――その夜。
志岐は宛がわれた部屋のベッドで、大の字になっていた。
「……あー、疲れた」
数日歩きづめで帰ってきた直後に、ケルベロスの正体まで聞かされたのだ。
身体よりも頭の方が疲れている気がする。
「世界中の犯罪者を裏で支援するネットワークねえ……」
どう考えても、まともな連中ではない。
足を洗う選択肢は今だって残っているし、関わりを断つ方がまともな判断なのだろう。
だが――桃をあの不気味な男たちの中に残して出ていくことが、どうしても引っかかった。
「……つくづく、面倒くせえな」
乱暴に寝返りを打つ。
しばらく残って様子を見る。
仕事は、自分たちで内容を確かめて選ぶ。
今はそれでいい。
少なくとも、何も知らないままで誰かの悪事に加担させられるのだけは二度と御免だった。
コン、コン。
控えめな音が響いた。
「ん……?」
こんな夜更けに誰だ。
「……開いてるぞ」
扉が静かに開く。
廊下の明かりを背にして立っていたのは、桃だった。
「…………」
志岐の表情が変わった。
嫌でも思い出す。
以前にも、桃は夜にこうして自分の部屋へやってきた。
あのときは、レイドに命じられて。
「志岐様」
「……桃。 ちょっと待て」
「はい」
志岐はベッドから降り、桃の前へ立った。
「命令か?」
「いいえ」
即答だった。
志岐が目を見開く。
「じゃあ、なんで来た?」
桃は少しだけ考えてから答えた。
「……志岐様に、お礼がしたいと思いました」
「礼?」
「チェン民国で助けていただきましたので」
寸前のところで助けに入った時の事か。
「あれのことなら別にいいさ。 仲間なんだから当然だろ」
「ですが……私は、嬉しかったのだと思います」
桃は胸元へ手を置く。
「龍様に助けていただいたことも、嬉しかったと思います」
「……そこは別に言わなくていいんだが?」
「なぜでしょうか」
「なんか嫌!」
「分かりました」
志岐は頭を掻き、ため息をついた。
「で、礼ってのは?」
「私には、男性へお礼をする方法が……これしか分かりません」
「…………」
その意味を理解し、志岐の顔から軽さが消えた。
「本当に、誰かに言われたわけじゃねえんだな?」
「はい」
「俺が喜ぶと思ってか?」
「以前、志岐様は私を抱きました。 ですから、これがもっとも喜んでいただける方法だと考えました」
「……他に思いつかなかったのか?」
「はい」
「普通に『ありがとう』とか」
「それは先ほど申し上げました」
「そうだけどよ」
「命を助けていただきましたので、それだけでは足りないと思いました」
志岐は黙って桃を見る。
考え方が不器用なのは変わらない。
けれど以前とは、決定的に違う。
誰かの命令をそのまま実行しているのではない。
助けられて嬉しかった。
『だから礼をしたい』
その方法まで、自分なりに考えてここへ来た。
「桃」
「はい」
「嫌だからやめたい、とかは?」
「ありません」
「……そっか」
志岐の表情が、くしゃりと崩れた。
桃の頭へ手を置く。
「偉いじゃん」
「……偉い?」
「誰かに言われたんじゃなくて、自分で考えてここまで来たんだろ?」
「はい」
「なら偉いぞ」
「…………」
桃が黙り込んだ。
「どうした?」
「今……何かを感じました」
「嫌だった?」
「いいえ」
「じゃあ、嬉しかったとか?」
桃は少し考える。
「……おそらく」
「なら覚えとけ。 それが多分、嬉しいってやつだ」
「……はい。 覚えておきます」
志岐はそのまま、優しく桃の頭を撫でた。
「あとさ、礼の仕方なんて、これからいくらでも覚えりゃいいだろ」
「これから?」
「今は一個しか知らねえんだろ? だったら増やせばいい」
「どのように?」
「『ありがとう』で終わってもいい。 飯を奢ってもいいし、何か贈ってもいい。 助けてもらった奴が困ってたら、今度はお前が助けてもいい」
「食事……贈り物……助ける」
桃は一つずつ確かめるように呟いた。
「色々あるんだよ」
「では……今日は、どれにすればよいでしょうか」
「それを俺が決めちゃ駄目だろ」
志岐はくすっと笑う。
「…………」
桃が黙る。
志岐も答えを与えず、待った。
以前なら、誰かの命令を探したかもしれない。
あるいは正しい答えを、誰かに尋ねていた。
けれど今、桃は自分で考えている。
「今日は……」
やがて顔を上げた。
「最初に考えた方法にします」
「そっか」
「はい」
志岐はもう一度だけ、その瞳を見る。
そこに迷いや拒絶がないことを確かめてから、桃の手を取った。
「じゃあ……受け取るぞ」
「はい」
桃が小さく頷く。
志岐は背後の扉を静かに閉めた。
『今夜ここへ来ることを命じた者はいない』
助けられたことが嬉しかった。
だから礼をしたいと思った。
そして、その伝え方を自分で選んだ。
まだ桃の知っている選択肢は少ない。
それでもその夜、桃は初めて、自分自身で選んだ方法で志岐へ感謝を返した。