その日の夜――
志岐は与えられた部屋の寝台に転がっていた。
「悪くねえな」
天井を眺めながら呟く。
宿代はいらない飯も出る。
部屋だって寝るには十分だ。
仕事の内容と、ギルド周りが胡散臭いことを除けば、かなりいい環境だった。
「……除くもん多いな」
自分で言って、少し笑う。
それでも今すぐ辞める理由はない。
『危なければ、そのとき考えればいい』
師匠もそう言っていた。
そして志岐自身、昔からそういう男だった。
「桃……か」
今日一日、一緒にいた女を思い出す。
可愛いし強い。
素直な子なのに、ちょっとHな格好をしているのもポイントが高い。
少なくとも、女好きの志岐が気に入る条件はかなり揃っている。
「……もうちょい愛想ありゃなあ」
何を聞いても、似たような答えが返ってくる。
二言目には命令、命令。
食べるものも、戦うことも、自分がどうしたいかより誰かに言われたことを優先する。
それではまるで――
「人形じゃねえんだから」
呟いた、そのときだった。
扉が叩かれる。
「ん?」
志岐が身体を起こした。
「沙耶か?」
部屋は隣だ。
見知らぬ場所で心細くなったのかもしれない。
「桃です」
「…………」
動きが止まった。
「桃?」
「はい」
志岐は跳ね起きた。
服を確認し、髪を手で整える。
「ちょっと待て」
「はい」
「…………よし」
扉を開ける。
本当に桃がいた。
昼間と何ひとつ変わらない静かな顔で、廊下に立っている。
「どうした?」
「少しお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「そりゃもちろん!」
即座に道を空ける。
桃が部屋へ入り、志岐は静かに扉を閉めた。
「何か用?」
「はい」
「明日の仕事?」
「いいえ」
「じゃあ俺?」
「はい」
志岐は桃を見る。
「……なるほど」
「何がでしょうか」
「いや」
思わず笑ってしまう。
「俺も男だからな」
「はい」
「夜に女が一人で部屋まで来たら、都合よく考えるんだぞ?」
「構いません」
「…………」
志岐の口が開いたまま止まった。
予想以上に真正面から返された。
「本当にいいのか?」
「はい」
「嫌なら帰れよ?」
「帰りません」
「途中でやっぱなし、でもいいからな?」
「承知しております」
「そっかぁ……そっかぁ……」
志岐は桃へ手を伸ばした。
桃は拒まなかった。
しばらくして――
静かになった部屋で、志岐は寝台に横になっていた。
隣には、何も身につけていない桃がいる。
「…………」
志岐は天井を見上げた。
「なあ、桃」
「はい」
「お前さ」
「何でしょうか」
「もうちょっと何かねえの?」
「何か?」
「いや……」
志岐は頭を掻いた。
「楽しかった?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「…………」
分からない。
嫌がっていたようには見えなかった。
だからといって、桃自身が何を感じていたのかも見えてこない。
昼間と同じだった。
「ところでさ」
「はい」
志岐は何気なく尋ねた。
「ここには命令で?」
「はい」
「…………」
志岐の目が止まった。
「え?」
「レイド様のご命令です」
部屋の空気が変わった。
少なくとも、志岐にとっては。
「ちょっと待て。 命令?」
「はい」
「レイドの?」
「はい」
「何て?」
「志岐様のお部屋へ伺い、『今夜のお相手をするように』と」
「…………」
志岐が勢いよく起き上がった。
桃を見る。
冗談を言っている顔ではない。
そもそも、桃が冗談を言うところなど一度も見ていない。
「お前は?」
「はい?」
「お前は来たかったの?」
「レイド様のご命令ですので」
「それは聞いた。 お前がどうだったか聞いてんだよ」
「…………」
桃が黙る。
「来たかったのか、来たくなかったのか」
「それは重要でしょうか?」
「重要だろ」
「レイド様が必要だと判断されたのであれば、私はそれに従います」
「レイドは関係ねえ」
思わず声が低くなった。
桃が志岐を見る。
「関係ないとは?」
「俺はレイドと寝たわけじゃねえだろ?」
「それはそうですが」
「なら、俺が聞いてんのはお前の話だ」
「……私の」
「ああ」
桃は考える。
けれど、出てきた答えは――
「命令でしたので」
「またそれかよ」
「何か問題がありましたでしょうか」
「あった」
「どこに?」
「俺は、お前が自分で来たんだと思ってた」
「はい」
「だから受け入れた。 でも違った」
「命令ではありました。 ですが、私は拒否しておりません」
「そこじゃねえんだよ」
志岐は舌打ちしかけて、やめた。
桃に腹を立てているわけではない。
腹が立つのはレイドだ。
そして少しだけ、自分にも腹が立った。
もっと聞けばよかった。
桃は拒まなかった。
帰らないとも言った。
だから自分に都合よく、桃自身が望んでいるのだと思い込んだ。
「……あの野郎」
「レイド様でしょうか」
「他に誰がいる」
「何か問題が?」
「女をこんなことに使うんじゃねえよ」
「私は構いません」
「俺が構う」
「ですが、志岐様は私をお気に召したのでは?」
「気に入ったよ」
「でしたら問題はないのでは?」
「ある」
「なぜです?」
志岐は桃を見た。
「確かに俺はお前を抱きたかった」
「はい」
「お前も俺と寝たかったなら、それでいい。 でも、レイドに行けって言われたから来たってんなら、話が違う」
「違う?」
「ああ」
桃には本当に分からないらしい。
志岐は乱暴に髪を掻いた。
「お前、何でも『はい』だよな」
「はい」
「ほら」
「…………」
「俺たちと組むのも、世話するのも、俺の部屋に来るのも、全部あいつの命令だ」
「はい」
「で、お前は?」
「私?」
「お前自身はどうしたいんだ?」
「…………」
返事がない。
「分かんねえなら、分かんねえでいい。 でもな、レイドがどうとかじゃなくて、お前がどう思ってるかを聞いてんだ」
長い沈黙のあと、桃は答えた。
「分かりません」
「そっか」
志岐も少し黙った。
そして、今日一日ずっと引っかかっていたものを口にする。
「……お前って、人形みてえだな」
桃の目が、わずかに動いた。
「人形、ですか?」
「ああ」
「私が?」
「そうだ」
「レイド様の命令に従うからでしょうか」
「それだけじゃねえよ」
志岐は桃を指差した。
「お前自身が全然見えねえんだ。 好きも嫌いもねえ。 やりたいも、やりたくないもねえ」
「……」
桃は黙り込む。
「何を聞いても誰かの命令だ」
「…………」
「そういう女は、俺は好きじゃねえ」
桃はさらに黙った。
ほんのわずかに、その顔へ何かが浮かんだ気がした。
志岐にも、それが何なのかまでは分からない。
「……私がお嫌いですか?」
「今はな」
「今は?」
「ああ」
「それは、今後変わるということでしょうか」
「変わる」
即答した。
桃が首を傾げる。
「なぜです?」
「決めたから」
「何をでしょうか?」
志岐は、にやりと笑った。
「お前が俺のこと好きでたまらなくなるようにしてやるよ」
「…………」
桃が瞬きをした。
「私が?」
「ああ」
「志岐様を?」
「そうだよ」
「好きでたまらなく?」
「おう」
「なぜでしょうか」
「俺がそうしたいから」
「レイド様のご命令ではなく?」
「当たり前だろ!」
志岐は思わず笑った。
「なんで俺がお前を口説くのに、あいつの命令がいるんだよ」
「では、バルタザール様の?」
「もっといらねえよ!」
「そうですか」
「そうだよ」
志岐は桃をまっすぐ見る。
「レイドに言われたから俺のところに来るんじゃねえ。 お前が来たくて来るようにしてやる」
「私が」
「ああ」
「自分で?」
「そうだ」
志岐は得意げに胸を張った。
桃はしばらく考えていたが、やがて小さく首を傾げた。
「……よく分かりません」
「いいよ」
「よろしいのですか?」
「今分かんねえなら、これから分かりゃいい」
「これから」
「おう。 その代わり覚悟しとけ」
「何をでしょう?」
「俺に惚れる覚悟」
「…………」
「そのうち俺の顔見ただけで嬉しくなるくらいにしてやる」
「それは病気では?」
「違えよ!」
「顔を見ることによって身体に何らかの異常が生じるのであれば――」
「そういう意味じゃねえ!」
「では、どういう意味でしょうか」
「惚れりゃ分かる!」
「志岐様は経験がおありで?」
「女に惚れられた経験ならいっぱいあるぞ?」
「そうなのですか」
「おう!」
「沙耶様に確認しても?」
「やめろ」
「なぜでしょう」
「話がややこしくなるからな」
「虚偽なのですか?」
「違う!」
「では、なぜ?」
「お前、意外と面倒くせえな!」
「申し訳ありません」
「謝るなって」
「はい」
志岐はため息をついた。
けれど、先ほどまで腹の底に溜まっていた苛立ちは、少しだけ薄れていた。
「まあ、それはいいとして」
「はい」
「帰る?」
「はい?」
「もう命令は済んだんだろ」
「はい」
「なら、ここからはレイドは関係ねえ。帰りたいなら帰れ。ここにいたいならいろ」
「…………」
「今度は、お前が決めろ」
桃が止まった。
「レイド様へ確認を――」
「するな」
「では、どのように決めれば?」
「自分で考えろ」
「自分で」
「ああ。時間がかかっても待ってやるよ」
「…………」
桃は黙った。
志岐も黙って待った。
思っていたより長い。
それでも、急かさなかった。
やがて桃が口を開く。
「分かりません」
「じゃあ、どっちでもいい」
「どちらでも?」
「そうだ! 帰るか残るか、適当に決めろ」
「適当に」
「好きな方」
「好きな方……」
また、桃が考える。
それから――
「では……」
「おう」
「もう少し、ここにおります」
志岐の眉が上がった。
「なんで?」
「…………」
桃は少し考えた。
「分かりません」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、好きなだけいろ」
「はい」
志岐は笑って寝台へ横になり、目を閉じた。
桃も帰らなかった。
やがて隣で静かな寝息を立て始める。
命令された時間がどこまでだったのかなんて、もう聞く気はない。
ここへ来たことは命令だった。
けれど、今ここに残っていることだけは違う。
理由さえまだ分からない、小さな選択。
それでも桃が自分で決めた。
今は、それでいい。
そう思いながら、志岐も眠りについた。