触れた。
けれど、感傷に浸っている暇はない。
帰ったらやることが山ほどある。
「……よし」
ハイセが拳を握る。
「帰ったらカミラに怒られてこよ」
「何故怒られる前提なんだ?」
綾斗が呆れたように訊ねる。
「また勝手に研究項目増やしたから」
「自覚はありますのね」
「一応」
リューネハイムがくすくす笑う。
「でも、きっと喜ぶと思うわよ?」
「怒ったあとにね」
「怒られるのは確定なんじゃな」
星露まで笑った。
光がさらに強くなる。
最後にサーシャが、ハイセへ声を掛けた。
「ハイセ」
「ん?」
少しだけ迷い。
それからサーシャは言った。
「……悪くない願いだった」
ハイセは一瞬だけ目を丸くして。
「でしょ?」
いつもの調子で笑った。
その直後。
九人の姿は光の中へ消えた。
長きにわたる《神の箱庭》攻略は、ここに完全踏破を迎えた。
そして彼らが持ち帰ったものは、七大災厄を打ち倒した名誉でも、巨大な財宝でも、絶対的な武力でもない。
まだ世界の誰も知らない。
いつの日か。
辺境に生まれた子供が、生まれた場所を理由に未来を諦めなくて済むための技術。
弱さを理由に、選択肢を奪われないための仕組み。
後に二つの世界の在り方さえ変えていくことになる、最後の一片。
――【セイレーン計画】。
その完成へ至る扉が。
この日、静かに開かれた。