【暗律の戦乙女(ヤミキューレ)】は盤上を覆すが故、己が未来を選ぶ 作:カミッシー
七大冒険者たちと六花学園の代表者を交えた合同会合が、すべての議題を終える頃には、それまで会場を包んでいた緊張もようやく薄れ始めていた。
冒険者社会の変化、二つの世界を跨ぐ資源流通、新エネルギー、【セイレーン計画】、そして、それぞれがこれからどこで何を選んで生きていくのか。話し合われた内容はどれも国家や学園、ひいては二つの世界そのものへ影響を及ぼすほど重いものだったが、だからこそ最後くらいは難しいことを忘れて騒いでもいいだろう――そんな提案から企画されたのが、合同会合終了を記念する【お疲れ様ライブ】だった。
会場として選ばれたのは、アスタリスク側の大規模ライブ施設。
六学園の関係者だけではなく、ハイベルグ王国から訪れた冒険者や行政関係者も客席へ入り、一般販売された席には両世界から集まった観客が所狭しと並んでいる。さらにライブそのものは二世界へ同時配信されており、現地へ来られない人間まで含めれば、視聴者数は通常のライブとは比較にならない規模へ膨れ上がっていた。
とはいえ、出演者たちにとって今夜の目的はひどく単純だった。
ここまで色々あったのだから、今日は楽しめばいい。
研究成果も、制度設計も、政治も、資源配分も、今だけは全部ステージの外へ置いてくればいい。
その空気を最も素直に楽しんでいたのは、意外にもハイセだった。
「……なんか、今日変な感じするな」
開演前、舞台袖から客席を覗き込みながら、ハイセは小さく呟いた。
「緊張してるの?」
隣からリューネハイムが覗き込む。
「いや、そうじゃなくて。前まではライブって、仕事とかイベントとか、その延長だったじゃん」
「そうね」
「でも今日は……これからもここで歌うんだなって思う」
舞台の向こうに広がる何万人もの観客、ステージを照らす光、自分たちを待つ歓声。そのすべてを見渡しながら、ハイセは僅かに笑った。
会合で、彼は自分の未来を選んだ。
冒険者を辞めるわけではない。必要になれば迷宮へ行き、研究に必要な素材を自分の手で取りに行く。それでも、生活の中心はもう冒険者ではなく、アルルカントで研究を続け、カミラと新しい煌式武装を作り、そしてリューネハイムとアイドル活動を続ける。
それまでどこか偶然の延長にあった「歌う」という行為が、今日からは自分で選んだ未来の一部になる。その違いは、思っていた以上に大きかった。
「そうね」
リューネハイムは柔らかく笑う。
「これからも一緒に歌いましょう」
「うん」
ハイセは何の迷いもなく頷いた。
その返事を聞いたリューネハイムは、何故かほんの少しだけ嬉しそうに目を細める。
やがてライブが始まると、一曲目から会場は熱狂に包まれた。これまで二世界で披露されてきた楽曲、ハイセとリューネハイムそれぞれのソロ、複数人でのユニット曲。アスタリスク側と異世界側の映像を組み合わせた演出も入り、ここまでの出来事を祝うように、ステージそのものが二つの世界の交流史をなぞっていく。
戦闘とは違う。
研究とも違う。
けれど客席から返ってくる歓声を浴びるたびに、ハイセはここへ残ると決めた自分の選択が、少しずつ身体へ馴染んでいくのを感じていた。
歌うことが好きだ。
ステージへ立つことも、何万人もの視線を浴びることも、昔の自分ならきっと考えもしなかった。
そして、その自分の横には、いつもリューネハイムがいた。
ライブが終盤へ入り、最後の曲を前に照明が一度落ちる。暗闇の中でハイセが息を整えながら次の進行を待っていると、隣にいたリューネハイムが、いつもとは少し違う声で呼びかけた。
「ハイセ」
「ん?」
「最後に、もう一曲だけ付き合ってくれる?」
「いいよ」
ハイセは即答した。
曲名を聞くことすらしなかった。
リューネハイムが頼むなら、それだけで十分だった。
少し遅れてステージ中央へ向かう途中、ハイセは、そのことに何の違和感も抱かなかった自分へ僅かな疑問を覚えた。
どうしてだろう。
リューネハイムなら、何を頼まれても多分それほど警戒しない。危険なことを頼まないと知っているから。自分を傷つけるようなことをしないと、そう信じ切っているから。
それは、単に信頼という言葉だけで説明できるのだろうか。
考えているうちにステージが明るくなり、新しい衣装と抑えた照明の中、イントロが流れ始めた。瞬間、客席から大きなどよめきが起こる。
新曲――【ノーザンクロス】。
最初、二人は背中合わせに立っていた。
互いの姿は見えない。それでも同じ音を聞き、同じタイミングで息を吸い、歌い始める。
リューネハイムの声がステージ全体へ広がり、そこへハイセの声が重なる。
これまで何度も歌ってきた。訓練でも、共演でも、実戦の中でさえ互いの声を聞いてきた。
それなのに、今日だけは少し違って聞こえる。
何かを求めるような、何かを失うことを恐れるような、それでも前へ進もうとする感情が、リューネハイムの歌声の中にある。
ハイセは自然と振り向いた。
ちょうど、リューネハイムもこちらを見ていた。
曲が進むにつれて、背中合わせだった二人の距離は少しずつ縮まっていく。ステージの両端へ分かれ、そこから互いの方へ歩き、気付けば中央で正面から向かい合っていた。
演出として決められた動きのはずだった。
それでも、リューネハイムの視線だけは演技には見えなかった。
何万人もの観客がいて、配信を通してさらに多くの人間が見ている。それなのに、その瞬間だけはステージの上に二人しかいないような錯覚さえ覚える。
胸の奥が妙に騒がしい。
リューネハイムと歌うと楽しい。一緒にいると落ち着く。自分のことを話すのも、触れられるのも、不思議なくらい嫌ではない。困った時には、気付けば彼女を頼っている。
会合でこれからの人生を考えた時も、研究室の景色と同じくらい自然に、リューネハイムと歌う未来を思い浮かべていた。
それが何なのか。
ハイセは、まだ分からなかった。
ただ、もしこの先、リューネハイムが自分の未来からいなくなるとしたら、その想像だけは妙に嫌だった。
曲は終盤へ向かい、最後の演出で二人は互いへ手を伸ばした。指先が触れ、そのままハイセがリューネハイムの手を取ると、彼女の瞳がほんの僅かに揺れた。
そして曲が終わる。
一瞬の静寂を挟み、次の瞬間には会場を揺らすほどの歓声が爆発した。
「ありがとー!」
ハイセはいつものように客席へ手を振った。
「いやー、新曲緊張した!」
リューネハイムも笑っている。
これでライブは終了。
そう思い、ハイセが舞台袖へ戻ろうとした、その時だった。
「ハイセ」
呼び止められ、振り返る。
リューネハイムはステージ中央に立ったまま、マイクも下ろしていなかった。照明も消えず、彼女だけが何かを決めたような顔でこちらを見ている。
「どうしたの?」
リューネハイムは一度客席を見渡してから、もう一度ハイセへ視線を戻した。
「さっきの会合で、あなた、言ってくれたでしょう?」
「何を?」
「これからもアスタリスクに残るって」
「ああ」
「アルルカントで研究を続けて、私と一緒にアイドル活動も続けるって」
「言ったね」
「だから、私もちゃんと一つ答えを出しておこうと思って」
「答え?」
客席が徐々にざわめき始め、関係者席でも何人かが嫌な予感を察したように顔を上げた。エルネスタは逆に面白そうに目を輝かせ、ディルクは片眉を上げ、アーネストは何となく察したように静かに笑っている。
そしてサーシャは、理由も分からないまま胸の奥がざわつくのを感じていた。
「ハイセ」
リューネハイムは今度こそ、まっすぐ彼を見る。
逃げない。
誤魔化さない。
世界最高峰の歌姫は、何万人もの観客と二つの世界が見ている前で、はっきりと言った。
「私は、あなたが好きよ」
一瞬、本当に音が消えた。
誰も動かない。
ハイセも、何を言われたのか理解するまで数秒を要した。
「…………え?」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
リューネハイムは少しだけ恥ずかしそうに、それでも逃げずに笑っている。
「研究者だからじゃない。冒険者だからでもない。歌姫だからでもない。今のあなたが好き」
その言葉は飾りもなく、まっすぐハイセの胸へ届いた。
「だから」
リューネハイムは、先ほど歌の最後で重ねた手を、もう一度ハイセへ差し出す。
「これからも、ステージだけじゃなくて、私の隣にいてくれる?」
ハイセは、すぐには答えられなかった。
拒みたいからではない。
むしろ逆だった。
その瞬間、今まで言葉にできなかったものが頭の中で一気に繋がり始めたからだ。
リューネハイムと歌うと楽しい。一緒にいると落ち着く。近くにいても、触れられても嫌ではなく、むしろ安心する。彼女が笑えば嬉しいし、誰かと楽しそうにしていれば、理由も分からないまま少しだけ気になる。
困った時には真っ先に顔が浮かび、未来を思い描けば、そこに彼女がいることがいつの間にか当たり前になっていた。
ずっと分からなかった。
この感情が何なのか。
けれど今、目の前の彼女が、ようやくその感情へ名前を与えてくれた。
「……あ」
ハイセの口から、小さく声が漏れた。
リューネハイムが首を傾げる。
「そっか」
「……ハイセ?」
ハイセは、ようやく笑った。
「俺、リューネハイムのこと好きなんだ」
数秒。
今度はリューネハイムが完全に固まった。
「……今?」
「え?」
「今気付いたの!?」
「だって分かんなかったんだもん!」
「信じられない!」
「仕方ないじゃん!」
「私、結構分かりやすかったと思うんだけど!?」
「そうなの!?」
「そうよ!」
その瞬間、会場は大爆発した。
歓声、悲鳴、笑い、拍手。ありとあらゆる音が混ざり合い、二人のいるステージを一気に飲み込んでいく。
リューネハイムは呆れたように、それでも泣きそうなくらい嬉しそうに笑っていた。
「で?」
「で?」
「返事」
「あ」
「もう!」
ハイセは慌てて、もう一度彼女を見る。
今度は、迷わなかった。
「俺も好きだよ。これからも一緒にいたい」
その言葉を聞いた瞬間、リューネハイムの瞳が柔らかく細められた。
「……はい」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
彼女は差し出していた手を、今度こそハイセの手へ重ね、二人で客席へ向き直る。
すると会場は再び揺れた。
関係者席では、エルネスタが両手を上げて大喜びしていた。
「やったー!」
一方でカミラは頭を抱える。
「何で公開告白なんだ……」
「リューネハイムらしいじゃん!」
「規模の話をしている!」
ディルクは心底面倒そうに眉を寄せた。
「明日の報道が地獄だな」
その横でアーネストは穏やかに笑う。
「でも、良いんじゃないかな。本人たちが幸せそうだ」
「だからって市場への影響が消えるわけじゃねえ」
「そこを見るんだ……」
少し離れたところでは、ガイストが盛大にため息を吐いていた。
「……とうとうか」
どこか諦めたような、それでも納得したような声だった。
そんな中。
ピアソラだけは、周囲と同じようには笑っていなかった。
彼女が見ていたのはステージではなく、その隣に座るサーシャだった。
「サーシャ……?」
小さく声をかける。
返事はない。
サーシャは、ただステージを見つめていた。
そこには、手を繋いだハイセとリューネハイムがいる。二人とも笑っていて、そして何より、ハイセ自身が自分の口で言った。
好きだと。
これからも一緒にいたいと。
それは誰かに言わされた言葉ではない。強制されたものでもない。
ハイセ自身が、自分で選んだ言葉だった。
昨日までなら、まだ何かを言えたかもしれない。
けれど、98話の会合でハイセは既にアスタリスクへ残ると決めている。冒険者を生活の中心から外し、アルルカントで研究し、リューネハイムと歌う未来を選んだ。
その時、サーシャは自分だけが取り残されていくような感覚を覚えた。
そして今。
その未来の隣にいる人間まで決まった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
痛い。
苦しい。
けれど叫ぶこともできない。
何万人もの観客が二人を祝福し、周囲にいる仲間たちも笑っている。その声があまりにも大きくて、サーシャ一人の感情など飲み込んでしまいそうだった。
けれど、それ以上に苦しかったのは。
ハイセが幸せそうだったことだった。
もし苦しんでいたなら。
もし迷っていたなら。
何か言えたかもしれない。
だが、今のハイセは笑っている。
誰かに押し付けられた未来ではなく、自分で選んだ場所で、自分で選んだ相手の隣に立っている。
それを否定する言葉を。
サーシャは持っていなかった。
「サーシャ」
ピアソラがもう一度呼びかける。
それでも、サーシャは答えなかった。
ただ、ステージを見ていた。
笑うハイセと、その隣にいるリューネハイムを、まるで目へ焼き付けるように見つめ続けていた。
二つの世界を巻き込んだ祝福の中で。
大勢の人間が、一つの恋の始まりを喜んでいる。
その中心で、ハイセはようやく、自分でも分からなかった感情へ名前を付けた。
そして同じ瞬間。
一人の少女は、自分が長いあいだ追い続けていた未来が、もう自分の方を向いていないことを、初めて真正面から突きつけられた。
その夜。
二つの世界が祝福に沸く中で。
サーシャだけが、自分の胸の奥で何かが静かに崩れていく感覚を、どうすることもできず受け止めていた。