アスナが大切にしている思い出は、先生にとってまるで覚えのない出来事だった。
交錯する2人の記憶。真相はいったい
少しSF要素ありの晩夏のお話です。リオも登場します
※pixivに投稿した作品の転載です。
真夏の昼下がり、冷房の効いたシャーレの室内。
絶え間なく舞い込み、積み上がっていく新規の依頼にひとつひとつ丁寧に返信。継続依頼にも同じように。
そして書類の山脈も少しずつ削っていって……。
溜まっている仕事を片付けるのに、これほど快適な環境はなかった。
「ご主人様。こことそこの字、間違えてない?」
「あ、本当だ。ありがとうアスナ」
「それから、この書類の束はこっちに置いとくね。少しは自分で片づけなきゃダメなんだよー?」
「助かるよ。書類の片づけは……また今度やっておくね」
ただし、今日はメイド姿の
いつものようにくっついて離れない彼女から伝わってくる体温が、冷房でよく冷えた空気もあいまってより一層感じやすい気がする。
加えて、背中、腕、首元、膝……と、自分のどこの部位にくっつかれても最初に感じるのはアスナの一番柔らかいところだ。
出来たてのわらび餅みたいにぷるぷるしてる。やわらかい。
「ご主人様、手が止まっちゃってるよー?」
「あ、ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「ご主人様がいいなら、私はいつでも遊ぶ準備ができてるからね!」
むぎゅーっと抱きついてきながらアスナが嬉しそうに誘惑(?)してくる。
アスナはその容姿もあって勘違いされやすいのだけど、彼女のこの態度に悪気なんてものは一切ない。100%好意というか自然体。
なので、窘めるのもだんだん気が進まなくなってきている。決して魅力に負けてるとかそういうのではないと思いたい。やわらかい。
私がこのようにされるがままなので、アスナもさらに思う存分甘えに甘えてくる……というのがアスナinシャーレにおける日常風景になりつつある。
「ごめんアスナ。集中したいから、じゃれつくのは程々に……」
「んー、私は遊びのつもりじゃないんだけどなー」
「えっ」
「もしかしてそっちのが良かったりする? 私が本気出しちゃうの」
じゅるり、と舌舐めずりの音が聞こえた気がした。振り解こうとする前に、肩をがっちり掴まれてしまった。
……ああ、そうだった。どんなに人馴れしていても、大型犬は肉食獣なんだ。
私は忘れていた。キヴォトスの生徒たちが本気を出せば、非力な私なんて簡単に組み伏せられてしまうことを。
「……なーんてね。冗談だよー?」
「……えっ」
「えー、なになにご主人様ぁ。もしかして本気だと思っちゃった? ねぇねぇどうなのどうなの?」
「アスナ……」
……最近になって、時々こうした冗談をアスナは口にするようになった。
今のところ『まだ』冗談の範囲で済んでいるけど、もし本当に彼女が本気を出せば、その日が先生としての私の終わりの日だ。
「そ、そろそろ休憩時間にしようかな」
「賛成! お疲れのご主人様に、アスナがお紅茶淹れてあげるね! 熱いのと冷たいの、どっちがいい?」
「じゃあホットで」
アスナが名残惜しげもなく私から離れ、とてとて嬉しそうにお湯を沸かしに向かった。彼女の背中を見ながら、頬に残ったわずかな温もりをさする。やわらかだった。
閑話休題。
座ったままぐぐーっと伸びをして、アスナがてきぱき手慣れた様子で茶器やら何やらを揃えお湯を注ぐのを見つつ、私は考える。
うーむ、ふわりと揺れるフリルの動きすら美しい。メイドさん最高。
……違う、そうじゃない。
何がどうして、彼女は私のことをここまで好きなんだろうってことだ。
いやまぁ、ネルとかにもアスナはほとんど同じような態度で接しているので、アスナのデフォルト対人スキルがこれの可能性も充分にあるんだけど。
でも、気になる。
私とアスナが初めて出会ったのは、ミレニアム最上階の差押品保管所……の手前。エレベーターで上がってすぐ、無灯火の暗い廊下だった。
ゲーム開発部の面々と共に、とあるアイテムを取り戻しに向かい目標まであと一歩……というところまで迫ったところに待ち受けていたのが、アスナだった。
窓から差し込む夜景の光を背に受け縦横無尽の動きを見せる彼女の姿には恐怖さえ覚えたし、直後にその圧倒的な戦闘スキルも披露されたことで、クエストの完遂は不可能だと思ったけど……。
絶体絶命かと思われたそのピンチはアリスと光の剣の活躍によって打開され、無事にクエストは完了。
その後、もう一悶着あったけど……昨日の敵は今日の友といった流れで、C&Cの面々とも自然と交流が始まるのに時間はかからなかった。ゴールデンフリース号の潜入ミッションをこなしてからは加速度的に。
問題はここから。
ネル、カリン、アカネ、もうひとつ事件を終えた後はトキも。彼女たちとは少しずつ仲良くなっていったのだけど……アスナだけ、最初からやけに距離感が近かった。
ネルいわく「こいつは元からこんなもんだ」とのことだけど、でも気になる。
差押品保管所で邂逅した直後のアスナは、赴任したばかりの私にはわずかに興味を示していたけど、シャーレについてはほとんど知らないような口ぶりだった。
そんな彼女が、いくら元々そういう性格だったとしても、出会ってすぐの頃からこんなにも甘えてくるような接し方ってしてくるものなのだろうか。
……確かめてみたい。知りたい。
先生としての責務を果たすのに生徒のことを知りたいという気持ちと、個人的な知的好奇心の両方が、私の心を動かしていく。
「今日のお紅茶はちょっと特別だよー? これね、アイスクリームみたいな香りと味がするの」
「ねぇ、アスナ」
「んぅ、なぁに? これね、ミルク無しでもそんな味がするんだよー。不思議だよね」
「あの、アスナ」
「それとね、まだみんなには出してないんだ。私もまだ試し飲みしかしてないの」
「アスナ」
「つまり、私とご主人様しか知らない秘密のお紅茶ってわけ!」
「アスナ」
「よーしできたー。って、ごめん聞いてなかった。ご主人様、もしかしてコーヒーとかのほうが良かった?」
「あぁいや、違くて」
アスナが不思議そうな顔をしつつもご機嫌な様子で私に紅茶を渡してくれた。花柄模様のカップに、淡い色味の綺麗な黄金色が満たされている。
なんだかアスナの髪色と似てるな、と彼女と見比べていると、アスナはパッと明るい表情を浮かべた。
「あ、わかった! アイスクリームみたいな香りがする秘密が知りたいんでしょ。これね、茶葉のブレンドに特徴があってね」
「それも気になるけど……真剣な話だから、座って聞いてもらえるかな」
「いいよー。どうしたの?」
対面のソファにアスナがちょこんとお行儀よく座った。
おとなしくしていても、彼女の口角はいつもほんのりと上がっている。
かわいい。ぱちくりさせている目元もそうだし、彼女はかわいいのだ。いつも胸ばかり見てしまっていて本当に申し訳なく思えてくる。躊躇いの気持ちが出てきた。
本当に聞いていいのだろうか。好きになる理由なんて、大した理由がなくてもいいし、なんならいらなくてもいいものなのに。
「アスナは……」
私は逡巡する。野暮かもしれないが、ずっと気になっていたことだ。あの出会い方から、なぜこんなにも好意を向けられるようになったのか、ずっとずっと謎だったのだ。
気になる。その気持ちが最終的に勝った。
「アスナは、どうして私のことがそんなに好きなの?」
私は、尋ねた。
「えー、そんなの……ご主人様、今それ聞いちゃう?」
アスナが珍しく照れた様子の表情を浮かべた。ちょっぴりくねくねもじもじする彼女の表情は、なんだか恋する乙女のそれみたいだった。アスナの照れ顔って珍しい。かわいいな。
「もう、ご主人様ったら。そんなのわかってるくせにー」
「ごめん、ど忘れしちゃって」
「え、ひどーい! あの時のことを忘れちゃうなんて、いくらアスナちゃんでも怒っちゃうよー?」
……あの時のことってなんだろう。
「ねぇアスナ。それってなんのこと?」
「え、本当に忘れちゃったの?」
「ご、ごめん。覚えてない」
「本当に? あの日のこと、本当に覚えてないの?」
……あの日のことってなんだろう。
「ごめん、アスナ。本当にわからないんだ。出来事なのか、モノなのかもわからない」
「……本当に、わからないの?」
「ごめん。見当もつかない」
私の返事を聞いて、一秒経ち、二秒経ち。
十秒も経つ頃には、アスナはくにゃっとソファに体を預けてすっかり落ち込んでしまっていた。
「……あの夜のことだよ、ご主人様」
「ごめん。どの夜のことかも、わからない」
「……アリスちゃんたちと私たちが初めて戦った日のことは、覚えてる?」
「それはもちろん」
「それは覚えてるんだ……。ご主人様と初めて会った日はその日だけど、本当の意味で出会ったのは、その次の次の日」
私に向かって話すアスナの瞳が少し潤んでいる。
「その日の夜。ビルの屋上にいた私に、ご主人様が会いに来てくれたんだよ」
……あったっけな、そんなこと。
アスナの話しているその日の夜は、ゲーム開発部のみんなとファミレスで奪還記念の打ち上げパーティをしていたはずだ。モモイたちの誰かに聞けばすぐにわかる。
「街並みに広がる夜景とか、向かいの高層ビルとか、ずっと遠くに見える観覧車とか。いろいろ眺めて退屈してた私に向かって、ご主人様は息を切らしながら大きな声でこう言ってくれたよね」
いったい、なんの話だ。
「『一緒に楽しい世界を探そう、アスナ!』って!」
「『アスナの笑顔は最高に素敵なんだ。アスナには笑顔が一番似合う』って!」
「『アスナはメイドさんだから、私のことはご主人様って呼んでほしい!』って!」
「『だってその方が楽しいと思うから!』って!」
「『私と一緒に楽しい世界を探そう!』って!」
「『いつでも来て! シャーレで待ってる』って!」
…………。
…………すべて、記憶にないセリフだった。
本当にない。全くない。少なくとも、アスナに対して言ったことは全然ない。そのはずだ。
そんな風に彼女へ話したことなんて、これまで一度もなかったはずだ。
私とアスナとの記憶を振り返る。
彼女と私の交流が始まったのは、突然だった。
ある日、シャーレに突然やって来たアスナは、初めて来たというのにやけに楽しそうで、すこぶるご機嫌で、とても和気藹々とした雰囲気で……。
なんというか、初めて会った気のしない距離感だったことは、とにかくよく覚えている。
ゲーム開発部のみんなと一緒に巻き起こしたあれこれがあったから完全に初対面というわけではなかったものの、いきなりあんな調子だったので私も困惑した。
けど一之瀬アスナという女の子の人柄や性格を知っていくうちに、距離感の近さは元来のものと知り、なるほどそういうことかと納得していた。
しかし、違ったらしい。
アスナには、私の知らない私との記憶があるらしい。
……そうとしか、考えられなかった。
「アスナ」
「んふふ。ご主人様はもーっちろん、覚えてるよね! 私ね、この言葉にすっごく励まされて」
「アスナ、ごめん。よく聞いて欲しい」
「ん、なぁに?」
「えっと……」
尋ねた時以上の迷いが生じた。
ここで私が嘘をついて、そうだそうだ、そういうことがあったよねと言っても構わないと思う。
でも、アスナに対してそれはできない。
彼女は私に嘘をついたことが一度もない。一度たりともない。
ふざけたりからかったりしたことはあっても、嘘をついたことはない。
そんなアスナに私が嘘をつくことは、最も許せない行為だった。
「アスナ。今から私が言うことをよく聞いてほしい」
「う、うん」
「……ごめん。覚えてない」
「覚えてないって、なにを?」
ソファに座るアスナが、私をまっすぐ見つめている。
困り眉の彼女なんて、初めて見たかもしれない。でも、もう引き返せない。
アスナに嘘はつけない。つきたくない。
今から告げる言葉が、彼女にとってどれほど残酷なことかわかっていても。
「私は、アスナにそんな話をした覚えがないんだよ」
「……ご主人様、嘘はよくないよ」
「嘘じゃない。本当だ」
一秒経ち、二秒経ち。三秒経ったあたりで、アスナの表情から笑顔が消えた。
信じられない。そんなの嘘だ。なんでそんなこと言うの。
失望して、否定したくて、信じたくない。そんなアスナの表情を見るのは初めてのことだった。
「そんなはずないよ。だって、私覚えてるもん」
「私は、違う。本当に覚えてないんだ」
「……そんなわけないよ」
ソファの上に両足をまとめ、包まるようにアスナが寝転がった。
もう、彼女の表情は窺えなかった。
「覚えてるもん」
「……ごめん」
「あの言葉、全部嘘だったの?」
「……覚えてないんだ」
「…………そっか」
いつもの私なら、空元気を振り絞ってでもアスナを慰めていたかもしれない。
できなかった。残酷な事実を告げた私にそんな権利なんてないとわかっていたから。
「……私、帰る」
「アスナ」
「今日ね、この後トキちゃんと一緒に任務に行かなきゃってこと、思い出しちゃった」
伏目がちなまま、視線を合わせないまま、虚ろな表情でアスナは帰り支度を始めていた。
止めるなんてできなかったし、止めようとしても振り払われてしまわれそうで。とても静止できる様子ではなかった。
「アスナ……」
「またね、ご主人様」
ふらふらとした足取りで、それでも風のような速さで彼女はシャーレを後にして行った。
……追いかけられなかった。
脚が鉛のように重たい。
「……本当に、わからないんだ。言った覚えが、全然ないんだ」
どう頑張って記憶を掘り返しても、アスナの言う『私との思い出』は蘇ってこなかった。
気持ちを少しでも落ち着けようとして、紅茶をひと口含んだ。
美味しい。その感想を伝えたい相手がもうここにはいない事実が、私の胸をさらに締め付けた。
『つまり、私とご主人様しか知らない秘密のお紅茶ってわけ!』
……今日のこの紅茶は、アスナが私との時間を過ごすために用意してくれた特別な品だったに違いない。
紅茶の話をしている時のアスナが、今日一番の笑顔を浮かべていたから。
『またね、ご主人様』
帰る直前、アスナが私に向けてくれた表情が何度も頭の中で繰り返し、繰り返し映し出される。
あんなにも悲痛なアスナの表情を見るのは、初めてだった。
「……ごめん、アスナ」
アスナは、いつも笑顔を浮かべているものだとばかり思っていた。
違った。
悲しいことがあれば悲しい表情も浮かべる、普通の女の子だった。
私は、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
ソファ前のテーブルに置かれたもうひとつのカップから、湯気が昇っていた。
「……つまり、今日そんな任務はないってこと?」
『そういうことです。お昼からずっとアリスちゃんとゲームセンターに入り浸っていました』
40戦8勝です。ふふん。
スマホの向こう側でトキが誇らしげにそう言った。あのアリスに8勝もしたなんて。ネルは50戦もやって全敗だったのに。トキってゲーム上手いんだなぁ。
……いや、今はそんな話をしている場合じゃない。
すでに陽はもうすっかり落ち、夜の足音が闊歩する時間帯だ。蒸し暑い夜の空気と冷や汗が混じり、乾いた喉とベタついたシャツが思考を邪魔している。
私は焦っていた。
アスナが帰ってから、やはり追いかけようと考え駆け出そうとして、机に足を引っ掛けたのがよくなかった。
書類の束が崩れ落ち、下敷きになってしばらく身動きできなかったのだ。アスナが少し片づけてくれていなければ、深夜まで抜け出せていなかったかもしれない。
ともかくなんとか這い出し部屋を片付けて気を取り直し、アスナを探そうとミレニアムまで向かって、気づけばこんな時間だ。
アスナに今どこにいる、とモモトークを送ったけど……返信は一向に返ってこなかった。既読もいまだに付いていない。
当たり前だ。あんなに傷つけておいて、返信なんて来るわけがない。彼女は優しいけど、お人好しなわけじゃない。
どうにかならないかと考えて、アスナが一緒に任務だと言っていたトキならと思い電話してみたのだけど……。
そんな任務はないはずですが、ときっぱり言われてしまってはどうしようもない。
「今、ちょうどミレニアムの近くまで来ているんだ。良ければこの後、トキと詳しい話を」
『先生』
緊張が走った。トキにしては珍しく、真面目な声色だったから。
『確か私、来週にシャーレの当番があったはずですよね』
「うん、その通りだけど」
『でしたら、それまで先生のお時間はアスナ先輩のためにお使いください』
その言葉がどういう意味か、すぐにわかった。
気遣ってくれているんだ。
『アスナ先輩と何があったか、私は知りません。なのですべて終わったら、この前こういうことがあったんだよと、笑ってお話してください』
「……ありがとう」
『お褒めの言葉も来週まで取っておいてください。では、これで。優秀なメイドはこうした心配りもできるのです。ぶい』
……電話は切れた。
「……アスナに、会いたい」
モモトークでも電話でもなく、直接会って話さないといけない。
でも、どこにいるかわからない。
アスナが行きそうな場所を必死に考えようとして、情けないことにぐぅと腹の虫が鳴った。
「……あそこにいたりしないかな」
近くにあったスーパーが目に入り、ひとまずそこを探してみることにした。
偶然にでも再会できたら、という淡い希望もあった。それに、ダメでも何か飲んで食べなきゃ、走って探し回ることもできない。
スーパーに入ると、陽気なBGMと冷房で冷えた空間が、暖かな蛍光灯の光を伴って出迎えてくれた。
ひとまず、まっすぐお惣菜とお弁当のコーナーに向かう。……何かが変だ。
(……? なんだか、雰囲気がちょっとピリピリしているような)
なんだろう。初めて入ったスーパーだからわからないけど、普段からこんな雰囲気なのだろうか。店員さんの様子にもどこか緊張感があるような。
妙な空気を感じつつ、お惣菜とお弁当のコーナーを目指した。到着してその雰囲気の正体が判明した。
「なんだぁお前ぇ……?」
「おいおい新入りだぜ、みんな」
「弱そうな方ですねぇ。これならばデータに加えるまでも無さそうです」
……なんかみんな怖い!
お弁当コーナーには、目をギラつかせたお客さんたちが何人もいた。全員が一瞬だけ私を見やるが、すぐに平棚に並べられたお弁当とお惣菜に視線を戻す。
不思議なことに、2割引きや3割引きのシールが貼られた商品には誰も手をつけていない。お手頃価格のお弁当も、ちょっとお高めなお弁当や豪華なお惣菜の盛り合わせも、誰も何ひとつカゴに入れていないのだ。
先ほど向けられた視線もどこか違和感があった。余所者の私を排除しようと睨んでいたのではなく、何かを待ち構えているような、そんな目つきに感じた。
異様な雰囲気に慄き遠慮しつつ、鯖の味噌煮弁当を手に取ろうとした直後、聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきた。
「先生。そのお弁当、もう少し待てば半額になるわよ」
「…………リオ?」
「正確に言えば、あと18分と29秒ね」
声の正体は、買い物カゴを手にしたリオだった。
「久しぶりね、先生」
「あ、うん。リオも元気そうでなにより」
「ラッキーね。今日は竜田揚げ弁当がまだ残っているわ」
「あの、リオ。どうしてここに?」
「何って……半額弁当を買いにだけど」
「前に、誰とも会わないための秘策がどうとか話をしてくれたような」
「郊外に近いこのスーパーにおいて、私が知り合いと遭遇する確率が0%というのは計算済みよ。……それに、美味しいのよ。ここの竜田揚げ弁当」
照れ隠しの表情をリオは浮かべていた。こんなところでリオに会うとは思ってなかった。
「リオ、ここにはよく来るの?」
「ええ。竜田揚げ弁当以外にも、お弁当はすべて逸品ばかり。お惣菜も大人気よ」
「そ、そうなんだ」
「先生はここに来るの初めてよね。これまで見かけたことがないし」
「ま、まぁね」
「……それなら、ここの『掟』をご存知ないかもしれないわね」
「掟? 何かルールがあるの?」
「えぇ」
リオが真剣な表情で話してくれた内容に、私は最初耳を疑った。
このスーパーでは半額シールが貼られる時間になると『半額弁当争奪戦』が始まるらしいこと。
この争奪戦に参加する者は『狼』と呼ばれており……。
以下略。
「……つまり、みんな半額弁当が欲しくて集まってるんだね」
「そういうこと。さぁ、そろそろ始まるみたいよ」
バックヤードと店内を繋ぐ扉が開き、1人の店員さんがやって来た。両手に半額シールの束を携えて。
「来た……来た……!」
「半額の神……!」
周囲の客たちの目が爛々と輝きを増していく。
始まるんだ。えっとなんだっけ。さっきリオが話してくれた『
店員さんは最後のシールを静かに貼り終えると、その場を後にした。
バックヤードの扉が閉まるのが、開幕の合図らしかった。
雄叫びと喧声を上げながら周囲の『狼』たちが弁当と惣菜に殺到しだした!
リオと私もすかさずその輪に入り……5秒。その時間で、すべて終わった。
「瞬殺だったね……」
「えぇ……」
人気のない夜の公園。街灯に照らされたベンチで私とリオはどんよりおよよと涙の反省会を開いていた。
目当てのお弁当を買えなかったから。
「鯖の味噌煮弁当……」
「竜田揚げ弁当……」
2人揃ってため息をつき、この手に収まっているはずだったお弁当に想いを馳せる。
残念ながら私がつまんでいるのは余り物のイカの天ぷら148円。
リオがしょんぼりとお箸を運んでいるのは梅干しシラス弁当198円。
そして2人分のミネラルウォーター500ml、各88円。
「衣、なんかべっちょりしてる……」
「シラス、ちょっと生臭い……」
売れ残っていた理由がうっすらわかった気がする。
「ところで先生はどうして、あのスーパーにいたのかしら」
「たまたま近くを通ったから」
「顔に書いてあるわよ。何かあったって。……私でもわかるなんて、相当よ」
梅干しの種をかき出しながらリオが尋ねてきた。
「あぁ、それはね……」
包み隠さず理由を話すことにした。リオだって生徒の1人だ。嘘はつけないし、つきたくない。
「なるほど、アスナが」
「うん。……アスナのあんな顔見たの、初めてだった」
彼女が去り際に見せた表情がフラッシュバックする。刺さって抜けない。
「先生とアスナが一緒にいる光景は想像しやすいわね」
「そうかな?」
「とても想像しやすいわよ。あの子、どうせいつも楽しそうにはしゃいでるでしょ」
「うん。……今、どこにいるのかな」
また、あの笑顔が見たい。頭の中に浮かぶのは、彩り豊かで様々なアスナの笑顔だった。彼女はいつだって笑顔だった。
その笑顔を、私は奪ってしまった。
「どこにいるかはさすがに見当がつかないわね。私も、あの子にリードをつけるのは早々に諦めてしまったわ」
「アスナ、前から自由な大型犬だったの?」
「大型犬……言いえて妙ね。その通りよ。あの子はいつだって自由で、1人で勝手にどこへでも行ってしまう子だった。正直なところ、いつも計算を狂わせる要因だったし、扱いに困っていたのが実情ね」
頭を悩ませる存在だと語るリオの表情は、言葉とは裏腹に優しげなものだった。昔を懐かしむような、そんな優しさがこもっている気がした。
「先生、この後なにか予定はある?」
「ない……いや、ある。アスナに会いたい。どこにいるかはわからないけど、会って今日のことを謝りたい」
「今すぐに?」
「……うん」
「そう」
そう言って、リオは黙々と目の前のお弁当をてきぱき食べ進めた。ご馳走様と小さく呟くと、独りごちるように話しかけてきた。
「先生が望むなら、私はやぶさかではないわ」
リオはおもむろに立ち上がると、すたすたと歩き始めた。
「リオ、どこに」
「ついてきて」
慌てて天ぷらを水で流し込んで、追いかける。こんな夜遅くにどこへ?
「リオ、いったいどこに行くの?」
「彼女との記憶を、先生は繋げられるかもしれない。すれ違ってしまっている過去を、事実の表と裏に繋ぎ合わせることができる場所」
「……?」
「アスナの記憶が本物だったと証明できるかもしれない」
どういうことだろう。私はただリオの後を追いかけることしかできなかった。
……そんなこと、本当にできるのだろうか。
リオが案内してくれたのは、空き教室を思わせる静寂な空間だった。
窓から月夜を思わせる薄明かりが入り込んできているが、外の風景を窺い知ることはできない。窓はどうやっても開けることはできなかった。
部屋の真ん中には机と椅子がひとつずつ鎮座していて、机の上にはかなり古い型のパソコンが置いてあった。
横倒しにされた本体の上に、ぶ厚いブラウン管モニターが乗っかっている。キーボードも年代物の配列だ。かつては綺麗な乳白色だったと思われるそれらは、年季が入ってすっかり変色してしまっていた。ケーブルの類は、一切見当たらない。電源コードすら。
……この場所は、ミレニアムの学園内じゃない。
ミレニアム郊外から先の区域外……廃墟と呼ばれている場所の一角。
知らなければ素通りしてしまうほど朽ち果てていて崩壊した建物跡の、その地下階を何階層も降りた先にあった。
(ここへ辿り着くまでの間、狭い通路でリオのお尻がつっかえてしまうハプニングが起きたりもしたけど、彼女の名誉のため詳細は伏せておく)
「廃墟にこんな場所があったなんて」
「……」
リオが黙り込んだまま、神妙な面持ちで机に近づいていく。
彼女がモニターに手をかざすと、パソコンが小さな電子音を発した。パッと明かりが灯った。どうやら起動したらしい。
「リオ、これはいったい。いや待って。そもそもこの部屋はなんなの?」
「……何から説明したらいいのかしらね」
「積もる話があるみたいだね。私なら何時間かかっても聞くよ」
「長くなるわ。日を跨いで朝になってしまうかも」
「構わない」
リオが椅子を引くと、ぎぃと床を擦る音が鳴った。彼女はそこに腰を落とし、ふぅと息を整える。
しばらくの逡巡の後、彼女は私と視線を合わせないまま話し始めた。
「先生はもちろん覚えているわよね。……私が起こしたあの事件を」
「覚えてるさ。みんなが無事で、本当に良かったよ。もちろん、貴女とトキもね」
「……あんなことをした私にも、先生は優しくしてくれるのね」
「当然だよ。キミだって生徒のひとりなんだから」
リオは胸ポケットからボールペンを取り出すと、ペン回しを始めた。
まったく上手く回せていなくて、何度も何度もやり直しつつ彼女は話を続けた。
「先生。要塞都市エリドゥの建設に必要だったものは何か、覚えているかしら」
「確か……莫大な費用だったはず。ミレニアムからの横領だと語っていたね」
「おかしいと思わない?」
「……どういうこと?」
「私ね、これでもセミナーのメンバーたちの能力を信頼しているのよ。ノアの絶対的な記憶力。コユキの暗号解読スキル。そして、ユウカの高度な数学理解と演算処理能力を」
もちろん他のミレニアムの生徒にも、誰かしら何かの強みがあるものよ、とリオは語る。どこか誇らしげなその表情には、傘下の生徒たちに対する確かな信頼が宿っていた。
「だからこそ、おかしいと思わないかしら」
何度目かのボールペン回しがもう少しで成功しそうなところで、リオが床に落とした。拾いながら、話を続ける。
「優秀なユウカの目を掻い潜って、どうやって私は資金を横領できたと思う?」
「……あっ」
言われてみればそうだ。ユウカは詰めの甘いところもあるけど、職務に対しては常に熱心だし、ましてや得意の会計処理に関して何かを見落とすことなんてあり得ないはずだ。
「たとえ私でも、システムに侵入した痕跡を完璧に消し去ることはできない。どれほど上手く隠蔽できたとしても、あの子の目を誤魔化すことは、そう容易いことじゃない」
「じゃあ……どうやったの?」
リオはペン回しを諦め、キーボードの横に置くと椅子から立ち上がった。
「これを、使ったのよ」
リオが指差したのは、この空き教室で唯一存在感を放っている、古いパソコンだった。
「先生。これはただのパソコンじゃないわ」
ほんのわずか、リオの表情に躊躇いがあった。でもすぐに消えた。
「これはね、タイムマシンなのよ」
「タイム、マシン……?」
「指定した過去に、5分間だけ時間遡行が可能な装置よ」
オウム返しになってしまったのも無理はなかった。
タイムマシン。……タイムマシン?
漫画でしか読んだことがないが、どんなものかは知っているし、どの作品でも基本的な機能は皆同じだった。
すなわち、過去や未来に自由に行き来できる装置。
でも、実現が不可能な装置でもあったはずだ。理論的にも技術的にも、だ。
理解できず固まっている私に、リオがつらつらと続けていく。
「先生、私はね。この装置を起動して、5分間だけ過去に飛んだの」
「時間遡行をしたタイミングは、ユウカがセミナーの会計に正式に就任する前日」
「過去に戻った私は、当時の会計システムに細工をした。私が特定の手段でアクセスした時だけ、セキュリティや監査システムが検知できないようにね」
……???
「順を追って話すわね」
「私が設計した『アルゴリズム』はミレニアム内部のシステムの監視や隠蔽はもちろん、リソース抽出も可能な最高のシステムだった」
「でも、他のプログラムそのものを書き換える術だけは備わっていなかった。必要があればその都度、私自身の手で書き換えてしまえばよかったから」
「会計システムには独自のセキリュティを張り巡らせてあった。私がどれだけ高度なハッキングを行っても、会計担当者と会計システムの監視網を潜り抜け続けようとする限り、いつか発覚してしまうリスクが残っていた」
「そのリスクを消すために、ユウカが引き継ぐ前のシステムに細工を施したのよ。彼女は正常に動作するシステムを引き継いだと思っていたから、欠陥そのものを疑うことができなかった」
「それから私は誰にも気づかれないまま費用を捻出し、要塞都市エリドゥの建設を実現した。構築途上だった『アルゴリズム』も、この時間遡行によって完成された。資金面の問題をクリアして、あとは計画を実行段階に移すのみになった」
「……これで完璧のはずだったのよ」
えーっと……?
横領の手口よりも、最初に聞かされた情報が頭から離れない。
タイムマシン? 過去に飛んだ?
理解が追いつかない。
「ちょ、ちょっと待ってリオ。いったん整理させてほしい」
「えぇ、いいわよ」
いったん、頭の中で疑問をひとつずつ整理してみる。リオがアルゴリズムと呼ばれる何かしらでミレニアムを掌握していたのは、エリドゥの一件もあってなんとなく理解できる。
わからないのは、この古いパソコンに関することばかりだ。
本当にこの古いパソコンは、タイムマシンなの?
飛べるのは過去だけなの?
どうして5分間だけなの?
……わからないことが多すぎる。
「これ、本当にタイムマシンなの?」
「本当よ」
「……本物、なんだね?」
「えぇ、間違いない。このパソコンはタイムマシンとして機能することを確認済みよ」
リオは眼差しをまっすぐ私へと向けた。……嘘を言っているとはとても思えない。
「聞きたいことは山ほどあるけど、ひとつ確かめておきたいことがある」
「何かしら」
「リオが話してくれたその横領の手口、なんか回りくどくない?」
「……どうしてそう思うのかしら」
「リオらしくないなと思う。貴女は合理を何より重んじていたはず」
「そうね。私は極めて回りくどい、非効率的な手段を選んだ」
リオは自嘲気味に笑った。
そう、回りくどいのだ。仮にタイムマシンを使って過去を変えられるとしても、もっと別の、もっと直接的に介入できる手段をリオならいくらでも考えついたはずだ。
合理を第一に考えるリオのことだ。簡潔に実行可能で、最も効率的な手段を選ばない理由がわからない。彼女が説明した方法は、非効率的で非合理的な、彼女らしくない選択にしか思えなかった。
「理由を話す前に……先生は、タイムマシンについてはご存知?」
「うん。漫画でしか読んだことがないけど」
「では、時間遡行の最大の利点もご存知かしら?」
「過去を変えることによって、結果として未来も変えることができる、でいいのかな。……作品によっては、過去改変は禁忌にも等しいって設定だったよ」
「そうね。私も同意見よ。利点があれば、必ず欠点も存在する」
リオは机に両手をつき、項垂れた。
「過去を変えることは、未来のすべてを変えてしまうのに等しい重大な行為。過去の事実を変えてしまう行為には、重大な危険が伴う」
「でも、貴女はこの装置を起動した」
「えぇ」
「……理由は、キヴォトスを破滅の未来から救うため?」
「そうよ」
リオの試みは既に失敗に終わっている。アリスは1人の生徒として健在で、魔王に変貌してしまうような未来が訪れることはないだろう。
箱舟も消失した。
キヴォトスに破滅の未来が訪れることは、少なくとも当面の間起こらないはずだ。
「最初のうちはね、私も様々な方法を模索したわ」
「例えば、どんな」
「いくつもよ。……ひとつ挙げるなら、ゲーム開発部より先回りしてのアリスの回収と、ヘイローの破壊」
「……でも、貴女はそうしなかった。いったい何故?」
「したくても、できなかった」
リオは小さな声で「実行しなくて正解だった」と呟き、説明を再開する。
「このタイムマシンの起動には、ある条件を満たさなければいけないことが判明しているわ」
リオが再びペンを手に取り、また回し始めた。深呼吸して回したが、失敗した。
「使用者が願うだけではなく、この装置からも『必要と判断した』と理解されなくてはいけないということよ」
「……ご、ごめんリオ。もう少しわかりやすくお願い」
「実際に見てもらったほうがわかりやすいかもしれないわね。例えば、先ほどの半額弁当争奪戦で、私がどうしても竜田揚げ弁当が欲しかったとしましょうか」
「そんなに食べたかったんだ、竜田揚げ弁当」
「……試してみましょうか。成功なら、モニターに変化があるはず」
リオがキーボードのEnterキーを押すと、しばらくしてメッセージが表示された。
『認証確認……』
『申請却下。整合性補強の必要性を感知できません』
「ダメね。起動しない」
「えっと……?」
「つまりよ、先生。私とこの装置、双方の意見が一致しなくてはいけないの。私が必要だと判断した事柄を頭に思い浮かべながらキーを打ち込んでも、装置も必要だと判断してくれなければ時間遡行は実行されないの」
「……ねぇリオ、貴女もしかしてこのタイムマシンのこと、かなり詳しい?」
「いいえ、全然。私が知っているのは『過去に戻れる時間は5分間だけ』『双方の判断一致が必要らしいこと』の2点だけよ」
リオですら、この装置を完全に解析できていないらしい。
「……私は便宜上タイムマシンと呼んでいるけれど、もしかしたら本質は全く違う可能性だって残ってる」
「だよね。デカグラマトンの預言者と関係してる可能性もありそうだけど……」
「私はその可能性は薄いと考えているわ。この装置が仮に預言者の一体だとすると、自律的に行動することなくこの場所にずっと留まっている理由が不明よ」
リオも関連性を確かめるために何度か試したものの、反応はなく、阻止目的の時間遡行もすべて却下されたと話してくれた。
あと、リオのペン回しはやっぱり成功しない。いいところまではいってるんだけど。
「……長くなってしまったわね。先生にひとつ質問をさせてちょうだい」
「うん、どうぞ」
「アスナの記憶が事実だと、本当に確かめたい?」
「当然だね」
「……驚いた。即答は予想外よ」
「大事な生徒から笑顔を奪ってしまったんだ。……私には、取り戻さなくちゃいけない義務があるんだよ。それに」
「それに?」
「私は過去を変えたいんじゃないんだ。彼女の記憶を、事実にしたいんだ」
私は椅子に座った。モニターからは先ほどのメッセージが消えており、何も表示されていない。
「先ほど話したけれど……かなり得体の知れない装置よ、これ」
「きっとこれを使わなければ、アスナとの記憶の食い違いはこれからもずっと続く。それは、アスナがずっと悲しむことと一緒だ」
「…………ここで先生を止めるのは、非合理的とかそれ以前の問題のようね」
「リオも同じ考えだったりしないかな」
「と、言うと?」
「貴女もアスナに笑顔が戻ることを願ってる。そうじゃなきゃ、こんな場所までわざわざ案内してくれてないはずだよ。それこそ説明がつかないと思う」
「……大事なミレニアムの生徒だもの」
リオの表情には、言葉以上の感情が宿っているような気がした。リオはそれ以上深く語ることはなく、私もそれ以上を求めることはしなかった。
私とアスナはまだ知り合って日が浅いけど、リオとアスナは1年生の時からの付き合いだ。
今日までの過去を振り返って、何か思うところがあるのだろう。
「使い方の説明をさせてちょうだい。Enterキーを押しながら、ただ願うだけ。簡単よ」
「わかった。やってみる」
リオに言われた通りキーボードのEnterキーを押す。
願いは当然ひとつ。
『アスナの記憶が正しいことを証明する』
キーを押すと……モニターに変化があった。
『認証確認……申請受諾』
『整合性補強プロセスを開始』
『システム起動』
……成功した? どうやら、意見が一致したらしい。
しばらくすると、%表記も追加された。現在14%。この調子だと、もうしばらくかかりそうだ。
「もう後戻りはできないわよ、先生」
「戻る気なんてさらさらないさ」
「……待ってる間、もう少しだけ私の話を聞いてもらえないかしら」
「いいよ。今日のリオ、なんだかお喋りだね」
「ふふ。飢えてるのかもしれないわね。ああ、私らしくない」
冗談めかしながら、リオがぽつぽつと話し始める。22%。
「……私は、取り返しのつかないことをした」
「セミナー、C&C、エンジニア部、ヴェリタス、そしてゲーム開発部……ありとあらゆるミレニアムの組織と対立した」
「ただ、世界を救いたかった。どれだけ独善的でも、どんな犠牲を払っても、滅びる運命を打ち破りたかった」
51%
「……失敗に終わった。でも、世界は滅びなかった。犠牲者も出なかった」
「世界を救う責務を背負おうとして阻止されたばかりか、私の行動そのものが間違っていたことが証明されてしまった」
67%
「ひょっとすると、私の行為が失敗に終わることは確定していたのかもしれない」
「……失敗に終わった以上、人前に出る資格がないと思ったわ。私にはもう、誰も導く資格がない。表の世界にはもう戻れないと」
でも、今こうして貴女は私の手助けをしてくれている。
それに、箱舟との決戦にも来てくれた。
「すべて些細な手助けに過ぎないわ」
「こうして先生を手助けするのも、罪滅ぼしになっているかもわからない」
「それに……真に世界を救ったのは、アリス。……私が世界のために排除しようとした彼女が、この世界を救ったのよ」
あの時アリスは貴女を心から許してくれていたよ。ミレニアムの皆も。みんな、貴女に戻ってきてほしいと願っている。
みんな、貴女が必要だからじゃない。友人だから戻ってきてほしいと願ってるんだよ。
「……こんな私を、皆はまだ友人だと言ってくれるのね」
「でも、私が引き起こしたことは、ただ謝るだけで許されていいものじゃない」
「簡単には洗い流せない罪よ」
「……ヒマリが私を例えるのにやけに下水道にこだわっていたのって、そういうことなのかしらね」
「合理的と判断すれば、手を染めることも厭わない私にぴったりだもの」
「今の私をヒマリが見たらなんて言うかしら。……それ以前に、会ってくれるはずがないわね」
貴女から話せば、彼女なら応えてくれるはずだよ。きっと今、貴女に一番会いたいと思っているのはヒマリだから。
「……そんなこと、ありえないわ。それに、自信もない」
ヒマリと距離を感じてしまうのは、彼女も貴女との関係性をどう修復すればいいのか悩んでいるからだよ。
「…………85%。もうそろそろよ」
いよいよだね。
「……ねぇ先生、こんな言葉を思い出したわ。個人の運命に踏み込むということは、その個人の人生の行方を自ら支えることの宣言に他ならない、という言葉よ」
それは、誰の言葉?
「ヒマリよ。天才美少女は情緒的で文学的でもあらなければならない、なんて言っていたわ。……彼女らしいわね」
なんだか素敵な言葉だね。
「先生、わかっているのかしら」
うん?
94%
「……鈍感なところ、先生の唯一の欠点なように思うわ。私でもわかるくらいだもの」
「だからハッキリ言うわね」
97%
「私、結構好きよ。先生のこと」
リ、リオ!? 急に何を、
「幸運を祈るわ、先生」
99%……100%
モニターの光が急激に強まり、その光に私は包まれた。
眩しさで周囲が見えなくなる直前、リオは笑顔を浮かべていた。
最後に見た光景は、彼女のペン回しがこの日初めて成功している場面だった。
……気がつくと、私は地面に横たわっていた。
起き上がるとそこはどこかの歩道で、周囲にはビルが立ち並び、多彩なネオンが街の雰囲気を彩っている。どこかの繁華街だろうか。
周りを歩く人々が訝しげな視線で私を見つめながら通り過ぎていく。ひとまず起き上がると……なんだか、妙に肌寒い風が吹いている。
先ほどまで蒸し暑いくらいだったはずだ。首元から寒風が入り込み、ぶるりと体が震えた。
今、いつだ?
スマホで日付を確認しようとしたが、どのポケットを探しても見つからない。持ち物を改めて確かめたところ、スマホどころかタブレットも何もかも、何故か手元から消えていた。
代わりに、腕に時間表示だけが記された簡素なタイマーのようなものが装着されていることに気づいた。いつの間に?
『5:00』
……リオが話していた5分の時間制限のことだろうか。どういうわけか、そこから時間が進まない。まだ自由に行動して良いということなのだろうか。
わからない。リオですらたった2、3個の事実しか知り得ていない装置の謎が、私にわかるわけがない。
ひとまず情報が必要だ。今は、何月の何日なんだろう。
近くにコンビニがあったので入り、適当な夕刊を広げて日付を確認した。
「……あの日だ」
季節は春先。
日付は、アスナが話してくれた『私から運命的な言葉を告げられた日』と同じだった。
時刻は20時30分を少し過ぎたあたり。すぐにコンビニを出た。タイマーを確認したが、『5:00』という表示のままだった。
あてもなく、私はミレニアムの街中を歩く。地下街の地上出入口には数字の割り振りしかなく、地名まではわからない。
アスナの姿も一向に見当たらない。
彼女が行くとすれば、どこだ?
「……そうだ、言ってたじゃないか!」
アスナが話してくれたことを、私はようやく思い出した。
『街並みに広がる夜景とか、向かいのビルの展望デッキとか、ずっと遠くに見える観覧車とか──』
……探すのは地上じゃない。上だ!
近くの街案内の電光掲示板へ駆け寄る。大きなスクランブル交差点と街の名前から、ここが春葉原の隣にある繁華街だとわかった。
次は観覧車の位置。周辺には見当たらなかったが、地図の端まで目を走らせると、DU地区の外縁部に近い人工島の案内に「大きな観覧車がある」と小さく記されていた。
遠くの観覧車。向かいの超高層ビル。そして、夜景を見渡せる屋上。
手がかりを重ね合わせながら地図を追う。
47階建ての超高層ビルが目についたが、違う。アスナが眺めていたのは、その高層ビルの方だ。
なら――。
「……ここだ」
スクランブル交差点の向こうにある7階建ての商業施設。案内には「よく晴れた日には最上階から港の観覧車が見えるかも」と添えられている。
ここなら全部の条件が合う。しかも、歩いてすぐだ。
顔を上げる。交差点の反対側、その先に大きなビルがそびえ立っていた。あそこだ!
屋上は閉鎖されているかもしれない。でも、アスナなら容易に辿り着けるはずだ。
すぐに行こう。そう思った時、突然小さな電子音が鼓膜を揺らした。
『4:59』
『4:58』
「……今から!?」
タイマーが無慈悲に減っていく。もう時間をかけていられる余裕はない。
目当てのビルはスクランブル交差点の反対側だ。だがすぐの場所なのに、よりによって今は赤信号が灯っていた。
信号待ちの時間さえ惜しいのに!
信号が青に変わってすぐ、交差点を風のように駆け抜けてゆく。いきなり思わぬ時間を使ってしまった。タイマーを見ながら走る。
『2:47』
信号待ちってどうしてこんなに長いんだ!
内心焦りながら、走って目当ての商業施設を目指した。入口の回転扉を突き抜けるようにくぐり、慌てる店員さんの静止を振り切って閉じかけていたエレベーターに飛び乗ろうとしたが、目の前で閉じてしまった。他のエレベーターも戻ってくるまで時間がかかりそうだ。時間がない。待ってる余裕なんてない。
上に行く方法は……エスカレーターが目に入った。迷わず向かう。事情を知らない人を何度か避けて、駆け上がっては折り返し、また駆け上がって……無事に最上階まで登りきることができた。人が少ない時間帯で良かった。
でも、最上階は屋上ではなかった。基本的にこの手の施設の屋上は閉鎖されているけど、やはりここも例外ではなかった。
『1:22』
屋上へ行くには……辺りを見渡すと、関係者以外立ち入り禁止の看板が目に入った。あそこからなら……!
スタッフオンリーと書かれた扉をいくつも通り過ぎ、このさき高電圧注意の表示も無視して階段を登って屋上へ向かう。
一心不乱だった。あとは彼女がこのビルの屋上にいるのを祈るしかない。
(…………いた!)
息を切らして屋上へ辿り着くと、アスナがフェンスにもたれかかっているのが見えた。
いた。いた! アスナがいる!
今日シャーレに来た時と服装が違う。メイド服ではなく、制服を着ている。
彼女は私に気づいていないらしく、ぼんやりと夜景を眺めていた。
……一瞬だけ見えた彼女の表情は、見たことがないほどつまらなさそうに映った。
暇を持て余していて、何も楽しくない。そんな表情。
ここからでも小さく映る観覧車の賑やかな明るさとは、対照的だった。
(そうだ、時間は……)
『0:50』
『0:49』
残り1分を切っていた。もう迷っていられない。今は1秒だって惜しい。
「……アスナ!!!」
私は大声で叫んだ。
声に気づいた彼女が、びっくりした様子でこちらを向いた。
誰?何があったの? そんな表情だったが、説明している時間は残されていない。
思い出せ、私。アスナは、私がこの時なんと言ったと話してくれた?
ひとつひとつ思い出しながら、思い出した順にとにかく叫ぶ。
「一緒に楽しい世界を探そう、アスナ!」
「アスナの笑顔は最高に素敵なんだ! アスナには笑顔が一番似合う!」
「アスナはメイドさんだから、私のことはご主人様って呼んでほしい!」
「だって、その方が楽しいと思うから!」
「私と一緒に楽しい世界を探そう!」
「いつでも来て! シャーレで待っ――」
てる。
言い切るより先に、甲高い電子音が鼓膜を一瞬だけ貫いた。
世界がぐにゃりと歪み、次の瞬間には視界が完全に暗転した。
タイムリミットらしい。
急速に意識が遠のいていく。
伝わったかな、アスナに。わからない。
アスナ、最後まで、不思議そうに、驚いて…………。
……………………。
暖色の蛍光灯。
陽気な店内BGM。
お客さんが引いてるカートの車輪音。
気がついた時には、見覚えのあるスーパーのお弁当とお惣菜のコーナーに私は立っていた。
……戻ってきた?
でも、どうして場所がここなんだろう。
出発した場所に戻るとすれば、廃墟の地下に現れた月夜の空き教室のはずで、そこにリオもいるはずだ。
それに時間は、今いつ……まだ半額になっていない商品を睨みながら、独特の雰囲気を醸し出している『狼』たちがいた。
もうすぐ半額の時間みたいだ。
持ち物は……良かった、スマホもタブレットも、他もすべて手元に戻ってる。
でも、このスーパーでリオと偶然出会った日とは違う可能性も、
「先生。そのお弁当、もう少し待てば半額になるわよ」
……どうやら、今日リオと再会したのと同じ場所、同じ時間に戻ってきてしまったらしい。
「そうね。正確に言えば……」
「あと18分と29秒、だよね」
「……驚いたわ。先生、このスーパーにはよく来ているの?」
「いや、初めてだよ」
「そうよね。先生とここで会ったことなんて、これまで一度も」
リオはひどく驚いていた。
「半額弁当の争奪戦が行われてることは知ってる」
「あら、下調べはバッチリのようね」
「ううん、違うよ。貴女が教えてくれたんだよ、リオ」
「私が……?」
リオはすっかり混乱していた。
「詳しいことはまた機会があれば話すよ。とにかくありがとう、リオ」
「せ、先生、帰ってしまうの? ここに来たのなら、お弁当か何かを買いに来たんじゃないのかしら」
「そのつもりだったけど……今、すごく会いたい人がいてね」
「そういうことなら止めはしないけど……」
『私、結構好きよ。先生のこと』
「その前に、リオにひとつだけ伝えておかなきゃ」
「何かしら?」
「みんな、貴女が帰ってくるのを待ってる」
セミナーも、ヴェリタスも、C&Cも、エンジニア部も、ゲーム開発部も。それ以外のみんなも。ヒマリだって、きっと。
「え……?」
リオはすっかり固まってしまっている。急にどうしたというのかしら。そう言いたげな表情だ。
「まだ帰る決心がついてなくてもいい。でも、良かったら一度くらい顔を見せてあげて。私は元気にしてるって」
「まだ私がそうしていい時期だとはとても思えないのだけど……」
「貴女は、自分が合理と打算だけで生きてきたと思ってるかもしれない。でもね」
時間遡行の前。空き教室で、ミレニアムの生徒たちの話をしていた時のリオの表情は。
「大丈夫。それでも、貴女のことをみんな慕ってる。信頼も」
リオは何か言おうとして、結局何も答えなかった。
バックヤードから半額シールを携えた店員さんが出てきた。そろそろ行かなきゃ。
「じゃあね、リオ。またいつか。次に会う時は竜田揚げ作って持ってくよ」
「え、えぇ。またいつか……?」
手を振って、リオに一旦の別れを告げてその場を後にした。
これからリオと会う機会はまだまだあるはずだ。だから、またいつかだ。
「……夏の夜って感じだなぁ」
スーパーから外に出て、思い切り息を吸い込んで、ゆっくりとしぼませていく。
温い空気が肺いっぱいに広がって、季節を存分に味わった。
戻ってきたんだ。今日に。
「……今日もそこにいてね、アスナ」
いつもならネオンの光の向こう側でこっそり輝いているはずの星が、今夜はやけにハッキリ見える。
目的地を一直線に目指して、私はゆっくりと駆けて行った。
→0
──先生と初めて出会ったのは、ミレニアムの最上階。夜の暗い差押品保管所の前。
ここで待ち伏せていれば会えるかも、という私の直感は当たっていた。
初見の印象は思っていたより、ううん、正直に言っちゃうと、噂ほどじゃないかなって感じだった。
モモミドちゃん2人と戦ってる時間の方がよっぽど楽しかったな。
アリスちゃんの光の剣でぶっ飛ばされちゃった時なんか、もう最高だった。こんなにもワクワクさせて驚かせてくれるなんて、すっごく楽しいなって。
……クエスト?を完了したって盛り上がっているゲーム開発部のみんなを、瓦礫に埋もれながらぼんやりと眺めてたあたりで記憶が混線しちゃってる。あーあ、楽しい時間もう終わっちゃったなって、確かそんなことを思ってた気がする。
そんな時だったかな。先生の表情が、やけに輝いて見えたのは。
夜空に浮かぶ一番明るいお星様みたいに、笑顔を浮かべてるあなたが眩しく見えたんだ。
私がよく覚えているのは、いつだって楽しい時間のこと。
それ以外――暇な時間がずっと続くと、その間の記憶はいつもぼんやり抜け落ちてしまっている。
ハッキリ言えないのは、本当にぼんやりとしか覚えてないから。その時の私は、私じゃないみたいになってる……らしい。
楽しい時間とそれ以外を比べたら、多いのは圧倒的にそれ以外のほう。
楽しい時間はいつもあっという間。ペットボトルの水を全部出しちゃうみたいに、すぐ終わる。
私、自分で名付けたはずの銃の名前の由来もよく覚えてないんだよね。
その時の私、楽しくなかったのかな。どうなんだろう。思い出せないや。
……だから、楽しい時間がずっと続いてほしいって、私はずっと願ってる。
願掛けってわけじゃないけど、いつだったかも忘れちゃった占いでラッキーカラーに選ばれた水色のリボンを、ずっと身につけてる。
良いことが起きますようにって。
……直感はよく当たるのに、占いは幸運以外は全然だなって、ガッカリして。
だから、あの日に起きた出来事だけは今でもずっとハッキリと覚えてる。
あの日、私はビルの屋上(本当は入っちゃいけないみたい)でぼんやり夜景を眺めてた。
賑やかな街並みとか、遠くの観覧車とかを眺めながら、昨日みんなで食べたラーメン美味しかったなーとか、次はいつどこに行こっかなー、とか。
たぶん、あの人が来なかったら、この日のこともきっと忘れちゃってたと思う。
先生が突然、私の前に現れた。
『一緒に楽しい世界を探そう、アスナ!』
『アスナの笑顔は最高に素敵なんだ。アスナには笑顔が一番似合う!』
『アスナはメイドさんだから、私のことはご主人様って呼んでほしい!』
『私と一緒に楽しい世界を探そう!』
『いつでも来て! シャーレで待っ――』
最後だけ、ちょっぴり聞き取れなかったけど。でも、衝撃的だった。
すっごくすっごく、印象に残ってる。
すっごくすっごく、なんて言うのかな。そう、脳裏に焼き付く、だっけ。うん、焼き付いちゃってる。
すっごくすっごくすっごく……先生のことが、ううん、違うな。
そう、ご主人様。あの日からずっと、私は先生のことをそう呼んでる。
ご主人様のことが、すっごく気になっちゃったんだ。
あそこまで言ってくれる人なら、この人となら、ずっと楽しい時間を過ごせちゃうかもって。
その通りだったね、ご主人様。
私、あなたと一緒にいる時はすっごく楽しかったんだよ。
あの日の言葉をずっと大事にしながら、あなたと過ごせる時間を毎日毎分毎秒、噛み締めてたんだ。
楽しかった。すっごく楽しかった。
「……本当に楽しかったんだよ。ご主人様」
運命だと思ってた。
……そのはず、だったんだけどなぁ。
私は今日また、あの日のようにビルの屋上(やっぱり入っちゃダメらしい。こんなにいい場所なのにね)でぼんやり夜景を眺めてる。
楽しかった日々も、どうやらおしまいみたい。
ご主人様があの日のことを全然覚えてないって言ってたから。全然記憶にないんだって。ぜーんぜん。
……私だけだったんだなぁ。舞い上がっちゃってた。私にとってどれだけ大切な思い出でも、あんな風に突然目の前に魔法みたいに現れても、それでも言ってた本人が覚えてないことってあるんだなって。
「……嘘、ついちゃったな」
今日、シャーレから帰る時、ご主人様に嘘ついちゃった。トキちゃんと任務があるって。
……ついたことがないの、密かに自慢だったのになぁ。ご主人様になら全部ぜーんぶ、明け透けにしちゃっても良いよねって、そう思ってたはずなのに。
遠くに見える港の観覧車は、今夜はぼやけた輪郭してる。
水色リボンをかざしてみても、何にも起きない。
もう、ラッキーアイテムじゃなくなってるのかな。
星空に手を伸ばしても届かないように、ご主人様もこれからどんどん遠い存在になってしまうのかな。
そう思ってた時だった。
「アスナ」
後ろから名前を呼ばれて、振り返る。
「……ご主人様?」
奇跡なんて、もう起きないと思ってた。
違った。
運命の車輪の回る音が、もう一度聞こえた気がした。
0→
「アスナ」
夏の夜空の下、風にたなびくプラチナブロンドの長い髪。あの時と違って制服ではなくメイド服だけど、その姿は間違いなくアスナだった。
ぼんやり浮かぶ夜景と港の観覧車を背景にした彼女の姿が、なんだかやけに懐かしく思えた。
「……ご主人様?」
アスナは、あの日と同じように驚いた様子で私を見つめている。
表情は違った。つまらなさそうにしていたあの時と違って、何かに期待しているような。瞳に、希望が宿っている気がした。
「本当に、ご主人様なの?」
「うん。本物だよ」
「どうして、来てくれたの? ううん、どうしてここにいるってわかったの?」
「それは……」
過去に遡ってあなたと出会ったからと言おうとして、やめた。
彼女には事実をただそのまま伝えるより、もっと驚きとワクワクのエッセンスを加えて伝えた方がずっと良い。
私は、そのことを知っている。あの日初めてシャーレにアスナが来た時から、ずっと。
「ここに来たら、アスナに会えるかなって。あの時みたいに」
「……覚えてないんじゃなかったの?」
「もう、覚えてる」
「忘れたんじゃなかったの?」
「忘れるわけがない」
忘れるわけがない。もう、忘れられるわけがない。
「アスナ」
「うん」
「私と一緒に……もう一度、楽しい世界を探しに行こうよ」
「……うん」
「アスナの笑顔、私は大好きなんだ。最高に素敵だ」
「……うん」
「また、シャーレに来てくれるかな」
「……うんっ!」
アスナが駆け寄ってきて、私に飛びついてきた。もう離さないと言わんばかりの力強さで、私を思いっきりぎゅーっと抱きしめる。
「ご主人様、ご主人様!」
「う、うん。あの、もうちょっと緩く抱きしめるのってできる?」
「やだ! もう絶対離さない! ずっとずっとご主人様とこうしてるの!」
アスナは満面の笑みで答えた。
アスナにまた笑顔が戻ってきた。それが私にとって一番嬉しかっ待って待ってちょっとちょっと抱き潰される勢いになるのは聞いてないよアスナ!! アスナ? あのちょっとアスナ? アスナちょっ、やめっ、あ゛っやわらかい!!!
──後日。シャーレにて。
8月が終わりを迎え、9月に入った途端涼しい季節がやって来た。あと一週間早く涼しくなってくれていれば、8月をこんなに恨むこともなかったのに。
今日は冷房をつけなくてもいいくらいの気温で、そろそろ散歩に出かけたくなる季節が近づいてきている。
「ご主人様、できた?」
「うん。はいこれ、アスナの分ね」
「ありがとう! あ、ビスコフだ! これコーヒーと相性良くて好きなんだー」
「おいしいよね。でもごめんね、飲み物がインスタントコーヒーで」
アスナと過ごす、いつもの日々も戻ってきた。
「この前、珍しい紅茶を持ってきてくれたのに」
「ぜーんぜんいいよ! ご主人様が淹れてくれるのならなんだって好き! お菓子も全部好き!」
「アスナはなんでも好きだね」
「んー、なんでもってわけじゃないよ。でもね」
えへへ、とアスナが笑う。
「大好きな人と一緒なら、どんな時間だって特別になっちゃうよ」
[エピローグ]
──また後日。ミレニアム某所
「リオから連絡なんて珍しいよね〜」
「そうかしら」
リオとアスナは、とある有名チェーンの喫茶店で相席していた。
「カフェで頼みすぎちゃったから助けてほしいなんて、リオからそんな連絡来るなんて思わなかった!」
「……知らなかったのよ。えびカツサンドがこんなに巨大だなんて」
「だからって2つも頼んじゃうなんて、お腹ぺこちゃんすぎない?」
「ぐっ、言い返せない……そっ、そのニヨニヨした表情やめなさい」
「えへへ、やめなーい」
その喫茶店はとにかくデカ盛りサイズでメニューを提供していることで有名なのだが、リオは今回が初見プレイだった。
そして初見プレイ特有の『逆写真詐欺』の罠に見事に引っかかってしまったのだった。
「私がたまたまお腹空いちゃってて良かったねー。2度目はないよ〜?」
「……ありがとう、アスナ」
「えっ、リオがお礼言った!? 明日は雪かな」
「失礼ね。私だってお礼くらい言うわよ」
「リオ、なんか変わったね」
「そうかしら」
「変わったよー。だってリオ、昔は必要最低限のメッセージしか送ってこなかったじゃん」
「あなたこそ、いつも今話す必要のないことばかり送ってきてたじゃない」
「必要だからとかじゃないよー。楽しいと思って送ってたの!」
えびカツサンドに美味しそうにかぶりつくアスナを見ながら、リオは考える。まだ自分とアスナと、それからネルが1年生だった頃。
C&Cを結成して間もない、楽しかった頃のことを。
「……そうね。まぁ、楽しかったことにしておいて」
「でしょ?」
「アスナも、少し変わったんじゃない? シャーレの先生のおかげかしら」
「んふふ、まぁね! 今度ご主人様と午前2時に天体観測しに行くんだー。……あれ?」
「今度は何かしら」
「私、リオに先生のこと話したことあったっけ?」
「だってそれは……あれ、おかしいわね」
リオは頭を捻った。シャーレの先生とアスナの仲の良さを、私はどうして知ってるのだろうか。知ることのできる機会はこれまでなかったはずだ、と。
「まぁいいや。興味あるならリオも来ない? 秋の夜空ってすっごく綺麗だよ〜」
「遠慮しておくわ。2人の時間に割って入るなんて、野暮だもの」
「……リオが遠慮してる!? それに、野暮!?」
「そんなに驚くことじゃないでしょう」
「今までのリオなら『合理的に考えてその選択肢はないわね』みたいな言い方してたもん」
「ちょっと似てるのなんか腹立つわね……」
変わった自覚は、リオにはない。
だがなんとなく、エリドゥ以前と今の自分は違うかもしれないと感じている。
「ねぇリオ。もうミレニアムには帰ってこないの?」
「当分ないわね」
「ふーん、帰ってくるつもりはあるんだ」
「……迷惑でしょう。あんなことした私が復帰なんて」
「そんなことないよー。私は歓迎。みーんな、リオが帰ってくるの待ってるよ。ネルちゃんもヒマちゃんも、きっとね」
「……ネルに会ったら、きっと凄い剣幕で怒られてしまうわ」
「友達だから怒るんだよ」
「ただの、利害関係よ」
「じゃあヒマちゃんは?」
「…………ただの経営パートナーよ。元、ね」
明星ヒマリ。リオは彼女とアリスの処遇を巡って最後まで対立姿勢を崩さず、関係は破綻した。
その結果、エリドゥ事件へと繋がっていった。
「今日みたいなリオを見たら、2人もきっとびっくりしちゃうよ」
「そうかしら」
「そうだよー。あ、でもひとつだけ言わせて」
「何かしら?」
「ヒマちゃんね、口ではああ言ってるけど、リオのことそこまで嫌いじゃないと思う」
「……そうかしら」
「昔、親友だったんでしょ? そういうのって、そんな簡単になくならないんじゃないかな」
リオは反論しようとして、言い返せなかった。
ヒマリとの過去の思い出が、言葉を飲み込ませた。
「あー、お腹いっぱい! そうだ、お代は」
「さすがに奢る」
「やったーありがと、ご馳走様! じゃあまたね、リオ」
「えぇ、また」
ぱたぱたとアスナは店を出て行った。
えびカツサンドはすっかり平らげられており、残ったのは一緒に頼んだアイスコーヒーだけ。
ひと口啜ってから、リオは天井を見た。暖かみのあるシーリングライトが目に映る。屋内で、今は昼だ。当然、星は見えない。
「…………」
ぼやっとしながら、リオは天井を眺め続ける。
何を考えるでもなく、何もせずただ時間を浪費するなんて、以前の彼女なら考えられなかったことだ。
「……プラネタリウム、ヒマリは興味あるかしら」
星を見に行こうと誰かを誘ってみようかな、と浮かんだのも、リオにとって初めてのことだった。