迷宮を目指した俺は、世界を間違えた 作:アルマトラン
グレイラット家の玄関を前にして、俺は一度だけ足を止めた。
ここまで来る間に、何度も考えていたことがある。この家の人たちが俺の髪を見て、スペルド族だと思ったらどうするのか。あるいは、そんな危険そうな子供を家に置いておけないと追い返されたらどうするのか。考えたところで答えが出るわけでもないのに、扉を開ける直前になって、そんなことばかりが頭に浮かんできた。
まあ、仕方ない。
俺には他に行く場所がないのだから。
「ただいま帰りました」
ルーデウスが玄関の扉を開けると、中からすぐに声が返ってきた。
「おかえり、ルディ。楽しかった?」
「おかえり。友達はできたか?」
明るい声だった。
それを聞いて、少しだけ肩の力が抜ける。少なくとも、いきなり拒絶されるような雰囲気ではなさそうだ。
「うん。それで──」
ルーデウスが振り返り、俺を見る。
「この子も一緒なんだ」
俺が一歩、玄関の中へ入る。
視線が集まった。
父親らしい男と、母親らしい女性。そして少し離れたところには、メイドらしき女性もいる。三人とも俺の姿を見て、特に緑色の髪に視線を向けていた。
まあ、当然だ。
初対面の子供がいきなり家に入ってきて、しかもこんな髪をしている。警戒するなという方が無理がある。
「えっと……」
俺は何から話すべきか考えた。
その前に、背負っていた袋を下ろす。
「……これ、何だ?」
父親が尋ねる。
「俺が持ってきたものです」
「持ってきた?」
「はい」
袋を両手で持ち上げ、そのまま居間まで運ぶ。
そして、机の上に──ドカン、と置いた。
中身がぶつかり合う音がして、袋の口から金属製の食器や装飾品、宝石のついた小物が覗く。どれも俺には価値なんて分からないが、売ればそれなりの金になることくらいは分かっている。旅の途中で盗品を売らなかったのも、このためだった。
「……」
「……」
三人の視線が、袋と俺の間を行ったり来たりする。
「これ、全部どうしたの?」
母親が恐る恐る尋ねた。
「家から持ってきました」
「家って?」
「俺の実家です」
その瞬間、父親の顔が僅かに強張った。
何かを感じとったのだろう。
俺は少しだけ息を吐き、覚悟を決める。
「俺を、ここに匿ってください。お金になりそうなものはこの通りあります」
そう言って、深く頭を下げた。
「お、おい! 待て待て、頭を上げてくれ!」
慌てた声が飛んできた。
肩を掴まれ、顔を上げさせられる。父親は困ったような顔をしていて、さっきまでの警戒心よりも戸惑いの方が強くなっていた。
「子供がそんなことするもんじゃないだろ。ほら、頭を上げろ」
「そうよ。いつまでもそんな所にいないで、こっち来なさい」
母親も優しい声で手招きする。
「ありがとうございます」
俺は素直に頭を上げた。
「まぁ、まずは座ってくれ。話はそれからだ」
「ありがとうございます」
もう一度礼を言って、俺は部屋へ入った。
椅子を引き、背筋を伸ばして腰掛ける。相手の正面に座り、膝の上に手を置くという一連の動作は、これまで読んできた本の中で覚えたものだった。人とまともに話した経験がほとんどない俺にとって、こういうときに何をすればいいのかを教えてくれるのは、本くらいしかなかった。
父親が俺の向かいに座る。
「まず、お前のことを聞かせてくれ。何も知らずに『はい、今日からここに住んでいいぞ』ってわけにもいかないからな」
「そうね。怖がらせるつもりはないから、分かる範囲でいいわ」
二人とも、俺を安心させようとしているのか笑顔を浮かべている。その笑顔を見ていると、ここで嘘をつくのは違う気がした。
「じゃあ、名前を教えてもらえる?」
母親に尋ねられ、俺は黙った。
しばらく迷った。
グレイラットという名前を持つこの家が、ノトス家と無関係だとは思えない。だったら、ここで隠しても後から分かるだけだ。むしろ、俺が何者なのかを最初に知ってもらった方がいい。
「……ルーク・ノトス・グレイラットです」
「……ノトス?」
父親の目が見開かれた。
「はい。聞いた事ありませんか?」
俺も思わず聞き返す。
「それって……
「……そうなんですか?」
今度は俺が驚いた。
父親は少しだけ言葉に詰まり、それから視線を逸らした。
「あぁ……まぁ、昔の話だ」
「なら、話は早いですね」
俺は膝の上で拳を握りしめた。緊張しているのが何となくわかる。
「あの家に生まれた俺は、生後一ヶ月か二ヶ月くらいの頃だと思います。地下の部屋に送られました」
「地下……?」
母親の声が小さくなる。
「はい。そこから五歳くらいまで、そこで過ごしました」
俺は淡々と答えた。
地下には窓がなかった。机と椅子とベッド、それから本があった。食事は決まった時間に運ばれてきたし、服も用意されていたから、生きていくことだけなら困らなかった。だから俺は、それほど不幸だったとは思っていない。
「でも、五日前の夜に賊の襲撃があったんです」
そこで一度言葉を切る。
「俺は、逃げるなら今しかないと思いました。それで、どさくさに紛れて逃げてきました」
部屋が静かになった。
俺には、二人が何を考えているのか分からない。
ただ、さっきまで笑顔だった二人の顔から、その笑顔が消えていることだけは分かった。
──五年間。
俺の頭の中には、その言葉だけが残っていた。
生後一ヶ月か二ヶ月の頃に地下へ送られて、五歳になるまでそこで暮らしていた。目の前にいるルークは、それをまるで天気の話でもするような調子で話している。
俺は思わずルークの顔を見た。
緑色の髪。さっきシルフをいじめていた子供たちを木剣一本で追い払い、俺の魔法を見ても妙に驚くことなく、シルフィと楽しそうに遊んでいた少年。そんな奴が、俺たちと出会うまでずっと地下にいた。
「……お前」
パウロが、ようやく口を開いた。
「五年間、本当にずっと地下にいたのか?」
「はい」
ルークはあっさり答えた。
「食事は?」
「運ばれてきました」
「誰かと話したことは?」
「……ほとんどありません」
パウロの顔が歪んだ。
ゼニスも黙ったままルークを見つめている。二人とも、何かを言おうとしているのに、適切な言葉が見つからないようだった。
俺も同じだった。
五歳の子供が、五年間地下に閉じ込められていた。
それだけでも十分おかしいのに、本人はそれを「それほど不幸だったとは思っていない」と言う。俺はその言葉を聞いて、むしろ胸の奥が重くなった。
「それで……」
ゼニスが恐る恐る口を開いた。
「一人で、ここまで来たの?」
「はい」
「食べ物は?」
「ありませんでした」
「水は?」
「途中で少しだけ飲みました」
ゼニスの顔が青ざめる。
「……今日は?」
「何も食べてません」
その瞬間、ゼニスが立ち上がった。
「まあ……!」
驚いた声と同時に、椅子が小さく鳴った。
「リーリャ、お願い。この子の分も夜ご飯を用意してもらえる?」
「かしこまりました」
それまで黙って話を聞いていたメイドのリーリャが、すぐに頭を下げて台所へ向かう。
「ちょっと待ってください」
ルークが声をかけた。
「ん?」
「……俺も食べてもいいんですか?」
その言葉に、ゼニスが目を丸くする。
僕も何となく息を止めた。
「もちろんよ」
ゼニスは柔らかく笑った。
「むしろ、そんなにお腹を空かせているなら、もっと早く言ってほしかったわ」
「……そうですか」
ルークは少し考えてから、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
そのときの顔は、今日初めて見るものだった。
嬉しいのか、安心したのか、それとも単純に空腹なのか。俺にはまだ分からなかったけれど、少なくとも、さっきまでより少しだけ年相応に見えた。
やがて食卓に料理が並んだ。
パンにスープ、それから肉と野菜。俺にとってはいつもの夕食だったが、ルークは目の前に置かれた料理をじっと見つめていた。食べ方すら忘れたのかと思ったけれど、やがて小さく息を吐き、ナイフとフォークを手に取った。
「いただきます」
丁寧に頭を下げる。
「……いただきます」
俺も続いた。
ルークは最初こそゆっくり食べていたが、腹が減っているのを隠しきれなくなったのか、少しずつ食事の速度が上がっていった。それでも口いっぱいに詰め込むようなことはせず、行儀よく食べ続けているあたりが、妙にルークらしい。
「そんなに急がなくても大丈夫よ」
ゼニスが笑う。
「はい」
ルークは返事をしながらも、肉を一切れ口に運んだ。
その様子を見ていると、なんだか不思議な気持ちになった。
今日出会ったばかりの奴なのに。
まるで、ずっと前からこの食卓にいたような気さえしてくる。
食事が終わると、今度はゼニスがルークを連れて風呂場へ向かった。
「今日はもう遅いし、あなたもお湯浴びして寝ちゃいなさい」
「ありがとうございます」
「旅をしてきたんでしょう? そのまま寝るのは大変だもの」
ルークは少しだけ困ったような顔をした。
「……お風呂って、一人で入るものじゃないんですか?」
「え?」
「俺、誰かと入ったことがないので」
ゼニスと僕は顔を見合わせた。
結局、俺が一緒に入ることになった。
桶に張られた湯気の立つお湯に二人で浸かる。ルークは最初、湯船の縁に手を置いたまま固まっていたが、しばらくすると肩までゆっくり沈み込んだ。
「……温かい」
「そりゃ風呂だからね」
「……そうだな」
ルークはそう言って、湯気の向こうをぼんやり眺めていた。
緑色の髪が濡れて額に張り付いている。昼間に見たときよりもずっと幼く見えて、僕は少しだけ驚いた。
「なあ、ルーク」
「ん?」
「地下にいたときも、お風呂はあったの?」
「別の部屋にあったな。使用人に連れてかれて、って感じ」
「……そっか」
それ以上、何を聞けばいいのか分からなくなった。
ルークも何も言わなかった。ただ湯に浸かりながら、時々小さく息を吐いている。その顔があまりにも気持ちよさそうだったので、俺はなんとなく笑ってしまった。
「何笑ってんだよ」
「いや、気持ちよさそうだなって」
「……まあ、気持ちいいからな」
少し照れたように言って、ルークはまた湯に沈んだ。
風呂から上がった頃には、もうすっかり夜になっていた。
ゼニスが用意してくれた服に着替えると、ルークは自分の服を丁寧に畳んだ。明日から使う部屋を用意するには少し時間がかかるらしく、今日は俺の部屋で寝ることになった。
「狭くない?」
「大丈夫」
「ベッド、一緒でいいの?」
「子供二人だからな。問題ない」
ルークはそう答えると、俺の部屋を物珍しそうに見回した。
机があって、本棚があって、ベッドがある。僕にとっては当たり前の部屋だけど、ルークにとってはそうではないのだろう。視線が一つ一つの家具を追っているのを見て、俺はなんとなく胸の奥がざわついた。
「じゃあ、おやすみ」
「おう。おやすみ、ルーデウス」
布団に入る。
しばらくすると、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
俺は暗闇の中で目を開けたまま、今日一日のことを思い返していた。
シルフィと出会った。
そして、ルークとも出会った。
まさか一日で友達が二人もできるとは思わなかった。
俺は小さく笑って、目を閉じた。
明日から、少しだけ賑やかになりそうだ。
そう思いながら、俺も眠りについた。
☆☆☆
ルーデウスとルークが部屋へ行き、家の中が静かになった。
先ほどまで二人が座っていたテーブルには、ルークが持ってきた袋が置かれている。中には食器や装飾品、それからいくつかの宝石まで入っていたが、今となってはそれらが金になるかどうかなど、二人にとってはどうでもいいことだった。
「……あの子、本当に五年間も地下にいたのね」
ゼニスがぽつりと呟いた。
「ああ」
パウロは椅子に腰掛けたまま、腕を組んでいた。
頭の中では、先ほど聞いた話が何度も繰り返されている。生後一ヶ月か二ヶ月ほどで地下へ送られ、五歳になるまでそこで暮らしていた。食事は与えられ、服も用意され、本もあったという。だから本人は「生きていくことだけなら困らなかった」と言った。
だが、それは子供を閉じ込めておく理由にはならない。
「……あの子、変だと思わない?」
「変?」
「ええ」
ゼニスは少し困ったように眉を下げた。
「礼儀正しすぎるのよ」
「……ああ」
「五歳くらいの子供なら、もっとわがままを言ってもいいでしょう? お腹が空いたとか、眠いとか、怖いとか。まぁ、私達はルディで麻痺している部分はあるけど。今日だって、あれだけ旅をしてきたのに、自分から何かを欲しがることをしなかった」
パウロは黙って聞いていた。
確かにそうだった。
ルークは終始、落ち着いていた。グレイラット家に入れてほしいと頼むときでさえ、泣きつくわけでもなく、声を荒げるわけでもない。ただ、自分がここに置いてもらえるだけの理由を並べ、最後には深々と頭を下げた。
「それに……」
ゼニスはテーブルの上にある袋へ視線を向けた。
「お金になりそうなものまで持ってきていたでしょう?」
「ああ」
「まるで、自分がここに置いてもらうための対価みたいに」
その言葉に、パウロは眉を寄せた。
ルークは最初から分かっていたのだろう。自分が突然やって来れば迷惑になることも、緑色の髪を見て警戒されることも。だからこそ、あれだけの金品を持ち出してきた。
──これを渡すから、俺を置いてくれ。
そんな風にしか、人に頼る方法を知らないのかもしれない。
「……あの子、自分が可哀想だって分かってないのよ」
ゼニスが静かに言った。
「何?」
「地下にいたことも、誰とも話さなかったことも、今日何も食べてなかったことも。全部、普通じゃないのに……本人は、それが当たり前だったみたいに話してた」
「……」
「だから、あの子が『それほど不幸だったとは思っていません』って言ったとき、私、何も言えなかったわ」
ゼニスの声が少しだけ震えた。
パウロは返事をしなかった。
自分にも、何も言えなかったからだ。
ルークがどんな五年間を過ごしてきたのか、その全てを知ることはできない。ただ、五歳の子供が「地下で暮らすのが普通」だと思ってしまうほど長い時間だったことだけは分かる。
「……それで、ノトスだ」
パウロが低く呟いた。
ゼニスが顔を上げる。
「あなたの弟の家なのよね?」
「ああ」
パウロは少しだけ目を伏せた。
「今のノトス家はピレモンが当主の家だ」
弟の顔が頭に浮かぶ。
昔から、何かにつけて自分と比べられてきた弟。自分よりも才能がないことを気にし、家の中でも、外でも、どこか一歩引いたような態度を取っていた。
そのピレモンが、ルークの父親なのだ。
「どうして、あの子を地下に入れたのかしら」
「恐らく、ノトス家の面子を守るためだろう。ノトス家の子供がスペルド族の血を引いているかもしれない、なんて噂が出回ったら。……殺しはしないが地下に幽閉する。貴族がやりそうな事だ」
パウロは苦々しく答えた。
「だが、その理由があったとしても五年間は長すぎる。やりすぎだ」
「ええ」
ゼニスは小さく頷いた。
「それに、あの子はあの家から逃げてきたのよね」
「ああ」
「だったら……帰すわけにはいかないでしょう?」
パウロは答えなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
「しばらく、ここに置いてあげましょう」
「……しばらく、か」
「ええ」
ゼニスは少し考えるように目を伏せた。
「でも、私は……あの子が自分から出ていきたいと言うまで、ここにいてもいいと思うわ」
パウロは妻の横顔を見た。
ゼニスらしいと思った。
理屈より先に、人を助けることを選ぶ。それが良いことなのか悪いことなのかを考える前に、目の前で困っている人間に手を差し伸べる。
「……俺も同じだ」
「ふふっ」
「なんだよ」
「あなた、最初はちょっと怖そうな顔してたから」
「そりゃ、いきなりノトス家の人間が現れたら驚くだろ」
パウロは苦笑する。
「それに、俺だってあの子を追い出したいわけじゃねぇよ」
「知ってるわ」
ゼニスは微笑んだ。
しばらく二人とも黙った。
静かな家の中で、遠くからルーデウスたちの声がかすかに聞こえる。今日出会ったばかりの三人が、もう何年も前から友達だったように笑っている。
「……ルディ、嬉しそうだったわね」
「ああ」
「友達が二人もできたものね」
「確かシルフ、だったか」
「ええ」
ゼニスは嬉しそうに笑った。
「三人で仲良くしてくれたらいいわね」
「そうだな」
パウロも頷いた。
ただ、彼には一つだけ気がかりがあった。
ルークの緑色の髪。
スペルド族を連想させる、その髪を見て、世間がどう反応するのか。ノトス家の事情を知る人間が、ルークの存在を知ったらどうするのか。
そして何より──ピレモンが、この事実を知ったら。
「……まぁ、アイツが必死にルークを探すとは思えないがな」
「何か言った?」
「いや」
パウロは小さく首を振った。
「今は、考えなくていいだろ」
その言葉に、ゼニスも頷いた。
「そうね」
今はそれでいい。
今日この家に来たのは、貴族でも、ノトス家の息子でもない。
ただ、行く場所をなくした一人の子供だ。
少なくとも今は、その子が何も考えず眠れる場所を用意してやればいい。
そうして二人は、しばらくの間、誰もいなくなった食卓を眺めていた。そこにはまだ、彼が置いていった袋が残されていた。つい数時間前まで他人だった少年の痕跡が、もうこの家の日常の一部になり始めていた。
☆☆☆
「2人とも起きなさーい。朝ご飯よー!」
階下から響いてきたゼニスの声に、ルーデウスは布団の中で身じろぎした。隣では、ルークもまた眠たげに身体を起こしている。二人はしばらく顔を見合わせたまま動かなかったが、やがてどちらからともなく布団を抜け出した。
「……朝か」
「そうみたいだね。降りようか」
寝癖のついた緑色の髪を手で撫でつけながら、ルークはルーデウスの後ろについて階段を下りていった。
食卓には、焼きたてのパンと卵料理、それから野菜の入ったスープが並んでいた。豪勢というわけではない。それでも、湯気の立つスープからは野菜と香草の匂いが漂い、朝の空腹を満たすには十分すぎるほどの食事だった。
「おはよう、ルーク。よく眠れた?」
「はい。おかげさまで」
「それならよかったわ。ルーデウスも、ちゃんと顔を洗ったの?」
「はい、母様。洗いました」
ルーデウスが椅子に座ると、ルークもその隣に腰を下ろした。ゼニスは二人の前に皿を置き、満足そうに微笑む。少し離れた場所では、リーリャが静かに食器を整えていた。
ルークは目の前のパンを手に取り、ほんの少しだけ眺めた。
「どうしたの? 口に合わないかしら」
「いえ。美味しそうだなと思っていました」
「ふふ。遠慮しないで、たくさん食べてね」
「はい。いただきます」
ルークはパンを一口かじった。表面は香ばしく、中は柔らかい。特別な味付けがされているわけではなかったが、自然と咀嚼する速度が落ちた。
向かい側では、パウロが黙々と食事を進めている。しばらくして、彼はふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、荷物の中に木剣があったが。お前、剣を使うのか?」
ルークはパンを飲み込んでから、パウロへ視線を向けた。
「はい。独学ですけど」
「独学? どうやって覚えたんだよ」
「本です。時間は腐るほどありましたので。本を見て剣を振って、それを繰り返していました」
「本を見て、ねぇ……」
パウロはルークの顔をじっと見つめた。冗談を言っている様子はない。かといって、自分の腕を誇示しようとしているようにも見えなかった。ただ、事実を述べているだけの顔だった。
やがてパウロは残っていたパンを食べ終えると、椅子から立ち上がった。
「……よし」
壁に立てかけてあった木剣を手に取る。
「食べ終わったら外に来い。ちょっと見てやるよ」
「あ、ありがとうございます」
「もちろんルディも来い」
「僕もですか?」
「お前も剣を習ってるんだからな。見てるだけじゃ覚えられないぞ」
「分かりました。食べ終わったら行きます」
ルークも残っていたパンを口へ運び、急いで食事を終えた。
朝食を終えた三人が外へ出ると、村はすでに動き始めていた。遠くから家畜の鳴き声が聞こえ、道の向こうでは人々が仕事へ向かって歩いている。庭先にはまだ朝露が残っており、踏みしめた草が靴の裏で濡れた。
パウロはルークへ木剣を放った。
「まずは構えてみろ」
「はい」
ルークは木剣を受け取ると、重さを確かめるように一度だけ振った。それから庭の中央へ進み、静かに構える。
その姿を見て、パウロの表情が少し変わった。
素人の構えではない。足の位置も、剣先の向きも、身体の重心も、少なくとも本を読んだだけの人間が真似できる範囲には収まっている。だが、どこか奇妙だった。
隙がないというより、隙を見せることそのものを避けている。
「……なんの流派だ?」
「特にありません。本に載っていたものを、自分なりに組み合わせただけです」
「組み合わせた?」
「使いやすいものだけ残しました」
パウロは短く息を吐いた。
「なるほどな。じゃあ、少し打ち合ってみるか」
「お願いします」
最初に動いたのはパウロだった。
踏み込みと同時に振り下ろされた木剣を、ルークは半歩だけ身体を引いてかわした。続く横薙ぎを剣で受け流し、反撃に転じようとする。しかし、その瞬間にはパウロがすでに間合いを詰めていた。
木剣が肩口を打つ。
「そこまでだ」
ルークは木剣を下ろした。肩に残った痛みはそれほど強くない。だが、今の一撃を避けられなかった理由は理解できていた。
「今のは、避けたあとに攻めようとしたな」
「はい」
「お前の剣は、相手の動きを見てから動く。悪くはない。むしろ独学にしてはよくできてる。だが、相手が自分より速かったら、それだけで遅れる」
パウロは木剣の先で、ルークの足元を指した。
「それに、足が逃げることを優先してる。生き残るための剣だな」
ルークは返事をしなかった。
図星だった。
剣を覚えたのは、誰かに勝つためではない。近づいてくるものから身を守るためだった。相手を倒すことよりも、自分が倒されないこと。攻撃することよりも、逃げるための隙を作ること。ルークの剣術は、そうした考え方を土台にしている。
「……悪いことでしょうか?」
「悪いとは言ってない」
パウロは木剣を肩に担いだ。
「ただ、これからは攻めることも覚えろ。逃げてばかりじゃ、守れるものも守れないからな」
「分かりました」
その言葉に、ルークはわずかに目を細めた。
守れるもの。
その言葉が胸の奥に引っかかったが、理由までは自分でも分からなかった。
「次、ルディ」
「はい。お願いします」
ルーデウスは木剣を受け取ると、少しだけ姿勢を正した。パウロの指導が始まると、庭には木剣のぶつかる音が響き始めた。ルークは少し離れた場所で、その動きを黙って見ていた。
ルーデウスの剣は、まだ荒削りだった。身体の使い方も、足の運びも、パウロに比べれば未熟である。けれど、ルークには別のものが見えていた。
ルーデウスは、剣を振ることを嫌がっているわけではない。
ただ、剣よりも魔術のほうが得意で、剣を振る理由をまだ見つけていないのだ。
それから昼まで、三人は庭で剣を振り続けた。
パウロはルークの動きを何度も止め、そのたびに細かな修正を加えた。足の向き、肩の力、踏み込む距離、攻撃へ移るタイミング。ルークはそれらを一つずつ吸収し、同じ動きを何度も繰り返した。
独学で身につけた技術は、決して間違ってはいなかった。だが、誰かに見てもらうことで初めて気づける歪みもあった。
一方、ルーデウスは何度も転び、何度も木剣を落とした。そのたびにパウロから叱られ、ルークからは苦笑を向けられる。
「ルーク、笑ってないで助けてくれないかな」
「いや、今のは自分で立てるだろ」
「そうだけどさ。少しくらい手を貸してくれてもいいんじゃないかな」
そう言いながらも、ルーデウスは再び立ち上がった。昼前になる頃には、三人とも汗で服を濡らしていた。パウロは満足そうに頷き、ルークの肩を軽く叩く。
「悪くない。独学でここまで動けるなら、ちゃんと教えればもっと伸びるだろうな」
「ありがとうございます」
「よし、じゃあ昼飯にしよう」
パウロがそう言うと、ルーデウスは嬉しそうに笑った。ルークも、わずかに口元を緩める。
家の扉を開けると、ゼニスがすぐにこちらへ振り向いた。
「あら、おかえりなさい。二人とも、ずいぶん汗をかいたわね」
「ただいま戻りました。少し稽古をしていただいていました」
「パウロに無理をさせられなかった?」
「大丈夫です。僕もルークも、ちゃんと休みながらやりました」
ルーデウスが答えると、ゼニスは二人の顔を見比べた。
「それならよかったわ。昼ご飯、もうできているから、先に手を洗っていらっしゃい」
「はい」
「分かりました」
二人は並んで洗い場へ向かった。
ルークは水をすくい、汗の浮いた顔を洗った。冷たい水が肌を伝い、熱のこもった身体を少しずつ冷ましていく。顔を上げると、隣ではルーデウスが濡れた髪を手で押さえていた。
「午後はどうする?」
「シルフと遊ぶ約束をしてるだろ」
「そうだったね。じゃあ、昼ご飯を食べたら丘へ行こうか」
「ああ。……その前に、少し休みたいけどな」
「僕もそうしたいよ」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
その笑い声を聞きつけたのか、食卓のほうからゼニスの声が飛んでくる。
「二人とも、早くいらっしゃい。冷めちゃうわよー!」
「はい、今行きます!」
「すぐ行きます!」
ルークとルーデウスは声を揃えて返事をした。
昼の食卓へ向かう足取りは、稽古を終えたばかりだというのに、朝よりも軽かった。
昼食を終えると、二人は少しだけ休んでから家を出た。
向かう先は、村の外れにある小高い丘だった。丘の上には一本の大きな木が立っていた。朝の稽古で身体にはまだ疲れが残っていたが、ルークは特に気にした様子もなく、ルーデウスの隣を歩いていた。
「シルフィ、もう来てるかな」
「昨日約束しただろ。もういるんじゃないか?」
「そうだね。……あ、いた」
丘を登りきる少し手前で、ルーデウスが指を差した。
大きな木の根元に、小さな人影が見える。こちらに気づいたシルフィは顔を上げると、ぱっと表情を明るくした。
「あ、来てくれた!」
「待たせたな」
「ううん。今来たところだよ」
シルフィは立ち上がると、二人のところまで駆けてくる。
「今日は何するの?」
「昨日の続き。シルフィに魔術を教えようと思ってるんだ」
ルーデウスがそう答えると、シルフィは嬉しそうに頷いた。
「今日も魔術の練習?」
「うん。昨日より少し難しいことをやってみようかと思って」
「分かった!」
シルフィが元気よく返事をする。ルークは二人のやり取りを眺めながら、持ってきた木剣を取り出した。
「じゃあ、俺は少し離れたところで剣を振ってる」
「え?」
シルフィが振り返る。
「一緒にやらないの?」
「午前中にパウロさんに教えてもらったことを、忘れないうちに復習しときたい。せっかく教えてもらったからな」
「そっか。じゃあ、僕たちはこっちでやろうか」
「ああ。シルフの邪魔にならないようにする」
「そんなに離れなくてもいいよ?」
「いや、気にするな。俺が勝手にやりたいだけだから」
ルークはそう言って、少し離れた場所へ歩いていった。
木の下に立ち、木剣を握る。
午前中、パウロから教えられたことを頭の中で思い返す。
──足が逃げることを優先している。
──攻めることも覚えろ。
ルークはゆっくりと構えた。
足の位置を確認する。肩の力を抜き、重心をわずかに前へ置く。それから、正面にいる仮想の相手を思い浮かべた。
一歩。
踏み込む。
木剣を振り下ろす。
「……違うな」
自分で呟き、すぐに構えを解いた。
足が少し流れている。
もう一度。
今度は足の動きを意識する。
踏み込んだ瞬間に腰を回し、剣を振り抜く。先ほどよりも身体全体が一つの動きとして繋がった。
「……これか」
小さく頷き、もう一度同じ動きを繰り返す。
その少し離れた場所では、ルーデウスがシルフィと向き合っていた。
「じゃあ、まず魔力を手の先に集めてみようか」
「こう?」
「うん。そんな感じ。ただ、力を入れすぎないほうがいいよ。魔力を押し出すんじゃなくて、身体の中からゆっくり流す感じ」
「難しい……」
「最初はそんなものだよ。僕も最初は苦労したから」
「ルディも?」
「もちろん。魔術だって練習しないと上手くならないからね」
シルフィは真剣な顔で両手を前へ伸ばした。ルーデウスはその様子をじっと見ながら、魔力の流れを説明していく。
しばらくすると、シルフィの手の前に小さな水の塊が現れた。
「あっ!」
「そう、それ!」
「できた!」
「うん。今のはちゃんとできてたよ」
シルフィが嬉しそうに笑う。その声を聞いて、ルークも一瞬だけ手を止めた。
振り返ると、シルフィが自分の手の前に浮かんだ水球を嬉しそうに眺めている。ルーデウスも満足そうに笑っていた。
「……上手くいったみたいだな」
遠くから声をかけると、シルフィがこちらを振り向く。
「見て、ルーク! できたよ!」
「おお。すごいじゃないか」
「えへへ……」
「ルークも、さっきからずっと剣振ってるよね」
ルーデウスがこちらを見る。
「ああ。パウロさんに教えてもらったことを忘れないようにしてる」
「真面目だね」
「教えてもらったんだから、できるようになったほうがいいだろ」
「そういうところ、ルークらしいよ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ」
ルーデウスが笑う。
ルークは少しだけ首を傾げたが、それ以上は気にせず木剣を構え直した。
「じゃあ、俺は続ける。そっちは気にしなくていいからな」
「分かった。じゃあ、僕たちも続けようか」
「うん!」
再び二人の声が聞こえてくる。
「じゃあ次は、さっきより少しだけ大きくしてみよう」
「こう?」
「もう少しゆっくりでいいよ。そう、焦らなくて大丈夫」
その声を背中に聞きながら、ルークは木剣を振った。
一度。
二度。
三度。
同じ動きを繰り返す。
何度やっても、完全には同じにならない。だからこそ、ルークは繰り返した。足の位置を変え、重心を調整し、剣の軌道を確かめる。パウロに教えてもらったことを、自分の身体へ落とし込んでいく。
しばらくすると、今度は後ろからシルフィの嬉しそうな声が聞こえた。
「できた!」
「うん。今のはかなり良かったよ」
ルークは振り返らなかった。ただ、口元だけが少し緩んだ。自分が剣を振っている隣で、二人もまた何かを覚えている。
そんな時間が、不思議と心地よかった。
やがて陽が少しずつ傾き始める。木々の隙間から差し込む光が長く伸び、丘の上を柔らかく照らしていた。三人はそれぞれの練習を続けていたが、気づけば同じ場所で同じ時間を過ごしている。
ルークは最後に一度だけ木剣を振ると、息を吐いて肩の力を抜いた。
「僕たちも、そろそろ帰ろうか」
「うん。明日も続きやりたい!」
シルフィが立ち上がる。
「じゃあ、また明日だな」
「うん。また明日!」
三人は丘を下り始めた。先を歩くルークとシルフィの会話を聞きながら、ルーデウスは少し後ろを歩く。
朝から剣を振り、昼からもまた剣を振った。以前なら、ただ一人で繰り返していた時間だった。
けれど今は違う。
すぐ近くには、自分と同じように何かを学んでいる二人がいる。そして帰る場所には、今日も食事を用意してくれる人たちがいる。
そんな当たり前の一日が、ルークには妙に新鮮だった。