話が終わり、レイドの執務室をあとにした三人。
廊下へ出た途端、沙耶は抱えきれなくなった息を大きく吐き出した。
「はぁ……」
「どうしました?」
隣を歩く桃が、無表情のまま首をかしげる。
「『どうしました』じゃありませんよ! 私たち、とんでもない組織で働かされていたんですよ!?」
「そうですね」
「桃さんは……驚かないんですか?」
「ケルベロスがどのような組織であっても、私はレイド様に育てていただきましたので」
「それは……そうかもしれませんけど……」
沙耶は困惑したまま言葉を濁した。
考えてみれば、桃にとってケルベロスは途中から入った職場ではない。
幼い頃からレイドに育てられ、そこで生きてきた。
今さら裏社会の組織だと知らされたところで、沙耶と同じ衝撃を受けろという方が無理なのかもしれない。
「……兄様は平気なんですか?」
「平気なわけねえだろ」
「でしたら、どうしてそんなに普通でいられるんです?」
「あの胡散臭い顔を殴らなかった俺を褒めろ」
「そこを褒めなければいけない時点で、まったく平気じゃないですね」
「だろ?」
志岐は頭の後ろで両手を組み、大きく身体を伸ばした。
「まあ、正体が分かっただけでもマシだ。 何も知らねえまま、またテロリスト相手に武器運ばされるよりはな」
「それはそうですけど……」
「嫌なら、お前は次から仕事を受けなくていいぞ」
「兄様だけ行かせたら、もっと心配です!」
「信用ねえなあ」
「あります。 兄様の強さは信用しています」
「じゃあ何が駄目なんだ?」
「兄様の浅はかな判断力です」
「それ、一番信用してねえだろ!」
沙耶はフンと横を向いた。
そんな二人のやり取りを見ながら、桃が小さく首を傾げる。
「……沙耶様」
「はい?」
「私は、先ほど少しだけ嬉しかったのかもしれません」
沙耶の足が止まった。
「え?」
「志岐様が、私にも『仕事を選べ』とおっしゃいました」
「……それが嬉しかったんですか?」
桃はすぐには答えなかった。
自分の胸元へ視線を落とし、そこにある感情の形を確かめるように考える。
「まだ、よく分かりません。 ですが……嬉しい、という気持ちに近い気がします」
沙耶の引きつっていた表情が、ふっと柔らかくなった。
「だったら、きっとそうですよ」
「そうでしょうか」
「はい!」
「……そうですか」
桃は胸元へ小さな手を置いた。
以前なら、「分かりません」で終わっていた。
けれど今は、分からないままでも、自分の中に生まれたものへ名前をつけようとしている。
そして桃は、もう一つ思い出したように口を開いた。
「龍様と志岐様に助けていただいたときも……同じだったのかもしれません」
前を歩いていた志岐が振り返る。
「俺?」
「はい」
「龍も?」
「はい」
「……俺だけでよくないか?」
「兄様、張り合わないでください」
「別に男と張り合ってるわけじゃねえよ!」
「では何なんですか?」
「……なんだろうな」
自分でも分からず、志岐は眉を寄せる。
桃はそんな二人を交互に見つめた。
助けてもらったこと。
自分にも選んでいいと言ってもらったこと。
それらがどうして胸の内に残っているのか、まだ上手く説明できない。
それでも桃は、二人へ静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「何がだよ」
桃は顔を上げる。
「……まだ、分かりません」
「そこは分かんねえのかよ!」
志岐が思わず突っ込み、沙耶が小さく吹き出す。
桃だけは真面目な顔のまま、もう一度だけ自分の胸元へ手を当てていた。