志岐編 1
金がない。
それは志岐にとっては、今さら驚くような事実ではなかった。
問題なのは今回は本当にないということだった。
「……世の中、まともな仕事ってのがねえのかね」
グランバートにある大きな町キーリル。
昼を少し過ぎた酒場の片隅で、志岐はテーブルに頬杖をつきながら心底うんざりしたように呟いた。
目の前には一枚の紙。
宿の主人から渡された仕事の一覧だった。
荷運びに倉庫整理。
商店の店番や街道の補修。
農園の収穫手伝い。
どれも真っ当な仕事である。
そして志岐はそのすべてに難癖をつけていた。
「荷運びは腰をやる。 倉庫整理は埃っぽい。 店番は一日中同じ場所にいなきゃならねえ。 道直すのは俺じゃなくてもできるだろ。 農作業は朝が早い」
仕事の一覧を一つずつ指で弾きながら、志岐は首を横に振る。
「駄目だな。 全然ダメだ!」
何が駄目なのか?
仕事ではなく、志岐本人である。
安定して金を稼げる仕事という事なら、いくらでもあった。
ただ本人が、毎日決まった時間に起きる。
決まった場所へ行って決まった作業をするという生活を心の底から嫌っているだけなのだ。
「もっとこう……一日働いてドカンと金が入って、あとは一週間くらい遊んで暮らせる仕事ねえかな」
「そんな都合のいい仕事があったら、みんなやってますよ」
「お?」
横から声をかけられる。
料理を運んできたウェイトレスだった。
若い女で、志岐がここ数日で何度か話しかけている相手でもある。
彼女はテーブルに果物のジュースを置く。
「はい、いつものです」
「ありがとな」
志岐はジュースを持ち上げ、一口飲む。
周囲では昼間から酒を飲んでいる客も多い。
だが、志岐の杯に入っているのは酒ではない。
酒が嫌いなのではない。
飲めないこともないが、飲まないのである。
「ところでさ」
「なんです?」
「今日、仕事終わるの何時?」
「教えません」
「なんでだよ」
「この前教えたら、店の外で待ってたじゃないですか」
「待ってたんじゃねえよ。 単なる偶然だ」
「三十分も?」
「長い偶然だったな」
「ものは言いようですね」
ウェイトレスは呆れた顔をするが、志岐は気にしない。
「じゃあ今日、飯でも――」
「そのお金あるんですか?」
「…………」
志岐の動きがぴたっと止まる。
しかし、目は泳ぎまくっている。
ウェイトレスの視線が、テーブルの上に置かれた仕事一覧へ向かう。
「お仕事、見つかるといいですね」
「待って。 今のは俺の財布を心配して断っただけだよな? 俺自身が駄目ってわけじゃねえよな?」
「ごゆっくりどうぞ」
営業スマイルで、にこやかにほほ笑む。
「そこ重要なんだけど……」
ウェイトレスは笑いながら去っていった。
志岐はその背中を見送る。
「いい尻してんなあ」
そのときだった。
「邪魔だ」
肩がぶつかった。
かなり強く、志岐の身体がわずかに揺れた。
振り返る。
そこには体格のいい男が立っていた。
革鎧の上からでもわかるほど鍛えられた身体に腰には剣。
顔つきからして愛想というものがない。
酒場に入ってきたところで、椅子から半分身体をはみ出させていた志岐とぶつかったらしい。
「悪い悪い」
志岐はあっさり謝った。
椅子を引く。
それで終わるはずだった。
だが、男は志岐の腰に目を留めた。
そこには一本の刀がある。
この辺りではあまり見かけない形状の武器。
男が鼻で笑った。
「なんだ、その細っこい剣は」
「あ?」
「そんなもので戦えるのか?」
志岐の眉がわずかに動いた。
男はそれに気づかない。
「お飾りか何かか? 折れそうな剣だな」
「…………」
志岐は腰の刀に手を置いた。
『名刀・美鈴』
故郷から持ってきた大事な刀である。
少なくとも、目の前の男に笑われて黙っていられる程度の付き合いではない。
「おっさん」
「誰がおっさんだ」
「俺のことは馬鹿にしていいぞ」
「は?」
「貧乏だ! 働けだの言われて、女の尻ばっか追いかけてるだの。 そのへんは全部事実だからな」
志岐は立ち上がる。
男より背は低いし、体格でも負けている。
それでも、その立ち方を見た瞬間。
男の表情がわずかに変わった。
「けどな」
志岐の手が美鈴の柄に触れる。
「こいつを馬鹿にすんのはやめとけ」
「……俺を脅してるのか?」
「忠告だよ」
酒場の空気が変わった。
周囲の客たちが、巻き込まれないよう少しずつ距離を取る。
マスターも「ああ、またか」という顔をしていた。
男が志岐の胸ぐらへ手を伸ばす。
「ガキが――」
その手が届くより先に――志岐が動いた。
「お?」
男の腕を横へ払い、踏み込む。
刀は抜かない。
鞘に収めたままの美鈴で、男の脇腹を叩いた。
「ぐっ!」
男の身体が折れる。
そこへ足を引っかける。
男の巨体が浮いた。
「な――」
次の瞬間には床へ転がっていた。
派手な音が酒場に響く。
しかし、志岐は追撃しなかった。
「どうだ? 痛ぇだろ?」
「て、てめえ……!」
「やめとけって」
男が立ち上がる。
腰の剣へ手をかけた。
今度は志岐の顔から笑みが消えた。
「それ抜くなら、俺も抜くぞ」
「…………!」
美鈴の鍔が、親指でわずかに押し上げられる。
ほんの少しだけ。
鞘から刃が覗いた。
それだけだった。
だが、男は剣を抜けなかった。
さっきまでの軽薄な男。
そして、今目の前にいる男。
同じ人間のはずなのに、何かが違う。
志岐が柄から手を離した。
「だからやめとけって」
そして男の肩を軽く叩く。
「酒飲んで忘れろ」
「誰のせいだ!」
男が怒鳴った、そのときだった。
「ずいぶん楽しそうですね」
穏やかな声で話しかける男の声
その声を聴いた瞬間――隣の男の顔色が変わった。
「……レイド様」
志岐が振り返ると男が一人立っていた。
最初に目につくのは、その色。
白から銀に近い髪。
整えられた服装まで白。
なにからなにまで白という不気味な男だった。
酒場には少々場違いなくらいきっちりとしている。
手には杖を持ち、どうやら魔術師らしい。
男――レイドは、床に倒れた椅子、志岐とそれから護衛らしい大男を順番に見た。
「何をしていたんです?」
「こ、この男が突然――」
「突然?」
レイドの視線が志岐へ向く。
志岐は自分を指差した。
「俺?」
「はい」
「こいつが俺の刀を馬鹿にした」
隣の男を見ないで指をさす。
「……だそうですが」
「それは……」
大男が詰まる。
レイドは小さく息を吐いた。
「なるほど」
「レイド様、しかし――」
「あなたは、負けましたよね?」
「…………」
大男の言葉が止まった。
レイドは穏やかだった。
怒鳴らないし、責めるような口調でもない。
だからこそ、志岐には妙に冷たく聞こえた。
「あなたは私の護衛です」
「はい」
「そのあなたが、護衛対象の目の前で喧嘩をして、無残にも負けた」
「いや、これは油断を――」
「実戦で相手に『今から本気を出すので待ってください』とお願いするんですか?」
「…………」
「それに」
レイドが志岐の腰へと目を向けた。
「彼は刀を抜いていませんね」
大男が黙り、志岐が思わず口を挟んだ。
「抜くほどじゃなかったからな!」
「てめえ!」
「ほら、また怒った」
「あなたは少し黙っていてくれませんか?」
「へいへい」
レイドは再び護衛を見る。
「残念ですが、あなたは今日限りで護衛から外します」
「なっ……!」
志岐までもが目を丸くした。
「いや待て待て」
「なんです?」
「クビにすんの?」
「はい」
「俺がぶっ飛ばしたから?」
「はい」
「そんな簡単に?」
「護衛が護衛対象の前で無用な争いを起こし、しかも敗北したんですよ? 十分な理由だと思いますが?」
「……性格悪いな、お前」
「よく言われます」
レイドは微笑んだ。
冗談なのか本気なのか、志岐にはわからなかった。
「レイド様! もう一度だけ――」
「結構です」
声は穏やかなままではあったが、そこには取り付く島もなかった。
「報酬については今日までの分を支払います。 どうぞお疲れさまでした」
「…………!」
元護衛となった男は志岐を睨みつけた。
「俺のせいじゃねえぞ」
「覚えてろ!」
「なんでだよ!」
男は乱暴に酒場から出ていった。
志岐はその背中を見送り、それからレイドを見る。
「本当にクビにしやがったな」
「役に立たない護衛を雇い続ける理由がありますか?」
「情とか」
「仕事に必要です?」
「ねえか」
志岐は椅子を起こして座り直した。
「まあ、俺には関係ねえや」
「そうでもありませんよ」
「あ?」
レイドが志岐の向かいの椅子を引き勝手に座る。
「一人、空きができましたから」
「…………」
志岐は数秒黙った。
「お前! まさか!」
「護衛の仕事に興味はありませんか?」
「ない!」
「即答ですね」
「人にくっついて歩く仕事だろ?」
「そうですね」
「面倒くせえ」
「報酬は高いですよ」
「どのくらい?」
即座に聞き返した。
レイドがこれだけと金額を告げる。
「…………」
志岐の姿勢が少しだけ良くなった。
「もう一回言ってくれ」
レイドが再び同じ金額を告げる。
「……護衛って、具体的に何すんの?」
「興味が出てきたようですね」
「ま、まぁ! 話くらいは聞いてやってもいいかなってな!」
「つい数秒前まで『面倒くせえ』と言っていたような気がしますが?」
「人間の考えってのはな? ……変わるもんなんだよ!」
「短時間で成長しましたね」
「だろ?」
「褒めていませんよ」
志岐は果物のジュースを飲んだ。
「で?」
「私はこれから少々、危険な場所を移動する予定がありまして。 腕の立つ人間を探していました」
「そこで、たまたま俺がお前の護衛だったあいつをぶっ飛ばしたと?」
「ええ」
「だから代わりに俺を雇う?」
「合理的でしょう?」
「まあな」
少なくとも話の筋は通っている。
負けた護衛をクビにして勝った男を雇う。
やり方は冷たいが、理解できないほどではない。
「期間は?」
「しばらく、とだけ」
「曖昧だな」
「その分、報酬は日ごとにお支払いします」
「……飯は?」
「こちらで用意しましょう」
「宿は?」
「同じく」
志岐の目が少しずつ真剣になっていく。
そこへ――
「兄様」
声がした。
その声を聴いた志岐の肩が固まった。