暗律の戦乙女は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ   作:カミッシー

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第92話 【セイレーン計画】

 

 七大災厄【コルナディオ・ミノタウルス】が跡形もなく消滅してから、しばらく誰も動かなかった。

 

 九人の眼前には、先ほどまで広大な草原だったとは到底思えない巨大なクレーターが口を開けている。剥ぎ取られた土壌の断面からはまだ熱気が立ち昇り、焦げた土と魔力の残滓が混ざり合った独特の匂いが鼻を刺した。遥か遠方まで吹き飛ばされた草木が、遅れて吹き抜けてきた風に揺れている。

 

 その惨状の中心で、淡い光だけが浮かんでいた。

 

 最初は拳ほどの大きさだったそれが、九人の視線を集めるにつれて静かに膨らみ始める。白でもなければ金でもない。見る角度によって色を変える虹色の球体は、周囲に漂っていた膨大な魔力を吸収しながら、やがて人間の頭ほどの大きさまで成長した。

 

 ハイセは土埃を払いながら、その光を見つめる。

 

「……最後の敵倒したら、いかにも意味深な光の玉が出てきたんだけど」

 

「触るなよ」

 

 間髪入れずサーシャが言った。

 

「俺を何だと思ってるの?」

 

「未知のものを見つけると、とりあえず触って解析しようとする研究馬鹿だ」

 

「否定しにくいな……」

 

 横で綾斗が苦笑する一方、星露は興味深そうに球体を覗き込んでいた。しかし、彼女が一歩踏み出すより早く、虹色の光が柔らかく脈打つ。

 

 同時に、声が響いた。

 

 男とも女とも判別できない。耳から聞こえているというより、直接意識の中へ流れ込んでくるような声だった。

 

『九つの試練を越えし者たちよ』

 

 全員の表情が引き締まる。

 

『汝らは《神の箱庭》を踏破した。その力、その知恵、その意志を認め、ここに最後の報酬を与える』

 

 虹色の球体が一段強く輝き、幾重もの光輪がその周囲へ広がった。

 

『望むものを一つ、与えよう』

 

 一瞬。

 

 誰も口を開かなかった。

 

 七大災厄を相手にした時とは違う種類の緊張が九人の間を走る。

 

 どんな願いでも一つ。

 

 あまりにも単純で、あまりにも危険な言葉だった。

 

 ハイセは球体を見つめながら片眉を上げる。

 

「……なんか展開がFateだよね」

 

「あぁ」

 

 アーネストが妙に納得した顔で頷いた。

 

「『第三魔法【ヘブンズフィール】を起動しますか?』ってシーンだよね?」

 

「アンリマユが出てきそうで怖いな」

 

 綾斗まで真顔で乗っかった。

 

「さっきからお前らは何の話をしているんだ!?」

 

 サーシャだけが置いていかれていた。

 

「知らなくていい」

 

「何故だ!」

 

「お前にネット文化を教えると面倒になるから」

 

「またそれか!」

 

「ネットリテラシー要保護観察対象でしょう、あなたは」

 

 ピアソラまで当然のように追撃すると、サーシャは明らかに言い返したそうな顔をした。しかし今は目の前にあるものがものだけに、どうにか怒りを飲み込んでいる。

 

 リューネハイムはそんなやり取りを楽しそうに眺めていたが、やがて虹色の球体へ視線を戻した。

 

「それで……本当に何でもいいのかしら?」

 

『望みを述べよ。その形を問わぬ』

 

「ずいぶん豪気じゃのう」

 

 星露が腕を組む。

 

「ならば究極の武を、と願えば得られるのか?」

 

『可能である』

 

「いらん」

 

 即答だった。

 

 全員が彼女を見る。

 

 星露は当然のように笑っている。

 

「他人から貰った究極など、何が面白い。そんなもの、自分で辿り着いてこそじゃろう」

 

「星露らしいね」

 

 綾斗が笑う。

 

 アーネストも剣を鞘へ戻しながら、静かに首を横へ振った。

 

「僕も同じかな。理想の騎士としての力や名誉を与えられたところで、それは僕が積み上げたものではない。それでは意味がないよ」

 

「綾斗は?」

 

「俺もいいかな」

 

 綾斗は少し考えてから答えた。

 

「欲しいものが全くないわけじゃない。でも、今の自分なら自分で取りに行きたいと思う。遥姉も戻ってきたしね」

 

 その表情には、過去の喪失に囚われていた頃の影はもう薄い。

 

 オーフェリアも、淡々とした口調で続いた。

 

「私もいらない」

 

「意外ね」

 

 リューネハイムが首を傾げる。

 

「何でも叶うのよ?」

 

「だから」

 

 オーフェリアは虹色の球体を見つめた。

 

「自分がどう生きるかを、また何かに決めてもらうのは嫌」

 

 短い言葉だったが、その意味を理解している者たちは何も言わなかった。

 

 彼女がどれほど長い間、自分の意思とは無関係に生き方を決められてきたのか。それを知っているからこそ、万能の願いを前にして「いらない」と言えること自体が、彼女にとって一つの到達点だった。

 

 エクリプスも同様に、静かに辞退した。

 

「私も、自分の意思で得られないものには興味がありません」

 

「みんな妙に欲がないわねぇ」

 

 リューネハイムはそう言いながら、ふと隣を見る。

 

 そこにはハイセがいる。

 

 一瞬だけ、彼女の瞳が柔らかく細められた。

 

 もし願えば。

 

 この少年――今は少女であるハイセの心を、自分だけへ向けることもできるのだろう。

 

 絶対に離れないようにすることも。

 

 自分を愛するようにすることも。

 

 けれど、そんな想像が浮かんだ瞬間、リューネハイムは自分でもおかしくなって小さく笑った。

 

「……それじゃ意味ないわね」

 

「何が?」

 

「なんでもない♪」

 

 ハイセは不思議そうに首を傾げたが、リューネハイムはそれ以上答えなかった。

 

 彼女が欲しいのは、自分を好きになるよう作り替えられたハイセではない。

 

 自分で考え、自分で迷い、自分で選んだ末に、自分を選んでくれるハイセだった。

 

 少し離れたところでは、ピアソラもまた同じようなことを考えていた。

 

 サーシャを見る。

 

 願えば。

 

 もしかすると、彼女の心を自分へ向けることができるかもしれない。

 

 自分だけを見るように。

 

 ハイセを忘れるように。

 

 しかし、その考えは胸の中へ浮かんだ直後、自分自身によって否定された。

 

 そんなサーシャは、サーシャではない。

 

 戦場なら相手の選択肢を奪って構わない。

 

 むしろそれこそが、ハイセから教わり、自分が磨き始めた戦術だった。

 

 だが、人の心まで同じように扱っていいはずがない。

 

「……結構ですわ」

 

 ピアソラは小さく呟いた。

 

 その視線の先で、今度はサーシャが虹色の球体を見つめている。

 

 サーシャの胸にも、一瞬だけ甘い誘惑が浮かんだ。

 

 昔のハイセ。

 

 男だったハイセ。

 

 まだ自分の横で笑っていた頃のハイセ。

 

 あるいは。

 

 今のハイセの心を、自分だけへ向けること。

 

 願えば叶う。

 

 目の前の存在は、そう言っている。

 

 ほんの少し前までの自分なら、本気で考えたかもしれない。

 

 だが。

 

 サーシャは拳を握り、静かに息を吐いた。

 

「……いらない」

 

 ハイセがサーシャを見る。

 

「いいの?」

 

「何がだ」

 

「いや。何でも一個だよ?」

 

「分かっている」

 

 サーシャは少し不機嫌そうにハイセを見返した。

 

「お前の人生を願いで変えたところで、それはお前が選んだ人生ではないだろう」

 

 ハイセの目が僅かに開かれる。

 

 サーシャは、それ以上何も言わなかった。

 

 ただ虹色の光から目を逸らし、腕を組む。

 

 ピアソラだけが、その横顔を静かに見ていた。

 

 やがて、自然と全員の視線が一人へ集まる。

 

「……何?」

 

 ハイセが周囲を見回す。

 

「いや」

 

 綾斗が言う。

 

「ハイセなら何かあるかなって」

 

「何その期待」

 

「研究者でしょう?」

 

 アーネストが微笑む。

 

「何でも一つと言われた時に、一番危険なのはキミだと思う」

 

「酷くない?」

 

「否定できますの?」

 

 ピアソラに言われ、ハイセは口を閉じた。

 

「…………できない」

 

「でしょうね」

 

 そうは言ったものの、ハイセ自身もすぐに答えが出たわけではなかった。

 

 何でも一つ。

 

 その言葉を頭の中でもう一度転がす。

 

 新しい武器。

 

 未知の理論。

 

 無限の研究資源。

 

 より強い身体。

 

 もっと多くの魔力。

 

 どれも魅力的ではある。

 

 けれど、それらは本当に今、自分が最も欲しいものなのだろうか。

 

 ハイセの脳裏に、一つずつ顔が浮かんでいった。

 

 カミラ。

 

 ディルク。

 

 エルネスタ。

 

 セイレーン計画に関わる研究者たち。

 

 そして。

 

 実際に処置を受けることになる、大勢の人々。

 

 計画は進んでいる。

 

 技術的には、もう十分なところまで来ていた。

 

 しかし、カミラはずっと言っていた。

 

 可能であることと、社会へ普及させていいことは違う。

 

 成功率が高いことと、安全であることも違う。

 

 一万人に一人でも死亡するなら、それを「安全」と呼んでいいのか。

 

 設備が整った都市でしか受けられないのであれば、結局それは一部の人間だけの技術ではないのか。

 

 術者の腕によって成功率が変動するなら、本当に誰にでも開かれた技術と言えるのか。

 

 ディルクも同じ懸念を抱いていた。

 

 技術が成立すること。

 

 大量に普及できること。

 

 そして、普及させても事故が起きないこと。

 

 その三つを同時に満たさなければならない。

 

 ハイセはそのために何度も設計を変え、何度もシミュレーションを繰り返してきた。

 

 それでも。

 

 あと一つ。

 

 決定的な何かが足りなかった。

 

 ハイセの瞳が、僅かに見開かれる。

 

「……あった」

 

「何が?」

 

 リューネハイムが尋ねる。

 

 ハイセは答えず、虹色の球体へ向き直った。

 

「一個、欲しいものあった」

 

『述べよ』

 

 ハイセは少しだけ息を吸う。

 

「【セイレーン計画】を完成させるために足りないものが欲しい」

 

 その言葉に、事情を知る者たちの表情が変わった。

 

「星脈世代化処置を、誰が、どこで受けても絶対に失敗しないようにする技術と知識」

 

 ハイセの声は次第に明確になっていく。

 

「年齢も、体質も、術者の技量も関係ない。拒絶反応も、能力暴走も、後遺症も起こさない。処置を受けたこと自体が原因で死ぬ人間を、一人も出さない」

 

 虹色の球体が静かに明滅する。

 

「それだけじゃない」

 

 ハイセは続ける。

 

「大都市の最先端施設じゃないとできないなら意味がない。設備はできるだけ簡略化して、安価にする。術者の腕に依存する部分は自動制御で補う。異常が起きる前に検知して止められるようにする。子供が受けても成長に影響しないようにする」

 

 サーシャが、無意識にハイセを見つめていた。

 

 願えば、自分自身のために何でも得られる。

 

 それなのに。

 

 この男――この少女は。

 

 そんな機会を与えられて最初に考えたのが、また技術だった。

 

 けれど。

 

 今のサーシャには、昔と違ってそれが「自己犠牲」には見えなかった。

 

 ハイセの目は輝いている。

 

 誰かのために無理をしている目ではない。

 

 本当に。

 

 これを完成させたいのだ。

 

「……お前、それでいいのか?」

 

 サーシャが訊ねた。

 

 ハイセが振り返る。

 

「何が?」

 

「自分のために使わなくて」

 

「これ、俺のためでもあるけど?」

 

 あまりにも当然のように返され、サーシャは言葉を失った。

 

「完成させたいんだよ、俺が」

 

 ハイセは笑った。

 

「カミラとずっとやってきたし。ここまで来て安全性で止まるの、普通に悔しいじゃん」

 

「…………そうか」

 

 サーシャはそれ以上何も言わなかった。

 

 ただ、ほんの少しだけ表情を緩める。

 

 ハイセは再び光へ向き直る。

 

「だから欲しい」

 

 そして最後に、はっきりと言った。

 

「【セイレーン計画】を、誰にでも使える技術にするための最後のピースを全部くれ」

 

 数秒。

 

 何も起きなかった。

 

 やがて。

 

『承認した』

 

 虹色の球体が弾けた。

 

 眩い光が空間全体を埋め尽くし、無数の文字列、立体図、術式、数式、人体モデルが九人の周囲へ展開される。

 

「……うわ」

 

 綾斗が思わず声を漏らした。

 

 情報量が尋常ではなかった。

 

 神経接続。

 

 魔力循環。

 

 星辰力定着。

 

 拒絶反応予測。

 

 能力発現時の暴走抑制。

 

 成長期に合わせた自動補正。

 

 術者による誤差を排除する制御系。

 

 簡易設備へ落とし込むための代替素材。

 

 各種装置の標準規格。

 

 緊急停止プロトコル。

 

 安全性を担保しながらコストを削減するための生産工程。

 

 それらは一つの技術ではなかった。

 

 星脈世代化という医療行為そのものを、研究段階から社会インフラへ移行させるために必要な、巨大な体系だった。

 

「……なるほど」

 

 ハイセの声が変わる。

 

 リューネハイムが横目で見る。

 

 先ほどまで戦闘後の疲れを残していた少女の顔が、完全に研究者のそれへ切り替わっていた。

 

「そう繋ぐのか……いや、待って。だったらここの制御系いらないじゃん。こっちに統合できる。設備も三割……いや、もっと落とせる……」

 

「始まりましたわね」

 

 ピアソラが呆れる。

 

「始まったわね♪」

 

 リューネハイムは楽しそうだった。

 

「ハイセ」

 

 綾斗が呼ぶ。

 

「帰ってからやろう?」

 

「ちょっと待って。これ今見ないと忘れるかも」

 

『情報は全て保存される』

 

「……先に言ってよ」

 

 神にまで窘められた。

 

 星露が腹を抱えて笑う。

 

「神に研究を止められる者など初めて見たぞ!」

 

「うるさいな!」

 

 ハイセは頬を膨らませながらも、展開された技術体系を改めて見上げた。

 

 その中に。

 

 地方向け簡易設備の設計図がある。

 

 巨大な病院もいらない。

 

 大量のエネルギーもいらない。

 

 数人の医療従事者と最低限の設備さえあれば、処置が可能になる。

 

 ハイセの表情から、ふざけた色が消えた。

 

「……これなら」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 

「村に病院一個しかないような場所でもできる」

 

 その言葉に、周囲が静かになる。

 

「寒村でも、辺境でも」

 

 ハイセは小さく笑った。

 

「金がないからとか、生まれた場所が悪かったからとか。そういう理由で選べない奴、かなり減らせる」

 

 それはカミラが掲げた【究極の汎用性】から始まった思想が、ハイセ自身の中で辿り着いた一つの答えだった。

 

 誰にでも扱える武器。

 

 誰にでも使える技術。

 

 そして。

 

 誰にでも、未来を選べるだけの力を。

 

 虹色の光が一つずつ収束し始める。

 

 役目を終えた《神の箱庭》そのものが、静かに崩れ始めていた。

 

 空を覆っていた青が白へ溶け、草原も、巨大なクレーターも、その輪郭を失っていく。

 

『願いは果たされた』

 

 声が響く。

 

『汝らの歩む未来が、汝ら自身の選択によって紡がれんことを』

 

 九人の身体が光へ包まれる。

 

 ハイセは消えていく世界を一度だけ振り返った。

 

 長かった。

 

 戦った。

 

 歌った。

 

 サーシャと喧嘩もした。

 

 ピアソラの意外な一面も知った。

 

 綾斗やリューネハイムたちと、それぞれの原点にも触れた。

 

 けれど、感傷に浸っている暇はない。

 

 帰ったらやることが山ほどある。

 

「……よし」

 

 ハイセが拳を握る。

 

「帰ったらカミラに怒られてこよ」

 

「何故怒られる前提なんだ?」

 

 綾斗が呆れたように訊ねる。

 

「また勝手に研究項目増やしたから」

 

「自覚はありますのね」

 

「一応」

 

 リューネハイムがくすくす笑う。

 

「でも、きっと喜ぶと思うわよ?」

 

「怒ったあとにね」

 

「怒られるのは確定なんじゃな」

 

 星露まで笑った。

 

 光がさらに強くなる。

 

 最後にサーシャが、ハイセへ声を掛けた。

 

「ハイセ」

 

「ん?」

 

 少しだけ迷い。

 

 それからサーシャは言った。

 

「……悪くない願いだった」

 

 ハイセは一瞬だけ目を丸くして。

 

「でしょ?」

 

 いつもの調子で笑った。

 

 その直後。

 

 九人の姿は光の中へ消えた。

 

 長きにわたる《神の箱庭》攻略は、ここに完全踏破を迎えた。

 

 そして彼らが持ち帰ったものは、七大災厄を打ち倒した名誉でも、巨大な財宝でも、絶対的な武力でもない。

 

 まだ世界の誰も知らない。

 

 いつの日か。

 

 辺境に生まれた子供が、生まれた場所を理由に未来を諦めなくて済むための技術。

 

 弱さを理由に、選択肢を奪われないための仕組み。

 

 後に二つの世界の在り方さえ変えていくことになる、最後の一片。

 

 ――【セイレーン計画】。

 

 その完成へ至る扉が。

 

 この日、静かに開かれた。

 

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