国境の関所を抜け、チェン民国の領内へ足を踏み入れると、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
まず感じたのは湿気だった。
雨こそ降っていないものの、空気そのものに濃い水気が含まれているようで、肌にまとわりついてくる。
街道沿いに群生する植物も、グランバードで見てきたものより色濃く、深い緑に覆われていた。
やがて大きな街へ入ると、気候以上に志岐の目を引く光景が広がっていた。
「……どこもかしこも、魔術ばっかだな」
賑わう通りの至るところで、当たり前のように魔術が使われている。
料理屋の軒先では火を起こすために。
商人は重い木箱を宙に浮かせて運ぶため。
道端では幼い子供たちまでが、指先に小さな光を灯して浮かせて遊んでいた。
「珍しいですか?」
桃が志岐の視線を追う。
「ここまでみんな使ってんのはな」
志岐自身は魔術を使えない。
だからこそ、生活の隅々にまで魔術が入り込んでいる光景が余計に目についた。
「俺、ここに住んだら不便でしょうがねえな」
「兄様には刀がありますから大丈夫ですよ」
「なんでも斬って解決してるみたいに言うな」
「違うんですか?」
「違う」
沙耶は何も言わず、志岐の腰に差された刀を見る。
「……なんだよ」
「何でもありません」
「絶対言いたいことあるだろ」
「ありません」
そのやり取りを見ていた桃が言った。
「仲がよろしいのですね」
「お前、どこを見てそう思った?」
「私と兄様は仲良しですよ!」
「そうか?」
「そこは間髪入れずに即答してください!」
そんなことを話しながら、三人は指定された場所へ向かった。
街の中心部から離れるにつれ、人通りは少なくなっていく。
建物も古びたものが目立ち始め、通りを行き交う人々の声も遠ざかっていった。
やがて、一軒の古びた木造建築の前で志岐が足を止める。
「ここだな」
「はい」
桃が周囲の気配を探る横で、志岐はためらいなく扉を叩いた。
「龍ー? いるかー?」
「兄様、いきなり大声で名前を呼ばないでください!」
「だって龍を探してんだろ」
「もう少し警戒というものをしてください!」
「じゃあどうすんだよ」
志岐が肩をすくめた、そのときだった。
「お前ら、キーリルから来た荷運びか?」
背後から低く通る声がした。
三人が振り返る。
「……おぉ」
志岐の目が止まった。
一目見て女だと思った。
艶やかな長い紫色の髪を後ろで束ね、細身ながら引き締まった身体には弓を背負っている。
整った顔立ちに、すらりとした立ち姿。どこか人を惹きつける色気まであった。
「兄様」
沙耶の声が氷のように冷たくなる。
「……俺はまだ何も言ってねえだろ!」
「顔に全部出ています」
「何が?」
「全部です」
相手はそんな二人を見て、愉快そうに口元を緩めた。
「面白い二人だな」
志岐は一歩前へ出る。
「お前が龍か?」
「ああ」
相手は親指で自分を指した。
「俺が龍だ」
「…………」
志岐の動きが止まる。
「……俺?」
「ああ」
「男?」
「そうだが?」
数秒の沈黙。
志岐の両肩が、がっくりと露骨に落ちた。
「……男はいらねー」
「ははははっ!」
龍が腹を抱えて笑う。
「なんだ旦那! 俺を女だと思って期待してたのか!」
「旦那って呼ぶな」
「いいじゃねえか、旦那」
「よくねえよ」
「ますます気に入ったぜ!」
「俺はお前が男だって分かった瞬間、一ミリも興味なくなった」
「ひでえ言い草だな!」
そう言いながらも、龍は心底楽しそうだった。
「で? 頼んであった武器はどこだ?」
「桃」
「はい」
桃が前へ出る。
背中の術式が淡く光り、収納されていた木箱が次々と姿を現した。
物音を聞きつけたのか、建物の中から数人の男たちが出てくる。
龍が顎で木箱を示すと、男たちはすぐに蓋を開け、中身の確認を始めた。
「数を見てくれ」
「分かった」
検分を仲間に任せた龍が、桃を見る。
「嬢ちゃん、名前は?」
「桃と申します」
「タオねぇ……」
龍はその名前を口の中で転がし、桃の髪へ目を向けた。
「嬢ちゃん、もしかしてこっちの生まれか?」
「こちら、とは?」
「チェン民国さ」
桃が瞬きをする。
「分かりません」
「自分の生まれが?」
「はい。 私は幼い頃にレイド様に拾われました。それ以前の記憶はございません」
「へえ……」
龍の目が、少しだけ変わった。
「じゃあ、あり得るかもな」
「何がでしょうか?」
「いや? 名前といい、雰囲気といい、こっちの人間だって言われても俺は驚かねえってだけだ」
「私は……チェン民国で生まれた可能性があるのですか?」
「可能性ならな」
龍は軽く肩をすくめる。
「俺の勘違いかもしれねえ。真に受けんなよ」
「……分かりました」
桃は自分の桃色の髪へ、そっと指を触れた。
先ほどまでと変わらない顔だった。
けれど、その手だけはしばらく髪から離れなかった。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「この国では、魔術を使える方が多いのですね」
「あぁ、見てきただろ?」
「はい」
桃は少し考えてから尋ねた。
「では、魔術を使えない方は?」
「…………」
それまで気楽に話していた龍が黙った。
ほんの一瞬だった。
「……まあ、ろくな扱いはされねえよ」
「なぜでしょうか?」
「そういう国だからさ」
「…………」
「嬢ちゃんが気にするような話じゃねえよ」
龍はそれ以上話すつもりがないらしいので、桃も追及しなかった。
そのとき、木箱を調べていた男から声が飛んだ。
「頭! ちょっとこっちを見てくれ!」
「今行く!」
龍が振り返る。
「じゃ、ちょっと待ってろ」
そう言い残して、仲間たちの方へ歩いていった。
桃はその背中を見送る。
やがて視線を落とし、もう一度、自分の髪へ触れた。
『チェン民国』
それまで桃にとっては、仕事で訪れただけの隣国だった。
けれど今は、その名前がほんの少しだけ違って聞こえていた。