――チェン民国を命からがら脱出して、早四日。
志岐たちは、ようやく本拠地であるキーリルのケルベロスへ戻ってきた。
逃亡劇のあとの帰路そのものには、大きな問題はなかった。
警備隊の追跡や検問を避けるため、かなり遠回りする羽目にはなったものの、国境まで辿り着いてしまえば、行きと同じくレイドから預かっていた書類が威力を発揮した。
あれだけ厳重だった関所を、帰りもほとんど調べられることなく通された。
便利ではある。
だが今となっては、その便利さがかえって不気味だった。
そして歩きづめだった数日間、志岐の頭を占めていたのは一つ。
――帰ったらレイドの野郎を殴ろう。
いや、まずは話を聞くべきだ。
そのうえで腹が立ったら、一発くらいなら許されるんじゃないか。
そんな結論とも呼べない結論を抱えたまま、志岐はケルベロスの扉をくぐった。
「レイドはどこだ?」
受付の男を捕まえ、真っ先に尋ねる。
「奥の執務室にいらっしゃいますが……」
「よし」
「……兄様」
「何だよ」
「絶対に殴ってはいけませんよ」
「俺はまだ一言も言ってねえだろ」
「この四日間、ずっと人を殴りそうな顔をしていました」
「俺、そんな顔してた?」
隣の桃を見る。
「はい」
「マジで?」
「はい」
「そっか……」
「納得しないでください!」
沙耶を連れ、三人で廊下の奥へ進む。
途中、何人かの荒くれ者風の男たちとすれ違った。
その視線が、志岐の隣を歩く桃へ向く。
妙に馴れ馴れしい。
値踏みするような、下卑た視線。
以前にも感じたものと同じだった。
志岐は足を止め、去っていく男の一人を睨む。
「……何か文句でもあんのか?」
「いやあ? 別に」
男はニヤニヤと笑い、そのまま廊下の向こうへ消えていった。
「……なんだあいつら」
「兄様?」
「なんでもねえ」
今はそちらを相手にしている場合ではない。
志岐は最奥の部屋まで進むと、勢いよく扉を開け放った。
室内ではバルタザールが相変わらず偉そうにふんぞり返り、レイドは何事もなかったかのように机へ向かっている。
「おや」
書類から顔を上げたレイドが、三人を見た。
「お帰りなさい。 予定より少々遅かったですね」
「お帰りなさいじゃねえんだよ!」
「何か問題でも生じましたか?」
「問題しかなかったわ!」
志岐は机まで歩み寄り、両手を叩きつけた。
「あの荷物の届け先!」
「はい」
「武装したテロリストの組織だったぞ!」
「ええ、そうですよ?」
「…………」
志岐の動きが止まった。
沙耶も絶句する。
レイドだけが不思議そうに首を傾げた。
「……お伝えしていませんでしたっけ?」
志岐の拳が固く握られる。
「……兄様」
「分かってる」
まだ殴らない。
「お前……一言も聞いてねえぞ」
「そうでしたか。 それは大変失礼いたしました」
「謝り方が軽いんだよ!」
「では今後は、事前にお伝えするようにいたしましょう」
「……ちょっと待て」
志岐は眉間を押さえた。
「今後?」
「はい」
「他にもあんのか? 犯罪者からの依頼」
「もちろん」
あまりにも清々しい即答だった。
「あの……レイドさん」
沙耶が恐る恐る口を挟む。
「ケルベロスって……本当はどういう組織なんですか?」
「各種仕事を斡旋する組織ですよ」
「それは聞きました! そうではなくて……どういう仕事を扱っているんですか!?」
「なるほど。 そこからの説明が必要でしたか」
「そこからって何なんだよ!」
レイドは穏やかな笑みを崩さない。
「ケルベロスは、世界各地の犯罪者や、それに類する裏社会の組織を影から支援するネットワークでもあります」
「…………」
沙耶の表情が凍りつく。
志岐も一瞬、自分の耳を疑った。
「必要とする人材の斡旋、違法物資の調達や輸送、危険な情報の仲介など、事業内容は多岐にわたります。 今回の武器輸送も、その一環ですね」
「それを最初に言えってんだよ!」
「ですから、事前にお伝えしたつもりだったのですが」
「言ってねえ!」
「そうでしたか」
「その平然とした顔をやめろ!」
「どの顔でしょう」
「あからさまに殴りたくなる顔だ!」
「兄様っ!」
「まだ殴ってねえ!」
実際、腹の中は煮えくり返っている。
それでも志岐は奥歯を噛み締め、握った拳をゆっくり開いた。
「……くそが」
荒々しく椅子を引き、ドカリと腰を下ろす。
代わって沙耶が一歩前へ出た。
「私たち……犯罪者の手助けをさせられていたんですか?」
「依頼内容によっては、そうなりますね」
「私は普通のお仕事を取り扱う場所だと思っていました!」
「表のお仕事も扱っておりますよ」
「そういう問題ではありません!」
「なるほど」
「『なるほど』でもありません!」
珍しく声を荒らげる沙耶を見ながら、志岐は頬杖をついた。
「沙耶」
「なんですか!」
「こいつに怒鳴っても効かねえよ」
「だからって黙っていられません!」
「俺だって腹は立ってる。だから今後のことを考えてんだ」
沙耶が口を閉じる。
志岐はレイドをまっすぐ見据えた。
「……俺たち、ここを辞められるか?」
「もちろん」
「引き止めねえの?」
「無理に縛り付けて働かせる趣味はございませんので」
「犯罪者を裏で支援してる奴が言うと、何ひとつ信用できねえな」
「それは残念です」
「全然残念そうじゃねえ」
辞めること自体は簡単だった。
こんな胡散臭い組織に居続ける理由はない。
金が必要なら別の仕事を探せばいい。何より、沙耶を危険な仕事へ巻き込み続ける理由などなかった。
だから、本来ならここで話は終わる。
志岐はふと、部屋の隅へ視線を向けた。
桃――
いつものように、レイドの傍らに静かに立っている。
命じられたことに従うのが当たり前で、自分が何を好きで、何をしたいのかさえ満足に分からなかった少女。
けれど最近は、ほんの少しずつ変わってきた。
チェンでは、自分の生まれた場所を「知りたいのかもしれない」と、自分の意思で口にした。
ここで自分たちだけ辞めれば、桃はどうする?
「……桃」
「はい」
「俺たちがここを辞めたら、お前はどうする?」
「私はレイド様の弟子です。レイド様の指示に従い、ここに残ります」
「……だよなあ」
予想通りの答えだった。
志岐は頭をガリガリと掻く。
「……兄様」
沙耶も気づいたらしい。
桃を見つめ、困ったように眉を下げた。
しばらく考えてから、志岐はレイドへ向き直った。
「……しばらく、ここに残る」
「兄様!?」
「ただし」
志岐は人差し指をレイドの鼻先へ突きつける。
「次からは、依頼について知ってることを事前に全部話せ」
「全部、ですか」
「依頼主が誰で、何をするのか。 何をどこへ運ぶのか。 知ってることを隠すな。 その上で、仕事を受けるかどうかはこっちで決める」
レイドが興味深そうに目を細めた。
「つまり、ケルベロスからの依頼を選別なさると?」
「そうだ」
「犯罪者の支援に繋がる依頼でも?」
「内容次第だ」
「……全部断る、ではないのですか?」
沙耶が驚いて志岐を見る。
「犯罪者って言っても事情はいろいろあるだろ」
志岐は淡々と答えた。
「何をした奴なのかも知らねえで、『犯罪者だから』ってだけで全部切り捨てるのは違う気がする」
「それは……」
「でも今回みてえに、何も知らされずテロリストへ武器を運ばされるのは二度と御免だ」
志岐はレイドを睨む。
「だから俺たちが決める」
「沙耶様や桃は?」
「三人で決めるんだよ」
「……兄様?」
「沙耶、お前もだ」
「私はもちろんそのつもりです!」
「なら問題ねえ」
そして桃を見る。
「桃」
「……私ですか?」
「お前も」
志岐は当然のように言った。
「その仕事をやりたいか、やりたくないか。 お前自身で決めろ」
「ですが、私はレイド様からのご指示であれば――」
「それとは別だ」
「別……なのでしょうか」
「嫌なら嫌って言っていいってことだよ」
「…………」
桃は考え込んだ。
すぐには答えない。
やがて、ゆっくり口を開く。
「……分かりません」
「じゃあ今はそれでいい」
「よろしいのですか?」
「分からねえのに無理やり決めてもしょうがねえだろ。 そのうち自分で決めろ」
桃はしばらく志岐を見つめていた。
「……はい」
ほんの僅かな間を置いて返された言葉だった。
その様子を、レイドが面白そうに眺めている。
「……何だよ」
「いえ、楽しそうだと思いまして」
「どこがだよ」
「桃がですよ」
志岐が桃を見る。
桃も見返してくる。
表情だけなら、いつもとほとんど変わらない。
「そうか……?」
「私自身には、よく分かりません」
「ほら、本人も分かってねえじゃねえか」
「そのうち、ご本人にも理解できるようになるでしょう」
「……お前に言われると無性に腹立つな」
「それは大変残念です」
「やっぱ一発だけ殴っていいか?」
「兄様っ!」
沙耶の鋭い声が飛び、志岐は渋々拳を下ろした。
「……帰るぞ」
「はい」
「もう……兄様ったら」
三人が部屋を出ていく。
扉が閉じ、足音が遠ざかってから、それまで黙っていたバルタザールが鼻を鳴らした。
「フン、生意気な小僧どもだ。 レイド、あんな条件を呑んでいいのか?」
「ええ」
レイドは閉じた扉へ目を向けたまま、穏やかに笑った。
「本当に、いい成長を見せてくれますね」