夜も更け、ケルベロスの拠点はすっかり静まり返っていた。
昼間は冒険者たちの声で賑わっているギルド内のバーも、今では数人の客が残っている程度だ。
そのカウンター席で、志岐は一人グラスを傾けていた。
「……暇だな~」
グラスの中身は酒ではない。
果実を絞ったノンアルコールの飲み物だ。
沙耶はとっくに部屋で眠っている。
桃を呼べば、おそらく嫌な顔ひとつせず付き合ってくれるだろう。
だが、だからこそ呼ぶ気になれなかった。
あいつは頼めば何でもやるからな。
休んでいいと言っても、何か仕事がないか聞いてくるような女だ。
こんな夜更けまで自分の暇潰しに付き合わせるのも気が引ける。
というわけで、一人寂しく飲んでいる。
「……なんか俺、すげえ寂しいやつみたいじゃね?」
実際そうなのだから仕方がない。
志岐がグラスを口へ運んだ、そのときだった。
「ご一緒してもよろしいですか?」
「ん?」
声の方へ顔を向ける。
そこには、相変わらず穏やかな笑みを浮かべたレイドが立っていた。
「お前か」
「はいお隣、よろしいでしょうか?」
「別に構わねぇよ」
「ありがとうございます」
レイドは丁寧にお辞儀をした後で志岐の隣へ腰を下ろした。
そして店員を呼び、慣れた様子で酒を注文する。
「こんな時間まで仕事か?」
「ええ、少々片付けることがありまして」
「大変だな、ギルドの偉い人ってのも」
「慣れておりますので」
「そりゃ何よりで」
それきり会話が途切れた。
レイドの前に酒が運ばれてくる。
琥珀色の液体が入ったグラスを手に取り、静かに口をつけるレイド。
志岐も自分の飲み物を一口飲んだ。
妙な沈黙だった。
別に気まずいわけではない。
ただ、何を話せばいいのか分からない。
そもそもこの男、いつも笑っているせいで何を考えているのかさっぱり分からないのだ。
「志岐様は、お酒は飲まないのですか?」
先に口を開いたのはレイドだった。
「あ?」
志岐は自分のグラスを見る。
「ああ、これか」
「ええ、せっかくのバーですので」
「飲めないわけじゃねえよ。 そこまで好きじゃないだけだ」
「そうですか」
レイドはいつもの笑顔で頷いた。
「…………」
「…………」
再び訪れる沈黙。
(なんだこれ)
志岐は内心で首を傾げる。
わざわざ隣に座ってきたくせに、こいつも特に話すことがないのだろうか。
まあ、静かなのは嫌いじゃないけどな。
そんなことを考えていると、レイドが再び口を開いた。
「そういえば、桃はそちらの仲間に入ってうまくやれていますか?」
「桃?」
「ええ」
「あぁ、十分役立ってるぞ?」
志岐は即答した。
「魔術も使えるし、荷物も運べるしな。 あいつがいなかったら面倒なことになってたと思うぞ」
「それは何よりです」
レイドが満足そうに微笑む。
「沙耶とも仲良くやってるしな」
「そうですか」
「まあ、ちょっと真面目すぎるところはあるけど」
「ふふ、そうですね」
レイドは酒を一口飲んだ。
そして、何でもない世間話の続きをするように尋ねた。
「ところで志岐様。あなた好みの女性とかいるんですか?」
「……は?」
志岐の手が止まった。
(おいおい。また随分と唐突だな? 桃の話からどうしてそうなるんだよ)
「なんだよ、いきなり」
「いえ、少々気になりまして」
「気になるようなことか?」
「ええ」
「……変なやつ」
志岐はグラスを傾けながら考えた。
好みの女――
そう言われても、特に決まったものがあるわけではない。
美人が嫌いな男なんてそうそういないだろうし、可愛い女も当然好きだ。
だが、それだけで決まるものでもない。
「考えたことはないなぁ……」
「そうなのですか?」
「あぁしいて言うなら、気に入った相手が好みだ」
「なるほど」
「顔がどうとか性格がどうとか、いちいち決めてねえよ」
「そうなんですね」
レイドは変わらず微笑んでいる。
何がそんなに面白いんだか。
志岐はふと思いついて、逆に尋ねた。
「お前はどうなんだよ?」
「私ですか?」
「そうだ。 人に聞いといて自分は答えねえってのも変だろ」
「それもそうですね」
レイドは少し考えるように視線を落とした。
グラスの中で酒が小さく揺れる。
しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「強くて頼れる女性……ですかね?」
「…………」
志岐はレイドを見た。
相変わらずの穏やかな笑顔。
丁寧な口調で、いかにも真面目そうな雰囲気。
(……なるほどな)
志岐は一人で納得した。
こういう真面目ぶったやつに限って、とんでもないドMだったりするんだよな。
普段は偉そうに指示を出してるくせに、女には踏まれたいとか思っててもおかしくねえ。
いや、知らんけど。
「……なんだよ」
「はい?」
「いや、何でもねえ」
「そうですか」
レイドはそれ以上追及しなかった。
志岐も特に聞く気はない。
人の趣味なんて人それぞれだ。
別に誰がどんな女を好きでも構わない。
そんなことを考えながら、残っていた飲み物を一気に流し込んだ。
「……ふぅ」
空になったグラスをカウンターへ置く。
「さて、もう寝るわ」
「おや、お帰りですか?」
「あぁ、丁度飲み終わったし、明日もあるからな」
「そうですか。 おやすみなさいませ」
「おう」
志岐は椅子から立ち上がった。
そのまま出口へ向かおうとして、ふと足を止める。
「ああ、そうだった」
「はい?」
振り返り、レイドを見る。
「あんまり桃に変なことさせるんじゃねぇぞ?」
口調は軽かった。
いつもの世間話の続きにも聞こえるし、聞きようによっては脅しにも聞こえる。
志岐自身、どちらのつもりだったのかはよく分からない。
ただ、昼間の連中が桃へ向けていた視線を思い出しただけだ。
「じゃあな……」
返事を待たず、志岐は片手を上げて歩き出した。
背後から声は返ってこなかった。
(まあ、別にいいか。 さっさと寝よう)
志岐は欠伸をひとつ噛み殺し、静かな廊下へ消えていった。
バーには、まだレイドが残っていた。
カウンターの上には飲みかけの酒。
その隣には、志岐が座っていた空席。
レイドは何も言わなかった。
ただ静かにグラスを傾ける。
そうして、夜は更けていった。